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3・1・2 オランダ、世界最後の中継交易人

【目次】
3・1・2・1 バルト海交易とニシン漁から生まれるオランダ
3・1・2・2 東インド会社、ポルトガルの拠点にそびえ立つ
3・1・2・3 オランダ、イギリス・フランスに挟撃され、凋落
3・1・2増補 母なる貿易=バルト海穀物交易(上)
3・1・2 増補 母なる貿易=バルト海穀物交易(下) 

3・1・2・1 バルト海交易とニシン漁から生まれるオランダ

▼低地地方(ネーデルラント)というところ▼
 オランダは、低地地方(ネーデルラント)の北部にあるホラントがなまった、日本語でしかない。低地地方(ハプスブルク家が支配する高地ドイツに対する言葉)には現在、ネーデルラントと呼ばれるオランダのほか、ベルギー、ルクセンブルグが位置しており、ベネルクス三国と称せられる。それらの国境が画定したのは1839年であった。
 したがって、オランダはイギリス(以下、イングランドというべきものがほとんど)という言葉と同じように厳密な用語ではない。なお、フランドルという地方は、現在のベルギー北部にあるオランダ語圏を指しているが、中世にあっては低地地方の先進地であったことから、かなり広い地域を指している。
 低地地方の地理的条件について復習するまでもないが、北西ヨーロッパに位置していて、内陸に向けてはライン川やマース(ムーズ)川、スヘルデ川によってドイツ、フランスなどと結びつき、また海外に向けては北海に面して
フランドル都市のウォターフロント
ジャン・デュシェーヌ画、15世紀後半
Oxford, Bodleian Library蔵
いることでイギリスやスカンディナヴィアへのアクセスも容易である。
 中石器時代、低地地方の北部に湖沼があらわれ、狩猟・漁労種族が居住していたらしく、松材を使用した丸木舟がドレンテのペセで発見されている。前2000年頃、青銅器時代なると、低地地方では生産されない金や銀、銅がアイルランドや中部ヨーロッパから持ち込まれ、また北からのユトランド半島やプロイセンのザームラントの琥珀や、南からのエジプト産のビーズが発見されており、北西ヨーロッパと地中海との交易がはじまっていた。
 古代の低地地方には、ライン川下流の南側はローマ帝国領となったが、その北側はフリース人などのゲルマン系やケルト系の部族が住んでいた。ローマはやがてライン川をこえて、ライン川の河口部まで支配するようになる。ローマの支配下の250余年平和と繁栄が保たれ、ローマの商人は自由にこの地域に入り、イタリアやガリアから運んできた品物で商売したという。
 後300年頃になるとローマの支配力は弱まり、ゲルマン民族が東方から勢力を伸ばしてくる。サクソン人が低地地方の東部へ、フランク人が西部や南部へと移動してきた。ゲルマン民族のなかでももっとも勢力が強かった、フランク人はフリース人やサクソン人を次々に征服して、486年にはガリアのほぼ全域を支配するフランク王国を建設する。
 低地地方の中部から北部などの沿岸部にはフリース人が住んでおり、彼らは小舟を操りながら漁労や牧畜を営んでいた。そして、その産物を北海やライン川の上流に運んで、スカンジナビアの琥珀や毛皮、木材、イングランドの羊毛、フランスのワインと交換していた。そして、フリース人はフランク王国から、自分たちの土地を守り、キリスト布教に抵抗していた。
 低地地方は、800年までにカール大帝(シャルルマーニュ、在位768-814、西ローマ皇帝:在位800-14)の領土の一部となり、キリスト教化も進んだとされる。その時代、フリース人たちの交易は根を下ろしていたが、その中心はドレスタットであった。そこは、現在のユトレヒトの南東方、ラインとレック両川の分流点に位置しており、ローマ時代商港フェクティオを継承していた。このドレスタットも、863年のデーン人の攻撃、864年の火災で滅びたという。
 ドレスタットでは、「コルヌアイユ〔フランス、ブルターニュ半島の西端地方〕の錫、北方諸国の毛皮や鯨油、ライン川中流地方の葡萄酒が通過するのがみられた。また、羊の飼育がかなり大きな繊維産業を生み出していた。その生産品は、商人であって生産者ではなかったフリースラント人によってさばかれていた」という(モーリス・ブロール著、西村六郎訳『オランダ史』、p.11、文庫クセジュ、1994)。
 カール大帝の死後、フランク王国は3つに分裂するが、843年のヴァルダン条約で低地地方はロタリンギア領となる。この地域は東西フランク王国の係争地となるが、925年にはドイツ国王となったハインリヒ1世(捕鳥王、在位919-36)がそれを征服してドイツ王国、そして息子オ
中世初期のドレスタットのイメージ
ットー1世(在位936-73、神聖ローマ帝国皇帝:在位962-73)が弟のケルン大司教ブルノーにこの地を与えたことで、神聖ローマ帝国の一部に組み込まれる。
 中世初期、低地地方の都市は北海・バルト海交易に参加し、11世紀以降フランドル地方に毛織物工業が勃興して、その交易港としてブリュージュ(フランス語、オランダ語ではブルッヘであるが、使い慣れている前者を用いる)が栄える。16世紀アントウェルペン、17世紀アムステルダムが、世界最大の海上交易都市として飛翔する。現在、ロッテルダム港はヨーロポートとして、世界最大の交易港の地位を維持している。
▼領邦の形成、中世都市の成立▼
 9-10世紀には、ヴァイキングと呼ばれる北方からの侵入者が西ヨーロッパの海岸に入りこみ、川をさかのぼってまでして、交易と略奪を行うようになる。そのなかでも西ヨーロッパに深く浸透したヴァイキングはデンマークのデーン人であった。デーン人たちは、フリースラント、北フランス、東イングランド、およびバルト海南岸を遠征範囲として活動した。
 ゴドフレドという王(在位800-10)の艦隊が810年フリースラントを攻撃する。それ以後、彼らの侵入は続き、863年にはドレスタットが壊滅する。「ウァルヘーレン島も荒らされ、マース川河口のウィトラ、デーヴェンテル、ナイメーヘンは焼かれた。そして、ノルマンの君主たちは、ウァルヘーレンやケンネメルラント〔オランダ西北部の北海に面した地帯〕といった一部の領地を支配した。ノルマン人がこの地方にとって危険でなくなったのは、891年にケルンテン〔今日のオーストリア南国境近くの領域〕のアルヌルフ帝[?-937、バイエルンの部族公]がルーヴァンの近くで、彼らを破ってからであった」(ブロール前同、p.11)。
 ヴァイキングの侵入に対して、フランク王国はウァルヘーレン島やフリースラントに居留地を付与して、彼らに懐柔しようともしている。しかし、彼らの侵入に直面する地元支配者や商人、職人たちは、それぞれにおいて自衛せざるをなかった。それは王権の弱体化のもとで、地元支配者がフランク王国などに対して封建領主として自立し、低地地方において多数の公伯領あるいは領邦が形成される契機となった。なお、ヴァイキングについてはWebページ【2・4・2 ヨーロッパを揺さぶるヴァイキング】を参照されたい。
 12-13世紀、低地地方では神聖ローマ帝国やフランス王国に対して地域支配を確保した領邦が林立する。そのなかで、北部ではユトレヒト司教領、ブラバント公領、ホラント伯領、南部ではフランドル伯領、ブラバント公領、ヘルデルラント公領が有力であった。なお、北部のフリース人はいずれの領主の支配下にも入らなかった。また、低地地方では他のヨーロッパ諸国に先駆けて、領主から「自由と自治」をいわば買い取って、中世都市が成立する。
 ローマ時代ムーズ川沿いに、9世紀にはそれに加えスヘルデ川沿いに、商人の定住地が現れる。そのなかでも、低地地方の南部ではトゥールネがフランク王の支配中心地として重要な都市となり、カントヴィックはイギリスとの交易拠点となっていた。北部では、フリースラントに7世紀末北海・バルト海と交易する港(ポルトゥスまたはヴィークス)が生まれたが、ドレスタットやデファンデルが栄えた。
 12世紀後半から14世紀後半にかけて、低地地方の都市人口は増大するが、そのなかでもフランドル地方がめざましい発展を遂げる。13世紀、ケルンからマーストリヒト―ブリュッセル―ヘントを通って、ブリュージュにいたる新しい道が建設されたことで、それに沿ったブラバン
出所:佐藤弘幸著『図説 オランダの歴史 』、p.24、
河出書房新社 、2012
トを中心としたフランドル地方の都市が経済的繁栄を誇ることとなる。
 フランドル地方の都市は、フィレンツェと並ぶヨーロッパ最大の毛織物工業地帯であった。11世紀以後、フランドルの諸都市はイギリスから良質の羊毛を輸入し、高級毛織物を輸出して繁栄していた。12世紀後半になると、イギリスに羊毛を買い付けにいく商人たちはロンドン・ハンザ、シャンパーニュの大市に毛織物を運ぶ商人たちは17都市ハンザを結成し、都市では毛織物会館が建設され、羊毛商人や毛織物商人が仲介人を通して盛んに取引していた。
 なお、中世フランドルとハンザ同盟の関係については、Webページ【2・4・3 ハンザ同盟、ニシンと毛織物で稼ぐ】を参照されたい。
▼ブルゴーニュ家、ハプスブルグ家による統一▼
 14世紀、低地地方はフランスとイギリスの相克のあおりを受ける。フランドルは、フランスから圧力を受けると、それと戦闘を交えるが、フランスに屈服せざるをえない。1337年、イギリスとの交易が禁止されると、ヘント、ブリュージュ、イーペルといった有力な都市が同盟を結んで反乱、行政を掌握する。それを、フランドル伯ルイ・ド・マール(在位1346-86)がフランスの支援をえて制圧するが、その後はフランスから自立を追求、イギリスとも中立を保ちながら、婚姻によって領土を拡大する。
 フランス中部東寄りにあるブルゴーニュ公領は9世紀に生まれ、11世紀からフランス王国の一部となっていた。フランス王ジャン2世(在位1350-64)は、それを末子のフィリップ豪胆公(在位1363-1404)に与える。その兄のシャルル5世(在位1364-80)は、いま上でみたフランドル伯ルイ・ド・マールの相続人マグリットとイギリス王の息子との婚約を破棄させ、フィリップ豪胆公と結婚させる。
 これより、ルイが死ぬと、ブルゴーニュ、フランシュ・コンテ(ブルゴーニュ公領の東側にあるブルゴーニュ伯領)、レテル、そしてフランドル、アルトアにまたがる、当時キリスト教世界でもっとも裕福で、もっとも高貴にして、広大なブルゴーニュ公国(その中心都市はディジョン)が成立することとなった。フィリップ豪胆公はフランドルを妻に委ねる。そのため、彼の統治はフランスへの統合ではなく、低地地方の一体化を期待させるものとなったという。
 これより、ルイが死ぬと、ブルゴーニュ、フランシュ・コンテ(ブルゴーニュ公領の東側にあるブルゴーニュ伯領)、レテル、そしてフランドル、アルトアにまたがる、当時キリスト教世界でもっとも裕福で、もっとも高貴にして、広大なブルゴーニュ公国(その中心都市はディジョン)が成立することとなった。フィリップ豪胆公はフランドルを妻に委ねる。そのため、彼の統治はフランスへの統合ではなく、低地地方の一体化を期待させるものとなったという。
 ブルゴーニュ公による低地地方の統一は、フィリップ善良公(在位1419-67)によって強力に推し進められる。ホラント伯領の後継争いに乗じて、その後継者に1428年ユノー、ホラント、ゼーラントの3伯領およびフリースラントの支配権を承認させ、1433年には一切の権限を放棄させる。また、1420年ブラバントとリンブルフ両公領、1429年ナミュール伯領、1441-43年ルクセンブルク公領を取得し、リュージュ司教領を除く、全低地地方を掌中に収める。さらに、1435年イギリスとフランスを取り込んで、ピカルディとブローニュをも併合する。
 フィリップ善良公は、約50年の治世において、旧領邦やフランドルの諸都市に根強く残っている地方自立主義を抑えて、中央集権的機構を確立する。また、その跡を継いだシャルル突進公あるいは大胆公(在位1467-77)も、都市の権限を制限して、行政機構の整備に尽力したとされる。
 ブルゴーニュ本国と低地地方とは地理的に分離しており、それを繋ぐことがブルゴーニュ家の宿願であった。シャルルは、バルト海から地中海にいたる回廊状の王国建設という夢に突進して、ロレーヌ地方を占領することに成功する。しかし、1477年彼はフランス王に支援されたロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで、戦死する。その死後ブルゴーニュ国家は一挙に凋落の憂き目にあう。
 ルイ11世(在位1461-83)はブルゴーニュ、ピカルディ、アルトワ、ブローニュ地方を取り戻す。突進公の娘マリ・ド・ブルゴーニュ(在位1477-82)に残されたのは低地地方のみとなった。マリは、低地地方の都市に特権を認めたため、それ以前に築かれた中央集権機構は解体してしまう。そして、同年マリはオーストリア大公の皇太子マクシミリアン(ドイツ王:在位1486-1519、神聖ローマ皇帝:在位1493-1519)と結婚する。
 1477年、マリが事故死すると、彼らの息子のフィリップ端麗公(または美公、在位1482-1506)が伯位を継承、それ以後低地地方はハプスブルク家の家領に組み込まれることとなる。マクシミリアン1世が端麗公の摂政となるとフランドルでは反ハプスブルク勢力が築かれ、騒乱が発生する。この時期から、低地地方の独立の機運が芽生えはじめていたのである。
▼オランダの母なる交易、バルト海の穀物と木材▼
 13世紀、ハンザ商人がバルト海交易を取り仕切っていたが、フランドルにとって北ドイツは毛織物の最大輸出市場となっており、バルト海から穀物や木材、瀝青などを輸入していた。それに低地地方のフリースラントの船が進出していた。フランドル人は特権を持つハンザ商人に反感を持っていた。1358-60、1388-92年には、ハンザ同盟はフランドルを経済封鎖して、フランドルを屈服させる。
 しかし、フランドル人の反発はなくならない。15世紀に入ると、低地地方の船がバルト海に直接は入り込み、ハンザ同盟に関わりなく、バルト海諸国と直接交易するようになる。他方、バルト海諸国にあってもハンザ同盟の束縛から離脱しようとして、低地地方の船の参入を歓迎するようになる。それに対してハンザ同盟はますます抑圧的になる。
 15世紀前半、ブルゴーニュ時代になると、ホラントなどの低地地方の港はハンザ同盟と互角の戦争を交えるまでに強力となって、私掠活動を展開する。1437年には低地地方の都市がバルト海に艦隊を派遣する。デンマークはハンザ同盟と戦争までして対立するまでになる。ハンザ同盟の中核をなしていたリューベックやロストク、ヴィスマルといったヴェント諸都市も、デンマークの支援を受けたオランダと妥協せざるをえなくなり、1441年コペンハーゲン協定を結び、低地地方の船の自由な交易を認める。
 その後も、オランダとハンザ同盟との対立は継続されるが、すでに力関係は元に戻ることはなかった。15世紀末、ズント海峡を通過する790隻のうち、低地地方の船が51パーセント、ハンザ都市の船が40パーセントになっていた。また、ダンツィヒ港を出帆、ズント海峡を通過した隻数は、1560年にはダンツィヒなどハンザ都市の船218隻に対して、オランダの船は420隻となっていた。その80年後の1620年には、ハンザ都市の船はわずか44隻にまで減少し、オランダの船は892隻と圧倒的な数になった。
 こうしてオランダのバルト海交易は「母なる交易」となる。そのなかにあって、穀物交易は15・16世紀には最大の交易部門であった。穀物(最初はライ麦、次第に小麦が増える)の輸出元はドイツ東部やポーランドのバルト海沿岸で、その主な積出港はダンツィヒ(グダニスク)であった。バルト海地方には、穀物の対価としてイベリア半島やフランス南西部産の塩をはじめ、毛織物、ワイン、果実、ニシンなどを輸出していた。
 その海上交易や漁業に使われる船舶を、オランダはバルト海地方から輸入した木材でもって建造してした。また、オランダはバルト海から穀物を安定的に輸入できたことから、その農業は利潤の大きい商品作物(野菜、果物、アカネ、ホップ、菜種、亜麻、麻)や酪農などに特化することとなった。
 それに伴って、ホラントとゼーラントは海上交易を幅広く手がけたことで経済的に優位に立ち、同じ低地地方北部のヘルデルラントやオーフェルアイセルは農業活動に力を入れることになる。他方、フリースラントは海上交易の拡張に乗り遅れ、もはや大した役割を果たしえなくなる。
 アムステルダムは、ホラントのしがない漁村にすぎなかったが、11世紀、ゾイテル海(現在はアイセル湖)が天候の変化により北海とつながったことによって、港市の道を歩みはじめる。1275年、アムステルダムの商人たちは、ホラント伯フロリス5世(在位1256-96)から海上交易を認められ、14世紀初めには自治都市権を獲得する。14世紀半ばには、埠頭を建設し、城壁をめぐらして、交易港となる。
 アムステルダムは、14世紀からのハンブルクの、そして16世紀からのアントウェルペンの海上交易の下請け人となることで、世界一の港市としての地位を極めるまでになる。14世紀、ハンブルクの交易品を取り扱っていたが、そのなかでも特産品のホップ・ビールのステープル(指定市場)」となり、その世紀半ばにはその輸出量の30パーセントを受け入れるまでになり、15世紀後半には低地地方北部最大の港となる。アムステルダムも、ハンザ依存から抜け出して、独自に中継交易を行うようになる。それはハンザとの対立を呼ぶこととなる。
 低地地方がハプスブルク帝国の支配下に置かれると、アントウェルペンがにわかに「世界市場」として躍り出る。アムステルダムは、アントウェルペンの最も忠実な「海の運搬役」を引き受ける。16世紀、アムステルダムをはじめとした、ホラントやゼーラントのの船舶は進取の気象を大いに奮い起こし、低地地方の需要に応じるだけではなく、中継貿易に全力を注ぐことになる。
 「この中継貿易は《洋上の荷車引き》ともいうべき性格を帯びてくる。スウェーデン産の鉄やバルト海沿岸諸国の穀物や麻をフランスやイベリア半島の港に運び、そこから葡萄酒や香辛料を積んでズント海峡〔デンマークとスウェーデン南端との間の海峡〕に戻ってきた。スペイン時代の幕開けは、これらの交流にとって明らかに有利なものとなろう。そしてそれは、フェリペ2世[在位1556-98]が反逆者たちの船舶に出航停止を命ずる時まで続く」。
 これよりかなり前から、イギリスは羊毛だけでなく毛織物を輸出しはじめており、冒険商人(マーチャント・アドヴェンチャラース)たちが低地地方に入り込んでいた。オランダは、1496年2月ヘンリ7世[在位1457-1509]と最恵国協定を結んで、イギリス港での商業上の交通と沿岸での漁業の相互の自由が保障される。しかし、それはつかの間の蜜月となり、イギリスが生まれ来つつある競争相手であることを気づかされる。
▼低地地方、太陽の沈まぬ帝国の一部▼
 1496年、フィリップ端麗公と、アラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イサベルとの、すなわちカトリック両王の王女フアナ(狂女王フアナ、
 カスティーリャ王在位1504-55)とが結婚する。1506年、端麗公がこれまた急死すると、その子シャルルが所領を継ぎ、1515年伯位を継承する。1504年、イサベルの跡を継いで、フアナがカスティーリャ女王となる。1516年、アラゴン王フェルナンドが死ぬが、狂女フアナが退位しないため、シャルルがカスティーリャ・アラゴン連合王国、すなわちスペインが政務を代行することとなる。
 ハプスブルク家は、ヨーロッパ大陸を北から南に縦断する国々ばかりでなく、その勢力を拡大しつつある「新世界」にまたがる、太陽の沈まぬ帝国の支配者であった。1519年マクシミリアン1世が世を去ると、シャルルはフランス王フランソワ1世を破って、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王:1516-56、皇帝:1519-55)となる。ただ、このハプスブルク帝国はカール5世の家産の集合体にしかすぎず、フランスやイギリスのように一体的な国家構造を備えてはいなかった。
 カール5世は、1522年オーストリア=ハプスブルク家の所領を、弟フェルディナントに委ねる。スペイン=ハプスブルク家にとって、北西ヨーロッパに位置する低地地方はフランスやドイツ、イギリスに対する政治的・軍事的拠点であった。また、アントウェルペンの金融市場の発展はカール5世にとってたえざる戦役の費用を拠出してくれる財源であった。カール5世は、先に失ったフランドルやアルトワ、トウールネジの宗主権を、フランスから取り返す。
 そればかりでなく、さらなる領域の拡大を目指す。1524年ヘルレ公カーレルの支援を受けて長く抵抗を続けてきたフリースラント、1528年にはカーレルを打破してユトレヒト司教領とオーフェルエイセル、1536年にはフローニンゲンとドレンテ地方を取得し、そして1538年にはカーレルのあとを継いだユーリヒ公ウィレムを抑えて、1543年ヘルレ公国を併合する。
 カール5世が支配した領域は諸領邦の連合にすぎなかったが、一方では地方自立を容認し、州議会や全国議会の意向を尊重する姿勢をみせつつ、他方では統一の方向を推し進め、1549年には低地地方が「永久に不可分である」こと、それがハプスブルク家に継承されることを、全国議会に承認させる。彼は1555年長子のフェリペ2世に低地地方を譲る。
 なお、低地地方が17州と呼びならわされるのは、カール5世が帯びた17の称号(ブラバント、リンブルフ・ルクセンブルク、ヘルレの各公、フランドル、アルトワ、ユノー、ナミュール、ホラント、ゼーラント、ズトフエンの各伯、アントウェルペン辺境伯、メヘレン、ユトレヒト、オーフェルエイセル、フリースラント、フローニンゲンの各領主)に由来する。
▼アントウェルペン、ブリュージュに代わる▼
 中世、低地地方は南部のフランドルにおける毛織物工業を中心に発展してきた。それに対して、北部の現オランダ地方は遅れを取っていた。フランドルの交易港ブリュージュは、14世紀半ば「キリスト教世界の仲立人」あるいは「中世の世界市場」と呼ばれた。しかし、14世紀後半になると、ドイツ・ハンザ商人が北海交易を支配し、イギリス商人が羊毛に加えて毛織物を持ち込んでくると、ブリュージュの商人の優位は崩れる。
 マクシミリアン1世は反ハプスブルク勢力との確執から、1483年ブリュージュに居留する外国人商人に退去するよう求める。1485年にはブリュージュと北海を結ぶズヴィン川の水路を閉鎖する。それ以前から、ブリュージュの外港であるダムは土砂の堆積が進んでおり、その命運はつきはじめてはいた。1488年になると、マクシミリアン1世は外国人商人に対して、アントウェルペンにおいて居留と取引を行うよう命ずる。
 こうして、北西ヨーロッパの交易の中心地はブリュージュからアントウェルペンに移転し、アントウェルペンは(フラマン語、フランス語ではアンヴェール、英語ではアントワープ)はフランドルのブラバント公領にあり、14世紀すでに2つの大市が開かれるほどであったが、15世紀末からハプスブルク家の結びつきから国際交易都市として躍り出て、未曾有の繁栄を遂げる。
 その事情について、石坂昭雄氏は「@イギリス毛織物のヨーロッパ大陸への輸入の窓口、すなわち毛織物輸出商組合の根拠
地となったこと。Aポルトガルがここを香辛料の販売基地として選んだこと。B中部・南ドイツの銀、銅、麻織物のスペイン、ポルトガルへの輸出基地となったこと」にあったとしている(同他著『商業史』、p.78、有斐閣双書、1980)。
1572年頃のアントウェルペン
 ブラウン/ホーヘンベルフ画
 ブリュージュなど毛織物を生産する都市はイギリス産毛織物の輸入禁止を働きかけていたが、アントウェルペンはその輸入に熱心なケルンの商人を迎え入れ、1496には年イギリスの毛織物輸出商組合(冒険商人組合)が指定市場としたことで、16世紀を通じて低地地方向けのイギリス産毛織物の輸入はアントウェルペンに集中する。
 アントウェルペンにあっても、ブリュージュと同じように、フランドルで生産された毛織物を輸出していた。彼らは、イギリスから輸入される毛織物に対抗して、サーイ(サージ)やバーイ(フランネル)、ラーケン(ラシャ)という薄手の高級な毛織物(梳毛織物)を生産していた。さらに、イギリス産の白地で未仕上げの毛織物を染色・加工して輸出してもいた。これら毛織物は、それまでと同じようにヨーロッパ諸国に対してばかりでなく、スペインやそれを経由して「新大陸」にも大量に売り捌かれ、「新大陸」の銀を取り込むようになる。
 アントウェルペンの交易がブリュージュと異なるのは、東西インド航路の発見によって、香辛料などアジア産品や「新大陸」の銀や砂糖が持ち込まれ、それらによって交易規模が大きくなり、取扱品目が多様化したことにある。16世紀中ば、アメリカ大陸で銀の産出が急増するが、スペインの銀船隊が持ち帰った銀は1か月も経たないうちに、アントウェルペンを経由しておおむね流出した。
 ポルトガルはアントウェルペンに、1501年にはじめて香辛料を送り込み、1508年にはカーザ・ダ・インディア(インド商務館)の代理店を設けて、ヨーロッパ向けの香辛料を一手に扱うようになる。それに応じて、イタリアや南ドイツ、フランスなどの商人たちは、香辛料の仕入先をヴェネツィアからアントウェルペンに切り換える。1530年からは、ヴェネツィアに持ち込まれた香辛料さえも、アントウェルペンに送られてくるようになる。
▼すべての商人に役立てる商品取引所▼
 1566年、フィレンツェ人グィッチャルディーニ(1483-1503、イタリアの歴史家・政治家)は次のように書いている。「漁場と航海はオランダ人にとって都合のよい環境にある。北オランダは西ヨーロッパの港だけではなく、同時にドイツ、リヴォルノ、ノルウェー、さらにバルト海の港でもある。この国ではブドウ園はないがブドウ酒が飲まれており、亜麻はないが亜麻布は豊富にある。羊毛がないのに非常に多くの毛織物を作り、木材がないのにおそらくヨーロッパ中の全住民よりも多くの船を造っている」(ジョルジュ・ルフラン著、町田実、小野崎晶裕共訳『商業の歴史』、p.82、文庫クセジュ、1976)。
 1531年アントウェルペンに世界最初の商品取引所が設立される。その銘板には「国籍と言語のいかんを問わず、すべての商人に役立てるために」とある。交易の自由が保証されたことから、イギリス、ポルトガル、スペイン、フランス、ドイツ、そしてイタリアが争って、商館や駐在員を配置するようになる。カール5世ばかりでなく、イギリスのエリザベス女王(在位1558-1603)など王侯も、アントウェルペンで資金を調達する。また、商品の信用状による受け渡し、交易の為替手形による決済が広範みられるようになり、船舶の売買や用船、海上保険といった取引が盛んに行われ、ヨーロッパ最大の商業・金融の中心地となる。
 アントウェルペンの最盛期は1520年から1560年代にかけてである。その
世界最初のアントウェルペン商品取引所
間、毎年外国船が2500隻以上入港したとされ、その規模はロンドンの4倍であったという。アントウェルペンでは、1526年以降ポルトガルを追放されたユダヤ人によるダイヤモンド細工が盛んになり、それ以外ではガラスや陶器、タピスリーの生産も盛んとなる。そして、ブルジョアを買い手とした、フランドル美術の中心地となる。アントウェルペンの人口は、1526年の5万人から1568年には10万人まで増加する。
 アントウェルペンの交易は、外国人なかでもイタリアやドイツ人の商人によって掌握されていたが、アントウェルペン出身の商人層も育ち、彼らはスペインやポルトガルとの関係を深めていき、イベリア半島やそれを介してアメリカとの交易や精糖業にも参入するようになる。しかし、プロテスタントを信じるオランダ商人が次第に優勢となり、カソリックを堅持するスペインに敵対するようになる。
 1568年オランダ独立戦争がはじまると、アントウェルペンは急速に衰退に向かう。アントウェルペンは、1566、76、そして85年スペイン軍の略奪と殺戮によって疲弊する。他方、オランダ反乱軍は1585年以降、スヘルデ川河口を封鎖して、アントウェルペンがスペインの港として機能することを阻止する。オランダ独立戦争は1648年になって終結するが、その際取り決められたウェストファリア条約はオランダのスヘルデ川河口の無期限封鎖を承認する。
 アムステルダムが、国際交易都市の地位をアントウェルペンから奪ったようにみえるが、それは新教徒の商人や手工業者たちがスペインに追われて移住した結果であって、アントウェルペンを壊したのはそれを作ったスペイン・ハプスブルク家であった。その結果、アントウェルペンの人口は1589年4万人にまで減少する。
▼オランダの北海ニシン漁船・バス▼
 オランダを、世界の海上覇権国に押し上げることになった産業は、まずは毛織物工業であったが、次いで様々な漁業であった。そのなかでも、ニシン漁業は「金鉱だ」と讃えられた。
 オランダ人は、9世紀スコットランドからニシンを買い付けており、また北海においてニシン漁を行っていた。その主な中心地は、ゾイテル海のエンクホイゼンとホールンであった。フロリス5世はホラントの漁師たちのために、イギリス王からイギリス沿岸での漁業権を獲得してやるなど、多くの便宜を図っていた。
 15世紀、バルト海入口にあるズント海峡にニシンの大群が押し寄せていたが、16世紀に入り、ニシンはノルウェー南西部に移動、1560年以降は北海のドッカー・バンクに移動した。この移動はニシンの波の静かな内湾での小さな漁船や定置網による漁労から、風波の激しい海に漁船を使って流し網を引く漁労への移行でもあった。それはオランダの漁船が得意とする分野であった。
 田口一夫氏のよれば、オランダでは1330年頃という早い時期にフランドルに住む魚卸商人のウィレム・ベーケルスゾーンなる人物が、「ニシンのえら(鰓)の下に切れ目を入れて内臓を抜き取り、すぐに塩水に漬け樽詰めする方法を提案したとされる。それに対して、ハンザやフランドルのニシン商人は、魚のかたちが崩れると強く反対したが、賞味期間を1年にも延ばすことができたので、ヨーロッパ各地に輸出できるようになった」とされる(同著『ニシンが築いた国オランダ』、p.35、成山堂書店、2002)。
 この方法は、この説明とは異なり、1380年に現オランダのゼーラントにあるビールブリエットという町の、同名の漁師が開発したと伝えられているという(その町には彼の銅像がある)。また、すでに11世紀頃のオランダ以外の文書にも記載されており、すでにかなり普及していたが、船上において漁獲後直ちに処理して保存するという、いわば遠洋漁業に適応した提案になっていたことに意義があった。
 北海ニシン漁船は船内加工の必要から、1416年にバスという新型船が開発された。その標準サイズは50-80トンで、船体は従前より細くして(長さと幅は4.5:1)船速を早め、また樽を多く積めるように船底を角張らせていた。そして、上甲板を持ち、マストは3本で横帆を張り、船尾は丸型であった。
 オランダのニシン漁は船団操業によって実施された。ニシン漁船も自衛していたが、海上の危険が予想される場合、護衛船が雇用された。船団は流し網漁船の他、運搬船、連絡ヨットで構成されていた。流し網漁船はニシンの塩漬けを行う工船でもあった。
 北海ニシン漁業は、@ブリテン島東岸の沖合で操業する大漁業(Grand Fishery)と、Aその沿岸とゾイテル海において行われる小規模漁業とがあった。大漁業は、6月シェトランド諸島からはじまり、9月ハンバー川沖、10月ヤーマス沖、
オランダの北海ニシン船団
コルネリス・ビールト画、1701
アムステルダム国立美術館
そして英仏海峡まで南下して、1月末に終わった。シェトランド諸島には、オランダ人の基地があった。なお、ヤーマスでは6世紀からニシン漁が盛んであった。
 ニシン漁船は共有船組合によって所有され、船長や漁夫も組合員であった。15世紀になると、漁夫、さらに船長も組合員でなくなり、賃金労働者となっていった。他方、共有船組合は都市の投資家によって構成されるようになる。17世紀になると、共有船組合がなくならなかったが、多くのニシン漁船はニシン商人が所有するところとなる。
 ニシン漁船のなかには、漁閑期、北海やバルト海との海上輸送、なかでも穀物郵送に従事していた。しかし、16世紀末フライト(後述)が新しい商船の型式が開発され、その大型化が進むと、、ニシン漁船の商船との代替性は相互になくなり、それに伴いニシン漁船は18-30人乗りから12-14人乗りに小型化していった。ニシン漁船の乗組員は、船長、塩漬け係、樽職人、見習い、多数の漁夫で構成されていた。
▼北海ニシン漁業とそれをめぐる争い▼
 16世紀、オランダ商人はフランスやイングランドに対する塩漬けニシンの御用商人として、次第にハンザ商人にとってかわり、17世紀初頭からはドイツおよびバルト海市場をも支配しはじめる。さらに、オランダ人は北海のドッガー・バンクやアイスランド沖においてタラ・ヒゲタラを収穫して、これをニシンとともに北ヨーロッパのみならずスペイン・ポルトガル、さらに地中海方面にまで輸出するようになる。
 当時の諷刺詩は「ニシンがオランダの交易を動かし、オランダの交易が全世界を支える」と歌った。また、「アムステルダムの町はニシンの骨の上に建っている」といわれた。このニシン漁業がオランダ経済に与えた影響について、田口一夫氏は次のように要約する。
 「北海ニシン漁業の遂行は、広い分野の技術と産業を育成した……その結果、オランダは蛋白資源を確保でき、貿易発展の基盤を確立し、さらに造船業を含めてオランダの国土に根ざした技術を存分に発展する機会が得られた。それは直接的に海運業の発達を促し、ひいては海軍育成の潜在力を高めていき、小国オランダの将来を約束することになった。何と言っても、北海での海上労働により鍛えられた人的資源は、オランダのシー・パワーの基盤であり、彼らあってこそ強大な海運力を発展できたのである」(田口前同、p.67)。
 すでに15世紀半ばから、オランダ産のニシンがバルト海沿岸に輸出されはじめていた。1595-1625年の平均でニシン1.5万トンの輸入に対して、バルト海沿岸は穀物を8万トン輸出していた。この穀物を、オランダはイベリア半島から地中海にかけて売り込んでいた。16世紀、オランダ政府は北海ニシン漁業から200万ギルダー(オランダ語ではグルデン)という、イングランドの毛織物の輸出高に匹敵するほどの税収入をあげていたという。
 1420年代のバルト海スコーネにおけるニシン漁は、バルト海のハンザ都市が中心の定置小規模漁業であったが、漁船の数は600-700隻、漁獲量は13000トンほどであった。それに対して、1540年の北海ニシン漁業にはオランダの漁船がヤーマス沖に300隻、その北方に500隻が操業し、フランス船が100隻、その他、地元イギリスや北欧3国、ノルマンディなど、おびただしい数の船が参加していた。
 16世紀後半のオランダの漁船の数は最低でも700隻、最多で1500-2000隻とされた。1630年頃、オランダの北海ニシン漁船は500隻、漁獲量25000トン、最大32500トンとなり、それはヨーロッパの総漁獲量の約半分に相当したという。
 また、16世紀中ば、オランダのニシンおよびタラを中心にした漁獲高は年8-9万トンに達し、その価額は約350万ドル(米ドルによる推定か)であった。スペインとの交戦中も漁業は休むことはなかった。17世紀初めまでには漁獲高は1000万ドルに増大し、17世紀末には約1500万ドルに上ったとされる。
 ここで問題は地元イギリスが遅れを取っていたことであり、それがオランダとイギリスとの戦争に誘因となる。1593年、イギリスはオランダ船を沿岸から閉め出そうとして、漁業条例を布告する。それは操業海面を14マイル以遠に設定し、さらに入漁税を取り立てることとした。それを、オランダ政府は無視したばかりか軍艦を派遣して。イギリス艦船を抑止して操業を続けさせる。
 1636年、イギリスはこの条例を再度布告、取り締まりを強化する。この時期になると力関係は変化しており、オランダは毎年3万ポンドの入漁税を支払うことになる。そして、このオランダの北海ニシン漁業も、三度にわたるイギリスとの戦争によって多数の漁船と漁夫を失い、外国人を雇用していたこともあって、その補充が見込めず衰退を余儀なくされる。1730年頃にはオランダの漁船は200隻にまで減少する
▼オランダ、北極のクジラ漁で一人勝ち▼
 オランダ人は、海外進出に当たってポルトガル人を警戒して、まず北極回りでアジアに向かう北西航路を開拓しようとする。1594年と1595年、それに1596年から97年にかけての3回の探検が行なわれる。しかし、1596年オランダ人の旅行家ヤン・フィゲン・ファン・リンスホーテン(1563-1611)の『東方案内記』が出版されたこともあり、それを諦める。
 ウィレム・バレンツ(1550頃-1597、その名にちなんでバレンツ海)とへームスケルタは、北西航路の最後の航海を果たし、名声を高かめた。彼らは、ノルウェーと北極点のほぼ中間にある、スヴァールバル諸島(かつてはスピッツベルゲン諸島と呼ばれた)の沿岸を探検したのち、バレンツ海とカラ海のあいだにあるノバヤゼムリャ島で冬営している。それら諸島周辺を、オランダは直ちにクジラ漁の漁場としたわけではなかった。
 また、イギリスにあっても北西航路を開拓しようとして、1607、08年にイングランドの商社の依頼を受けて、ヘンリー・ハドソン(?-1611?)がグリーンランドやスヴァールバル諸島の沿岸を北上して、北緯80度23分まで入り込むが、いずれも失敗する。なお、同じハドソンがオランダ東インド会社と契約して、1609年にハドソン川を発見する。
 西ヨーロッパの捕鯨は、古来からスペイン北部のバスク人によって行われていたが、16世紀にはカナダのニューファンドランド近海で行われるようにある。17世紀になると、バスク人のこうした活動に刺激されて、オランダやイギリス、デンマークなどがバスク人を使って、アイルランドやグリーンランド、スヴァールバル諸島などの北極圏を操業海域として、本格的な捕鯨をはじめるようになる。1611年、イギリスはスヴァールバル諸島にセイウチを捕獲する船を送り込み、捕鯨に先着する。翌年、オランダの捕鯨船を追随する。
 1614年にはオランダ北方会社が設立され、1642年まで捕鯨による利益を独占する。この会社が大きな成功をさめたとはされていない。オランダとイギリスとのあいだで、スヴァールバル諸島の領有権争いを起き、1620年には協定が結ばれる。イギリスの捕鯨業は失敗して撤退すると、オランダが一人勝ちして世界最大の捕鯨国・鯨油国となる。
 オランダの捕鯨が自由化されると、オランダの捕鯨は爆発的な成長をみせる。オランダの捕鯨船は、1669-1778年スヴァールバル諸島において、累計14167隻(年平均129隻)が操業し、57770頭の鯨(年平均525頭)を捕獲して、年25パーセントの利益を上げたとされる。
オランダの北極のクジラ漁
18世紀の版画
背景の山はヤンマイエン島のベーレンベルク山
スヴァールバル諸島周辺の捕鯨は、1680年代最盛期を迎えるが、鯨資源が減少する。その後、バフィン湾入口のデービス海峡を新しい漁場とするが、18世紀半ば北極のクジラ漁は終焉を迎える。
 オランダの捕鯨船は、200トン級のフライト(後述)を改造して、北極の捕鯨船(ブート・ラップという名が付けられた)として使用する。船底を二重張りにして氷対策とした。この大型の捕鯨船の乗組員は80-90人で、銛手(銛打ち)を乗せる手漕ぎボート(スロープと呼ばれた)を、2-4隻載せていた。オランダの捕鯨の成功は銛手を歩合制で使用したことにあったという。オランダの捕鯨船は、その乗組員が1650年頃の2500人から1663-64年に8000人を急増したため、オランダ人はまったく足りず、3分の2は北ドイツからの出稼ぎに頼らざるをえなかった。
▼低地地方の分裂、80年余に及ぶ独立戦争▼
 低地地方における宗教改革の動きは、16世紀当初からはじまり、アントウェルペンなど主要な都市に広がっていった。まず、ドイツ人商人を通じてルター派、そしてその一派で至福千年説を信じ、社会秩序の変革を目指す再洗礼派(バプティスト派)が伝播する。それらの布教は制圧される。
 1540年頃から、フランスと国境を接する地域に、カルヴァン派(改革派)が流入してくる。その教義は倹約と勤勉を美徳とし、仕事の成功は神の恩寵の証(あかし)とみなしており、商業の発展にのぞましい風土を作り出した。
 カール5世はカソリック教会の守護者として、1520年代後半に入ると強硬な態度を示すようになり、それと同時に中央集権を推し進め、戦費負担を強いた。それらは低地地方の地元貴族の利害と対立した。1555年、彼が低地地方の統治権をフェリペ2世に譲ると、事態は大きく転換する。
 フェリペ2世はカール5世の政策を踏襲、異端審問を強化すると、1566年200-300人もの中小貴族が徒党(各地を転戦する姿を自嘲して「乞食党」と自称した)を組んで、その中止を求める。それが契機となって、南部だけでなく北部においても、聖画像破壊暴動が発生する。この年は「飢餓の年」と呼ばれ、経済的な困窮は庶民ばかりでなく、中小貴族にも広がっていた。これに対して、フェリペ2世はアルバ公(1507-82)が指揮する大軍を派遣して、新教徒を徹底的に弾圧する。そして、徴税を強化するため、10分の1税を導入しようとする。
 1568年、低地地方随一の大貴族であるオランニェ公ウィレム1世(沈黙公、1533-84)は、亡命先のドイツから帰国、亡命者を動員して反撃に出る。その目的はアルバ公によって侵害された、地元貴族の特権を回復することにあった。この反乱は83年間も続き、新教徒の国ネーデルラント共和国(オランダ)が独立する。それはオランニェ公など地元貴族からすれば一つの結果あるいは成り行きであったとされる。この反乱はオランダでは八十年戦争と呼ばれる。
 オランニェ公らは陸上での反撃が成功しないため、イギリスの援助をえて亡命者による海上ゲリラ、すなわち「海乞食」(ゼーゴイセン、オランダ語でワーテルヘーゼン)を組織する。それは貴族、市民、乞食、失業者などで構成され、オランニェ公から私掠許可状をえていた。彼らは、オランニェ公と連絡を取りながら、ドーヴァー海峡やラ・ロッシェルを拠点して、スペイン船に対する無差別な略奪を展開する。それにより低地地方の海域に入る船舶は半減したとされる。
 1572年、エリザベス女王がスペインとの破局をおそれたことで、海乞食はイギリスの基地から追い立てられる。その26隻250人の一団は、マース川河口のフォールネ島のブリーレにスペイン駐留軍がいないことを知り、それを手中に収める。それが転機となって、スヘルデ川河口のブリシンゲン、フェーレ、エンクホイゼンなどが占拠されると、ホラントやゼーラントなどの都市は海乞食に与するようになり、ホラントがオランニェ公を総督として迎え入れる。この2つの州がその後における独立戦争をリードするようになる。
 スペインは、レパント海戦の最高司令官であったドン・ファン・デ・アウストリア(1547-78)を送り込むが、収拾できない。他方、オランニェ公は反乱州の拡大を目指し、1577年ユトレヒト、翌年スペインに忠誠を示して
海乞食のブリーレ占領
フランス・ホーヘンベルフ画
参加を拒んできたアムステルダムを引き入れる。1579-80年には、北部7州(ホラント、ゼーラント、ヘルデルラント、ユトレヒト、フローニンゲン、そしてフリースラント、オーフェルエイセル)によって、軍事同盟といえるユトレヒト同盟(それに対して南部はアラス同盟)が結成され、低地地方の分裂は決定的となる。
 なお、アムステルダムは、その市政がカソリック派に握られていたため、反乱に抵抗する。それに対して、海乞食たちは好戦的なカルヴァン派新教徒たちによって組織されていたので、ワッデン海の岬に船を沈めて、港の封鎖作戦に出る。1576年にはアムステルダムの船は1隻もバルト海に入れなかったという。1578年、アムステルダムは改革派を支持することとなり、オランニェ公に市政を委ねる。それ以後、アムステルダムは反乱のリードするようになるが、それは新しい海上交易のはじまりとなる。
▼アムステルダム、「彗星に如く」興隆する▼
 アントウェルペンが、1585年スペインによって蹂躙され、北部反乱州から切り離され、最終的にスペインの支配下に置かれると、そこで活躍していた多くの商人や手工業者、職人などが、続々とアムステルダムに流れ込んでくる。そのなかでも、イベリア半島やアントウェルペンからやって来た多数のユダヤ人にとって、アムステルダムは「新しいエルサレム」となった。.
 彼らは株式の取引に勢力があった。彼ら商人たちは膨大な資本ばかりでなく、北西ヨーロッパの交易ネットワークも持ち込んできた。それにより、アムステルダムは一挙にアントウェルペンの後継者として躍り出る。彼らの交易は、17世紀に入ると東インド交易が加わり、1630年代にはさらに西インド、ブラジルとの交易も加わる。こうして、アムステルダムは世界規模で交易先を拡げ、世界最大の交易都市に発展する。
 1609年アムステルダム振替銀行が創設される。その銀行は両替の独占権を与えられたことで、あ
らゆる商人の現金出納所になり、貨幣や地金を預かるようになる。1611年、商品取引所が開設されると、商人たちは一定の時間に一定の場所に集まって取引するようになる。また、毎週発行される「市
1572年頃のアムステルダム
 ブラウン/ホーヘンベルフ画
況新聞」は世界中に取引情報を提供した。世界市場アムステルダムの名は世界中に知れ渡る。
 17世紀中ば、アムステルダムの商業取引は年間16億グルデン(オランダ語、ギルダーは英語)に達し、また有価証券については18世紀初頭、世界に流通していたものの3分の2、約20億フランを扱ったと見積もられ、高価な在庫品は2か月ごと一新された(ルフラン前同、p.86)。
 オランダでは沿岸部の州を中心に都市化が進み、特にホラントが政治的・経済的に大きな役割を果たした。ホラントにはアムステルダム、ハールレム(ハーレム)、ライデン(レイデン)、デルフト、ロッテルダム、ドルドレヒト、ホールンといった大都市を擁していた。アムステルダムは1670年には人口約20万を数え、1606年の連邦経費の58パーセントを負担した。
 アムステルダムのあるゾイテル海は干満の差があり、浅い上に航路が複雑なため、大型船は水先を必要とした。また、大型船はアムステルダムの入口にあるテッセル島かホールンにおいて、積荷の一部を瀬取りしてから入港した。また、1690年頃に開発された浮きドックの原型となったカメレ(浮き箱)を使って入港した。
 17世紀はオランダの黄金時代といわれ、1625-75年頃圧倒的な経済力でもってヨーロッパ諸国に対して相対的に優位に立ち、最初の世界海上交易の覇権を握ったとされる。しかも、海上覇権をオランダのような小国が、スペインやイギリス、フランスといった大国との相次ぐ戦争のなかで獲得したことは一つの脅威であった。その経済的優位は突如としてえられたものでも、またその獲得と維持は単に経済活動によるものでもなかった。それは絶えざるヨーロッパ諸国間とその植民地との戦争を媒介にしてであった。
 このオランダ人の台頭について、イギリス人のアーネスト・フェイル氏をして「オランダは、イギリスの援助のもとにスペインの繋縛から脱したが、その長年にわたるスペインとの闘争において、オランダ人は自分たちが勇敢なる闘士であり、大胆なる私掠船員であることを実証した。けれどもアムステルダムおよびロッテルダムの市民の間には、昔から貿易を常に尊敬し名誉視する気風があった。だから、ひとたび彼等が自由を手にするや全国民は必ず報わるべきことを確信し、全精力をあげて粘張りつよく金もうけに乗り出した」と言わしめる(同著、佐々木誠治訳『世界海運業小史』、p.177、日本海運集会所、1957)。
 アムステルダムやロッテルダムの倉庫には、イギリスやスペインの羊毛、スペインおよび地中海のワイン・オリーブ・蜂蜜、マレー諸島の香料および胡椒、セイロンの肉桂・真珠・びんろうの実、インドの棉花・キャラコ・砂糖・硝石・阿片、中国および日本の絹・磁器銅・茶・漆、シャムの獣皮・染料用木材・亜鉛が充満していた。
オランダ商品取引所
1669・11・18付市況新聞
出所:佐藤弘幸著『図説 オランダの
歴史 』、p.82、河出書房新社 、2012
アムステルダム商品取引所
取引商品ごとに柱の場所が決まっていた
▼オランダ共和国の成立、私掠の展開▼
 16世紀末、オランダ人は、「大航海時代」の先駆者であるポルトガルやスペインが、100年余にわたって築いてきた交易地や植民地に押し入り、それを奪取することで、世界を股にかけて活躍し、世界の隅々にその足跡を残すことになる。
 低地地方のスペインに対する反乱はすでにみたように1568年にはじまるが、スペインは低地地方との海上交易をお互いの利益のために禁止していなかった。オランダの商人は、自らの生業を干渉するような国家権力の出現を嫌った。彼らは、オランダが連邦あるいは合州国であるという成り立ちからほとんど制約を受けずに、敵国と臆面もなく交易したり、貴金属を外国に持ち出してもいた。
 1570-80年代、低地地方の南北分裂が決定的となり、反乱諸州が事実上独立すると、1585年5月スペインはオランダに対して軍事的に攻勢に出る。オランダとの交易は全面的に禁止され、オランダ船の拿捕命令が出される。さらに、1598年11月、フェリペ3世(在位1598-1621)は即位すると改めて交易禁止令を出し、オランダを追い詰めようとする。
 こうした禁令をものともせず、オランダ船はハンザ諸都市など中立国の旗を掲げて、スペイン・ポルトガルの諸港に出入して穀物だけでなく、軍艦用の材木や銅、そして武器弾薬までも売り込んでいた。スペインにあっても、それらが必需品であるため、眼をつぶっていた。
 アムステルダム商人ベイラントは、「商業は自由でなければならぬ。戦争行為などで妨げられるべきではない。アムステルダムの商人はどこに向って取引しようと自由だ。もし商売によって利を得るために、船を地獄に乗り入れねばならなくなれば、帆の燃えるくらいは敢えていとわない」といったという(栗原福也監修『オランダ・ベルギー』、p.29、新潮社、1995)。
 これに加え、1580年スペインがポルトガルを併合したため、オランダ商人はリスボンばかりでなく、アントウェルペンにおいてもアジア産の香辛料が手に入らなくなる。それを手に入れても、その中継交易による利益はわずかであった。他方、ヨーロッパにおける香辛料の需要は高まりつつあった。そこで、オランダ商人が香辛料を手に入れるには、外国人の入域を禁止しているアジアに押し入るしかなくなる。その際、ポルトガルの交易拠点を攻略できれば、彼らの資金源を断てることになる。
 1581年、反乱諸州の連邦議会(ハーグに置かれる)はスペインの低地地方の統治権を否認する布告を出し、同時にスペインに代えてフランスから主権者を迎えることとする。これはスペインからオランダ(連邦)共和国の独立(宣言)であった。ただ、それは統治者をハプスブルク家からヴァロワ家に乗り換えようとしたにすぎず、独立ではないともされる。1585年になると、イギリスが反乱諸州への援助を約束、執政を5000人の兵士とともに送り込んでくる。しかし、それら外国人統治者は反乱諸州と対立して帰国したため、オランダは共和国として自立せざるをえなくなる。
 1584年オランニェ公が暗殺されるなど、オランダにあっても事態を打開する力量はなく、1588年スペインの無敵艦隊が壊滅しても、低地地方の戦局はだらだらと続く。1596年になって、フランスとイギリスはスペインに対抗するためオランダを引き入れ、三国同盟(グリニジ条約)が結ぶ。それはオランダが国際的に認知されたことを意味した。
 スペインにあっては、しばしば財政破綻に陥って戦争継続が困難となり、オランダと和平せざるをえなくなる。1609年、スペインとオランダはフランスとイギリスを交えて、アントウェルペンで12年間の休戦条約を結ぶ。スペインも遂にオランダを交渉相手としたのである。これによって、オランダ船は東西インドにおいて拿捕される危険がなくなり、これをはずみにしてスペインやポルトガルの海外拠点を荒らしはじめる。
▼オランダの第2のバルト海征服と地中海進出▼
 17世紀以前から、低地地方における経済発展の中心は南部から北部に移動し、南北ヨーロッパ交易の中継地としてオランダのアムステルダムやロッテルダムが繁栄をみせることとなった。それらが急激に興隆するにはオランダの国内と国外にいくつかの契機があった。
 石坂昭雄氏はバルト海の穀物交易に注目する。16世紀末から南欧諸国は再三深刻な飢饉に見舞われたが、南欧諸国の穀倉を支配下においたトルコは穀物輸出を禁止していた。ヨーロッパにおいて穀物輸出能力があるのは、ポーランドやプロイセン、リーフーラントなどバルト海地方のみとなっていた。
 「それを輸送しうるだけの商船隊と穀物貿易の実績を持っていたのは、オランダ商人だけであった。アムステルダムに亡命したアントウェルペン系の商人たちは、もともと南欧との取引の経験も豊富であり、南欧各地の同郷人を代理人として活用し、資本のみでなく、保険、外国為替、傭船(チャーター)方式など新技術をも持ち込み、南北を結ぶ新貿易を組織した」ことを強調する(石坂前同、p.84)。
 オランダ商人は、バルト海の穀物を南ヨーロッパ諸国に2倍の価格で売り込み、その帰り荷として塩や羊毛のほかアメリカ銀を持ち帰った。この銀は穀物買い付けに利用されたが、バルト海地方では銀があまり値下がりしておらず、バルト海地方に対するオランダの出超を埋めた。
 具体的にみると、ダンツィヒはバルト海穀物の主要な輸出港であって、その輸出穀物はズント海峡経由で西向きに送られる穀物の70パーセント以上を占めていた。17世紀前半、ダンツィヒの輸出額のうち穀物は70-80パーセントも占め、残りは亜麻・大麻、羊毛、タール・ピッチ、ポタッシュ(カリウム)などであった。輸入は、毛織物などの織物製品が30パーセント以上で、このほか植民地物産(17-25パーセント)、ワイン(10-13パーセント)、ニシン(10-18パーセント)、塩などであったが、輸入額は輸出額の48-82パーセントにしか達せず、その差額は銀で支払われた。
 オランダの海上交易は「黄金時代」になっても、その3分の2はバルト海交易におかれ、残る3分の1の半分が地中海交易にすぎず、オランダの富の源泉は北西ヨーロッパ域内にあったとされる。オランダにとって、バルト海交易は常に「母なる交易」であった。オランダの輸入額にとどまるが、1636年の輸入額3730万グルデンについて、その輸入元の構成(100万グルデン)をみてみると、バルト海12.7、東インド7.4、フランス4.9、イギリス4.4、地中海3.0、ノルウェー・北ドイツ・ロシアそれぞれ1.5、捕鯨0.4となっている(アメリカは不明)。
 バルト海における交易量は、16世紀後半から17世紀前半にかけて2-3倍に増加したとみられるが、オランダ船がそれに占める比率(積取比率)もまた50-60パーセントから80パーセントに上昇している。1620-29年の積取量(1000ラストまたは1000反、1ラスト=2トン)と積取比率(パーセント)は、塩251(83)、ニシン68(81)、織物295(46)、ライ麦333(80)、小麦56(83)となっている。なお、織物の積取比率の低さは、イギリス製品のイギリス船による輸送による。
 16世紀末にかけて、地中海の交易地図は、オスマン・トルコの進出とヴェネツィアの衰退を受けて、大きく塗り替えられた。まず、イギリス商人が地中海との直接交易を目指す。1581年にはトルコ組合(レヴァントカンパニー)が設立される。それに続いて、オランダ商人がバルト海の穀物やライデン産の薄手の毛織物をもって参入し、アレッポやスミルナを根拠地にしてトルコ市場に喰い込む。1612年には、オスマン・トルコがオランダ船のインスタンブールの入港を認める。
 また、イギリスやオランダは1593年に自由港(信仰の自由を認める)となったイタリア中部のリヴォルノを拠点にして、イタリアにも交易を拡げるようになる。その結果、ミラノやフィレンツェ、ヴェネツィアの毛織物工業はトルコ市場はもとより、自国市場でも敗れることとなる。また、ヴェネツィアの旧式のガレーは軽快で能率的な北ヨーロッパの帆船に太刀打ちできなくなる。
 地中海から、ロンドン港は1621年30万ポンド、1634年39万ポンド(輸入額の約30パーセント相当)を購入していたが、オランダも1611年年400万グルデン(35万ポンド)を購入していた。ただ、地中海に跳梁するバルバリ人海賊のため絶えず大きな被害を出し、護送や武装に巨額の出費を余儀なくされた。
 17世紀、オランダ商人はイベリア半島や地中海の交易に参入したことによって獲得した、アジアの香辛料や毛織物、絹織物、砂糖、染料など高価な品々をひっさげて、バルト海諸国と交易するようになる。これによって、オランダ商人はハンザやイギリスの商人に対して完全に優位に立ち、「第2のバルト海征服」が果たされたとされる。
 なお、16世紀後半から、北極海経由のロシア航路が開かれ、イギリスの商人は1554年モスクワ組合を設立して先着、白海のアルハンゲリスクを交易港としてきた。17世紀になると、オランダ人もそれに割り込むが、彼らの主流はバルト海ルートであった。
▼オランダの多様な産業の発達、海外投資▼
 17世紀、オランダにおいては、ライデンの毛織物工業、アールスフォールトの綿織物工業、アムステルダムの絹織物工業、ハーレムの麻織物・麻漂白業、デルフトやゴーダのビール醸造、エンクハイゼンやホールンの北海ニシン漁業、ザーンの製材業や造船業、バルト海の穀物や木材を輸送する海運業、そして製糖業、たばこ加工業といった新規の産業など、多様な産業が発達する。
 それら産業は突然、興起したわけでない。オランダ前史といえる14-15世紀の状況については、Webページ【2・4・3 ハンザ同盟、ニシンと毛織物で稼ぐ】を参照されたい。
 16世紀末以降、オランダの工業部門は毛織物工業や麻織物工業が発展したことにより、その原材料(羊毛、亜麻)の輸入とその加工製品の輸出も大きく伸びていった。そのなかでも、特に顕著な伸びがライデンの毛織物工業にみられた。1574年、ライデンがスペイン軍による包囲に耐えて解放されると、南部のフランドルやブラバントの毛織物生産者が続々と難民として流れ込んでくる。1622年、その人口は約4万5000人であったが、その60パーセント以上が難民で占めた。
 彼らは、それまでライデンでは知られていなかった、すでにみた新しい薄手毛織物の製法を伝えたことにより、16世紀末には紡毛から仕上げまでを一貫して行う新しいタイプの毛織物工業が急成長し、高級品から低級品まで約190種もの毛織物を生産するようになった。ライデンは、17世紀西ヨーロッパ最大の毛織物工業都市になり、アムステルダムに次ぐオランダ第2の大都市となった。その毛織物産出額はイギリスの毛織物の輸出額に匹敵したという。
 アムステルダムやロッテルダムにあっては、イギリスから輸入した未仕上げ毛織物を仕上げ加工するにとどまっていた。ここでは商人資本が支配する家内工業として行われていた。それに対して、ライデンでは工業資本の工場制手工業(マニュファクチュア)となっており、それらの生産様式の違いがオランダのさらなる発展の蹉跌(つまずき)となる。
 また、第3の大都市になったハールレムの場合も同様であった。ここでも、16世紀末以降フランドルから多数の麻織物生産者が難民として入り、1622年には約4万人の人口のほぼ半分を占める。彼らもまたさまざまな新しい技術を伝え、ハールレムを麻織物工業都市として勃興させる。彼らは、さらに市の郊外に広がる砂丘の清水を利用して、麻糸の漂白業も発展させる。
 ドイツやフランドルからも大量の製品が漂白のために送られてきて、ハールレムはヨーロッパ最大の漂白地となった。ここで漂白された麻製品はハールレム・ブリーチとしてヨーロッパでは人気を博した。このように、ライデンやハールレムの織物工業の発展は、その多くを南部諸州から逃れてきたカルヴァン派難民に負うており、彼らの貢献はきわめて重要であった。
 オランダにとって、木材、タールやピッチは造船ばかりでなく、都市のインフラや家屋、治水事業にあたって必要不可欠であったが、国内では産出しないといって良かった。それを供給したのが、17世紀末からライン河上流からの巨大な筏による木材輸送がはじまるまでは、スカンディナヴィアやバルト海であった。オランダ人はノルウェーから木材を、立木の信用取り引きや大量買い取り契約、そして木材専用船の採用などして、大量に輸入した。1647年には、木材専用船が387隻(37万立方メートルの輸送能力)投入され、年に数回ノルウェーを往復していた。この木材交易はホールンやメデムブルグが扱った。
 それにとどまらず、オランダの資本はスウェーデンやノルウェー、デンマーク、ロシアに流れ出て、銅・鉄鉱山の開発に投じられてい。スウェーデンの銅は、16世紀末からハンブルクやリューベック経由でイベリア半島にまで輸出されていたが、1614年以降になるとオランダからの借款を弁済するため、大量の銅がアムステルダムに送り出されるようになる。
 リエージュ出身でアムステルダムに移住していたルイス・デ・ギア(1587?-1652)は、スウェーデンに渡って銅や鉄の鉱山を大規模に開発して、それらをオランダに輸出して武器を製造していた。彼はウェーデン産業の父とされ、名君と呼ばれたグスタフ・アドルフ(在位1594-1632)のために軍事施設を提供している。また、1644年スウェーデンがデンマークに宣戦したとき、スウェーデン艦隊がオランダにおいて建造できるよう手配している。1637年の島原の乱の際、オランダの艦隊は幕府軍を支援して、参戦している。オランダ商人は世界的規模で死の商人として振る舞っていたのである。
▼独立の功労者、オルデンバルネフェルト▼
 すでに述べたように、スペインにオランダの事実上の独立を、三国同盟の締結や12年間休戦協定を通じて認めさせた功労者は、1586年ホラント州法律顧問(事実上の宰相)に就任していたヨハン・フォン・オルデンバルネフェルト(1547-1619)であった。彼は、ウィレム1世に従って独立運動を指導し、彼の死後は次男のマウリッツ(1567-1625)を助けるが、その後、スペイン戦略やカルヴァン教義をめぐって激しく対立したため誅殺される、
 オランダは、イギリスとの漁業紛争
や航海条例の布告に対して「航海と交
易の自由」の原則を持って望むが、そ
の原則はフーゴー・グロティウス(1583
-1645)の理論に依拠していた。彼は
近代自然法論の父、国際法の祖とさ
れる。
 オランダ東インド会社がポルトガル
船を捕獲した際、委嘱を受けて1604-
05年に執筆した「捕獲法論」の一部
を、オランダ東インド会社の取締役が
スペインと同盟したポルトガルに屈す
ることを恐れ、世論を喚起するため、
1609年「海洋自由論」として出版する。
それは公海自由の原則の確立のきっ
かけとなった。
 オランダ東インド会社の船が、マラッ
カ海峡でボルトガルの大型商船を拿
フーゴー・グロティウスと「海洋自由論」
捕したとき、ポルトガルは1494年のトルデシーリャス条約に基づいて、「東インド海域での航行・交易は自分たちの固有の権利である」と主張した。これに対して、グロティウスは「海洋は誰にも帰属せず、いかなる国もそこでの排他的航海権を主張することはできない」と宣言し、航海と交易の自由を説いた。ここには、スペインから事実上の独立を勝ちとり、目覚ましい海外進出を果たしつつあった、オランダの利害を色濃く反映している。
 このグロティウスも、1619年カルヴァン主義の教義に寛容を求める立場にあったオルデンバルネフェルトとともに逮捕されるが、2年後、妻の機転で箱の中にかくれ、脱獄に成功した話は有名である。フランスへ亡命する。そこで「戦争と平和の法」を執筆して、自然法にのっとった国際的法秩序の確立と人類の平和を訴える。
 1621年、スペインとの休戦が終わってからも、和平交渉が続けられていた。1618-48年、ほとんどの西ヨーロッパ諸国を巻き込んだ一連の戦争である三十年戦争の終結を受けて、1648年ウェストファリア条約とミュンスター条約が結ばれ、オランダとスペインとの八十年戦争は終わる。これによりスペインはオランダを正式に承認することとなる。これによって、オランダ人のイベリア半島やバルト海における交易支配は、揺るぎないものとなった。
 この八十年戦争と三十年戦争の動乱のなかで、ヨーロッパの交易地図はすっかり塗り変えられ、中世以来の繁栄を保ってきたイタリアや南ドイツ、フランドル、そしてスペイン、ポルトガルは凋落し、オランダ、イギリス、フランスなどの北西ヨーロッパ諸国が世界交易の覇権争い(重商主義戦争)の舞台に躍り出ることとなる。
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