3.1.4.3 Private branch to break through the starting countries and expand overseas ▼テューダー朝、スペインに勝って国際進出▼ 16世紀のテューダー朝は、大航海時代の展開、絶対主義国家の相克、宗教改革、そしてルネサンスの時代にあった。イングランドは遅れて登場した国として、スペインやフランスとの狭間に置かれていたが、その時代国際的な地位を整え、次の世紀における飛躍を準備する。その交易構造もまた、輸出の主力商品は羊毛から毛織物に代わる。それらの交易にイングランド人が進出して、ハンザやイタリアの商人を駆逐する。そして、ロンドンに経済力が集中して、その地位が強化されるといった、大きな変化が起きる。 1485年、ランカスター家の傍流でウェールズ出身のヘンリー・テューダーは、ボズワースの戦いでリチャード3世を戦死させ、ヘンリー7世(在位1485-1509)となる。そして、ヨーク家の娘と結婚したことで、長くつづいたばら戦争は終結し、テューダー朝がはじまる。このヘンリー7世の治世は、フェイル氏によれば、「イギリス海運史に訪れた最初の偉大な転換期とみてよい」という(フェイル前同、p.141)。
エリザベス1世(在位1558-1603)は、メアリーの死によって即位する。彼女は、宗派をカトリックからプロテスタントに改め、国教会の教義を基盤とする。それにより、カトリックやピューリタンを抑圧する。なお、彼女はスペインやフランスからの干渉を避けるため、独身を守り続けたという。 1587年2月18日、エリザベス1世はカトリック教徒の反抗の元凶となってきた、スコットランド女王(在位1542-67)兼フランス王妃であったメアリー・ステュアートを処刑する。この処刑は重大な結果をもたらす。 イングランドは、1568年からはじまったオランダのプロテスタントたちの独立戦争(八十年戦争)を支持し、また1577年にはオランダと同盟条約を結んで支援していた。他方、カトリックの大国スペインのフェリペ2世は、長年にわたるイングランドの私掠船に悩まされてきたこともあり、メアリー処刑を機にしてイングランドと戦争する決意をかため、1588年アルマダ艦隊を派遣してくる。それに、イングランドは幸運に恵まれて辛うじて勝ち、イングランドが国際政治の一角を占めていることを知らしめる。 エリザベス1世が死ぬとテューダー朝は終わるが、その跡を継いだのは彼女が処刑したメアリー・ステュアートの息子であった。スコットランド王ジェームズ6世(在位1567-1625)が、ジェームズ1世(在位1603-25)としてイングランド王位を継いだことで、初期ステュアート朝がはじまる。それ以後、イングランドとスコットランドは同君連合となる。 ▼15世紀後半、ブリストルの商人船主が突出▼ 15世紀末、テューダー朝が生まれるが、それ以後イングランドには新しい押しの強い商人として、ブリストル人が登場してくる。ブリストルの商人は、ばら戦争の当事者に巻き込まれることがなかった。そして、ハンザ同盟にも結びつくといったこともなく、イタリアの金融操作に取り込まれるいったこともなかった。そのおかげでロンドンなどとは違って、その交易を地中海(後年には新大陸)に、自由に広げることが出来た。 彼ら商人の活躍のおかげで、ブリストルはイングランドのなかでロンドンに次ぐ著名な都市となる。なお、後述するエリザベス朝の船乗りたちは、ブリストルやプリマスのあるデヴォンシァやコーンウォルを出身地としており、名門家系を構成することになる。
15世紀後半から、アントワープはブリュージュに代わって国際中継市場として発展を遂げつつあり、フランドルと競合するイングランドの毛織物を受け入れてきた。1496年には、イングランドの冒険商人組合はアントワープとのあいあだで、マグヌス・インテルクルススという通商条約を結んでいる。これにより、16世紀、イングランドの毛織物輸出はアントワープに集中し、1560年代末にはその輸出額の約70パーセント(6.3万反)が送り込まれることとなった。 テューダー朝の国王たちは艦隊を編成したり、「虚勢」を張るために、商船やその乗組員を徴発した。それに商人や船主、船員たちは不平を鳴らし、また戦時税の支払いを免れようとした。しかし、海運業もその見返りとして、当初の出費をおおむね1年以内に償っていたので、リスクをかけるだけの値打ちがあったとされる。 ▼16世紀前半の主な航路とアイスランド交易▼ ヘンリー8世が、1540年に制定した法律は、目新しい規定が含まれていた。その1つは、ロンドンで利用できる船の情報がえられないという、外国人商人の苦情に応えて、ロンドンを出港する船の航海予定をロンバート街に掲示させることとした。それは、1726年から海運情報紙として発行されつづけている、ロイズ・リストの先駆とされる。もう1つは、船主が暴利をむさぼることを防ぐため、ロンドン発着の正規航路における積荷の最高運賃を定めたことである。これにより、16世紀前半における主要な航路とその貨物別運賃を知ることができる。 そこに掲載されている航路は、フランドル・デンマーク・ボルドー・スペイン・ポルトガルとの間の往復航海である。また、輸出貨物は毛織物と兎皮に限られている(スズや鉛は、主として西部諸港から船積されていた)。他方、輸入貨物は多種類で、フランドルから輸入されるビロード・綿・その他の工業製品、砂糖・ナツメ椰子の実・乾プラム・ハタンキョウ・乾葡萄、そして胡椒、デンマークから穀類・ピッチ・タール・亜麻、さらに帆布・鉄・蝋・鰻・チョウザメ、ボルドーから葡萄酒・大青となっている。 16世紀前半、イングランド人はそれら限られた航路から、徐々におそるおそるはみ出ようとしていた。1530年、後述のウィリアム・ホーキンズ(?-1554?)がブラジルに向かっている。イングランドは、1551年から北アフリカのバーバリ地方(モロッコやアルジェリア、チュニス)との直接交易をはじめており、多量の武器や弾薬を輸出し、ゴムや砂糖、糖蜜を輸入していた。スペイン・ポルトガルが支配するカナリア諸島やアゾレス諸島は門戸が開放されていたので、有望な交易航路となる。それらとの交易のなかで、イングランド人に冒険衝動が強まってくる。 それら以外で注目すべきはアイスランド交易である。15世紀初めになると、イングランドの東海岸の港とアイスランドとの直接取引きが再開される。それはバルト海やベルゲンからイングランド船を締め出すというハンザ同盟の政策の反動でもあった。イングランドの小麦やビール、毛織物はアイスランドで歓迎された。イングランドが干し魚に支払う価額は市場の動向に次第に左右されるようになった。 クリストファ・コロンブスはスペインに赴く前、ジェノヴァからポルトガルのリスボンに居を移し、居留ジェノヴァ人商人に雇われて、1477年2月イギリスの諸港を経由して、アイスランドに航海している。丁度その時、ウィリアム・カニングスもそこで取り引きしており、ある航海事業で船を1隻失っている。その頃のアイスランドの交易はイングランド人の手に置かれ、またイングランドの漁民はアイスランド海域で、アイスランド人よりも多くの魚を捕まえていた。 「カニングスの船が運んでいた貨物は500ポンドの値打ちがあり、小麦とそのあらびき粉、バター、蜂蜜、ワイン、モルト、ビールの樽、またポット、平なべ、ナイフ、銅のヤカン、剣、くぎ、てい鉄、そして織物用のくしといった金物(なお、アイスランドではわずかな金属原石しかない)、さらに材木、ピッチ、タール、ワックス、塩、ハット、キャップ、靴、ガードル、手袋、財布といった身繕いの品、針、糸、ピン、魚網用の織り糸、当然のように大量のリネン布地や毛織り生地(後者は、全貨物の価額の少なくとも3分の1に当たっていた)が含まれていた。 アイスランドの商人は帰り荷として、羊皮、魚油、あるいは安い地元の布を売っていたが、その主な商品は干し魚……であった。帰り荷の魚の総価額は帰港後の売りで1000ポンドを上回っていた。交易船は、2月から4月までにアイスランドに向けて出帆し、夏のあいだに市場を開き、7月から9月までに帰港し、そしてブドウの収穫期、ボルドーにおおむね出掛けていた」(以上、ホープ第3章、p.75)。 イングランドのアイスランドをめぐる商業上の優位は、ハンザ同盟との競争や自国の交易許可状の乱発によって、15世紀後半から後退していった。1480年代になると敵対関係は厳しくなり、ブリストルの船員は新しい牧場を求めて、北大西洋を這いまわらざるをえなくなる。 ▼カボット、ソーン父子らの冒険事業▼ 1490年ごろ、ブリストルの商人はすでに発見された大西洋の島々の様子を、スペイン人やポルトガル人と同じように知っていた。彼らはマディラ諸島ばかりでなく、カナリア諸島とはほぼ間違いなく、さらにアゾレス諸島とは多分、取り引きしていた。また、イングランド王室もスペインやポルトガルが大西洋を海上探検していることや、1493年の教皇子午線や1494年トルデシリアス条約を結んだことはある程度知っていた。
カボットは、翌1498年5月今度は日本をめざして、国王の1隻、ブリストルやロンドンの商人の4隻以上の船を率いて出航するが、以後の消息は正確にはわかっていない。6月にグリーンランド東岸に達し、沿岸を北上したが、きびしい寒さに乗組員が反乱を起こしたため南下を余儀なくされ、北アメリカ大陸沿いにチェサピーク湾あたりまで航行したと考えられている。この遠征後、イングランドでは大西洋を横断して日本やアジアを発見しようという話しは、当面取りやめとなった。 ヘンリー7世は、1501年アゾレス諸島の郷士として処遇されていたヨアブ・フェルナンデスなど、ブリストル在住のポルトガル人商人や、ブリストルの商人であるリチャード・ウェルデなどに、探検特許状を与えている。彼らのシンジケートが1501年、1502年にブリストルから出帆し、まずグリーンランド、次いで現在のカナダ東部のラブラドル半島に向かっている。 1509年になるまでに、ジョン・カボットの息子セバスチャン(1476?-1557)は2隻を使って、北西探検に向かう新規の航海に出掛け、ハドソン海峡を通り北東航路を発見し、その名を上げている。しかし、イングランドに帰ってきたとき、ヘンリー7世の後継者ヘンリー8世の関心が他のところに移っていることを知らされる。彼は1512年スペインにくら替えする。 ヘンリー8世はスペインと平和を保つよう努力していたし、少なくとも1536年離婚したキャサリーン・オブ・アラゴンが死ぬまで、それを続けていた。スペインとの交易は発達しており、1530年ヘンリー8世は自国民がセント・ジョージという会社あるいは組合を作って、スペインと取り引きすることを許可していた。ポルトガルとの交易もまた発達しつつあった。 すでにみた大ソーンやその息子たちは、共同出資者とともに、アンダルシア地方の港ばかりでなく、カナリア諸島や西インド諸島とも交易し、スペインとの業務上の結びつきを広げていた。彼らはセビリアに滞在し、スペイン船に持ち分の範囲で、商品を船積みしていたという。当時、スペインにはイングランド人が居留しており、1519年フェルディナンド・マゼラン(1480?-1521、ポルトガル人)の世界周航に出発したスペイン船には、ブリストル人が砲手として乗船していたという。 1530年から32年にかけて、ウィリアム・ホーキンズはブラジルに向かっている。彼は前世紀最後の10年代生まれの商人であり、ブリテン島西海岸産の毛織物やスズを輸出していた。イングランドに帰るとき、彼の船は魚、ワイン、そして塩をはじめ、時々、オイル、砂糖、石鹸、コショウといった商品を運んでいた。新しい商品としてブラジル・ウッド(赤色染料の原料)があった。 ウィリアム・ホーキンズは、プリマスのポール号250トンという持ち船で、ブラジルに三度出掛けている。最初の航海、彼は現リベリアのセス川に立ち寄り、そこからブラジルに向かい、ブラジル・ウッドを含む、様々な特産商品を取り引きしている。 次の航海では、ヨーロッパに行って文明の楽しみを目撃したいという住民の首領の人質として、プリマスのマーティン・コックラムという男が残されている。首領は帰りの航海で死んだが、コックラムはその船が3回目の航海で、ブラジルに着いたとき解放されている。その後、様々な遠征が行われており、1540年ポール号は1ハンドレッドウエイトの象や、92トンのブラジル・ウッドを持ち帰っている。 同じ年、ジョン・フィリップスがポーツマスから新世界に、ロンドンのバーバラ号に乗って出帆している。その航海の往路の途中、小型のスペイン船2隻を拿捕し、また現ドミニコの首都サント・ドミンゴでは、生皮や砂糖を積んだ別の船を捕まえている。彼は、水漏れするバーバラ号の代わりに、後者の船を使って帰国している。 ▼ヘンリー8世、商船と軍艦の区別を進める▼ ヘンリー8世は、スペインに対抗してまで大洋横断の冒険を奨励しようとはしなかったが、王立海軍の建設によって将来の芽を育んだとされる。トレヴェリアン氏は、「ヘンリー5世は王立艦隊の建造を始めたが、この事業は進捗せず、後には放置されてしまった。ヘンリー7世は商船隊の建造を奨励したが、戦闘専門の艦隊を建造しなかった。戦闘用の艦からなる有力な艦隊を建造したのはヘンリー8世で、ウーリッジやデトフォードに王立造船所を置き、また水先案内協会(トリニティ・ハウス)をおこした」(トレヴェリアン2巻、p.28、1974)。
この舷側に開口部を設けて、舷側砲を並べるという改良は、15世紀初め、大きな砲丸を装填できる前装砲の開発とともに、海戦を一変させる変革となった。この改良は、1500年頃、フランス領となったブルターニュのブレストで考案され、たちまちのうちに、ヨーロッパに広がった。なお、後年のイングランドが、1588年スペインの無敵艦隊に勝利した大きな要因として、舷側砲を四輪砲架(スペインは二輪)に乗せて連続砲撃を容易していたことが上げられている。 ヘンリー8世は探検や海洋に無関心であったわけではなく、海運を輸入の源泉と防衛の手段として評価していたが、彼の目は身近なことに絞られていた。1512年から、彼は船をあれこれと徴発するのではく、それぞれの目的に応じた船を用船するようになる。 1535年、海賊に対する最初の包括的な法律が通過している。それは海軍法廷に、海賊行為について死刑を宣告し、彼らから聖職者の癒しを奪う権限を与えた。1540年、イングランド海軍の維持に関する議会法が通過している。 その前文は、海事力を維持すべき理由として、「第1に、船は交易と外交にとって有利、不可欠、必要、便利なものである。第2に、それらは戦時、防衛と攻撃の手段であり、国の安全を保つことに役立っている。第3に、それらは船員やその家族ばかりでなく、船や船員に物品を供給している人々の生計を成り立たせている」と述べていた(ホープ第4章、p.87)。 ▼フランスとの戦争期、海賊行為が私掠を装う▼ 1544-6年の期間、ヘンリー8世はフランスと戦争している。ブルターニュ半島先端のブレスト沖での海戦に当たって、1545年艦隊を召集する。艦隊は、軍艦56隻と、用船のガレー25隻、私掠船60隻、商船40隻、合計181隻が含まれていた。それらのトン数は12,455トンを数え、1000トン級が2隻含まれていた。1000トン級の船は、それまでに建造された最大の船であった。なお、スコットランドのジェームズ5世は、1512年にそれより大型のグレート・ミッシェル号を艤装していた。 1545年召集された艦隊には、メアリー・ローズ号がいた。それは、1511年に軍艦として初めて建造された、戦列艦で(その後改造)、3本マスト、3層甲板、長さ32メートル、幅12メートル、重量500トン以上、砲78-91門、乗組員200人、兵士185人、砲手30人であった。メアリー・ローズ号は、フランスとの海戦の際、ワイト島のソレント海峡で強風で転覆、沈没する。1982年に引き上げられ、保存されている。 また、1000トン級のグレート・ハリー号も含まれ、3層のデッキ、4本のマストを備えていた。そのマストの数にはバウ・スプリットやスプリットスル・ヤードは含まれていない。メンマストの高さは75フィートであった。その他の船も最新の装備であふれており、大きさは40トンから450トン、乗組員は32人から300人と様々であった。 ヘンリー8世、さらにはエリザベス1世の時代、海軍に用船あるいは徴用された商船には、1日1トン当たり1シリングの使用料が支払われていたが、1580年には2シリンクに引き上げられた。アルマダ艦隊と海戦した1588年の1年間に164隻が徴用された。1596年のカディス攻略では、12隻の軍艦に対して、80隻以上の商船が徴用されていた。 船員の多くは、軍隊勤務するよう徴発された商船船員たちであり、月に6シリング8ペンス(1エンジェル、古金貨)が支払われた。その戦争で、船員たちは疫病にかかった。当時、イタリアのような検疫規則はなく、その必要も認められていなかった。最終の点呼名簿によると、最初の10日間で召集された12,000人のうち、健康であったものは3分の2に止まった。ヘンリー8世は艦隊を解散せざるをえなくなり、彼が1547年死ぬ直前に、戦争は終わった。
1545年、彼らは帆船4隻とピンネス1隻でもって、セント・ビンセント島沖で、西インド諸島で2番目に大きいイスパニオラ島からスペインに帰る宝船を拿捕している。その掠奪品は、南イングランドの船員にとって忘れがたいものとされ、金、真珠をはじめとした宝船の積み荷は目もくらむばかりで、総額29,315ドゥカートであった。 この事件を契機にして、イングランドとスペインは戦争することとなった。レネガは、スペイン人から報復として掠奪品を押収したに過ぎないと主張したが、スペイン人は彼をなる手の海賊だと宣告し、海上にいるイングランド人の商人と船員を全員、逮捕すべく取り掛かった。イングランドの船や商人が解放されるまでに数か月かかった。 ヘンリー8世は常設の王立海軍を創設しただけでなく、1546年海軍委員会を設置したことによって、後世の国王に海軍を編成する手段を遺産とした。彼の父と同じように、大型の商船が建造されると、1トン当たり4-5シリングの下賜金を支給し、また船舶の定期的な検査やセンサスをはじめている。また、徴用可能な商船の数が枢密院に報告されるようになった。 完全な報告書に限ってみると、100トン以上の隻数は1560年77、1577年135、1582年177隻である。それらほとんどが100-200トンであり、またロンドン船籍が約3分の1を占めた。1582年は、アルマダ艦隊との海戦の6年前である。その海戦後であるが、建造補助金を受けた隻数は1592-5年48隻、1596-7年57隻(そのうち300トン以上が32隻)となっている。 ▼イタリアの後退、ロンドン=アントワープ基軸▼ 西ヨーロッパでは、1500年以後大西洋に新しい海運市場が徐々に成長し、イベリアからフランドル、次いでブリュージュ、そしてアントワープへと北上していった。アントワープは急速に北西ヨーロッパのスパイスの主要な流通センターとなった。アメリカ大陸からの銀は、ヨーロッパ全体の交易の拡大を加速させ、他方イタリアの都市国家を弱体化させた。ヴェネツィアのガレー船隊は1587年の寄港が最後となる。 そのなかで、ロンドンの地位が重要性を増した。16世紀初頭、毛織物の輸出が爆発的に増加して沸き返ることとなる。その結果、ロンドンの商人の力は強化され、ロンドン―アントワープの基軸が成立したとされる。当時、イングランドの羊毛の輸出は5000袋にまで減少していたが、ロンドンの毛織物輸出は約3倍も増え、1500年の約49,000反弱から1550年には約133,000反弱となった。1550年までに、ロンドンは毛織物輸出の90パーセント、また1世紀前の2倍の比率を手中に収めるようになった。 ただ、16世紀を通じて、イングランドの毛織物の70-80パーセントはアントワープに輸出していたが、そのほとんどが未仕上げの広幅織であった。アントワープは、それを染色・仕上げをして、ヨーロッパ諸国に輸出していた。イングランドは、羊毛に代えて毛織物を輸出する立場に立ったが、アントワープに対して製造や販路のうえで、なお従属的な関係にあった。 ロンドン=アントワープ基軸が築かれると、バルト海諸都市の著名なハンザ商人の船が、ハルや東アングリア地方の港に現われるのはまれになり、他の国の船と同じように、ロンドンに急激に集まるようになった。そのため、東海岸から大型船が消えてしまった。 その一環として、ニューカッスル・アポン・タインからの1隻当たりの石炭積み込み量は、1465年から1552年にかけて半減した。ニューカッスルの大型船は、1465年少なくとも250-300トンの船が2隻はいたが、1544年にはいまや160トンになっていた。イングランド最北のベリックからテムズ川までの地域に所有されていた240隻以上の平均的なサイズはたった40トンとなり、その多くは海外と取り引きしていなかった。 1537年から1542年にかけ、イングランド船が年間100隻、アントワープやオランダ南部のゼーラントの錨地に入り、その使用料を支払っている。ハルの船の数は増加したのが、その錨地に入った数は2隻だけであった。 イングランドの毛織物輸出は、16世紀半ばになると減少しはじめ、17世紀前半には最盛期の60パーセントまで落ち込む。それは、まずオランダ独立戦争がはじまり、アントワープがスペイン軍の略奪、攻撃に遭い、1585年陥落したことによる。その輸出先が、アントワープに特化しただけに、大きな打撃であった。 アントワープ経由の毛織物の主要な輸出先であった中央ヨーロッパ諸国が三十年戦争によって疲弊する。さらに、スペインの支配下に置かれたアントワープをはじめフランドルから、毛織物業者がオランダに亡命して、中央ヨーロッパ諸国向けに毛織物を輸出するようになる。それにより、イングランド毛織物との競合が激しくなる。 こうして、イングランドの毛織物工業は、新しい輸出市場を多様化する必要に迫られる。それに当たって、イングランドはロシア会社、スペイン会社、イーストランド会社、レヴァント会社などを設立する。そして、未仕上げの広幅織から完成した毛織物を製造する必要に迫られる。それがベイ、セイ、サージといった薄手の新毛織物である。それらは温暖な南ヨーロッパやレヴァントといった地方に適応した製品であった。さらに、イングランドの毛織物の市場は、17-18世紀アメリカの植民地に広がる。 ▼チャンセラーの北東探検、ロシア会社設立▼ スペイン商務院の主席水先案内人になっていたセバスチャン・カボットがイングランドに戻ってきて、トーマス・ウルジー(1475?-1530、枢機卿、政治家)やヘンリー8世と、大西洋を横断する新しい遠征を指揮することについて折衝していた。その最中に、マゼラン遠征の生き残りの船が、1522年9月マゼラン海峡経由の南西航路のニュースを持って帰港してきた。それで破談となった。 カボットは、インドへの別ルートを発見するため、北東探検を推奨する。リチャード・チャンセラー[?-1556]が主席水先案内人に指名され、旗艦のボナ・ベンチャ号など3隻の船がロンドンの事業家や金融人のグループによってしつらえられる。その資金は合計6000ポンド、1口は25ポンドであった。それら3隻には47人の乗船者(うち商人10人)、34人(同6人)、31人(同3人)が乗船していた。重要な規則として、乗組員は会社の取り引きが終わる前に、個人の交易を行ってはならないとされた。 1553年、チャンセラーはモスクワに入り、イワン四世(雷帝、在位1547-84、ロシア初代皇帝)に謁見して、イングランド人のモスクワ公国との交易を保護すると約束される。チャンセラーは1554年帰国し、ロシアとの交易を提唱している。その帰途、フランドル人の海賊に襲われている。 1555年2月、メアリー1世は1553年設立のロシア会社(当初はモスクワ会社といった)に特許状を下付し、カボットを終身司令官に任命する。ロシア会社は、新航路の開発を目的として、資本金6000ポンド・1株の額面25ポンドの組合として設立される。この会社はイングランドで最初の完全な法人組織の株式会社であった。 冒険商人の規制会社の場合、メンバーが個別または共同で資本を出して交易しており、会社自体は交易に携わらなかった。それに対して、株式会社の場合、それ自身が交易し、メンバーは行わず、行うことも期待されていなかった。その交易は会社が取り決めた地域のなかで行われた。 ロシア会社には独占権が与えられていたが、それは新しい交易基地の開拓者に相当の報酬を認められてよいという、考えに基づいていた。会社の目的はアジアへの北方航路の開拓であったが、北西航路を含むすべての探検とイングランド以北の交易について独占権が与えられていた。 201人のメンバーのうち、その主力はロンドン商人であった。彼らは若干のステイプル商人のほか、その多くが冒険商人であり、彼らは人に先駆けてバーバリ諸国、ギニア海岸、そして西インド諸国に航海していた連中であった。 イングランドからロシア向けに、様々な工業製品―完全に捺染し、化粧された毛織物、銅板、そして金属製品、中継商品としてワイン、砂糖、スパイス、果物、コショウ、そして金属製品―が、2回目の遠征に当たって積み込まれた。それらは、魚油、あく(木炭からとる炭酸カリ)、ワックス、ミンクなどの毛皮、麻、亜麻、そしてロープと交換するのに使われた。 ロシア会社は、1555年2隻、56年3隻、57年4隻を送り出している。1557年4隻のうち2隻は1554年に後述のギニアに行った船であった。それら4隻は民間からの用船であったが、そのうち3隻は会社のメンバーの持ち船であった。ロシア会社が、交易を請け負ったメンバーに出した、きわめて詳細な交易指示書が残っている。そのほんの一部は次の通りである。 「……[積荷の]すべてに、会社の刻印が打たれている。それは、仕分け済みの毛織物207反や、きめの細かいすみれ色の布と緋色の布各1反を含む25束(包)、そして1から始まり52で終わる番号が付いている梱包された綿布40袋である……ハンプシャー産カージー織が500枚以上、そのうち400枚が白、43枚が紺、53枚が赤、15枚が緑、5枚がジンジャー色、2枚が黄である……[それら物品と、イングランド]で大いに売れそうな(鯨、アザラシあるいはセイウチから搾った)ワックス、獣脂、魚油、麻、そして亜麻と交換してよい。毛皮は高価な物品なので大量にはいらない……」(ホープ第6章、p.91)。 ロシア会社は北東航路を発見することができなかったが、ロシアの川からペルシアに至る、利益の大きい東方へのルートを探索することをあきらめなかった。1558年、エリザベス1世が即位した年、ロシア会社の社員が現エストニアのナルバに入り込む。それにより会社はバルト海の拠点をえたこととなり、交易に計り知れない刺激となる。 ロシア会社は1580年代まで株式組織としての独自性を維持する。この会社はセイウチなど海獣の狩猟や、捕鯨に精を出すようになる。当時、捕鯨はスペイン・バスク地方の漁民の助けを借りていた。ロシア会社は1615年交易を中止し、1623年には解散する。また、イングランドは1635年捕鯨から撤退する。 1571年、ローマやヴェネツィア、スペインの連合艦隊は、レパントの海戦でオスマン帝国に勝つが、地中海交易の覇者であったヴェネツィアの支配力は弱まる。その間隙を縫って、イングランドは、1580年代地中海交易に進出する。それ以前からのモロッコ交易も続いていた。 1581年、エリザベス女王から特許状をえて、トルコ会社が設立される。それは、バルト海でデンマークが力をつけたため、北方交易が再び制約されるようになり、またロシア経由でペルシアからの交易に利益が上がるという見込みはなくなった。それにもかかわらず、東方への交易ルートの確保が必要とされたからであった。トルコ会社は、コンスタンチノープルにロンドンの代理店を設けている。 トルコ会社の設立者で、総裁となったのはエドワード・オズボーン卿であった。彼は、すでに1575年にコンスタンチノープルに代理人を派遣していた。また、1579年のイーストランド会社の設立にもかかわっていた。この会社の有力者はリチャード・ステイパーなどバーバリ交易商人であった。彼らは毎年のように、あらゆる種類の毛織物、高品質の染め上げと仕上げのカージー織り、スズ、鉛、そして黒ウサギの皮といった、売れそうな商品を積んだ船を送り出していた。 輸入品には、オイル、インディゴ(細葉大青よりはるかに良い染料)、原生糸、スパイス、麻薬、小粒干しブドウ、クレタ島のワイン、綿布や綿糸、グログラム(生糸とモヘヤを素材にして作られる)、チャムブロッテ(ラクダの毛が素材の1つとなっている)、カーペット、ミョウバン、アニスの実、そして硫黄が含まれていた。 ▼ロシア会社、レヴァント会社など、特許会社▼
また、通商交通の自由・港湾利用の特権・重税負担の免除のために、トルコ・アジア・アフリカの諸統治者と種々の折衝を重ねなくてはならなかった。さらに、こうした折衝にあたるものは、富と威厳とを印象づけるよう堂々たる風釆を装うばかりでなく、慾に目のない地方領主にあてがうに充分な現ナマをもつことが必要であった。 こうした仕事は、すべて、現今の商人または船主の場合には、大いに、自国政府の援助を期待できる筈のものであるが、当時はそうでなかった。したがって、こうした仕事をするには莫大な出費を必要としたばかりでなく、強力かつ持続的な後援組織をも必要とした。 ところが、個々の商人では如何に富裕であっても、所要の資金を調達することはむつかしく、特定の航海ごとに設立される組合にも、それに必要な経営の確実性が欠けていた。かくて、ある貿易に従事する人々が相集って、1つの会社を設立するようになったのは自然の成行きというべく、さらにこうした目的のために設立された会社が、白己の経費支出にこたえるものとして、当該航路の独占を要望したのも当然であった」。 16世紀半ば設立された特許会社は、特定ルートの貿易を開発する目的の下に結成された商人の組織であるが、これに対して王室は継続してあるいは期間を限って、当該航路の独占権と自らの規約を作る権利を許容してきた。 「特許会社を組織した各メンバーは、自己の勘定と自己の危険負担とにもとづいて貿易活動を営んだが、所管の団体によって定められた規則には従わねばならなかった。入会金や貿易許可料は、特許状または(現今の慣用語で言えば)会社内規のいずれかによって定められ、これらの手数料によって得た収入のうちから、理事および評議会は国内・国外の会社職員の俸給・海外商館の維持費・その他臨時費をまかなった」(以上、フェイル前同、p.167-8)。 特許会社は、原則として、共同で自社船だけを所有するといったことはせず、船主から船を借りていた。船舶を所有する株主は、同僚のために商品を運送して、普通の仕方で運賃を徴収していた。理事会・評議会は運賃率を定め、大型船の使用を奨励した。 レヴァント会社は、1600年地中海航路を就航する船を14隻2790トン所有したが、そのほかに15隻2500トンを用船していた。これらレヴァント会社船は、ガレーやガレオンにも充分に太刀打ちできる頑丈な船であった。レヴァントで積み込まれた高級貨物の運賃は、1624年1トン当たり7ポンドで、それが長期に維持された。 なお、特許会社はすでに早く中世において設立されており、その代表が羊毛や毛織物の輸出にかかわった、マーチャント・ステイプルとマーチャント・アドベンチャラーズであった。そのなかでも、マーチャント・アドベンチャラーズは16世紀に設立された後発者を恐れることなく、果敢に競争を仕掛けたという。 ▼エリザベス1世のあからさまな海事政策▼ チャンセラーの航海より20年前、ウィリアム・ホーキンズは現リベリアのパルマス岬のポイントを超えることができなかったが、イングランド人たちは北東航路の探検と時を同じくして南方航路にも押し出しつつあった。 1553年、ロンドンの冒険商人のシンジケートが、トーマス・ウィンダムの指揮の下で、ギニア遠征に向かっている。ウィンダムはウィリアム・ホーキンズと親密な間柄にあった。この遠征で参加した140人のうち、帰国できたのは40人に止まった。しかし、その航海は150ポンドの金を黄金海岸から手に入れ、またギニア海岸が商業的な成り立つことを証明した。 1554年、強力なシンジケートが組織され、新たなギニア遠征に向かった。その時、170トン、140トン、90トンの船と2隻のピンネスが用意され、黄金、象牙、そして穀物海岸に到着して、金400ポンド(約2万ポンド、1988年価格で約300万ポンド)、きば250本、そして大量の「粒もの」を持ち帰った。 こうした成功はポルトガル政府から抗議を招く。それに対して、イングランド枢密院は今後、少なくともコショウを持ち帰るためのギニア航海を禁止する。しかし、商人たちは自分たちの交易に関する制限にしたがう意志はまったくなく、「われわれは商人である」とポルトガル政府の抗議に答えている。当のメアリー女王と枢密院は、別のギニア航海に参画していた。 1555年、ウィルソン・タワーソンというロンドン商人が、後続者より上手なギニア航海を行い、素晴らしい帰り荷を持ち帰っている。彼は1556、58年1月にも出発している。3回目の航海では、ミニオン号(300トン)とタイガー号という2隻の王室船を、民間船とともに使っている。 ホープ氏は、「1550年代、[北や南に]新しい事業が付け加わったにもかかわらず、イングランドの地位は海事国のなかでまだまだ低かった。あらゆる種類の商船隊のトン数は、およそ50000トン(それは現在のコンテナ船2隻分より少ない)であったが、イングランドはハンブルグ、リューベック、フランス、ヴェネツィアあるいはラグーナ[干潟、ヴェネツィアのこと]、そしてジェノヴァより小さな船隊を所有するにとどまっていたし、イングランド人はオランダ人やスペイン人、ポルトガル人の後をいまなおよちよちと歩いていた」と評価する(ホープ第6章、p.105)。 そのころ、オランダは日の出の勢いで毎年1000隻以上がバルト海に入って、木材や穀物、獣脂を仕入れていたが、バルト海に入ったイングランド船は50隻弱であった。そうした状態にありながら、イングランドの海運は、あらゆる海岸に沿って活動していたが、北南の新しい世界との交易で使われている船隊は、他の分野の船隊に比べ、極端に少なかった。 エリザベス1世の海事政策は、まずもって近臣や寵臣に私掠や遠征、特許会社の設立による市場開拓、そしてアメリカへの植民を奨励し、それらに投資したことである。それに当たって、エリザベス1世治世の「フランシス・ドレイクと彼の率いるプロテスタントの船乗りたちは、イングランド王国に一身を献げた奉仕者、イングランド国民の英雄となって、イングランドの基本的な志向と努力を海洋に向けさせることになった」(トレヴェリアン2巻、p.73)。 それ以外では、過去の政策を見習って、広範な差別関税のシステムを確立し、造船に関する補助金は途切れずに支給するようになった。100トン以上の船に対して、1トンにつき5シリンクの補助金が支給された。これにより、1581年から14年間に46隻、治世を通して372隻が建造されたという。1563年(?)には、ヘンリー7世の航海条例を改正して、国内交易はイングランド船に限ることとし、また船員の確保と漁船の維持のため水・土曜日を魚の日とした。 エリザベス女王は、輸出産業の毛織物工業を振興する政策を打ち出す。その輸出に携わる冒険商人組合は、各地の港で結成されていたが、1564年の特許状で統一を図る。1597年、エリザベス女王は大きな特権を手にしていたハンザ商人から特許状を剥奪する。なお、1614年に羊毛の輸出が公式に禁止されると、ステイプル商人はその立場を失う。 こうした重商主義政策により、イングランドの毛織物輸出商人は、約200年に及ぶ外国人商人やステイプル商人との戦いに勝利する。
スペイン西端のビゴ湾は、海事的にも商業的にも便利であったので、遠征に当たっての集合地、食糧補給地、船体修理地として使われた。スペインの植民地カナリア諸島は開かれており、1554年ジョン・ロックのギニア遠征に投資して、それを援助したアンソニー・ヒックマンやエドワード・キャスリンは継続的な取り引きを確立していた。 ▼16世紀半ば、商人船主の分離がはじまる▼ フェイル氏は、16世紀半ば、イングランドにおける商人と船主の分離、それらが営む航海事業について、次のようにまとめている。 「純然たる私掠船を別とすれば、エリザベス時代のイギリス船主は、通常、商人であった。もっとも、このことは商人の持船が排他的に自己の商品のみを積みこんだことを意味しない。大型船によって長距離を運ばれる積荷量は、大抵の商人が自分一個の単独企業として危険負担に任ずるには、あまりに大量でありすぎた。他方また、自分自身の船舶を所有せず、自分の商品を運送するために[他人の]船舶または船艙スペースを探すのに懸命な商人も多かった。 当時は、何人かの商人が集まって組合を作り、この組合で船を傭船し、自分たちの利益を代表して航海の業務面を管理してくれる1人の指揮者(captain)―必ずしも、専門の海員たるを要しない―を任命するのが、普通のやり方であった。 航海の技術的な面は、水先案内人と航海船長(sailing-master)に委ねられたが、商人からの指図にしたがって寄港地や航路日程を決定する権限は、傭船者の任命した指揮者に所属した。積荷の販売について管理したり、復航の積荷をあつめたりするのも、彼の仕事であった。 かくて、当時の大船主は、明白に区別される2つの収入源をもっていた。1つは、商人として、自分の持船または他人の所有船で運んだ商品を販売してあげる利潤であり、他は船主として、運賃・王室傭船料・海賊分捕金からあげる利得である。私掠行為を別にしても、こうした利得は相当に大きく……船舶所有(shipowning)を自分たちの最も重要な業務とした」。 次に、「商人=船主の背後には金融業者がひかえていた。彼らは、自身で貿易を営もうとすれば営むことのできるほどの大資本家であった。 当時、新市場向けの貿易と探検とがそれぞれ相半ばした遠征航路では、貿易航権を獲得するために、しばしば武力にものいわさねばならない時代であり、したがって強力な船舶・強壮な乗組員・慎重に択ばれた船具が必要とされた。 これは、とりも直さす、莫大な経費を意味し、こうした航海活動はそれよりも重要視されていた私掠船による遠征の場合と同じように、有力な組合の事業として営まれるのがつねであった。所要資金は、原則として約6名の資本家によって引き受けられたが、この6名は各自、さらに当該冒険企業の自己持分の一部を、友人や同業仲間に譲渡する場合もあった。 最初に出資した者は、重役会に似た機能をもち、当該冒険企業の管理権を掌握していたが、一方では、自分たちが持分の一部を譲渡した者に対して、取得利益を配分する義務を負った。なかんづく、彼らは遠征隊の指揮官を任命する権限をもっていた。この指揮官は、しばしば、組合員のうちからえらばれた」(以上、フェイル前同、p.164-5)。 たとえば、1570年の記録によれば、ジョン・ホーキンズと弟の小ウィリアムは、100トンから500トンまでの船9隻、60ないしは70トンの船4隻、合計13隻を所有していたことになっているが、それらはおそらく持分所有によるものと思われている。また、ジョン・ホーキンズはギニア・西インド諸島への航海企業に資金を提供した組合の発起人で、大株主、そして指揮者であった。 すでにみたように、イングランドの王室もまた、冒険企業の組合員となった。さらに、冒険企業と用船契約を結んで、王室所有船を用船に出している。そして、王室が武装艦船を護衛のため提供する場合もあった。 ▼ホーキンズの奴隷交易とその航海▼ ジョン・ホーキンズ(卿、1532-95)は、老ウィリアム・ホーキンズの若い方の息子であった。根っからの船員で、10歳代にカナリア諸島との交易のなかでシーマンシップを学び、父から商船や私掠船などの船隊を、交易や航海に関する優れた知識とともに、受け継いでいた。
その後、ホーキンズはフロリダから北上し、ニューファンドランドの浅瀬に向かい、そこで魚を捕っている。1565年9月20日、彼の船隊は帰帆する。この航海の犠牲者は20人であった。この航海で、枢密院の議員は60パーセントの利益をものにし、女王には王室船の損料として500ポンドが支払われた。ホーキンズはかなり裕福な人物となって帰帆していたのである。 なお、エリザベス女王もまた奴隷は忌まわしいものであり、アフリカ人同士の交易は天国を地獄に変える仇討ちだと宣言していた。しかし、ホーキンズが損得勘定を示して見せ、次の航海のシェアを差し出すと述べると、言い分は変わってしまったという。 ホーキンズの稼ぎは私掠ばかりではなかった。彼はしばしば損害賠償の訴訟に関わっている。1574年、海上保険引き受けシンジケートを組んでいたジョージ・ストダードとその他8人のロンドン人に対して、ある訴訟を起こしている。いわば三方一両得の海難事故処理のくずれである。 プリムローゼ号を指揮したことのある流れ者のフランス人船長ベイルトンが、プリマスにル・アーブルのエスペランス号を連行してきた。その船はルーアンの商人フェルナンド・デ・クインタナドーヌのものであった。その時代の状況を反映して、イギリス海峡を通過する商品の持ち主は、ロンドンで、それに海上保険を掛けるという慣行があった。この例では、船と唯一の積み荷であるバーバリ産の砂糖について、ストダードとその仲間が200ポンドの保険を引き受けていた。 保険付きの船が事故を起こし、保険金の請求が出されると、海上保険業者は各地の海港で実力のある人物たち―この例ではホーキンズを仲介者にすべく―に接触し、彼らがその船や貨物を保険金以下の価格で引き取れるかどうかを持ち掛ける。 私掠者あるいは仲介者たちはそれら船や貨物を捕獲すればその度、利益が上がるし、また商人たちは割増金の形式で所定の代金を支払ってそれら取り戻せば損失は軽くなり、そして保険業者たちは受け取った保険料の一部を失うことになっても全部は失わないという、寸法となる。勿論、船がその目的地に安全に着けば、保険業者たちは儲けとなる。 仲介者たちはそれぞれの土地に影響力があった。彼らは私掠者たちに圧力を掛け、捕獲品の価格を下げさせていた。エスペランス号の例では、ジョン・ホーキンズは、弁明書のなかで、ストダードとその仲間と王立取引所において、口約束したことを認めている。 この合意によれば、彼は自分の支出額や正常な料金に見合った金額でもって、船を引き取ることを約束していた。その船の保険金が200ポンドであることを知っていたが、彼はその船を65ポンドで買い取った上で、船と貨物をクインタナドーヌ商会に送り付けている。その後、訴訟上の被告たちが、ホーキンズへのそれ以上の支払いを拒否したため、ホーキンズは法廷で賠償を要求するに及んだのである。 ▼エリザベス1世治世の海賊と私掠▼
その2日後、1年1回のスペインの銀船隊がセビリアから着く。その船には新しい副王となるドン・マーティン・エンリケが乗っていた。ホーキンズの船隊はスペインの銀船隊の騙し討ちに遭う。 ホーキンズの船隊はわずかな財宝を抱えて逃げ回り、ドレイクが指揮した船の帰着5日後、彼が乗ったミニオン号(300トン)はたった15人の生き残りを乗せ、1569年1月プリマスにたどり着く。女王の持ち船イエス・オブ・リューベック号は拿捕され、船長ロバート・バレットはセビリアの取引所にある刑場で、火あぶりの刑にかけられている。 ホーキンズ兄弟は、この西インド諸島における損害を埋め合わせようとして、ドレイクに報復の略奪航海を命じている。ドレイクは、1570年冬ホーキンズなどの援助を受け、再度スワン号とパスコ号を引き連れ出帆し、スペインのベンタ・デ・ラス・クルセスを掠奪して、4万ポンド(1989年価格で560万ポンド)の利益を上げている。しかし、その半額がシンジケートを組んだフランス人の相棒に渡っている。 さらに、1571年末には25トンのスワン号に乗って、コロンビアのカルタヘアで1隻を焼き討ちし、その船主を身代金目的で連れ帰っている。この遠征は、金儲けとして失敗であったが、イングランドとスペインとの関係の転換点となった。これら遠征はドレイクのいわば世界史に最大の私掠者として名をなすための修業であったといえる。 なお、このジョン・ホーキンズたちの西インド諸島遠征は、増田義郎著『略奪の海 カリブ』(岩波新書、1989)に詳しい。 イングランド人は、アントワープがヨーロッパ交易センターから脱落すると、彼らから外国の安定した顧客を奪い、またイベリア半島の帝国の実りの大きい交易に割り込もうとして、さらなる私掠にのめり込む。1568年、オランダの独立戦争がはじまると、イングランドの船長のなかには、オランダの反スペイン放浪船隊「海乞食」やフランスのラ・ロシュルを基地としているユグノー教徒から、カトリックのフランスやスペインの商船の掠奪委嘱状をもらうものが出てくる。 エリザベス女王は、持ち船のイエス・オブ・リューベック号を失ったこともあって、イングランド人がスペインの船に積まれている財宝を「貸し付け金」の形で徴発することを認める。この処置に対するスペインの報復は、イングランド船の捕獲ばかりでなく、その積み荷の押収や乗組員の監禁であった。以後イングランドとスペインは報復合戦を繰り返す。 当時、海賊船や私掠船の乗組員は、イングランド人やフランス人、フランドル人で構成されていた。彼らがイギリス海峡を制圧すると海賊がはびこり、ステイプル商人たちの羊毛交易などの交易も阻害されるまでになる。そこで、1572年5月ある委嘱状が出されている。 それは、ジョン・ホーキンズなどといった私掠船活動の巨頭が、オランダの海乞食を含むフリーブーダー(略奪者)と称された連中に命令を下し、ケント、サセックス、サウサンプトン、そしてワイト島の海岸を正常な状態に戻すよう求めたものであった。イングランド人たちはフリーブーダーのやり方を嫌うようになっており、ホーキンズたちも海賊に組みするかいなかを迫られることとなる。 私掠者たちは、政治状況の成り行きによって元気づけられもし、押さえつけられもしていた。私掠船は個々の戦闘を効率よくやり遂げるようになり、またイングランドの船や船員の戦闘力はスペインを急速に上回るようになった。イングランド船はスペイン船よりまだまだ小型であったが、設計がよく、取り扱いやすく、風に向かって帆走できた。そのことは、16世紀前半にイングランドの戦力が顕著に向上し、また交易の野望が膨張したことで立証された。しかし、イングランドの商船隊の規模は、1550年までは小規模のままであった。 エリザベス1世の治世、イングランドの私掠船は200隻以上が活躍していたという推測がある。すぐ後で見るように、100トン以上の隻数は百数十隻を超えることがなかったとされ、事実1588年スペインのアルマダ艦隊とあらん限りの船を集めて戦ったとされるが、その艦隊は197隻であった。これからいえば、先の推測はイングランドの大型船はあげて私掠船だっだということになる。 ホープ氏によれば、「当時のイングランド基準からいって、多額の資金が海運に投じられていたとはいえ、危険な遠洋航海に投資するまでの余剰な資本は少なかった。偉大な探検航海物語が繰り返し語られているが、ほとんどの商船は専ら近回りの、決まりきった航海に従事し、ありふれた商品を輸送していた。その重要さを[偉大な物語よりも―引用者注]確認する必要がある」という(ホープ第4章、p.91)。 なお、櫻井正一郎著『女王陛下は海賊だった−私掠で戦ったイギリス』、ミネルヴァ書房、2012は、エリザベス1世治世の私掠活動と、その主要な航海(特に、ウォルター・ローリーに関わる1592年マドレ・デ・ディオス号を捕獲した航海が詳細)について具体的に活写することで、私掠活動がイングランドを海洋帝国に押し上げたという、いまなお受け継がれている賛美の内幕を暴露した著書である。 ▼イングランドに残された北西航路▼
イングランドは自らが探検して発見した、自前の航路を欲しがった。それが北東航路に対する北西航路であった。この2つの航路の得失について、エリザベス女王の御前で激しく議論されたという。マーティン・フロビシャーは、北西航路に三度にわたって挑む。それらは金鉱探しの航海として企画され、出資フィーバーが起きるが、いずれも失敗に終わる。 フロビシャーの呼びかけに応じて、バーリー伯やウォルシンガム卿(1530?-90)、レスター伯ロバート・ダドリー(1532?-88)、ウォーリック伯(1530?-90)といった女王の側近が有力な後援者となり、2080ポンドが投資される。女王は好意を示すにとどまる。 1576年、フロビシャーはガブリエル号(20トン)、ミッシェル号(25トン)、そして7トンのピンネスといった、当時の基準から見ても小船隊を指揮し、出帆していった。グリーンランドの南端を回った後、海岸に沿って帆走し、バフィン島を横目に見て進むが、北西航路を発見できなかった。ただ、金を含んでいると考える黒い鉱石を積んで帰るが、それはただの石だった。 1577年3月、女王はフロビシャーや彼らの後援者に特許状を与え、タカイ会社の設立を認める。そのとき、女王は1000ポンドと200トンのエイド号を投資する。この2回目の航海の投資総額は5150ポンドとなった。エイド号、ミッシェル号、ガブリエル号の3隻に143人が乗船しており、そのなかには鉱石分析専門家と14人の採鉱工や精練工がいた。そして、鉱石分析に使う石炭が30トン積まれていた。 カナダで、鉱石分析専門家が金になると保障した、鉱石200トンを満船して帰国する。この帰国はいままでにないブームを喚起する。その土地には素晴らしい財貨が十分えられる見込みがある。そうした土地が発見されるに違いないと、人々は争って投資し出した。 エリザベス女王は、フロビシャーによる1578年の3回目の航海に、1350ポンド投資した。そのとき、400トンのトーマス・アレン号から、ミッシェル号やガブリエル号よりも小型のムーン号までの、15隻が出帆している。このときも採取してきた鉱石に大変な関心を呼んだが、ぎらぎら光る金ではなかった。女王も痛い目にあった。北西航路は投機人にとってもうたくさんとなった。 フロビシャーはすぐさま落ちぶれてしまうが、その後1587年のドレイクの西インド諸島への遠征や翌年のスペイン無敵艦隊との海戦などに参加している。 ▼ドレイクの私掠世界周航から帰還▼ 1560-77年の期間に、100トンから200トンまでのイングランド船の数は72隻から120隻、また200トン以上にあっては6隻から15隻に増加した。しかし、800トンから1000トンといった大型船は採用されなかった。大型船について、ウォルター・ローリー(卿、1552?-1618、探検家、女王の寵臣)は実用的でなく、費用が掛かりすぎ、水深が深すぎるといっている。中規模のガレオンが王室船隊の主力となった。 1573年、ローリーの従弟のリチャード・グレンビル(卿、1542-91)はウィリアム・ホーキンズなどと図り、マゼラン海峡を経由で、東アジアに向かう南方航路の発見を検討している。その計画は北半球にある大きな陸地の釣り合いとして、南半球にも大きな陸地が間違いなく存在するという考えに基づくものであった(テラ・アウストラリス・インコグニタ、未知の南方大陸説)。エリザベス一世は、1574年グレンビルに許可状を出すことを拒み、3年後にそれをドレイクに与える。
ドレイクは、ゴールド・ハインド号をはじめ5隻の船と166人の乗組員を率いて、1577年12月13日に出帆している。彼の船が真冬に出帆していることは、造船技術が改良されたことを示した。ドレイクの真の目的は、アメリカを越えて東方に至る航路を調査すること、南アメリカにおける植民の可能性を調査すること、そしてイギリス人は認めたがらないが私掠を世界規模に拡大することにあった。 大西洋を横断したのち、翌78年夏ゴールド・ハインド号に乗ったドレイクは、16日間でマゼラン海峡を通過する。それは、マゼランの37日間、トーマス・キャベンディッシュ(1555?-92、3人目の世界周航者)の49日間、ジョン・ホーキンズの子リチャード(1560?-1622)の46日間に比べ、短期間での通過記録であった。太平洋に抜けるが、途中暴風雨にあって船を失ったり、さらに帰国船が出るなどして、160トンのゴールデン・ハインド号だけが航海を続ける。 彼の成功は、アメリカ大陸の西側のパナマ沖で金目のものを大量に積んでいた財宝船ムストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプション号、通称カカフェーゴ号(くそたき火号)を拿捕したことにある。彼の報告によれば、その船には「宝石や貴石、銀貨板が詰まったチェスト13箱、80ポンドの金、そして20トンの銀といった巨額の財貨があった」と書かれている。ドレイクは外国人を逮捕しても、すぐに釈放していた。 彼の私掠の根拠は、「スペイン王が太平洋における交易を許可していなかったので、[イングランド人は]両大洋のいずれにおいても掠奪の被害を被っていたに違いないという見方であった。彼はいとこが10年前サン・ファン・デ・ウルアで失ったものを取り戻そうとしていた」のである(ホープ第7章、p.126)。 彼は戻ることが不可能だと決断すると、北東航路の西側の入り口を探そうと航海、現サン・フランシスコ近郊で錨地を見付けている。アメリカ西海岸からインドネシアのモルッカ諸島まで行き、6トンの丁子を積む。インド洋を横断、そして喜望峰を回って、1580年9月26日プリマスに帰帆する。彼は、太平洋とインド洋を横断した最初のイングランド人の指揮者として、エリザベス時代の最も有名な英雄となる。 「ドレイクの驚異」と呼ばれた掠奪物は当時の金で30万ポンド、1988年価格でおそらく1600万ポンドと見積もられる。それは一般大衆を興奮させたが、権力者はその目立った金銭的な成功に興味を持ちながらも、彼が香料諸島のテルナテのスルタンと結んだ口約束に重要性を見出していた。その約束はイングランド人がポルトガル人のスパイス交易の独占を破ってよいとするものであった。 ドレイクの世界周航後、いくつかのアジア遠征が企てられるが略奪航海に終わり、イングランドの本格的なアジア進出は1601年の東インド会社船の初航海まで待たねばならなかった。 ▼ギルバートとローリーのアメリカ植民の失敗▼ アメリカへの植民が公然と呼び掛けられる状況が起きつつあった。ロシア交易がデンマークの台頭で利益が上がらなくなり、またバルト海や北海では海賊がはびこりだした。そして、アメリカの征服や植民について、いままでとは違った考えが出てきた。それは、植民地を原料や食料の供給地としようとするものであった。そして、イングランドのカトリック教徒には、国内の抑圧から逃れる手段として、植民地に関心があった。 ハンフリー・ギルバート(卿、1539?-83)は、エリザベス女王から、1578年「キリスト教徒の王侯や人々に領有されていない、遠方の異教にして野蛮なやからの土地、町々、そして領地を発見し、探索することを認め……最善を尽くすものとする」とした、6年間有効の特許状が与えられる。それに基づき、まずマーティン・フロビシャーの跡を継ぐかたちで、北西航路の探検に7隻の船を率いて出帆する。彼らの船隊は、4か月後、損害を受け、成果もなく、帰帆してきた。しかし、ギルバートは植民地建設の計画を捨てなかった。 1582年11月、ギルバートは特許状に基づく商業特権を行使しようとして、ハンフリー・ギルバート卿主宰冒険商人組合なるものを作るが、ロンドンやブリストルの商人はこの企画に冷淡であった。それでも、彼はいまやデライト号(100トン)の他、スワロー号(40トン)、ゴールデン・ハインド号(40トン)、スクイレル号(10トン)、バークのローリー号(200トン)といった、5隻の船を集めるまでになっていた。 1583年7月、それらの船にかなりの量の商品と乗組員260人を乗せ、出帆している。最初に立ち寄った港は、イングランド人やフランス人、バスク人、ポルトガル人が漁労するニューファンドランドのセント・ジョンズであった。そこで、ギルバートはイングランドの王冠に基づき、ニューファンドランドの領有を正式に宣言する。この領有は、1713年のユトレヒト条約によって、正式に認められる。 その後、彼はスワロー号に病気の船員を満船にして帰国させる一方、残りの船隊を引き連れ、大陸に向かっている。その道筋で嵐に遭い帰帆することとなるが、ギルバートはゴールデン・ハインド号に乗り移らず、ピンネスのスクイレル号に留まり、「われわれは陸の上と同じように、海の上でも天国の近くにいる」といって、嵐のなかに消えていったという。 ウォルター・ローリーはギルバートの異父弟で、1583年の彼の遠征に金銭面で関わりがあった。ギルバートの失敗後、新たなアメリカ植民計画の発起人なっている。彼はエリザベス宮廷の主立った寵臣になっていた。彼の委託により、リチャード・ハクルート(1522?-1616)がまとめた「西方植民論」は人々に大きな影響を与え、1584年女王はローリーに特許状を授けている。それはギルバートに与えられたものとほとんど同じものであった。 1584年は、オランダ独立運動の指導者オラニア公オレンジが暗殺された年であるが、イングランドとスペインとの古くからの友好関係も明らかに終わりを告げた年でもあった。イングランドの関心はいままでになく北アメリカへ向う。ローリーはバークを2隻送り出す。この新しい遠征は、より南方のコースを取って、北大西洋を横断し、プエルト・リコに上陸したにとどまる。 このウォルター・ローリーに代わって、従弟のリチャード・グレンビルが最初の恒久的なアメリカ植民地の設営に取り掛かる。すでに、ローリーは女王から、彼が新たに発見したアメリカの領土を「バージニア」と名づけて良いといわれていた。女王は持ち船のタイガー号(160トン)を提供し、またロンドン搭から400ポンドに相当の弾薬を持ち出すことを認めていた。 フランシス・ウォルシンガム卿は有力な投資家の一人であり、またローリー自身も少なくともロエバック号(140トン)に投資していた。その他、ライオン号(100トン)、エリザベス号(50トン)、ドロシー号(50トン)、ピンネス2隻といった7隻の船隊が、1585年4月に出帆する。この船隊は全体で600人を乗せていたが、そのうち300-400人が植民であった。 彼らは、直ちに植民地を建設するのではなく、まず植民航海の採算をとろうとしてか、2隻一組のスペイン船を捕獲したり、スペイン人と交渉して塩を積んだり、その他の交易をしたりしている。彼らは植民地を、アメリカ・ノース・カロライナ州のハタラス岬から北40マイル、ジブラルタル海峡と同じ緯度の北緯36度40分のロアノーク島に建設することを決める。 グレンビルはバミューダ諸島沖で、300-400トンのサンタ・マリア号と金、銀、真珠、砂糖、ショウガ、生皮、コチニール、そして象牙といった高価な積み荷を捕獲している。彼は、同年10月捕獲品を持って帰国し、遠征全体に支出された費用以上の利益を上げている。 このロアノークの植民は失敗に終わり、1586年7月19日、1585年のドレイクの西インド諸島遠征に参加していたマーティン・フロビシャーが生き残りの植民をロアノークから連れ帰っている。それと入れ違いに、グレンビルの新しい遠征隊が、もぬけの殻のロアノークに到着する。彼はわずかな植民を残すにとどまる。 ローリーは、女王と約束したバージニア植民地の建設に執念を燃やし、1587年新しい植民団を送り込むことにした。それは男100人、女17人で構成されていた。彼らは、ロアノーク島よりかなり北側に、現バージニア州のチェサピーク湾に植民地を建設する。これが、イングランドのアメリカ植民地のはじまりとされるが、これも失敗に終わる。 ▼イングランド、スペインのアルマダ艦隊を破る▼ 16世紀後半、資本家は手っ取り早く利益を上げるには私掠しかないと考えるようになっており、1584年プリマスでは掠奪品の額は外国交易より多額であったという。また、ドレイクは倦むことを知らず、1585年西インド諸島に遠征している。その道すがらビゴを掠奪し、その後サント・ドミンゴとカルタヘナに押し入っている。ドレイクがサント・ドミンゴ沖に現れたことは、エリザベスのスペインに対する開戦布告であった。 この遠征は、当初、マルク諸島への遠征として企画されていたが、それがリスク大きいとして、カリブ海向けとなった。その出資額は、当初の契約書では、女王が1万ポンドと2隻の船、ドレイク7000ポンド、レスター卿3000ポンド、ウィリアム・ホーキンズ2500ポンド、ジョン・ホーキンズ1000ポンド、ローリー卿400ポンドとなっていた。 このとき、ドレイクは25隻を集めたが、そのなかには王室船エリザベス・ボナベンチュア号(600トン)とエイド号(250トン)が含まれていた。それ以外は私有船であり、大きな船はガレオンのレスター号(400トン)であった。その船は、1582年にドレイクに引き続いて世界一周しようとした、ジョン・ホーキンズの義弟エドワード・フェントンの旗船であった。総兵力はフランス人やポルトガル人を含む2300人であった。その何人かは強制徴発された船員であった。 1587年メアリー・ステュアートが処刑されると、フェリペ2世は老いてやけになってイングランドの船隊を攻撃することを決定、ケントを襲うつもりになる。それに対して、ドレイクは4月2日先手を打って、23隻を指揮して出帆する。そのなかには、女王が所有する4隻のガレオンと2隻のピンネスが含まれ、また冒険資金は共同出資の方式で調達されていた。 カディスの港で破壊されたスペイン船は、ドレイクによれば37隻、スペイン人によれば24隻であった。彼は、早くもアルマダ艦隊(イギリス人は無敵艦隊という)に被害を与え、その後アゾレス諸島沖で、大型カラックのサン・フェリペ号を拿捕している。その船はインド洋から帰途中で、11.4万ポンドの豪華な貨物を積んでいた。それはドレイクが遠征に掛けた費用の2倍以上の額であった。 その航海におけるドレイクの捕獲金額は14万ポンド(1988年価格で1100万ポンド)に及んだ。そのうち、女王に4万ポンド、ロンドンの商人に4万ポンド、ドレイクに1.7万ポンドが配分され、その残りがその他の冒険投資家に分けられた。それぞれの額から費用を差し引いたとしても、それぞれの利益は余りあるものがあった。エリザベス1世時代、私掠は経済的に十分成り立つ事業になっていた。 イングランド国内では、ドレイクが1587年に出帆する前から、スペインが攻撃してくるものと予想していた。同年10月9日、イングランドの港に入っている船の出帆を禁止する命令が発せられている。1572年以後、10年間におけるイングランドの商船保有トン数は50000トンから67000トンに増加していた。それらの船がアルマダと戦闘することになる。なお、ポルトガルとスペインの商船隊は総計25万トンといわれ、イングランドの4倍に相当した。 エリザベス1世の治世、29隻の軍艦が新造された。それは、ピーター・ピットやマッソー・ベイカーといった先進造船業者が建造したものであった。アルマダ艦隊を率いたメディナ・シドニア公(1550-1635)の部下の士官は、イングランドのガレオンの帆走や武装の性能に驚愕したとされる。
フェリペは自分の艦隊の半分を失ったが、イングランドは1隻も失わず、何隻かに小さな損傷があっただけであった。また、この戦争に、エリザベス女王は16万ポンドを支出し、バーリー伯が集めた30万ポンドが詰まった戦時金庫は空になったが、スペインのフェリペにかかった費用は約300万ポンドであった。スペインの戦力は致命傷を被ることとなった。 スペインのアルマダ艦隊が敗れたことは、トレヴェリアン氏によれば、「全世界に、海洋の支配が地中海住民から北欧民族の手に移ったことを明らかにした。これは北欧における宗教改革が十分に決定的とはいえないまでも、大きく存続しつづけることを意味しただけでなく、新しい大洋時代における北欧民族の世界指導権をも意味するものであった」と述べる(トレヴェリアン2巻、p.88)。 それによって直ちに利益をえたのはイングランドではなく、イングランドが支援してきたプロテスタントのオランダであった。彼らは17世紀を「黄金の世紀」とする。 |