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3・1・1 スペイン、その破壊と略奪の交易

3・1・1・1 レコンキスタからアメリカ大陸「発見」まで

▼レコンキスタからカトリック両王のスペイン王国まで▼
 イベリア半島を、ギリシア人はイベリア、ローマ人はヒスパニアと名付けた。イベリア半島が海上交易の世界史に登場するのは、前10世紀頃東地中海のフェニキア人がイベリア半島に銅や錫を求めて渡来し、アブデラ(現アルメリア、アラビア語で「海の鏡」)やマラガ、カディスといった交易地(港市)を築くようになったときからである。前201年、第2次ポエニ戦争でカルタゴを破ると、ローマ人はイベリア半島に侵入し始める。それに、混交ケルト・イベリア族は激しく抵抗するが、その後はローマ化が急速に進む。
 ローマ帝国に衰退の兆しが現れるとゲルマン民族の移動が始まり、イベリア半島には409年スエヴィ族が侵入して来る。ブラガに都としたスエヴィ王国は、585年トレドに都をした西ゴート王国に併合される。そのもとでカトリックへの改宗が進む。
 711年、西ゴート王国の内紛に乗じて、イスラーム教徒がジブラルタル海峡を越えて半島に侵入し、グアグレッテの戦いで西ゴート王国を滅ぼす。彼らは、キリスト教徒に寛容政策を採ったこともあって、数年にしてほぼイベリア半島全域を支配する。これにより、イベリア半島はウマイヤ朝イスラーム帝国の一部となる。756年には、アッバース朝との権力闘争にやぶれたウマイヤ朝一家がダマスカスから亡命、後ウマイヤ朝を興す。その王朝は、コルドバを都として、1031年まで存続することとなる。イスラーム教徒は、10世紀から華やかなイスラーム文化を花開かせ、約800年にわたってイベリア半島に留まり、その南部に強い影響を及ぼす。
 しかし、イスラーム教徒侵入後まもない722年から、イベリア半島北部のカンタブリア山脈からキリスト教徒の反撃が始まる。それはレコンキスタ(国土回復運動あるいは戦争)と呼ばれ、当時のヨーロッパのキリスト教徒にとって一種の十字軍運動であり、多くの異境の人びとも参加していた。その最中の9世紀初めに、現スペイン北部のサンティアゴ・デ・コンポステーラで12使徒の1人である、サンティアゴ(聖ヤコブ)の遺体が発見され、キリスト教徒戦士の守護神となる。
 イベリア半島北西部に、718年アストゥリアス王国(914年遷都により、レオン王国と改称)、801年フランク王国の一部であるスペイン辺境領、820年頃ナバラ王国といった、キリスト教国家が誕生する。9世紀初頭スペイン辺境領の西端にあったアラゴン伯領が、961年レオン王国の東部辺境にあったカスティーリャ伯領が、それぞれ独立する。その他の辺境領はバルセロ-ナ伯領に統合される。そのなかでも、1037年に成立したカスティーリャ・レオン王国が最大の勢力となり、アルフォンソ6世(在位1072-1109)は1085年タホ川以北、トレドまでを平定する。
 その後、それらの国々は併合・分離する。1137年アラゴン王国とバルセロナ伯国が合併してアラゴン連合王国となり、1143年にはレオン王国から伯領が分離してポルトガル王国が建国され、また1230年にはカスティーリャとレオンとが再統合してカスティーリャ王国となる。
 こうして、12世紀、イベリア半島には最西部のポルトガル王国のほか、現在のスペインに当たる地域の西半分にカスティーリャ王国、東半分にアラゴン連合王国という二大勢力が併存することとなり、それぞれが独自の言語や政治制度を維持しながらレコンキスタを進める。
 他方、イスラーム教徒の支配領域であるアル・アンダルスはレコンキスタによって次第に縮小していき、1031年後ウマイヤ朝が滅ぶと多数の小国に分裂してしまい、キリスト教諸国に服従する小国もあらわれる。11世紀末には、サハラに成立したムラービト朝(1056-1147)が攻め入ってきて、イスラーム小国を支配する。それは長続きしないで、1130年モロッコに成立したムワッヒド朝(1130-1256)に滅ぼされ、支配勢力が交代する。
 1095-1270年、聖地エルサレムの奪回を目指して十字軍が派遣されるが、その一環であるレコンキスタも13世紀になると仕上げの段階を入る。1212年、スペイン南部のラス・ナバス・デ・トロサの戦いで、カスティーリャ、アラゴン、ポルトガルのキリスト教連合軍が、イスラーム軍に対して決定的な勝利を収める。それにより、ムワッヒド朝はイベリア半島から追放され、イスラーム勢力はこの混乱のなかで生まれたナスル朝のグラナダ王国のみとなる。
 カスティーリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドが結婚する。その後、相次いでそれぞれの国王となったことで、1479年それら両国は連合して、2人の王をいただくスペイン王国となる。イサベル1世はカスティーリャ女王として1474-1504年、またフェルナンド2世はアラゴン王兼シチリア王として1479-1516年、またナポリ王として1503-16年、そしてカスティーリャ王として1479-1504年在位する。
 後日、ローマ教皇からカトリック両王という称号を受けることなる、2人の王は1492年イスラーム勢力の残滓となっていたグラナダ王国を収容して、レコンキスタを完遂する。その同じ年、イサベル女王の支援をえたコロンブスがアメリカに到達し、またユダヤ教徒の追放が起こるなどして、世界の
レコンキスタの進展
歴史はスペインが展開軸となって新しい時代に入っていく。
▼ハイメ1世、アラゴン海洋帝国の構築に着手▼
 アラゴン王国は、イベリア半島北東部のピレネー山脈に接する地方にあって、8世紀一時イスラーム教徒に支配される。イベリア半島北部から始まったキリスト教徒のレコンキスタのなかで、1035年ナバラ王の庶子であったラミロ1世(在位1035-63)によって建国され、18世紀初頭まで続く。アラゴン王国はイスラーム教徒を駆逐しながら、近隣のキリスト教国を併合して、次第に領土を拡大する。1037年にはナバラ王国を一時併合、1137年にはバルセロナ伯領と合併して、アラゴン連合王国となる。
 カタルーニャ地域は、前3世紀ローマ帝国の領域に組み込まれ、5世紀には西ゴート王国、そして713年からイスラーム教徒に支配されるが、801年にはフランク王国支配下のスペイン辺境領となる。10世紀末以降、バルセロナ伯領を中心に地域統合が進み、1035年ラモン・ベレンゲール1世(在位1035-76)が即位する。彼はヨーロッパ最初の成文権利章典「慣習法」を制定したことでも知られる。1137年には、いまみたように合併して、アラゴン連合王国を構成することとなる。
 アラゴン連合王国の成立は、カスティーリャ王国に圧迫されていたアラゴン王国の王女が、バルセロナ伯と結婚することで生き残ろうとした政略であったとされる。アラゴン連合王国はレコンキスタとともに、イングランド王などと結んで、南フランスへも進出しようとする。1209-29年のアルビジョワ十字軍に乗じて、さらなる進出を試みるが失敗して、危機的状況となる。そこで、ハイメ1世(在位1213-76、カタルーニャ語ではジャウマ1世)は方向を転換する。
 彼は征服王と呼ばれ、まず西地中海進出にとって障害であり、かつ西地中海最大の集散地であったマジョルカ島に向けて、カタルーニャだけでなくフランスからも艦船を集めてレコンキスタを進め、1229年に攻略する。この島の商業特権をバルセロナ人に付与する。そして、カタルーニャ・アラゴン連合軍を派遣して、1232年からバレンシアのレコンキスタに着手し、また1238年にはバレンシアとバレアレス諸島を奪回する。
 彼は、中世の王のなかで唯一自筆の自叙伝となった、『ハイメの年代記』を残している。そのマジョルカ島遠征の模様は次に通りである。「我々は水曜日の朝、陸風を背後に受け[タラゴナ近郊の]サロウから出帆した。……そしてタラゴナ、カンブリルで待機していた者たちも、サロウから艦隊が出るのを見て出帆した。陸から見る者にとっても、我々にとっても、それは素晴らしい眺めだった。海全体が帆で真っ白に染まった。艦隊はそれほど大きかったのだ」。
 また、彼は晩年、ローマ教皇の機嫌を取ろうとして、1269年3隻の大型船、12隻のガレー率いて、無謀にもエルサレムに向かうが、わずか5日で挫折してしまう。そのとき出会った嵐の恐怖を次のように書いている。
 「海の荒れはすさまじく、大きな波が来ると、ガレー船の船首と前3分の1は水中に沈んだ。……我が艦隊の帆船もガレー船も帆をたたんでいた。海が荒れているのは、プロバンスから吹いてくる強風のせいだった。ガレー船では誰も一言も口をきかなかった」。海神の怒り、神の意志、王たちと英雄たちの嘆き、「神が海の真ん中に置かれた王国」の征服―全てがそこに書かれている(以上、ロバート・ヒューズ著、田澤耕訳『バルセロナ ある地中海都市の歴史』、p.111-2、新潮社、1994)。
 ハイメ1世は、内政面では、「13
世紀なかば以降、国王都市バル
セロナの自治権強化につとめ、市
参事会とその肋言機関である百
人会議を承認した。さらに、アレク
サンドリアやチュニスなどにカタ
ルーニャ商人の居留地を開設さ
せ、そこに市参事会で選出され商
業裁判権をもつ領事(コンスル)
を派遣した」という(立石博高編
『新版世界各国史16 スペイン・ポ
ルトガル史』、p.109、山川出版
社、2000、以下、立石前同)。
アラゴン連合王国
アラゴン王国 (濃) と アラゴン連合王国 (淡)
 アラゴン連合王国の地中海制覇への意欲はハイメ1世の子に引き継がれる。その子ペドロ3世(在位1276-85、ペラ3世)は、1282年フランス王ルイ9世の弟アンジュー伯シャルル・ダンジュー(伯位1246-85、シチリア王1266-85、ナポリ王1260-85)の厳しい支配に対する暴動(シチリアの晩鐘事件)に介入して、シチリアの王位を手に入れる。
 「14世紀なかばに、バルセロナは人口約3万人、バレンシアは約2万5000人の都市へと成長していた。バルセロナ、バレンシアなどの都市で金融業や遠隔地商業に加え、毛織物や綿織物工業、造船業が発達し、ギルドも組織された。シチリア経由の『香辛料の道』を介して、アレクサンドリアやコンスタンティノープルとの香辛料貿易が展開される」。、主要都市に商務館が設置されたばかりか、バルセロナやバレンシアにはコンスラード(商業裁判所)[クンスラットと呼ばれる]が開設された」(立石前同、p.111)。
 バルセローナの商人や船主は、すでに13世紀前半から商人組合を組織していたが、同後半から14世紀初頭にかけて賦与された特権によって、船積みされる積荷の事実上の独占権や沿岸警備費用に充てる港湾税の徴収権を獲得し、1282年にはバルセローナ市の参事会員によって選出・任命された2名の代表者が統轄するクンスラット(商業裁判所)が設置される。
 それを手始めに、2名のコンスル(領事)によって統轄されるクンスラット・ダ・マル(海事裁判所)が、1283年バレンシアに、1326年マジョルカに創設される。バルセロナでは、1348年商業裁判所が改革され、それに加えて取引所や倉庫を備えた商務館(コンスラード)が設立される。
 これらカタルーニャの港ばかりでなく、海外の主要なカタルーニャ人居留地にも、13世紀後半からクンスラットと商務館が漸次創設されるようになった。なお、カスティーリャ王国では、1494年バルセロナに習ってブルゴス、1511年ビルバオに商務館が設置される。そして、アメリカとの交易に対応して、1503年セビーリアに通商院(カサ・デ・コントラタシオン)が創設され、その後1539年に商務館も設立されるが、それらについては後述する。
 さらに、アラゴン軍の主力となったカタルーニャ人傭兵軍団である「アルモガパレスはエーゲ海に進出し、アテネ公国などを簒奪した。[1324年には]サルデーニャにも拠点が確保され、強力な艦隊を武器に『アラゴン海洋帝国』が構築された。14世紀に項点に達するその地中海貿易は、金融業の発展をうながし、イタリア商人を引受人とした海上保険制度が導入された。個人銀行も多数設立された」。ただ、地中海交易をめぐって、ジェノヴ人との軋轢が激化したという(立石前同、p.111)。
 これら指摘以外では、地中海交易を規制することとなった、バルセロナ海法がある。ハイメ1世治世の1260-70年ごろ、海事慣習法(クストゥマス・ダ・ラ・マル、通称イタリア語読みで、コンソラート・デル・マーレという)として集成され、1370年には海事法令集(リブラ・ダル・クンスラット・ダ・マル)として編纂される。それは、中世の早い時期に集成されたアマルフィ海法、14-16世紀集成のヴィスビー海法とともに、中世三大海法とされる。
 なお、海事裁判所は、12-3世紀、地中海から大西洋へと、シチリア1147年、ジェノヴァ1181年、カタルューニャ1230年、フランス1248年、カスティーリャ1254年、ポルトガル1288年、そしてイギリス1295年と広がっていった。
海事慣習法
1914年編纂
▼船はいわば共通の母語、その叫びは探検と征服▼
 12世紀中ばから14世紀前半にかけて、アラゴン連合王国では人口の増加や農業生産力の拡充がみられ、13世紀から14世紀前半にかけてバルセローナを拠点とする海上交易が大いに発展する。その交易ルートは東地中海、西地中海、さらに大西洋に広がった。そのうち、彼らの海上交易は、イタリアの交易都市のそれと同じであって、東方の産品を取り扱い、それを中継交易するという性格を持っていた。
 最大の利益を生んだ東地中海ルートは、コンスタンティノープル向けとアレクサンドリア向けのルートに分かれたが、前者では蝋、銅、木綿、奴隷、後者では胡椒、シナモン、丁子、生姜などの香辛料、砂糖、漆、ホウ砂、蘇芳などを買付け、それに対して国産の農産物(サフラン、オリーヴ油、米)や手工業製品(毛織物、珊瑚細工)を持ち込んだ。
 西地中海ルートでは、南フランスには内陸の都市向けての、東方からの中継品や国産の毛織物を輸出し、また自国領となったバレアレス諸島やサルデーニャ島、ナポリ、シチリア島には国産の衣服や革製品、サフラン、武器を輸出し、その代わりにシチリア島の小麦、木綿、奴隷、サルデーニャの珊瑚や塩漬けの魚などを輸入した。さらに、北大西洋へ出て、イングランドやフランドルとの交易にも手を染めることとなった。
1572年頃のバルセロナ港
ブラウン/ホーヘンベルフ画
 バルセロナは西地中海交易の支配を固めると、より短期間により高い利益を生む、北西アフリカ交易に向かった。その交易では、金や奴隷、小麦、羊毛、蟻、皮革、珊瑚などを買付け、その見返りにシチリアから小麦や珊瑚、絹、砂糖、木綿、サルデーニャから塩、小麦、羊毛、チーズ、皮革、銀、錫、珊瑚が中継交易した。
 アラゴン連合王国の海事勢力については、Webページ【2・4・4・2 ジェノヴァ、先発ヴェネツィアを追い越す】において紹介しているが、1383-1411年地中海や北海で活躍していた437隻のうち、カタルーニャ(主としてバルセロナ)船が最も多く129隻であり、ついでジェノヴァ船120隻、ヴェネツィア船56隻となっていた。また、1394-1408年ベイルート寄港船の構成は、ヴェネツィア船278隻、ジェノヴァ船262隻、カタルーニャ船224隻、その他103隻となっていた。14世紀末から15世紀初めにかけて、カタルーニャ船はジェノヴァ船やヴェネツィア船と対等の地位を占めていた。ただ、それらに比べ、カタルーニャ船は小型船が多かった。
 現在のバルセロナのコロンブスの記念碑のそばに海事博物館がある。そこはドラサナスという造船所跡である。それは、アラブ人が建てた古い造船所に代わって建てられたもので、当時新造船所として知られた。13世紀から建設が始まり、1360年頃にアルナウ・ファレーという建築家によって完成され、船台は10台を数えたとされる。
 ここで、地中海最大級の船が何隻も造られたが、現在「その一例として、ドン・フアン・デ・アウストリア[1547-78、スペイン艦隊の提督]が1571年のレパントの海戦でトルコ海軍を破り、キリスト教徒を勝利に導いたときの旗艦[レアル号]の実物大の模型が[、2つある。]一方のベイ[船台]を占めている……全長約60メートル、総排水量237トン、奴隷10人がかりで漕いだ、電柱のようなオールが58本。[それは]金と赤のラッカーを塗った、不気味な戦闘マシーンだ」(ヒューズ前同、p.156)。なお、コロンブスのサンタ・マリア号の模型もある。
 カタルーニャには、バルセロナ以外に、コスタ・ブラバのサン・フェリウ・デ・ギショルス、マタロ、ブラネス、アレニィ・ダ・マルなどにも、有力な造船所があった。ただ、バルセロナの港は浅く、砂泥の沈殿は続き、19世紀になっても大型船は難渋した。
 中世バルセロナにあっては、船が「つらく危険の多い海洋生活を支えていた。船はいわば共通の母語で、その叫びは探検と征服という形をとった」。コロンブスの銅像がそれを象徴しており、「航海することが必要なのであって、生きることが必要なのではない」という倣慢な文句が刻まれている。「船で海へ出て行ったものたちの勇敢さは、カタルーニャの伝統的自画像になくてはならない要素となり、長い間、作家たちの熱いイマジネーションを掻き立て続けた」という。
 ジョアン・アマダス(1890-1959、民族学者)は、その膨大なカタルーニャ習俗集(CostumariCatala、1950-1956)のなかで、次のように書いている。「船乗りには気高さがある。その高貴さが共感を呼ぶ……日々のパンを得るために彼は絶えず命を危険にさらさねばならない。どこへ船出しようと、彼は底のない淵に身を委ね、あるときは優しく、あるときは激しい邪悪な自然の力に翻弄される。ひとたび乗船すれば、再び下船できるとは限らない。命がけの、報いの少ない賭に常に挑んでいるので……彼には、俗世間の人間をはるかに上回る偉大さが備わっている」と(以上、ヒューズ前同、p.157)。
▼カスティーリャ王国の危機と、その回復▼
 13世紀、カスティーリャ王国はイベリア半島のビスケー湾に面した西部と中央部からレコンキスタによって、現在のカスティーリャ・レオンとカスティーリャ・ラマンチャ地方まで領土を拡大していた。その地方語であるカスティーリャ語は、かの1492年という年に人文学者アントニオ・デ・ネブリーバ(1442-1522)が著書『カスティーリャ語文法』をイサベル女王に献呈したことを契機にして、スペイン全土の共通言語となる。
 14世紀はスペインにおいても危機と再編の時代であった。14世紀半ば、ペストの蔓延は大幅な人口減少と生産力の低下、貧民の増加などを引き起こし、反ユダヤ運動や内乱が続発した。それでも、15世紀半ばまでには、カスティーリャ王国のほとんどの地域で人口が増加に転じ、生産力の上昇や都市の拡大もみられた。その牽引力は、フランドル地方への羊毛輸出とアンダルシア地方の商品作物生産にあった。
 カスティーリャ王国では、旧貴族の弾圧で王権を強化しようとしたペドロ1世(在位1350-69)に対して、異母弟のエンリケ・デ・トラスクマラが新貴族の多くを結集して蜂起する。ペドロ1世はイングランド王権、トラスクマラはフランス王権と提携したため、内乱は国際紛争の様相を呈する。トラスタマラは内乱に勝利して、エンリケ2世(在位1369-79)となるが、その王権は正統性を欠き、弱体であった。
 エンリケ2世はフランスとの同盟を重視していたので、ペドロ1世の王女コンスタンサとの結婚を根拠にして、カスティーリャの王位継承権を主張するランカスター公ジョンが脅威となった。このイングランドとの関係の悪化によって、「カスティーリャ船のドーヴァー海峡通行を妨げ[られ]、フランドル貿易にも大きな障害となった。そこで、エンリケ2世はフランス王シャルル5世(在位1364-80)と呼応してラ・ロシュル港を封鎖し、イングランド艦隊を撃破した。以後、カスティーリャ海軍がビスケー湾とドーヴァー海峡の制海権をほぼ掌握し、フランドルへの安定的な羊毛輸出が可能となった」という(立石前同、p.121)。
▼ブルゴス商人、上質のメリノ種羊毛を輸出▼
 イベリア半島北部はカスティーリャの海上交易の先進地域であった。その地域の商人は、すでに13世紀後半から14世紀初頭にかけて、北西ヨーロッパ向けに鉄や葡萄酒、蜂蜜、毛皮、乾燥果実、羊毛などの輸出してきた。特に、15世紀に入ると、羊毛を大量に輸出することで発展する。カスティーリャ王国の羊毛は、有力貴族や教会機関が取り仕切る、移動性牧羊業というシステムから供給されていた。こうした羊毛の主要集荷地となったのが北スペインのブルゴスであった。
 ブルゴス商人は上質のメリノ種の羊毛を輸出していた。それを、メディーナ・デル・カンポの大市などで半ば独占的に買い付け、ブルゴスなどで洗浄、分類、袋詰め、商印表示の工程をおこなった後、イベリア半島北部の港からイギリス(ロンドン、サザンプトン、ブリストル)、フランドル(ブリュージュ、ガン)、フランス(ルーアン、ナント、ラ・ロシュル)へ、またカルタへーナやセビーリャからイタリア(フィレンツェ、ジェノヴァ、ピサ)へ輸出していた。
 カスティーリャ商人の居留地は、アントワープ、ナント、ルーアン、ロンドンなどに構築されたが、最大の居留地となったのはブリュージュであった。ブリュージュの商館(コンスラード)の業務は、「年二回の商船団の編成、羊毛の取引、商業通信の確保、海上保険契約にあった。領事は仲介業者を介して商船団の編成に関与し、羊毛その他の商品を販売することができた。同時に、ブルゴスやヨーロッパの他の居留地との商業ネットワークを整備し、商品価格などの商業情報の円滑な伝達に努めた。……海上保険の普及に尽力する一方で、海上保険をめぐる訴訟を採決した」という(関哲行著『ヨーロッパの中世4 旅する人々』、p.128、岩波書店、2009)。
 他方、地中海においては、アンダルシアの海上交易が成長していた。アンダルシアの交易を支配していたのはジェノヴァ人であった。ジェノヴァ人は西地中海ばかりでなく、1087年には北アフリカ海岸にあらわれ、1161年にはモロッコと交易協定を結び、翌年にはジブラルタル海峡を越えて、大西洋岸のサレにまで進出していた。
 「セビーリャとブリュージュに大きな居留地をもつジェノヴァ商人は、アンダルシア産の商品作物(ワインやオリーブ油)や羊毛の輸出を主として担っていた。ジェノヴァの有力商人が定住したセビーリャは、金融業の中心となったばかりか、造船業や石鹸製造業の発展も顕著であった。他方、15世紀のメセータ(中央台地)の都市トレド、クエンカ、セゴビア、そしてアンダルシア地方のコルドバでは羊毛工業が発達し、一部はマグレブ地方へ輸出された」。
 こうして、カスティーリャの経済は主として羊毛やワイン、オリーブ油といった農産物の輸出に依存しながら、14世紀の危機を15世紀半ばまでに脱却する。そのなかで、スペインの経済軸は東西軸から南北軸に移動する(以上、立石前同、p.129-30)。
▼アラゴン連合王国とその地中海交易の破綻▼
 こうしたカスティーリャ王国の状況とは対照的に、アラゴン連合王国にあっては15世紀に至っても深刻な危機が持続して、中世末期におけるカスティーリャ王国の優位とアラゴン連合王国の衰退が決定的となる。その結果として、中世末期のアラゴン連合王国の人口は約100万人で、カスティーリャ王国の4分の1以下に過ぎなくなる。
 15世紀初め、アラゴンの王位が空位となる。そこでカスティーリャ王の傍系のフェルナンド1世(在位1412-16、ファラン1世)が即位する。彼は、「危機打開のため積極的な地中海政策を推進した。シチリアを直轄領とし、サルデーニャの反乱を鎮圧したばかりか、ジェノヴァとの休戦協定に署名した。アラゴン連合王国の国際的地位を確保すべく、コンスタンツ公会議の決定を受け入れ、統一ローマ教皇マルティヌス5世を承認した」(立石前同、p.132)。
 しかし、カタルーニャの地中海交易は、15世紀初め以降急速に縮小しはじめる。カタルーニャ商人は、バルセロナと地中海各地の居留地を基盤として、「毛織物製品、金属製品をマグレブ地方に輸出し、そこでえた金を使ってアレクサンドリアなどで香辛料を買いつけ、それをヨーロッパ諸国に再輸出して多大な利益をあげるというのが、カタルーニャ商業の根幹であった。しかし、15世紀にはいるとジェノヴァ商人との競合激化に加えて、カスティーリャ商人やポルトガル商人の進出、ポルトガルのアフリカ西岸南下にともなう伝統的貿易路の変更により、カタルーニャ商人は北アフリカ貿易から排除され始めたのである」(立石前同、p.133)。
 フェルナンド1世を継いだアルフォンソ5世(在位1416-58)も、積極的な地中海政策を推進する。1442年、フランス王権やローマ教皇に支援されたルネ・ダンジュー(ナポリ王在位1435-42)を破り、念願のナポリ王国を継承して、それを両シチリア王国として統合する。そして、彼は「地中海帝国」をオスマン帝国から防衛するためナポリに宮廷を構え、政治の中心を東方に移動させる。地方行政は、自由に任免できる副王や総督に委ね、カタルーニャ艦隊を駆使して、王令を携えた国王役人を船で定期的に派遣し、海上ネットワークを基礎に「地中海帝国」の維持をはかった(立石前同、p.134)。
 アルフォンソ5世はカタルーニャの総督ガルセラン・デ・レケセンス(?-1465)に、バルセロナの市政改革を断行させる。バルセロナは、地中海交易と金融業に携わり、大土地を所有する都市貴族によって支配されてきた。それに対して、毛織物輸出にかかわる商人や手工業者は党派をもって対立していた。1453年、総督レケセンスは商人・手工業者代表を中核とした市政を実現させる。「そのもとで通貨の切下げ、外国産毛織物製品の輸入禁止、カタルーニャ関連の輸出入商品をカタルーニャ船に独占させる『航海条例』などの保護主義的経済政策が矢継ぎ早に打ち出された」(立石前同、p.135)。
 こうした改革も失敗に終わり、内乱状態となる。バルセロナは連合王国を離脱しようとする。それを阻止するため、連合王国はフランス軍を引き入れ、それに対抗してバルセロナはカスティーリャ軍を招き入れる。こうしてカタルーニャは内乱から国際紛争の場となる。それを収拾するため、1469年アラゴン王ファン2世(在位1458-79)の王子フェルナンドと、カスティーリャ王エンリケ4世(在位1454-74)の王女イサベルとが結婚する。10年後、彼らを両王とするスペイン王国が成立する。
 この結婚は、2つの国の優劣が決定的となるなかで、アラゴン王がカスティーリャ女王に婿入りして、自国の危機を回避することとした政略結婚であった。新しい連合王国のもとでも、それぞれの地域の自立性は維持されたが、中央集権的な構造をもつカスティーリャがスペイン支配の主導権を握ると、アラゴンなどの東部の諸地域は次第に分離主義的な傾向をもつようになる。そのもとで、バルセロナの海上交易の再建は不可能となる。
 15世紀末には、カタルーニャの経済活動が回復すると、彼らの船隊もレヴァントや北アフリカに再びあらわれ、それらの市場に
イサベルとフェルナンド
ミケル・シトウ画
プラド美術館(マドリード)他蔵
復帰する。ただ、それと同時期、新しい市場となったインディアス交易がセビーリャの独占となったため、スペインという連合王国の一員でありながらカタルーニャの商人は参入することができない。
▼最後のイスラーム王朝グラナダ王国とジェノヴァ▼
 世界遺産のアルハンブラ宮殿を残した、ナスル朝グラナダ王国が1232年に成立する。そのはじめから、グラナダ王国はカスティーリャ王国と進んで妥協をはかり、またその臣下となって、他のイスラーム小国に対する攻撃に従軍することまでして生き長らえた、イベリア半島最後のイスラーム王朝であった。それに深く食い入ったのが進取の気風に富むジェノヴァの商人たちであった。
 ジェーオ・ピスタリーノ氏によれば、「スペイン南部のイスラーム領域の諸港には、すでに12・13世紀にジェノヴァ船団が出入りしていたが、グラナダ王国はこの伝統を引き継ぎ、維持した。ナスル朝グラナダ王国がこの役割を果たしたことが、2世紀以上にもわたって、[その王国が]存命した理由のまさにひとつだった」とする(同稿「ナスル朝時代のジェノヴァとグラナダ」関哲行・立石博高編訳『大航海の時代 スペインと新大陸』、p.105-6、同文館、1998、以下関・立石編訳という)。
 しかし、ジェノヴァ人の国際的立場は矛盾に満ちていた。「いっぽうでは、ムスリムを敵視するローマ教皇庁には恭順な態度を示し、ムスリムと敵対するカスティーリャ国王とは友好関係を維持する配慮をしなければならず、もういっぽうでは、ナスル朝の新王国がひとたび安定した軌道に乗ると、多大の利益をもたらし、ジェノヴァ経済とは相互補完関係にあるこの市場を、ピサやカタルーニャやプロバンスの野望を退けながら確保する必要に迫られた」からである(ピスタリーノ前同、p.96-7)。
 グラナダ王国の地中海沿岸は、現在のコスタ・デル・ソルにあって、マラガやアルメリアといった良港に恵まれ、古代から北アフリカとの交易で栄え、中世、北アフリカ向けのイタリア船の寄港地となり、また12世紀までは東方のイスラーム諸国の船も出入りしていた。14世紀までは、イベリア半島南東端に位置するアルメリアが、東地中海沿岸のイスラーム諸国の港との交易には最も適しており、イスラーム・スペイン最大の交易港となっていた。
 13世紀末になると、イタリア船はジブラルタル海峡を通過して、フランドル航路を開設する。それは伝統的な地中海交易の枠組みを打ち破るものであった。それにより、グラナダ王国の港は風待ちや補給修理などのための寄港地、さらには積極的に商品を売り買いする交易港として、その重要度が増してくる。
アルメリアのイスラーム商人たち
 そのなかにあって、アルメリアはジブラルタル海峡からかなり離れており、船が巨大化して寄港数を少なくなったため、フランドル航路の寄港地にはなれなかった。それに対して、マラガはジブラルタル海峡に近いこともあり、その後背地には農村が広がっており、北アフリカにある西アフリカ金の集散地ティムサリーンの外港であるフナインとも連絡があった。
 こうして、マラガはしだいに台頭して、14世紀後半にはグラナダ最大の交易港となる。それは、1487年8月にカトリック両王に明け渡されるまで、その役割を果たし続ける。なお、アルメリアが開城するのは1489年であった。
▼グラナダ王国の港、ジェノヴァの「植民地」▼
 ナスル朝2代目のムハンマド2世(在位1273-1302)は、1278年ジェノヴァ政庁と協定を結ぶ。その主な内容は、「ジェノヴァ人はナスル朝領内での移動の自由を与えられ、自由で公正な商業活動を保証され、教会・浴場・パン焼き窯を備えたフォンダコ(商館=商品倉庫、取引所、宿泊所を兼ねた施設)の所有、およびコンソレ(領事)の駐在を認められるというものであった。その見返りとしてジェノヴァ人は、ナスル朝君主がほかのイスラーム国家と戦端を開いた際には、船舶を提供することが義務づける」というものであった(宮崎和夫稿「グラナダ王国の港町マラガとジェノヴァ商人」歴史学研究会編『シリーズ港町の世界史3』、p.206-7、青木書店、2006)。
 その後、宮崎和夫氏によれば、1295年にジェノヴァが、1314年にヴェネツィアがグラナダ王国経由のフランドル定期航路を開設し、その節目にナスル朝との協定が更改されたという。そして、「14世紀末のキオッジア戦争で、ジェノヴァがヴェネツィアとの競争に敗れて東地中海から排除されると、ジェノヴァ商人にとって西地中海や大西洋への商圏拡大が緊急の課題となり、それにともなってマラガの重要性はいやがうえにも増大した」という(宮崎前同、p.207-8)。
 13世紀以降、ジェノヴァ人はじめとしたイタリア人のスペインのイスラーム地域への進出と、彼らによる地中海と北西ヨーロッパの交易圏との結合は、彼らの交易はもとよりとして、ユーラシア大陸西部における交易をいままでなく密度の濃い、しかも奥行きの深いものにした。その交易路は、オリエント―イタリア―スペイン―フランドル・イングランド、そして北アフリカにまたがるものとなったが、その中央にマラガが位置していた。
 グラナダ王国で活動するジェノヴァ商人は、グラナダ王国に産する乾燥果実(干しぶどうやいちじく)、砂糖、生糸、絹織物、オリーブ油を、北海沿岸諸国やイタリアなどに対して輸出し、その一方、グラナダ王国に対して本国から紙などの手工業製品、オリエントからの香辛料、陶器や銅の食器、キオス島の綿花、そしてフランドルやイングランドから高級毛織物を輸入していた。それらの商品は、マグリブ(北アフリカ西部)にも中継輸出された。
 マグリブからは、金のほか、薬種、染料、香料、蝋、皮革、ナツメヤシ、黒人奴隷、そして小麦を輸入した。穀物は、地中海沿岸のオラン、フナインほか、セウタ、そして大西洋岸のララーシユ、エル・ジャディーダなどの港において、定期的に買付けを行なっていた。それらの商品の多くが、西ヨーロッパにも中継輸出された。
 「ナスル朝君主にとって、ジェノヴァ商人は利用価値が高かった。まず、まともな艦隊をもたない君主にとって、イベリア半島に領土的野心をもたないジェノヴァ人の船舶はきわめて重要だった」。それと同時に、「歴代の君主は、農業や商業を直接経営しており、キリスト教徒商人が動かす船の所有権を全面的ないし部分的に獲得して、国際商業にも直接参加していた」。しかし、「ナスル朝治下のアンダルス人は、大規模な遠隔地交易に携わっている者がほとんどおらず、海外へ商品を輸出するときも、海外で行商するときも、メッカへ巡礼するときでさえも、ジェノヴァ船を利用していた。ジェノヴァ商人のための仲買人さえも大部分がユダヤ人だった」(宮崎前同、p.212)。
 このように、グラナダ王国はその主要な商品の輸出入を、ジェノヴァの商人に全面的に依存しており、ジェノヴァの「植民地」となっている観があった。
 そのため、「君主の保護下のジェノヴァ商人は、ナスル朝領内で大きな権勢を誇っていた。マラガのジェノヴァ人たちの住居は、塔と堅固な塀を備えて、まるで要塞のようであった」という。そして、当時、グラナダ王国の人口は40万人、首都グラナダは5万人、マラガ市の人口は1万2000人程度であった。そのマラガに居住する40人ほどのジェノヴァ人が、この国の経済を動かしていた(宮崎前同、p.213-4)。
 しかし、「15世紀中葉から、ジェノヴァ商人はグラナダ王国との取引にしだいに関心を失い、この地に在住していたジェノヴァ商人の多くが、カスティーリャ王国領のカディスやヘレスとその周辺地域に移住していくようになる……[その]おもな要因は、彼らの関心がカナリア諸島やマディラ諸島での大規模で収益性の高い砂糖生産や、金を産出するサハラ以南の諸王国への海路での到達と直接取引など、大西洋地域での事業に向きはじめたからである」(宮崎前同、p.214-5)。
ジェノヴァの泉ネルハ・ロブ
16世紀
コンスティテュション広場(マラガ)
▼グラナダ王国、カトリック両王に攻略される▼
 1482年からグラナダ征服が始まるが、そのときジェノヴァ船はヴェネツィア船とともに、ナスル朝側に食糧やマグリブ人義勇兵を輸送していた。ナスル朝に内乱が勃発する。1487年、カトリック両王はそれを好機として、「1万1000人の騎兵と4万5000人の歩兵を投入して、5月にはマラガ包囲を開始した。また海上封鎖のために国王直属の艦隊を派遣し、それにメディナ・シドニア公らのカスティーリャ貴族のみならず、カタルーニャやバレンシアの貴族も艦船を派遣して応援し、さらにドイツ王マクシミリアン1世[在位1493-1319]までがフランドルの艦船を派遣した」(宮崎前同、p.218)。
 しかし、マラガにはナスル朝の都市には珍しく、大砲が備え付けられていたし、大砲を積んだ軍艦もあった。マラガは頑強に抵抗して、8月6日になって、都市と城砦が明け渡された。全住民は奴隷として引き渡され、全財産が没収された。その後、マラガにはセビーリャ、カディス、プエルト・デ・サンタ・マリアといった港湾都市や漁村の出身者が入植する。
 ジェノヴァ商人は、長年にわたってイスラーム教徒と交易してきたので、商売敵であるカタルーニャやバレンシアの商人を抱えるカスティーリャ王国の人びとから反感を買っていた。1487年、マラガ攻略の際とみられるが、カスティーリャ提督の船をジェノヴァ人海賊が襲撃すると、カトリック両王とジェノヴァ共和国の関係は悪化する。1493年になって平和条約が締結される。その後は友好的な関係となり、マラガには征服前と同じように、「スピノラ家、ヴィヴァルディ家、デ・ネグロ家、マリーニ家、イタリアーノ家などの有力なジェノヴァ商人家系のメンバーが[居留して]、グラナダ市やセビーリャやコルドバやテネリフェ島などで活動する親族や共同経営者と緊密に連絡をとりあいながら、活発な商業活動を展開していた」という(宮崎前同、p.226-7)。
 その他、「大西洋岸のバスク地方やポルトガルの商人は、すでに地中海域での商売や海運に長い伝統をもっていたが、グラナダ王国征服によって創出された新たな政治状況は、彼らの活動にさらに好都合となった。バスク地方の商人はおもに、バスク地方で精錬された鉄や鉄製の道具をマラガに荷揚げし、代わりに小麦を積み込んだ。ポルトガル商人もやはり、小麦を積み出して自国に持ち帰ることに関心をもっていたが、彼らがおもに持ち込む商品としては黒人奴隷があげられる」(宮崎前同、p.225)。
 ここで注目すべきことは、1493年にマルティーノ・チェントリオーネやアゴスティーノ・イタリアーノといった有力な商人の帰化が認められたことである。「ジェノヴァ商人は2世紀にわたってナスル朝に協力的だったことへの不信感は避けられなかった」し、また「外国人である彼らは、カスティーリャ王国内で商業活動をするにあたってさまざまな制限を受け、地元民の仲介が必要になることが多かったが、帰化することによって、自由に直接取引ができるようになり、今度は自分が同胞のために仲介者として働くことができるようになるはずであった」とされる(宮崎前同、p.228-9)。
▼コロンブス時代のイベリア半島の南と北(1)▼
 13世紀に入って、カスティーリャのレコンキスタは加速して、フェルナンド3世(在位1217-52)が1248年セビーリャを陥れ、1250年カディスを占領し、ジブラルタル海峡に面したタリファまで進展したことで、カスティーリャは第2の海岸地帯を手に入れる。
 セビーリャは、外海より90キロメートルも遡上しなければならないが、カスティーリャのイベリア半島南部の交易港となり、それを受けてセビーリャをはじめとしたアンダルシア地方に、いまみたイベリア半島北部の船主や船員が移住、定着することになる。セビーリャにはジェノヴァをはじめ、すでに海事勢力として先行していたカタルーニャやバレンシア、さらにポルトガル、ブルターニュの船が入り込んでくる。
 1251年、フェルナンド3世はセビーリャをはじめアンダルシア各地に居留する、ジェノヴァ人に特権を与えている。その後の王も、彼らを手厚く保護することとなる。セビーリャではジェノヴァ以外のイタリア商人やブルゴス商人、アンダルシア商人も活躍していた。
 さらに、13世紀末、ジェノヴァの商人で海賊のベネネット・ザッカリア(1248-1308)の艦隊が、イスラーム教徒勢力を駆逐したことで、ジブラルタル海峡の制海権が確立する。それに伴って、イタリアの交易船が積極的に北西ヨーロッパに進出、南北のヨーロッパ海上交易圏が結合されると、セビーリャはカスティーリャ最大の交易地として、また南北のヨーロッパ海上交易の中継地として繁栄することとなる。
 1254年以後、アルフォンソ10世(在位1252-82)は王立造船所と海軍提督府が設置するが、カスティーリャ独自の海事勢力が建設されたわけではなかった。その後、長期にわたって、「アンダルシア商人は、外国の大商業資本や商業方針の支配下におかれ」、カトリック両王は、商船隊の発展を奨励しようとして、600トン以上の船の建造に補助金を支給したり、1500年にはカスティーリャの商品の輸出はカスティーリャの船に限定するとした。
 それ以前の1398年にも出されており、「2度にわたって、国王が航海法令を公布して禁じたにもかかわらず、外国商人のガレー船やナオ船、カラック船が常時アンダルシアの諸港に停泊していた」とされる(以上、ミゲル・アンヘル・ラデロ・ケサーダ稿、大内一訳「コロンブスの時代のアンダルシア」関・立石編訳、p.60)。
 セビーリャは、その後も一貫して海上交易とその管理の中心地ではあったが、14世紀末になると、船舶は外海に面した港に停泊してセビーリャには入港せず、商品の保管場所や船舶の修理場として利用するようになる。そのなかでも、サンルカル・デ・バラメダは独自のアルモハリファスゴ税を徴収しはじめる。また、カディスは王領地に復帰すると、1493年にはバーバリ地方との交易の独占権を獲得する。
▼コロンブス時代のイベリア半島の南と北(2)▼
 イベリア半島北部はビスケー湾に面しており、ガリシア人やカンタブリア人、バスク人は北西ヨーロッパとの海上交易や漁業に従事していた。バスク人は船乗りや航海者、探検者の供給地となっていた。彼ら「海バスク」人たちは、4世紀以前からビスケー湾に回遊してくるセミ鯨を、協業集団でもって捕獲、処理する捕鯨を行っており、10-11世紀には一層盛んになる。このバスク式捕鯨は、19世紀捕鯨砲を用いるノルウェー式捕鯨が始まるまで、北西ヨーロッパで伝承され続けた。
 13-14世紀、バスク人はビスケー湾のセミ鯨が減少してくると、次第に漁場は沖合へと拡げ、カナダのニューファンドランド島(「バスク人の島」と呼ばれた)近海まで進出するようになる。2013年、カナダのラブラドル半島とニューファンドランド島北部の間にあるベル・アイル海峡沿いの、レッド・ベイが世界文化遺産として登録されることとなった。そこには、16世紀、バスク人たちが建設した港や住居、製油場、輸送施設、墓地などの捕鯨基地の跡地や遺物が残されている。
バスク人による捕鯨
 1570年代、バスクの捕鯨船は50隻、従事者は4000人を数えたとされる。鯨の漁獲は不安定であったため、捕鯨船の費用と利益は商人、船主、そして乗組員によって分割され、さらに高額の保険金が掛けられていた。しかし、17世紀になると戦禍に加え、捕鯨の遠隔化と大規模化によって、バスクの捕鯨は衰退する。バスク人たちは後発のオランダやイングランドの北極圏捕鯨に雇われるようになる。
 他方、彼らは捕鯨とともに、ニューファンドランド近海でタラ漁を行っていたが、それがむしろ本業となる。
 こうした遠洋からの鯨油や塩干しタラ、カスティーリャの羊毛、ビスカーヤの鉄(15世紀後半、年間銑鉄生産量は1800トンに及んだ)などの輸出に関わって、サン・セバスティアン、ビルバオ、ラレド、サンタンデールといったバスクやカンタブリア地方の港や、カンタブリアでは造船業も発展していた。
 サンタンデールの港は、12世紀末アルフォンソ8世(在位11158-1214)から都市法が付与され、メリノ種羊毛を輸出する重要な港であった。また、同じころ、カストロ・ウルディアレスやラレド、コリンドレスといった港が、羊毛取引やクジラ漁で発展する。これらの港はカスティーリャ海軍の基地でもあった。1296年、サンタンデールなど8つの都市は海港都市盟約団(エルマンダーマリーナ)を結成して、ハンザ同盟と同じように国内外において利益を守ろうとする。
サンタンデール
16世紀、最古の現存イメージ
 ビルバオは、ビスカーヤ公によって1300年に建設された港で、羊毛輸出港であったばかりでなく、鉄交易の中心地として特殊な地位にあった。大西洋岸のラ・コルーニャは、セビーリャ・フランドル航路の中間寄港地、イギリス人のサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の上陸地、またイワシ漁港として発展した。
 カトリック両王は羊毛輸出の拡大と管理を目指して、ヨーロッパ諸国への羊毛輸出の独占権をブルゴスに与えてきたが、1494年コンスラード(商務館)の設置を認める。さらに、1511年羊毛の積出港であるビルバオの商人の圧力に屈して、それに地域限定のコンスラードを認める。これらのコンスラードは、海上交易の先進地のアラゴン王国の制度を取り入れたもので、ギルドと商業裁判所の機能を併せ持っていた。
 ブルゴスの商業は15世紀後半から16世紀半ばにかけて最盛期を迎える。ブルゴス商人は、いまみた海外の居留地に代理店や在外商館を設置して、羊毛を販売するとともに毛織物を買い付けた。そして、その輸入した毛織物をメディーナ・デル・カンポの大市を通して、王国各地に売りさばいた。
 しかし、ブルゴス商人はスペイン国内の「毛織物工業への投資に関心を示さず、羊毛の消費者であるヨーロッパの毛織物工業者と羊毛生産者であるカスティーリャの大土地所有者との間の仲介者に終始する……[この]ブルゴス商業の在り方は、スペインが15世紀から植民地型の経済構造を帯び始めたとする指摘の根拠となっている」とされる(大内一稿「カトリック両王期前後のメスタ・羊毛輸出・毛織物工業」立石博高他編『スペインの歴史』、p.94、昭和堂、1998)。
 この繁栄を極めたブルゴスも、1570年代から衰退しはじめる。それは、「フランドルの離反、イギリスやオランダの海賊行為、羊毛新税の導入、メディーナ・デル・カンポの大市の衰退、羊毛買付価格の高騰と売却価格の低迷など……政治、経済的な要因のほかに、ブルゴス商人に早急ともいえる商業放棄と農村への転住[土地取得]を促した彼らの騎士的理想が衰退の心的要因として挙げられる」とされる(大内前同、p.95)。
 なお、この近世スペイン商人の企業家への転身でなく土地所有者への志向は、何もへのブルゴスなど北スペインの商人に限ったことではなかった。後述のように、インディアス交易は投機性をはらんでいたので、セビーリャなど南スペインの商人にあっても、その傾向は大いに認められた。
▼北アフリカでの略奪、大西洋のマグロ漁▼
 1291年、北アフリカに関する交易協定を結ぶばれ、カスティーリャはモロッコを、アラゴンはチュニスをそれぞれの縄張りとする。北アフリカ・バーバリ海岸との交易は、金と奴隷が基本的な商品であった。金の取引量は信じがたいほど大きかった。奴隷はギニア人やサハラのアサネガ人で、モロッコの大西洋岸の諸港で購入されるのが常であったが、そればかりではなかった。
 1460年代後半から、アンダルシアの船もポルトガル人が行っていたことに習って、モロッコの大西洋岸ばかりでなく、バーバリ海岸部に対しても「カバルガーダ」をしばしば行うようになった。この海賊行為によって獲得された捕虜や戦利品には5分の1税が課せられた。
 ミゲル・アンヘル・ラデロ・ケサーダ氏によれば、この蹂躙行為は「イスラーム教徒から激しい武力抵抗を受けて危険であったが、同時に利益の多いものであった。また、物々交換による商取引のほかに、海岸部にかんする詳細な情報の収集をおこなったり、未知の土地や敵地への遠征に際して……案内人を雇う[といった]北アフリカで学んだ習慣はアンダルシアの船乗りや探検家によって大西洋の向こう側、すなわち新世界にまでもちこまれ、そこで重要な役割を果たすことになった」とされる(ケサーダ前同、p.63)。
 レコンキスタがイベリア半島南部に達すると、直ちに、非常に収益の多い沿岸漁業がはじまる。アンダルシアの大西洋側沿岸では、毎年5月と6月に行われるマグロ漁である。陸上でのマグロの解体と塩漬け、ビン詰めの作業は、それら海岸の諸港を支配していたグスマン家やボンセ・デ・レオン家、ラ・セルダ家といった大貴族の手中にあった。彼らは、外国の商人とりわけイタリア商人とあらかじめ取引して、海外に輸出していた。
 スペインの漁民は西アフリカ海岸にも進出して、15世紀後半にはすでにボジャドール岬のはるか南方のセネガルやガンビア、ギニアにまで達していた。それは先発のポルトガルの漁民との軋轢を招いた。カスティーリャはポルトガルと、まず1479年アルカソヴァス条約、さらに1494年トルデシリヤス条約を締結して境界線を画定する。しかし、スペインの漁民はポルトガル人に漁業独占権が認められた後も、それらの海域で漁を続けたとされる。それを受けて、1509年のシントラ条約では、スペインの漁民の権利が認められることとなる。
 カナリア諸島は、1336年より少し前に、ポルトガル王から任務を与えられたジェノヴァ人によって発見されたとされる。1402年には、カスティーリャがその征服に乗り出きたが、実効支配するにはいたらない。そのため、ポルトガルもその領有権を主張していたが、カスティーリャは1478年以降遠征軍を派遣して、1496年までに主要3島が征服する。カナリア諸島の入植者の多くは主としてアンダルシア人であったが、ジェノヴァ人やポルトガル人なども少なくなかった。
 カナリア諸島には、セビーリャやジェノヴァ、カナリアの商人によって、ポルトガル領のカボ・ヴュルデ諸島から大量の黒人奴隷が輸入された。その一部はカナリア諸島でのサトウキビ栽培や製糖作業、家内労働に使役され、他の一部はセビーリャやアメリカ植民地へ再輸出された。そして、カナリア諸島は、15世紀末にはポルトガル領のマディラ諸島などとともに、奴隷を使役したサトウキビ栽培、砂糖生産の中心地となる。
▼スペインの海外進出、ポルトガルに後れをとる▼
 クリストファー・コロンブス(1451-1506、スペイン名ではクリストバル・コロン)とその遠征については、すでに多くの論者が様々な観点から論じており、汗牛充棟といったところであろう。ここでは次の視点から整理するにとどめる。
 ある出来事が起きるには、次の3つが必要にして十分な条件となる。@まず、それを成し遂げようとする明白かつ強固な欲求や意欲がなければならい。A次いで、それを成し遂げられるだけの実績があり、そのための条件が揃っていなければならない。そして、B最後に、それを成し遂げるための情勢が当方に有利となり、時期が到来しなければならない。
 コロンブスのアメリカ大陸「発見」の場合、Bの条件が決定的であったかにみえる。そこでB@Aの順で整理する。
 1291年、カスティーリャはアラゴンと北アフリカに関する協定を結んで海外進出に意欲をみせるが、レコンキスタに追われ、内乱に見舞われ、北アフリカで略奪交易を行うにとどまった。それに対して、ポルトガルは1249年にレコンキスタを早くも完了させ、大西洋に面したリスボンを1147年に奪回して、1260年頃にそれを首都としていた。
 1385年、ポルトガルのジョアン1世(在位1385-1433)がカスティーリャ軍を破ると、その子エンリケ(いわゆる航海王子、1394-1460)はアフリカ西海岸への遠征に乗り出す。1415年のセウタ攻略を手がかりにして、黄金や奴隷、キリスト教王を求めて、アフリカ航路の開拓が行われ、めざましい成果を上げる。これら遠征については、Webページ【3・2・2 ポルトガルの「大航海時代」と東アジア交易】を参照されたい。
 こうしたなかで、スペインも手をこまねいていられなくなる。1453-54年には、カスティーリャは積極的になって、セネガンビアに遠征隊を派遣する。さらに、15世紀半ばになると、アンダルシアの漁民たちが西アフリカ沿岸に進出する。そして、すでにみたように、1480年代にはカナリア諸島征服に乗りだす。それらにより西アフリカをめぐる紛争が激しくなる。
 これに対抗して、ポルトガル王アフォンソ5世(在位1438-81)は1455、56年ローマ教皇から、ボジャドール岬以南のアフリカ海岸における征服と植民、交易の独占権が認められる。このアルフォンソ5世はカスティーリャ支配の野望を抱き、イサベル1世の即位に軍事介入する。1479年、イサベル1世はそれを撃退して、ポルトガルとアルカソヴァス条約を結ぶ。なお、1479年はカスティーリャとアラゴンが連合して、スペインが築かれた年でもあった。
▼スペイン、コロンブス計画で一発逆転をねらう▼
 アルカソヴァス条約は、アフォンソ5世がスペイン王位継承権を放棄し、スペインのカナリア諸島の支配と、ポルトガルの西アフリカ沿岸支配の既得権・開発権とを認め合うものであった。それによって、スペインの海外進出の地平は西の方に限られることになったが、ポルトガルにとっては航路探索の向きに制約はなかったが、さしあたっては東廻りアジア・ルートの開拓という既定の路線に専念することになる。
 そうした状況のさなかの1484年末に、コロンブスは西廻りアジア・ルートの計画をポルトガル王ジョアン2世(在位1481-95)に持ち込むが、それが取り上げられるわけもなかった。
 1493年3月9日、コロンブスがアメリカ大陸「発見」後の帰帆途中、テージョ川河口まで流されて、リスボン近郊においてジョアン2世に面会したとき、国王がアルカソヴァス条約によれば「今回の征服の成果は自分に帰する、と諒解するとのべたので、提督はそのような協約はみたことがない……[両王からは]ミナやギアナ全土には赴くなと命じられた」だけだと答えている(ラス・カサス編纂、林屋永吉訳『コロンブス航海誌』、p.249、岩波文庫、1977)。
 この奇妙な問答を裏読みしていえば、コロンブスはポルトガル時代からこの条約をすでに承知しており、西廻りアジア・
老いたコロンブス
16世紀
パオロ・ジョヴィオ肖像画集
イタリア・コモ市立美術館蔵
ルートの計画についてジョアン2世に一応の伺いを立てて、直ちに、翌1485年それに触手を伸ばすであろう、スペインに向かったとみられる。
 1486年、コロンブスはフランシスコ会の縁故で、はやばやとカトリック両王に謁見を許される。しかし、王の諮問委員会は科学的常識に反するとして却下する。その後、約6年間捨て扶持で、飼い殺しとなる。1492年になって諮問委員会で再度否決されるが、イサベル1世が急遽、採用するに至る。この決断は、アラゴン王国の財務官ルイス・デ・サンタンヘルから資金提供の申し出があったからだとするのが、定説となっている。
 ポルトガルのバルトロウ・ディアス(1450?-1500)が1487年8月出帆し、1488年初めアフリカ大陸南端=喜望峰を回航して、同年12月末にリスボンに帰帆してくる。スペイン王室に嫌気がさして再びポルトガルに戻っていたコロンブスは、この発見情報に接したことであろう。それは彼の計画を打ち砕くものであった。彼は再びポルトガルをあきらめて、1489年初め再びスペインに戻っていたのである。
 このポルトガル人によるアフリカ大陸回航という事件は、ポルトガル人が東廻りでアジアに行き着ける道を開き、新たなレコンキスタを出発させようとしていることを意味した。これは、イサベル1世にとって、それまでの優柔な態度を維持できなくなる情勢変化であった。
 この遅れを、可及的に速やかに取り戻す必要に迫られたスペインは、1492年ナスル朝グラナダを滅亡させ、レコンキスタを終わらせると、ポルトガルの東廻りでなく西廻りでアジアに向かうという、コロンブスの計画に「渡りに船」とばかりに乗ることで、遅れを一挙に解決しようとしたといえる。
▼コロンブス、メシア思想のフランシスコ会員▼
 コロンブスの計画が実現したのは、彼が自らの独創的な―単に大西洋を西に向かうのではなく、地理の知識に基づいてインド・ジパングにたどり着くのだという―計画に、確固たる信念を抱き続けていたからである。この初歩的な必要条件が、どのように獲得されたかである。
 彼は、1451年、中世地中海交易においてヴェネツィアと争い、またイベリア半島に深く食い込んでいる交易都市、ジェノヴァに生まれる。ジェノヴァには成功意欲に満ち、海外志向の強い人びとがあふれていた。彼は、青年期の1475-76年有力家門のチェントゥリオーネ家やスピノラ家に雇用され、地中海を航海している。そして、1476年コロンブスは、スピノラ家やディ・ネグロ家の船団に乗り組んで北西ヨーロッパに向かうが攻撃を受け、ポルトガル南端沖合で座礁する。
 1477年、彼はスペインに先んじて西アフリカ・大西洋交易の中心都市となっていた、リスボンに居を定める。そこには、大きなジェノヴァ人街があり、弟バルトロメも住んでいた。コロンブスは、約9年間のポルトガル時代、イギリスやアイスランドへの航海、有力家門ディ・ネグロ家に雇われてマディラ諸島への砂糖の買付けのほか、不確かであるが、ギニア湾に建設されていたポルトガル商館サン・ジョルジェ・ダ・ミナを訪れたとされる。
 1479年、コロンブスはフェリーパ・ペレストレロと結婚する。その実家はモロッコ沖のポルトガル領ポルト・サントス島の世襲統治権を持つ家柄であった。コロンブスは、その島やマディラ島にも住んでいたらしく、そこで嵐に流されて西インド諸島まで漂流した後、マディラ島に帰還した航海者あるいは水夫に出会ったという話が残っている。それはありそうなことで、事実とすれば、コロンブスはそれを啓示と受け止めたことであろう。
 さらに、ポルトガル時代、無学のコロンブスはラテン語やスペイン語を学び、航海術や海図製作を習得し、「地球球体説」を確信して、西廻りアジア・ルートを着想したとされる。また、スペイン時代も研鑽して、インド・ジパングへの航路探索に自信を深め、さらにその計画に宗教的な粉飾を施していった。しかし、彼が船団はもとより、一船の指揮者として、どのような実績を収めていたかは判然としない。そのためか、彼の航海術には疑問が出され、また僚船の船長としばしば齟齬をきたし、乗組員を統率できない事態に陥っている。
 なお、コロンブスはスペイン時代、グラナダ戦役(1482-92)の際キリスト教徒軍の陣営(マラガとサンタ・フェ)にいたとされ、またカナリア諸島征服(1478-96年)にも関わっており、この征服の資金援助者がコロンブスにも援助したという。
 コロンブスは、いつ会員になったかは不明であるが、フランシスコ会第3会員(在俗会員)であり、修道服に覆われて埋葬されている。このフランシスコ会は中世、ドミニコ会とならんで発展した托鉢修道会であるが、その主流をなす厳修派は創立者の聖フランチェスコ(1182-1226)が決めた会則を厳格に守ろうとした。
 1485年、コロンブスはポルトガルのフランシスコ会の推薦状をたずさえてスペインに向かい、フランシスコ会厳修派に属するパロスのラ・ラビダ修道院(現存)に寄宿して、イサベル1世の聴罪司祭でもあった修道院長フアン・ペレス・デ・マルチェーナの支持をうる。彼はイサベル1世の決断に決定的な役割を果たしたとされる。
 ミゲル・アンヘル・ラデロ・ケサーダ氏は、「キリスト教の歴史において、当時は、カルトゥジオ会士がヒエロニムス会士と同様に観想的な宗教活動によって名声と社会的評価を得ていたのにたいし、フランシスコ会士は実践的で探検や伝道活動の主人公を演じていた。このふたつの側面は、まさにコロンブスのメシア的理想にもっとも近いものであった」という(ケサーダ前同、p.80-1)。
 フランシスコ会厳修派は、エストレマドゥーラ地方の下級貴族エルナン・コルテス(1485-1547)のメキシコ征服と提携して、伝道を行っている。彼らは「世界観を共有しており、世俗的利益の追及と国王への奉仕、伝道への使命が分かちがたく結びついていた。コロンブスと類似の宗教的心性を、ここにみることができる。ジェノヴァ商人のコロンブスと下級貴族のコルテスは、フランシスコ会厳修派を連結環として接合する」とされる(関・立石編訳、p.22)。
 コロンブスが西廻り航海の手掛かりをつかみ、航海の準備をすませ、世紀の航海に出帆、帰帆したパロスは、現在、ウエルバの一部であるが、古代のフェニキアがタルテッソスと呼んだ町である。そのウエルバやカディスの沿岸は、東方や西方へ、貿易風が吹き出すところであり、スペイン、モロッコ、カナリア諸島に囲まれた
パロスの給水場
コロンブスの船団も給水を受けた
三角形の頂点に位置した。船乗りや漁師たちが、大西洋でえられる利益を求めて集まる場所となる。
▼ジェノヴァ商人とコンベルソの共同事業▼
 コロンブスにあっては、富の獲得とキリスト教の拡大と個人の栄光、すなわちゴールドとゴスペルとグローリ(3つのG)は、まさに三位一体となっていたのである。
 コロンブスは、科学的常識に基づかない計画とされながら、初志を貫徹する意志を持ち続けえたのは、フランシスコ会の精神に裏打ちされていたからである。しかし、いくら不退転の覚悟があったとしても、彼は無一文であった。そこで、彼はスペイン王室から援助を受けようとした。しかし、スペイン王室はコロンブスの計画に信頼を寄せておらず、またポルトガルのような遠征隊派遣の経験もなかった。それよりも財政的な余裕がなかった。
 しかし、スペイン王室の一部やセビーリャに帰化あるいは居留のジェノヴァ商人、そして不安定な立場におかれているが財力のあるコンベルソ(改宗ユダヤ人、蔑称マラーノ)たちは、長きにわたって、ポルトガルの海外進出に羨望のまなざしを向けていたに違いない。彼らは、レコンキスタが最終段階に入ったところで、それに代わる新たな植民と布教、利殖の領土が求めるようになっていた。それはあからさまなコンキスタ(征服)であった。
 コロンブスの遠征には、多数のジェノヴァ人が関わっていた。第1回および第2回航海に出資したセビーリャの帰化ジェノヴァ人で、王室顧問をつとめた有力商人のフランチェスコ・ピネッリ、すでにコロンブスと関わりのある、第3回航海に出資したマルティーノ・チェントゥリオーネ、第4回航海の資金調達に関わるスピノラ家やリベロル家などがあげられる。
 コンベルソも同様であって、コロンブスの計画案を審議した諮問委員会座長で、初代グラナダ大司教となるエルナンド・デ・タラベーラやその委員会でもっとも好意的で、セビーリャ大司教となるディエゴ・デ・デサ、第1回航海に出資したアラゴン王国の財務官ルイス・デ・サンタンヘルやガブリエル・サンチェス、第1回航海に通訳となったルイス・デ・トーレスらは、コンベルソであった。
 特に、コロンブスの第1回遠征資金となった、200万マラベディ(約5300ドゥカード)については、いくつかの説がある。いまみたコンベルソのルイス・デ・サンタンヘルと、アラゴン王国の自警組織サンタ・エルマンダーの経理をあずかっていたジェノヴァ商人のフランチェスコ・ピネッリが相談して、その経理から140万マラベディを持ち出し、アラゴン王国の国庫から35マラベディを支出し、そしてピネッリが25マラベディを用意したとされる。
 それらのうち、いわば前2者の公金はカトリック両王への融資のかたちをとり、また後者はイタリア商人のコロンブスへの貸し付けであったともされる。その遠征の成果を享受するカトリック両王は遠征資金を何ら負担しておらず、またインディアス交易に参入することのできない、アラゴン王国の金が用立てられているのである。
 アメリカ大陸「発見」は、「ジェノヴァ・マラガ・セビーリャ・カナリア諸島・西アフリカ・西ヨーロッパを結ぶ、中世以来のジェノヴァ商人の商業ネットワークと彼らからの融資に多くを負っていた」。そして、「コンベルソは人的ネットワークを基礎に、商人、手工業者、金融業者、聖職者、官僚、医者などとして広範な活動を展開しており」、彼らの関与はその当然の成り行きであったとされる(関・立石編訳前同、p.14-15)。
 カトリック両王あるいはスペイン王室は、コロンブスの遠征費用をほぼ全く負担することなく、その成果を濡れ手で取り込もうとしたのである。コロンブスの遠征は、名目はスペイン王室の事業であるかにみえるが、実質はジェノヴァ商人とコンベルソの共同事業であった。
▼コロンブス、一発勝負の賭に大成功する▼
 イサベル1世は、1492年1月にコロンブスの計画案採択を決断し、4月30日コロンブスとサンタ・フェ協定を結ぶ。コロンブスは、5月22日パロスに入って準備をすませ、8月3日マルテイン・アロンソ・ピンソンら90人が3隻の帆船に分乗、出帆する。カナリア諸島まで南下し、同島を9月6日出帆して、貿易風をつかんで一路西に向かい、10月12日バハマ諸島のサン・サルバドル島に到達した。アメリカ大陸「発見」である。そして、リスボンを経由して、翌1493年3月15日パロス港に帰帆する。
 アメリカ大陸「発見」という「近代世界システム」の出発点となった事件が、パロス港出帆から帰帆までたった225日間という短期間でもって、「案ずるより産むが易し」とばかりに、一挙に進行したのである。それは希有な成功例といってよい。なお、ディアスの喜望峰遠征は、16か月もかかっている。
 まず、サンタ・フェ協定からパロス港出帆までの約4か月でもって、資金の調達、用船と艤装、船員の募集、出帆準備が達成されている。その遠征を早期に成功させようとする熱望が、セビーリャやパロス、そしてジェノヴァ商人やコンベルソに溢れていたのであろう?!
 また、カナリア諸島からバハマ諸島までの37日間も、短期間である。それはコロンブスに神が乗り移ったというしかないが、北緯28度をかたくなに針路としたことが、成功の鍵であったとされる。 
 コロンブスの第1回航海に使用された3隻の帆船はいずれもラウンド・シップで、サンタ・マリア号はナオ、ピンタ号とニーニャ号はカラベラである。サンタ・マリア号は全長26メートル、100トンと推定され、その主檣と前檣にはレドンダ(四角帆)、後檣にはラティナ(三角帆)を装着していた。
 サンタ・マリア号は旧船名をラ・ガリエナ号といい、ガリシアもしくはカンタブリア地方で建造され、フランドル交易に従事していた。また、他の2隻は漁業に関する法を犯して、王室から科せられた罰金刑を購うために、航海に参加した。なお、第1回航海に参加したマルテイン・アロンソ・ピンソンは、修道院長フアン・ベレス・デ・マルチェーナが紹介したパロスで著名な航海者一家の船長であった。彼なくして船員募
復元サンタ・マリア号
集は成功しなかったとされる。コロンブスの航海に従事した船員の多くはバスク人であった。
 ポルトガルは、1415年のセウタ攻略から1498年のインド到着まで、国家事業として多額の王室費用を支出し、組織的に遠征を積み重ねきた。それに対して、スペインの海洋探索はないに等しかった。そのためスペインのコロンブスへの期待は大きくなかったとみられる。
 サンタ・フェ協定は周知の通りであるが、ミゲル・アンヘル・ラデロ・ケサーダ氏によれば、それは「わずかな経費で実現すべき取引、そして、多くの人びとが確実とは考えていない取引についてのもの」であったという(ケサーダ前同、p.78)。
 サンタ・フェ協定は、コロンブスに戦利品もしくは利益の10分の1を受け取る権利を認め、王室は10分の9を取るとしていた。しかし、従来の慣行では、カスティーリャの提督はその職に付随する裁判権、そして戦利品の3分の1、王室は5分の1を取るとなっていた。また、コロンブスに総積載量の8分の1までの優先的傭船権を認めたが、提督は3分の1まで船積みすることができた。
 コロンブスに賦与された権利はカスティーリャの提督よりは明らかに小さい。ただ、後者の権利は金額として固定され、その徴収は請負に出されていたが、コロンブスの場合、実額収入をまるごと手にすることができた。それはともかく、コロンブスは「カスティーリャ貴族の最上位にまで上昇し、終身かつ世襲の強力な政治権力を授与された。だが、それはカトリック両王の代理人としてであり、国王裁判権の譲与も領主所領の創設もなされなかった」(ケサーダ前同、p.79)。
 コロンブスはスペインから、その「黄金時代」の礎になったので、当然、厚遇されてしかるべきである。しかし、彼は4次にわたって遠征航海を続けたものの、その遠征到達地を最後までインドと思いこみ、アメリカ大陸の「発見」と見定めることが出来ず、金や香辛料といった決定的な富を将来できなかった。そのため、彼は最初から最後までは冷遇されることとなった。
▼太陽の沈まぬ帝国、征服と略奪、そして病魔▼
 1493年、コロンブスの「発見」を受けて、スペインはローマ教皇に請願して、ポルトガルとの支配圏分割線(教皇子午線)を定めさせる。それに不満なポルトガルは、翌年スペインと交渉して、トルデシーリャス条約を結ぶ。これら条約はヨーロッパ強国による最初の世界分割宣言であった。いまや、地球世界はユーラシア大陸の辺境にある国によって二分されることとなり、アメリカ大陸はスペインの支配の及ぶ土地となる。
トルデシリャス条約
 なお、ポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラル(1467?-1520?)は、1500年4月ジェノヴァ人たちから資金の提供を受けて、13隻もの大型船隊でインドへ向かう。その途中、コロンブスの第1回航海のニーニャ号の船長であったビセンテ・ヤニエス・ピンソン(1460?-?)から約3か月おくれて、ブラジルに漂着する。それでありながら、ポルトガルはトルデシーリャス条約を根拠にして、その領有を主張することとなる。
 ポルトガルは、コロンブスの成功に衝撃を受けたものの直ちには動かず、1497年になってヴァスコ・ダ・ガマ(1469?-1524)を十分な目算を持って、インドに派遣する。それを見事に成功させ、コロンブスの第3次航海出発後の、1499年9月に帰帆する。それでもなおコロンブスは見果てぬ夢を追い続ける。
 カルロス1世(在位1516-56)の治世、アメリゴ・ベスプッチ(1454-1512、フィレンツェ人航海者)がスペインやポルトガルの遠征隊に加わって、1497-1502年大陸沿岸部にそってカリブ海を航海したことで、彼らの到達地がアジアとは違った大陸を形成していることが確認される。そして、バスコ・N・デ・バルボア(1475-1519)がスペインの遠征隊に加わって、1513年パナマ地峡を横断して太平洋を望見して、アメリカが大陸であることを確認する。
 また、カルロス1世はポルトガル人のフェルディナンド・マゼラン(1480?-1521、ポルトガル名・フェルナン・デ・マガリャンイス)に、サンティアゴ騎士団の司令官という地位を与える。1518年3月、彼はカルロス1世と香料諸島発見に関する協約を結び、ドイツのフッガー商会の出資によって艤装された旗艦トニダート号(110トン)をはじめとした5隻の艦隊と乗組員265人を与えられて、1519年9月に出帆する。ただ、乗組員のリクルートは容易でなく、練達のポルトガル人37人をはじめ、イタリア人30人、フランス人19人、若干のギリシア人、ドイツ人、フランドル人を加えざるをえなかった。艦隊の食料や装備品、交易品については、Wikipediaのフェルディナンド・マゼランを参照されたい。
 フッガー商会が送り込んでいた商人はクリストバル・デ・アロという人物で、ポルトガルで暗躍した後スペインに移動して、それらの宮廷に取り入っていた。マゼラン艦隊の遠征費用は当初4000ドゥカードと見積もられていたが、最終的には2.4万ドゥカードにまで膨らんだ。スペイン宮廷には金はなく、そのうちフッガー商会が実に1万ドゥカード、そしてアロ自身が5000ドゥカード弱を出資していた。唯一帰還したビクトリア号の積み荷の多くはアロに引き渡されたとされる。
 マゼラン艦隊は、1520年10月マゼラン海峡に入り、同11月マルク諸島に到着する。マゼランが命を落とす。その後、フアン・セバスティアン・エルカーノ(1476-1526)が指揮するビクトリア号(85トン)だけが1522年9月帰着して、世界周航を果たす。この世界周航は太平洋に至って地球球体説を実証し、また東南アジアにおける領土分割争いの契機となる。
 このエルカーノはバスク人であった。ビクトリア号で生き残った18人の構成は、スペイン人12人、後述のビガフェッタを含めイタリア人3人、ポルトガル人2人、ドイツ人1人であったが、そのうち4人がバスク人であった。彼ら以外にインディオが3人いた。スペインの大航海時代は、バスク人の船乗りが切り開いたといってよく、またキリスト教布教の先兵であった。イエズス会を創設したイグナチオ・デ・ロヨラやアジア布教のフランシスコ・ザビエルザビエル、そして太平洋の大圏航路を開発した地理学者のアンドレス・デ・ウルダネータはバスク人であるなど、枚挙にいとまがない。
 このマゼランたちの世界周航を、イタリア人のアントニオ・ビガフェッタ(1491-1534)が『マガリャンイス 最初の世界一周航海』(岩波文庫、2011)として記録したが、原本は失われている。彼はマゼランの航海に当初、乗客として同行しようとしたという。彼の生没地ヴイチェンツアには、彼の屋敷が残されているが、大変立派である。
 なお、ポルトガル人はすでに1512年マルク諸島に到来していた。マゼラン以後も、ポルトガルやスペイン、かなり後れてイングランド、フランスなどの領土探検は続けられ―その詳細は省略する―、「大航海時代」という征服と略奪、そして旧世界(ビエホ・ムンド)から新世界(ヌエボ・ムンド)に病魔が持ち込まれる時代となる。
 なお、ポルトガル人のフェルナン・デ・マガリャンイスがスペイン王室に仕えるようになったのは、クリストファー・コロンブスと同じようにポルトガル王室にこけにされたからであった。彼は、1505年初代インド副王に任命されたフランシスコ・アルメイダの艦隊に参加し、ポルトガルのマラッカ攻略や香料諸島遠征に貢献したが、その功績を認められなかった。彼は、香料交易のうまみを熟知していたので、ルイ・ファレイロという地理・天文学者と協力して、喜望峰と対称となっている「南の海峡」から香料諸島に入り込めると、スペイン王室に売り込んだのである。
 1479年、スペインはカスティーリャとアラゴンが連合したことで近世大国への道を歩みはじめる。イサベルは王権を強化するため貴族の力を弱め、フェルナンドはヨーロッパにおけるスペインの地位を高める。1516年、フェルナンドが没すると、外孫が両王位を継承して、スペイン王カルロス1世が即位する。
 このカルロス1世は、国際金融業者のフッガー家の資金援助を受けて、敵対するフランス国王フランソワ1世(在位1415-47)を押さえ、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-56)に即位する。そのため、カルロス1世ではなく、カルロス5世と呼ばれることが多い。
 カルロス1世はスペイン、イタリア、アメリカ大陸の領土に加えて、父フェリペ1世(在位1504-06)からネーデルラントとブルゴーニュを継承する。ここにハプスブルク朝スペインの時代が始まる。スペインはヨーロッパの一大勢力になったばかりでなく、かつ海外に大規模で植民地を持つ世界帝国―太陽の沈まぬ帝国―となる。なお、ポルトガルはその商人がアジアでの支払手段を獲得しようとして、大量の銀を持つスペインとの併合を望んだことから、1580年に併合される。
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