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結章 中世海上交易論
―大量・嵩高な必需品の買い付け―

▼はじめに▼
 中世の海上交易を論じた文献に接しない―それは検索をさぼっているためである―。そこで、ここでは、Webページ【1・4・1 古代の海上交易の形態―ポランニー批判を通じて―】を敷衍する形で、少しまとめてみることとした。
▼イスラーム世界の成立、海上交易量の増大▼
 中世の海上交易における大きな変化は、アメリカとアフリカ大陸はさておき、主要な大陸を取り巻く海域に大小の海上交易圏が次々と築かれ、それらが結合されたことで、海上交易は世界規模で展開されるようになったことである。
 7世紀から8世紀にかけて、西方ではイスラーム国家が成立し、また東方では隋(581-618)と唐(618-907)が中国を再統一、巨大な勢力が形成された。そのなかでも決定的なことは、7-8世紀におけるアラブ人の大征服運動によって、ウマイア朝(661-750、首都ダマスカス)の時代、東はガンジス河口、北はサマルカンドまでの中央アジア、西は地中海にある西アジアと北アフリカ、大西洋沿岸のイベリア半島にまたがる、広大なイスラーム世界が建設されたことである。
 イスラーム教徒は、7世紀半ば以降、地中海交易圏を再構築するとともに、その交易を紅海やペルシア湾からインド洋に向けて拡げ、インド洋交易圏を成立させる。地中海交易圏とインド洋交易圏はキャラバン交易によって結合する。さらに、彼らは東南アジアを経て、東シナ海の中国まで進出して、長大な海上交易ネットワークを張り巡らす。
 こうして、地中海とインド洋は、中世、ヨーロッパ人の「大航海時代」まで、一貫して「イスラームの海」となる。このイスラーム教徒によって築かれた交易世界は、史上初めて安易な当てはめではなく、真の意味での「世界経済」の成立であったといえる。10世紀、イスラーム世界は分裂するが、宗教を紐帯としたイスラーム教徒の交易ネットワークは分断されることはなかった。
 地中海においては、10世紀以後ファーティマ朝(909-1171、首都カイロ)によって、地中海と紅海を繋ぐ東西交易がはじめられる。それにともないインド洋交易は一段と繁栄することになる。ヨーロッパ人による地中海交易は、イスラーム勢力の進出を前後して一旦は終息する。しかし、11世紀以後、イタリア商人が進出したことで復活する。それは、イスラーム教徒が築いた交易世界に組み入れられ、その一分岐としての復活であった。
 12世紀、北西ヨーロッパでは、9-11世紀ヴァイキングが跳梁した交易路にそって、北海・バルト海交易圏が建設される。それが14世紀にかけて地中海交易圏と結合したことで、ヨーロッパ大陸を南北に陸路ではなく、海路でもって連絡する、密度の濃い海上交易が行われるようになる。
 東アジアでは、覇権国である中国は唐代になっても朝貢交易を受けるものの、海上交易に積極的に乗り出す状況になく、ほぼもっぱら外国交易船を受け入れていた。そのなかで、南シナ海では7世紀以降、南ベトナムのチャンパ(2-17世紀)が中継交易都市となり、彼らの船が主にシャム湾や南シナ海から中国にかけて活動した。
 また、東南アジアでは、8世紀、マラッカ海峡部に、シュリヴィジャヤ王国(首都、現在のスマトラ島パレンバン)が興り、近隣地域を支配する中継交易都市(港市国家)となる。ここに東南アジア交易圏が成立する。それ以後、海峡部の国々は中国と朝貢交易することによって地位を確立し、中国やインド洋から交易船を受け入れ、東南アジアやインド洋の産品を中継交易することで栄える。
 9世紀、唐代末、中国は騒乱状態となって、イスラーム居留民が惨殺される。彼らに代わって、朝鮮半島の新羅や渤海の商人たちが中国、東南アジア、さらにインドまで進出するようになる。彼らの中継交易により、中国を起点とする日本や朝鮮などとの東シナ海交易も盛んになり、東アジア交易圏が形成される。
 宋(北宋、960-1127)と南宋(1127-1279)の時代になると、中国をめぐる海上交易が急成長を遂げ、中国の交易船もようやく本格的に登場することとなる。中国の交易船はスリアランカを回って南インドまで進出する。この進出によって、東アジア交易圏、東南アジア交易圏、インド洋交易圏と結合して、海のシルクロード(正確には、セラミック・スパイスロード)が構築され、東西交易がいまでになく飛躍する。
 この長大な海上交易路は、すでにみたようにアラブの陸路を経て、地中海交易圏と北海・バルト海交易圏と連絡していた。
▼穀物など多様な必需品交易の増大▼
 中世の海上交易のいまひとつの大きな変化は、奢侈品交易がなくなることはなかったが、必需品交易が著しく増大し、必需品の品目も増加し、しかもかなり遠隔地から輸送されることとなったことである。すでに、ギリシアやローマの時代、地中海産の穀物・ワイン・オリーブ油(三大必需品)や石材・材木の近隣地交易が行われていた。そのなかでも、穀物交易は国家の体制を左右しかねない交易となっており、奢侈品交易はいまや穀物交易のつけたりとして行われつつあった。
 中世、地中海交易圏においては、ヨーロッパ諸国の王侯貴族の需要を満たす必要から、従来にもまして、レヴァント地方から東方の奢侈品が持ち込まれた。それに対して、地中海交易圏からは、ドイツ産の銀と銅のほか、フランドルやイタリア、南フランス、カタルーニャ産の織物、奴隷、木材や武器などが送り出された。その場合、ヨーロッパは東方の奢侈品を貨幣ばかりでなく、それに加えて必需品を輸出することで買い付けていた。
 また、地中海交易圏のなかにあっても、圏内で産出される奢侈品とともに、スペインの羊毛、ギリシアのワインや乾燥果実、エジプトや南ロシアの穀物、アドリア海の塩と木材、シチリアの穀物、硫黄、明礬といった必需品が、大量に交易されるようになった。
 北海・バルト海交易圏にあっては、そのはじまりから必需品の双方交易が基本的な形態になっており、その量は逐次増大する。12、13世紀ごろから、北ヨーロッパではフランドルの毛織物工業、それに羊毛を提供するイングランドの牧羊、スカネール沖のニシン漁、ベルゲン沖の鮭漁と、それらに供給されるプールヌフ湾の製塩といった輸出産業が生まれる。また、12世紀以降、バルト海沿岸では東方植民にともなって穀物生産が拡充され、西ヨーロッパ諸国の穀倉となる。スカンディナヴィアやバルト海から木材や毛皮が輸出される。
 それら北ヨーロッパの必需品は嵩高な商品ばかりであったが、そのなかでも穀物(10万トン)、木材、魚類(ニシン1万トン、10万樽)が圧倒的な輸送量を占めることとなった。それに対して、ハンザ商人たちは南西ヨーロッパから、塩や羊毛、毛織物、金属製品、ワインなど必需品を見返り品とした。
 中世、アジアにおいてはヨーロッパにくらべ、奢侈品交易が顕著に維持され、その規模は覇権国の中国に収斂する形で大きくなる。そのなかで、東アジア、東南アジア、そしてインド交易圏では、香辛料、香木、工芸品などの奢侈品を相互に取引しあう、遠隔地交易が形成される。
 アジアにおける必需品交易はヨーロッパほど顕著には増大せず、かなり狭い範囲での交易にとどまった。そのなかにあって、エジプトを征服したアラブ人たちは、ナイル川から紅海にかけカリフ−ウマル運河を掘り、7-11世紀にかけてエジプトの穀物を慢性的な食糧不足のメッカやメディナ地方に送り込んでいた。それ以後はインドが供給地となる。東南アジアでは、ジャワの米が、それがとれない国や交易都市に供給された。
 インド洋海域においては、13世紀になるとナツメヤシの実、米、家畜、奴隷、木材(マングローブ、ココヤシ、チーク、ラワン)、陶磁器、土器、レンガ、石材などが、バラスト(底荷)となった。中国産の陶磁器には贅沢品が含まれていたが、中国ジャンクにとってはバラスト(底荷)となったことから、大量に輸出されるようになった。
 必需品交易の増大は、海上交易本来の姿を体現したものであった。特に、交易される必需品を消費(さらに、生産)する地域や住民にとって、海上交易はそれを自らの生業にするかどうかに関わりなく、いまや必要不可欠な産業となった。そのもとで、交易船は嵩高な貨物を大量に輸送する船としての改良が進み、大型化した。そして、海上交易の組織や制度の発展を促した。
▼交易民の後退、背後地のある商人の活躍▼
 古代交易においては、支配民族は交易業に積極的に参加せず、交易民族が担い手となった中継交易として行われてきた。
 中世交易にあっては、消費地の商人が必需品の生産地や中継地に買い付けにくるようになる。しかし、中継交易はなお大きな比重を占めていたが、その担い手は中継交易を専業とする交易民によってではなく、交易品の買い付けと売り込み、さらに中継交易をない交ぜとした商人が担い手となった。
 東地中海では、ギリシア人がシリアやビザンティンとヨーロッパ諸国とのあいだを中継交易していたが、12世紀、イタリア商人が割り込んできたことで退場させられる。
 ヴェネツィア人は、11世紀末までに東地中海に散在するアジア交易の中継市場に進出する。彼らは十字軍の侵攻を利用して、エルサレム王国やビザンティン帝国から交易特権を獲得する。そして、シリア(ティルス、シドン)とエジプト(アレクサンドリア)に強力な足場を築いて、「ヨーロッパ香辛料交易人」となり、それをヨーロッパに中継交易する。
 ジェノヴァ人は、地中海交易ではエーゲ海から黒海にかけて植民市を獲得して、ユーラシア・ルートとの接続をはかり、東方産品を入手する。しかし、1378-81年ヴェネツィアとの抗争に敗れ、地中海交易から撤退する。他方、イスラーム勢力の後退をぬって西地中海やイベリア半島に進出し、さらに大西洋航路に乗りだし、イングランドやフランドルと交易を拡げる。
 北西ヨーロッパでは、ヴァイキングやフリースランド人が中継交易民として活躍していた。12世紀以降の東方植民に際して、バルト海沿岸にリューベックなど多くの都市が建設される。それの建設都市の商人はハンザを作って、ヴァイキングにとって代わって交易をくり拡げる。ハンザ商人は、北海・バルト海交易圏における必需品の中継交易の担い手として活躍した。
 ハンザ商人やイタリア商人は、交易品の生産地や消費地に対してまったくの「よそ者」ではなく、自らを含め近隣諸国に消費地をかかえた交易都市の商人としての登場であった。特に、イタリアの交易都市は中継交易都市であったばかりでなく、地中海交易圏を政治的に支配するまでに成長した都市国家でもあった。
 中世、イスラーム教徒が地中海やインド洋に進出する以前から、ユダヤ系やイラン系の商人が交易民として活躍していたが、その傾向は基本的に変わらなかった。
 インド洋では、アッバース朝(750-1258)時代、シーラーフがバクダードの外港として約200年にわたって、繁栄する。シーラーフの商人はイラン系であった。10世紀後半、バクダードがブワイフ朝(932-1055)に占領され、シーラーフが大地震に見舞われると、11世紀、彼らは交易離散共同体(ディアスポラ)となって、アラビア半島や紅海沿岸、さらに中国にまで移り住む。
 ペルシア湾口では、キーシュがシーラーフに代わって中継交易都市となり、10世紀後半から11世紀後半にかけて、アラビア海やインド洋西海域の主要な交易地を攻略して、自らの支配下に収める戦闘的な港市国家となる。その武力行動は近世の西ヨーロッパのアジア進出と何ら変わるところがなかった。
 しかし、11世紀以降、インド洋交易ルートとして紅海ルートが利用されるようになると、アラビア半島や紅海沿岸の交易港が発達して、アデンがキーシュにとって代わる。それが中継交易都市として発達するのを恐れたキーシュは、1135年アデンを攻撃する。このキーシュも、13世紀半ば、新ホルムズに吸収される。
 9世紀後半、東西を結ぶ海上交易は中国からイスラーム商人が後退し、中国商人が東南アジアに進出してくると、マラッカ海峡の西出口にあるマレー半島のカラ(ケダ)が中継港となる。12-13世紀になると、中国のジャンクがベンガル湾を越えると、南インドのマラバール海岸のクーラム・マライ(現クイロン、故臨)が、アラブ・イラン系のダウと出会う中継港となり、交易品の積み替えが行われた。
 13世紀半ば、バグダッドがモンゴルに攻略されると、ペルシア湾ルートは中断する。マラバール海岸のカリカットは、それが提供する交易条件のおかげ、紅海ルートの交易を取り込み、繁栄する。それによりクーラム・マライは衰退する。このカリカットも、ポルトガルの侵略後は、その中継港の地位をゴアやコーチンに譲る。
 北インドのグジャラートは、イラン系商人が多数居留するアラビア海の交易港であったが、その交易はモンゴルの圧迫を受けて後退するが、14世紀初めハルジー朝(1290-1320)に取り込まれたことで活況を取り戻す。グジャラートに進出したアラブの商人たちは、南東インドのコロマンデルや東アフリカの交易を支配するまでになる。そして、13世紀末マラッカ(マラッカ)が中継港として創設されると、グジャラートの商人いち早く進出してくる。
 東シナ海では、9世紀後半、新羅や渤海の商人たちがイスラーム交易民に代わって、東南アジア、そしてインドに進出する。彼らは中国人商人と受け取られた。南シナ海では、7世紀以降、10世紀に中国船が進出するまで、南ベトナムにあったチャンパが中継交易都市となる。
 チャンパの船は、主にシャム湾および南シナ海から中国にかけて活動したが、マラッカ海峡を経由する東西交易の中継交易と、東南アジアにも交易拠点を設けて、特産品の収集と域内交易にも従事していた。チャンパの商人や商船は、15世紀まで、「海の民」の名をほしいままとした。
 東南アジアを経由する東西交易は、7世紀からマレー半島縦断ではなく、マラッカ海峡を経由するようになり、8世紀、海峡部にシュリヴィジャヤ王国が興り、近隣地域を支配する中継交易都市(港市国家)となる。それらの交易港には西アジアやインドの船が出入りし、東南アジア産品を仕入れた上で、中国に向かった。
 10-11世紀中国が宋代となって、中国船が史上初めて本格的に東南アジア交易圏に進出してくると、シュリヴィジャヤは最盛期を迎えたとされる。しかし、中国船がさらにインドまで進出し、それにつれて西アジアやインドの船が来航しなくなると、シュリヴィジャヤの中継交易の役割は終わる。
 13世紀になると、イスラーム教の東漸にともなってパサイ、そしてマラッカといった新たな中継交易都市が成立する。マラッカは、14世紀末か15世紀初めに成立したとされ、一方ではイスラーム教国に衣替えし、他方では明の冊法体制に入ることで、その交易ネットワークを拡げる。
▼大小中継交易港の登場とその盛衰▼
 ヨーロッパ大陸では、河川や海路に沿って、多くの交易都市や交易路が築かれ、繁栄した。従来の地中海交易圏に加えて、北海・バルト海交易圏が生まれる。それらは暴力的に切り開かれる。後者では、9-11世紀までのヴァイキングの跳梁によって交易路が開拓され、また前者では12世紀十字軍の遠征によってヨーロッパ人の交易圏として復活する。
 ヨーロッパでは、遍歴商人が定住して商人の集落が形成されると、支配者から特権を獲得して年市や大市を開き、遠隔地から運ばれてきた高価な商品を取引するようになる。シャンパーニュが、12世紀半ばから13世紀後半まで、南北ヨーロッパの中継交易地として繁栄する。
 しかし、13世紀末、南北ヨーロッパを結ぶ大西洋航路が開発され、そしてシャンパーニュの政治環境が変わると、急速に衰退してしまう。それは、地政学上の便宜のある内陸部に位置しており、その便宜から市の場を提供するだけの、中継交易地の末路であった。それを、南北の海上交易の中間地点に位置し、さらに後背地に毛織物工業を抱える、ブリュージュがとって変わる。それは海路の勝利でもあった。
 14世紀、ブリュージュは外国人に自由な取引を認めると外国商館が立ち並ぶ、「中世の世界市場」となる。ブリュージュを中心に、東方交易に接続する地中海交易、北海・バルト海交易、そしてヨーロッパ内陸交易の主要な回路が結びつく。ただ、ブリュージュの商人は羊毛買い付けや毛織物の売り込みから手を引いてしまい、自らは仲介人に徹するようになる。
 中継交易都市にあっても、シャンパーニュやブリュージュ、アントウェルペンなどは受動的な都市政策を採用、外来商人を引き寄せて自由に取引させ、地元商人は仲介業に専念する都市であった。それに対して、ヴェネツィア、ハンザ都市、マルセイユなどは能動的な都市政策を採用、地元商人が積極的に交易圏を拡大したり、それが可能であれば特産品の生産と輸出を図り、また外来商人の取引を制限する都市であった。海上交易を主たる産業とする都市は後者に属していた。
 地政学上の変動により、交易路は盛衰を余儀なくされた。モンゴルは、ユーラシア大陸を征服したことで、海陸にまたがる広大な交易回廊を建設したとされる。しかし、モンゴルは大陸規模での交易国になることはなく、住民から余剰を収奪するだけであった。
 1258年、モンゴルはバクダードを破壊すると、インド洋交易を中継してきたペルシア湾奥のバスラは衰微する。それに代わって、タブリースを首都としたイル・ハーン国(1258-1335)のもとで、ペルシア湾口のホルムズとキーシュが中継港となる。
 イル・ハーン朝がイスラーム化すると、ヨーロッパの商人は領内を通行できなくなる。また、エジプトのマムルーク朝によって、1291年十字軍の最後の砦アッカーが陥落すると、ヨーロッパの商人はペルシア湾ルートを利用できなくなくなる。そのなかで、ジェノヴァ人は黒海に接続する北方ルート、ヴェネツィア人はマムルーク朝に接近して紅海ルートを重視するようになる。
 なお、14世紀末、ティムールはチンギスと同じように内陸アジアの交易路を統一したが、交易を狭い範囲に閉じ込めたため、ユーラシア大陸の交易路は海路が重視されることとなる。
 7-14世紀栄えたシュリヴィジャヤなど海峡部の国々は、中国と朝貢交易することによって地位を確立し、中国やインド洋から交易船を受け入れ、東南アジアやインド洋の産品を中継交易することで栄えた。しかし、宋代、元代、中国が交易を自由化すると、その役割は低下する。しかし、15世紀明朝が海禁(交易禁止)政策を採用すると、再び東西を結ぶ中継港が必要になり、マラッカが台頭する。
▼必需品の買い付けと特産品の売り込み▼
 古代交易の本質的な性格は、その国や土地の住民が必要とする財貨を、域外から買い付けることにあった。中世交易にあっても、域外から買い付けという性格は奢侈品、必需品の交易を問わず変わりはなかった。
 その場合、交易民による中継交易にほぼ専ら依存するのではなく、後背地に消費者をもつ地域の商人が生産地あるいは中継港に直接出向いて、買い付けるようになった。それら商人たちは、生産地あるいは中継港に商館や代理人を配置して、買い付けた。
 イタリア商人は、12世紀以降、レヴァントや黒海地方に商館や植民地を設け、香辛料など東方の商品を買い付けた。さらに、13世紀以降、フランドルやイングランドに進出して、羊毛や毛織物を買い付けた。ドイツ・ハンザの商人は、ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノブゴロドの四大商館をはじめ、スカンディナヴィアやバルト海に商館を設け、羊毛や毛織物、穀物、木材、魚類などを買い付けた。
 12世紀、ヴェネツィアやフランドルの商人はロンドンに商館を設け、交易特権を獲得して、羊毛の買い付けと中継商品の売り込みを図った。12-14世紀、フランドルの商人が組織したロンドン・ハンザやドイツの都市が加盟したドイツ・ハンザは、買い付け地における交易特権の獲得と維持とともに、買い付け競争を規制しようとする一種のカルテルであった。
 必需品の直接買い付けばかりでなく、必需品あるいは特産品を生産する(あるいは輸出産業のある)地域の商人が、それらを外国人の買い付けに任せるのではなく、それらを進んで売り込むようになった。フランドル商人たちは毛織物、ヴェネツィア商人は絹織物や工芸品、ハンザ都市の商人はニシンやビールを、ヨーロッパ諸国に売り込みをはかった。それら特産品は多くの中継品とともに売り込まれた。
 そこで決定的なことは、羊毛の買い付け先にすぎなかったイングランドの商人が、13世紀には羊毛、さらに14世紀には毛織物を輸出するようになり、またプロイセンの商人が穀物を輸出するようになったことである。これによってドイツ・ハンザの中継交易人としての役割が終わる。
 しかし、買い付け競争は避けられず、ドイツ・ハンザ、フランドル、イングランドは、買い付けの独占や居留地の建設などをめぐって対立し、海戦にまで及ぶ場合もあった。また、買い付けにおける外来商人と地元商人、支配者との争いや、海上交易路における通行をめぐる争いなども生じた。これらの争いは近世における商業主義戦争の前触れであった。
 これら必需品の消費国による買い付け、また特産品の生産国の売り込みという特徴は、ヨーロッパの交易で顕著に認められたにとどまる。
 交易民に依存する古代交易とは異なって、必需品の輸入国あるいは消費国が多くの船舶を所有して、必需品を直接、買い付けるようになる。さらに、必需品の生産国あるいは輸出国にあっても、船舶を所有して、海上交易に参入するようになる。また、必需品の直接買い付け交易が増大すると、大型船による通し交易が増大する。それは中継交易の余地をせばめるものとなった。
 ヨーロッパでは、必需品の消費国であるが輸出産業をもっているオランダやイングランドが、中継交易を生業としたドイツ・ハンザを押しのけて、海上交易に参画してくるようになる。その海上交易は、古代からの買い付け交易ではなく売り込み交易、あるいは受動的交易ではなく能動的交易となっており、近代交易の萌芽といえる。
▼大型船の採用、イスラーム交易制度の普及▼
 中世、海上交易量として大きな比率を占めるようになった、必需品は大量で嵩高な貨物であった。それらの貨物の売買価格差が大きければともかく、その運賃負担力におおむね高くはなかったので、その輸送には大型・専用化した船舶を用いるようになった。ただ、現実に活躍した多くの船は、決して大型船ではなく、その積トン数はせいぜい100トンぐらいであった。
 北西ヨーロッパでは、必需品交易がきわめて盛んとなったことから、無骨な大型専用船が開発された。その代表となった船型は、ヴァイキングのクノルを改良したコグが100トン、それを大型化したホルクが200トンほどであった。イタリアでは、ガレーが戦闘用だけではなく、商用にも高価格商品の輸送に使用され続けた。
 イスラーム商人が使用したダウは、縫合型という特殊構造とココヤシ材の長さによって規定され、長さは15-20メートル前後、大型船は200トンくらいとされた。イスラームの天文学者は、8世紀から9世紀にかけてアルミナ球儀、平面アストロラーブ、球面アストロラーブを開発している。
 15世紀、スペインからポルトガルに逃れてきたユダヤ人の天文学者アブラハム・ザクート(1450?-1510)とその弟子ジョゼフ・ヴィシニョは、ヨーロッパで最初の小型金属製アウトロラーベ(天測観測機)を考案し、また閏年用の太陽天測歴を編纂している。それらは、イベリア半島の航海者、なかでもダ・ガマ、さらにコロンブスの航海にも役立てられた。ダ・ガマはインドへの航海途上、イスラーム人航海者から指南されたという。
 宋代における商工業の発展は技術革新に裏付けられていた。そのなかでも、製紙・火薬・羅針盤―これらは近世ヨーロッパの世界制覇の手段となる―は中国の三大発明としては有名であるが、それに以外にも多くの発明と発見が行われた。その1つが大型ジャンクの建造であった。それは、荒波を乗り切ってゆけるV字型の船底と、隔璧で区切られた船倉をもった海洋船であった。その沈船の出土からみて、その長さは30メートル、積トン数は300トンを上回ることはなかった。
 中世、海上交易量が増大、また船舶が大型化したとするが、それらの実態数値がつまびらかになるわけではない。いま、船腹規模について断片的な史料を並べれば、次のようになる。
 655年、キリキア沖の帆柱の戦いで、ビザンツ帝国は500隻からなる艦隊を編成したが、アラブ海軍に壊滅的な打撃を受ける。12世紀、アイユーブ朝のもとで、アデン港には課税対象額が8万ディナールに及ぶ大型船が、毎年70隻から80隻停泊したという。
 769年、広州に入港した西アジアの船舶は、なんと4000隻の及んだという数字がある。大化改新政府は高句麗・百済と連合して、663年の白村江(錦江)の戦いに、1000隻2万7000人の水軍を送り込んだ。11世紀、宋代の温州、明州、台州の三州に、船幅1丈(3メートル)以上3,833隻、1丈以下15,454隻、合計19,287隻が登記されていた。14世紀、スコーネ半島のニシン漁業に4万5000隻の漁船と30万人の漁民が携わっていた。1368年、リューベックの入港船は858隻、出港船は911隻であった。また、15世紀末ハンザの遠洋航海船が1000隻6万トン(平均60トン)ほどあった。リューベック所属船は、1180年300隻、1275年1200隻であったが、1368年には1775隻まで増加するが、1466年には1250隻にまで減少する。
 ジェノヴァやヴェネツィアは、十字軍のパレスティナ遠征に、それぞれ200隻ほどを提供してきた。1423年、ヴェネツィアは軽ガレー25隻、ガレー商船20隻、大型帆船30-35隻、中型265-270隻、小型3000隻、合計3340-50隻158,400トンであった。そのうち、長中距離用はガレー商船と丸型帆船の315-25隻である。この長中距離用の勢力はジェノヴァにもほぼ当てはまる。
 中世の海上交易は、交易量や必需品の交易が増大するなかで、一方では多額の資金が必要となり、他方では投資の対象となっていった。しかし海上の危険はなくならなかった。そこで、中世の商人や船主たちは共同出資して海上交易を行い、また船舶を共有するようになる。この海上交易の協業は世界に共通するものであった。
 イタリアでは、12世紀から高利の海上貸付を取り入れた、コンメンダやソキエタス・マリスという経営が生まれた。それらは、15世紀になって北ヨーロッパにも広がり、ゼンデーヴェ、ヴェッダーレッギンゲと呼ばれ、15世紀になって広がる。14世紀になると、一航海一事業ではなく、商人たちが資本を恒久的に投資するソキエタスや、外部資金を取り込んだマグナ・ソキエタス(それらは合名会社や合資会社に発展)といった、かなり継続的な企業となる。
 中世の商人たちは、所有する船あるいは共有する船に、自らの荷物を積んで海上交易を行った。共有船の持ち分はおおむね2から24に分割された。商人たちは、持ち分に応じて自らの荷物を積み、また持ち分を他の商人に貸して荷物を積ませた。資産家たちも共有船に投資するにようなる。海上交易はおおむね商人船主によって担われてきたが、船舶の共有制のもとで、海上輸送を専業とする船主も生まれてくる。
 これら交易制度は、古代にもみられた制度ではあるが、イスラーム商人たちはそれらを9世紀までに広く採用していた。ヨーロッパでは、イタリア商人が11世紀になって、東地中海交易に参入するなかで学び取った制度であった。中世のヨーロッパ世界は、イスラーム世界から多くのことを学んだが、そのことは海上交易においても同じであった。
 これら交易制度がイスラーム世界で発達したのは、イスラーム商人たちの行動に、イスラーム法が法的保障を与えられていたからとみられる。
 宋代、彼らの私交易は管理されていたが自由に行えるようになり、それがいままでになく盛んになる。彼らは行・作と呼ばれた同業組合を組織する。そのもとで、海上交易と海上輸送とはかなり分離し、その担い手も分化した。商人船主の自己輸送ばかりでなく、独立船主による他人輸送や用船による輸送が広範にみられた。それにともない輸送契約書も定型化していた。そして、船の賃貸借や、船長の雇用、仲介業の活用も、多くみられた。また、海上交易と海上輸送をめぐる共同出資も広範にみられた。
 中世、海上交易と海上輸送は分離しておらず、その担い手は商人船主船長であった。それでも、時代が下るにつれて、一方では専門知識の必要から、他方では協業の多様化のなかで、商人と船主船長、船主と船長の分離が起きる。それらの分離は近世末にいたるまで完全には進まなかったが、イスラーム世界や中国はヨーロッパ世界にくらべかなり早い時期から分離がはじまったかにみえる。
 古代から、海上交易は海上の危険を伴ったので、海上貸付や大海損といった相互扶助あるいは危険分散の制度があったが、14世紀後半イタリアにおいて海上貸付を換骨奪胎させた、海上保険が生まれる。それが、15世紀になってイベリア半島やネーデルラントに伝わる。
▼支配者介入の排除と商人の地位の向上▼
 中世の主たる海上交易は「商人の交易」になったが、「王の交易」がなくなったわけでも、また「商人の交易」が自由に行いえたわけでもなかった。中世の商人たちは、王や領主から特権が付与され、その管理を免れなかったが、次第に自治に委ねられるようになった。
 商人たちは、王や領主から襲撃や略奪、没収を受け、また保護されもした。商人は彼らから商品の先買いのほか、積み替え、留め置き、売り払い、通行などの強制、そして輸送手段の徴発を受けた。そして、金品の上納や税金、通行料、護衛料といった様々な負担を強いられた。また、交易の日時や場所、運営、扱い品の種別や価格などについて、様々な制限を加えられた。
 そのなかにあって、ヨーロッパの商人たちは都市の支配者になることによって、王や領主の管理からより自由に振る舞えるようになり、その社会的地位は著しく向上した。それに比べ、アジアの商人たちは王や領主の管理によって交易が制約され、その社会的地位も向上したわけではなかった。
 中世ヨーロッパの商人たちは、交易の特権を維持、独占するために、ギルドを結成して自立性を高め、また都市の自治権を獲得して、支配者の介入を排除することに努めてきた。特に、海上交易に携わる大商人たちは財力を蓄えたことで、都市貴族となって交易都市の支配者となり、海上交易を管理するようになる。
 中世のイタリアでは、交易について領主と商人の利害が一致、商人も都市貴族に上昇して、交易都市国家が築かれる。ヴェネツィアは、ビザンツ帝国から自治権を獲得として、都市国家となる。その海上交易は、国家の全面的な管理のもとに置かれ、国家が保有する船舶を商人に貸し出されもした。海上交易は大きな船団を組み、護衛船を付けて行われた。ジェノヴァは商人支配の都市国家であったが、海上交易は商人の自由に委ねられていた。
 ドイツ・ハンザの都市は、国王や領主から自治権を獲得し、有力な商人が主導する交易都市であったが、それぞれの海上交易は北海・バルト海交易を独占することを目指した都市同盟の規制のなかで運営された。
 イスラーム世界の王朝も、海上交易を商人に委ね、その振興をはかった。エジプトのファーティマ朝やアイユーブ朝は、カーリミー商人(カーリミーという組合に入っている商人)という階層が独占することを認め、カイロや紅海からヨーロッパの商人を排除して、カーリミー商人を優遇した。マムルーク朝は、ヨーロッパの商人が領土を通行することを禁じ、特に儲けの大きい交易は「王の交易」とした。
 アイユーブ朝はシャワーニー船(海賊から商船を防衛するための警備保安船)をバーバル・マンデブ海峡とインド洋海域に配置して、海賊を討伐した。
 マムルーク朝の時代、イタリアの船はアレクサンドリアに入港することを求められ、そのシーズンの来航予定の船がすべて到着するまで荷下ろしを禁じられた。そして、陸上との交通は制限されたことから、帰り荷の入手はカーリミー商人や役人に依存させられた。その時代、インド洋交易は最盛期を迎えるが、ペストの襲来と支配者の収奪によって衰微しはじめる。
 中国にあっては、12世紀から14世紀初め、宋・元の時代、朝貢交易はほとんどなくなり、私交易が興った。宋代初期、中国船はマラッカ海峡まで進出し、外国船は市舶港に限って入港を認められたが、いずれも厳重に監督されていた。宋代後期や元代になると、中国船はクイロンといったインドの港まで積極的に進出した。
 明代(1368-1644)になると、朝貢交易を再開、海禁政策を採用する。明の朱元璋(洪武帝、在位1368-98)は海上交易を独占しようとして、海禁令を施行する。それによって、中国船はインドまで航海することがなくなり、シナ海交易は一挙に縮小する。
 永楽帝(在位1402-24)は海禁政策を維持しながら、海上交易を回復させようとして、15世紀初めから数十年にわたって、鄭和(1371?-1434?)に南海大遠征を行わせる。しかし、彼が死亡すると、艦隊派遣を止め、海上覇権を放棄する。他方、海禁政策によって、倭寇の密貿易を取り締まろうとするが、それを制圧することができず、16世紀半ば東アジア交易圏は無秩序となり、東南アジア交易圏に地政学的な空白が生じる。
 中世の交易港における交易船や居留地の管理は、古代に比べ精緻になったが、古代と同じように、国家の直接管理とその民間委託を定めて上で、地元の商人や居留民の自治に委ねられていた。ヨーロッパではギルド、インド洋では現地支配者から指名された、有力な居留民の港務長が管理した。
 宋代、海上交易は私交易が盛んになるが、唐代に起源を持つ市舶司が海上交易を管理した。市舶司は、外国船の入港、専売品の買い上げと販売、関税の徴収、密輸の監視、中国船への出航許可証の交付など、交易管理権限を一手に掌握した。
 マラッカ王国は、海上交易の中継国として生きていくために、中立政策と低関税政策で交易を引きつけた。マラカ政府は『贈り物』と手数料を合わせて3-6パーセントに抑えていた。マラッカ王国は、居留する外国人を4つのグループに分け、交易管理を委ねていた。スルタンや高級官僚たちは自ら大々的に交易を営んでいた。
 12-13世紀、ペルシア湾口のキーシュは、アラビア海やインド洋西海域の主要な交易地を支配、監督官、代理官、徴税官などを派遣する。また、支配していない交易拠点では、イスラーム商人と同じような居留地管理が行われたが、その場合、キーシュ王の血縁者たちが港務長を指名されるようにした。
 11世紀の初めごろから、紅海とペルシア湾の出口にあるアデンとキーシュは、インド洋交易を代表する港市として急激に発展し、たがいに他の破壊によって交易を独占しようと努めた。ズライ朝やアイユーブ朝、さらにラスール朝はアデンの交易を積極的に振興したが、その特徴はシーレーン維持と入港船管理であった。
 古代、商人の社会的地位は低いものとされた。中世、イスラーム商人にあってはイスラーム教が商人たちの宗教であったことから、その地位ははじめから高かった。彼らは特権や自治を要求することはなかったが、交易都市の繁栄の担い手であった。
 それに対して、ヨーロッパや中国の商人の社会的地位はそれほど高いものではなかった。ヨーロッパの海上交易を担う大商人の社会的地位は、特権や自治の獲得、都市の支配を通じて、その地位を高めた。そして土地を購入して貴族化していった。中国の商人は特権や自治を要求することもなく、またその社会的地位も高くならなかった。
▼おわりに▼
 そこでえられる結論は、古代と同じように中世の海上交易も、その国や土地の住民が必要とする、財貨を買い付けるという本質的な形態に変わりはなかった。古代にくらべ中世の海上交易がみせた決定的な変化は、穀物など多様な必需品交易の増大であった。その増大のもとで、買い付けるという本質的な形態はむしろ強化された。
 中世の海上交易は、大量・嵩高な必需品の買い付け交易となったことを展開軸として、上で述べてきたように、いくつかの形態変化が引き起こされた。そのなかでも、輸出産業を持つ国にあっては、買い付け交易ではなく売り込み交易、あるいは受動的交易ではなく能動的交易とという、近代的な海上交易の萌芽が認められた。
 そして、大量・嵩高な必需品の買い付け交易のなかで、海上交易の共同出資や船舶共有制が発達する。それによって、海上交易と海上輸送とは次第に別々の担い手によって経営されることとなり、海上交易業から海運業、あるいは商人船主から船主が次第に分離することとなった。これもまた近代的な交易業と海運業の萌芽を示すものであった。を生産する産業が発展させ、その輸出を促した。ヴェネツィアではガラス器、金属細工、皮革細工、絹製品、宝石など奢侈品や砂糖の生産が発展した。ロンバルディアの多くの都市は綿工業、ルッカは絹工業、フィレンツェは毛織物工業を発展させた。
 それら商品のレヴァントやビザンツといった東方諸国への輸出によって、それら国々に対するイタリアの交易都市をはじめヨーロッパ諸国の、古代からの支払超過は大きく改善させることとなった。そればかりか、それらの国々の輸出産業を圧迫するまでになった。それは、海外なかでも植民地で生産される原料を輸入し、それを加工して製品として輸出することで、海外の同種の工業が衰退することになるという、近代世界経済の構図の先取りであった。
 こうして、中世イタリアの海上交易規模は増大し、海上輸送需要が喚起される。それら事業に向けて、大小様々な資金が投下されるようになる。海上交易は、定住商業を前提として、ソキエタスやとコンメンダ(コレガンツァ)という共同出資の形態をもって行われ、また海上輸送には多数の船舶が必要となり、また船型の大型化が起きたことが契機となって発達した共有船によって行われるようになった。
 海上交易の共同出資や船舶共有制の発達のなかで、海上交易と海上輸送とは別々の担い手によって経営されることとなり、海上交易業から海運業、あるいは商人船主から船主が次第に分離することとなった。ヴェネツィアにおいては、交易の恩恵を均霑(きんてん)することが統治手段となっていたため、国有民営による商用ガレーの交易が行われた。そこには船舶の所有と利用との完全な分離がみられる。それは例外であって、ジェノヴァの実態からみて、共有船を利用する商人がその船の部分所有者であることが多かったので、そのあいだの分離はいまだ中途半端であった。
 そうした過渡状況にもかかわらず、第三者の商人による船舶の利用が船籍をも超えて大きな広がりをみせ、その利用も部分所有者がらみの用船ばかりでなく、第三者の商人による船舶の利用による輸送も行われるようになる。それにともなって用船契約や単なる運賃積による輸送、海上保険の実務が整備されていった。こうした海上交易・海上輸送に関わる実務状況は、中世に同時的に展開した北西ヨーロッパと基本的に同じ内容であったとみられるが、その具体的な内容を含め、それらの比較は今後の課題となる。
 最後に、中世イタリアの交易は伝統的な買付中継交易に加工輸出交易が付け加わることとなったが、その基軸はあくまでも前者にあり、後者はその支払手段であった。そうした構造が長期に維持されたのは、14世紀イタリア交易の北限にあるイングランドやフランドルから羊毛や毛織物を輸入し、またそれを高級毛織物として加工、輸出することに成功したことにあった。
 15世紀半ば、オスマン・トルコという圧倒的な脅威に対して、イタリアの交易都市は個別には対抗できないにもかかわらず団結することなく、圧倒される。さらに、東方奢侈品の最終需要者であり、海上交易を国あげて支援する体制をとった、イングランド、フランス、スペイン、そしてオランダの海上交易人が重装備の大型帆船でもって、地中海交易に乗り込んできた。さらに、イタリアの交易都市はそれ自体が巨大な領域国家に支配され、その海上交易も全面的な衰退を余儀なくされるという成り行きとなる。
 W.H.マクニール氏をして、中世イタリアの地中海交易の歴史を総括してもらえば、ヴェネツィアへの特権付与によって「ビザンティン海上勢力を1081年以後に襲ったのと同じ運命が、1580年以降ヴェネツィア海上勢力を襲った。16世紀末に地中海に侵入し始めた北方の船は、商船と軍用船とを結合したものであった。大砲で重装備したこれらの船には、粗野で好戦的な船員たちが乗組んでいた。
 かれらの略奪への欲求、法の枠内であれ枠外であれ、取引きについての鋭い目は、11世紀にビザンティン商業にとって代ったヴェネツィアおよび同じイタリアの競争者たちの態度と性向を、そのまま再現していた。こうして、17世紀にはイギリス、オランダ、それにアルジェリアの海賊-商人たちはイタリア人に対して、500年前にイタリア人がギリシア人に対して行なったことをしたのである。つまり、かれらをほとんど海から追い払ったのであった」(マクニール前同、p.159)。
 中世を通じて密接にかつ不可分に混じり合っていた「商業、海賊行為、略奪、そして戦争」は近世にまで引き継がれることとなった。
(2009/02/05記)

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