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続 3・1・1 スペイン、その破壊と略奪の交易
(Sequel) 3.1.1 Spain, the Trade of its Destruction and Looting

3・1・1・2 太陽の沈まぬ帝国とその凋落
3.1.1.2 The Sunless Empire and its Decline

▼コンキスタという官許民営事業▼
 アメリカ大陸におけるコンキスタ(征服)という新事業は、レコンキスタの政治的・宗教的延長であって、プエルト・リコが征服された1506年にはじまり、フェリペ2世が発見入植新法令を制定した1573年におわる。それにより、スペインの海外領土は、コロンブスに続いて様々な発見者・征服者たちが、香辛料、真珠、貴金属を追い求めて遠征したことで、50年たらずで南アメリカ大陸と中央アメリカ、フロリダ半島、キューバ、フィリピンに拡がった。
 ポルトガル人やイギリス人、フランス人、オランダ人も、アメリカやアフリカ、アジアの土地を占拠し、兵士や要塞を配置し、スペイン人と同じように戦い、征服活動を行った。しかし、彼らがコンキスタドール(征服者)と呼ばれることはない。それはスペイン人に限られた言葉である。彼らは後発者としての利益をえるだけで、コンキスタドールのラベルを貼られることはなかった。
 コンキスタ(征服)という遠征事業は、コンキスタドールがスペイン国王と「カピトゥラシオン」と呼ばれた、征服と植民を請け負うとした征服契約を結ぶことで行われた。その仕組みは単純であったとされ、「それまでだれにも譲渡されていない、土地を占拠する企画を個人が王室に申し出て、必要な経済資源(船舶、食料、武器)ならびに人的資源を整え、事業を組織する。
 いっぽう、国家は事業とその成り行きを監視して、その事業を通して領土を得、採れた鉱石や真珠のうち一定割合[おおむね5分の1]を獲得する。また、国家は首尾よく征服に成功した者には称号、特権、土地、公職を与えるいっぽうで、征服事業が失敗におわった場合でも、不遇のコンキスタドールやその遺族の生活の面倒をみた」という(フランシスコ・デ・ソラーノ稿、篠原愛人訳「スペイン人コンキスタドール―その特徴」関・立石編訳前同、p.240)。
 1519-21年エルナン・コルテスがメキシコのアステカ帝国を滅ぼし、1531-33年フランスコ・ピサロ(1478?-1541)がペルーのインカ帝国を征服する。これら遠征はコンキスタドールたちの面目躍如たらしめた。なお、コンキスタという遠征事業は事業遂行を、別人に委任することが認められていた。エルナン・コルテスの場合がそれで、彼はその立場を逸脱して独善的な行動に及んだため、王室から譴責される。
 16世紀のコンキスタドールと入植・定住者は約24-25万人、17世紀の渡航者は40万人に及んだ。1493年から1600年までにアメリカに着いた入植者55000人についての研究では、セビーリャのあるアンダルシアが40、エストレマドゥーラが17、その他カスティーリャが29パーセント人となっている。なお、スペインの後進地域とされるエストレマドゥーラ地方は、コンキスタドールの出身地として有名である。
 ピエール・ヴィラール氏は、カスティーリヤ人が果たした役割を問い、次のように述べている。「経済的理由によって地理上の発見を支援した人々は、ジェノヴァ人、フランドル人、ユダヤ人、そしてフェルナンド王の側近のアラゴン人などであった。だが、新大陸征服の事業を独占したのは、エストゥレマドゥーラの郷士(イタルゴ)、メスタの牧羊業者、セビーリャの役人などであった。利潤は資本主義的な意味での『投資』には使われなかった。幸運に恵まれた移住者たちは、土地を買い、『城』を建て、財産を貯えることを夢みた」(同著、藤田一成訳『スペイン史』、p.52、文庫クセジュ、1992)。
 アメリカ大陸統治のために、1524年にインディアスの司法、行政、教会に関して最高の権限を有するインディアス会議が本国に設けられ、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ〉とペルーに副王が任命され、司法行政機関としてアウディエンシア(聴訴院)がおかれ、都市には市参事会が設けられる。
▼金銀の採掘、輸入高は17世紀初めにピーク▼
 16世紀初めから17世紀中頃まで、スペインが世界史のなかで中心的な役割を果たしたとされ、シグロ・デ・オロ(黄金世紀ないしは黄金時代)と呼ばれる。インディアスからは、タバコ、砂糖、コチニール、皮革、インディゴ(藍)などの特産物がもたらされたが、なかでも重要なのは貴金属であった。1503年から1660年にかけて、インディアスからスペインに金が181トン、銀が1万7千トンが渡ったとされる。1492年アメリカ「発見」当時、ヨーロッパ全土では金が90トン、銀が3200トンしか流通していなかったという。この貴金属の短期間での大量流入が後述の「価格革命」を引き起こす要因となった。
 アメリカ大陸からの金銀は、まずは先住民であるインディオから財宝を略奪することにあった。例えば、ピサロが奪ったインカの貴金属は銀換算で14トン、中央ヨーロッパの年間産出量の14パーセントにも相当した。その財宝があらかた略奪されると、その次は金銀鉱脈を探査して、インディオを駆り立て、それを採掘することになった。当初は金がほとんどであったが、1545年現ボリビアのアンデス高原のポトシ、1546-48年メキシコのサカテカスとグアナフアトに、豊富な銀鉱山が発見されると、銀の比重が高まる。
 スペイン王室は鉱山の開発を民間人に委ね、地下資源所有者として採掘者から精製された銀の5分の1(エル・キント・レアル)を課税していた。それ以外に、造幣手数料や精錬用の水銀の収益などを手にしたが、それらの額は採掘された銀の2パーセントぐらいであった。それら以外の銀は民間のものとなった。
 メキシコ産はベラクルス港、ペルー産はパナマ地峡のポルトベロ港(1584年から同じくノンブレ・デ・ディオス港)で船積みされた。それが終わると、現地の財務官は貴金属の種類と数量、受取人の氏名などを記載した送り状を発行した。インディアスから帰国するものも、同様に申告しなければならなかった。
 インディアスからの貴金属の年間輸入高は別表の通りである。一部資料が欠落しているが、産出高は16世紀後半著しく増加し、1580年代110百万ペソとなり、1610年代までその水準を維持する。しかし、その後減少しはじめるが、80-100百万ペソを維持する。なお、密輸は10パーセンを下らなかったとされる。
インディアスからの貴金属の年間平均輸入高
(単位:百万ペソ、1ペソ=450マラベディ)
スペイン
ヨーロッパ
1503-10  1.2
1531-40  5.6
1581-91  53.2
1601-10  55.8
1631-40  33.4
1651-60  10.6
1670-79  11.7


1580-89  55.2
1600-09  64.8

1650-59  54.6
1670-79 103.5
1690-99  88.3
出所:立石博高編『新版世界各国史
16 スペイン・ポルトガル史』、p.160、山
川出版社、2000、一部省略。

 貴金属の輸出先はスペイン向けとヨーロッパ諸国向けに分かれるが、1620年代まではほぼ同等量を受けて取っていたが、それ以後はインディアスの支配者であるスペインの量が極端に減少して10パーセントとなり、そのほとんどがヨーロッパに持ち込まれたことになっている。
 1503-1660年間の貴金属のスペイン向け輸出量は537百万ペソであるが、そのうち王室向け140百万ペソ(26パーセント)、個人向け396百万ペソ(74パーセント)という構成であった。そして、王室向けの構成比率は、1610年代後半から、著しく低下するところとなっている(J.H.エリオット著、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡 1469-1716』、p.202、岩波書店、1982)。
 個人向けの貴金属は、インディアスに供給された交易品の支払に充てるため、セビーリャの商人に送られてきたものがほとんどであったが、それ以外に帰国者が持ち帰る資産やスペインに住む家族などへの送金、インディアスで死亡したスペイン人の遺産などであった。
 スペイン王室は、戦争と傭兵、皇帝の巡幸、宮廷生活、威信の誇示などの費用をまかなうため、巨額に資金を調達しなければならなかった。スペイン王室は、王室費用が急に必要になると、個人向けの貴金属を港頭で徴発した。カルロス1世は8回487万ペソ、フェリペ2世は9回804万ペソ以上を徴発している。そのため商人たちはあれこれと自衛策をとった。
 さらに、スペイン王室はインディアスからの収入を担保にして、フッガー、ウェルゼル、シャッツ、スピノラといった銀行家から金を借りていた。彼らから、1539年には100万ドゥカード、1551年には680万ドゥカードの金を借りた。1550年には、数年にわたって、アメリカからの収入をあてにできない事態が生じると、利子は暴騰した。
 黄金でおおわれていると思われていたスペインの王室は、資金が枯渇して身動きがとれなくなり、はやくも1557年に破産する。それは、フェリペ2世が地中海でオスマン・トルコと対峙し、同時にネーデルラントの反乱を鎮圧するため、多額の費用をかけた結果であった。
 「王室が手にいれるアメリカ銀は、盛時で国庫収入の5分の1にすぎなかった。しかし、対外戦争を進めるフェリペ2世にとって、これはカスティーリャ国内からの収入とならぶきわめて重要な収入源であった。この時代、国家の対外政策遂行能力は王権の戦費調達能力と直接にかかわっていた。スペイン王権は広大な帝国の各地に軍隊を駐屯させ、必要に応じて資金を調達しなければならなかったが、毎年セビーリャに着荷する正金としてのアメリカ銀は、国際金融業者からの資金借受けの信用として機能したのである」(立石前同、p.159-60)。
▼先住民と奴隷の血がしたたる「黄金時代」▼
 金銀採掘には、先住民インディオが使用された。スペイン王室は、1503年植民者に先住民インディオの保護と布教を条件にして、彼らに対する賦役と貢納を認めるという、エンコミエンダ(委任)と呼ばれる欺瞞的な制度を定める。
 ラス・カサス(1484-1566)ら聖職者たちは、植民者による先住民の酷使と大量死に恐れをなし、彼らの保護を執拗に訴える。1542年、それらを防止するためインディアス新法が定められるが、エンコミエンダ所有者が反乱を起こすと、王室はそれを撤回する。このラス・カサスも、先住民に代わる労働力として、奴隷の導入を提案する。しかし、黒人奴隷は銀鉱採掘にはほとんど使用されず、それを担ったのはほぼもっぱらインディオたちであった。
 1555年、メキシコで水銀アマルガム法という、精錬法が発明される。それが、1572年ポトシ銀山に導入され、その後の20年間に7倍もの銀が産出されるようになる。しかし、それに対応する鉱山労働力の確保は困難を極めていた。それを解決するため、翌1573年採用されたのが、指定された地域に住むインディオを順番に低賃金でもって使い回しするシステムであった。
 この輪番制強制労働システムは「ミタ」と呼ばれたが、インカ時代の賦役制を利用したものであった。そうしたシステムは、当然インディオの反発を受け、また非難にさらされるが、250年間も維持される。それは1819年になってシモン・ボリーバル(1783-1830、ラテンアメリカ独立運動の指導者)によって廃止される。
 青木康征著『南米ポトシ銀山 スペイン帝国を支えた打出の小槌』(中公新書、2000)はミタ労働を詳述している。
 インディオの人口は酷使と(主として)疾病によって激減する。他方、サトウキビ栽培や牧畜、家事のため、労働力需要が増加する。それに応えるため、カソリック両王ははやくも1501年にエスパニョーラ島に黒人奴隷への輸入を許可している。西インド諸島への奴隷の輸入は黒人のみに限られ、まずはギニア、その後アンゴラの黒人が輸入された。
 1513年、スペイン王室はアシエントという黒人奴隷輸入許可状を発行するようになる。アシエントは王室から奴隷交易を請負うことを意味しており、請負業者は一定数の奴隷を供給することが認められ、王室に契約料と奴隷1人あたり2ドゥカードの税金を納めた。このアシエントの発行権限をインディアス商務院の手に委ねる。
 カルロス1世は、1518年にはフランドルから連れてきた寵臣ローラン・ド・グヴノーにアシエントを与え、5年間に4000人の黒人奴隷を、西インド諸島に送り込むことを許可する。グヴノーは、この許可状をセビーリャのジェノヴァ人の商人組合に、2万5000ドゥカードで売り払う。ジェノヴァ人たちがえた利益は30万ドゥカード以上になったという。1528年には、アウグスブルグのウェルザ一家に4年間で4000人の奴隷を、西インド諸島やメキシコ地域に送り込むことを許可する。
 当時、アフリカの黒人奴隷の供給はポルトガル人が独占していたので、当初、スペイン人はリスボンで出向くか、セビーリャを経由するかして黒人奴隷を買い付け、西インド諸島に送り込んでいた。それへの直接輸入は、早くも1511年からはじまったとされるが、それが本格化するのは1518年のアシエントからとみられる。それ以後、スペインの黒人奴隷交易は拡大し、1540年には10000人の黒人奴隷が輸送されるまでになる。
 1580年、ポルトガルがスペインに併合されたことで、黒人奴隷交易権を握ったスペイン王室は1581年ポルトガル商人ガスパル・ペラルタにアシエントを与える。スペインは、17世紀に入るとアシエントをオランダやイギリス、フランスの商人にも与え、奴隷交易の拡大を図る。17世紀末までに、アメリカ植民地に輸入された奴隷の数は約140万人に及んだとされる。この奴隷制は、アメリカ植民地では19世紀後半まで、「近代世界システム」の不可欠の要素として維持される。
 セビーリャは古代から奴隷のいる都市であって、奴隷の存在は日常の景観をなしていた。15世紀末から16世紀にかけて、リスボンと並ぶヨーロッパ最大の奴隷交易都市となった。奴隷は黒人ばかりでなく、イスラーム教徒、ロロ(スペイン人と黒人の混血)、モリスコ、カナリア先住民、インディオなど、多種多様であった。彼らは他の商品とともに、大聖堂そばのラス・グラーダス市場(後には、その近くにフェリペ2世が設置した取引所、現古文書館)で売買された。
 1565年には、奴隷は6327人を数え、都市人口の6-8パーセントに相当した。セビーリャに加え、マラガ、ラス・パルマス、バレンシア、グラナダ、マドリード、バリャドリード、バダホスなどでも、多くの奴隷が確認されている。奴隷は家内奴隷と手工業奴隷に大別され、セビーリャと関係の深いカナリア諸島ではサトウキビ栽培や牧畜にも利用された。
 セビーリャにおいて、アメリカ大陸への奴隷輸出を扱ったのは、セビーリャの有力商人であった。彼らは、ブルゴス、バスク、ポルトガル、さらにドイツの商人と共同出資会社を設立し、出資比率に応じて利益を分配してした。奴隷交易の利益率は大きく、300パーセント強に達したといわれる。
 アフリカ黒人奴隷の輸出量は、フィリップ・D・カーティン氏によれば、1451-1600年27万人、17世紀134万人、1701-1810年605万人、そして1811-70年189万人、合計955万人であったという。この限りでは、スペインやポルトガルが手がけた初期の奴隷交易の規模は、それほど大きくはない(同著『大西洋奴隷貿易―その統計的研究』、p.268、ウィスコンシン大学出版会、1969)。
 1451-1600年の奴隷輸入先の構成をみると、欧州17.8、大西洋諸島9.0、サントーメ27.7、スペイン領アメリカ27.3、ブラジル18.2パーセントとなっており、前3者の旧世界が後2者の新世界を上回っていた。しかし、17世紀になると旧世界1.9、スペイン領アメリカ21.8、ブラジル41.8、英領カリブ海19.7、仏領カリブ海11.6、その他カリブ海3.0パーセントと、その構成は大きく変化する。最盛期の奴隷交易の担い手はイギリスやフランスに移る。
▼交易を仕切るインディアス通商院とコンスラード▼
 スペイン王室は自ら、はやくも1503年にインディアス通商院(カサ・デ・コントラタシオン)を設けて、その交易を直接管理する。それは、コロンブスの遠征資金を提供したフランチェスコ・ピネッリの献策により、ブルゴスのコンスラードをモデルにして創設される。その主な役人は、主計官、財務官、会計官、水先案内人頭、送達吏頭であった。
 インディアス通商院は、アメリカ植民地向けの船舶、乗組員、荷主・渡航者・移民、積み荷をいちいち審査して許認可を与え、船舶の艤装、海図作製や水先案内人の資格試験にも関与した。しかし、通商院は商業裁
インディアス通商院(現インディアス古文書館)
なお、左の建物はセビーリア大聖堂(カテドラル)
判権を行使するなど、セビーリャ商人たちの利害と一致するものではなかった。
 彼らは1539年通商院とは別にコンスラード(商務館)を設立する。1543年になって、王室への献金とひきかえに商業裁判権が認められる。それは1人のギルド代表、2人のギルド役職、5人のギルド評議員と顧問から構成された。コンスラードは、下級商業裁判権をもち、インディアス交易において生じたすべての民事事件に介入することができた。コンスラードの必要経費は、その構成員に一種の海上保険料を賦課してまかなわれた。
 こうして、インディアスとの交易は王室の庇護のもとで、200年間にわたってセビーリャ大商人の独占交易として、発展することとなる。これにより、セビーリャは交易都市として飛躍的に発展して、人口は1530年の6.5万人から16世紀末には16万人に増加した。この交易都市の担い手の中心はいままで通りジェノヴァ商人であった。
 16世紀のアメリカ交易に従事したのは、セビーリャ、ブルゴス、バスク人といったスペイン商人と、ジェノヴァ、ポルトガル、ドイツ、フランドルなど外国人商人であったが、セビーリャ商人とジェノヴァ商人が大きな役割を果たした。ここでいうセビーリャ商人のなかには、コンベルソや市民権を得て在地化したジェノヴァ人も含まれていた。
 ジェノヴァ商人は、すでにみたように13世紀後半以来、セビーリャの経済を壟断してきた。14-15世紀、大西洋やアフリカへの交易の拡大に対応して、その地位を強化してきたが、15世紀末のカナリア諸島征服やアメリカ大陸「発見」は彼らのさらなる来住を促した。セビーリャ商人は、アメリカ植民地の商人や代理商とのネットワークを利用して、大規模な商業活動を展開した。
 「16世紀、グリマルディ家やチェントゥリオーネ家のようなジェノヴァの有力商人家門が、セビーリャを拠点にアメリカ貿易や奴隷貿易、金融業を展開した。カナリア諸島の征服資金を融資し、奴隷貿易、砂糖貿易にたずさわったジェノヴァ商人の一部はやがて帰化し、セビーリャ周辺に土地を集積した。都市官職の購入によって都市行政に参与したばかりか、セビーリャの寡頭支配層との婚姻関係を通じて社会的上昇をとげた」(関・立石編訳前同、p.26)。
 次の文言はスペインの海上交易の本質を言い当ている。
 「1571年、トマス・デ・メルカード[1525?-75?、経済思想家、『商人の交易および契約』 1569]は『外国人が商業をおこない、富は王国から消えている』と告発したが、セビーリャはインディアス向け外国商品の中継港となっていた。また、インディアスからの貴金属の流入は、16世紀前半からの物価上昇に拍車をかけて、いわゆる『価格革命』」を引き起こし、賃金は物価ほど上昇しなかったので民衆の生活は悪化した」(立石前同、p.159-60)。
 この価格革命は、インディアスからの貴金属の流入よりも、食糧はじめとした消費財の供給を上回る人口の増加があったからとされる。庶民は、賃金など収入が物価上昇に追いつかないためさらに貧しくなり、資本の原始的蓄積が促されることとなった。
▼アメリカ交易を独占するセビーリャ▼
 1492年のアメリカ大陸「発見」によって、インディアス交易あるいはアメリカ交易という、新しい需要が喚起される。それによってスペインの農業や手工業は大きな刺激を受ける。手工業では、コルドバの皮革、トレドの武具、グラナダやレバンテ地方の生糸、コルドバやトレドの絹織物の生産が増加する。毛織物の生産はカスティーリャ中央部に広がった。しかし、スペインはその人口の増加にともなって、小麦をいままでにもまして輸入に頼らざるをえなくなった。
16世紀のセビーリャ港
アメリカ博物館(マドリード)蔵
 スペインのなかで、セビーリャは最大の商業と手工業の都市として成長しており、後背地では小麦、ブドウ、オリーブなどの商品作物栽培や牧羊業が展開されていた。その内陸港は防衛に適しており、造船所を備え、アメリカ交易に従事する商人が住んでいた。スペイン王室は、セビーリャにアメリカ交易の独占権を与えることで、アルモハリファスゴ税(輸出入関税、1543年以後アメリカとの交易では輸出税2.5パーセント、輸入税7.5パーセント、アメリカからヨーロッパ向け輸出税15パーセント、1566年以後アメリカとの交易について15パーセントと17.5パーセント)を効率よく徴収し、また貴金属の流出を防止しようとした。
 積み荷の検査は、スペインではセビーリャやカディスにおいて、またアメリカ植民地向においてはその選ばれた3つの港―ベラクルス、現コロンビア北西部のカルタへーナ、またはノンブレ・デ・ディオス―で行われた。アメリカ植民地から輸入された金銀は査定され、あらゆる商品にアルモハリファスゴ税を賦課された。
 スペイン王室は、1529年になってカスティ
ーリャの10の港にアメリカ植民地と直接、交
易することを許す。ただ、その場合交易船
は帰途、積荷を登録するため、セビーリャ
への寄港を義務づけられていた。この制限
は、北スペインに帰帆する交易船にとって
は不都合であったので死文化してしまい、
1573年には廃止される。
 セビーリャはアメリカ交易を独占してきた
が、17世紀半ばからグアダルキビル川の遡
行が困難となり、まず船荷の積み込み、そ
して1680年からは陸揚げが、カディスで行
われるようになる。その結果、1717年アメリ
カ交易の独占権はカディスに移転されること
となり、1765年まで続く。同年から1769年に
かけて、アメリカ交易はカディスなど主要港
に開放される。
17世紀のカディスの港
▼アメリカの銀でヨーロッパ産品を買う▼
 16世紀半ばまで、スペイン王室は外国人銀行家がスペインにおける取引でえた貨幣や貴金属を国外に持ち出すことを禁じていた。そのため、彼らはそれらを農産物や羊毛、綿、小麦、ワインなどに変えて、国外へ持ち出していた。それが16世紀における農・牧畜業の繁栄を支えていた。しかし、1566年には外国人銀行家たちの要請を聞き入れ、貴金属の国外持ち出しを許可した。それによって農・牧畜業は大きな打撃を受ける。
 16世紀前半、アメリカ植民地において手工業製品はもとよりとして、食糧品の自給も十分ではなかった。それに加え、アメリカ植民地のスペイン人たちは母国と同じように生活しようとした。そのため、スペインやヨーロッパから輸入品にあらかた依存しなければならなかった。
 セビーリャからインディアスへ供給される主な商品は、地元アンダルシア産のブドウ酒、オリーブ油、酢、穀物などの食料品、アルマデン鉱山の水銀(メキシコ向け)、鉄製品などのスペイン産品のほか、フランスやフランドルなど外国製の高級毛織物、様々な手工業製品、武器、馬、そして黒人奴隷であった。それらのなかで、外国産の高級衣料の輸出額はアシダルシア産の農産物のそれを上回っていた。
 逆に、インディアスからセビーリャへ運ばれた主な商品は、金、銀、真珠、エメラルドなどの貴金属や貴石のほかは、砂糖、コチニール(染料)、牛皮、キニーネ(医薬)といった特産品に限られた。砂糖を除く、それら特産品がインディアスからの輸入額の10パーセントを超えることはなく、そのほとんどが貴金属で、その大半が銀であった。
 インディアス交易は、基本的にインディアスで暮らすスペイン人(副王など役人、聖職者、新興貴族、商人、インディオの元締め)が必要とする商品を、インディオたちの血と汗の結晶である銀をもって買い付けるという交易であり、インディオたちの生活が向上する性格を持ちうるものではなかった。
 スペインの毛織物はセゴビア、クエンカ、トレド、コルドバ、バエサ、ウベダなどを主な産地としていたが、16世紀中頃になると価格革命の嵐のなかで生産コストが高騰し、安価な外国製品に国内市場を奪われ、さらにインディアスへの供給能力さえも失ってしまう。
 1548年、バリャドリードの議会(コルテス)がインディアスで毛織物を生産することを認める決議が通すが、スペイン王室はセビーリャ商人の利益を優先してこれに同意せず、国内製品にかわって外国製品を供給してインディアスの需要に応じることにしている。
 新大陸における自給化が進行してくると、スペインからの農産物需要は減り、手工業製品の需要は高級化する。それに応えるため、スペインはネーデルラントやフランスなど広くヨーロッパ諸国から商品を輸入して、それをセビーリャでアメリカ向けの交易船に積み替えて中継輸出しなければならなくなる。それはセビーリャに大きな利益をもたらしたが、同時に植民地とヨーロッパ諸国との大規模な密交易を促すになった。17世紀以降、オランダやイギリス、フランスがカリブ海の諸島を奪取するようになると、コロンビアやべネズエラ、アルゼンチンにも密輸港が置かれることとなる。
▼スペインにおいて海運業は成熟せず▼
 すでにみたように、セビーリャの交易を支配していたのは当初、ジェノヴァ人であったが、16世紀後半になるとスペイン人の商人も育ってくる。また、船主についても、インディアス交易における船腹需要は、もっぱら船舶の所有とその運航を、自らの生業とするものを数多く生み出したとされる。その過程については明らかにされていない。
 カスティーリャの地中海沿岸には、ポルトガルとは違って、海運業の蓄積はない。カスティーリャの船主業は、北スペインからセビーリャやカディスに船とともに移住してきて人びとによってはじめられた。しかし、それは16世紀に突如としてはじまり、巨額の資金が必要となるインディアス交易に対応できるものではなかった。それに対応できたのは、巨額な資金を融通できる大貴族やイタリアの商人であった。
 したがって、スペインのインディアス交易に関わる船主業は、16世紀前半、大型船を所有する貴族たちと、中小型船を所有する自生的な船主たちとに分かれながら発達した。後者の中小の船主や商人の背後には、彼らの必要からつねに貴族や外国人の金融業者がいて、経営資金を供給していた。そうしたことから、中小船主にあっては商人船主であることは少なかったとみられるが、彼ら中小船主ももちろん小商いしていた。
 アーネスト・フェイル氏は、中小船主についてとみられる状況について、「運賃のうち前払いされる部分はきわめて少額にすぎなかったため、船主は当該航路費用を冒険貸借で金融業者から借りた。当時、海上固有の危険〔the perils of the sea〕および拿捕の危険は、もつとも大胆な海上冒険業者をも尻込みさせるほど大きかったから、保険によってこれらの危険を分散しなければならなかった。
 1589年[フランシス・]ドレイク[1543?-96]が西インド諸島に加えた大規模な襲撃は、保険制度を全く実施不能に陥ち入らしめ、その結果しばらくの間は当該輸迭は完全に麻痺した」と述べている(同著、佐々木誠治訳『世界海運業小史』、p.137、日本海運集会所、1957)。
 船長は、しばしば船の持分所有者であったが、航海船長〔sailing master〕というよりは……管理船主〔managing owner〕に相応する存在であった。具体的な航海指揮権は水先案内人に委ねられていた」。そのため、キャプテン〔captain〕という呼称は護衛船の軍事指揮官、あるいは自分の所有船に同乗する船主を意味した。
 スペインにおいても、初期にあっては乗組員は交易から利益を分与される、持分所有者であったが、その後は一定の賃銀が支払われる立場になった。
 「1550年頃、一人前の普通海員は1カ月2.5ドゥカード、運転士・砲手・船匠のごとき下士官は4または5ドゥカードを支給され、また水先案内人は船の大小にもよるが、1航海110から180ドゥカードを受取った。これに比べて、護衛船の指揮にあたる提督〔General〕は、年1875ドゥカードを支給された」(以上、フェイル前同、p.137)。
 なお、コロンブスの第1回航海の乗組員90人には王室から賃金が支給されたとされる。それは、月額で船長10.7、士官5.3、熟練水夫2.7、未熟練水夫1.8ドゥカードであった。その総額は25万マラベディ(約667ドゥカード)で、すでにみたコロンブスの借入金と同額であった。
 アーネスト・フェイル氏はイギリス人らしく、スペイン人やポルトガルの近世海運業について、彼らは「運送業を沿岸航路から大洋航路へ発展させた最初の国民として、たしかに海運業史上きわめて名誉ある地位を今後とも永く保持するであろう」。しかし、「彼等をして、本当に偉大な海運国民たらしめなかった」と断定する。
 その根拠は、「決して彼等を襲った敵国船・海賊船のせいでない。正常な通商貿易からあがる利益よりも、メキシコ・ペルーの鉱山の採掘と採掘した金銀の運送とからあがる利益の方に、より重要性をおいた失着[失敗]にある」という(フェイル前同、p.139-40)。
▼貴族と商人の相互融合、船主貴族の登場▼
 貴族の商人化と富裕な商人の貴族化とが起きる。それは、16世紀のあいだにセビーリャで起こつたふたつの並行した流れとして展開する。商人たちの貴族になりたいという欲望はとりわけ強かった。なお、スペイン人の商人が育ってくると、外国人は王室への貸付に専念するようになったとされる。
 商人たちが、「貴族身分と市参事会員職を買おうとするのは……自分たちの利益を増し、自分たちの商品の船積みと代理人たちの活動を容易にする」ためにあった。「彼らは、アルモハリファスゴ税[輸入輸出入税]を払わずにすまし、検閲なしで自分たちの商品を通すよう税関の役人に圧力をかけるために、その地位を利用する意図をもって……あまりにも多くの金を払う」のだった(ルース・パイク稿、立石博高訳「16世紀におけるセビーリャ貴族と新世界貿易」関・立石編訳前、p.135)。
 商人はひとたび十分な資金を貯めると、「貴族好みやイダルゴ[下級貴族]志向を募らせ、自分の息子のために限嗣相続財産化された地所を設けて貴族になろうとした」。「アメリカとの取引でセビーリャ商人が得た富の大部分が、アルハラーフェとシェラ・モレーナでの地所の購入に流れ、そこから彼らは自分たちの相続人にゆたかな限嗣相続財産を生みだした」のである(パイク前同、p.134)。
 「商人がひとたび貴族の称号と市会のポストを買い取ると、彼は法的には伝統的貴族と同等とみなされた。ドンの称号が名前の上につけられ、商人という肩書きは取り除かれた。貴族となった商人、すなわち新貴族は旧貴族と肩を並べ、相互間の結婚や利害の絆によって、ふたつのグループは溶けあって、16世紀のおわりにはひとつのコンパクトな社会階層を形成した」(パイク前同、p.135)。
 「大貴族の投資は、カレーラ・デ・インディアス(大西洋航路)にたずさわる船の所有に集中していた」。それは、「実際、これらの船の艤装と維持の費用はあまりにも大きくて、身分の高い貴族でなければ、1人でそれを引き受けるのは困難であった」からであった。彼らの「船は、大貴族によって個々に所有されるか、あるいは、それほどの地位や財産を持たない複数の人によって共有された。所有権の典型的な分割は3人でなされた。すなわち、下級貴族か商人の2人の資本家と、1人の船長である」という(パイク前同、p.139-40)。
 そして、ルース・パイク氏は公証人文書(以下同じ)を出典とする「セビーリャ貴族の船舶所有」という表によれば、1508-87年の日付において、17人の貴族(うち新貴族は4人)が25隻(同一船名3隻)の船舶を所有していたことになっている。そこで取り上げられた資料数からみて、それがほんの一部であることは明らかである。
 それはともかく、複数所有者がいて1人が8隻、1人が2隻所有しており、後者は女性である。それら船舶はすべて個人所有である。25隻のうち、個人所有は18隻、共同所有は7隻となっており、共有持分はおおむね、共有者が2人の場合2分の1、3人の場合3分の1となっている。
 8隻所有者であるアルバロ・デ・バサン(1526-88)は、「スペイン海軍の父」と称される人物で、1550年2月にジェノヴァ人やヴェネツィア人をまねたガレアス船の建造の独占的特許と、インディアスからの王の財宝の運搬独占権を与えられ、さらに15年にわたってインディアス交易の総司令官に任ぜられた。また、無敵艦隊編成の提唱者であったが、イングランドとの海戦を前に死亡する。彼に対する優遇に、セビーリャのコンスラードやインディアス顧問会議は強く反対したという。
 大貴族たちは船舶を所有しているだけでなく、商品や奴隷の大規模な取引にも投資していた。最良の例がポンセ・デ・レオン家であり、その一族であるルイスはビリャガルシアやロータの領主で、エスパニョーラ島に代理商を置いていた。そして、その妻であるドニャ・フランシスカはいまで上にみた船を2隻所有していた。
アルバロ・デ・バサン
ラファエル・テヘオ画、1826年模作
マドリード海軍博物館蔵
▼下級貴族の海上貸付、借り手は船主船長▼
 しかし、16世紀のインディアス交易において、もっとも活発な役割を演じたのは下級貴族であった。「彼らは、非貴族の商人とまったく同様の取引にたずさわっており、これらを非貴族の商人と区別するものはその名前だけであった。彼らは海上貸付に投資し、信用販売をおこない、船を所有して、奴隷貿易に参加した。また、商品を売りにアメリカにおもむき、海外代理店をもち、家畜飼育や砂糖生産、真珠採りなどの新世界の事業にも投資した」という。
 その著名な家がプラド家とバレーラ家(後述)であり、旧貴族に属していた。「プラド家、なかでも市会陪審員のルイスと彼の甥のゴメスは……海上貸付に多くの投資をおこなった。1525年には、彼らはその年にセビーリャからインディアスに出帆した船の24パーセントを装備して送り出すための資金を供給した」という(以上、パイク前同、p.143)。
 そこに掲げられている表を独自に分析すると、同年間に、ルイスは7隻の海上交易に関わって10件13人に対して合せて1455ドゥカード、ゴメスは7隻10件21人に634ドゥカードを貸し付けている。その1件当たりの貸付額は、ルイスの場合最低6、最高310、平均145ドゥカードであるが、ゴメスの場合最低18、最高214、平均63ドゥカードである。前者の貸付規模は後者にくらべかなり大きい。なお、船の行き先は主としてサント・ドミンゴで、その他はプエルト・リコである。
 彼らの借り手は合わせて34人であり、その構成は船主9人、市民9人、船主船長6人、商人5人、職人3人、船長・水先人2人となっている。主たる貸付先が船主あるいは船主船長であることは明らかである。そして、商人や職人は1人を除いて、借入金の少ない後者に属している。また、船主や船主船長は単独の借り手となっているが、それ以外の商人などの借り手は単独ではなく、船主船長などとの組み合わせで貸付を受けている。
 したがって、船主や船主船長は商人などの借り手の保証人の役割を果たしているかにみえる。また、ここでいう商人は一人前の海上交易人ではなく、その他市民や職人などと同じように一旗揚げようとして借り入れした人びとではなかろうか。こうした海上貸付の状況をみる限りでは、インディアスとの海上交易の主たる担い手は商人ではなく、小商いをする船主あるいは船主船長ということになる。
 しかし、ルース・パイク氏にあっては、海上貸付は「船の艤装のためよりは商品の発送費用にあてられた。彼らから、もっとも積極的に金を借りたのは船積みの費用をまかなう資金を持たない商人たちで、彼らはこれらの債権者に完全にたよっていた。新世界との貿易の利益の多くは、商人たちよりはそれらの資本家たちのものとなり、商人たちは高い利率や前払い強制の重圧に苦しめられていた」という(パイク前同、p.143)。
 海上貸付の利率が1509年にあまりにも高くなったので、セビーリャの大司教はその取引を禁止しようとしたが、フェルナンド国王によって妨げられた。16世紀半ばには、資金の必要な乗船者が船長から借りる場合80-90パーセント、陸上の海上貸付から借りる場合50-60パーセントであったようである(パイク前同、p.161)。これからみて、海上貸付の借り手はインディアスにおいて、セビーリャでの仕入れ価格の少なくとも3倍以上の価格で、売り抜ける必要があったことになる。
▼セビーリャの貴族たちの経歴と生業▼
 旧貴族の「バレーラ家のなかでは、市会陪審員のフアン・デ・ラ・バレーラが……もっとも進取的な人であった。バレーラは1530年代に海上貸付に投資し、資金を必要とする船主や商人にまで信用取引を拡大した。1540年代には、彼はベラクルスへの商品と奴隷の船積みをとくに活発におこなった。
 世紀半ばには奴隷貿易に専心し、セビーリャとアフリカとベラクルスのあいだを定期的に廻る奴隷船サンタ・カタリーナ号の船主の1人となっていた。1549年10月29日付のサンタ・カタリーナ号の貨物輸送契約書には、男70人、女50人、計120人のアフリカ人奴隷がアフリカで積み込まれ、インディアスで売却されると書かれている」。その他、家畜飼育や砂糖業などの新世界事業に投資したり、クバグア島での真珠を買い取ったりしている(パイク前同、p.146-7)。
 アントン・ベルナルは、新貴族のなかでもっとも有名な1人であって、貴族になるには10年とかからなかった。「この人の経歴は金細工師にはじまるが、勤勉と倹約によって、貿易に投資するに十分な資本を貯めることができた。1506年にはすでに、彼は海上貸付をおこない、商人と船主に商品の信用販売をおこなっていた。彼自身もまた何隻分かの商品を新世界に送った。
 1508年にエスパニョーラ島へ送られた荷は、初期の時代にべルナルやほかのセビーリャ商人たちがアメリカに送っていた典型的な商品であった。それには、10キンタルの石鹸、10キンタルのオリーヴ油、胸当て2ダース、7ファネーガのエジプト豆と子牛4頭が含まれていた。1510年代には、彼はサンタ・マリア・デ・ラ・メルセー号の所有権の半分をもち、奴隷貿易にたずさわった。同時に、いつも現金の不足に悩んでいる裕福でない貴族たちに金を貸しはじめた。
 ディエゴ・コロン[1479/80-1526]はそれらの貸付の多くを受けていた。1523年、アメリカ発見者クリストパル・コロン(コロンブス)の破産したこの息子は、貸付の抵当として6000ドゥカード相当の宝石をベルナルに引き渡すことを余儀なくされた。ディエゴ・コロンが貸付金[借入金のこと]を返すことができるまでには数年かかり、その間ベルナルはドン・ディエゴの保証人となっていたが、これは彼の投資を安全なものにするための素晴らしい方法であった」とされる(パイク前同、p.150)。
 フランシスコ・デ・ラ・コローナは、セビーリャで富と貴族の地位をえた商人であるが、彼は布の取引を専門に行っていたが、多くの信用貸しに投資したり、ラ・マグダレーナ号の2分の1船主になったりしている。彼の信用貸しは、1525年繊維製品の取引に関わって7件11人に、最低50、最高416、合計1494ドゥカード、1件当たり平均213ドゥカードを貸し付けている。その場合、同一人に上乗せ貸付がみられる(パイク前同、p.155)。
 彼ら成り上がり者たちは、すでにみたように「貴族たちよりも貴族的になっていき、商業を捨てて土地と年金に寄食するようになった」。ただ、その成り上がった事情から「彼らは貿易にとどまり、その息子たちにもそうするように促すことになった。事実、新貴族の息子たちは、父親の代理としてアメリカに行くのが習慣となった」という(パイク前同、p.149)。
▼造船業、王室に保護され、船主業を兼業▼
 近世スペインにおいても、遠洋船にはロング・シップとラウンド・シップの2系統があった。ロング・シップはスペインでは「ガレラ」と呼ばれ、1570年のレバントの海戦の主力であり、1588年のスペイン無敵艦隊の一部をなしていた。ラウンド・シップは「ナオ」あるいは「ナビオ」と呼ばれ、艦船としても使用されたが、主に大量の積荷を輸送しようとする商船として用いられた。コロンブスがのったサンタ・マリア号はナオであった。
 ヨーロッパの海外発展の先駆者であったポルトガル人は、ラウンド・シップにラティーン・セールを取り入れた、「カラベラ」と呼ばれる帆船を開発した。それを、スペインは16世紀までにナビオ型の帆船としていたるところで建造し、インディアス交易に利用するようになる。このナビオ型の帆船にも大砲が搭載されていた。なお、小型のナビオ型の帆船にはそれぞれの特徴から、固有の名称を持つものが多い。
 ナビオは、「舷側が高くて容量が大きく、海上での嵐や高波に耐えられる堅牢さと、攻守両用の強さをもった船」と定義される帆船であった。ナビオの甲板の数は1層から3層まであり、沿岸交易や探検あるいは通信用の小型船は通常1層、2層の大きなナビオは軍船として用いられた。そして、3層の甲板のナビオは主として積載能力の大きさから、商船となった。
 16世紀末から17世紀において、戦艦をさす「ガレオン」もまたナビオであった。それは、かなり大型の舷側が高く、2層ないし3層の甲板を持っており、西インド航路で用いられた。したがって、戦艦と大型の商船にあっては基本構造が似ており、それらがしばしば兼用され、転用された。後述のインディアス交易における護衛船団は、これら大型のナビオが中核となっていた。
 1628年、西インド航路で用いられる船は、商船、戦艦を問わず、500トンを超えてはならないと定められた。そうした制限の根拠は、主にグアグルキビル河口のサンルカル砂州にあった。この砂州を抜けなければ、セビーリャに出入りできなかったからである。さらに、カリブ海の猛烈な熱帯暴風雨や、ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルア砂州など、いくつかの港の条件が制約となっていた。
16世紀スペインのガレオン
アルブレヒト・デューラー画
 それにより、商船は通常300-400トンであったが、ガレオンは1000トンまで達した。しかし、1585年におけるスペインの商船隊規模は17万5000トン(ポルトガルは不確かで7.5-12.5万トン)であったとされる。また、1586年の100トン以上の船の数は、スペイン104隻、ポルトガル92隻にとどまるともされる。17、18世紀、スペインやポルトガルの船腹規模が増加したという知見はなく、その間、隆盛をみせたのはオランダやイギリスをはじめとする北西ヨーロッパ諸国であった。
 近世スペインは、18世紀までは、現在のような海軍を常設しななかったが、造船能力の維持に努めていた。15世紀から17世紀にかけて、王室は造船所に助成金を与えて艦船を建造させておき、それを必要に応じて使用するようにしていた。そのため造船業は艦船を所有する船主業でもあった。
 ローレンス・A・クレイトン氏によれば、「組織としての造船所の頂点に立っていたのは、造船家と船主と船長の役割をあわせもった人物であった」という(ローレンス・A・クレイトン稿、合田昌史訳「船と帝国-スペインの場合」(関・立石編訳前同、p.172)。西インド航路において、造船家兼船主兼船長の船は船主兼船長の船よりも、造船家としてその船の特性を承知していることから好まれたという。
 助成金をえて建造された船が王室に用船された場合とみられるが、その船の「積み荷のスペースのうち3分の1は造船家兼船長ために確保されていた。ただし、船主兼船長も200トン以上の船だと同じ特権を享受できた。しかしながら、特権は濫用されたため1619年に廃止された」という(クレイトン前同、p.173)。スペイン王室は、造船業さらには海運業の振興のために、船主の優先積取権を付与していたようである。
 アンダルシアの造船所は航海者組合(ウニベルシダー・デ・マレアンテス)と、その管轄下にある造船ギルド(マエストランサ)という組織に組み込まれていた。「航海者組合は裁決機関であって、[インディアス]通商院の長官と権威を分かつ存在であった。航海者組合の代表者は海事の世界では一目おかれていた。彼らは豊富な学問的知識と運営面の助言で造船業界に貢献するとともに、造船ギルドにかんする問題では裁判権を行使していた」(クレイトン前同、p.175)。なお、ビスカヤ沿岸の造船業にも似たような組織があった。
▼北部スペインの造船業の興隆と衰退▼
 近世スペインの造船業の中心地はビスカヤ湾に面したカンタブリア沿岸部であった。それが発達するまでは、すでに述べたように、地中海に面したカタルーニャ沿岸部が中心地であった。16世紀になって、スペインがアメリカ大陸に向かうが、カタルーニャの造船業は参画できずに急速に衰退する。セビーリャの港は中世以来、すぐれたガレラの産地であり、またアメリカ大陸との交易を独占する都市となる。
 しかし、フェリぺ2世の治世までは、セビーリャを含むアンダルシアで建造された船舶はインディアス交易から閉めだされていた。それは、アンダルシアの船舶はひどいしろもので長持ちしない、お粗末な造りだったとか、16世紀までアンダルシアでは造船用の材木が十分にえられなかったとかいった理由の他に、王室が北部スペインの利害を擁護していたからだとされる。
 北部スペインの造船業はサンタンデールやギプスコア、ビスカヤの沿岸部に集中しており、15世紀にはすでに相当の名声を博していた。
そのなかでも、ビルバオでは最大700トンの船舶が建造されていた。ビルバオとポルトゥガレテの距離はおよそ2レグア(6マイル、1マイル=1852メートル)であるが、その間に「200本以上のトップマストが見えた。わずか6ないし8レグアも内陸のドゥランゴ、オルドゥニャ、バルマセダの町でも、いつでも8000ないし1万人の水夫がいた」。1583年には、ビルバオだけで「国王陛下の命により1万5000トン分の船舶が建造中だった」という(クレイトン前同、p.180)。
 1540年には、西インド航路から外国で造られた船舶を締め出す法令が発布された。「だが、しだいに
ビルバオ・グッゲンハイム美術館
幻想的な夢の船と表現したとされる
フランク・ゲーリー設計、1997
外国製の船舶はスペインの造船業が衰退するにつれて、国産の船舶にとって代わるようになった。このような傾向は16世紀末までにはじまり、17世紀にいたるとさらに顕著になった。この傾向はさらに強まり、1613年までに法令自体が改正されて外国船の使用が認められた。現実を法が追認したのである」(クレイトン前同、p.181)。
 こうした17世紀におけるスペイン造船業の衰退の根拠として、造船経費の増加、熟練工の減少、船材資源の枯渇をはじめ、スペイン海運業の衰退、アメリカ植民地の造船業の発展などがあげられている。
 なかでも、「17世紀までに、ペルー副王領のいくつかの港、とりわけ現エクアドルのグアヤキルでは造船業が発展をとげ、60ないし70隻以上の商船を供給するようになった。それらは……太平洋岸沿いの交易でさかんに用いられた。カリブ海域ではハバナが造船業でもっとも繁栄……17世紀の後半まで西インド航路で用いられる船舶の5割以上を供給し……17世紀に母国が弱体化し不振に陥った分を相殺できた」のである(クレイトン前同、p.183)。
▼スペインの護衛船団、外国船の入域増加▼
 インディアス交易に従事するスペイン船団は帰路、銀船隊あるいは財宝船隊であったので、特に16世紀後半からオランダ・イギリスの私掠船の獲物となった。しかし、護衛船が付けられると、かなり効果があったようである。
 アメリカ植民地向けの交易船は60-100隻ほどが、ヴェネツィアやポルトガルと同じように、船団を組んで出帆していた。その大西洋横断は2か月ほどかかり、危険を伴ったが、水先案内人が不足していた。インディアスからの帰り荷に占める金銀の量が増加してきたため、1561年から船団に護衛船を付けざるをえなくなる。
 護衛艦隊とは別に、帆と櫂を使って、ハバナからスペインまで28日で航行できる快速伝達船が組織され、カリブ海地方の伝達船と連絡をとって、敵艦隊の動静を素早くつかみ、自国船が取るべき航路を迅速に指令、伝達していた.。
 こうした防衛手段に要する経費の大部分は、インディアス通商院(カサ・デ・コントラタシオン)がインディアス交易に従事した船舶の船価と積載貨物の価格に応じて徴収する護衛船団負担金(アベリア)によってまかなわれた。その比率は、イングランドとの抗争が最高潮に達した、1596年にはほぼ7パーセントという高率になった。
 護衛船団は、ヌエバ・エスパーニャ向けとティエラ・フィルメ向け〔中央アメリカからベネスエラに至るカリブ海沿岸地方〕に分かれて、アンダルシアの港から出帆した。それら船団は、6ないし8隻の戦艦に護衛され、ガレオネスあるいはガレオンという名前で呼ばれていたが、前者が後に特にフロータと呼ばれるようになった。
 フロータは4月か5月にメキシコのベラクルス、後者のガレオンは8月にパナマ地峡のノンブレ・デ・ディオスに向けて出帆した。往航は5週間から6週間ほどかかった。後者のペルー向けの貨物は、パナマ地峡北岸のポルトベロで陸揚げされ、その後ラバの背に積まれて地峡を越え、パナマでペルー行きの船に積み替えられた。彼らは積み荷を降ろすと、いずれもアメリカで越冬したが、後者はより安全なカルタへーナ港に避難した。
 それら船団は帰航するためにハバナに集結して、初夏、ハリケーンが襲来しはじめる前に、セビーリャに向けて出航しなければならなかった。フロータはメキシコの銀やコチニールを積み込んで、貿易風に逆らいながら、3、4週間かかってハバナに着いた。また、ガレオンはポトシからの銀の到着を待たった。
スペイン船の交易ルート
青:西インド諸島や大西洋横断ルートは1492年から始まる
(ただし、ポルトガル船のルートが含まれている)
白:マニラ・ガレオンあるいはトランス太平洋ルートは1565年から始まる
 ポトシの銀は、2週間かけてリャマのキャラバンで、現チリのアリカの港まで運ばれ、そこから1週間かけてリマの外港のカリャオまで運ばれ、さらに3、4隻の船に積み替えられて20日間かけてパナマに着き、そこでラバの背に積み替えられて4日かかって地峡を越えた。
 インディアスから集められた金銀・財宝は、それが誰のものであれハバナにいったん陸揚げされ、特別に建造された約200トンほどの武装快速船である、フレガスタに積み替えられるのが慣行となっていた。このフレガタス船は、強敵に出会っても逃げ足が十分にあったので、船団を離れて単独に航海できた。
 護衛船団は夏の終わりか秋口にセビーリャ港に着いた。そのため、折り返し就航できず、多数の船舶が係留され、越年した。それからいえば、護衛船団は2セット必要になるが、その実情は不明である。それはともかく、護衛船団には多額の費用が必要であったし、その航海の正否は商人たちの死活を制したが、200年間も続けられた。
 「この[護衛]船団方式は非常に経費がかかったが、安全を守るという点からは十二分に効果のあることが証明された。財宝を積んだガレオン船が敵の手におちることはあまりなかった。その数少ない例としては、オランダ人ピート・ハイン[1577-1629]が3隻を除くすべての船を捕獲した1628年の事件と、[イングランドのロバート・]ブレイク(1599-1657)によって船団が壊滅させられた1656年と1657年の事件などがあった」(エリオット前同、p.204)。
 ここに示されたスペイン海軍の敗北は、1658年オランダとのダウンズの海戦、1585年ドレイクによるサント・ドミンゴ略奪、フランスの1638年ゲタリア湾や1691年バルセロナとアリカンテへの攻撃とともに、それぞれの勢力に対してスペインの覇権が崩壊する始点と終点を示す明らかな指標とされるものであった。
▼スペイン船の脆弱性、高運賃による過積載▼
 アメリカ大陸の銀生産の飛躍的な伸び、そして1559年のカトー・カンブレジ条約の締結、輸送船団制度の確立によって航海の安全が確保されると、インディアス交易は再び長い拡張期に入る。
 16世紀後半、インディアス向かう往航の船団は30隻から45隻までの船で構成されていた。しかし、復航貨物は往航貨物はよりも少なかったので、復航に必要な船の数は少なくてすんだ。そこで、多くの船主はインディアス交易に老朽船を就役させ、それを新大陸において売却あるいはスクラップにして、復航に使用しなかった。
 スペインの船はおおむね低質粗悪であったとされる。スペインの造船は、仕様設計さらに資材の面でも劣等、貧弱であった。それに加え、自国船が不足していたので、それを補うため、船主たちは大洋航海に不適格なドイツやフランドルの老朽船を、その輸入が規制されていたにもかかわらず、多数、購入あるいは貸借していた。
 スペイン王室は、インディアス交易にあれこれと規制を加えたが、運賃についてまったく放置していた。そのため、運賃が片道航海でもって船価をすべて回収しうるほどの、高水準になることもあった。こうした慣行は航海の安全を脅かすこととなった。
 船主たちは、船舶の輸送能力を増やそうとして、船の上部構造を建て増したため、船はトップヘビーとなり、危険な状態となった。それを規制するため、1557年にはいくつかの規則が出されたが、それくらいのことで船舶の安全性が改善されるはずはなかった。さらに、船主たちは積荷の量を増やそうとしたり、また脱税しようとしたため、絶えず過積載が生じた。
 乗組員の国籍はきわめて多様であり、彼らの操縦技術の水準は低かった。船隊が無事故で終わった年はほとんどなかった。1590年にはベラクルスの港で北風のため、15隻の船舶が沈没し、翌1591年にはアゾレス群島で暴風雨のため、17隻が沈没または坐礁した。
 セビーリャとインディアスを航行した船舶の累計総トン数は、1516-1520年には30,807トンであったが、1556-1560年には67,733トンになっており、1596-1600年には218,988トンと、3倍以上になった。隻数としては、毎年、1581-1620年100隻、最盛期の1596-1600年は188隻が渡航したことになっている。この隻数の多寡からみて、上記の累計トン数は往復のトン数とみられる。
 しかし、スペイン船の年間平均のアメリカ向けの隻数と総トン数は、17世紀に入ると1600-04年は55隻19800トン、1640-50年25隻8500トン、1670-80年17隻4650トン、1701-10年8隻2640トンと、止めどなく減少する。これら「公式統計以外に大量の密貿易が存在しており、また17世紀末までには貿易の95%が外国人の掌握するところとなった。たとえば、カディスにアメリカから1690年代に到着した商品の25%はフランス人の、22%はジェノア人の、30%はオランダ人の、18%はイギリス人・ドイツ人の取り扱うところであった」とされる(宮崎前同、p.42)。
▼キリスト教徒とイスラーム教徒との海戦▼
 カルロス1世の時代、スペイン王国は「太陽の沈まぬ帝国」となったが、ヨーロッパは1529年ウィーンがスレイマン1世(在位1520-66)によって包囲されるなど、オスマン帝国の脅威にさらされていた。オスマン帝国は、キリスト教徒の海であった地中海に積極的に進出する。
 北アフリカでは、赤ひげ(バルバロッサ)と呼ばれたギリシア人のウルージとハイレディーンというバルバロス兄弟を首領とした、ベルベル人がアルジェを拠点にしてイタリア半島への侵攻を繰り返す。1533年、スレイマン1世はバルバロス・ハイレディーン(1475-1546)と提携して、彼をオスマン帝国海軍の総司令官に任じ、カプダン・パシャ(大提督)なる称号を授ける。
 カルロス1世は、帰国した財宝船隊から貴金属を徴発して、わずかばかりの自前の艦隊を編成するが、その他は傭兵艦隊でもって、オスマン帝国海軍に立ち向かう。当時、フランスはスペインと対立関係にあり、1536年にはオスマン帝国に接近して、トルコと軍事同盟を結ぶ。ヴェネツィアは、トルコと早くから友好通商条約を結んで、独自の路線を歩んでいた。
 1535年、ローマ教皇の呼びかけで、「神聖同盟」が結成される。ジェノヴァの有力家門のアンドレア・ドーリア(1468-1560)が総司令官となり、彼が所有する船を中心に、教皇庁、スペインやその支配国のガレーなど、79隻の艦隊が編成される。この連合艦隊はチュニス遠征を行い、ハイレディーンの艦隊を敗走させ、一時的な勝利を収める。
 しかし、1538年のプレヴェサの海戦では、トルコの西地中海進出をおそれたヴェネツィアの82隻を中心にして、スペインの41隻、ローマ教皇の36隻など、ガレー94隻の連合艦隊が、数では劣勢のハイレディーンの艦隊94隻と相まみえる。しかし、いまみたドーリアは、カルロス1世の意向もあって、ヴェネツィアに名をなさしめることを嫌って、勝ちに出ない作戦を採用、勝利をわざと逃がす。当時、イタリア半島はヴェネツィア以外、スペインの支配下にあった。
 これにより、オスマン帝国は地中海の3分の2を支配し、地中海はスレイマンの海となる。1540年、ヴェネツィアはトルコと講和条約を結んで、東地中海交易を再開するが、スペインはキリスト教徒国の盟主としてトルコや海賊との戦いを継続する。
 聖ヨハネ騎士団は、十字軍時代後ロードス島に本拠を移していたが、1522年スレイマンによって撤退させられる。その後、クレタ、シチリア、イタリアと流浪し続けるが、1530年カルロス1世からマルタ島を与えられて、マルタ騎士団となる。彼らは、トルコとの戦いの最前線に立ち、1565年には、大挙して押し寄せてきたトルコ軍を苦戦の末、それを敗退させるという、大きな成果を上げる。
 1570、71年、ローマ教皇はキプロスをトルコに奪われそうになったヴェネツィアの要請を受け入れ、神聖同盟を呼びかける。それにスペインは渋々応じる。1571年の連合艦隊はガレー203隻、そのうちヴェネツィア110隻、スペイン72隻、教皇12隻などであった。1571年10月、ギリシアのコリント湾口のレパントの海戦にのぞみ、海賊で構成されたオスマン帝国艦隊277隻にはじめて大勝する。ヴェネツィアは、1540年ガレーを長さ40メートル、幅9メートルの帆漕併用船として改良し、多数の大砲(船首と船尾に大砲8門、左右の舷側に7門の陸砲)を搭載した、ガレアスを6隻投入して、この海戦を勝利に導いた。また、スペイン船や乗組員の3分の2は、ジェノヴァなどが提供したものであった。
 この「レパントの海戦」は地中海でガレーによって行われた最大でかつ最後の海戦、しかも十字架を掲げた最後の闘いとなった。この勝利によってキリスト教徒たちは大きな自信をえたというが、実際にはまったく見せかけの勝利であった。それによって地中海がオスマン帝国の海でなくなったわけでもなく、キリスト教徒は戦前の1570年にキプロス、戦後の1574年にテュニス、さらにその後の1660年にはクレタを失っている。
 この海戦にかかわりなく、東西交易のルートはすでに地中海から、大西洋に移転してしまっていた。スペインとオスマン=トルコの戦いは、行き詰まり状態のまま、次第に下火になっていった。そのおかげでスペインは辛くもヨーロッパやアメリカ方面に専念できるようになる。
 なお、塩野七生著『ローマ亡き後の地中海世界 下』(新潮社、2009)は、そのすべてがアンドレア・ドーリア一族と赤ひげバルバロスの一味との積年の戦いを記述したものである。
レパントの海戦の艦隊配列図
フェルナンド・バーテリ画
バチカン博物館蔵
▼スペイン無敵艦隊、イングランドに敗北▼
 1556年、カルロス1世は息子のフェリペ2世(在位1556-98)に王位を譲る。カルロス1世は質実剛健、フェリペ2世は慎重居士、その後のフェリペ3世(在位1598-1621)は放蕩息子と呼ばれる。それはともかく、スペインのアメリカ大陸支配が確立して、莫大な金銀が流入するようになり、スペインの黄金時代の真っ盛りとなる。しかし、その16世紀後半から、スペイン帝国はオスマン帝国の進攻といった外憂と、オランダの反乱といった内憂を抱え、その繁栄に陰りがみえはじめる。
 フェリペ2世は熱心なカトリック教徒として、ネーデルラントのプロテスタントに弾圧を加えていたが、1568年ネーデルラント北部諸州を中心に反乱が起きる。1581年にはオランダが独立を宣言するまでになる。イングランドのエリザベス1世(在位1558-1603)がオランダの独立戦争を支持していたため、スペインはオランダの独立を鎮圧するにはイングランドをたたく必要に迫られる。
 フェリぺ2世は、1587年前スコットランド女王でカトリック教徒のメアリが処刑されたのを機に、イギリス侵攻を決意する。1588年、イギリス人が後に命名したという無敵艦隊(アルマダ)(68隻の戦艦を含む艦艇130隻、船員1万人、陸兵1万9000人、2431門)を派遣する。そのなかには、スペインが併合したポルトガルをはじめ、それが支配するナポリ、シチリアなどの支配地域やダルマツィアの艦艇も含まれ、ビスカー湾艦隊にはバスクの捕鯨船がかり出されていたという。
 しかし、、ドーヴァー海峡での海戦で、イングランド艦隊(新造の超大型戦艦をを含む34隻、12000排水トン、乗員6225人、678門の艦艇と、200隻以上の当時普通に武装していた交易船)に屈辱的な敗北を蒙る。その後、スペイン艦隊は再建されるが、「太陽の沈まぬ帝国」の威信は失墜、スペインによる世界支配体制は崩壊して、世界における海事勢力の交代の先駆けとなる。
 無敵艦隊には、インディアス交易に使われていた大型船と有能な船員が徴用された。その敗北はインディアス交易に甚大な被害を及ぼし、用船料や保険料が跳ね上がった。植民地の商人たちは、金銀を手元に留めておくことを選んだ。それに当たり、スペイン王室は「サブラ」と呼ばれる高速船からなる小艦隊を編成して急場をしのいだ。1590年から、ミリョネスと呼ばれた食品消費税が徴収され、それが艦船建造に充当され、また古船も再生されたこともあって、フロータやガレオンの艦隊が再び編成することができるようになったという。
 この「サブラ」は100ないし200トン規模の小型帆船の名称で、カンタプリア沿岸で漁船として用いられる場合が多かったが、「クルタナ」と同じようにラティーン帆を備えており、本国と西インド間の通報艦として用いられたとされる。
 ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)は、レパントの海戦にも参加して功績を挙げるものの重傷を負う。その帰途、海賊に拉致され、5年間アルジェで捕虜となる。そして、無敵艦隊の食糧調達吏となるが、戦費を預金した銀行が破綻して、国庫横領罪に問われる。入獄した際に書き始めたのが『ドン・キホーテ』(1605、15年刊行)である。それは、すでにスペイン衰退を見て取っており、風車に向かって突進する騎士ドン・キホーテの姿は、大義を失ったにもかかわらず戦いつづけるスペイン帝国のあしざまを暗喩したといえる。
 なお、岩根圀和著『物語スペインの歴史』(中公新書、2002)は、ミゲル・デ・セルバンテスとその時代を、ドキュメンタリー・タッチで記述したものである。
▼ネーデルラントの反乱、輸入代替産業の成立▼
 スペインは、レパントの海戦に勝利したものの、大西洋では身内の脅威にさらされていた。1572年4月、オランダの「海の乞食団」(ゼー・ゴイセン)(反乱の指導者オラニエ公ウィレム(1533-84)の特許状を持つ、オランダ人プロテスタントの私掠船団)がロッテルダム近郊のプリールの港を占領、反乱軍は北部のほとんどの都市を掌握、反乱の拠点とする。それによってネーデルラントの反乱がほとんど鎮圧不可能となる。
 オランダ人は1568年反乱後、20年間もイベリア半島と交易を続けていたし、スペインもそれを受け入れていた。スペインは、穀物・木材・船舶用品を北東ヨーロッパに依存しており、そのほとんどをオランダの船が輸送していた。フェリペ2世は、それに苛立ち、オランダ経済に打撃を与えようとして、1585年、1595年にオランダ船がスペインとポルトガルの港に出入することを禁止した。この措置はお互いを制約するだけであった。
 オランダ人にとっては、スペイン植民地の銀や産品ばかりでなく、自らの主たる産業であるニシン塩漬けに不可欠なポルトガルのセトゥーバル湾の塩を失うことであった。彼らは、これに対抗するため、自分たちが必要としている商品を、その生産地であるカリブ海やアメリカ植民地に直接に出向いて獲得しようとする。
 オランダ人たちは、1594年からカリブ海に定期的に船を出し、1599年には塩を産出するギアナ海岸で、現ベネズエラのアラヤ半島を占拠する。このようなオランダ人のカリブ海への侵入によって、同じくマルガリータ島(その沖合のクバグア島)の真珠養殖業は破壊され、スペインの植民地間の海上交易組織は混乱に陥ってしまう。スペインは、ここではじめて西半球で守勢一方に立たされ、その独占的な植民地支配はオランダ人やイギリス人のますます大胆になってくる攻撃にさらされることとなる。
 1579年、オランダの諸州はユトレヒト同盟を結び、1581年にはオランダの独立を宣言する。この独立はスペインにとっては、反宗教改革の失敗であったばかりでなく、経済的にも深刻な打撃を受ける。カスティーリヤとフランドルとの経済的な結びつきは壊され、ヨーロッパの交易の中心地はリスボンやセビーリャからアムステルダムにとって代わられ、またオランダ人によるポルトガル植民地の征服の前兆となったからである。
 1590年代、それ以前の数10年にわたるスペイン、といっても、カスティーリャのにわか景気が終わりを告げ、アメリカ植民地の経済構造が変化して、それまでのような海上交易が維持できなくなる。アメリカ植民地ではスペイン本国に類似した産業が成熟、メキシコでは毛織物工業が発達、ペルーではいまや穀物・ぶどう酒・オリーブ油が生産されるようになる。さらに、1570年代からマニラから中国産の奢侈品やアジアの香辛料が将来するようになる。
 これら商品は、それ以前の数10年間、セビーリャから送られてきた積荷のかなりの部分を占めていた。そのなかでも、ヨーロッパの奢侈品はアジアのものより品質や価格に劣っていた。それにより、アメリカ植民地の移住者にとつて、スペインからの輸出品は不可欠なものではなくなり、1597年にはスペインの商人はあらゆる商品を処分することが不可能なことを知る。アンダルシアの繁栄の源泉であったアメリカ市場がはじめて在庫過剰となったのである。それはスペインにとって深刻な問題であった。
 「それゆえに、1590年代から、スペイン本国の経済とアメリカ領土の経済は別々に動き始めたが、一方、オランダとイギリスの不法侵入者たちは、このように広がる一方の間隙をぬってアメリカに入りこんでいった。実際には、セビーリャは新世界の交易に対する公式の独占権をまだ握っていたし、またセビーリャのアメリカとの貿易は1608年に空前の最高記録を達成した。
 その後、さらに12年にわたって貿易量に変動はあったとはいえ、依然として高い水準を保持し続けた。しかし、国の繁栄ぶりを示す指標として、この数字の持つ重要性をかなり割り引きして考える必要がある。なぜならば、この積み荷には、外国産のものの占める割合がますます大きくなりつつあった、という事実があるからである。スペインの生産する商品はアメリカが望まず、アメリカの望む商品はスペインでは生産されなかった」からである(以上、エリオット前同、p.330-1)。
▼ガレオン交易、中国商品と銀の交易▼
 スペインによるアメリカとアジアを結ぶ太平洋交易はガレオン交易と呼ばれる。1573年、フィリピンのマニラから、第1船がメキシコのアカプルコに入港する。それはポトシ銀山に水銀アマルガム法が導入された翌年であった。マニラからの積荷は主に中国商品であったが、絹織物、陶磁器、香辛料、銅、鉄、蝋など、スペインが供給できない安価な商品や高価の奢侈品を多く含んでいた。なお、ガレオン交易についてはWebページ【3・2・3 スペインのマニラと中国・日本との交易】を参照されたい。
 それら積荷の一部がペルーに再輸出され、その見返りにペルーの銀がアジアに流出することとなった。そこで、スペイン王室はセビーリャの商人の、ひいては王室の権益が損なわれるとして、1579、1582年フィリピン―ペルー間の直接交易や中国商品のペルーでの販売も禁止する。
 マニラのフィリピン総督やペルー副王は、それを無視したばかりでなく、中国との直接交易まで企画する。そのため、フェリペ2世はアカプルコ経由でペルーの銀がマニラに流出するのを防ぐため、1593年になるとアカプルコ―マニラ間の交易規模を年間300トンの船を2隻に限定し、マニラでの商品の買付け額を年間25万ペソ以下、アカプルコからの銀の持出し額の上限を年間50万ペソと定める。
 また、スペイン王室はペルー―メキシコ間の交易を一定の範囲内で許可していたが、1620年にはその量を制限し、1631、34年には全面的に禁止する。それは18世紀初頭まで廃止されることはなかった。これら数々の規則は守られなかった。16世紀末には、マニラ―アカプルコ―リマ(カリャオ港)―ポトシを結ぶ交易ルートができあがり、このル-トを通じて相当量の銀が移動していた。
▼17世紀の衰退と危機、人口と銀流入の減少▼
 フェリペ3世(在位1598-1621)は、1609年オランダと12年間の休戦条約を結ぶが1621年戦争を再開し、三十年戦争(1618-48)に介入する。これら戦争の継続で、税金や兵役の負担が著しく重くなり、1640年にはカタルーニャがフランス側に寝返り、次いでポルトガルで反乱が起きる。1580年スペインに併合されていたポルトガルは、1640年に独立を回復する。他方、オランダやフランスとの戦争でも敗退を重ね、スペインは1648年ウェストファリア条約でオランダの独立を承認し、1659年ピレネー条約でフランスにピレネー山脈北麓地方やフランドルの一部を返還する。
 1596-1602年、1647-52年にかけて、腺ペストがイベリア半島で猛威を奮い、膨大な数の犠牲者が出る。セビーリャの人口は17世紀初めには13万人を数えたが、1649年には7万人にまで激減する。それにより、手工業・商業活動は衰退する。それに加え、1609年のモリスコ(イスラーム教徒)の追放、戦争による犠牲、新大陸への移民などで人口は減少して、農村の荒廃がさらに進む。1606年、15年、31年には大きな食糧危機が起きる。
 こうした国内的混乱をさかなでするかのように、インディアスからのスペイン本国への銀の流入はすでにみたように16世紀末をピークにして次第に減少し、1630年代に入ると激減する。メキシコのサカテカス銀山などでは産出量も減少する。また、インディアスでは自給体制がさらに進んだことで、スペインからの農産物や低加工品を必要としなくなってきた。さらに、ヨーロッパ諸国はスペインの交易規制をかいくぐって、インディアスと直接取引するようになる。そのため、銀はセビーリャに陸揚げされることなく、北ヨーロッパへ流れ込むようになった。
 さらに、オランダやイギリスの私掠船の活動が強まり、大西洋交易のルートは頻繁に脅かされる。特に、ブラジル北東部沿岸はオランダの略奪に苦しめられる。それに加え、ブラジルの砂糖生産を独占する必要もあり、ポルトガルにとってスペイン帝国の一員であり続ける理由はなくなり、独立に向かう。
 16世紀後半の私掠船の跳梁についてはふれないが、1571年スペインがレパントの海戦に取り組んでいる最中、カリブ海ではフランシスコ・ドレイク(1540?-96)がスペインとの戦いに執念を燃やすようになっていた。さらに、彼は1577年にはエリザベス1世から、スペイン植民地や艦船の攻撃、香料諸島との交易、そしてマゼラン世界周航の追試という密命を受け、世界周航することになる。なお、彼はスペイン無敵艦隊との対決の前哨戦として、1587年4月カディス港内に停泊していたフロータを略奪して、セピーリヤの商人を震撼たらしめた。
 フェリペ3世は経済危機を通貨の改鋳によって立て直そうとする。しかし、それは貨幣の価値を混乱させ、インフレーションが進み、経済に悪影響を与えるだけであった。オリバレス伯公爵(1587-1645)の好戦的な対外政策は再び戦費を増大させる。そのもとで、フェリペ4世(在位1621-65)は1627、47、56、64年と国庫破産宣告を行う。
 この度重なる破産宣告を機に、外国人銀行家たちはスペイン王室から次々と撤退していった。カルロス2世(在位1665-1700)が王位を継いだ1665年には、王室の累積負債額は2億2千万ドゥカードにも達していた。
▼バカニアの時代、スペイン植民地の再分割▼
 16世紀末から、イギリスやオランダ、フランスはスペインの銀船隊などに対して私掠活動を展開してきたが、17世紀に入るとスペインのカリブ海における制海権(通商路)を破壊するだけでなく、自らもカリブ海に領土を持とうとしてカリブ海の島々に取りつくようになる。そして、イギリスやフランスに走狗された、バカニアがスペインの船やカリブ海の領土に襲いかかる。この時代を活写したのが、増田義郎著『略奪の海カリブ』(岩波新書、1989)である。
 オランダは、1621年12年間の休戦が終わると、スペインに対する攻撃を再開する。そして、同年、西インド会社を設立する。その会社は、東インド会社と同じように、西インド方面担当の軍事政府であった。西インド会社が、まず手を出したのは砂糖生産ブームを起こしたブラジル北東部であった。1624年にスペイン総督府のあるバイアのサルバドルを一時占領、1630年にはその北にあるぺルナンブコを占領し、1654年ポルトガル人に奪回されるまで保持し続け、サトウキビ農園を経営する。
アメリカの砂糖生産
砂糖生産は奴隷労働の使用が前提
セオドア・デ・ブリー(1528-89)画
 カリブ海では、オランダ西インド会社の艦隊がスペインのカリブ海交易路に猛攻撃を加えていたが、1628年には提督ピート・ハインが率いる31隻の艦隊が、キューバ沖合でメキシコ帰りのスペイン護衛船団をまるごと拿捕している(略奪した銀、400万ドゥカート、80トン)。1621年から1634年までに、スペイン船540隻を拿捕して、1.5億リーブル相当の品物を略奪したという。まさに、スペインがインディアスから奪ったものを、オランダ再び奪うという戦争である。
 オランダは、1635年キュラサオ島を占領して、カリブ海の基地とする。翌年にはギアナに押し入る。そして、オランダ商人はもっぱら大西洋の運び人かつ売り捌き人となって、それら島々で生産されるタバコや砂糖を積み取る。なお、彼らは1626年にはハドソン河口のマンハッタン島を買っている。
 1624年、イギリスとフランスがほぼ同時にセントキッツ島に入植したのを皮切りにして、イギリスは1627年バルバドス島、1632年アンティグア島、フランスは1635年マルティニーク島とグアドループ島に、それぞれ入植する。
 しかし、スペインのカリブ海における制海権が完全に崩されたわけではなかった。17世紀後半、オランダやイギリス、フランスがそれを切り崩すに当たって利用したのが、カリブの海賊=バカニアと呼ばれる集団であった。彼らは、私掠船の廃止で職を失った船員、商船や遠征艦隊、農園からの逃亡者、スペインに圧迫された新教徒たちであった。イギリス系のバカニアはジャマイカ島のポート・ロイアル(1692年の大地震で崩壊)、フランス系のバカニアはヒスパニオラ島沖のトルチュガ島を巣窟とした。彼らのなかでもっとも名をあげたのが、ヘンリ・モーガン(1635?-88)であった。
 スペインは、このバカニアを利用するカリブ海制海権争いに屈して、1670年にイギリスとマドリード条約を結んで、ジャマイカなどカリブ海領土の領有を承認する。また、1697年にはフランスとライスワイク条約を結んで、ヒスパニオラ島の西約3分の1をフランス領サンドマング(サントドミンゴ)として認知する。それら条約によって当面の妥協が図られると、私掠船にもまして不正規な戦力であるバカニアの必要はなくなる。
 バカニアに、その利用価値がなくなっても消滅するわけはなく、17世紀末から18世紀初頭にかけて、名実に恥じない「カリブの海賊」に転身する。そのなかでも、北米カロライナ沿岸で壮烈な最期を遂げた「黒ひげ」のエドワード・ティーチ船長(?-1718)や、マダガスカルに活路を求めたキャプテン・キッド船長(1645?-1701)、世界周航を水先したウィリアム・ダンピア(1652-1715)などが有名である。
 このバカニアの時代は、オランダ、イギリス、フランスがそれぞれにおいて、スペインのカリブ海制海権を打ち砕こうし、その成果としてスペインのカリブ海植民地を再分割させた時代であった。その結果、大西洋における主たる海事勢力はスペインから、イギリスやフランス、オランダに完全に移行することとなった。なお、それはカリブ海制海権をめぐる決着だけではなく、ヨーロッパ大陸におけるスペインの覇権の消失を反映していた。
▼18世紀、覇権の消失と経済の空洞化▼
 病弱なカルロス2世(在位1665-1700)の治下では政治が麻痺し、貴族間の勢力争いが続いた。1700年、カルロス2世が死去して、スペインのハプスブルク朝が断絶すると、フランスのブルボン朝のルイ14世の孫アンジュー公がフェリペ5世(在位1700-24、復位1724-46)としてスペイン王に即位する。ブルボン朝スペインがはじまる。
 しかし、ブルボン家に脅威を感じたオーストリアのハプスブルク家はスペイン王位の継承権を主張し、イギリス、オランダ、プロイセンと同盟して、1701年フランスとスペインに宣戦布告する。スペイン継承戦争の始まりである。
 それを終始する1713年のユトレヒト条約により、フェリペ5世のスペイン王位は承認されるが、ヨーロッパにおけるスペイン領土のほとんどがオーストリアに割譲されることとなった。他方、イギリスはスペインから奴隷交易のアシエントを獲得するなど、スペインとその植民地への交易が認められる。それはスペインのインディアス交易の独占体制の崩壊のはじまりとなる。
 スペインはブルボン朝のもとで、国内の諸制度の改革がすすめられ、植民地経営の立て直しもあって、スペイン経済は回復しはじめ、人口の増加がみられた。そのなかでも、カスティーリャほどの激しいインフレをこうむらなかったカタルーニャではブドウ栽培が盛んとなり、北ヨーロッパへブランデーが輸出され、またバルセロナ商人は都市と農村部を有機的に結びつけた織物業を組織する。
 しかし、ヨーロッパ諸国と比べて、スペイン経済の立ち遅れは明らかであった。1686年に、カディスからスペイン領アメリカへ輸出された商品のうち、スペイン製品はわずかに5パーセントにとどまり、フランス40、ジェノヴァ17、イギリス14、オランダ12、フランドル7、ハンブルク5パーセントという構成になっていた。スペインの海上交易の中継交易性がさらに進行していた。
 この結果として、この時期、アメリカの銀はほとんどが荷揚げされずに、カディス港からただちにヨーロッパ諸国に送られた。スペイン帝国という重圧は、スペイン経済がアメリカからの需要に応えることも、アメリカの富を利用することもできなかったのである。それら現象は、すでに16世紀中頃に、トマス・デ・メルカードたち(前出)が憂慮をもって指摘していたことであった。

トマス・デ・メルカードと
その書物
▼若干のまとめ▼
 近世スペインはどのような国であったかについては議論が多いようである。その一環といえるスペインの海上交易も一筋縄ではいかないようである。まず明らかなことは、その海上交易はスペイン経済とともに、3つの地域性を持っていたことであろう。スペインの海上交易は、その発達の順序に並べて、@カタルーニャは地中海を向いて、A北部カスティーリヤはフランドルや北ヨーロッパを向いて、Bセビーリャとその後背地はアメリカ植民地を向いて交易していた。
 カタルーニャの地中海交易は、イタリア海港都市と同じような性格の交易を、それらに匹敵する海事勢力でもって展開していた。しかし、カタルーニャにはヨーロッパ中央部へのアクセスに乏しく、ジェノヴァなどが西地中海に進出してくると、その凋落は不可避となった。アメリカ植民地交易が発達しても、それがカスティーリヤの交易であったため、それから排除されたし、それに参画する意欲もなかったので、カタルーニャに近世の海事勢力が再構築されることはなかった。
 北部カスティーリヤのヨーロッパ交易は、早い時期からヨーロッパ中央部との交易を展開してきた。その交易は、カタルーニャ産の羊毛や鉄の地金など原材料品を輸出、毛織物や加工品、贅沢品を輸入するという、植民地交易の性格を持ち続けた。そのなかにあっても、北部カスティーリヤには一定の海事勢力が構築され、南部カスティーリヤの交易の基礎となった。しかし、その海事勢力を長期に維持しえたとはみられず、次第にオランダに奪われたかのようにみえる。
 アメリカ大陸「発見」後、それを支配することとなったスペインは「太陽の沈まぬ帝国」となり、それに相当する海事勢力が構築されることとなった。このアメリカ植民地交易は近世植民地交易の先駆けとなった。スペインは、移住者に必要なあらゆる商品や奴隷を輸出し、アメリカ植民地から銀や砂糖など植民地産品を輸入した。
 スペインの植民地交易においては、その主たる輸出品が後世のような原材料品ではなく、金銀貨幣あるいは金銀地金であったことである。そのほとんどが、スペインという帝国を維持するための軍事や宮廷の費用として、そして移住者の栄華に必要な物品を国外から買い付けるための費用として費消され、産業投資されることがなかった。
 そのため、後世のように、輸入国において、植民地産品を加工する新旧の産業が勃興して、工業製品を植民地や第三国に輸出するといった、産業循環効果をもたらさかった。さらに、スペイン植民地産の貴金属や砂糖、タバコなどは、黒人奴隷や先住民の強制労働によって生産されたものであった。したがって、彼らの血と汗の結晶である銀が、彼らの幸福のために使われるわけもなかった。
 J.H.エリオット氏は、銀がスペイン産業に投資されなかった例であるかのように、「スペインが、新世界との貿易について、実際に独占体制を保持し続けるつもりであれば、船舶は緊急に必要であったにもかかわらず、深刻な船舶不足の問題に取り組む努力はまったくなされなかった」という。スペイン帝国にあっては、まともな海事勢力が形成、維持されたとは評価されていない。
 それに続けて、「だが、もっとも重大な失敗は、アメリカから供給された銀を、カスティーリヤ経済の利益のために使う施策を案出できなかったことである。この失敗の責任は、直接的には財務会議が負わねばならないが、最終的にはカルロス5世が、その銀を自分の帝国拡張政策への資金調達につぎこんだ」ということにあったとする(エリオット前同、p.220)。
 スペインの植民地交易は、後世において典型的な形態をとった、三角交易の先駆けであるかにみえる。確かに、スペインがアフリカに雑貨を輸出して、黒人奴隷を購入する。そして、スペインはアメリカに奴隷や様々な商品を輸出して、アメリカから植民地産品を輸入するという流れをみる限りでは、その通りであろう。
 しかし、アメリカ植民地の移住者の高級品志向が強まるが、スペイン国内にはそれに適応できる産業が育成されていない。そのため、アメリカ植民地向け商品はヨーロッパ諸国からの、さらには中国やアジア諸国からの中継商品が次第に多くなり、スペインの中継交易性が一層強まる。
 さらに、アメリカ植民地において輸入代替産業が整備されるにつれ、またオランダやイギリス、フランスなどの密交易が盛んになると、スペインの中継交易さえほりくずされて、スペインを経由しない、ヨーロッパ諸国とスペインのアメリカ植民地との直接交易が広がる。
 スペインは三角交易の頂点に立って、それを取り仕切ってきたかにみえる。その場合、スペインが宗主国の立場を保ちえたのは新規かつ大量のアメリカ植民地産の銀をもって、アメリカ植民地に輸出する商品を買い付けることができたからである。しかし、アメリカ植民地に輸出する商品に占める自国産品が少なくなり、ヨーロッパ産品が産出国から直接に輸出されるようになると、スペインが三角交易の頂点に立っているのは見せかけにすぎなくなる。そして、いずれその交代が行われることとなる。
 総じて、スペインは中世末期、原材料輸出・その加工製品輸入国として出発し、それを引きずりながら、16世紀から17世紀半ばまでアメリカの銀を媒介として、巨大な中継交易国となることができた。しかし、スペインはアメリカの銀をもって自国産業を育成しなかったため、中継交易国から脱却することはなかった。アメリカ植民地産の銀は、それを取り込んだヨーロッパ諸国において支払手段として大量に蓄積され、近代資本主義の形成の基盤となった。
 ヨーロッパにおける近代資本主義は、スペインのアメリカ植民地における銀生産、それを支えたとスペインの奴隷交易と中継交易を踏み台としたのである。ポルトガルやスペインなどによって、地球的な規模で海上交易が行われる過程は、「アメリカにおける金銀産地の発見、原住民の絶滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪の開始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらが資本主義的生産時代の暁光」(マルクス)と特徴づけられる過程であった。
(2007/09/25記、2007/10/25、2009/12/25補記)

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