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2・4・2 西ヨーロッパを揺さぶるヴァイキング
2.4.2 Vikings, rocking Western Europe

▼ゲルマン部族王国の消長▼
 古代ローマ世界の境外にいる野蛮人(バルバロイ)の代表は、「ゲルマンの海」と呼ばれた北海周辺、、主に現在のドイツ北部・デンマーク・スカンジナビア南部地帯に住んでいたゲルマン人たちであった。彼らは、すでにローマ世界には入り込んでいたが、4世紀後半から6世紀末にかけて、民族の大移動を起こす。それによって古代ローマ世界は解体され、中世ヨーロッパが形作られることになる。
 この民族大移動の原因については、気候の変動や部族間の抗争、人口圧の増加などが推定されているが、佐藤彰一氏は交易需要の側面について、次のように指摘する。
 「ゲルマン世界へのローマ商品の流入や両者の商取引の増大は、この世界に大きな変動をひき起こさずにはおかなかった。ひとつは、ゲルマン人のあいだでの社会格差がいっそう大きくなったこと。もうひとつは、ローマ製の商品への強い嗜好である。こうした品々は交易か略奪によってしか獲得されないが、そのことは長城の向こう側への侵略熱を高めるとともに、ゲルマン人内部での紛争を増加させた」。それによって、2世紀後半、ゲルマン社会は戦乱と激動の時代となる(佐藤彰一・池上俊一著『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』、p.41、中央公論社、1997、以下、佐藤97という)。
 2世紀の半ばごろから、ゲルマン人の侵入は激しくなるが、ローマ帝国はかろうじて優勢を保っていた。3世紀に入ると、多様な部族が国境をこえて移住しはじめる。ローマ帝国が3世紀末にはガリアを平定したことで、ゲルマン人の移住は一時とだえる。しかし、375年遊牧騎馬民族フン族が中央アジアから進出してくると、それに玉突きされてゲルマン人たちはふたたび侵入しはじめる。そして、彼らは全体として5世紀までに、西ローマ帝国全土をほぼ占領してしまう。
 5世紀末には、西ゲルマン人においてはアングロ・サクソン族がブリタニアに入ってアングロ・サクソン七王国、またフランク族(やブルグント族)がガリアに入って後のフランク王国、東ゲルマン人においては東ゴート族やロンバルド族が北イタリアに入って東ゴート王国、後のロンバルド王国、西ゴート族がイベリア半島に入って西ゴート王国、ヴァンダル族が北アフリカに入って王国を築く。そして、ゲルマン人たちは数世紀かけてキリスト教を受け入れ、中世ヨーロッパの基礎を築くことになる。
 そのなかにあって、アングロ・サクソン族とヴァンダル族が海を越えての移住と建国をはたしている。5世紀の半ばに、北海沿岸を拠点としていたサクソン人やアングル人、それにジュート人たちはブリテン島に向けて移住を本格化させる。その島を支配していたローマ軍は、410年を境に撤退していた。彼らはテムズ川やハンバー川から侵入して、この島の東部3分の1をまたたく間に手に入れ、6世紀初めには「ヘブターキ」と呼ばれる七王国が誕生する。
 なお、ブリトン人は南西のコーンワルやウェールズに押しこめられるか、海をわたって大陸のブルターニュ半島に移住するかした。サクソン人の侵入を迎え撃った族長のひとりに、ケルト人とローマ人の血を引くアルトゥリウスがいた。それが「アーサー王」のモデルとされる。
 他方、406年、ヴァンダル族は多数のゲルマン人とともにライン川を渡る。その3年後には、ピレネー山脈を越えて、スペインに入る。しかし、南フランスのトゥールーズに、ゲルマン人として最初に建国した西ゴート王国と対立して、シリンガという支族が殲滅される。「429年、王ガイセリック[在位428-77]に率いられた老若男女あわせて18万人のヴァンダル人は、2500艘の船に分乗して春のジブラルタル海峡をわたり、史上最大のアフリカ上陸作戦を敢行した……ローマ都市を一つひとつ制圧しながら東に進み、やがて到着したカルタゴで城門を開かせるまで、なんと10年の月日が流れていた」という(佐藤97前出、p.48)。
出所:ピエールヴィダル=ナケ編、樺山弦一監訳『世界歴史地図』、p.85、三省堂、1995
▼フランク王国の台頭、その王たち▼
 ゲルマン王国のうち地中海に面していたのは、カルタゴを首都とするヴァンダル王国と、493年テオドリック(在位473?-526)が建国した東ゴート王国、そして西ゴート王国であった。これら王国は、東ローマ帝国にローマ帝国の再興を目指すユスティニアヌス1世(在位527-65)が登場すると、彼によってヴァンダル王国は534年、東ゴート王国は555年に滅ぼされ、西ゴート王国はイベリア半島の東南部を攻略される。それによって、地中海は一時「ローマの海」となるが、8世紀以後は「イスラームの海」となり、9-11世紀にはスカンディナヴィア人のヴァイキング活動にさらされる。
 ゲルマン人が建てた初期の国々のなかで、フランク王国がもっとも長く生き延び、ヨーロッパ世界を築くこととなるが、それ以外は他のゲルマン王国によって征服される。東ゴートにかわってイタリアに建国したランゴバルド王国は、774年にフランク王国に滅ぼされる。また、イングランドの諸王国も、数世紀後デーン人の侵略に屈することなる。ただ、スペインのトレドを首都とした西ゴート王国は、711年にイスラーム教徒により征服される。
 フランク王国は、ゲルマン人の民族移動が続くなかで、クローヴィス(在位481-511)によって建国される。彼は、ガリアをほぼ征服して、メロヴィング朝(481-751)を築き、496年にカトリックに改宗する。王家が分割相続制を採用していたため、その後は分国化と内乱にあけくれる。8世紀になると、カロリング家の宮宰カール・マルテル(在位714-41)が実権を握るようになる。彼は、732年イベリア半島からガリアに進出してきたイスラーム教徒軍を、トゥール・ポアティエ間で敗走させる。
 彼と息子のピピン3世(在位751-68)はガリアを再征服して、751年カロリング朝(751-987)を築く。彼は、中部イタリアのランゴバルト人を敗北させ、それを教皇領として寄進する。そして、カール大帝(シャルルマーニュ、在位768-814)は、ザクセン族と長期にわたって戦い、それを征服する。彼が統治する地域は、南北では北海から中部イタリア、東西ではエルベ川からピレネー山脈に及ぶこととなった。彼は、800年教皇から西ローマ皇帝に戴冠される。
 それは、東ローマ帝国あるいはビザンツ世界から分離して、教会の精神的な権威と皇帝の政治的な権力の組み合わせによって社会を統治していくという、西ヨーロッパ独自の体制の確立であった。彼の死後、フランク王国は東フランク、西フランク、そして中フランク(その北部は東フランクに併合される)の王国に大きく3分割され、今日のドイツ、フランス、イタリアのもととなる。
 カール大帝は優れた才能の持ち、精力的に征服に乗り出し、また次々に勅令を発して行政制度を改革する。彼は、軍事面では封建的騎兵軍を拡充し、北洋艦隊を組織したとされる。彼の治世末期、799年にはヴァイキングが北からフランク王国の沖合に初めて姿を現し、300年にわたってキリスト教徒を戦慄させ、カロリング朝を大いに悩ませることとなる。
 9世紀になると、西からはイスラーム教徒がシチリアや南イタリアを襲撃して、200年間定住し続け、またプロバンスのラ・ギャルド・フレネ(フラクシネトゥム)に略奪拠点をおく。東では、遊牧騎馬民族マジャール人がドナウ川流域に定着して、毎年のように北イタリアや南ドイツを侵入してくる。こうした異民族の攻撃に備えて、城壁を張りめぐらした中世都市が築かれることとなる。なお、ドイツに敗れたマジャール人は、997年ハンガリー王国を建国する。
 ドイツ王国にあっては、ハインリヒ1世(在位919-36)に続き、その息子オットー1世(在位936-73)が955年レヒフェルトの戦いでマジャール人を撃退する。彼らはザクセン朝(919-1024)を築いて、国内再編に成功する。オットーはカール大帝の後継者たろうとして、962年教皇から西ローマ皇帝に戴冠される。それ以後、中世ドイツは神聖ローマ帝国と呼ばれる。
▼中世初期の西ヨーロッパ交易の議論▼
 中世初期(5-10世紀)の西ヨーロッパの交易の研究は、H.ピレンヌの7世紀イスラーム教徒の進出によって、遠隔地交易としての地中海交易が消滅し、1000年以後それが復活するという見解を批判するかたちで進められてきた。
 3世紀頃から、西ローマ帝国の「西方の属州では産業が発達し、基本物資の自給体制が確立した。ガリアからの出土品をみても西方の製品がローマや東方の製品よりずっと多くなっている。西方の属州の発展(=自立化)は地中海商業を衰退させ、ブロック経済への傾向を強めた」とされている(石坂昭雄他著『商業史』、p.16、有斐閣双書、1980)。
 ゲルマン諸部族の侵入によって、古代ローマの都市は衰退する。しかし、遠隔地交易としての地中海交易は、フランク王国のメロヴィング朝まではなお活発に行われ、地中海からみれば辺境のフランク王国に東方の商品がもたらされていた。「すなわち、マルセイユ、ナルボンヌ、ニース等の地中海周辺の諸都市には、東方の商人が往来し、絹・絹織物・香料・オリーブ油・奴隷・薬草等が取引され、また依然として金貨の流通がとだえていなかった。
 しかし、このような小規模な商業交易も、回教徒の西進によるスペインの征服、地中海的統一の断絶によって、決定的に払拭されることになった。地中海沿岸の諸港は急速に衰微し、オリエントの商品の輸入は途絶してしまった。ユダヤ人やシリア人の遍歴商業も急激に衰退したものと推定される」とされる(伊藤栄著『西洋商業史』、p.55、東洋経済新報社、1971)。
 それに対して、佐藤彰一氏は「6世紀の後半から7世紀の前半にかけて、徐々に地中海沿岸地方とロワール川より北の地域の交流が停滞・途絶するが、それはピレンヌが説くようにイスラーム教徒の地中海進出の結果ではなく、むしろ北西ヨーロッパを圏域とする新しい商業ネットワークが出現したための漸進的で自然な移行の結果であった」と批判する(佐藤97前出、p.126)。
 丹下栄氏は、「近年の研究は、一方ではピレンヌがメロヴィング期の流通の根幹をなすと考えた地中海交易の意義をより相対化し、もう一方では北海・バルト海交易、なかでもイングランドとの交易を重視する方向をはっきりと示している。総じて、7世紀の時点では、ガリア北部での経済生活にとって、地中海を経由する交易はすでにさほど意味を持たないものとなり、対照的にむしろイングランドとの取引が重要性をますます増大させていたと言わねばならない」。
 さらに続けて、「この交易は、地中海交易とはさまざまな点で対照的な姿を示している。まず交易される物資を見ると、葡萄酒、穀物、毛織物、さらには金属製品、武具といった生活用品が大半を占め、地中海交易に見られるような奢侈品は存在しない。さらに、より本質的な点として……北海方面との交易はフランク王国の側からも、葡萄酒、金属製品などしかるべき財貨が輸出されていることで、それは在地での経済発展を前提として初めて可能となってくる」とする(以上、同稿「西欧中世初期社会の流通構造」佐藤彰一・早川良弥編著『西欧中世史』上、p.177、ミネルヴァ書房、1995)。
 ここで明らかなことは、北西ヨーロッパ交易と地中海交易とは代替・補完関係にはなく、最初から相対化している。それにもかかわらず、西ヨーロッパ世界が北西ヨーロッパ交易に特化していたかのように強調する。しかし、そのことによって、西ヨーロッパ世界がアジア産や地中海産の奢侈品や香辛料が必要でなかったわけではないが、それがどのように調達されたかについては関心を示さない。
 これら見解は、西ヨーロッパの地中海交易が、通説とは違って、イスラーム教徒進出前のメロヴィング朝においてすでに衰退してしまっていたと前倒しした上で、さらにその衰退の原因が西ヨーロッパ域内における交易の勃興にあったとする見解である。しかし、地中海交易と北西ヨーロッパ交易とが代替関係にないとき、北西ヨーロッパ交易の勃興をもって、地中海交易の衰退がイスラーム教徒進出によるものでなかったと主張することできないそうにない。
出所:ピエールヴィダル=ナケ編、樺山弦一監訳『世界歴史地図』、p.89、三省堂、1995
 フランク王国がカロリング朝に入ると事態は一変し、H.ピレンヌはともかく、誰もが地中海交易が維持されていることを認める。「カロリング朝の首都アーヘンとアッバース朝の首都バグダードとの頻繁な往来からもうかがわれるように、9世紀には西ヨーロッパの交易圏はいくつもの商業ネットワークをつなぐようにして、最終的には東アジアまでおよんでいた」とされる(佐藤彰一・松村赳著『地域からの世界史13 西ヨーロッパ上』、p.16、朝日新聞社、1992、以下、佐藤92という)。
 丹下栄氏は、「地中海世界との交易はカロリング朝に入っても、決してとだえてはいない。ルイ敬虔帝[ルートヴィッヒ1世、在位813-40]が831年に発給した文書は[父の]カール大帝による特権賦与を確認して、ストラスブールの司教座教会の配下の者に流通税免除特権を与えている……イタリアへの回廊がカロリング期にもかなり活発に利用されていた」とする(丹下前同、p.178-9)。
 カロリング朝は、いまや「飯の種」となった北西ヨーロッパ交易には課税するが、その細っている地中海世界との交易を維持して奢侈品を入手しようとして、それにアクセスする都市や商人たちに免税特権を与えていたのである。それに加え、西ヨーロッパではこうした伝統的な地中海交易以外に、多様な交易路を通じて遠隔地交易が行われていた。
 「ヨーロッパの商業は完全に中断したわけではない。局地内交易は別としても、コンスタンチノープルから西欧へ伸びる仲継商業があった。この世界都市に集められた東方の奢侈品は『シリア人』(シリア人、ユダヤ人、アルメニア人、アラビア人などの総称)の手で、種々のルートでヨーロッパへ運ばれていた。黒海からキエフを経てノブゴロッド、バルト海へ。キエフで分かれウィーン、プラハ、レーゲンスブルクを経て中欧へ。地中海をマルセイユへ、さらにサン・ドニ(パリ郊外)やトロワ(シャンパーニュ)の大市へ」(石坂前同、p.18)。
 なお、多様に表記される地名について、いちいち注記あるいは統一しない。
▼西ヨーロッパとの遠隔地交易の担い手▼
 中世初期、西ヨーロッパの地中海交易の担い手は、いま上でみたシリア人と総称される人びとであったとされる。彼らは、イスラーム教徒進出と同じ7世紀中頃、西ヨーロッパから忽然と姿を消す。この事象もH.ピレンヌがらみで議論を巻き起こすこととなっている。
 佐藤彰一氏は、「おおよそ6世紀の末まで、とくに大陸ヨーロッパではシリア人やユダヤ人などの東地中海地方出身の商人の活躍がさまざまの記録で目立っている。かれらは東地中海世界の物産であるオリーブ油やパピルス紙のほかに、もっと東方の香辛料や絹織物などを西欧にもたらした。ガリアやイタリアやスペインの主な都市に居留区をつくり相互扶助を組織した」とされている(佐藤97前出、p.123)。
 そして、最近の研究からとして、「西欧へのシリア人の出現は、故国でのオリーブ油や穀物生産にもとづく好景気と人口増加を背景として生じ、こんにち風に言えば一種の出稼ぎ移民のようなものであった。かれらは故郷とのつながりを保ちながら、オリーブ油やそのほかの産品を商ったのである。やがて西欧の金準備の枯渇があらわとなり、またもともとかれらを西方に押しだす要因となっていた故郷の人口過剰も解消されるなどしたために、帰還していったのではないかというのが、私の推測である」とする(佐藤97前出、p.125-6)。
 フイリップ・D・カーティン氏によれば、「ローマの勢力が強大な間は、地中海に面したヨーロッパでは交易離散共同体は不要だった……しかし、5-8世紀かつての西ローマ版図のフランスやスペインで、シリアないしレバノン出身を意味するシリという名で、交易離散共同体が再び現れた。実際には、彼らは東ローマ帝国のあちこちから来たのであり……西ヨーロッパ経済で商業が軽んじられていったという状況下でも、よそものだった。その結果が、商業共同体のゲットー化であり、社会からの宗教的隔離だった」(フイリップ・D・カーティン著、田村愛理他訳『異文化間交易の世界史』、p.155、NTT出版、2002)。
 シリ(ア)人について、フイリップ・D・カーティン氏にあっては西ヨーロッパが地中海交易から後退するなかで再登場し、後述のように、イスラーム教徒進出後は彼らの一部であるユダヤ人に限って活躍したとする。佐藤彰一氏にあっては、彼らの登場や撤退を優れて移民要因でもって説明し、特にその撤退がイスラーム教徒進出との関わりがなかったとする。
 シリア人と呼ばれる商人たちは、何世紀にもわたって地中海交易に育まれてきた交易居留民であって、その登場や撤退を一時的な移民要因で説明しても意味がない。彼らにとって、一方では伝統的でないイスラーム教徒との交易が避けられず、他方では西ヨーロッパの地中海交易が縮減していくとき、交易居留民としての判断から撤退したと思われる。
 イスラーム教徒の進出によって、地中海交易においてなお活躍し続けえたのはキリスト教徒に対しても中立でいられたユダヤ人であった。彼らによって、西ヨーロッパの東方との遠隔地交易が維持されることとなる。
 「フランク人(当時は西ヨーロッパの人々全部を指していた)はキリスト教以外の宗教を好まなかったが、南部ヨーロッパ、とくに南部フランスではユダヤ教徒共同体が東西交易に深く関与していた。そのため、カロリング朝はユダヤ教徒を国王の保護民とした。ユダヤ教徒による交易は、アッパース朝領域内ではもっと寛容に受け止められた」からであった(カーティン前同、p.157)。
 彼らはアラビア語でラダニーヤ(道を知っている者)と呼ばれていた。ペルシアの地理学者イブン・フルダーズビが、845年ごろフランク人の地と東方への交易ネットワークについて残した記録によれば、地中海北岸に沿ってレヴァントまでいくルートや、スペインからモロッコ経由でエジプトに行くルートといった交易路ばかりでなく、イスラーム教徒の領域を迂回する交易路もあった。「すなわち、ヨーロッパから陸上の隊商で、当時はまだキリスト教に改宗していなかったスラヴ系の人々の領域を通って黒海の北に出た」という(カーティン前同、p.158)。
 また、イブン・フルダーズビは「9世紀の西ヨーロッパ産の商品として奴隷、毛布、刀剣を挙げている。前の2つはスラヴ地域の産品であり、刀剣は北フランスで主に作られた。西ヨーロッパ固有の産品は、あげられているものでは刀剣のみであり、いずれにしてもきわめて貧しい。9世紀の国際商業において、この地域は依然として後進地域であった」(佐藤92前出、p.16)。
 小括として、中世初期、西ヨーロッパの遠隔地交易としての地中海交易はすでに西ローマ帝国の衰退とともに小規模になっていた。メロヴィング朝時代、イスラーム教徒の地中海進出によって一時途絶状態におかれたが、細々と続けられた。カロリング朝時代になって、地中海交易が回復したかにみえるが微弱であって、それを下げ止まらせた程度であろう。
 しかし、それではゲルマン人支配者たちの威信財需要に応じられなかったとみられ、イスラーム教徒の進出にもかかわらず、西ヨーロッパの遠隔地交易は地中海交易を代替・補完する海路・陸路の遠隔地交易が行われていた。そのなかでもゲルマン民族の故地を経由する交易が大きな役割を果したとみられる。
 こうした西ヨーロッパの遠隔地交易の担い手は文字通りの交易離散民(トレード・ディアスポラ)であるユダヤ人に依存することとなっていた。
▼北西ヨーロッパ交易の交易港▼
 古代ローマ時代、ブリタニアはガリアに駐屯するローマ軍の食糧補給基地であった。また、イングランド南東部のケントやイースト・アングリアなどの王国はイギリス海峡に面しており、大陸と密接な関係をもった。
 6世紀末、ケント王家はメロヴィング王家と姻戚関係があり、624/5年以降の遺構であるイングランド南部のサフォーク州のデベン川から発掘された、イースト・アングリアのサットン・フーの王墓(船葬墓)の副葬品には、ガリア全域の28におよぶ造幣所で造られた大量の貨幣が見いだされた。イングランドと大陸との交易は一段と活発になると、それに使用される貨幣は金貨でなくなり、カロリング朝が鋳造したデナリウス銀貨が主力になる。
 フランク王国のキリスト教化はアイルランド修道院制がその基礎となっていた。そこから、例えば7世紀の『フィリベルトゥス伝』にはイン
サットン・フーの王墓(船葬墓)の模型
グランドやアイルランドからの商船が衣類と靴を積んで、ノワールムーティエの港へ向かったとか、8世紀の『聖コルンバヌス伝』では聖人がアイルランドに渡る際、ナントの市民が大量の葡萄酒、ビール、穀物を寄進したといった、イングランドとフランク王国との緊密な経済関係を示唆する文言が現れてくる(丹下前同、p.175)。これら修道士たちの事跡と交易との関わりについては、Webペー【イギリス海運史】を参照されたい。
 7世紀後半から、「フランク王国の北海・バルト海方面との交易は急速に拡大したようである。ケルン近辺で生産された壷がフリースラント[スヘルデ・ムーズ・ライン河口の低地地帯]やイングランドから出土し、アイフェル高原やアルデンヌ地方で造られた武具がフリースラントやスウェーデン、さらにはゴットランド島で発見されるなど、交易の活発さを示す証拠は枚挙に暇がない」とされる(丹下前同、p.177)。
 この北西ヨーロッパ交易は8世紀に入って本格化する。「シャルルマーニュ大帝の時代には、イギリスに面した2つの港が盛んだった。カンシュ河の河口にあるケントビック[現エタプル]と、リアヌ河の河口にあるブローニュがそれである。商人たちはしばしばドーヴァー海峡を越えて来た。さらに北方、ライン河の入口にあるドルステット[ドレスタットに同じ]はもっと重要だった。さらに南方、ノワールムーティエでは塩、油、ブドウ酒を求めてやって来たブルターニュ人やイギリス人の船舶が到着するのが見られた。796年、シャルルマーニュ大帝は、メルシの王に手紙を書いて、納入された羊毛のマントの長さが不当に短いので、最近送られたモデルと同じものをこの次は送るようにという苦情を言っている」(ジョルジュ・ルフラン著、町田実他訳『商業の歴史』、p.29、文庫クセジュ、1976)。
 ルーアン、アミアン、カントヴィック、そしてドレシュタット[ドレスタットに同じ]といった港は、「北海および英仏海峡沿いでフランク王国の国境に位置しており、それらの主たる交通はイングランドへ向けてのものであったが、ドレシュタットだけはスカンディナヴィアをも相手としていた……これらの港は国王の特別な保護を享受していたが、国王は少なくともカントヴィックには……《王の役人》を駐在させていた……カントヴィックとドレシュタットの場合にはそれらの存在そのものが、王権と緊密に結びついていたようである。実際、この結びつきが非常に強かったので、カントヴィックとドレシュタットという最も重要な交易地が、820年代から始まって9世紀後半を通じて示した衰退が、主として王権の弱体化を理由とすると考えられるほどなのである」。そのため、カントヴィックとドレシュタットは、短命な「キノコ都市」と呼ばれるという(A.フルヒュルスト著、森本芳樹他訳『中世都市の形成 北西ヨーロッパ』、p.54、岩波書店、2001)。
 800年前後から、ヴァイキングの脅威が強まってくる。810-11年、シャルルマーニュ大帝はヴァイキングの脅威に対抗するため要塞を築き、灯台を修復させたという。
▼北西ヨーロッパ交易を担う商人の自生▼
 中世初期、7世紀から8世紀にかけて北西ヨーロッパ交易が勃興するが、その担い手として西ヨーロッパから新しい商人たちが自生してくる。
 佐藤彰一氏は、北西ヨーロッパ交易の出現という脈絡のなかで、北フランス生まれの冒険商人サモを取り上げている(佐藤97前出、p.127)。彼は、623年に仲間の商人たちと語らって、東プロイセンのスラヴ系ヴェンド人のもとに出かけていって、商業関係を結ぶ。それにとどまらず、彼は推戴されて、20年間ヴェンド人の王となる。その国はサモの国とも呼ばれ、アヴァール人やフランク王国とも戦っている。それ以後、西ヨーロッパは東ヨーロッパとの取引において、奴隷(英語でいうslave)が主力商品となる。
 佐藤彰一氏はサモを冒険商人と呼んでいるが、その行動の時期や振る舞いからみて、武装商人集団が地域支配に成功した例であろう。それによって新しい交易路が切り開らかれたとしても、未熟とみられる北西ヨーロッパ交易から自生的に成長した、遠隔地交易人とは到底いえないであろう。
 フランク王国がメロヴィング朝からカロリング朝にかわるころには、西ヨーロッパ世界は安定期に入り、経済も成長期に入ったとされる。そのなかで、領主の居城や修道院のあるところが商品の集散地=地方市場となって、個別領域内の交易が形成され、それらが結合されて王国に交易網が張られるようになる。さらに、こうした地域内交易網のなかに交易港がおかれ、大陸諸国とイングランド、そして北海・バルト海を交易圏とする、海上交易が次第に行われるようになった。
 当時における余剰生産物の最大の取得者であった、領主や修道院は、余剰生産物を御用商人に扱わせて売却していた。その場合、カロリング朝のルートヴィッヒ1世は、828年著名な「商人に関する命令」を出す。それによって、「国王の保護を受けた商人はアルプス峠とライン河口のドレスタットと英仏海峡のカントヴィックの3か所を除いては、流通税を徴収されない特権をもつ。物資を運搬する荷車の台数にも制限がなく、軍役を免除され、運送用の船舶が国家により徴発されるのもまぬがれた」。
 彼らはもとより自由な商人ではなく、「毎年かあるいは隔年、5月の中旬に宮廷に出向いて業務の内容をくわしく報告し、自分の営業としておこなった取引と、王権の委託でやった商いとをきちんと区別して、後者については利益を国庫に納入するよう命じられている」。
 その限定された性格について、「一地方をこえる遠隔地との取引に従事したと推測される職業商人が、さまざまの特権を与えられてようやく本来の商取引ができたところに、この時代の地域間商業の限界が見てとれる。公権力と結びついていない、ただの職業商人であったならば、頻繁に支払わなければならない関税や取引税で、利益はいちじるしく害われたにちがいない」としている(以上、佐藤97前出、p.128)。
▼北西ヨーロッパ交易は遠距離交易か▼
 このように、有力な在地商人が北西ヨーロッパ交易に携わる特権を与えられたことで、遠隔地との交易が広がったとみられるが、それについて丹下栄氏は「カロリング期は、こうした地域内流通が農民経済の成長を基盤として活発化し、それがより遠距離の流通を持続させる条件を整備した時期と考えられる」。「したがって、遠隔地交易と在地的交換とが原理的にまったく別のものと捉える考え」を批判する(丹下前同、p.185、188)。
 中世初期の西ヨーロッパにおいて、7世紀から8世紀にかけて、北西ヨーロッパ交易が勃興した。それを、佐藤彰一氏や丹下栄氏は遠隔地交易としているが、国を越えたり、海を越えたりすれば、遠隔地交易となるわけではない。それは、長大な交易路(港)を経由して中継交易を重ねるだけでなく、交易コストに耐えるだけの高収益が期待される商品が扱われていたどうかである。
 世界地図ではなく地球儀をみればわかるように、北西ヨーロッパ交易圏は「北の地中海」と呼ばれはするが、地中海交易圏のせいぜい4分の1の圏域にとどまる。
 確かに、フリースラントには北海に注ぐ3つの大きな川とその支流が流れており、対岸のイングランドや「沿岸航海を通じてスカンディナヴィアと結ばれているという、この地帯の有利な地理的立地は例外的なほどである。航行可能な河川や砂質の海岸のおかげで、これほど交通がたやすい場所は他になかった……このような要因に惹きつけられてゲルマン諸部族の大移動と、それに続く……ゲルマン地帯からの恒常的な移入[ヴァイキングのこと]」があった(フルヒュルスト前同、p.174)。
 北西ヨーロッパ交易の形態は奢侈品の遠距離交易ではなく、生活必需品の中距離交易となっている。そうであるからこそ、北西ヨーロッパ交易が「在地経済」や「地域内流通」の発展と一体となって形成され、発展してきたのである。しかし、西ヨーロッパはカロリング朝になっても、すでにみたように、地中海交易に持ち込める固有の産品は刀剣のみであった。
 したがって、西ヨーロッパは地中海世界にくらべ依然として後進地域であって、「遠隔地交易と在地的交換とは原理的に[も現実的にも、引用者補足]まったく別のもの」として併存しあっており、その「在地経済」や「地域内流通」が遠隔地交易を持続させる条件とはなっていなかった。
 これら北西ヨーロッパ交易の交易港に、後述のスカンディナヴィアのヴァイキングが来ることがあっても、ウェセックス王アルフレッド大王(在位871-899)の時代、ウルフスタンというサクソン人商人がバルト海まで進出して交易したという説話もさることながら、ヨーロッパ人の商人たちが進んでスカンディナヴィアの交易港まで航海して海上交易したという形跡はみられないという。
 そうしたなかで、西ヨーロッパ人として遠隔地交易に携わっていたのが、フリースラント人であった。この点について、高橋理氏は「商業復活期以前に北方で貿易を展開させた例外的民族にフリーゼン人がある。フリーゼン人はライン河口からオランダ北部にかけて定着したゲルマン人の一部族で、民族移動期のゲルマン人中、商業への適応性を示した唯一の部族であった。これは、彼らの定住地が農耕に不向きだったせいでもあるが、その商業活動は6世紀にまで遡り、商業が全般的に低調だった時代に際立った存在であった……フリーゼン商業は種々の点でハンザの先駆[であり]……11世紀末のスウェーデンには彼らのギルドが存在していた」と述べている(同著『ハンザ同盟 中世の都市と商人たち』、p.34、教育社歴史新書、1980)。
▼スウェーデン人、遠隔地交易を選好▼
 北西ヨーロッパの辺境では、8世紀後半からデンマーク、ノルウェー、スウェーデンのスカンディナヴィア人がそろって、ヴァイキングと呼ばれる遠征活動を本格的に行うようになる。その脅威にさらされたのは主として西フランク王国とイングランドのアングロ・サクソン諸国であった。ただ、ヴァイキング活動の発進地の違いによって、彼らの活動形態や進出地域にかなりの相違が認められる。
 なお、ヴァイキングという言葉が交易地を意味する、古英語wicから生まれたという説はもっともらしい。当時、スカンディナヴィアには800ほどのwicがあったという。
ヴァイキングの遠征と交易路
出所:百瀬宏他編『新版世界各国史21 北欧史』、p.27、山川出版社、1998
 最初のヴァイキングの記録は793年ノルウェー人がイングランド北東岸沖のリンディスファーン島の修道院を襲った事件とされている。しかし、アングロ・サクソン人を追うように、ユトランド半島に移動してきたデーン人などは、ゲルマン民族大移動末期の6世紀から、北西ヨーロッパにおいて海上交易地となりつつあったフリースラントを攻撃していた。
 そのなかにあって、スウェーデン人は早い時期からヴァイキング活動に乗り出し、ヨーロッパの海と陸に長大な交易路を切り開き、東地中海との交渉を持つにいたった人びとであって、他のスカンディナヴィア人とは違って、遠隔地交易を選好した人びととしてたち振る舞う。なお、スウェーデンのヴァイキングはヴァランク(ロシア語でヴァリヤーク)と呼ばれた。
 「7世紀頃……スウェーデン人の拠点はストックホルムの北6キロのウプサラにあり、ウプサラ王の血統をひく王が君臨していた。かれらは東方に進出してスラヴ人やラップ人やフィン人と毛皮の交易を行い、ときには略奪遠征をすることもあった」とされる(井上浩一・栗生沢猛夫著『世界の歴史 11 ビザンツとスラヴ』、p.286、中央公論社、1998)。なお、ラップ人という呼び方はフィン人の蔑称とされる。
 8世紀中ごろに、現在のストックホルムに近いメーラレン湖のヘリエーやビルカが出発交易地として、またラトヴィア海岸のグロービンが出先交易地として建設され、北海のゴトランド島を経由して、バルト海東岸との交易や植民が行われるようになる。9世紀前半には、北西ロシアにも進出してラドガ湖に拠点を設け、ヴォルガ川やドニエプル川を利用した交易網に入り込み、9世紀半ばまでに原住民のスラヴ民族を支配下におきながら南下し、ビザンティン帝国の領域にまで交易網を広げる。
 ゴトランド島は、ヴァイキング時代、その地理的位置からスカンディナヴィアのなかで、唯一の中継港であった。その中継交易の相手先は、主としてバルト海に面した地方に限られ、北海までは広がっていなかったとみられる。ゴトランド島からは、スカンディナヴィアで見つかったヴァイキング時代の銀貨20万枚のうち、その約半数(アラブ貨4万枚、ゲルマン貨3.8万枚、アングロ・サクソン貨2.1万枚)が出土している。

ゴトランド島にある青銅器時代の石船
 そればかりか、「9世紀末、リユーリク[?-879]がロシアに入り、ノヴゴロドの支配に成功した。後継者オレグはキエフを掌握し、ドニエプル川、黒海を経由して、ビザンティン帝国の東方やイスラーム世界との交易網を作った。また、907年には8万人の戦士を200隻の船に乗せて[?!]、コンスタンティノポリスに迫った。[911年]ビザンティン側はオレグの要求に応じて通商条約を結び、莫大な貢納金を支払った」とされる(佐藤92前出、p.67-8)。
 なお、彼らの出自やノヴゴロド、キエフの建国との関わりについては、それらが伝承によるため議論があるが、彼らが軍事的な役割を果たしたことは明らかとされ、また10世紀以後、ビザンティン皇帝の親衛隊として勤務したともいう。
 彼らは、スラヴ人やフィン人から毛皮や奴隷を獲得して、ビザンツやアラブに持ち込んだ。それに対して、彼らの交易地ビルカなどでは西ヨーロッパの手工業製品(ガラス、陶器、毛織物、武器など)とともに、アラブのディルハム銀貨、銀製腕輪、ビザンツの絹などが発見されている。
 900年頃、オーラヴというスウェーデン人が南デンマークの交易地ヘゼビュ(現北ドイツのシュレースヴィッヒ近郊、ユトランド半島の地峡)に押し入り、その一帯を930年代まで支配し、また983年にはウプサラのエーリック勝利王が農民軍を率いて帰還するヴァイキング船隊を屠っている(フーリスヴァラナの戦い)。
 スウェーデン人のヴァイキング活動は、他のスカンディナヴィア人と違い、ヴァイキング時代を通して、常に交易的性格を帯びていたといわれるが、最盛期には征服や植民という膨張的な性格も兼ね備えていた。さらに、10世紀に入ると、ヴァイキング集団の討伐と強力な王権の成立との関連がみてとれるようになる。
▼ノルウェー人、地理上の発見者となる▼
 ノルウェー人は航海技能に優れたスカンディナヴィア人とされ、その遠征活動は長期間かつ広範囲に及んだ。何らかの有力豪族が、800年頃オスロ近郊のカウパング(当時、スキーリングスサル)を交易地として建設する。彼らは交易や略奪よりも、渡海が容易で抵抗の少ない島々に、進んで植民した。まず、8世紀にはオークニー諸島やシェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島やヘブリディーズ諸島に植民する。しかし、彼らの活動範囲はスコットランドの北西海岸やアイルランドばかりでなく、西フランス、イベリア半島、南フランス、イタリア半島、そして北アフリカ沿岸にまで及んだ。
 前出の793年に続いて、795年アイリッシュ海のアイオナ島の聖コロンバ修道院を略奪すると、799年にはアイリッシュ海を抜けて、ノワールムーティエ島の修道院を初めて襲う。その島は、すでにみたように塩の生産地であり、イギリス海峡の交易地であった。それへの襲撃はその後数次に及ぶこととなる。これらの略奪がヴァイキング活動の典型として受け取られることとなった。
 9世紀に入ると、アイルランド征服にとりかかり、839年には北アイルランドを征服、ダブリンを建設する。また、スコットランドやイングランド北西部にも入植する。その後、ノルウェー人たちは先住者から追い払われたり、それを再征服したりするが、植民を成功させることができない。860年頃、アイスランドが漂流の産物として発見され、9世紀後半からノルウェーからの植民や、ブリテンからの再植民が起きる。
 このように、ノルウェー人にあってはいちはやく征服と植民の時代に入ったといえるが、それに特化したわけではなかった。9世紀半ばから10世紀初めまで、ヴァイキング活動が猖獗を極めるが、ノルウェー人はその先頭を走っていたといえる。844年にはリスボン、カディス、セビリヤを略奪しているが、859年にはデーン人ともども南フランスのローヌ川流域やナルボンヌ、アルル、ニーム、翌年には北イタリアのピサやルーナ(現ラ・スペツィア)を略奪している。
 ノルウェー人は輝かしい地理上の発見者となる。860年頃アイスランドが発見され、そこに定住していた赤毛のエーリック(10-11世紀?)によって、982年グリーンランドが発見され、植民が行われる。そして、1000年エーリックの息子レイヴ(レイフともいう)がヴィンランド(北アメリカのニューファンドランド)を発見するが、定住には失敗する。1010年ごろ、アイスランドにいたトルフィン・カール・セフニ率いる3隻160人が、レイヴの使った宿営地に入植を試み、先住民と交易するが、やがて対立して撤退したという。
 9世紀後半、ノルウェー南東部にある小国のハーラル美髪王(在位885?-931?)がノルウェーを統一する。その際、彼は反抗する豪族を海外に追放し、海を越えて攻撃したという。そのため、ノルウェー人のアイルランドなどへの植民活動が急速に進む。しかし、彼の死後、ノルウェーの統一は維持されず、デンマークのハーラル青歯王(在位940?-86?)の侵入を許すこととなる。これ以後、スカンディナヴィア三国はお互いが対立、抗争する時代に入り、ヴァイキング活動は終焉に向かっていく。
 ノルウェーの豪族オーラヴ・トリギヴァソン(在位995-999)がノルウェーの王となり、991年ロンドンを攻撃する。これに対して、イングランドのエセルレッド2世(不用意王、在位978-1016)は「デーン・ゲルト」という税を支払うことで、ヴァイキングに退去してもらう。なお、デーン・ゲルトはすでにアルフレッド大王時代の直前から支払われていた。
 さらに、オーラヴは、後述のデンマーク王スヴェン・ハーラルソン(双叉髭王、在位986?-1014)と連合し、94隻の艦隊でもって、994年ロンドンやケントを攻撃する。その彼も、999年スヴォルトの海戦でスヴェン双叉髭王とスウェーデン最古の王オーロフ・シェートコヌング(在位994?-1022?)、反抗自国人の連合艦隊に敗れる。
▼デーン人、西ヨーロッパに深く浸透▼
 デンマークのヴァイキングはデーン人と呼ばれた。彼らは、5-6世紀頃スカンディナビア半島の南部から、ユトランド半島やバルト海の島々に移住してきて、ヴァイキング活動をはじめる。彼らはフリースラント、北フランス、東イングランド、およびバルト海南岸を遠征範囲として活動し、西ヨーロッパの歴史にもっとも重要な影響を与えたスカンディナヴィア人であった。
 ゴドフレドという王(800-10)が、808年にヘゼビュに交易港を建設したとされる。810年には、彼の艦隊がフリースラントを初めて攻撃している。彼はシャルルマーニュ大帝と戦ったとされる。デーン人のヴァイキング活動はその早い時期から王に率いられるという性格を持っていたようである。
 デーン人たちは、863年にフリースラントの交易港ドレスタットを壊滅させるが、それまでに6回にわたって攻撃を繰り返す。835年以後、約30年間にわたって、テムズ川河口やロンドンの略奪を繰り返す。また、845年以後、フランク王国の衰退しはじめていた交易港カントヴィックをはじめ、ルーアンやパリを数次にわたって略奪する。
 865年になると、イングランドに本格的に侵入しはじめ、アングロ・サクソン七王国のうちイースト・アングリア、ノーサンブリア、マーシアなどを征服する。その後150年にわたって、イングランドの地はアングロ・サクソン諸王国とヴァイキングとの抗争の歴史となる。
 このデーン人の怒涛のような勢いを阻止したのが、ウェセックス王アルフレッド大王であった。彼はエランドゥーンの戦いで勝利し、878年デーン人の首長グソルムと講和条約を結ぶ。それにより、イングランドの南西部はウェセックス、北東部はデーン人のもの(デーンロー)となる。
 このデーンローは、後年のノルマンディー公領の成立とともに、先発ゲルマン族が支配してきた領域において、ヴァイキング活動が領土として結実したという、決定的な出来事であった。
 デーン人たちは、イングランドで抵抗に遭遇した反動として、大陸を襲うようになる。セーヌ川下流域は、すでに820年代からデーン人たちが定住しており、9世紀末から10世紀初めにかけてヴァイキング活動の拠点となっていた。885年、デーン人の大軍団がルーアンを占領、セーヌ川を遡ってきて、パリを包囲する。その軍勢は700隻・3万人であった。パリ伯ウード(後の西フランク王、在位888-98)と司教ゴスランは200人の騎兵と多くの市民とともにシテ島に籠城して、866年パリを死守する。
 880年代になるとライン・モーゼル川流域を攻略するようになる。彼らはライン・ヴァイキングと呼ばれ、アーヘン、ケルン、コブレンツなどを略奪する。彼らは決して常勝していたわけでなく、891年には東フランク王アルヌルフ・フォン・ケルンテン(西ローマ皇帝、在位850-99)の遠征軍によって、現ベルギーのルーバン付近で壊滅させられている。
 フランク王国は、デーン人同士を反目させたり、貢納金を支払うなどして、彼らの侵寇をそらしてきた。しかし遂に911年、西フランク王シャルル3世(単純王、在位898-923)は、デーン人たちが中心のセーヌ・ヴァイキングの首長となっていたロロ(860?-933)にセーヌ川河口の地域を、ヴァイキングに対する防衛の盾にしようとして、ノルマンディー公領として譲渡することになる。
 首長ロロはノルウェー人であったとみられ、バルト海へ遠征した帰りに南ノルウェーのヴィーケン=ヴェストフォルで略奪を行っていた。それをハーラル美髪王にとがめられ、ノルウェーの全土から追放され、ヘブリディーズ諸島をへてフランスヘ渡ってきていた。
 10世紀末から、デーン人のイングランド襲撃が再開される。彼らは、王に率いられた大艦隊となって、毎年のように来襲してデーン・ゲルトを取り立てる。1003年以後、デンマーク王スヴェン・ハーラルソン双叉髭王は北ヨーロッパからヴァイキングをかき集めて来襲、1013年にはイングランドをほぼ征服する。彼が急逝したため、息子のクヌート(クヌーズ)が引き継いでイングランド王クヌート1世(在位1016-35)となり、デーン朝を築く。
 クヌートは、1027年ノルウェー王オーラヴ・ハーラルソン(在位1015-28)とスウェーデン王アーヌンド・ヤーコブ(在位?-1050?)の連合艦隊を破る。それにより、彼はイングランドばかりでなく、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン南部、バルト海南岸を支配する「北海帝国」を築き、クヌート大王(デンマーク王在位1018-35、ノルウェー王在位1028-35)と呼ばれこととなる。
 クヌート大王は、スカンディナヴィア人にヴァイキング活動を禁止したとされる。それは彼がヴァイキング活動を一手支配するようになったからに他ならない。しかし、彼が死ぬと「北海帝国」も瓦解して、その分け取りが再開される。
 1066年になって、ヴァイキングとはいえないようなノルマンディー大公ギヨーム(ウィリアム1世、イングランド・ノルマン朝初代の王、在位1066-87)が軍船200隻と小型船をもって、イングランドに進攻してノルマン王朝を築く。この遠征はノルマン・コンクウェストと呼ばれる。
イングランド王クヌート1世
イングランド王ウィリアム1世
ノルマン・コンクウェスト
左:船体の建造、右:船団の出帆
バイユー・タペストリー美術館にある11世紀のタペストリの一部
 これより前の1047年には、西ノルマンディーにいたロベール・ギスカール(1015?-85)が南イタリアとシチリアを侵略する。彼らの子孫が11世紀シチリア王国を建国し、初期十字軍の中核部隊となる。その息子のターラント公ボエモン(1050?-1109)は第1次十字軍に参加して、1098年アンティオキア公国を建国するにいたる。
 これら11世紀のスヴェン、クヌート、ギヨーム、ロベールの活動はもはやヴァイキング活動といったものでなく、王国間の単なる征服活動でしかなくなっていた。それは伝統的なヴァイキング活動の終焉を示すものであった。なお、ヴァイキングと同じように使われるノルマン人は、ノルマンディーに定住したデーン人の子孫を指す言葉である。
▼豪族を基本単位とするヴァイキング活動▼
 ヴァイキング活動は単純な海賊行為でなく、交易、略奪、その流れでの定住、移住、そして征服、その成果としての植民、貢納取立といった、多様な形態に含んでいる。前者は小集団でも果しうるが、後者は大集団でもってするほかはない。相手方への影響は、前者では断続的で狭い範囲にとどまるが、後者では持続的で広い範囲に及ぶ。
 ヴァイキング活動の時代区分は、初期:8世紀後半から9世紀半ばまで、中期:9世紀半から10世紀末まで、末期:11世紀中とされている。その300年間において、いまみた多様な活動形態がおしなべて続けられたわけではない。ヴァイキング時代の区分にしたがって、主たる形態は小集団による交易や略奪から、大集団による征服や植民に移行し、さらにヴァイキング集団間の抗争や新征服地の開拓へと転回してきた。
 熊野聰氏は、ヴァイキング活動の基本単位について「豪族の指揮のもとに、豪族の家人や周辺農民の子弟(通常は独立した農民となる前の若者)を乗組員とした。最小単位は船1隻。実際にも典型的なヴァイキング遠征は1、2隻によってなされた。軍船の大きさはまちまちであるが、のちの海軍にかんする法典規定によれば、スウェーデンでは舵取りを含めて25人、ノルウェー、デンマークでは40-80人の漕ぎ手=戦士であった。
 当初は夏の初めに出発し、北海、北大西洋が嵐となる冬の前に、故郷へ戻った。しかし、しだいに彼らは大きな船団をなし、また出先で集合し、河口島など安全な場所で越冬するようになった。テムズ川のサネット、シェピー両島、ロワール川のノワールムーティエ島などはその有名な例である」としている。それら越冬地は次第に定住地となっていく(以上、同稿「ヴァイキング時代」百瀬宏他編『新版世界各国史21 北欧史』、p.26、28、山川出版社、1998、以下、熊野北欧という)。
 このように、一般的にフィヨルドごとに割拠する豪族や首長たちが従士団や地域農民、あるいはそれらの子弟を引き連れてヴァイキング活動していた。デンマークとスウェーデンでは王や首長のイニシアティヴが強く、ノルウェーでは個別の豪族(豪農)の自立性が強かったとされる。特に、ノルウェーにおいては「8世紀末のノルウェー西部地方は肥沃な土地がほぼ居住しつくされており、土地を求めた新天地への移住欲求や、海上・海外掠奪によって農場経済を補う必要性が強かった」ことと関わりがあったという(熊野北欧前同、p.29)。
 当初のヴァイキング活動には、「多数の軍船を所有して大軍勢を乗り組ませるような首長は存在しなかった。のちに王は100隻以上の軍団を指揮したが、個々の船の指揮はその船の所有者たる豪族がとった」とする(熊野北欧前同、p.36)。ヴァイキング活動は、豪族を基本単位とするものの、次第に首長、そして王が指揮する大集団が編成されるようになる。
 それはヴァイキング活動の形態が交易や略奪から征服や植民に変化したからであろう。その画期を、熊野聰氏は示さないが、すでにみたことからヴァイキング活動が最盛期となった9世紀半ばといえる。その頃、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーに、それぞれ王権が確立するようになる。▼ヴァイキング活動の成果を刈り取る王▼
 ヴァイキングたちは、スカンディナヴィアにおいてところかまわず、海上交易を行っていたわけではない。すでにみたように、彼らは有力な豪族や小王が建設した交易港にほぼ必ず入港して、輸出品を取りそろえ、また輸入品をさばいていたとみられる。
 熊野聰氏によれば、ノルウェー人の商人がアイスランドに来た例ではあるが、「遠い国からやってきた商人は、土地の有力者・王侯を訪ね、恩顧を得、その屋敷・宮廷に滞在を勧められてこれを受け、贈物を贈ってこれを嘉納され、ビジネス関係ではなく人格的関係(「友情」)を結び、こうした人的庇護を受けてはじめて、商用もすますことができるのである。商人は一冬滞在をすることになった屋敷の主人に対して一時的な保護と忠誠の関係に入り、主人は宿と食事の接待だけでなく軍事的保護も与え、他方客となった商人は見返りの軍事的支援を主人に対しておこなう」という関係において成り立っていたという(同著『ヴァイキングの経済学 略奪・贈与・交易』、p.165、山川出版社、2003、以下、熊野経済という)。
 他方、スカンディナヴィアの王がヴァイキングたちを受け入れるのは、角谷英則氏によれば「王が取引・活動の安全を保証する場をしつらえることによって『商人』に保護をあたえ、そのみかえりをうるという合意が両者間にあったと考えられる。王にとっての動機としては、市場管理者であることによる社会的権威などもかんがえられるが、通行税の徴収や、遠隔地交易による奢侈品の優先的入手があげられるだろう。奢侈品は消費のためだけではなく、贈与慣行が人間関係をつくるという社会環境にあっては、王の権威づけ、従士団の維持・扶養には不可避だった」からである(同著『ヴァイキング時代』、p.222、京都大学学術出版会、2006)。
 それら以外に、豪族や王たちは輸入品の値踏みをして、その価格での取引を強制していたともされる。
 スウェーデンでは、それなりに強力な小王がいたが、9世紀前半キリスト教が伝道され、10世紀後半、エーリク勝利王がスウェーデン全域の最初の王とされる。その後、デンマークやノルウェーの王たちは連衡と対立を繰り返す。
 ノルウェーは豪族の割拠が著しかったが、統一王権の成立はむしろ早く、900年頃ハーラル美髪王が領土を統一したとして、ノルウェー王を名乗るようになる。しかし、彼の死後、国内は分裂、その混乱に乗じて、デンマークやスウェーデンの攻勢にさらされる。
 デンマークでは、かなり早い時期か国内の統一が進んでいたとされ、8世紀末にはすでにゴドフレドという強力な王がいた。10世紀後半、ハーラル青歯王のもとで政治的な統合が進み、キリスト教化する。その後、いま上でみたようにスヴェンやクヌートといった侵略と貢納取立をもっぱらとする王を輩出する。
 ハーラル美髪王の出身地オスロ南西部のヴェストフォルには9世紀の古墳群があり、そのいくつかは船に遺体を安置して、それを土で覆う船葬墓がある。熊野聰氏によれば、「その副葬品の多くは外国産で、豪族の地位がヴァイキング的な遠征と交易活動によって支えられ発展したことを示している。王権の成長自体がヴァイキング活動に関係があった」。
 それら王権は、その確立後も、それぞれの地域の自立性が強く、内政上の権力に欠けていおり、その機能は「主として、地域と国の繁栄と戦勝を体現し、宗教上の祭祀機能のほか、対外的軍事指揮権と諸地域・諸豪族間の紛争解決などの調停機能」となっていた。また、財政的にみても「王権は国民の租税にではなく、対外的な掠奪や交易に依存していた」。
 したがって、内政の権力を確立した上で遠征したのではなく、「遠征こそが王権の形成根拠であり、存在理由でもあった」という(以上、熊野北欧前同、p.48-9)。それを象徴するかのように、首長の墓から剣や斧といった戦闘具とともに、秤といった交易具が出土する。
 ハーラル美髪王がノルウェーの統一者となったとき、最初に発した布告は国内でのヴァイキングの禁止であった。それについて、熊野聰氏はヴァイキングたちの「遠征先は北欧の外というわけではかならずしもなく、独立している隣の地域も掠奪対象であった……しかしいまや、かつての独立諸地域が統一されてより大きな政治的団体の諸部分となったからには、部分間でなされるヴァイキング行為は対外遠征ではなくて、『国内』治安を乱す掠奪となった」からだという(同稿「北欧の世界」前出『西欧中世史』上、p.258)。
 しかし、同氏が常に強調してきたように、豪族たちは自立性の強いわけであるから、王の布告に関わりなく、海外はもとより国内においてもヴァイキング活動を続けたはずである。それに対して、ハーラル美髪王は統一王権を、前述、後述のように、有力な豪族を討伐したり、海外に追放したりすることで確立している。統一王権は、自らのヴァイキング活動を通じてばかりでなく、豪族の国内外のヴァイキング活動を統制することで確立したといえる。
 11世紀になると、スカンディナヴィアの統一王権はお互いが強力となった外敵となる。外敵(国内の反抗豪族を含む)に対抗し、また自らの王権を強化するため、レイザング(海軍役)という農民の動員体制が設けられる。
 それは、「外敵の侵入があったとき、王の命令に基づき、『沿岸部と鮭のさかのぼりうるかぎりの内陸部』の農民は、船に乗って集合し、王の指揮下に戦う義務を負った。そのためには、1隻ごとの規格にあった船が建造され、艤装され、修理され、船小屋をつくって格納、維持されねばならず、農民は1隻ずつ『船区』に配属され、その船区の船について板1枚、くぎ1本にいたる[まで]各人の義務が分担されていた」という(以上、熊野聰著『北の農民ヴァイキング』、p.220、平凡社、1983、以下、熊野農民という)。
 このレイザングは、当初は農民の自衛組織であるとともに王が担う国防組織であったが、次第に王の国内統治と海外遠征の組織に転化し、フィヨルドごとの自営農民の自立性は失われてしまう。この軍役も、12、3世紀になると、農産物や漁獲物で支払う租税に切り替わる。
▼ハーラル美髪王、豪族を討伐、交易を独占▼
 13世紀編纂の『アイルランドのサガ』にある「エギルのサガ」(谷口幸男訳『アイルランドのサガ』、新潮社、1979)は、ハーラル美髪王が豪族たちと海上覇権をめぐって抗争していたことを示す、確度の高い史料とされている。なお、この抗争を含め、具体的なヴァイキング活動の概要を知るには、小島敦夫著『海賊列伝 古代・中世ヨーロッパ海賊の光と影』(誠文堂新光社、1985)が手っ取り早い。
 9世紀末、西ノルウェーにソーロールヴという名の豪族の息子がおり、若いうちは毎夏ヴァイキング遠征にでかけ、冬は故郷に帰って父の農場で過ごしていた。ハーラル美髪王(在位872?-930?)が、ノルウェー統一を目指すと、その従士となる。
 彼は死んだ戦友の財産を継承して、北ノルウェーの大豪族となって、人並み外れた多数の家人・従士団を抱え、ノルウェー北東方のフィン人(通称ラップ人)との交易で富を得、多くの友人を招く宴会を開くなどして、豪勢な暮らしぶりを誇示するまでになる。それが王の疑惑を招き、中傷する者もあって、王は彼に与えていた交易特権と農場財産の一部を没収する。
 ソーロールヴは従士の数を減らすことを望まず、それらを扶養する収入を求めて交易と略奪を繰り返し、王と衝突し、破滅するという物語である。
 ソーロールヴは、王と不和になると商船を仕立て、フィンやイングランドと交易するようになる。その交易品はコラム通りである。これらの品は、客を迎えての宴や、従士団扶養のために必要であった。小麦のパンはノルウェーでは上層の奢侈的な食べ物であり、ブドウ酒も上層の飲み物である。衣服もファッション性の高いものであった。
ソーロールヴのイングランドとの交易品
 ソーロールヴは大船をもっていた。これは海洋を航行するのに適していた。それは、この上なくよく艤装され、吃水線より上は多彩に描かれていた。それには青と赤の縞のついた帆がついていた。船の索具もすべて素晴らしく整えられた。
 この船にソーロールヴは出帆の支度をさせ、下僕を同乗させ、干魚や動物の皮や、おこじょの毛皮を積み込ませた。また、山岳地方で手に入れた多くの灰色の毛皮や、その他の毛皮類をも積み込ませた。それは厖大な富であった。
 ソーロールヴは、この船を金切声のゾルギルス[腹心]にまかせ、西のイングランドへ、必要な衣類や他の商品を買うためにつかわした。彼らは、初め海岸沿いに南へ向い、それから大洋に乗り出してイングランドに着き、良い取引をして、小麦、蜂蜜、葡萄酒、衣類を船に積み込み、秋に帰国した。
出所:谷口幸男訳『アイルランドのサガ』、p.26、新潮社、1979
 この交易に、ソーロールヴの敵対者は輸出品のうち主要なものはソーロールヴが王のものとなるべきものを横領したのであるから、ハーラル美髪王がこの船の積み荷を奪うことは正当であると告げ口して、王に彼の船をイングランドから帰ってきたところを差し押さえさせる。
 それに対抗して、彼は王の農場管理人の船を積み荷ごと奪って、王に対する公然たる敵対に踏み切る。さらに、スウェーデン南西海岸沿いに北上し、イェータ川をさかのぼり、彼の船を奪った王の家臣の農場を襲い、屋敷を焼き、人を殺傷し、財産を奪う。この後、王の親征にあって、ソーロールヴは従士たちとともに討ち死にする。
 熊野聰氏は、彼に「破局が訪れたのは、直接には、王の臣下に対する軍事的敵対行動にまで踏み出したからであるが、もとをたどれば農場経営上の必要を超えた従士団を抱えて交易と遠征をなし、従士たちおよび地域有力者たちへのふんだんな饗宴と贈物によって、『気前のよい』大物として暮らす生活スタイルこそが原因である」とみなす(以上、熊野経済前同、p.46の要約による)。
 また、「オウッタルやソーロールヴの行った対ラップ人への貢租要求や毛皮交易は、はじめから王権の関心を示すところであり、11世紀はじめ以来しだいに王の独占物となる。北ノルウェー豪族は、これに抵抗した」としている(熊野農民前同、p.97)。豪族にとって、王に主要な輸出品を独占されてしまえば、海外との交易が王に独占されたに等しくなる。
 総じて、スカンディナヴィアにおいて統一王権が成立すると、王は自らの立場を維持するため、豪族たちのヴァイキング活動を禁止しないまでも、自らが大規模なヴァイキング活動を組織したり、また豪族たちのヴァイキング活動を統制したりして、それを独占するようになったとみられる。10世紀後半からは、スカンディナヴィアの国々は相互対立抗争の時代に入る。ヴァイキング活動が国単位になると、他国の勢力から身を守るためには、豪族たちも次第に王の統率に服さざるをえなくなったとみられる。
 スカンディナヴィア諸国に統一王権が成立するようになると、従来の交易地であったビルカは970年頃、カウパングは900年頃、ヘゼビュは11世紀半ば(ノルウェー王ハーラル苛烈王(在位1046-66)に破壊され)、その役割を終える。それに対して、デンマークのエーリク勝利王は970年代ヘゼビュの対岸に、現在に至るシュレースヴィッヒを建設する。スウェーデンでは、ビルカと同じメーラレン湖北岸にシグトゥーナが建設され、ストックホルムに引き継がれる。ノルウェーでは、11世紀以後トロンハイムやオスロといった現在に至る中世都市が形成される。
▼ヴァイキング船のかたち、その略奪・交易品▼
 ヴァイキング活動に用いられた船は海川両用の軽量な平底船で、戦闘用のロングシップと交易用のクノル(クナールともいう)とがあった。それらの一般的な特徴は、船首・船尾は同型で、波切りをよくするためそり上がっていた。船体には竜骨が敷かれ、外板は木製や鉄製の鋲や釘で鎧張り(クリンカービルト)されていた。上甲板はなく、浅底であった。船尾右舷(スターボート)には舷側舵が取り付けられていた。ヴァイキング船には多くの図版があるが、ここで貨物を積んだクノルを示す。
 ロングシップは櫂(オール)で漕
ぐことが原則であったが、組み立て
式のマストを持っており、それにウ
ールまたはリンネルの四角帆が張
れるようになっていた。
 著名なロングシップは華麗なオ
ーセベル船である。この船は、
1903年ノルウェーのオスロ・フィヨ
ルド近郊の船葬墓から発見され
た。その埋葬時期は9世紀半ばで
ある。オーク材でできた船首材だ
けが残っていた。船の長さ21.5メート
ル、幅5メートル、深さ1.6メートルで、片
舷15のオール用の穴があいてい
た。この船は頑丈にはできておら
ず、儀式船か沿岸船とみられてい
る。船のなかから、タラップ(渡り
板)、あか取り用バケツ、マスト、
舵、舵取りオール、錨、15対のオ
ールが見つかった。
 1880年に、同じオスロ・フィヨルド
近郊で、ゴクスタ船が発見されて
いる。その埋葬時期は10世紀末で
ある。船の長さ23.2メートル、幅5.2メー
トル、深さ1.95メートルであり、中心の
竜骨は少なくとも高さが25メートル以
上のオークから切り出した一枚板
であった。
貨物を積んだクノル
出所:熊野聰著『北の農民ヴァイキング』、p.63、平凡社、1983
 なお、伝承と中世の法典から、ノルウェーの標準的なロングシップの座席数はオーセベル船の15座席ではなく、20座席船であった。その1座席に最低2人、さらに2人を加えて漕ぐことができたので、標準型の船には40-80人の漕ぎ手を乗せることができ、総勢100人ほどを収容していたとみられる。
 1962年、デンマークのシェラン島ロスキレ・フィヨルドから、11世紀に建造された5隻の船が出土した。これらの船は、クノル1隻、ロングシップ2隻、小型帆船1隻、瀬渡し舟1隻で構成され、スカルデレフ沈没船とも呼ばれている。それらの船は、湾の一部を封鎖することで、敵の侵入を防ぐごうとして、沈められたとされる。
 ロウと呼ばれる交易船クノルは、長さは13.8メートル、幅は3.3メートルで、深さ2.2メートル、吃水0.9メートルで、5トンの荷物を積むことができた。積み荷は船の中央に置かれ、雨に濡れないよう動物の皮をかぶせていた。この船の漕ぎ手は幅の狭さから4-6人にとどまった。通常は帆走した。順風のときは平均4ノット(時速7.5キロメートル)で走り、最高速度は8ノット(時速15キロメートル)に達したとされる。
 ヴァイキングが行った交易とそれを担った商人たちの記録は多くない。そのなかにあって、すでにみたハーラル美髪王に刃向かったソーロールヴや、次の北ノルウェーに住むオウッタルという豪族は遠隔地交易人の典型とされている。彼らはいずれも9世紀末というヴァイキング時代の中・後期の端境期にいた人物である。
 このオウッタルが、主君として仰ぐウェセックス王アルフレッドに自らの生業について物語した、「オウッタルの口述」は『アングロ・サクソン年代記』に納められている。そのなかで、(1)彼が住むノルウェーのハルゴランドから、北上して白海まで、(2)南下して、1か月でスキーリングスサルまで、(3)スキーリンゲスサルから多分、南西に進んでアイルランド、そしてイングランドまで、そして(4)スキーリングスサルから5日でヘゼビュまでの航路をたどったとし、彼の遠征範囲を示している。その内容はそれ以上でも以下でもない。
 彼はラップ人から、税として獣皮や鳥の羽毛、鯨骨、鯨やアザラシの皮で作ったロープなどを受け取っている。これら年貢物に、白海で仕入れたセイウチの牙などを加えて、毎年デンマークの交易都市へゼビュに持ち込み、西ヨーロッパからきた交易商人たちと交易したという。これら以外に、スカンディナヴィア産の輸出品として、鉄製品や木材、セッケン石(滑石の一種、加工しやすい)などがあった。
 それに対して、彼を含むヴァイキングたちが交易で獲得した品物は、「遠隔地の珍しい品物を入手して豪族としての権威を高めることと、故郷の農場では不
ルイス島のチェス駒
ヴァイキングの持ち物とされる
1113-75
大英博物館他蔵
足する生活必要物資の調達」という目的にしたがって、「金銀の装飾品、銀貨(とくにイスラム銀貨)、ビザンツの絹、西欧のブドウ酒など奢侈商品・威信財」、そしてサガなどの伝承にみる小麦粉や麦芽、家畜などであった。
 さらに重要なことは、「ヴァイキングは侵入先で人々を捕え、奴隷とした。捕虜=奴隷の一部は身代金とひきかえに解放されたが、多くはイスラム世界などへ奴隷として再輸出された。北欧社会自体にも、掠奪供給のあったこの時代にはとくに多くの奴隷がいたと思われる」ということである(以上、熊野北欧前同、p.28)。
 スウェーデン人が獲得したスラヴ奴隷の一部は、フランク人やユダヤ人の商人を介して、ヘゼビュを経由して陸路マルセイユまで南下し、スペインやアフリカのアラブ人に手渡された。また、デンマーク人やノルウェー人は、アイルランドで奴隷を捉えたが、彼らがキリスト教徒であったので輸出ができず、自家用の農耕奴隷として使用したという。
▼ヴァイキングの基本形態は略奪にある▼
 ヴァイキングの歴史とその意義については、ヨーロッパ史の研究者を含め、平板に取り上げられてきた。ヴァイキング活動は、それを専業とする特定の人びとによって担われたわけではなく、北ヨーロッパのフィヨルドに住む半農半漁民の生業の一つとして行われた。近年、略奪よりも交易が注目されてきたが、その実態はそれほど明らかではない。
 『アイルランドのサガ』はノルウェー・ヴァイキングたちの英雄伝説である。そこには、ヴァイキングとなって富も蓄え、最終的には農場主になるという、成功譚に彩られている。その1つである「バンダマンナ・サガ」(菅原邦城他訳『アイルランドのサガ 中編集』、東海大学出版会、2001所収)の主人公オッドは農民の子から、漁民、商人の生活を経て致富し、農民的豪族となる。
 彼は北アイスランドの農民の息子だった。父と仲が良くなく、12歳のとき、漁網、漁具と12エルの毛織布(アイスランドの家庭で織られるホームスパン、アイスランドの主要輸出品のひとつ、また島内の貨幣商品のひとつ)を持って家出をし、漁場へ出かけ、そこで働く人々の仲間となる。
 彼は非常に運がよく、いつも大漁であった。彼らの交易者、ヴァイキング、あるいは漁民にとって、その運命は幸運に恵まれるかどうかであった。はじめは信用で借りた資金で漁をしていたのが、3年のあいだに借りをすべて返してなお、立派な商品が残るようになった。
 彼は北西部に品物の輸送をするようになり、大きな船の一部の権利を買い、北部から木材と鯨と魚を運んだ。しばらくして彼は船全体の所有者となる。ついには、彼は外国へ行く商船を1人で1隻所有し、積荷の大部分も自分のものとするようになり、外国へ干魚を輸出した。
 こうして交易でたいへん豊かになったのち、友人たちのすすめもあって北アイスランドに土地を買い、屋敷を建て、農民となる。オッドは豪族になったのちにも1度、外国へ交易旅行に出かけている(以上、熊野農民前同、p.96要約による)。
 ここでは、きわめて平和的な漁業や交易にほぼもっぱら携わることで成功したヴァイキングのライフスタイルが描かれている。それは、近代日本の機帆船海運において、雇われ船員から身を起こし、「もあい」によって一杯船主になり、次第に大型船を所有するようになる(太くなる)という、成功譚を彷彿とさせる。しかし、成功譚のモデルであって、それ以上ものでない。なお、近代日本の機帆船の一杯船主については、Webページ【戦前の機帆船海運の研究】を参照されたい。
 熊野聰氏は、ヴァイキングを交易者と評価していながら、彼らはあくまでも個人的土地所有者、農民なのであって、「自分の農場で生産されないものは他の農民との交換により、自国で生産されないものは交易により、また必要ならば掠奪によって[手に入れる]。この観点からは、交易もヴァイキング行為も、農民の補充経済の追求なのである」といってやまない(熊野農民前同、p.84)。この補充経済とは、農民の出稼ぎという意味のようであるが、「ないものを手に入れる」ことを出稼ぎとはいわない。
 スカンディナヴィア人を、ヴァイキング活動に押し出す要因について、あれこれと取り上げられてきた。その活動が、出身地ではえられない「もの、ひと、とち」を、出身地の外に出向いて獲得しようとする行為であることは、明らかである。ヴァイキングにあっては、取引を望まない相手に交換品を押しつけて、欲しいものを手に入れという略奪―彼らにとっては交易であっても、相手にとっては略奪となる―を行ってきた。
 要するに、ヴァイキングたちは、「もの、ひと、とち」の獲得にあたって、相手の合意がえられればともかく、それがえられないとなれば暴力でもって獲得した。それは買付け交易における見返る商品の不足あるいは欠如に基づいている。こうした点からヴァイキング活動の基本形態は略奪にあるといえる。それは300年のヴァイキング時代を通じて一貫して行われてきた。
 したがって、彼らをしてまずもっ
てヴァイキング活動に押し出す
要因は、出身地では必要品が
生産されていないがためにあっ
た。それは主として資源の欠如
や手工芸生産の未発達に基づ
こう。それら必要品は、一般的
に必要な生活必需品や余裕生
活財にとどまらず、時代が下が
るにつれて、豪族や王らが自ら
の地位を維持するための、高級
な工芸品や贅沢品などといった
威信財が求められることとなっ
た。その場合、威信財や奢侈品
の獲得欲には際限はない。
ヴァイキング時代のビルカの町のモデル
スウェーデン歴史博物館(ストックホルム)蔵、
 この押し出し要因は、9世紀半ばまでの小集団による交易や略奪の時代において、積極的にいえることである。それ以後の大集団による征服や植民、対立と抗争の時代にあっては、次に述べる耕地不足とそれに伴う人口圧のもとで、スカンディナヴィアの王たちの領土支配、植民、貢納取立といった征服欲が、主たる要因となっていったとみられる。
▼ヴァイキングたちのキリスト教文化への同化▼
 山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルドに平地は少なく、海上に乗り出すしかなかった。それに比べ、スウェーデンは平坦地があったが、それは限られ、肥沃ではなかった。北はツンドラ地帯だった。それに対して、デンマークでは広い平坦地はあったが、砂地で耕地としては狭かった。そして、いずれの地においても寒冷な気候のため、土地の生産性は全体として低く、冷害を免れえなかった。
 この可耕農地が狭隘なもとで、それが兄弟分割相続されたので、常に農地の不足にさらされていた。彼らの出生率の上昇が農漁業の生産性の向上を上回れば、人口圧の高まりは避けられない。それを、地域内における耕地の新規開拓で抑えきれなくなれば、スカンディナヴィア地域の外に向けて解放するしかない。それは移住あるいは植民を呼び起こさざるをえない
 11世紀末になると、ヴァイキング活動も失速してしまう。それについても様々な要因が上げられよう。一方では、ヴァイキング活動を押し出してきた生活必需品が自給されるようになった。他方では、ヴァイキング活動は主として王たちの征服欲を満たそうとするもとで、その遠征規模は大きくなるがその回数は激減していったことがあげられよう。
 ヴァイキングたちがキリスト教地域と直接接触してきたことに加え、スカンディナヴィアにおいても宣教師の布教活動があくことなく続けられ、ヨーロッパの文化が不断に流入した。それにより、国王を始め多くのヴァイキングはキリスト教とその文化に抵抗せずに、むしろ積極的に同化していった。フランスにノルマンディー公国が築かれ、そしてイングランドにデーン朝が成立したが、それ以上拡張することなく、彼らは総体として西ヨーロッパのなかに取り込まれていった。
 ヴァイキング活動はゲルマン族の第2次の民族移動といわれる。それは民族や故地を同じくしているからではなく、その活動がゲルマン族の第1次の民族移動の末期からはじまり、その目的が略奪や交易に終わらず、征服と植民が行われてきたからである。ただ、その場合、ヴァイキングとなったスカンディナヴィア人は遅れてきたゲルマン族であって、すでに先住者となっている先発ゲルマン族にとっては略奪者、侵略者にすぎず、それが歓迎されるわけはなかった。
 西ヨーロッパは、300年に-わたってヴァイキングの略奪と殺戮に翻弄され続けたが、それは彼らの機動力と集中力もさることながら、それを迎え撃つ西ヨーロッパが領邦制によって仕切られ、それを反撃する体制が整っていなかったであろう。しかし、9世紀末にはウェセックス王アルフレッド大王やパリ伯ウード(在位888-98)、東フランク王アルヌルフ・フォン・ケルンテン(在位887-99)などは、ヴァイキングの活動を掣肘するようになる。11世紀、ヨーロッパ諸国では王権がいままでになく強化される。それにつれて艦隊が建造されるなど、ヴァイキングヘの防御態勢が整えられていった。
 そこで重要な要因として、ヴァイキング活動に打って出てくるヴァイキングの人数や、定住・移住してくるヴァイキングの人数が、それほど多くなかったことが上げられる。しかも、それらが分散して結束力の勢力とはなりえず、また政治的な知識や経験が不足していた。そのため、少人数で支配できる先住者の限度を上回れば、それを統制できず、それに飲み込まれたであろうし、すでに長い歴史を持ち、民度の高い先住者を支配することは、それほど容易ではなかった。
 ヴァイキングたちはその基本的に農民であるという性格から、耕地を求めて移住してきたので、それを獲得してしまえば、現地に同化することは自然成り行きとなり、その往年の活力も次第に失われてしまった。そのため、ヴァイキングの影響は西ヨーロッパに断続的で長くは残らず、ヴァイキングの遺産として目立ったものがない。また、スカンディナヴィアの国々も中世キリスト教社会に取り込まれ、北方の辺境国へと徐々に変わっていった。
▼若干のまとめ▼
 中世初期の西ヨーロッパは、前半においてゲルマン民族の移動によって社会構成を組み立て、後半においてヴァイキングの衝撃を受け止めながら、西ヨーロッパという世界として自立していった。この時期は、伝統的には大商業あるいは遠隔地交易は不振であったとされてきたが、最近ではその前半から地中海交易に匹敵するような北西ヨーロッパ交易が形成されていたとされる。
 その場合、西ヨーロッパの個別領域の国内交易はともかく、海上交易としての北西ヨーロッパ交易の実態が十分に解明されてきたとはいえない。ヴァイキングの主たる活動範囲はイギリス海峡や北海、バルト海である。それは北西ヨーロッパ交易圏にほかならないが、ヴァイキングあるいはヴァイキング活動が北西ヨーロッパ交易に、いつから、どのように関与してきたかについては、十分に整理されてきたとはいえない。
 ヴァイキング時代は8世紀後半からはじまるとされるが、ヴァイキングは海上交易を死活の生業としていてので、それ以前から北西ヨーロッパ交易に乗り込んできていた。8世紀後半からヴァイキング時代になるのは、西ヨーロッパの経済力が高まり、彼らとの生活ギャップが大きく広がり、彼らの獲得欲を著しく高めたためであろう。
 それに対して、西ヨーロッパ人が海上交易人として活躍した事跡は、きわめて乏しい。それが事実とすれば、中世初期の西ヨーロッパ世界における海上交易の担い手はあげてヴァイキングたちであったことになるが、彼らがそのように評価されてはいない。それは主として出身地と西ヨーロッパとの交易に限られた担い手に過ぎなかったからであろう。
 ヴァイキングと西ヨーロッパとの交易は、前者からはわずかな種類の贅沢品と安価な日常生活品が持ち込まれ、逆に後者からは様々な威信財や奢侈品、余裕生活品が持ち出された。そのためヴァイキングは西ヨーロッパに対して常に「支払不足」であった。その不足をおぎなったのが略奪であった。北西ヨーロッパ交易の勃興といわれるが、特にヴァイキングとの交易については、彼らの自然の生産性に依存した狩猟に制約されていた。
 ヴァイキングにとって、西ヨーロッパとの交易は生存条件ではあったが、西ヨーロッパはそうではなかったので、彼らとの交易を拡大させる誘因はなかった。したがって、北西ヨーロッパ交易の構成としては、ヴァイキングとの「遠距離」交易はきわめて小さなものであり、西ヨーロッパの相互間における中距離交易がほとんどであった。ただ、それらの交易品は重量のある生活必需品や余裕生活品が多かったので、その交易規模は見かけ大きかった。
 それでは、西ヨーロッパは伝統的な威信財や奢侈品を獲得することができないので、南ヨーロッパや東ヨーロッパとの交易を続けていた。しかし、ここでもヴァイキングが西ヨーロッパに対したように、それら地中海商品や東方商品と交易するに耐えるだけの商品を、西ヨーロッパは十分に用意できなかった。したがって、西ヨーロッパの遠隔地交易の規模はこれまた小さく、中世初期、西ヨーロッパの大商業あるいは遠隔地交易は不振であったのである。
 中世初期の後半は、カロリング朝の時代であるとともに、ヴァイキング時代でもあった。その衝撃は図りがたいものがあったとされるが、ヴァイキング活動の北西ヨーロッパ交易への関与や影響については十分に解明されてきたとはいいがたい。例えば、ヴァイキング活動が北西ヨーロッパ交易を拡大させたのか、停滞させたのかさえも、明らかでない。
 ただ、それはさしあたって、ヴァイキング活動の結果、ヨーロッパに北西ヨーロッパ交易という一つの大きな交易圏が形成され、さらにイギリス海峡を介して北の北海やバルト海と南の地中海を結びつける航路が切り開かれ、「商業の復活」を準備したということである。さらにいえば、北西ヨーロッパ交易は、ヴァイキングが海上交易路を切り開いたことではじまり、ヴァイキング活動を通じて成長し、それが終焉した後で本格的に展開されることとなった。
 ヴァイキングの影響が大きかったイングランドにおいては、「彼らは、サクソン人が内地の農場に落着くうちに失ってしまった航海の習慣をブリテン島に復活させたし、ローマ人が去って以来、初めてイングランドに活気ある都市生活が復活したのは、彼らの功績であった。9世紀の大災厄によって、スカンディナヴィア人の血がわが民族に注入されるということがなかったら、後日イギリスの海運・貿易企業の評判は、これほど高くはならなかったであろう」という(G.M.トレヴェリアン著、大野真弓監訳『イギリス史1』、p.67、みすず書房、1973)。
 さらに、「3世紀にわたるヴァイキング時代は、中世北欧の大航海時代であった。今日のイギリスやオランダ、北欧諸国が海洋国として存在する源泉を見る思いがする……その北欧海洋民の血は、イギリス、フランス、ギリシア、イタリアなど、ヨーロッパの海の伝統の中に溶け込んで脈々と生き続けている」(小島前同、p.198)。
 そこで見落とされてはならないことは、ヴァイキングが海上武装集団として海を渡って他国に遠征して、財宝・資源を略奪し、また領土を侵略し、植民してきたという膨張経験が、ヨーロッパ人のこころに植え付けられたことであった。その積極的な現れとして、まずヴァイキング時代が終わるとヴァイキング後継者が主力になって十字軍運動が引き起こされ、さらに後年においてイングランドをはじめヨーロッパが挙げて侵略と略奪の「大航海時代」にのめり込むこととなる。
(2006/10/30記)

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