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2・4・4 中世イタリア、地中海交易の掉尾を飾る

2・4・4・5 造船・艤装・積付や船員に関する規律
2.4.4.5 Shipbuilding, Outfitting, Loading and Seafarer's Discipline

▼東と北からの新しい造船・航海術の伝播▼
 十字軍時代前の地中海の船は、軍船としての軽ガレーと商船としてのラウンド・シップ(丸型帆船)とで構成されていた。軽ガレーはもとより帆船、後述の商用ガレーにおいても、所定の武器と防具を携行して、海上では防御と攻撃の任務についた。したがって、長期間の航海に際して適当な武器の貯えは、帆や円材など同じように艤装の不可欠な一部分であった。また、陸上での交易も、恫喝と交渉とのたくみな混ぜ合わせによって、はじめて成功した。そのためには、武器が必要であった。
 「一方、イタリアの軍用船は、敵に打撃を加えるのと同じような熱心さで、たまたま出会った誰とでも商品の交換を行なった。船長と乗組員たちは、手に入れた戦利品をかならず分け合った。さらにかれらは、機会があるかぎり取引を行なった。多数の漕ぎ手兼兵士の乗組員を持ち、装備の良いガレー船にとって、機会に欠けることはなかった」(マクニール前同、p.16)。
 中世盛期、11世紀後半からのヴァイキングを祖先とするノルマン人の地中海への侵入、そして11世紀末からの約200年に及ぶ十字軍のパレスティナ遠征という2つの軍事遠征を経過して、ローマ帝国時代の地中海交易圏が再興されただけでなく、東地中海・黒海から西地中海、そして大西洋・北海・バルト海を結合する、一大ヨーロッパ交易圏が成立することとなった。それは同時に、東方と北方から造船・航海術の伝播となり、それらを結合した新しい技術が生み出されることとなった。そして、十字軍は西アジアにさしたる影響を与えることはなかったが、ヨーロッパにはヨーロッパ世界の転回として集約されるような重大な影響がもたらされた。
 13-14世紀は海上交易や海上輸送にとって大きな変革期となる。それは、@船型の大型化や船尾舵の装備、三角帆や四角帆の組み合わせ、A羅針儀(ブッソラ)や羅針海図(ポルトラーノ海図)、連針路盤(ターボラ・ディ・マルテロージオ)などの採用、Bアラビア数字の利用をした簿記の改良、商業通信の普及、商業文書の定型化、そして海上貸借から海上保険の転換などである。その他、近世とのかかわりでいえば、シリアに建設された十字軍国家は短命だったが、この時にヨーロッパ人が異民族あるいは異教徒支配によってえた経験が、ヨーロッパ人の植民地支配に役立ったとされる。
 1200年代、ピサの商人レイオナルド・フィボナッチ(1170-1250)が商業簿記を革新させたアラビア数字を持ち込んでいる。アラビア数字を用いた計算は天体計算にも採用される。13世紀末、地図の描き方が大きく変化して、航海者の知識や観測に基づいて描かれるようになる。
 その中世最古とされるのがピサの海図(パリ国立図書館蔵)である。それは1275年あるいは1296-1300年頃、ジェノヴァの地図師によって作成されたとされる。そうした地図書はポルトラーノ海図と呼ばれた。それら海図には、経緯度線は示されていないが、多数の方位線が示されており、港湾間の方角や距離、海岸線の形態、岩礁、砂州などの位置や港湾の状況が記されていた。
 羅針儀は、すでに13世紀以前に東方から伝播されて普及していた。また、1302年、ポジターノの船員フラヴィオ・ジョイアが磁気羅針儀を改良したとして知られるが、このフラヴィオ・ジョイアは想像上の
1275年ピサの海図
パリ国立図書館蔵
人物ともされる。アマルフィには、フラヴィオ・ジョイア広場があり、彼の銅像が立っている。なお、アマルフィは東方由来の製紙法をいち早く取り込んだとされる。
 また、十字軍のガレーはビザンツやシリアで用いられていたラテン・セール(三角帆)を取り入れる。北西ヨーロッパの「よろいばり建造方式」は、十字軍時代以前から地中海においても取り入れられ、12世紀までに全面的に普及したとされる。イタリアの交易都市が十字軍に提供していた船の仕様は前述の通りである。その時代、すでに200トンもある大型船もかなりみられたが、ラウンド・シップは一般に50トン以下であり(軽ガレーも同じ)、120トンが限界とされてきた。ガレーを含め、伝統的な型式においては、その積載量に限界があった。
 十字軍時代後の1270-90年代、ジェノヴァやアラゴン、バスクの海上勢力は、イスラーム勢力からジブラルタル海峡の制海権を奪い、1277年ジェノヴァの商用ガレーがジブラルタル海峡を通って、ブリュージュに航海するようになる。それはジブラルタル海峡が分けていた2つの交易圏を結びつけたが、イタリア人が北西ヨーロッパ人に先駆けて羅針儀を採用しえたおかげであった。他方、それを契機にして、北方のコグの技術が地中海の船に決定的な影響を与える。
 なお、コグ(コッゲ)についてはWebぺージ【続2・4・3 ハンザ同盟、ニシンと毛織物で稼ぐ】において取り上げた。
 船型の大型化を促したのが、13世紀中ごろ北方の帆船コグが装備していた船尾舵の採用であった。この強力なかじ取り装置の導入によって船の操舵性がよくなり、14世紀になるといままでなく大きなスクエア・セール(四角帆)をラテン・セールとの組み合わせで張ることができるようになった。これによって、14世紀前半多少とも地中海の大型の帆船は北方型となっていった。
 このコグには、北西ヨーロッパの船と同じような船首楼と船尾楼を屹立させていた。それら楼閣は、船を防衛するのに役立ったばかりでなく、乗組員に壁で囲まれた居住区を提供して、冬期の航海を成功させるのに役立った。
▼地中海独特の大型商用ガレーの誕生▼
 14世紀前半、コグ技術の導入とほぼ並行して、地中海独特の様式であるガレーにおいても、大きな変化がみられ、商用の大型ガレー(ガレー商船)が誕生する。この商用ガレーは軍用にも転用可能であった。
 大型ガレーは、軽ガレーと同じように、鉄製のラム(衝角)を持ち、櫂とならんでラテン・セールを張った。それが3本マストに張られるようになり、櫂はむしろ副次的となった。船の長さは40数メートルと変わらないが、幅が5メートルから6-7メートル、深さが2メートルから2.5メートルと大きくなり、3層の船尾楼を備えていた。それにともない積載量は飛躍的に増大した。それはガレーというよりは帆船としての性格が強く、商人や巡礼を輸送した。初期から約200トン積みが出現する。
 16世紀末の例ではあるが、ヴェネツィア共和国の大使がイスタンブールのスルタンのもとへ派遣された際、バスタルダと呼ばれる大型軍用ガレーに乗って、約3000キロメートルを37日間かかって航海旅行した記録がある。それによれば、1595年8月25日に出帆して、ダルマツィア沿岸を南下して、9月7日に現モンテネグロのブドヴァに着く。このブドヴァを出て、ペロポネソス半島の南端を通過して回頭、エーゲ海を北上して、9月30日に現ギリシアのトラキア、クサンチ湾にあるボロウ(ポルトラゴス)に到着する。ここで大使は下船して陸路を進む。途中停泊地は25か所であった。
 ヴェネツィアからブドヴァまでは、主として沿岸を漕行していており、時速4.5ノットにとどまるが、ブドヴァからボロウまでは主としての沖合を帆走することになり、時速6ノットとなっている。全行程時間うち、航行39パーセントにすぎず、補給ないし休息27パーセント、悪天候・風待ち23パーセント、船の修理その他による停泊11パーセントという構成になっている。ガレーを漕行させているあいだは高速であるが、早朝に出発して夕刻には宿泊せざるをえないし、帆走しても風任せであった。
 それに対して、1430年にサウサンプトンを出港してピサに戻った、フィレンツェのガレー商船はリスボン、シルビス、カディス、マリョルカに寄港しただけで、約5000キロメートルをわずか32日間で走破している。特に、サウサンプトンからビスケー湾を横断してリスボンに至る千数百キロメートルを一気に航海したことは、帆船としてのガレー商船の優秀性を示しているとされる。純粋のガレー商船は帆船そのものであったが、緊急の際にオールを漕ぐために乗組員を多数乗り組ませており、純然たる帆船にくらべれば経済性に劣っていた(以上、清水都市前同、p.69-71)。
 ガレーではなく帆船では、おおむね、ヴェネツィアからキプロスまでの約2600キロメートルを30-40日、アレクサンドリアまでの約2400キロメートルを20数日かかるという説明もある。
 14世紀末になると、船体の外板はかさね張りから平張りになり、ガレーも帆船も軽量化・大型化する。ジェノヴァは大型のコグをほぼもっぱら志向するようになるが、ヴェネツィアの港はラグーナ(潟)のため浅く、ダルマツィアは入り江が多いため、大型ガレーを志向するようになる。
 ヴェネツィアの国営造船所(アルセナーレ)は著名であり、現存する。それは、1104年にビザンツをモデルにして建設され、24の船台がもうけられ、戦闘用ガレーを専門に建造していた。それを標準船として建造していたので、新しい船隊を一挙に編成することができた。14世紀前半と15世紀後半に大拡張され、新しい造船所が付け加えられる。



ヴェネツィアの国営造船所の入口
カナレット、1732
個人蔵
 1572年ヴェネツィアの造船所の俯瞰図(部分
ユダヤ国立大学図書館蔵
 アルセナーレの職工たちは標準部品を用いて、完全な艤装船を1時間以内に組立てたとされる。15世紀半ばには、常時25隻ほどの予備ガレーが、屋根付きドックにプールされるようになった。この造船所は3000人の船大工、3000人のまいはだ工(浸水を防ぐために舟板につめものをする職人)を擁していた。彼らの職長クラスは、戦時にはガレーに乗り込み、またドージェの儀仗兵にもなった。
 なお、ヴェネツィアは海事力の衰退に直面して、1683年国営造船所に海員学校を設置し、18世紀後半になっても、数学や航海、造船に関する講座を持っていたとされるが、それ以上つまびらかにはしえない。
▼船員の賃金の支払とその補償の方法▼
 中世盛期までのイタリア交易都市の船員は、その労務提供が海上交易の持分となることで、また船員のなかには交易資金を出資する船員もいたので、乗組員の全部または一部が海上交易事業の持分所有者であった。しかし、中世盛期以降、そうした形態は基本的になくなり、ほとんどの乗組員は賃金を対価として雇い入れられる、単なる賃金労働者となった。
 C・アーネスト・フェイル氏によれば、14世紀初め船員供給地であるザラやスパラートで普及していた賃金の支払とその補償の方法は、「海員は3月1日から11月30日にいたる航海の全期間にわたり雇傭契約を結び、3月1日、6月1日、9月1日の3回の分割払で一定の賃銀総額を受取る。そして、船がもし11月30日以降なお海上にある場合には、それに応じて海員の割増を支給される」。
 船員が死亡あるいは罹病した場合における賃金支払い補償について厳格な定めがみられる。「もし、船員が最初の3ケ月経過中に死亡した場合には、彼の相続人はその3ケ月間全部に対する彼の賃銀を受取る権利を有する。ただし、もし5月31日以後に死亡したときは、相続人は死亡当日までの日割計算で実際に当人の所得となるべきものしか請求できない。もっとも、彼の死因が作業中、もしくは敵または海賊に対し本船を防衛しているうちに受けた負傷による場合には、死亡日の如何にかかわりなく全期間分の賃銀が相続人に支払われる。
 病気にかかつて上陸せねばならなくなった船員は、本船下船の日までの賃銀しか受ける資格がないと定めるのが普通であるが、若干の海法では下船後1ケ月間少額の扶養手当を支給すべしと規定したものもある」とされている。
 しかし、これら規定は、1194年前後に制定されたオレロン海法に比べると、見劣りがするという。オレロン海法は「船員が船内勤務中に罹病して上陸せざるを得なくなった場合、船長は彼に対して居住費・燈火費および食料費を支給すべき旨を規定している。本船勤務中の日常の食事にまさる美食をあたえる義務は船長になかったが、本船使用人のうち1名を附添人として上陸させて病人の看護にあたらせるか、さもなくば、病人のために看護婦を1名雇ってやらなければならないと定められていた。
 なお、この船員がもし病気が快癒すれば、当該航海に対して支給さるべき全賃銀を要求することができ、もし死亡した場合にも彼の相続人に対してこれが支給さるべきもの」とまで定めていた。
 また、地中海では上記のほか、さらに回教徒からなる海賊によって捕えられ奴隷にされる危験があり、これに対して配意する必要があった。そこでおおかたの海法は、海員が航海中に捕えられた場合、その捕虜期間中も引続いて賃銀が支給さるべきである、また彼の属する船舶所有者または組合は彼を引きとるための身代金を支出すべき義務があると定めていた(以上、フェイル前同、p.60-1)。
 すでにみたように、船員は海上交易事業の持分所有者でなくなっていたが、その名残としてか通常の賃金の支給をうけるほか、船主に運賃を支払うことなしに、少量の商品を積み込むことが許されていた。船員はそうした商品を自己の計算において取引したが、目先のきく人間ならば嗜好品・珍奇品をビザンツやベイルート、チュニスで買い集め、これを本国で高値で処分できた。
 この船員にとってきわめて有利な特権は無賃貨物の輸送権で、ムーダの乗組員においても認められていた。中世イタリアの船で、どれくらいの量が無賃貨物として認められていたかは不明である。無賃貨物権は、ヴェネツィアではポルタータ、イギリスではベンチュア、フランスではバコティーユと呼ばれた。
 前々節の冒頭においてみたように、14世紀前半の積載トン数と乗組員数はガレー商船360トン・244人、大型帆船400トン・26-7人、中型帆船180トン・26-7人、小型帆船30トン・5人であった。いま、積載トン数のうち5パーセントが乗組員に対する無賃貨物量となるとして、1人当たりの無賃貨物量を試算すると、ガレー商船0.07トン、大型帆船0.75トン、中型帆船0.34トン、小型帆船0.3トンとなる。この試算からみて、ガレー商船の1人当たりの無賃貨物量が70キログラムを上回ることはなかったであろう。
▼船主負担の食料支給、人命・財産を守る措置▼
 「船員は賃銀の支給をうけて働く場合でも、船主から食料を支給された。また、持分制で乗船した場合、食料費は利潤の分配に先き立って、総収入から[経費として]控除された。
 当時の代表的な船内給食献立表は、1258年のバルセロナ条例の規定のなかに見出されるが、その規定によれば、飲食物のうちには塩肉・パン・野菜・油・葡萄酒・水が含まれている。また、14世紀後期のカタロニア海事法兼慣習法たるコンソラート・デル・マーレでは、海員は日曜日・火曜日・木曜日には肉を、その他の日にはスープを支給さるべきこと、しかも毎夕食にはパンとチーズに玉葱または魚を添えるべきことを規定している。大して高くない値段で入手し得る場合には葡萄酒も支給さるべく、また宗教上の祭日には皿数を平日のそれの2倍にすべき旨を定めている。
 当時の航海は大抵、なお沿岸沿いになされ、しかも新鮮な野菜、その他の食料品が入手され得る港にしばしば寄港したゆえ、中世期に地中海で働いた海員は18世紀の代表的な貿易航海に従事したイギリス船員よりは、多分より良い食事を支給され、壊血病におかされることも確かにより少なかった」(フェイル前同、p.61-2)。
 このように、中世のイタリアなどの交易都市の船員の労働条件は、それ以後のより近代的な時代に比べてかなり良好であったとされる。そればかりでなく、海上における人命・財産の安生を確保するため、様々な規定が設けられ、近代のイギリス法よりも明かにすぐれていたとされる。
 「たとえば、ヴェニスの海法は各種船型毎に、船舶の長さ、幅、その他について制限を定めている。こうした規制措置にしたがわせるため、船舶がいまだ造船台にある時から、必ず官庁当局の検査を受けねばならなかったのは明かである。
 法律のうちにはあまり詳細にわたって規定していないものもあり、単に船体について板と板との間にまいはだを入念に充填して浸水を防ぐよう、心掛けるべき旨を規定しているにすぎないものもある。だが、少なくともヴェニスの海法にあっては、船内設備もまた法規にしたがうべきものとしていた。すなわち、船室や貯蔵品庫の設けられるべき場所、ならびにそれらの利用方法が注意深く規定されている。ちなみに、この時代、船室は航海毎の必要に応じて、手軽な仕切りを設けてつくられたその場かぎりの構造にすぎなかったが、この点看過できないことである。
 艤装に関しては全く入念な法規が設けられていた。多くの海法は、各種船型に応じて備えらるべき帆の数とその材料、さらに錨と綱の数およびその他索具の用意について、厳重詳細に定めている。大抵の海法では、1隻の長ボートを曳航すべき旨の規定があり、また、若干の海法、なかんづく、ヴェニスの海法では、さらに、小型ボートをもう1隻用意しておくべき旨を定めている。
 なお、安全性をより一層確保するため、或いは、地方ちほうの海法に規定する以上により完全な艤装を確保するために、船舶所有者のなすべき艤装についてはしばしば傭船契約書がこれを詳しく規定した」(フェイル前同、p.67)。
▼船員に選ばれる船長、船内協議の慣例▼
 ヴェネツィアの船員は、自分の運命を預ける船長を自ら選んで、乗船したとされる。「ヴェネツィアでは、軍船でも商船でも、出港する1カ月前に、船の繋がれている船着場に、その船の船長を勤めることになる男が、書記をそばにして坐り、船乗りたちの志願を受付けることになっていた。船員は、決して各船に事務的に割りふられていたのではない。あくまでも、これからはじまる長い航海に自分の運命を預ける船長は、船乗り白身が選ぶ制度になっていた。こういう時、ベットール・ピサーニの乗る船の前には、船員たちの長い行列ができるのが常であった」(塩野前同、p.311)。
 このヴェットール・ピサーニ(1324-80)はすでにみたキオッジアの戦いの司令長官のことである。彼が追放、禁固され、他方海戦の経験のない新司令長官が指名され、そのもとでジェノヴァ艦隊と対決させられることになった。それに、ヴェネツィアの船員たちは敢然と抗議、船員募集に応募しないという反乱を起こしている。
 中世の船長は、その船の持分所有者であるかないか、すなわち船主船長か雇われ船長かで、その立場は大きく異なるが、近世のような独裁的権能は少しも持っていなかったとされる。
それは、船員が船長と同じように船舶または積荷の持分所有
ヴィーナスによって天上に導かれる
ヴェットール・ピサーニ提督
(天井画の油彩雛形)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ 1743
国立西洋美術館蔵
者である場合があり、また乗客も何回も航海した経験をもつ商人たちがいたからであった。
 そうした彼らは、「少なくとも海岸の地形・水探・航海上の危険個所に関しては、当該船舶の高級船員とほぼ同程度の知識をもっていたし……雇われた海員といえども、仕事については船長とほぼ同じくらいに弁えていた。そのため、オレロン海法によれば、船長は事実上、出帆に先立って本船の仲間〔ship's company〕に諮るべき義務を有していた」(フェイル前同、p.62)。
 ただ、地中海の諸海法には、ここまで突つ込んで規定したものはなかったが、困難や危険に当面した場合に、船長が船内の主立った人々と協議するということは明白な慣例であった。こうした協議にもとづいて発生した混乱や紛糾が、一面ではかえって幾多の災厄のもとになったともされる。
 「1250年のヴェニス海法は、航海の全統制権をCaptain、Sailing-masterおよび3名の商人の手に委ねることによって幾分これを規整しようと試みた。もっとも、かかる委員制による航海は民衆的討議の方式によった航海方法の改善策の1つにちがいないが、今日のわれわれから見れば、こうした方法で指揮される船舶に乗って海に出ようという気にはなれない。
 実際に、船長は同輩のうちの一指導者にすぎず、彼と乗組員との間柄は、どちらかと言えば、独裁的よりも親爺的であった。オレロン海法では、船員間に平和を保持して彼等の争いを調停することをもって船長の義務と定めている。船員の誰かが公開の席上で他の船員の偽りを証するならば、その船員は4ペンスの罰金を支払わねばならない。もし、船長がこの罪を犯したとき、或いは、船長に対してこの罪をなした者のあるときは2倍の罰金が課せられる」ことになっていた(フェイル前同、p.63)。
 なお、ヴェネツィアのムーダ船団に限ってとみられるが、船医の配置が義務づけられていたとされる。その船医は、近世イギリスのような外科兼床屋ではなく、内科兼外科医であって、信頼が厚かったとされる。
▼緩やかな規律、中世らしい奇妙な規定▼
 「海員は、原則として、貨物の
積み込みならびに陸陽げに携
わる義務を負わなかった。とい
うのは、大抵の港にはこうした
積卸に従事する荷役人夫のギ
ルドがあったからである。全損
の場合を除いて他の事故に際
しては、海員は一般に、所定の
期間本船をはなれることを得
ず、また海難救助に従うべき義
務を課されていた。ヴェニスで
は、船員は救助された物件に
つき、3パーセントの報酬を受取っ
た」(フェイル前同、p.62)。
 地中海の諸海法によると、窃
「聖ニコラオス、船を救いまいし」
フラ・アンジェリコ、1437
バチカン絵画館
盗・口論、その他の犯行をなした者は解雇処分に附する旨を規定しているけれども、それ以外に規律強化に関する規定はほとんどみあたらない。また、笞刑を認めている海法にあるが、流血にいたらざることと定めており、18世紀の海上笞刑とは趣きを大いにことにしているという。
 「脱走は単に損害賠償請求権を生ぜしめるにすぎなかったようであり、若干の海法では船員が他船の士官に招聘されるときには、何らの違約金を支払うことなく辞職できると規定していた。特に、こうした条項の挿入を必要としたという事実は、一応、雇われた海員が昇進できる機会を合理的に認められていたことを物語っている。
 また、近代的感覚からすればすいぶん変なことであるが、海員がキリストの聖墓とか、ローマとか或いは[北スペインの]コンポステラの聖ジェイムズ寺院とかへの巡礼に出かけるという誓いを航海中に立てた場合、自己の雇傭契約を破棄し得るという条項もある」。
 「概括的に言って、これらの中世地中海諸国の海法は、海員の権利に関する規定において、また、海員の疫病或いは死亡のごとき不慮の事故に関する規定において多大の考慮を払っており、この点、18世紀さらには19世紀前半期の船舶における条件よりは明白に進歩を示していた。このことは、前記のごとく、乗組員の大部分が同船中の他の何人とも社会的に同じ地位にあると自認している人々によって構成され、従って、苛酷な規律や劣悪な条件に甘んじようとしなかったことから容易に理解され得る。
 それはコンソラート・デル・マーレのうちにきわめて明瞭に看取される。すなわち、同法の一条項にSenyor de nau(船長または管理船主)が乗組員を一連の連続航海にわたって雇傭していながら、船員たちが経験上同意を与えようとしない第三者に本船を貸与する場合には、船員は最初の航海の終了時に本船を去ることを得る旨定められている」(以上、フェイル前同、p.64-5)。
 「14世紀に編纂されたバルト海の一法典たるウィスビィ海法のうちには、中世の船員が置かれていた地位について語る、もう1つの甚だ特徴的な例がある。同法の条項によれば、船員が雇傭契約に署名した後になって自己の船舶を購入する場合には、それまでに受取った前払賃銀を償還しさえすればその雇傭契約から免れることができる。
 たお、船員は冬ごもりする港の場合を除き、裸体でいることを許されない。もし、裸体でいるところを見付かれば、その度に帆桁より海中へ3回投げこまれる。この罪を犯すこと3度にいたらば、当人の賃銀および船中にある全財産は没収される。この考えの生じたのは、おそらく、船員は常に義務を果し得る状態にいなければならぬとされたからであり、また、中世の人々は衣服をまとったままで寝に就くことを少しも苦痛と感じなかったからであろう」(フェイル前同、p.66)。
 すでにみたように、ヴェネツィアは1255年にムーダを創設するが、そのときそれを規制する海上法なるものを制定する。そのなかには、海上規律が海上交易や海上輸送に関する事項とともに定められていた。それは民間船の慣行を踏襲したものが多いようであるが、船員の処罰は陸上の裁判所において決められることになっていることが注目される。
 乗組員が勝手な行動を起こした場合、「船長は、その場で乗組員を罰することはできなかった。帰港後に、海上法専門の海上裁判所[海事裁判所]に告訴し、裁判官は法に照らし、当事者や他の証言を聴いたうえで裁決をくだすのである。海上裁判所に告訴できるのは船長に限らず、乗組員も船長を告訴できるようになっていた」(塩野前同、p.193)。
▼貨物や底荷の積付規制、書記の公的な役割▼
 造船や艤装ばかりでなく、貨物の積付や底荷についても、念入りな取締りが行なわれていた。「ヴェニスでは、底荷は船長・船主代理人・傭船者代理人から成る委員会の監督のもとに行なわれなくてはならなかった。甲板積貨物は、通常、法律によって綿製品または容器に入れられうる雑貨のようなごく軽量な品に限られた。中甲板積貨物の運送もまた制限された。
 たとえば、ヴェニスでは軽量の雑貨だけ、ピサでは全積荷の4分の1に限って中甲板積付が許された。ただし、食糧積込船・巡礼運送船および木材運送船や馬匹運送船のごとき特殊貿易船には、時として、例外が認められた。
 船艙内の貨物積付は、通常、船長および荷役業者の裁量に委ねられたが、過積しないよう厳重な規定が設けられた。ヴェニスでは、船体の外板に1つの公定表標がつけられており、船舶は出帆前に検査を受けねばならなかった。もし、その表標が吃水線下一定の深さをこえる場合には、過積貨物は官憲の手でとり除けられ、船主は重い罰金を課された。
 ただし、許さるべき水探は船令によって相違し、このためすべての船舶は3階級、すなわち船令5年未満、5年より7年まで、7年以上に分類された。われわれは、実にここに[1871年イギリスで採用された]プリムゾル満載吃水線のみならず、船級[船の格付け]の先駆を認めることができる。
 最後に、ヴェニスの海法では、商船配乗定員をも規定していた。すなわち200milliaria[この単位はプーリア地方の樽の大きさ、1単位0.5-0.6トンとみられる]よりの大きさの船は戦士および料理人を除いて、船員20名を配乗せしめることを要し、それ以上は10milliariaを増す毎に船員1名が雇い入れられるべきものとされていた。配乗員数を法律で定めていない港にあっては、これを傭船契約書のうちに明記するのが普通であった」(以上、フェイル前同、p.68-9)。
 ヴェネツィア、ジェノヴァ、その他の地中海の交易都市では、商人が支配者階級となっていた。彼らは、商人の利害関係が運、不運に委ねられてはならないとして、それらの海法において船主および用船者の責任を古代においてはみられなかったほどの、精確さをもって規定した。その1つが書記という職種である。
 「ヴェニスの海法をふくむ多数の海法は、各船舶に1名の書記(Scribe)を乗船せしむべきことを必須の条件となし、かつ書記の主要任務に関してきわめて詳細な規定を設けている。 彼は一冊の帳簿または記載帳を保管し、この帳簿には(a)傭船契約およびその他、船主と傭船者との間に取り極められた協定事項のすべて、(b)乗組員の氏名および各員の雇傭条件、(c)船積貨物全部にわたるリスト、もしあれば各貨物の包装目じるし、さらに貨物所有者名を記入しなくてはならなかった。したがって、この書記の帳簿は現今における航海日誌と積荷目録とを一緒にしたようなものであった。
 さらに、書記は荷主から請求があれば、彼の積荷に関する記載事項の写しを交付する義務を負うていた。この写しは貨物受取証の効力を有しており、傭船契約書も一般に積荷はperapurtum scriptum、現代用語のいわゆる「署名後引渡し」〔as signed for〕の形式で引渡さるべきものと定めていた。したがって、この写しは、事実上、現今の貨物受取証と船荷証券との中間が存在と見るべき役割をもっていた」(フェイル前同、p.69)
 「書記は自己の任務を誠実に履行する誓言を官憲の面前でなすことを要請せられた。時には、前もって、書記の資格につき審査を必要とした。帳簿に記載せるものたると、一片の紙片に記入せるものたるとを問わす、およそ、書記によって作製せられた文書はすべて公文書たる権威を有していた。 事実、彼は船長に対する単なる事務補佐以上の地位にあった。すなわち、彼は、荷主・船員に対し、また船主に対しての義務に関して、ほとんど公的官吏も同然であった。ヴェニスの法律では、書記は船主の使用人とされていたにかかわらず、過積の場合は必ずこれを報告すべき義務が課されていた」(フェイル前同、p.70)。
 この船舶における書記は陸上における公証人に対応していよう。公証人は、清水都市前同書(p.117-35)に詳しい。それでないが、「公証人とは、法的な権利関係について公的に証明する権限(公証力)を、公権力(皇帝・教皇、国王、自治都市)からあたえられた人物であり、公証人文書とは私人の行為(遺言、贈与、契約、取引など)によって生じた権利関係を、公証人がこの権限にもとづいて記録した文書である」とされる(斉藤前同、p.147)。
中世の公証人
1526年、公証人文書とシール
▼駐在員や代理人の配置と日常的な商業通信▼
 中世ヨーロッパでは、12世紀に入り定住商業が遍歴商業から分離してくると、イタリアの交易都市の大商人は主要な交易地には支店を設け、駐在員を配置するようになる。それだけでなく、広がりをみせる交易地には、代理人を指名するようなる。中小の商人にあっても、主要な交易地に、代理人を指名するようになる。
 W.H.マクニール氏は、「14世紀中にヴェネツィアやその他のイタリア都市の商人たちにとって、重要な貿易中心地に1年中代理人を駐在させることが一般的になった」とし、「それらの土地で代理人たちは、船の到着以前に適当な商品を貯蔵し、本店勘定で輸入した商品を1年中いつでも価格が最良と思われる時に売却した。その見返りに、このような代理人は、本国の商人ないしは会社の代理として取扱った商品の価格から歩合を取る権利が与えられていた。1人の代理人が、いくつもの本店のために活動することができたし、1つの会社がそれぞれ違った代理人に適った取引きを委託することもできた」とする(マクニール前同、p.27)。
 定住商業は、大商人であれ中小の商人であれ、駐在員や代理人の配置にとどまらず、彼らと日常的な商業通信によってはじめて成り立つ形態であった。例えば、フィレンツェにはローマ教皇と結びつくことで急速に発展したバルディ商社、ペルッツイ商社、アッチァイウォーリ商社といった巨大な商社があり、イタリアにある都市はもとよりロンドン、パリ、ブリュージュ、アヴィニョン、セビーリヤ、マリョルカ、チュニジア、キプロス、ロードス、コンスタンティノープルなどに、支店を持っていた。
 14世紀前半、これらフィレンツェの大商社は本店・支店の連絡をするために、それぞれが自社に専属する飛脚を持つようになった。これら大商社は、同世紀半ば、イギリス国王やナポリ国王の債務不履行を契機に、相次いで倒産する。しかし、同世紀後半になると、商社から独立した自営の飛脚業が出現し、商業通信の主役になる。それでも、旅行者や輸送業者などに文書の配達を適宜依頼するという、従来の慣習が消滅してしまったわけではなかった。
 この職業的飛脚は、当時、1日平均的20通の文書を発送していた教皇庁が利用していた民間飛脚に、その基礎があった。それは、14世紀前半、2種類があり、「1つは教皇庁の御用商人になっている大商社、とりわけフィレンツェの大商社に専属する飛脚であり、もう1つは専属の飛脚をもてない中小商社やそのほかの誰に対しても業務を提供する自営の飛脚である」(斉藤前同、p.209)。
 ヨーロッパの状況についてみれば、「王や皇帝の命令を伝える郵便は古代にもあったが、中世には教会や都市の郵便が発達した。商人ギルドや屠殺業者、舟運業者も郵便を行なった。ケルン―マインツ―フランクフルト―ニュルンベルク間の定期便とハンザ諸都市間(遠くはリガまでも)の郵便は正確なことで知られ、アウグスブルクの郵便はニュルンベルク(週3便)、リンダウ、レーゲンスブルクへの便のほか、イタリアへの便も取り扱い、ブレンネル峠を越えてヴェネツィアへ8日で届いた、といわれる。フランスではルイ11世(在位1461-83年)が郵便の創始者と呼ばれ、郵便という語はシャルル8世(在位1483-98年)の特許状(1487年)の中で初めて用いられた」(石坂昭雄ほか著『商業史』、p.63、有斐閣双書、1980)。
 すでにしばしば取り上げてい
るWebぺージ【補論:中世イタリ
アの商人群像 2、4】にみるよう
に、ダティーニは1万1千通の商
業書簡を書き残しており、また
ヴェネツィアの商人バルバリー
ゴは必着を求めて、同一人当
ての同一の商業書簡を実に7
通もしたため、3経路でもって出
している。
ダティーニとその仲間への手紙
マンニーニとその仲間からの、パリ 発ピサ向けの1397年1月5日付け手紙
プラート・ダティーニ史料館蔵
 14世紀末から15世紀初め、職業的飛脚による文書の配達には、定期便、専用便、優先便があった。フィレンツェ―ヴェネツィア間のように需要の大きな路線では、週に数回、特定の曜日に飛脚が出発したという。
 陸上通信ばかりでなく、海上通信も行われていた。それは、おおむね「多少とも遠隔の商業都市やその外港に向けて出航する船舶があると、ほとんどの場合その船長ないし書記に寄港地や目的地(および両者を経由していく土地)宛の通信文書が委託された」。これは、船便を利用するのは安あがりであったが、確実性と安定性に乏しかった。
 それでも、「海路での緊急の配達が必要な場合には、1隻の船舶をそのために特別に雇いあげて文書を配達させることもあったが、それに必要な経費がきわめて高くついたので、このような機会は非常に限定されていた」(斉藤前同、p.210-11)。
 具体的な事例として、「1501年、ヴェネツィアのガレー商船の運営権を落札した商人たちが、その航海日程を記した文書を配達させるために、1隻の船(グリッポという類型、檣1本の小型帆船)をヴェネツィアからベイルートに急派した。このときには、船がベイルートに18日以内に到着すれば850ドゥカート、20日以内であれば800、22日以内であれば750というように料金が取り決められた」という(斉藤前同、p.212)。
 商業取引のための通信文書には商業書簡とそれ以外の商業文書とがあった。商業書簡には、「現在のそれとは異なり、単に取引事項だけではなく、その時々の状況に応じて、各地の商品事情(売買の状況、隊商の進行状況、作物や家畜の生育など)、為替相場、貨幣事情、交通事情、社会状況、政治状況などについての情報や、さらには個人についての私的な情報も記述されることが少なくなかった」。
 商業文書としては、「為替手形、小切手、口座振替命令書、現金取立委任状、取引委任状、(代理店と交換する)勘定書、商品送り状、(陸路)輸送明細書、船荷明細書、(当地市場における)商品価格の報告書、(当地市場における)商品購入量の報告書、用船契約書など、多種多様のものがあった」。
 「このような商業文書は、内容形式ともに特殊専門化しており、商業書簡と一緒に(同封して)、あるいはそれとは別個に発送された。このような通信文書の作成および発送と、受領および保管は営業活動のきわめて重要な部門であり、商社にはそれを主要任務(の1つ)とする社員がいたようである」(以上、斉藤前同、p.215)。
 商業文書の通信が制度化するにともなって、商業制度に国際的レベルで決定的な影響が生じる。「通信で情報をやりとりすることにより、各地の用船市場の、ないし個々の船舶の用船料金が知れ渡ることから、勢い広範な海域で用船料金が出現することとなる。これは、海上保険料金についても同様である。通信のおかげで、個々の海港都市ではなく、多少とも広範な海域で用船市場、あるいは保険市場が形成されたのである」(斉藤前同、p.221-2)。
▼若干のまとめ▼
 イタリアの都市は、現在においても中世の趣を伝えて、まことに魅力的である。そのなかでも、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、そしてヴェネツィアは中世の「四大海洋(海運)都市」などと呼ばれ、その歴史は海上交易と切り離しては語りえない。そのように歴史家も扱っており、海上交易が無視されているわけではない。しかし、全体としては都市政治や聖俗支配層の変転、毛織物工業、風俗、そして絵画に、大いなる関心が注がれている。
 そうしたなかにあって、往年、清水廣一郎氏、近年、斉藤寛海氏が他に比べて中世イタリアの商業をまっとうに取り上げ、多大な研究業績を上げてきた。しかし、海上交易が直接の対象となっていたわけではない。イタリアの交易都市には北西ヨーロッパのハンザ同盟のような海上交易の組織を欠いており、それら都市は海上交易を独占すべく中世全期間を通じて対立抗争してきたが、それをなぞることで海上交易史たりえたからであろう。
 12世紀以降、中世イタリアの交易都市は北東の黒海から北西の北海まで、切れ目なく続いている航路のほぼ中央に位置して、海上交易を行っていた。しかし、イタリアの商人たちは海上交易をロンドンとブリュージュを結ぶ線を超えて、北海に深く入りこむことはなかった。14世紀、ハンザの商人がデンマークを回ってバルト海と北海を結ぶ航路を開くと、この2つの航路は連結されることとなった。この連結した航路の中央には、ブリュージュが位置することとなる。この地中海交易圏と北西ヨーロッパ交易圏とは結合するが、それら交易圏は前者からの高価な奢侈品や贅沢品、後者からの羊毛と毛織物の輸出、そして様々な原材料や手工業製品の輸出入として融合しはじめる。
 南の地中海交易圏は、遠隔地交易品である東方産品を中継するという、古代からの伝統的な交易圏をやめることはなかった。それに携わることで、中世イタリアの交易都市はヨーロッパでもっとも富裕な都市となり、かつその地位を少なくとも500年わたって保持しえたのである。
 中世イタリアの交易都市は、多種少量の奢侈品ばかりを取り扱っていたわけではなく、13-14世紀、船舶技術の革新を果たして船型の大型化が進み、航海の安定性が確保されてくると、穀物や葡萄酒、オリーブ油、木材、その他の農産物、羊毛や綿花、明礬、その他鉱産物といった、嵩高な生活必需品や工業原材料を積極的に輸送するようになる。それらのなかには、古代からの伝統的な貨物も少なくないが、それを含めて大量かつ恒常的に輸送されるようになった。
 こうした海上輸送貨物の構造変化は、人口が増加する都市に食糧とともに、それら都市や後背地原材料を供給し、輸出商品を生産する産業が発展させ、その輸出を促した。ヴェネツィアではガラス器、金属細工、皮革細工、絹製品、宝石など奢侈品や砂糖の生産が発展した。ロンバルディアの多くの都市は綿工業、ルッカは絹工業、フィレンツェは毛織物工業を発展させた。
 それら商品のレヴァントやビザンツといった東方諸国への輸出によって、それら国々に対するイタリアの交易都市をはじめヨーロッパ諸国の、古代からの支払超過は大きく改善させることとなった。そればかりか、それらの国々の輸出産業を圧迫するまでになった。それは、海外なかでも植民地で生産される原料を輸入し、それを加工して製品として輸出することで、海外の同種の工業が衰退することになるという、近代世界経済の構図の先取りであった。
 こうして、中世イタリアの海上交易規模は増大し、海上輸送需要が喚起される。それら事業に向けて、大小様々な資金が投下されるようになる。海上交易は、定住商業を前提として、ソキエタスやとコンメンダ(コレガンツァ)という共同出資の形態をもって行われ、また海上輸送には多数の船舶が必要となり、また船型の大型化が起きたことが契機となって発達した共有船によって行われるようになった。
 海上交易の共同出資や船舶共有制の発達のなかで、海上交易と海上輸送とは別々の担い手によって経営されることとなり、海上交易業から海運業、あるいは商人船主から船主が次第に分離することとなった。ヴェネツィアにおいては、交易の恩恵を均霑(きんてん)することが統治手段となっていたため、国有民営による商用ガレーの交易が行われた。そこには船舶の所有と利用との完全な分離がみられる。それは例外であって、ジェノヴァの実態からみて、共有船を利用する商人がその船の部分所有者であることが多かったので、そのあいだの分離はいまだ中途半端であった。
 そうした過渡状況にもかかわらず、第三者の商人による船舶の利用が船籍をも超えて大きな広がりをみせ、その利用も部分所有者がらみの用船ばかりでなく、第三者の商人による船舶の利用による輸送も行われるようになる。それにともなって用船契約や単なる運賃積による輸送、海上保険の実務が整備されていった。こうした海上交易・海上輸送に関わる実務状況は、中世に同時的に展開した北西ヨーロッパと基本的に同じ内容であったとみられるが、その具体的な内容を含め、それらの比較は今後の課題となる。
 最後に、中世イタリアの交易は伝統的な買付中継交易に加工輸出交易が付け加わることとなったが、その基軸はあくまでも前者にあり、後者はその支払手段であった。そうした構造が長期に維持されたのは、14世紀イタリア交易の北限にあるイングランドやフランドルから羊毛や毛織物を輸入し、またそれを高級毛織物として加工、輸出することに成功したことにあった。
 15世紀半ば、オスマン・トルコという圧倒的な脅威に対して、イタリアの交易都市は個別には対抗できないにもかかわらず団結することなく、圧倒される。さらに、東方奢侈品の最終需要者であり、海上交易を国あげて支援する体制をとった、イングランド、フランス、スペイン、そしてオランダの海上交易人が重装備の大型帆船でもって、地中海交易に乗り込んできた。さらに、イタリアの交易都市はそれ自体が巨大な領域国家に支配され、その海上交易も全面的な衰退を余儀なくされるという成り行きとなる。
 W.H.マクニール氏をして、中世イタリアの地中海交易の歴史を総括してもらえば、ヴェネツィアへの特権付与によって「ビザンティン海上勢力を1081年以後に襲ったのと同じ運命が、1580年以降ヴェネツィア海上勢力を襲った。16世紀末に地中海に侵入し始めた北方の船は、商船と軍用船とを結合したものであった。大砲で重装備したこれらの船には、粗野で好戦的な船員たちが乗組んでいた。
 かれらの略奪への欲求、法の枠内であれ枠外であれ、取引きについての鋭い目は、11世紀にビザンティン商業にとって代ったヴェネツィアおよび同じイタリアの競争者たちの態度と性向を、そのまま再現していた。こうして、17世紀にはイギリス、オランダ、それにアルジェリアの海賊-商人たちはイタリア人に対して、500年前にイタリア人がギリシア人に対して行なったことをしたのである。つまり、かれらをほとんど海から追い払ったのであった」(マクニール前同、p.159)。
 中世を通じて密接にかつ不可分に混じり合っていた「商業、海賊行為、略奪、そして戦争」は、近世にまで引き継がれることとなった。
(2007/06/26記、2010/07/26補記)

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