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3・1・2 増補:母なる貿易=バルト海穀物交易(上)
3.1.2 Expansion Mother Trade = Baltic Grain Trade (above)

▼はじめに▼
 オランダのバルト海穀物交易は「母なる貿易」と呼ばれる。それを研究したのがミルヤ・ファン・ティーホフ著、玉木俊明・山本大丙訳『近世貿易の誕生-オランダの母なる貿易-』(知泉書館、2005)である。これを参考にしながら、オランダのバルト海穀物交易を、海上交易の観点から再構成してみる。そのなかには、本論で取り上げるべき内容も含まれているが、そのままとする。
 なお、別の資料によれば、オランダにとり穀物交易は商業のひとつであったが、1636年穀物交易は輸入総額の約3分の1に及んでいた。そのために平均200トンの船が約400隻従事していたとされる。
コルネリス・ピーテルスゾーン・ホーフト
コルネリス・ファン・デル・ファールト画、1622
アムステルダム歴史博物館蔵

▼バルト海交易で成功、市長となった商人▼
 大著は、その冒頭でバルト海穀物交易の「拡張の時代」に活躍したコルネリス・ピーテルスゾーン・ホーフト(1547-1626)の生涯を扱っている。 コルネリス・ピーテルスゾーン・ホーフトは、父とその兄弟の実に7人が船長として、北西ヨーロッパの海を駆けめぐる一族の息子として、アムステルダムに生まれる。コルネリスは、その立場は不明であるが、3-4年間バルト海地方に航海して、航路、港、税関、外国法、通貨など商人の素養を学び、人脈を拡げる。スペインの圧迫が強まったため、1569年バルト海穀物の積出港であるダンツッヒとケーニヒスベルグに亡命して、9年間を過ごす。
 1578年帰国して、北西ヨーロッパとの交易をはじめるが、その中核はバルト海穀物交易であった。1590年代、イタリアが穀物を求めてくると、それに飛びつき、地中海地方にも進出する。彼は、交易業ばかりでなく、海運業や信用貸し、ニシン工場、東インド会社(1602年設立時、9600ギルダー)、不動産に投資している。1626年死亡する。遺産は30万ギルダー(グルデンに同じ、以下同じ)であった。
 コルネリスは実業家として成功したばかりか、アムステルダムの政治家として名をはせる。1582年以降参審人を3回就任し、1584年には参事会員となり、終身それを続ける。それ以外に、都市財務官、連邦議会への代表議員、アムステルダム銀行理事になる。そして、1588年最年少の40歳で、4人いたアムステルダム市長となり、10選される。なお、彼以後のアムステルダムの穀物交易人で、政治家になるものはほとんどいなかった。
 彼は、「オランダの権力と繁栄は『海洋の主権』、すなわち海の支配と外国貿易だということであった。それ以外のすべての要素は大して重大ではなく、海外貿易の利益に従属しなければならない。つまり、オランダ人が外国で指揮する事業活動を促進するには、外国との良好な関係が欠かせない」という政治信念を持っていたという(ティーホフ前同、p.34)。
 コルネリスの息子の1人であるピーテル・コルネリスゾーン・ホーフト(1581-1647)は作詞家・歴史家として、父とともに、オランダ史ではよく知られた人物である。彼らはシンゲル運河沿いに住んでいた。
▼バルト海交易と『エーアソン海峡通行税台帳』▼
 ティーホフ氏によれば、「(1)「母なる貿易」はオランダで最古で最初の貿易であった。(2)関係する船舶、船員、商品にとって、最も重要なものであった。(3)この貿易の本質的で最も重要な側面は、他航路の船舶と貿易、漁業と製造業を興隆させた点にある。さらに……アムステルダムをはじめとするオランダの都市に、パンとなる穀物を供給した」(ティーホフ前同、p.6)。
 デンマーク王室は、1429年以降、エーアソン海峡において船舶から通行税を取るようになったが、1561年からすべての商品に対して通行税をかけるようになる。それが1857年に廃止されるまでの約300年にわたって、それを徴収した記録(一部に欠落がある)が『エーアソン海峡通行税台帳』である。それはバルト海交易研究のバイブルとされる。なお、エーアソン海峡は、ドイツ語ではズント海峡と呼ばれる。中世のハンザを扱う際は、これを使ってきた。
 オランダのバルト海交易は穀物ばかりでなく、様々な商品が相互に交易されているが、ティーホフ氏は穀物だけを取り上げている。そこで、バルト海交易の全体図を『エーアソン海峡通行税台帳』から析出するみたのが、末尾に掲げた【補遺】『エーアソン海峡通行税台帳』からみたバルト海交易である。
 ティーホフ氏はバルト海穀物交易は4つの局面に分かれるという。それぞれの時代の穀物量は、付録Aによれば、10年間の年平均の平均値と、その最大、最低値は次の通りである。
バルト海の年間穀物輸出量
(単位:ラスト)
年代
平均
最大
最低
(1)「拡張の時代」(1540-1650年)
(2)「収縮の時代」(1650-1760年)
(3)「成長の再開」(1760-1800年)
(4)「周辺化の時代」(1800-60年)
56902
42937
71462
-
94804
84460
91477
-
36197
26394
54659
-
資料:ミルヤ・ファン・ティーホフ著、玉木俊明・山本大丙訳『近世貿易の誕生-オラ
ンダの母なる貿易-』、p.303、知泉書館、2005。

 ただ、課税された穀物量は、それを免れようする船長や、ティーホフ氏は着目していないが、税を着服しようとする税徴収官吏の不正によって、かなり少なめになっている。それが17世紀になって改善されたというが、その世紀半ばになってもアムステルダムの穀物輸入量が、バルト海の穀物輸出量よりほぼ常に多いという、史料が示されている(ティーホフ前同、p.66)。
 なお、オランダはアムステルダムを含め、バルト海以外からも穀物を輸入していた。ドイツ西部各地や白海のアルハンゲリスク(1581年に建設され、1703年サンクト・ペテルルブルグが建設されるまで、ロシアの主要港であった)、18世紀にはイングランドや時にはフランスからも、穀物を輸入してい
 穀物の単位1ラストは30ヘクトリットル(3000リットル)である。北ネーデルラントでは、1人当たりのパン用穀物消費量は年間1.5-2ヘクトリットルとされており。例えば、4万ラストの穀物がパン用に消費された場合、60-80万人の必要を満たしえた。オランダの総人口は17世紀半ばから18世紀末まで約200万人、アムステルダムの人口は17世紀末約23万人、アムステルダムを含むホラント州の人口は総人口の約40パーセントとされる。
 ティーホフ氏の分析は、(1)「拡張の時代」(1540-1650年)からはじまるが、オランダのバルト海穀物交易は、すでにみたように13世紀からはじまっていた。15世紀になると、オランダの船はバルト海に直接入り込むようになり、ハンザ同盟との対立が深めまるが、世紀末にはハンザの船を上回るまでになる。その延長として「拡張の時代」がある。
 16世紀から17世紀初めにかけ、ダンツッヒには数百人ものオランダ人のコミュニティが築かれていた。1560年代、穀物価格が高騰したことから、ポルトガルやスペイン、フランス、イギリスはオランダから穀物を輸入する。そして、1590年代にはイタリアから大量の穀物需要が発生する。それらによって1620年代まで穀物量は増大する。
 しかし、それ以後、バルト海の穀物不作やポーランド・スウェーデン戦争によって、穀物量は減少する。それを補完するため、オランダの船は白海のアルハンゲリスクから穀物を輸入するようになる。1640年代になるといままでにない拡張がみられ、その量は300年間のなかで最高値(年平均94804ラスト)となる。1626-35年、アムステルダム―アルハンゲリスクの平均輸送料(訳文では、輸送料が輸送費の意味でおおむね使われていることに、注意がいる)は22-27ギルダーで、アムステルダム―プロイセンの13-17ギルダーよりもかなり高かった。
 この時代のバルト海の輸出穀物は、通行税の安いライ麦が約80パーセントであって、高価な小麦はわずかであった。1570-1649年バルト海穀物のうち、ダンツッヒからライ麦の71パーセント、小麦の63パーセントが積み出されており、ケーニヒスベルグは12パーセントと9パーセントにとどまった。穀物は、バルト海南岸のあらゆる港からも積み出されていたが、大きな港はヴィスマル、ロストク、ストラーズンド、シュテティーン、エルビングであった。
▼穀物輸出国の増加とバルト海の地位の低下▼
 (2)「収縮の時代」(1650-1760年)、ヨーロッパ諸国における人口の増加が終わり、穀物生産が増大したことで、穀物価格の上昇が終わり、長期の農業不況がはじまる。17世紀末にはイングランドが穀物輸出国となる。1710年代、イングランドの輸出量はバルト海のそれを上回り、バルト海の輸出量は300年間のなかで最低値(年平均26394ラスト)となる。1740年代、前者は年平均66576ラストになり、後者の31369ラストの2倍となる。
 こうしたヨーロッパ諸国における穀物交易をめぐる需給の変化ばかりでなく、バルト海においては1655-60年のポーランド・スウェーデン戦争、そして1700-21年のスウェーデンとロシアなどとの大北方戦争によって、穀倉地帯は壊滅的な打撃を受ける。第2次英蘭戦争や九年戦争のため、北海の航海は危険となった。それにもかかわらず、ヨーロッパ諸国が不作となると、オランダ船はバルト海に入って大量の穀物を輸入した。
 なお、大北方戦争中、アムステルダムの商人が積んだ貨物の約3分の1に当たる船が、スウェーデンの私掠船によって拿捕されたという。
 ティーホフ氏は、前の「拡張の時代」をバルト海穀物交易の最盛期とし、また1640年代に全盛期としたうえで、「収縮の時代」「バルト海地方からの輸出は低下した。全体的にみて、輸出は前期よりも少なく、年ごとの変動もはるかに大きかった。18世紀最初の20年間に最低になった……西欧諸国で食糧生産が増大し、西欧内部で食糧を調達することが容易になった。これらすべてがバルト海地方の穀物貿易が周辺的な地位に低下する可能性を拡大した」という(ティーホフ前同、p.61)。
 また、この時代、ライ麦よりも小麦、そして飼料やビール・蒸留酒の原料となる、大麦が重要となる。それにともない、バルト海穀物の主な積出港はダンツッヒからケーニヒスベルグやリーガに移動する。そして、イングランドから大麦がオランダに輸出されるようになる。
 (3)「成長の再開」(1760-1800年)、1760年代に入るとオランダのバルト海穀物へ依存度が再び高まり、その輸入量は急速に拡大する。その後も、この増加傾向は持続して、最盛期の水準を取り戻す。それは、18世紀半ばから、ヨーロッパ諸国の人口が再び増加しはじめ、穀物価格が上昇したおかげであった。それに加え、スウェーデンが穀物輸入国となり、それがかなりの量であったため、ヨーロッパ諸国向け穀物供給力を圧迫した。
 他方、バルト海ではポーランドの穀物生産は回復せず、それに代わってロシアが重要な穀物輸出国となり、それがリーガからもっぱら輸出されるようになった。バルト海の穀物輸出量のうち、ダンツッヒの積出比率はライ麦15パーセント、小麦37パーセントに落ち込んだ。また、穀物に占める小麦の比率は1700年頃には20パーセントになり、18世紀のうちに30パーセントに達した。
 (4)「周辺化の時代」(1800-60年)については、1796年以降の『エーアソン海峡通行税台帳』が要約・出版されていないので、利用されていない。
 ダンツッヒの穀物輸出量は、10年間の年平均の平均値で、1751-1800年27208ラスト、1801-1850年38578ラストである。19世紀、ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアによる領土分割の悲劇を乗り切り、バルト海の穀物輸出は前期からの成長基調を持続したとみられる。
 19世紀、ヨーロッパ諸国に対する穀物供給に、大きな変化が起きる。19世紀前半、ウクライナが穀物輸出国として台頭する。その小麦はオデッサ経由で、イタリアや南フランスなど地中海諸国、さらにイングランドやオランダまで輸出される。そして、世紀後半、アメリカがイギリス向けの穀物輸出国として登場する。こうした穀物輸出国の構成変化によって、バルト海穀物の重要性は低下し、周辺化したとされる。
 この時代、ヨーロッパ諸国では、小麦パンの志向が強まる。それに応えたのがウクライナやアメリカであった。ダンツッヒの輸出穀物においても、それが反映されており、その品目構成は例えば1841-50年、小麦79パーセント、ライ麦13パーセント、大麦3パーセント、その他5パーセントになっていた。
▼アムステルダム、バルト海穀物の集散地となる▼
 オランダのバルト海穀物交易の歴史は「オランダの歴史と大きく関係している。穀物をしばしば購入・販売したのは、オランダ商人であった。オランダ船で輸送され、オランダの倉庫に保管され、アムステルダム取引所で販売され、オランダ人消費者によって食された」のである(ティーホフ前同、p.62)。それを媒介したのがアムステルダムであった。
 アムステルダムの穀物輸入量について1770年以前の統計はない。様々な史料から、エーアソン海峡を西航した穀物の4分の3が、アムステルダムに向かったとされる。1645年369隻の穀物船が西航したが、そのうち271隻がアムステルダム、37隻が他のホラントの港に向かっていた。
 アムステルダムに輸入された穀物は国内消費と再輸出に振り分けられるが、再輸出に関する史料は乏しいという。1590年代、イタリア向けの再輸出がはじまるが、1593年末100-150隻の大型船が出港したという。1隻の積載量は100ラスト以上とされたので、総量およそ1.5-2万ラストとなり、同年代のバルト海の穀物輸出量57761ラストの20-30パーセントに当たる。また、バルト海の穀物輸出のピーク年代の1649年、外国に輸送される穀物4.6万ラストに輸出税が課せられていた。それは同年代のバルト海の穀物輸出量94804ラストの50パーセントにも当たる。
 このように、16世紀から17世紀半ばにかけ、相当な量の輸入穀物がアムステルダムから再輸出された。そうした状況も、穀物の国際的な需給関係によって、大きく変動したことであろう。それはともかく、アムステルダムは国内消費のための出入り口(ゲートウェイ)ばかりでなく、商品集散地(ステープル)としての機能を果たしていたことになる。オランダ船はバルト海穀物の「世界の運び屋」となって働いた。
 オランダ船は、商人に命じられてアムステルダムを寄港せずに、バルト海穀物を外国に直接輸送してもいた。この三国間交易を、ティーホフ氏は「通過貿易」と呼ぶ。それにも、オランダの穀物交易と同じくらいの歴史があり、15世紀からすでに重要な現象になっていたとし、「通過貿易」船は15世紀フランス、16世紀ポルトガル、そして16世紀末から17世紀初めに地中海諸国に向かったとする。
 「拡張の時代」の1593-1622年における「通過貿易」にかかわる契約数が集計されている。それは総数574件、年平均19件に及ぶ。ただ、大きな波があり、多い年は74件あるが、それがない年もある。「収縮の時代」になると、バルト海穀物の目的地を知ることができる。それによれば、1670年代から1740年代までは、ライ麦の79-93パーセント、小麦の85-95パーセントが、オランダ向けとなっている。
 この比率に従えば、その前の時代から「通過貿易」による穀物輸輸送量は、わずかであったということになる。また、オランダ向けの比率の高さから、「収縮の時代」アムステルダムがバルト海穀物の目的地となり、「通過貿易と再輸出の重要性は、一般に、これ以前の時代と比較するとはるかに落ちた」とされる。
 「成長の再開」の時代となると、「西欧の国々は、バルト海との貿易関係を発達させはじめ、バルト海地方から最終目的地まで直接輸送される」ようになる。それによって「アムステルダムの役割がいくらか変化した」とする(以上、ティーホフ前同、p.70)。しかし、その意味合いは、オランダの穀物の中継交易にとって、そんな程度のものではなかったはずである。
 こうした構造変化は、1740-50年代に現れ、1760年代以降顕著となる。それら年代になると、バルト海穀物のオランダ向け比率は、ライ麦70パーセント未満、また小麦80パーセントに落ち込む。1770年代、イングランドやフランス、南ヨーロッパを目的地として、毎年1-3万ラストのバルト海穀物が輸送される。
 バルト海地方とヨーロッパ諸国との直接的な関係が強まったとはいえ、アムステルダムがヨーロッパ穀物庫あるいは集散地でなくなったわけではなかった。海路による再輸出は少なくなったが、陸路や水路による再輸出は重要になった。また、食糧危機が起きると、アムステルダムは大量の穀物を再輸出していた。例えば、フランス革命最中の1789-92年、オランダは毎年3.5万ラストの穀物を輸入したが、2.6万ラストを再輸出している。
 19世紀、ナポレオン戦争と大陸封鎖は、オランダのバルト海穀物交易に打撃を与える。その嵐が終わって交易が再開され、アムステルダムもその役割を回復したかにみえたが、それは勢いのないものであった。1816-50年のダンツッヒの輸出穀物の仕向地は、イングランドが3分の2を占め、オランダ船は10-20パーセントにとどまった。
 18世紀後半を通じて800-1000隻の船が、毎年バルト海からアムステルダムまで航海していた。ナポレオン戦争後、エーアソン海峡通過した隻数は、1815年815隻、16年876隻から、1817年には1305隻へと急増している。かなりのオランダ穀物船はオランダではなく、イングランドなどに向かったこととなる。
▼バルト海穀物交易における競争と支配▼
 バルト海穀物交易の先発者はハンザ都市であった。後発者のオランダにとって、15-16世紀、リューベック、シュテティーン、ダンツッヒ、リーガ、レーヴァルなどが、最大の競争相手であった。15世紀末には、エーアソン海峡を航行する船舶の大半はすでにオランダ船になっていたが、そのかなりの部分がハンザ商人によってチャーター(用船)されたオランダ船であった。
 16世紀半ば、アムステルダムにおいて、バルト海穀物交易について重要な役割を果たしていたのは、アムステルダムに在留するハンザ都市の商人であった。彼らは、バルト海地方の諸都市を根拠地とする、穀物の売り手の代理商として活動していた。また、彼らはオランダ人商人の単なる競争相手ではなく、協力者でもあった。
 16世紀最後の四半期になって、バルト海穀物交易におけるオランダ人の地位が大きく高まり、他方ハンザ商人の地位が低下し、それに並行して16世紀末、オランダ人のコミュニティがダンツッヒの外国交易を支配するようになる。そうした成功をオランダが収めたのは、西ヨーロッパ諸国がバルト海地方の穀物を必要とし、他方バルト海地方が塩やワインを必要としており、オランダの商人がそれら嵩高で生活に必需な商品を双方向で中継交易したからであった。
 16世紀末から17世紀にかけて、バルト海穀物交易はオランダ商人によって組織されるようになった。1640年代、ダンツッヒの穀物交易の約80パーセントが、オランダ商人の支配下にあったとされる。しかし、18世紀になるとダンツッヒに、イングランドの企業家が巨大な競争相手として立ち現れる。それにより、オランダ人が自分たちの特権だとみなしていたものが侵害されはじめる。
 バルト海地方の人びとがまったく交易しなかったわけではない。バルト海地方の人びとは、自らの勘定による輸出商品を、オランダ船に積み込んでいた。オランダ人のものでない商品を積んでいるオランダ船の比率は、1565-1655年総隻数の10-30パーセントの範囲にあった。1560-70年代30パーセントと高まったが、1580-1630年代にかけて低下して10-15パーセントとなる。しかし、1640-50年代には再び上昇して、20-30パーセントになる。若干、具体的にみると、1565年1431隻のうち423隻、1585年998隻のうち61隻、1605年1084隻のうち116隻、1646年1039隻のうち306隻が、オランダ人のものでない商品を積んでいた。
 こうした17世紀前半からの傾向は用船契約書にもあらわれており、外国人がオランダ船の用船者やその代理人となることが多くなったという。
▼バルト海の穀物交易に独占は形成されない▼
 バルト海の穀物交易において独占が形成されることはなく、多くの企業が自由な市場に参加して競争しあった。その根拠について、ティーホフ氏は穀物がバルト海ばかりでなく、様々地域から輸入され、穀物の種類や品質が多く、代替性があった、穀物需給を支配するには巨額の資金が必要であった、連邦議会が独占に全く関心を寄せなかったなど、様々に説明している。
 そのなかでも以下の議論は注目すべきであろう。「企業の規模を拡大しても、価格と市場状況が大きく改善されることはなかっただろうし、費用が大幅に削減されることも期待できなかった」、「穀物は、通常、バルト海地方の都市在住の数多くの小規模な売り手から購入した。彼らは、貯蔵しているすべての商品を購入する人びとに割引して販売しがちであっただろう。しかし、彼らは通常は、1-2の船荷しか提供しなかった。大幅に割引して膨大な量を販売できる、巨大な売り手が存在しなかった」。
 また、「船舶をチャーターする際、商人には交渉相手となる数多くの船主がいただろうし、同時に数ダースの船舶をチャーターしても、割引きは期待できなかった……海運・輸送サーヴィスに船舶を提供する巨大企業はなく、1隻1隻の小型船の所有者や穀物輸送者の1人ひとりと賃金[運賃あるいは用船料]について、しかもそれぞれの倉庫の所有者と商品の賃貸料について交渉しなければならなかった。したがって企業規模を拡大しても、費用を大きく引き下げはしなかった」。
 「最後に、小規模な企業でさえ、バルト海貿易で一般に必要な投資に十分な資金を提供することができた。[だが、]工場や機械に投資することは、まったく不可能であった。商人に必要であった高額な建物、取引所、穀物取引所には、アムステルダム市が金を支払った。全体として、企業が比較的小さかったことは、補充が不足したり、好機を逸することを意味しなかった。当時の状況を考えれば、小規模であったため満足すべきほどに効率性が高かったのである」という(以上、ティーホフ前同、p.117)。
 ここで注意すべきことは、ティーホフ氏は著書のなかでバルト海穀物交易に「規模の経済」が働くとするが、この文言はそれが働かないことを示す内容となっていることである。
▼バルト海穀物交易を営む商人の数と事業▼
 バルト海穀物交易にかかわる企業は、1人の商人によって営まれることが多かった。複数の商人が、パートナーシップを結んで行われたが、その多くが同族であった。しかし、1人の商人は多数の事業に参加した。
 バルト海穀物交易にかかわる企業の数に関する史料に乏しいようであるが、16世紀半ばから増加しはじめ、17世紀それが止まり、減少したとされる。18世紀初め、後述のバルト海貿易・海運業委員会の代表委員選挙に使われた投票者リストが残されている。その目的からみて、投票者リストにある数は、主だったバルト海交易企業を網羅していたとみられている。
 1704年のリストには111人、そして1706年のリストには137人とその企業が示されている。1706年のリストによると119人が1人企業となっており、12人が2人、4人が親子兄弟、1人が3人兄弟の企業、そして1人が会社企業の名義人であった。彼ら投票者は、「バルト海貿易商人、船主、穀物商人であったばかりか、同時に、亜麻・木材・塩・鉄・獣皮の商人、仲介人、塩仲介人、穀物仲介人、木材仲介人、船舶をチャーターする際の仲介人、保険業者、ロープ製作者、石鹸製造人であった」(ティーホフ前同、p.116)。
 彼ら137人のうち81人が、バルト海交易をめぐるトラブルに関与する仲裁人のリストに載っている。彼らはバルト海交易人の上層に属しており、残る56人が中層である。それ以外に、代表委員選挙に招かれない、小商人や代理商、仲介人などがいて、下層を構成していたとみられる。1742年、1111人の商人が税金を支払っているが、そのうち何人がバルト海穀物交易にかかわっていたかは不明である。
 これらオランダのバルト海交易人には、さらにいくつかの特徴があった。彼らの宗教はメノー派が主流であった。この派は、16世紀オランダに生まれた再洗礼派の一派で、その平和主義的な宗教理念からバルト海交易に従事したという。彼らは、穀物以外に様々な商品を扱い、様々な港や地域と取引し、また海運業や保険業、金融業を兼業していた。しかし、バルト海以外の地域、例えばイングランドやフランスなどと取引する有力な商人の仲間になることはなく、よりすぐれてバルト海交易専業者であった。
 なお、冒頭に紹介したコルネリス・ピーテルスゾーン・ホーフトの妻はメノー派であった。また、末尾に紹介するウィレム・ド・クレルクはメノー派であったが、その時代の同派の伝統の欠如に不満を抱いて、フランス改革派に改宗している。
▼穀物商人と船主の分離、委託代理商への移行▼
 16-17世紀、オランダのおおかたの商人は交易だけに専念していたのではなく、船舶を所有して自他の商品を輸送していた。彼ら商人や交易会社は、大規模なものも含めて、数隻の船舶を所有あるいは共有していた。さらに、他人が所有する船を用船して交易を行っていた。
 17世紀後半から18世紀初めのアムステルダム取引所の仲裁人リストによると、最も有力な穀物商人は主要な船の船主とオーバーラップしていた。1人の商人ないし1つの商会が、このように2つの機能を併せもつことは、19世紀まで続く。それでも、17世紀後半になると、船舶を所有することを専業とする集団が現れる。それと同時に、伝統的な商人は、船舶の所有や運航を兼業しなくなる。
 17世紀末に創設された、後述のバルト海交易・海運業委員会は、常に商人と船主両方を代表する団体であり、原則として6人の理事のうち3人が商人、3人が船主であった。また、18
船主ギリス・ホーフトマン(1521-81)と
その妻マルガレータ
マルテン・デ・ヴォス画、1570
アムステルダム国立美術館蔵
 17世紀末に創設された、後述のバルト海交易・海運業委員会は、常に商人と船主両方を代表する団体であり、原則として6人の理事のうち3人が商人、3人が船主であった。また、18世紀初め、それ以前にはもっぱら商人の仕事であった海上保険は、これまた徐々に専門の保険業者によって提供されはじめる。
 こうした商人と船主の分離のもとで、17世紀後半から、彼らとは異なる新しい専門職が生まれる。船や海運サービスを探している人びととそれを提供する人びと、すなわち商人と船主を取り持つことを専門とする船舶仲介人(cargadoor、用船業者とも訳されている)が興隆した。彼らの仕事は、ティーホフ氏によれば「船舶の書類、船荷、商品の保管を管理し、用船契約をする」こととなっている(ティーホフ前同、p.123)。
 さらに、18世紀になって、バルト海地方の穀物交易の成長が再開すると、アムステルダムの穀物商人の業務に新たな重要な変化が起きたとされる。「アムステルダムの商会は自己勘定で穀物貿易を行なうことから、外国人にサーヴィスを提供することによる委託業へと変化した。外国の商会は、穀物をアムステルダムの委託代理商に送った。委託代理商は、商品を受け取り、販売した。商品は外国人に属し、外国人が企業家活動のリスクを負い、輸送料と保険料を支払った」(ティーホフ前同、p.127)。
 ここにいう委託代理商は、外国人商人に対してその穀物販売業務を受託することを、事業としている。以下において、委託代理商という訳文を使うが、正しくは穀物販売の受託代理商である。この受託業務が、どの程度、広がったかは明らかにされていない。アムステルダムの穀物商人が穀物の買付とその販売という本来的な業務を放擲し、委託穀物の販売という手数料稼ぎに変質したことは、企業家としては明らかで堕落であろう。
 18世紀、オランダのほとんどの個人企業は法人企業になり、代替わりしても名称は変化せず、永続化していった。その業務も、さらに特化する傾向が強まった。それによって企業の規模が大きくなったわけではなく、それはせいぜい2-3人のパートナーシップであった。
▼オランダ―バルト海との郵便制度の発達▼
 商人たちは、引きも切らずに入港する船の船長から口頭で、また船長に託された各地のパートナーや代理人からの手紙で、最新の交易情報を取得し、また彼らに伝達した。また、彼らは陸上郵便を使って、交易情報を入手し、交換しあった。さらに、商人たちが集い、取引する、道ばたや店頭、宿屋、集会所、市場、そして取引所に出かけて、交易情報を入手した。
 オランダの都市では、16世紀後半から17世紀初めにかけ、公的な郵便制度が設けられた。そのサービスはオランダ国内をはじめとして、国外では南ネーデルラントの一部、ドイツ西部に向けられた。1612年の条例では週2-3回目的地に向け出発した。17世紀前半、アムステルダム―ハンブルク間は2-3日を要した。
 フランスやポルトガル、バルト海といった遠隔地への手紙は、基本的には目的地に寄港する船に託された。アムステルダムの市政官は、敵対するスペインやポルトガルとの手紙について、規制したという。商人たちは船便より時間のかかる陸上郵便も利用した。その場合、目的地にアクセスのある地点を経由せざるをえなかった。そのため、例えばフランス向けはアントウェルペン、バルト海向けはハンブルク経由となった。
 1580年代、ある穀物商人のデルフト―ダンツッヒ間の26通の手紙の到着日数の記録が残っている。そのうち、船便は19通、陸便7通のようであり、それらの平均、最長、最短の到着日数は23日、36日、11日と39日、51日、26日である。この場合、陸便は船便にくらべ、1.7倍の日数を要している。
 オランダとバルト海とを航海する船は、航海途上、その中間点に位置するエーアソン海峡のヘルシンボリに寄港した。現スウェーデンのヘルシンボリにはオランダ人のコミュニティがあり、移動する商人や代理人、船員などに宿舎や食料、飲料を提供するとともに、郵便センターの役割を果たしていた。オランダから、1ダース以上あったというヘルシンボリの宿屋に、陸上郵便物が届けられていた。
 その郵便物には、目的地や積荷の種類などについて、船長への指示が書かれていた。例えば、1597年の用船契約書には、「船長は、リスボンに近いセトゥバル……で、塩を一杯に積み、次にそれをダンツッヒ、ケーニヒスベルグないしリーガに輸送する。どこに行くかは、エーアソン海峡に到着した時に船長が受けた指示に従う」とあった。また、用船先が決まっていない船が、それを求めてヘルシンボリに寄港してきた。
 17世紀後半、公的な郵便制度が改善され、郵送時間が短縮される。バルト海地方との郵便路として、ハンブルク経由の北側ルートに加え、ベルリン経由する南側のルートが開かれる。それにより、18世紀半ば、ダンツッヒ―アムステルダム間の到着日数は17日程度となった。18世紀後半、さらに改善され、ハンブルクから3日、ダンツッヒから8日、ケーニヒスベルグから9日で、アムステルダムに届くようになった。
 こうした郵便制度の改善は、交易(取引)費用を低減させたばかりでなく、前近代の交易が持つ性格―不確実性、秘匿性など―を払拭させ、その根幹を揺るがすこととなった。また、それはバルト海地方との交易に参入している様々な国や地方の商人たちに、最新の交易情報を共有する機会を与え、それまでアムステルダムが築いてきた交易情報をめぐる優位を奪うこととなった。
▼アムステルダム、取引所の開設、仲介人の利用▼
 17世紀半ば、オランダなかでもアムステルダムは、世界の交易情報の発信地となる。すでにふれてきたように、オランダはバルト海交易圏と地中海交易圏の中間に位置し、同時にそれらの中継交易国として大きな役割を果たしていた。さらに、東インドや西インドにも進出しており、世界のあらゆる地域の交易情報が集積された。ヨーロッパ諸国の商人たちは、オランダにいる代理商などから、交易情報を入手していた。イギリス東インド会社は、ためらいもなくアムステルダムに代理商を送り込み、アジアの交易情報をえていた。
 アムステルダムでは、商人たちは
港近くの道ばたで取引してきたが、
それが急増したため、1592年悪天候
の場合ある教会に集まることが認め
られ、そして1592年には取引する時
刻が定められた。1609年、オランダ
はスペインと休戦条約を結ぶ。それ
により、アントウェルペンの地位は低
下し、アムステルダムがヨーロッパに
おける交易の中心地となる。1611
年、アムステルダムに商品取引所が
建設される。それにバルト海穀物交
易人はあきたらず、1617年には穀物
取引所が開設される。
 バルト海穀物交易にかかわる取引
は、この2つの取引所において行わ
1617年開設の穀物取引所
アドルフ・ファン・デル・ラーン画、1751-66
れた。大規模な取引は商品取引所、そしてパン製造や醸造業者との小規模な取引は穀物取引所において行われた。これら取引所が設置される以前の1580年代から、アムステルダムでは取引された商品の価格が公表されてきた。
 アムステルダムの価格表は、仲介人によって毎週1回まとめられたが、それには商品価格ばかりでなく、保険料、為替相場など、すべての取引情報を網羅していた。それにもかかわらず、輸送料あるいは用船料は記載されていなかった。彼らはそれを記載した商業新聞を発行した。なお、それらの先駆者はアントウェルペンにあった。
 商品やサービスなどを取引するに当たって、商人あるいは船主たちは仲介人を利用した。その場合、公の規則に従って宣誓し、取引所の会員となった仲介人を利用しなければならなかった。彼ら仲介人が扱う対象は、それぞれ特定の商品、穀物か木材か、あるいは保険、手形、用船などのどれかに、かなり特化していた。仲介人は、例えば穀物1ラスト当たり、16世紀2-4、1624年から6、1747年から12スタイフェル(1スタイフェル=20分の1グルデン)という手数料を要求した。それを売り手と買い手が折半して支払った。18世紀末になると、この公定料金の2-3倍の仲介料が支払われたという。
 1578年仲介人ギルドが設立される(1798年廃止)。仲介人は、それ以前の1531年11人、1560年代24人であったが、取引所設立後の1612年360人、18世紀500人に増加する。そのなかから、賢人と呼ばれた仲裁人が任命され、商事紛争を処理した。なお、これら公認仲介人以外に、ほぼ同数かそれ以上のもぐりの仲介人が活躍していたという。
▼血縁・地縁で結ばれたパートナーや代理人▼
 ティーホフ氏は、近世オランダの交易制度の特徴として、外国に代理人(それはおおむね商人であったので、代理商とも呼ばれた)をおいていたというが、それは何もオランダに限ったことではない。オランダの商人も移動商人として、外国に出かけて商品を売り買いしていた。15世紀末になると、ダンツッヒに通年居留する人びとが現れるが、16世紀になってもその数はそう多くはなかった。
 16世紀末、スペインによってアントウェルペンが破壊され、アムステルダムの新教徒が迫害される。それと同時期に、バルト海に西ヨーロッパから塩やワインを持ち込む交易が急成長した。それを機会に、オランダ人は外国に移住するようになり、コミュニティが誕生することとなった。17世紀、オランダ人のコミュニティはアルハンゲリスクからアレッポ、またロンドンからリヴォルノまでの主要な交易拠点に広がったという。
 外国の港に居留して交易にかかわるオランダ人には、@オランダにある交易企業の現地パートナーとして活動する商人と、Aオランダにいる商人たちから、商品の売買の依頼を受けて、それを実行する現地代理人という、2つの集団があった。後者には依頼人から、17世紀前半、取引高の1-2パーセント手数料が支払われた。前者のパートナーはもとよりとして、後者の代理人にあってもオランダにいる商人と血縁関係にあったとされる。
 オランダの商人にあって、現地にパートナーや代理人がいない場合、オランダから代理人を派遣して商取引を代理させる必要があった。その役割を使用人や船長、船荷監督にも委ねた。船長が代理人になることは、ダンツッヒとの交易では17世紀前半になくなっていたが、それ以外の港ではそうはいかなかった。
 外国にあるコミュニティに、どれくらいのオランダ人がいたかは不明のようである。ダンツッヒには、1640年代の最盛期、数百人いた。そのうち定住者は100人未満であったとされる。バルト海以外のコミュニティは恒久的ではなかった。フランスのラ・ロシェルには、17世紀の数十年間は、巨大なコミュニティがあった。リヴォルノも同様であって、1615-35年100-200人がいた。それらには商人のほか、家族や使用人、船員も含まれる。
 ダンツッヒに居住するオランダ人は市民権を買っているが、その数は1558-1793年の約250年間に516人であった。その構成は商人115人、船長など248人、職人など153人である。船長の数が多いのは、戦時になると中立国の船は入港が認められたので、オランダが戦争をはじめると船長は市民権の取得に走った。そのことはダンツッヒにとって海事振興となった。
 ダンツッヒの交易も海運もオランダ人に支配されていたが、ダンツッヒ人の商人がいなかったわけでも、彼らがオランダとの交易に無関係でもなかった。ダンツッヒの商人は、オランダ人商人の現地代理人として奉仕するか、またオランダ人に名義貸して、彼らの雇い人であるかのように振る舞っていた。そうした下働きのなかで、ダンツッヒの商人は海上交易の経験を重ね、交易の知識と技法を習得する。
 17世紀、バルト海地方におけるオランダ人のコミュニティは繁盛したが、18世紀徐々に縮小、衰退する。それは、オランダにいる商人が身内を送り込まなくても、現地の商人を信頼のおける代理人として指名できるようになり、また発達した郵便を利用して具体的な取引の指図を行えるようになったことによる。さらに、バルト海諸国の重商主義政策の展開によって、外国人の交易や居住が制限されることになる。
▼メノー派商人や船主、非武装のフライトを選好▼
 近世、ヨーロッパ海域に就航するオランダ船の規模は別表の通りである。1560年代のホラント州のみの800隻12万トンから、1636年オランダ全体の少なくともその2倍の1750隻31万トンに増加した。この17世紀半ば以降の急増はヨーロッパ諸国の脅威となった。ホラント州の船が他を圧倒していた。この概数には東西インドなど使用される船は含まれていない。なお、トン数は積トンまたは自重トンである。
オランダ商船隊の概数
(単位:隻、1000トン)
年代
船舶数
トン数
1530年代
1560年代
1636
1670
1750
1780
1824
1850
300-400
800
1750+?
2000
2000
2000
1100
?
45-6*
120*
310+
400
365+
400
131
390
出所:ミルヤ・ファン・ティーホフ著、玉木俊
明・山本大丙訳『近世貿易の誕生-オランダ
の母なる貿易-』、p.169、知泉書館、2005。
注 *:ホラント州のみ

 それらヨーロッパ海域に就航する船に占めるバルト海地方に就航する船の規模はそれほど明らかでない。1630年代およそ全体の4分の1に当たる400隻というにとどまる。1隻当たりの乗組員は10人とすれば、バルト海交易は約4000人の船員雇用を創出していた。 オランダ船のオランダ人のほとんどは、ホラント州とフリースラント州の生まれであった。「これらの地域にある数多くの村や都市は、バルト海地方での海運業で稼いだ賃金で利益を得ていた。バルト海航路で働く乗組員は、東インド会社の艦隊で働く船乗りとはまったく異なり、地位がある程度高く、それなりの生活水準が獲得できた」(ティーホフ前同、p.4)。それ以外にノルウェー人をはじめ、スカディナヴィア人も雇用されていた。なお、船員の出身地については議論が多いという。
 バルト海地方に就航した船はすでに述べたフライトである。最初のフライトは、1595年ホールンで建造されたと伝承されているという。それ以前から、大量に貨物を輸送するために改良が続けられてきたが、フライトはその最後の形態であった。その特徴は、すでに述べているが、長さと幅が4対1から6対1と細長く、船底が平らで、上甲板にかけて幅が狭くなっていた。この構造はエーアソン海峡で船にかかる通行税を低減させた。1669年、デンマークはそれに気づき、トン数の計測法を改めた。
 東インド会社船は優雅であったが、フライトは穀物専用船であったので、イギリス人から「オランダ野郎」と軽蔑されていた。フライトに高速性は要求されなかったが、決して鈍足ではなかった。
 1700-10年、バルト海を航海したオランダ船は平均145ラストであったが、それに使用された400隻ほどのフライトは184ラストであった(1ラスト=2トン)。バルト海交易に使用されたフライトは大型船であった。17世紀前半のオランダ船は乗組員1人当たり20トン、18世紀初めには25トンに増加した。オランダ船の乗組員の数は少なく、船員費は安かった。また、オランダ船の建造費や艤装費は、自らが低価格で輸入した材木や麻、ロープが使用され、またそれらが規格化されたため、安価であった。こうしたオランダ船の輸送コストの安さは、他のヨーロッパ諸国にとって脅威であった。
 船員費についてはまったく分析されておらず、18世紀の収支状況をみると、賃金と食費が運用費(運航費のことか)の40パーセントに達していたという引用文が紹介されるにとどまる。
 バルト海地方に就航した船とその船主には、いまひとつの大きな特徴があった。フライトは、当時当然とされていた武装をほとんど行っていなかった。この非武装船の船主となったのが、あらゆる暴力を厳しく禁ずるメノー派であった。1619年、メノー派のワーテルラント教会は武装した船を所有あるいは共有する宗徒を処分すると決議している。彼らメノー派の商人や船主たちは、他の海域に比べ安全なバルト海やロシア、ノルウェーと交易することを好んだ。
 非武装のフライトは海賊・私掠船の餌食になりやすかった。オランダ海軍は護衛する必要に迫れるが、それを受け止める基盤がなく、フライトの船主にただ自衛するよう求めるしかなかった。1603年、連邦議会は商船に乗せる武器と船員の数を規定する条例を制定したが、実行されなかった。
 1557年アムステルダムは護衛してくれる軍艦への支払いに充てるため、特別公債を発行している。オランダは、1582年から全土に共通する唯一の税として、輸出入関税を課した。それを財源として1597年から海軍が常設されることとなった。しかし、それは統一された海軍ではなく、アムステルダム、ロッテルダムの、西フリースラントの都市、ゼーラント、フリースラントに海軍支庁を設け、それぞれが関税を徴収して運営に当たった。そうした地域性の強い海軍は、商船の護衛は建前にとどまったとみられる。そのためか、1631年にはバルト海交易に従事するすべての商人や船主が資金を出し合って、自ら護衛船団を編成したりしている。
 オランダ船は、17世紀大型化するが、18世紀になると小型化する。それは多くの戦争により、北海やバルト海が安全でなくなり、沿岸航行する小型船が好まれるようになった。さらに、穀物の最終消費国の船がバルト海に出向いて穀物を積み取るようになり、オランダ船の通過交易が減少したことによる。その結果、バルト海交易に使用された大型フライトの優位性は、18世紀半ばには失われることとなる。
▼オランダ船の輸送費の安さとその利益率▼
 オランダ船は、すでに述べたように、他のヨーロッパ諸国の船に比べ、輸送費が安かった。イングランド船に比べ、1651年3分の1から2分の1、また1676年3分の1も安かったとされる。しかし、各国の輸送費を正確に比較することは、史料がないため、不可能とされる。
 オランダ船は輸送費の安さを武器にして、エーアソン海峡経由のバルト海穀物の輸送船として、大きく成長する。16-17世紀、バルト海が輸出する穀物のうちオランダ船が積み取った比率は、戦争や穀物の豊凶によって変動するが70-90パーセントの範囲にあり、その穀物輸送をほぼ完全に支配していた(ティーホフ前同、p.176、図10参照)。
 しかし、18世紀に入ると、イングランドやフランス、スカディナヴィアの海運の発展によって、オランダ船の支配的な地位は次第にくずされていく。18世紀半ばから、オランダ船が積み取った比率は50-60パーセントに落ち込む。19世紀になるとそれが激しくなり、1814-50年わずか10パーセントとなる。そうした後退は、オランダ船の輸送費が上昇したのではなく、イングランドやフランス、スカディナヴィアの輸送費が低減し、またそれらの国々の重商主義的な政策の結果であったであろう。
 16-17世紀におけるオランダの海運業は利益率の低い事業とされてきた。しかし、海運業に何世代にもわたって投資が行われてきた経過をみるとき、一定の利益は見込まれたとする。1589-1611年、アムステルダム在住のフランドル人の27隻の共有船の持ち分について調べたところ、それらの年平均の利益率は10パーセントであった。また、18世紀、西ヨーロッパと北東ヨーロッパを航海する商船の利益率は10-20パーセントであった
 そこで、ティーホフ氏は「オランダ海運業への投資は、短期間で金持ちになりたいと願う者にとっては良い選択肢ではなかったが、それでも極めて満足のゆく利益を産みに出した」とする(ティーホフ前同、p.179)。そうではなく、10-20パーセントを長期的な最低の利益率だとみれば、運賃や用船料が高騰する短期的な利益率はそれを数倍したであろう。それらを総合してはじめて相当程度に利益の上がる事業となっていたのではないか。
▼バルト海穀物の海上輸送と用船契約▼
 16世紀、バルト海との穀物や材木などの嵩張る商品の交易が大きく発展したことによって、交易は規則的になり、取引は組織化され、交易に信頼性が高まった。バルト海沿岸の港には、集散する商品に応じた倉庫が設けられ、船の到着を待った。船長が、オランダ向けの積荷を見けられないというリスクは少なくなり、積荷の積み卸しにかかる時間も短縮された。
 ダンツッヒ―アムステルダム―ダンツッヒの航海は、1530年代貨物の上げ下ろしを含め1.5-2か月かかると見込まれていたが、1580年代には1か月に短縮された。ただ、バルト海との航海期間は、秋・冬期の荒天と凍結のため、3-10月に限られていた。オランダでの停泊や修理の期間などがあったので、実際のバルト海との航海回数は3-4回であったとされる。白海のアルハンゲリスクとの穀物輸送は年1回にとどまった。
 バルト海との大規模な穀物交易は、大型の穀物専用船が貨物を満載して、安全な航路を通って少ない乗組員でもって動かされ、短期間に素早く繰り返し航海したことから、「オランダ内部の貿易」と呼ばれたという。
 個別の輸送料(普通、運賃あるいは用船料であるが、訳語のままとする)は用船契約書(charter party)によって取り決められた。用船契約書は、公証人の前で、取り結ばれものだけが残った。それも全体の10パーセントにも満たない。また、残されたという用船契約書も、その時代の代表例にならないという。また、用船契約は様々な港で結ばれたこともあって、アムステルダムで残る例は少なくなった。
 用船契約書は、用船者と船主とのあいだで、特定の航海あるいは期間について結ばれるが、船長の名前とその居住地、船名とそのトン数、ティーホフ氏はふれていないが目的地、おおむね貨物の種類、その1ラスト当たりあるいは1か月当たりの輸送料、積み卸しの回数とそれに要する日数が記載される。
 オランダにおいて用船契約を結ばないで出帆する船は、エーアソン海峡において用船契約を結ぶことができた。また、船主は船長に「冒険航海」させた。船長は船主のために、自らの航路を決定し、用船者や積荷を探した。オランダをバラストカーゴだけを積んで出帆した船も、エーアソン海峡において用船契約を結んだ。
 バルト海航路の輸送料は季節によって変動した。航海可能期間の末期の10月や初期の3月が高くなり、4月と7月が安かった。用船契約は、穀物の輸入国のオランダの港ばかりでなく、その輸出国においても結ばれた。しかし、ダンツッヒなどにはわずかな船腹しか在籍していなかった。そのため、ダンツッヒの輸送料の年間の変動は3-4倍となり、アムステルダムの2倍よりも大きかった。
 オランダを出帆した船が、バルト海において越冬することを余儀なくされた場合、オランダからの輸送料には数ギルダーが上乗せされた。乗組員は、船を離れて陸路帰郷して、春になってバルト海に戻った。それは、江戸時代、冬期に船がこいされる、北前船の乗組員と同じである。
 用船契約は、おおむね1隻1航海について結ばれたが、数隻をあるいは通年にわたって結ばれる場合もあった。その場合の輸送料は、その時期の平均料金よりも1ギルダーほど安くなった。また、評判の良い船長が乗る船の輸送料は高かった。

【補遺】 『エーアソン海峡通行税台帳』からみたバルト海交易
 玉木俊明著『北方ヨーロッパの商業と経済 1550-1815年』(知泉書館、2008)は、近世バルト海交易を分析した大著である。そのなかで紹介されている『エーアソン海峡通行税台帳』の統計資料を独自に分析することとする。
 この史料は、前編(1497-1657):オランダが大宗交易品である穀物交易を一手に支配する「穀物の時代」、後編(1661-1783):北方戦争(1655-60)で勝利したスウェーデンがバルト海に突出し、また鉄や木材などが大宗交易品となった「原材料の時代」に分かれる。
 なお、後掲の数値は10年間の累計である。また、この史料は多くの欠落や不正確な部分がある。
エーアソン海峡に入ろうとする船
エーアソン海峡通行税台帳
▼前編(1497-1657)、「穀物の時代」▼
 前編における海峡を通過した船の隻数(バルト海に向かう東航船とそれから帰る西航船の合計の10年値)は1591-1600年の55,538隻を最多とし、その後減少して1641-50年には35,996隻となっている。その減少は、三十戦争の影響もあるが、1610、20年代にオランダ船が大型化したことによるとされる。
 通過したオランダ船のうち、100トン以上の船は1601-10年3,116隻であったが、1621-30年には10,626隻まで急増し、30-100トンの船の隻数とほぼ同じ数となり、その後は主流となっている。
 エーアソン海峡を通過する船は、往航・復航の貨物の特性(東航船は塩、ニシン、ワイン、香辛料、西航船は穀物、木材、灰・灰汁、ピッチ・タール、亜麻・麻など)により、片荷航海になることが避けられない。東航船では、いまみた大型化前は貨物積載船とバラストだけの船(主として塩)とがほぼ同数であったが、大型化後は前者が後者を上回るようになった。西航船でもわずかなバラスト船がある。この片荷航海はオランダのバルト海交易が赤字でなることを意味してした。
 エーアソン海峡を通過する船の船籍(この場合、船長の国籍をいう)は、@オランダ、Aイングランドやスコットランド、Bハンザ同盟に属するブレーメン、ハンブルク、リューベック、ロストク、ヴィスマル、ストラーズンド(それらも北海あるいはバルト海かに面するかに分かれる、後出のシュレスヴィッヒ−ホルシュタイン船は後者である)、西航船の積出港であるCポンメルン、ダンツィヒ、エルビング、東プロイセンやDスウェーデン、ノルウェー、デンマーク、Eその他に分かれる。
 オランダ船は、全期間平均では約60パーセントと圧倒的であるが、すでにみたように大型化後は減少し続ける。Cのグループも、オランダ船ほどではないが、減少し続ける。このことは穀物輸入国に対して穀物輸出国の海運業が未発達であり続けたことを示す。それら以外のA、D、Eのグループは増加し続ける。その結果として、オランダ船の比率は、1611-20年69.8パーセントから1641-50年41.3パーセントに低下する。17世紀後半になると、オランダ船は独壇場ではなくなる。
 前編には、海峡を通過した船の積み荷の品名や数量は記載されているが、その価額は記載されていない(後編には記載されるが信頼がおけない)。ポーランド(ダンツィヒ、エルビング)では、輸入額は毛織物、ニシン、ワイン、塩(なお、1630年代から香辛料、そしてタバコ、砂糖、コーヒーといった植民地物産が台頭する)、輸出額では穀物、灰・灰汁、亜麻・麻の順で多い。輸出額は輸入額を大きく上回り、出超となっている。
 それら海峡を通過した船の商品の積み取り比率をみると、前編にあっては、東航船、西航船のいずれにあっても、ほとんどの品目においてオランダ船の比率が圧倒的に高い。
 それでも、東航船においては、植民地物産ではイングランド船やフランス船が食い込み、毛織物ではイングランド船がオランダ船を上回る場合が多く、また獣皮ではイングランド船やスコットランド船がオランダ船を圧倒している。また、西航船においては、亜麻・麻ではイングランド船が割り込みをみせ、鉄(さらに銅)では特にスウェーデンが互角の勢いとなり、それにスコットランド船が参入してくる。繊維製品(主に麻織布)では、イングランド船がオランダ船を上回るようになり、時代が下がるにつれて、顕著となる。
▼後編(1661-1783)、「原材料の時代」▼
(1) 隻数、船籍、出港地
 後編において海峡を通過するた船の隻数は、北方戦争後増加する。後編の半ばに発生した大北方戦争(1700-21、スウェーデンが敗北、ロシアが台頭)が、バルト海交易に与えた影響は大きく、その戦間期、通過船の隻数、さらに貨物の通過量は大幅に減少する、戦後から同末期にかけて再び大幅に増加する。
 東航船・西航船の合計隻数は、1660年代から100年後にかけて、26,100隻から64,140隻へと大幅に増加している。バルト海交易が「穀物の時代」から「原材料の時代」に転換するなかで、それに従事する船が大型化し続けたどうかは判然としないが、隻数規模は前編の最盛期を大きく上回る。なかでも、オランダ船は13,529隻から22,275隻に増加したにとどまるが、イングランド船は1,331隻から11,223隻へと激増する。
 その時期、西航の貨物積載船は11,821隻から31,705隻に増加するが、それらの船籍構成はオランダ船51.9→35.0、イングランド船4.8→17.6、スウェーデン船13.0→12.9、ノルウェー船2.9→5.0、デンマーク船3.4→6.6、シュレスヴィッヒ−ホルシュタイン船16.7→3.8(ハンザ同盟の後退に対応している)、その他(穀物輸出国船とみられる)7.3→19.1パーセントへと変化した。オランダ船の大幅な減少、イングランド船のかなりの進出、そして船籍の大なる分散化が認められる。
 後編には、それぞれの船の船籍と貨物積載船かバラスト船かの別、また出港地が記載されている。東航船におけるバラスト船の比率は時代が下がるにつれ、30→50パーセントに増加している。それは、大幅に増加する隻数に東航貨物が対応して増加しないため、特にオランダ船 それに加えてイングランド船のバラスト船率が高まったことによる。それに対してスウェーデン船などは、後述するように沿岸交易に従事していることもあって、バラスト船率は低いまま推移している。
 東航船の出港地についてみると、当然ながら例えばオランダ船であれば、そのほとんど船が自国にある港─船籍のある港とは限らない─を出港地としているが、かなりの船が船籍ではない外国の港を出港地としている。自国以外ではかなりの船がフランスを第二の出港地としており、時代が下がるごとに、自国以外の出港地が20-30パーセントと増加している。
 イングランド船は様々な国を、スウェーデン船はオランダを第二の出港地とし、その他フランス、ポルトガルをもそれなりの出港地としている。それらに対して、ノルウェー船はほとんどの船が自国を出港地としている。他方、デンマーク船はノルウェーを第一の出港地とし、自国はオランダと並ぶ程度となっている。
 次に、西航船の出港地についてみると、船籍によって大きな違いがある。いずれも、主としてではあるが、オランダ船とノルウェー船はダンツィヒ、ケーニヒスベルグ、リーガ、またイングランド船はリーガ、スウェーデン、ナルヴァ(1720年代を境にしてナルヴァはサンクト・ペテルブルクに替わる)を出港地としている。これら出港地の相違は、船籍船それぞれの交易先や積み荷の相違に基づいている。
 それに対してスウェーデン船やデンマーク船は主として自国を出港地としている。こうした出港地の有様から、スウェーデン船やデンマーク船は長距離交易船に対する沿岸交易船ととらえられている。しかし、上でみた東航船の出港地との組み合わせからいえば、スウェーデン船は東航船、西航船ともに、かなりの船が自国貨の輸送が従事しているとみられるので、確かに沿岸交易船といえるが、デンマーク船はそうではないであろう。
 17-18世紀、スウェーデン船は沿岸交易(国内交易というべきであろう)を主な輸送形態としながら、長距離交易においても活躍したということになる。
(2) 主な貨物の船籍別の通過量
 後編には、主な貨物の船籍別の通過量が示されている。まず西航船をみると、後編の全期間、ライ麦の通過量は16万ラストから30万ラスト(1ラスト=2トンとされるが、穀物の容積としては1ラスト=3000リットル)と変動が大きいが、ラストで計量される貨物では最大である。それに次いで量の多い小麦は逐次増加し、ライ麦の3分の1から2分の1相当になっている。その他、灰や麻、亜麻がラスト計量され、それらの総量が小麦を超えることはない。なお、ラスト計量貨物は主にオランダ船で輸送される。
 鉄(主に棒鉄)はシップボンド(1ラスト=6シップボンド相当とされる)で計量される最大の貨物である。1661-1710年までは30万シップボンドを超えなかったが、1711-80年にかけて一挙に130万から300万シップボンドに急増している。次いで麻、亜麻の量が多く、鉄と同じような傾向を示す。麻でいえば、後編前半25万シップボンド台にとどまっていたが、後半になると70万から150万シップボンドに増加する。灰汁は後半急増して15-20万シップボンドを数える。なお、シップボンド計量貨物は主にイングランド船輸送される。
 木材はピース(本)で計量されている。それは前半から増加の兆候がみられ、500万ピースを超えるまでになっていたが、後半1,500、2,500万ピースと急増する。繊維製品も同様であって、50万ピースから200、350万ピースへと著増する。
 穀物類については、オランダ船が一貫して主な輸送人(第3国向け輸送であるにかかわりなく)である。鉄については、オランダ船が有力な輸送人であったが、時代に下がるにつれて、まずイングランド船、次いでスコットランド船が参入してくる。その結果、オランダ船は排除され、イングランド船とスコットランド船だけが分け合うかたちとなる。繊維製品はイングランド船がほぼ一手輸送人となり、また麻、亜麻はイングランド船が主な輸送人となっている。灰汁はオランダ船とイングランド船、木材はオランダ船とイングランド船、スコットランド船が分け合っている。
 最後に、東航船の主な貨物の船籍別の通過量をみると、塩は後編の全期間、25万ラストを前後して推移しており、オランダ船はイングランド船とスコットランド船に大きく浸食されるものの、辛うじて首位を保っている。ニシンは、後編の前半は3万ラストで推移したが、後半になって4万ラスト、7万ラストまで増加する。前半まではオランダ船が主な輸送人たり続けたが、後半になると北海ニシン漁に食い込んできたスコットランド船、ノルウェー船、スウェーデン船が首位を争い、オランダ船は前半を下回るまで落ち込む。ラインワインは、全期間、2万オーム(オーム=622リットル)を前後して推移しており、ここではオランダ船が一手輸送人たり続けている。
 毛織物は、前半は40万ピース(反)であったが、後半になると60、70万ピースと増加する。その主な輸送人は前半はオランダ船、後半はイングランド船となり、さらにスコットランド船やダンツィヒ船(なお、後者の海運が振興したことは、他の分野でも示される)が割り込んでいる。植民地物産は、後編の全期間を通じて極端に増加した貨物である。前半は2,000から4,000万ポンド(現代の1ポンド=453グラム)であったが、後半は7,000、10,000、20,000万ポンドと著増している。その主な輸送人の変転は毛織物と全く同じ傾向を示している。
 植民地物産のバルト海への輸出の増加は、その輸出国であるオランダやイングランド船の出超を圧縮したとみられる。
▼まとめ▼
 前編から後編、特に後編の後半において、バルト海が輸出する鉄をはじめ、木材、灰汁、麻、亜麻の輸送量が大幅に増加し、他方バルト海が輸入する塩やニシン、ワインの輸送量が伸び悩む。このことは、バルト海地方が輸出する貨物が「穀物の時代」から「原材料の時代」に転換したことの中身である。
 そして、「穀物の時代」、オランダ船は自国の輸出入だけでなく、穀物や塩などの中継交易に従事することで、「バルト海の輸送人」として活躍した。すでに、その時代から、東航船にあってはイングランド船の毛織物やスウェーデン船の鉄のように、自国産品を自国船で輸出するようになる。
 「原材料の時代」になると、イングランド船があらゆる貨物を、スウェーデン船が鉄や木材を積極的に積み取っていることにみるように、原材料さらには工業製品を輸入あるいは輸出する国の船がそれを輸送するようになる。一言でいえば自国貨・自国船輸送の進展であった。
 総じて、『エーアソン海峡通行税台帳』は17世紀半ばから18世紀後半にかけて、バルト海交易において、オランダ船は中継交易から脱却できないことで覇権を失い、重商主義に加え工業化を推し進めたイングランド船がそれに取って代わり、それに次いで鉄の生産と海運活動を振興させたスウェーデン船が伸長した状況を示す。
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