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3・1・4 イギリス、後発の利益を享受して覇権

3・1・4・4 オランダを追撃して、海上覇権を目指す
3.1.4.4 Pursuing Netherlands, aiming for Maritime Supremacy

▼冒険・私掠の大立て者、相次いで死亡▼
 イングランドの輸出は16世紀末にかけて若干、回復したが、それは商業そのものでなく商業の掠奪によるものであった。1580年代は私掠活動のブームとなった。アルマダ艦隊の来襲後の3年間、少なくとも236隻ものイングランド船が私掠活動を行っていたし、商船のほとんどがそれに転換していた。少なくとも299隻を40万ポンドの商品とともに、捕獲している。年間の捕獲額は10万ポンドを超えており、アルマダ海戦前のイベリアとの交易額とほぼ等しかった。
 「私掠による収入は、イングランドの全輸入額の約10-15パーセントであった。私掠遠征が、いつも財宝を積んだポルトガルのカラックを捕獲できたわけではなく、1589年から1591年にかけての271回の遠征を分析すると、平均利益は投資された固定資本の60パーセントをまかなう程度であった……他方、戦争は船舶、特許交易、そして船員の命を犠牲にし、多くの経済的な成果を霧散させた。社会的費用は個々の企業家の勘定のなかには、ほとんど入っていなかった」(ホープ第9章、p.150)。
 1589年すなわちアルマダ艦隊を破った翌年、イングランドはイギリス海峡を通過するすべての船舶に、海軍卿発行の通行証を提示しなければ停船させることとした。それにより、バルト海からイベリア半島に向かうハンザ同盟の船を、約60隻拿捕している。また、次の2年間に、少なくとも10万ポンド相当の砂糖を、イングランドの私掠船が掠奪したおかげでロンドンの砂糖の値段が下がり、新しい食習慣が生み出されたという。
 このように、アルマダ艦隊の敗北によって、私掠活動はさらなる拡大をみせるが、いつも利益が上がるわけではなかった。ドレイクといえども、私掠航海に失敗しようものなら、女王から「神などいはしない。この馬鹿は兵士として出発し、牧師になって帰ってきた」と、悪口をいわれる始末であった。
 1591年、グレンビルは約15隻の船隊を率い、スペインの財宝船を途中で奪うため、アゾレス諸島沖に向かう。53隻のスペイン船が自分たちの財宝船を護衛しながら近づいてきた。イングランドの船隊は退却する。グレンビルは逃げ遅れて船団から離れてしまうが、それに臆することなく、スペイン船の戦列に突入したという。15隻のガレオンと5000人の兵力と、15時間にわたる接舷戦の後、190人乗り組みのリベンジ号が捕獲される。数日後、縛られたグレンビルはスペインの旗船のなかで、命を落す。このリベンジ号は、スペインとの全戦間期に失われた、唯一の王室船となった。
 ローリーは、1591年私掠を再びはじめ、600トン、300トンといった大型船を含む25隻の大船団をプロモートする。翌92年8月、ポルトガル籍の財宝船マドレ・デ・ディオス(神の母)号を捕獲する。その積荷の額は、貴金属、胡椒、砂糖など、実額20万ポンド、公称14万ポンドという巨額だった。1隻の船からの掠奪額として、史上最高額であったとされる。
 ローリーが受け取った額は公称31,380ポンドであり、そのうち14,740ポンドが投資家に分配された。ただ費用は2500ポンド弱であった。その結果について、ローリーは「わずかな見返りだ。彼らに魚と取らせても、それ以上稼げたはずだ」と嘆いたという。
 それには理由があった。ローリーがエリザベス女王の侍女と秘密裏に結婚していたことが発覚する。侍女との結婚は女王への裏切りであったので、彼はロンドン搭に幽閉されていた。そこで、私掠航海でえた分け前の利益の一部を差し出すことで、、女王に勘気を解いてもらったからであった。
 ローリーの凋落に加え、1595年ホーキンズやドレイクといった、スペインのアルマダ艦隊との海戦を勝利に導くとともに、冒険・私掠を数代にわたって一族の家業とし、また狭い人脈のなかでシンジケートを組んできた大立て者たちが、相次いで死亡する。彼らは「海の英雄」として闘ってきたが、その死に方は大方の船員たちと同じように、船内での病死であった。宜なるかなである。なお、ローリーは長生きするが、新王の即位を阻止したという冤罪で、1618年死刑となっている。
 1588年、キャベンディッシュはドレイクに続く、3人目の世界周航を達成している。また、1593年リチャード・ホーキンズが世界周航に向かうが、ペルー沖でスペイン艦隊に戦って捕虜となっている。このホーキンズの世界周航計画について、ロナルド・ホープ著『新イギリス海運史』第9章が、かなり詳細に紹介している。
▼地中海交易の再開、石炭の国内外交易▼
 イングランドとスペインとの戦争が終わると、そのあいだの交易も再開され、地中海との交易も回復する。それらの交易にイングランドの西海岸の商人も参入してくる。それにともない、それら交易は特許会社だけに任せておくべきだという、ロンドン業界の従来からの主張は激しい反対にさらされ、1604年スペインやフランスとの交易はすべてのイングランド人に開放されると宣言される。
 三十年戦争(1618-48)が起きる。イングランド人の関心はフランスとの宗教戦争によって、1620年代前半に失った損害(300隻、そのうち100トン以上の船100隻)を、1620年代後半に回復することにあった。しかし、一度失った損害は、再び敵から掠奪することで帳消しできるものではなくなっていた。平時におけるフランスとの交易が重要になっていたからである。
 イングランドの地中海交易は、レヴァント会社の手で行われていた。そのうち、イタリアやギシリアとの交易は、独自の判断から、ヴェネツィアの統制下に入ることで行われてきた。また、小アジアやシリアとの交易も盛んに行っていた。17世紀半ば以降、自由港のレグホーン(リヴォルノ)を経由して、イタリア半島に毛織物を輸出するようになる。
 レヴァント会社は、1600年29隻の船を地中海交易に使用していたが、そのうち17隻が用船であり、残りの12隻は自社船で100トンから350トンまでの大きさであった。イングランド船は、武装が良かったので地中海で好まれ、地中海の港々を「渡り歩いて」、1年も、2年も過ごすのが常であった。それは現在、第三国間交易と呼ばれる交易である。
 レヴァント会社は、レグホーンやジェノヴァに加え、マルセーユ、ザンテ、セファーニア(イオニア諸島の現ケファリニーア島)、クレタ、コンスタンチノープル、アレクサンドレッタ(アレッポの外港である現イスケンデルンあるいはスカンデルーン)、スミルナ、キプロス、トリポリ、アレクサンドリア、そしてアルジェと寄港していた。彼らは、イングランド産の毛織物、鉛、スズ、そして生皮を、トルコやペルシア産の無地の絹布、綿布、モヘア、干しブドウ、そしてかしわもつしょくし(没食子)と交換していた。
 1605年、ジェームズ1世はレヴァント会社に特許状を更新して、その期限を永代とした。この会社は多数の熟練船員を生み出し、大型船を育てたといわれている。1615年のイングランドの枢密院令は、後の航海条例を予期させる。それは、イングランド船または地中海の当該港の船によって輸送しなければ、地中海からの輸入は禁止するというものであった。当時、地中海の国の船はほとんどイギリス海峡に入ってこなくなっていた。
 ニューカッスル・アポン・タインは、北西ヨーロッパとの交易に当たって好位置を占めていた。後背地から産出される海送炭のほとんどは南に向かい、その約半分がロンドンに送られた。ニューカッスルの石炭の年間船積量は、16世紀後半、4倍も増加して14万トン、そして1634年には40万トン以上となった。その全数の5分の4がイングランドの海岸一帯に輸送され、その残りは外国船によって大陸に向かった。
 石炭輸出には重税が課せられており、それは低コストの外国船でなければ運べないほどの高さであった。ハンザ同盟の船が石炭をフランドルに運び、またフランス人が50隻の船団を組んで来訪し、石炭をフランスに持ち帰っていた。1615年、400隻以上のイングランド船が石炭交易に従事しており、1606年1隻がロンドンに移入した石炭は平均73トンであったが、1638年になると2倍に増え139トンとなった。
 16世紀後半から17世紀中ばにかけ、イングランドでは石炭が工業燃料として普及しはじめる。17世紀初めには、石炭は煉瓦、塩、ガラス、鋼
ニューカッスル・アポン・タイン
キールボート
炭鉱から港まで、石炭を降ろす川船
日本遠賀川では、川ひらたといった
鉄、石鹸、砂糖、ビール、火薬なとの製造工場の一般的な燃料となる。この燃料転換によって工場製品の量産化が可能となる。それは早期産業革命と呼ばれることとなる。
 イングランドの膨張は石炭ばかりでなく漁業の発達にも負うており、船舶や船員の大規模な使用者となっていた。1614年、イングランドの東海岸の港だけで、100隻の船がアイスランドの漁業に従事していた。それより小型の船が北海では大量に使われていた。デボンやコーンウォル、ドーセットから、ニューファンドランドの浅瀬のタラ漁業に200隻以上の船が加わっていた。
▼オランダ、フライトの開発と全方位的な進出▼
 エリザベス女王の後継者であるジェームズ1世は、商人や船員の後ろ盾になる気がなく、海軍をまったく無視した国王であった。その跡をチャールズ1世(在位1625-49)を継ぐが、これら国王の時代、オランダが全盛を極めることとなる。15世紀以降、オランダ人は何はともあれ、一貨をバラ積みする船、フライトを開発していた。それは大量の貨物を輸送するように作られ、遠方の海域でも活動できたし、漁業にも使える船であった。
 16世紀になると、バスは200トン以上の魚を積んで帰港することができた。漁期が終れば貨物船として使われた。16世紀末には、フライトが登場する。このフライトは、イングランドの造船業に計り知れない影響を与えた。タラ用バスの長さとビーム幅の比率は4:1であったが、1610年のフライトの比率は6:1となり、貨物を最大限、積みうるような設計となった。初期のフライトは約150トンぐらいであったが、そのトン数は急速に200トンと大きくなり、400トン以上も建造されるようになった。
 17世紀、オランダはハンザ同盟からバルト海の覇権を奪ったことで、イングランドとの競争に心配する必要がなくなった。オランダ船は、低い利息の資金を借りて、低船価で建造した船を使って、イングランド船の3分の1の費用で運航した。オランダは1600年には1000隻以上の商船とその約3倍の漁船を保有していた。17世紀半ばまで、イングランド人はバルク貨物をオランダ船に積んで、輸入していた。
 オランダの海上交易は、バルト海の穀物と木材、そして北海の漁業によって支えられ、イングランドより優位に立っていた。1550-1650年、オランダ人がスカゲラク海峡を通過する貨物量の約3分の2を扱うようになり、1200隻のオランダ船が毎年バルト海で活動するようになった。他方、バルト海に入るイングランド船は、16世紀後半2倍になったが、1604-1624年には年平均わずか100隻程度になってしまう。
 オランダ人は独立戦争をはじめると、直ちに西インド諸島において私掠活動を展開する。さらに、1595年頃から毎年100隻もの船が現ベネズエラのアラヤ島に押し入り、塩を持ち出すようになる。また、16世紀末、オランダの密輸業者がブラジル沖に現れはじめ、オランダの奴隷船は1606年トリニダッド沖に現れる。
 ホープ氏によれば、「イングランドとオランダとの関係はいまや変貌し、特に海洋については嫉妬、憤慨、そして敵対の関係となった。イングランドの海外に対する経済的な関心が深まるにつれ、国民としての誇りが強まっていった。オランダとの最初の戦争の主な原因となった、イングランド人の国旗に対する敬愛心は、強烈なナショナリズムの現れであった」(ホープ第10章、p.171)。
▼オランダに対抗して、東インド会社の設立▼
 アルマダとの海戦後の10年間は沸き上がる10年間ではなかった。しかし、私掠は多くの男たちを海に引き入れた。エリザベス時代の政治家は、船と船員を、商業上の富と力の鍵とみなしていた。
 スペインとの長期の戦争のあいだに、イングランドが拿捕した船は1000隻を十分に越え、それによって自分たちの船隊を強化していた。それは、1隻を50トンとすると50,000トン、乗組員15人とすると15,000人という大きさである。1582-1629年間、イングランドの保有商船船腹は70パーセント以上も増えて115,000トンになり、200トン以上の隻数もわずか18隻から145隻以上に増加した。
 イングランドは、イベリアに向かうハンザ船を定期的に拘留していた。それに対して、ドイツは国内からイングランド交易人を追放する。その報復として、1597年、イングランドはハンザ同盟の拠点であったロンドンのスティルヤードを閉鎖する。しかし、1579年に設立されたイーストランド会社のメンバーはバルト海の交易を続けており、ダンツィヒやポーランドのエルブロング、ロシアのケーニビスベルグの商人たちと、船用品を補給するため、染料や毛織物と交換していた。ポーランド穀物の西ヨーロッパへの輸出は、ほとんどがデンマーク船に積まれ、その地域を豊かにしていた。
 イングランドの交易はますますイングランド人の手で行われるようになった。一方におけるイングランドとオランダの上昇、他方におけるスペインとポルトガルの相対的な衰退が起きる。後者の衰退は、いずれも地中海における造船用木材の顕著な不足に基づいていた。イングランドとデンマークとは、造船用の木材や資材を経済的に確保できる、ヨーロッパの北西海域にあるという格好の位置を占めていた。
 1594年、オランダのアムステルダムで遠方会社が設立され、コルネリス・ド・ハウトマン(1560-99)らに指揮された3隻のガレオンがアジアに向かう。1596年6月ジャワの港町バンタン(現在のバンテン)に到着し、1597年8月に3隻89人が帰国する。香辛料の取引は順調ではなかったが、アジアへの航路開拓に成功する。
 これに刺激されて、1598年から次々とフォール・コンパニーエン(先駆諸会社)と呼ばれた会社が設立される。1601年までに15船団65隻がアジアに向かっている。イングランドはわずか1回であった。オランダ人は、ポルトガルのアジア進出拠点を次々と破壊して、ポルトガル人のスパイス独占が崩壊させる。1600年に、後述のロンドン東インド会社が設立されたことはオランダにとって脅威となり、1602年先駆諸会社が合併して、オランダ連合東インド会社が設立される。
 オランダが東インドに進出したことは、アジアの香辛料を地中海経由で扱ってきたレヴァント会社にとって、大きな脅威であった。イングランドは、オランダの東インド進出を重視して、1598年ジョン・デーヴィス(1550?-1605)をオランダの先駆会社に出向させる。
 彼は、オランダの2回目の東インドへの航海における主席水先案内人として雇われ、1600年6月にイングランドに戻って来る。彼は、1585-87年3回にわたりデーヴィス海峡を探検していた著名な航海者であり、また1591年の失敗に終わったキャベンディッシュの東インド遠征にも参加していた。
 このデーヴィスは、次に述べるランカスターが指揮する東インド会社の遠征の水先案内人となり、1605年シンガポール海峡にある現インドネシアのビンタン島で倭寇に襲われて、死亡したとされる。また、彼は1594年には『ザ・シーマンズ・シークレット』(船乗りの奥義)を刊行している。この実務書において、イングランド人は他の国民により科学的な知識に劣っていると嘆いている。この本は1594年から1647年にかけて8回も改定されている。
 1599年9月、1000人以上のロンドンの商人が3万ポンドを用意し、「今年中に東インド諸島とその他の島や国に向かい、当地で交易する航海を仕立てる」ことにした。1599年12月31日、エリザベス女王から「手付かずのすべての土地」に関する勅許状が下付される。
 この会社は当初の公表以上の資本金でもって出発した。72,000ポンドについて1株50ポンドとして、シェアの予約を取ることとなった。最初の航海事業では、215人の出資者から68,373ポンドの事業資金が集まった。彼ら株主あるいは出資者、そして役員は、レヴァント会社のそれらとかなり重複しており、また初代総裁トーマス・スミス (卿、1558-1625)はレヴァント会社の総裁でもあった。
 ここにロンドン東インド会社が誕生し、イングランド人の世界レベルでの際限のない交易への参入の号砲であった。ただ、それは、その前途が見通せなくなっているレヴァント交易を、新規会社でもって代替しようとしたものであった。なお、レヴァント会社が解散するのは東インド会社より早いものの、1825年になってからであった。
トーマス・スミス
1617、National Portrait Gallery(London)蔵
ジェームズ・ランカスター
1596
国立海事博物館(ロンドン)蔵
▼ランカスター、東インド航海に出発▼
 ロンドン東インド会社の最初の航海の指揮は、ジェームズ・ランカスター(卿、1554?-1618)に委ねられた。彼は、若い頃からポルトガル交易に従事し、またアルマダ艦隊との戦いに参加している。さらに、東インド遠征を敢行していた。
 ジェームズ・ランカスターはオランダ人より早く、1591年3隻の船を率いて東インドを目指す。その船隊は、アフリカ南端を回り、インド最南端のコモリン岬を経て、インドネシアのスマトラ島、そしてマラッカに至ったとされるが、帰途、遭難する。生き残った人々は、西インド諸島からフランス船に乗って、1594年5月帰国する。それでも、彼は有用な知識を貯えたとされる。
 ロンドン東インド会社の最初の東インドへの航海が開始される。ジェームズ・ランカスターはレッド・ドラゴン号、ヘクター号、アッセション号、そしてスザン号という意気軒昂な4隻と食料補給船ギフト号(130トン)、そして乗組員や商人ら500人を引き連れ、1601年2月13日、ウルウイッチから出帆する。
 船団長ジェームズ・ランカスターはドラゴン号に乗船、デーヴィスが主席水先案内人となる。ドラゴン号はカンバーランド伯から3700ポンドで買い取られた船で、それまでマリス・スカージ号といった。その船は600トン、乗組員202人の第1級の軍艦であった。ジョン・ミドルトンは副船団長として、ヘクター号(300トン)に108人とともに乗船した。ウィリアム・ブランドが指揮するアッセション号は260トンで、乗組員82人であった。スザン号(240トン)はジョン・ヘイワードが指揮し、その乗組員は88人であった。これら3隻はいずれも生え抜きのレヴァント交易船であった。
 「それらの船は人員のほか、20か月分の食料と武器、弾薬であふれかえり、また7000ポンド相当の商品や20,000ポンド相当のスペイン硬貨が積み込まれた。その他船倉の余りも、海兵に融資した金や航海前に支給された給料でもって買い付けられた貨物、会社関係者の貨物、そして必需品などで埋め尽くされていた」。鉄製品、スズ、鉛、幅広服地、デボンシャ産カージー織、そして金が、大口輸送貨物であった。
 ランカスターの説明によれば、東インド内において自由に交易するとともに、最も採算が良いところで往航の貨物をペッパーやスパイスと交換してよいという許可を取っていた。かれは、少量の麝香、竜涎香、ワックス、樟脳、阿片、絹、そして貴石を買うよう心掛けている。
 7か月かかって、南アフリカ・ケープ・タウンのテーブル湾にたどり着いた。通常より長い時間かかったのは、赤道の北側の無風帯で、多くの時間を費やしたせいであった。小型船では100人以上の男たちが壊血病で死んでいたが、ランカスターのドラゴン号は無事であった。かれは一人一人に毎朝3匙分のレモン・ジュースを与えるとともに、正午になるまでは乗組員に硬い食事を出すことを禁じていた。レモン・ジュースはハフ・プラット(卿、1552?-1611)が用意したものであった。
 船団は、病人を陸上で治療するため、テーブル湾に錨泊している。再帆する前、1000匹の羊と42匹の雄牛を住民からえて、食料として積み込んでいる。長さ8インチの鉄棒1本と羊1匹、鉄棒2本と雄牛1匹を交換している。インド洋のいくつかの島で水を補給しているが、その1つの島で13人が汚れた水を飲んで死んでいる。彼らが、北スマトラのアチン(現バンダ・アチュ)に着いたとき、ロンドン出てからすでに1年が経っていた。
 アチンの王に、ランカスターはエリザベス女王からの親書と贈り物を差し出し、随時入域、関税なしの交易、救難、裁判権、不逮捕特権、そして信仰の自由を認める協定に署名をもらっている。商人たちはペッパーを買おうと試みたが、そこにあるはずがなかった。
 ランカスターはマラッカ海峡を巡航し、900トンのポルトガルのカラックを拿捕している。その船はインドのベンガル地方からマラッカに向かう600人の旅客と金目の貨物を載せいていた。イングランド人は、キャラコやピンタード(彩色布、バティック)が入った箱950箱を自分たちの船に移し替えた後、カラックを釈放し、航海を続け、アチンに戻っている。ペッパーをわずかしか積んでいなかった船もキャラコを積んで満船となり、帰国している。他の1隻は、他のスマトラ島でえたペッパーとグローブだけで満船となり、これまた帰帆している。
 レッド・ドラゴン号とヘクター号はカラックの残り貨物を積んで、ジャワ島のバンタンに向け、東走している。そこは、オランダ人が1596年にポルトガル人を追い出したところであった。ランカスターはバンタンの住民やオランダ人に温かく迎えられ、バンタンの支配者からイングランド人は当地で誰にも邪魔されずに交易できると告げられている。中国の商人は、マレーシアやインドネシアの各地と同じように、すでにバンタンでも基礎を固めていた。
 5週間もすると、ロンドンから持って来た商品を276袋のペッパーと交換し、他の2隻も満船となっている。また、ランカスターは、バンタンに交易基地を設立するため、3人の商人と男たち8人を残している。また、ピンネスに数人の商人と男たちを乗せ、マラッカで商館を作ろうと送り出している。彼の2隻の船は、1603年2月21日バンタンを出帆し、何と9月11日にテムズ川に帰着している。
 ランカスターらの4隻の船は1隻を欠くことなく帰帆して、100万ポンド以上に相当するペッパーを持ち帰り、それらに投資した商人に95パーセントの利益をもたらした。この奇跡的な成功によって、イングランドにとって東インド交易が利益の見込まれる交易とみなされることとなった。ランカスターは叙任され、ロンドン東インド会社の理事になった後、退職している(この項、ホープ第10章による)。
▼東インド会社、自社船から用船に切り替える▼
 ロンドン東インド会社は、それが活動する場所がイングランドから離れ、またインド洋ではヨーロッパから来ている外国船との、武装衝突が起きる危険性が十分あるといった理由から、いままでにない独自の機構を整えていた。
 東インド会社は、王立海軍を必要とする場合は別として、「500人の海兵が乗り組む6隻の良船と6隻のピンネス」という海上戦力でもって、自社の船舶を護衛することが認められていた。また、この会社が輸入した商品は自らが唯一の売り手となり、個人の交易を禁止する規則を持っていた。しかし、その規則は1635年まで施行されなかった。この会社に投資する場合、商人は相当量の金額を支出する必要があった。
 1601年から1612年にかけての航海の利益は155パーセントであったが、その後の30年間にその3分の1以下までに落ち込み、1617-32年は特に12パーセントと低かった。組織改編後、1671年から1681年にかけて支払われた配当金は利回りで合計240パーセントになり、1691年までの10年間で配当利回りは合計450パーセントとなったという。
 初期の東インド会社が使用した船は、すでにみたようにほとんどがレヴァント会社の商人から買い取った船であった。それらは大型で武装が良かった。最初のシンジケートでは、船舶とその備品は45,000ポンド、そして往航貨物は27,000ポンドであった。その支出総額は、1553年に北西航路探検の投資額の約6倍であり、1988年価格で約600万ポンドと見積もられる投資額であった。
 1607年、ロンドン東インド会社はロンドン東部のデプトフォードやブラックワルの造船所で、自社船を建造、修理しはじめる。その大型の第1船はザ・トレイド・インクリーズ号、約1000トンであった。当初から、操船が難しかったことが解かっており、処女航海の途上、ジャワ島で難破している。船は敵の攻撃をかわせるだけの大きさがなければならないが、イングランド人による交易の規模は大型の船を満船できるほどには大きくなっていなかった。
 1615年、使用する船は最低300トンから大きくて600、700トンくらいの船が最適とされ、主力船は300トンから350トンに設定された。この会社の船は、当時のイングランド船として最良の部類に属しており、1601年から40年までに168隻77,175トンが東方に向かったが、1640年までに帰国したのは104隻54,314トンであった。
 他の史料では、出発した船の60パーセントが戻ったが、それは大型船がほとんどであった。帰国しなかった船がすべて事故に遭ったわけではない。何隻かは東方に残って航海しており、また何隻かは現地と他の領土の交易に従事していた。このアジア地域間交易は交易品を集荷し、かつ利益の大きな分野ではあったが、ロンドン東インド会社は後述のように東南アジアや東アジアに交易拠点を建設できなかったため、1661年にはやばやと撤退してしまい、その後は私交易に委ねられる。
 1629年になると、ロンドン東インド会社は自社船から用船に切り替え、1654年にはブラックワルの造船所を売り払い、デプトフォードの造船所の一部を倉庫や修理ドックとして維持するようになる。その結果、東インド会社の主な株主は会社御用船を共同で建造し、共同で所有する船主になり、それを会社に用船に出すようになった。
 東インド会社の社屋はおおむねロンドン・シティのビショップ・ゲイト―リーデンホール・ストリートの区域にあった。その区域は、長年にわたってイギリス海運の根拠地であった。
ロンドン東インド会社
旧館、1648-1726
新館、1800-
国立海事博物館(ロンドン)蔵
 18世紀を通じて、東インド会社は必要な船腹を、自らの監督の下で建造された船を終身用船することで確保した。用船契約は船ごとに予定された船長と船主を相手方として結ばれ、その船の耐用年数に応じた一定の航海回数に対する運賃を取り決めた。その年間の航海回数は1773年4回、1790年6回、1803年8回と定めている。
 東インド会社との用船契約は自由公開の競争入札で結ばれることになっていたが、実際には就航している船の船主が新しい代船を用意して差し出し、それを用船してもらうことが慣行となった。それにより、東インド会社に船舶を継続して提供することが1つの権利となり、マリン・インタレスト(海運族)という特権船主グループが生まれた。そのため運賃は高率となった。1783年の往復運賃は1トン当たり33ポンドであったが、1785年には26-9ポンドに低下した。この継承用船制は、1796年に35万ポンド補償金を払って、廃止される。
▼東インド会社、オランダに敗れて、インドに拠点▼
 オランダ東インド会社は、1605年になってマルク(モルッカ)諸島のアンボン島(アンボイナ島)からポルトガル人を一掃して要塞を築く。しかし、そこはアジア交易拠点になりえかった。オランダ東インド会社は、1619年ジャワ島のバタヴィアに恒久的な交易拠点を建設することに成功、それによってインドネシア島嶼の香辛料の交易を独り占めしようとする。
 それに、ロンドン東インド会社が参入しようとするが、オランダから猛烈な抵抗に出会う。1623年、ジャワ島のバンタンとその周辺にあった交易拠点から、1週間もたたないうちに、イングランド人は追い出される。そして、同じ年、イングランドのもぐり商人がマルク諸島の現アンボンのアンボイナで、オランダ人によって大虐殺される。このアンボイナ事件に母国のスチュワート朝政府は手をこまねいているばかりであった。1623年には、ロンドン東インド会社は長崎から、撤退する。
 こうして、ロンドン東インド会社は東南アジア、さらに東アジアから撤退するが、将来においても最も重要な地域となったのはインドとイランであった。
 ロンドン東インド会社は、1-2次の航海は東南アジアに向かい、胡椒など香辛料を持ち帰ったが、それが大量であったため売れ行き不振となった。そこで、1607年の3次航海はボンベイ近郊のスーラトに向けられた。しかし、ムガール皇帝から交易特権はえられなかったが、1611年、トーマス・ベスト船長が、また1614-15年ニコラス・ダウントン船長がポルトガル艦隊を打ち破ることで、スーラトにおける交易が可能となった。
 1612年スーラトに商館が設置されたことになっている。その後、インド大陸西海岸沿いの港や内陸にもに、東インド会社の商館が次々と建設される。また、インデイアン・マリンと呼ばれた軍艦10隻の船隊がスーラトを基地として配置され、アラビア海をポルトガルのカルタス・システムに代わってパスポート・システムでもってを引き受けたという。
 他方、インド大陸東海岸では、オランダのように暴力に頼ることもせず、西海岸よりも早く円滑に進出した。ロンドン東インド会社はゴールコンダ王国の許可をえて、1611年マスリパトナム(現マチリパトナム)に、インドで最初の商館を設置する。そして、1639年には現地領主の招きを受けて、マドラスに商館や要塞の建設が認められ、さらに関税の免除と他者の関税の半額の付与という破格の特権をうる。この厚遇によって、マドラスは最大拠点となる。それらの拠点はいずれも綿布の集散地であったが、ゴールコンダ王国には当時世界唯一のダイアモンド鉱山があった。
ボンベイの眺望
ヤン・ファン・レイン画、1754
 大英図書館委員会蔵
マドラス、セントジョージ要塞
ヤン・ファン・レイン(1712-60)画
国立海事物館(ロンドン)蔵
 マドラスやスーラト、さらにかなり遅れて、1699年の商館が建設されたベンガル(カルカッタ)の商館長はプレジデント、その与えられた管区はプレジデンシーと呼ばれ、それを管轄した。なお、スーラトはマラータ連合(反ムガール諸侯連合)に攻撃されたため、1687年ポルトガルから1661年に委譲されていた、ボンベイ(現ムンバイ)に管区の地位を譲る。
 イランでは、ロンドン東インド会社はサファヴィー朝のシャー・アッバース1世(在位1578-1629)に協力して、1622年までポルトガルの活動拠点であったホルムズ島を攻略する。そして、アッバース1世が建設した、ホルムズ島の対岸にある、バンダレ・アッバースを拠点とし、ペルシア湾内の交易と関税免除の特権をえる。しかし、それによって利益をえたのはイングランドではなく、翌年に湾内の交易を認められたオランダであったとされる。それにより、少なくとも10世紀から17世紀までホルムズ王国のもとで繁栄を極めたホルムズが、海港都市として再興することはなくなった。
 16世紀最後の10年、銀がメキシコ太平洋岸のアカプルコから太平洋を横断して、現フィリピンのマニラに持ち込まれるようになっていたが、アジアでは銀はヨーロッパ以上に際限なく不足していた。アジア人はヨーロッパ産品をほとんど買おうとはしなかったが、金銀塊だけは欲しがった。東インド会社は、最初の33年間、753,336ポンドの金銀塊を輸出したが、物品はわずか351,236ポンドであった。東方と西方のバランスを取れるような売買を確立することができなかった。
▼アメリカ植民地に、年季奉公人や奴隷を投入▼
 イングランドは、大航海時代ばかりでなく、植民(地)国としても最後の登場者であった。すでにみたように、イングランド人は植民に失敗してきた。1606年、王立バージニア会社が設立される。その会社は対立しあう都市の商人たちが参加する組織であった。ロンドンの商人の組織は南バージニア、プリマスやブリストル、エセクターの商人の組織は北バージニアに植民することとなった。
 ロンドン商人の組織は、クリストファ・ニューポート(1565?-1617)を団長とする船団に投資して、1607年北アメリカ大陸で最初の確固としたイングランド人の入植地となった、ジェームズタウンを建設する。この建設後、アメリカへの植民が本格化する。
 ニューポートの船団は、スーザン・コンスタント号(120トン)、ゴッドスピード号(40トン)、そしてピンネスのディスカバリー号で構成されており、船団長はチェサピーク湾に注いでいるジェームズ川を入植地として選ぶ。このバージニア植民地はタバコ栽培地となるが、1619年には最初のニグロが連れてこられる。1623年、枢密院は植民地の管理を手元に置き、王領とする。
 メイフラワー号(180総トン)が、1620年9月16日ピルグリム・ファーザーズ102人の移住者を乗せてプリマスを出航し、バージニア会社の発行した入植許可状にしたがって、バージニアに向かう。しかし、悪天候で針路がそれ、バージニアから北東に800キロメートル余りもずれた、現在のマサチューセッツ州プロビンスタウンに入港する。その後、メイフラワー誓約を締結、調印した移住者が、コッド岬の先端に近い場所に上陸して、自治植民地となるプリマス植民地を建設する。
 ジェームズタウンに入植してから30年間に、北アメリカの海岸に沿ってマサチューセッツ、メリーランド、ロード・アイランドに、小さな入植地が建設される。1620年代になると西インド諸島にも入植がはじまる。その初期の入植地が、1624年セント・クストファー・ネビスのセント・キッツ島に作られた。1632年には、さらにバルバドス、ネビス、モンセラートに作られる。
 これら初期の入植地は、織物、毛皮商品、その他工場製品、塩、ビール、ワインを、イングランドにほぼ全面的に依存していたし、西インド諸島にはイングランドやスコットランドから食糧が運び込まれた。入植地の労働力のほとんどが、若い白人の年季奉公人(渡航費を代弁してもらい、数年間隷属労働を行う労働者、17・18世紀の白人移民の3分の2が相当した)であり、しかもアイルランド人が多かった。1626年、セント・キッツ島に60人のニグロが持ち込まれるが、イングランドの本格的な奴隷交易のはじまりではなかった。
 1635年当時、バージニアとメリーランドのタバコの収穫高は、当時の大型船1隻で足りる程度であった。その後、バージニア以南は熱帯植民地として成長していくが、その増大する奴隷の供給と産品の輸出はオランダ商人に完全に握られ、植民地としてのに利益はイングランド人の手に入らなかった。それを自らのものとするには、ピューリタン革命後の重商主義政策(航海条例)にまたねばならなかった。
▼17世紀、2度の革命と3度のオランダ戦争▼
 17世紀は、飢饉やペストの惨禍、三十年戦争など戦争の連続、そして暴動や叛乱、革命の発生などが起こり、全般的危機の世紀とされる。17世紀のイングランドはステュアート朝期に当たるが、ヨーロッパ諸国に漏れず、2度の革命を経験する。
 ジェームズ1世は、自らがトップである国教会との一体化を強め、国教会に従わないピューリタン教徒を弾圧する。この弾圧を逃れて、いま上でみたように、1620年メイフラワー号に乗ったピルグリム・ファーザーズの一員が、アメリカ大陸に渡る。
 国王と議会の対立は、すでにエリザベス1世の時代にもあったが、ステュアート朝のもとでさらに深まる。それは、テューダー朝の時代に、農工業や交易の興隆の担い手となってきた、ジェントリーと呼ばれた社会階層が発言力を強めていた。それを受け止めず、国王は議会を無視し、臨時税を課すばかりであった。
 チャールズ1世は、1628年「権利請願」が受け入れながら議会を解散して、専制支配に乗り出す。彼は、議会を開かないまま、関税の強化や特権の乱発、罰金の取り立てを行った。1634年、彼は父のジェームズ1世が30年間放置してきた海軍を立て直そうとして、それまで海港都市だけに課せられてきた船舶税(造艦税)を全国に拡大しようとする。その支払を、政治家ジョン・ハムデン(1594-1643)が拒否すると、船舶税反対運動が全国的に広がり、ジェントリーなど議会支配層が離反しはじめる。
 この事件が起きた1637年、チャールズ1世がスコットランドに国教会のシステムを押しつけたため、反乱が起きる。1640年になると、スコットランド軍が侵攻してくる。それを受けて議会を再開され、国王の横暴を阻止する一連の改革法(船舶税を不当とするなど)が通過する。しかし、王の態度は変わらず、1642年議会との対立は決定的となる。
 1642年8月、イングランドの支配層は王党派(主に貴族、封建地主、特権商人)と議会派(主に農業資本家、小商人、独立自営農民)に分かれて、内戦が勃発する。当初は王党派が優位にたったものの、議会派はスコットランドの反乱勢力と結び、さらにジェントリー出身のオリバー・クロムウェル(1599-1658)率いる鉄騎兵などニュー・モデル軍が登場すると、王党派は劣勢に陥る。
 ピューリタン革命が起きると、毛織物工業地域や海港都市は国王の敵となった。王立海軍は変節して議会派の側に走り、海港は議会に商船隊を提供した。イングランドの海上交易は続行され反逆者の富を増したが、国王側は海外から武器を輸入するのが困難となった。
 1646年、チャールズは捕らえられるが脱出、再び捕らえられ、1649年に処刑される。その数か月後、共和国が宣言され、ピューリタン革命は終わる。
 オリバー・クロムウェルは、反革命の拠点となったアイルランドとスコットランドに残虐な遠征を企てる。また、彼は議会を解散して、ピューリタンと軍隊による独裁政権を築く。トレヴェリアン氏によれば、ジェームズ1世とチャールズ1世の時代に失われた「海上権を復活させ、海軍を永久的な能率の基礎の上にすえた名誉は、国王弑逆者政府そのものである」。そして、その成功はロバート・ブレイク(1599-1657)を海軍司令官にしたことにあり、またブレイクはドレイクやネルソン(提督、1758-1805)と同等の地位にあるという(トレヴェリアン2巻、p.155、1974)。
 オリバー・クロムウェルが死ぬと、その政権はすぐに瓦解する。1660年、フランスのルイ14世から多大な庇護を受けて、オランダに亡命していたチャールズの子がチャールズ2世(在位1660-85)として即位、王政復古がなる。彼は議会と協調して、2回にわたってオランダに戦争を仕掛ける。
 チャールズ2世には嫡子がおらず、弟のヨーク公ジェームズを王位につけようとするが、彼もまたカトリックであった。このジェームズ2世(在位1685-88)の即位をめぐって、議会は2大政党の原型といえるトーリーとホイッグに分かれる。その即位を支持するトーリーに軍配があがり、プロテスタントの国イングランドがカトリックの王を迎えることになる。なお、ホイッグは海外との交易に関心を示した。
 このジェームズ2世も当初嫡子がなかったが、王妃のモデナ公国皇女のあいだに男子が誕生する。カトリック王が続くことを嫌った議会はトーリーとホイッグが団結して、ジェームズ排除に動く。議会は、ジェームズの娘メアリーの夫で、プロテスタントの国としてフランスに対抗していたオランダ総督オラニエ公ウィレム3世率いる軍団を招き寄せて、ジェームズと対決する。ジェームズはあっさりとフランスに亡命する。この無血革命を名誉革命という。
 議会は国王としてメアリーとウィレムの夫妻を指名し、両王は議会法の優位を明文化した「権利章典」に署名して即位する。それまで対立してきたイングランドとオランダは、1689-1702年メアリー(在位1689-94)とウィリアム3世(在位1689-1702)の同君連合となる。
 この名誉革命によって、イングランドの権力は恒久的に議会側に傾くこととなった。そして、名誉革命以後、イングランドの経済成長は飛躍の段階に入ることとなる。
▼イギリス帝国の種子、投資と植民、交易▼
 17世紀前半のイングランドは、従来通り農業国のままであり、アントワープやオランダ西部のミッデルブルク、ロッテルダムから、イングランド人が必要とするガラス、紙、キャンバス、リネン、ピン、鏡といった、多くの工場製品を輸入していた。また、織物業が必要とする染料、媒染剤、オイル、ウールカード(羊毛すき板)、亜麻を輸入していた。木材は造船、建築、樽製造、ホップはビール、塩は魚の保存に使うため輸入された。魚、果物、そしてスパイスは主な輸入食品であるが、ワインはローマ時代以前から最重要な輸入品であった。
 イングランドの交易は16世紀後半に変貌するが、それは過去に設立されたルートから外れたところに、新旧商品の新しい市場を見出そうと努力した結果であった。しかし、ロシアやアフリカ、アメリカ、レヴァント、そして東インドとの新しい交易は、イングランドの外国との交易総量に大きな影響を及ぼすほどではなかった。それでも、イングランドの通商や株式組織に新しい活力を与え、また金融問題の解決に促進することとなった。
 ホープ氏は、当時のイングランド人の海事思想について、次のようにまとめる。「16世紀、ヨーロッパの多くの国において国家意識が高揚し、海洋戦略の重要性が十二分に認識されるようになったが」、「16世紀のイングランド人はスペインが侵略してくる恐れがあったので、海事力を増大させるべきだと考えていた。17世紀になると、この意見はライバルとなったオランダのおかげで強まり、[軍事上だけではなく]交易上の目的からも、海洋を掌握すべきという欲求になった」とする。通商路維持・破壊という海洋戦略の登場である。
 しかし、「17世紀前半、政府の無策、君主の無関心、そして海上戦闘による浪費」がみられたとするが、それにもかかわらずイギリス帝国の種子は育ち、「それを育てたのはコンキスタドーレス[16世紀のスペインやポルトガルの南アメリカ征服者]ではなく、水夫や交易人、そして政治や宗教の対立者であった」。
 「1649年すなわち共和制成立までに、500万ポンドが海外冒険のためにつぎ込まれ、6万人以上がアメリカに向い、約5000人―イングランドの人口の500人に1人―が海外に投資していた。しかし、その舵はトーマス・スミス(卿、ロンドン東インド会社の初代総裁20年、バージニア会社の初代総裁9年)といった大商人が握っていたとしても、主な推進力は「特許会社や私掠活動から幸運を掴んだ商人たちが、お互いに刺激しあった結果であった。1649年、イギリス帝国の種子はインドとアメリカで大きく開花する」(以上、ホープ第10章、p.186)。
▼クロムウェルの商人の利害が貫かれた政策▼
 イングランドは羊毛輸出国であったが、15世紀のうちに毛織物業が急速に発達し、16世紀前半には毛織物の大輪出国となった。1530・40年代、王室財政の危機打開策として通貨が悪鋳され、ポンドの為替レートが暴落して、イングランド産の毛織物は安価になり、その輸出量はたちまち倍増する。
 毛織物の輸出が激増すると、必然的に羊毛価格が上昇し、牧羊業が利益の多い産業になる。15世紀後半、牧羊業を拡大させるため、土地囲い込み(エンクロージャ)運動が起きる。それを、トマス・モア(1478-1535)は『ユートピア』において、「羊が人間を食う」と評した。この囲い込みを実践したジェントリーやヨーマン(独立自営農民)はますます富裕になり、非農業にも手を出すようになった。
 16世紀後半、エリザベス1世が通貨を改良すると、イングランドの輸出は激減する。そして、1568年オランダ独立戦争がはじまると、アントワープはスペインの攻撃にさらされ、急速に衰退する。それにより、ロンドン―アントワープの基軸は崩壊して、イングランドの毛織物工業は深刻な不況に陥る。そこで、毛織物の新しい市場を開拓することで、その危機を打開しようとして、また東方産品を直接に入手しようとして、次々と特許会社が設立されていった。
 16世紀後半、イングランドはフランドルからの亡命者から製法を習って薄手の梳毛毛織物を生産して、ヨーロッパ諸国に輸出するようになる。それは未加工の幅広の紡毛毛織物に対して新毛織物と呼ばれた。また、同時期、ガラス製造、製紙、製塩、石けん製造など、新しい製造工業が多数出現する。石炭業も著しい発展をみせる。これら新興産業の多くは、当時、贅沢品であった輸入品を代替生産しようとするもので、ジェントリー層がはじめたものであった。
 イングランドの人口は、1522年の約230万人から1603年には310万人以上になったとされ、この人口増加の圧力を農業は支え切れず、危機的な状況となる。この危機を背景としてピューリタン革命が起きていた。1660年の王政復古以後、イングランドの農業は生産性を向上し、海上交易もまた爆発する。それらを契機として、1656年の後見裁判所の廃止などがあって、上級領主の権利が否定され、地主の私有財産権が確認される。
 中世以来、イングランドでは穀物輸出を抑制する消費者保護政策がとられてきたが、王政復古後の1663年から89年まで国内の小麦価格が一定以下になれば、穀物輸出奨励金を支給する制度が成立する。それは地主支配体制の成立を象徴する制度であった。
 17世紀半ば、積極的な重商主義政策が実施される。共和政期の1651年、王政復古後の1660年、1663年に航海条例が制定される。それは従来と違って、イングランド商人にイングランド船の使用を義務づけるだけではなく、イングランドの交易からオランダなど外国勢力を排除しようとしたものであった。また、それは200人ばかりの特権的な商人の利益を保護するのではなく、それぞれの産業において起業家の参入を保障しようとする、本来の重商主義政策の一環であった。
 クロムウェルの時代、アイルランドの征服・植民、1655年のジャマイカの占額、1657年のロンドン東インド会社の拡充・改組などが行われる。1655年、クロムウェルの西方計画の一環として、ウィリアム・ペン(1621-70、ペンシルベニア植民地の創設者の父、同名)に率いられたイギリス艦隊がジャマイカを占領する。ジャマイカは、1670年のマドリード条約で正式にスペインからイギリスに譲渡され、奴隷による砂糖プランテーション、そしてアフリカ人奴隷交易の中心地となる。
 ピューリタン革命期の商業・植民地政策は、反カトリックという宗教的情熱や政治目的から出てはいたが、つねにロンドン商人の利害が貫かれていた。
▼航海条例制定、オランダとの3次の戦争▼
 1651年、クロムウェルの共和制政府(1649-60)は航海条例を制定する。それは、いままでの政策を包括したものであった。王政復古後、さらに詳細な1660年航海条例が通過する。それらは向こう約200年間有効となる。
 1660年航海条例は、イングランド、ウェールズ、アイルランド、または植民地において真正に所有され、かつ船長および乗組員の4分の3が臣民である船(以下、イギリス船)によらなければ、@イングランドのアジア、アフリカ、またはアメリカにある領土に、商品を輸出あるいは輸入することはできない、Aそれら領土において産出された商品をイギリスに輸入することはできない、とした。
クロムウェル
ロバート・ウォーカ―画、1649
National Portrait Gallery蔵
1651年航海条例
の表紙
(写真)
 それらは、イギリスとその海外領土の輸入から外国船を排除し、それをイギリス船に独占させようとするものであった。その一環として、B外国船はイギリスの沿岸交易に従事することはできない、とした。この沿岸交易の自国船留保策(カボタージュという)は直ちに効果を上げ、外国船は排除された。なお、明治日本では、1899(明治32)年条約改正に応じて制定された船舶法によって、それを留保する。
 イングランドの航海条例の大きな目的は、オランダの中継交易とオランダ船の輸送に打撃を与えることにあった。そこで、C外国で産出された商品は、その原産地または最初に船積みされた港からでなければ、たとえイギリス船であってもイギリスに輸入することはできない、Dロシアやトルコの商品は、イギリス船または原産国の船または最初に船積みされた港の船でなければ、イギリスに輸入することはできない、とした。
 その他、E砂糖やタバコ、染料、綿花、生姜といった価値のある植民地産品(列挙商品とされた)は、イギリスやその領土以外の地に向けて船積みすることはできない、F原産国の船または最初に船積みされた港の船で輸入することが認められた貨物は、外国人輸入税を支払わなければならい、とした。
 また、航海条例は列挙品条項やステイプル条例によって補強されていた。王政復古後の1663年のステイプル条例は、ヨーロッパ諸国の産品はイギリス経由でなければ、植民地に輸出できないとした。
 イングランドにとって、オランダは過去1世代の間に「北ヨーロッパやアメリカの海域で、またアフリカやインドの大洋で、しばしば横柄この上もなく、わがもの顔で据舞い、漁場で密漁をし、イングランドとそのアメリカ植民地との運送業をほとんど独占してしまっていた」のである(トレヴェリアン2巻、p.156)。イングランドは本気になって、オランダに立ち向かう必要があった。オランダとの海上覇権をめぐる争いは、18世紀初頭まで結着がつくことはなかったが、その争いをはじめたのは他でもなく共和制政府であった。
 航海条例は、世界の中継交易人としての地位を誇ってきたオランダにとって、大いなる脅威となった。オランダとの関係は、イングランドが処刑したチャールズ1世の娘がオラニエ公ウィレム2世の妻となっていたため、冷え切っていた。1651年条例が制定されると、その関係は破綻して、第1次イングランド・オランダ戦争(1652-54)がはじまる。
 第1次戦争は、ロバート・ブレイクに率いられたイングランド艦隊と、ファン・トロンプ(1597-1653)率いるオランダ艦隊の争いとなった。1652年のドーバー沖海戦ではトロンプ、1653年のテセル沖海戦ではブレイクが勝利を収めるが、決着はつかなかった。ただ、この戦いにより、オランダの被害は大きく、イングランドに持久力があることが示されたという。オリバー・クロムウェルは、1654年にイギリス優位の講和を結ぶ。
 1663年の航海条例は外国人所有の船はもよりとして、戦利品でない外国建造船の使用を制限し、他方大型船に対する補助金を、大型船の定義を変更した上で復活させた。それは、王政復古以後、イングランド人が自国で船を建造するのではなく、海外から船を大量に買い付けるという事態を改善することにあった。それにより、イングランドの造船業が急速に復活するが、その後のオランダとの戦争によって頓挫する。
 17世紀前半は、フライボートはイングランドでは1300ポンドかかったが、オランダでは800ポンドで建造されていた。1676年になっても、イングランドの250トンの商船は1トン当たり7ポンド2シリング6ペンスかかったが、オランダで建造された200トンのフライトは4ポンド10シリングであった。オランダ人は年間700-800隻をバルト海に送り出し、また1000隻以上のニシン船を使用していたが、そのうち600隻は大型であった。
 ロンドンは、1665年のペスト大流行、66年のロンドン大火という、大きな災厄に見舞われるが、それより前から、イングランドは1664年から植民地をめぐってオランダと第2次戦争(1664-67)を再びはじめていた。その戦況は当然のようにイングランド不利となり、1666年6月の海戦でイングランド艦隊はデ・ロイテル提督(1607-76)率いるオランダ艦隊に完敗して、6000人の兵を失う。
 そして、翌1667年には講和条約交渉中に、賃金不払いのイングランド人水夫に案内されて、テムズ川とメドウェイ川を遡ってきたオランダ艦隊に、チャタムやロチェスターが攻撃され、最良の戦艦など多数の艦船を失う。オランダ優位の
1666年6月のオランダのメドウェイ川襲撃
Pieter Cornelisz. van Soest画、1667
国立海事博物館(ロンドン)蔵
まま推移して、1667年の講和条約では北アメリカのニュー・アムステルダム(後にニューヨークと改称)を獲得したものの、航海条例の適用緩和を認めることとなる。
 17世紀の航海条例は、一言でいえば自国貨自国船主義といえるもので、イングランドとその領地への輸入交易からオランダの中継交易を排除し、イングランドと原産地国の船主によって取り仕切ろうとしたものであった。特に、自らのアメリカ植民地との交易は輸出、輸入ともに、その輸送はイギリス船に限るとした政策であった。
▼イングランドとオランダの地位が逆転▼
 この極端といえる海上交易の自国保護政策にもかかわらず、ヨーロッパ諸国から報復を受けるといったことはなかった。ヨーロッパ諸国は、オランダの中継交易に依存してはいたが、その成り行きには関心がなかった。また、ヨーロッパ諸国もまた自らの植民地交易について、イングランドと同じように閉鎖的な政策を採用していた。さしあたって、航海条例の成否はその政策を支持して実行しようという、イングランドの商人や船主たちの意欲にかかっていた。
 オランダとの第3次戦争(1672-74)が起きる。それは、チャールズ2世と密約を結んだフランスのルイ14世がオランダへの侵略をはじめたのに呼応して、イングランドが参戦したものであった。オランダ軍は奮戦し、またしてもデ・ロイテル提督に連合艦隊は撃破され、フランスやイギリスの負け戦となる。しかし、オランダの被った被害は深刻であって、その凋落を招く要因となる。
 イングランドは3次にわたるオランダとの戦争を通じて、きわめて膨大な数のオランダ船を捕獲し、戦利品とした。第1次オランダ戦争では1000隻から1700隻までのオランダ船を捕獲し、第2次戦争では約500万ポンドの戦費がかかったが捕獲船は500隻、第3次戦争も500隻であった。他方、イングランドがオランダとの戦争で失った船はわずか約500隻であった。1655-60年におけるスペインとの戦争で400隻以上を捕獲したものの、イングランド船は1000隻から1500隻ほどが捕獲または破壊された。
 イングランドは、1652年から1674年までの22年間、数百隻の良船を抱え続けており、そのうち捕獲あるいは購入された外国船がイングランド人の保有船腹の3分の1以上になることはなかった。しかし、これら戦争が終わる1675年には、その2分の1を数えるまでになった。イングランドの船腹は、17世紀後半、3倍も増加したとされる。
 航海条例施行後、イングランド船による輸送は高コストになったが、イングランドの海上交易は王政復古を境にして活発になり、その輸出は世紀末までに3倍にもなる。そのなかでもイングランドのカリブ海や北アメリカにある植民地との交易が著しく活性化する。それに牽引されて、高コストのイングランド船に対しても需要が高まる。
 1664年、ロンドンから26隻がノルウェーへ、そして22隻がバルト海に出帆していたが、1686年にはそれらは111隻と65隻に増加する。また、西インド諸島には45隻から133隻、また北アメリカには43隻から111隻へと増加している。イングランドの港から出帆した船の年間出帆トン数は1663-69年平均9.3万トンであったが、1700-12年には27万トンに増加する。そのうちイングランド船が占める比率は65パーセントから86パーセントに向上する。
 第3次オランダ戦争後、ヨーロッパ諸国はフランス・オランダなどと戦争を続けていたので、イングランドに好機が訪れる。イングランドは中立国として、戦時国に物資を供給して交易を広げるとともに、オランダが行っていたバルト海とイベリア半島との交易、特に塩の交易を横取りする。また、イングランドからポルトガルに小麦を送り、帰り荷として塩を積み、現ラトビアのリガやペテルブルグに運び、麻や亜麻、鉄を持ち帰るようになった。
 イングランド海運の成長は造船資材の需要を喚起した。それによって、イングランドではカシやニレが不足するようになり、その代替としてモミ、マツ、エゾマツを輸入せざるをえなくなった。さらに、1666年のロンドンの大火などが木材の需要を増加させた。1673年から1700年にかけて、年間200隻から300隻の船がバルト海からイングランドに向かっていたが、世紀末にはそれらの船の半数がイングランド船であった。ただ、ノルウェーからの木材の輸送は、高運賃のイングランド船は忌避され、当時ノルウェーを支配していたデンマーク船に委ねられることとなった。
 イングランドは、3次にわたるオランダとの戦争を戦い抜き、戦後に結ばれる講和条約のたびに有利になるなかで、海洋帝国の第一歩を踏み出す。それに対して、オランダは戦争による消耗に耐えきれず、次第に疲弊して、海上交易の覇権をイングランドに譲らざるをえなくなる。イングランドは、18世紀最後の四半期あるいはアメリカの独立まで、航海条例が期待した効果を享受する。
 しかし、18世紀半ば以降、航海条例の規定は対外戦争をするたびに、次々と緩められた。それは、中立国の船を用船することで交易を維持しなければならず、また戦争に狩りだされた徴用船の代替船を必要としたからであった。また、イギリス人の船員が徴用されたので、その穴埋めに外国人船員がいままでにもまして雇用された。例えば、イギリスから出帆する外国船のトン数比率は、七年戦争中、平時の7-8パーセントから20パーセントに増大した。
 そして、航海条例が期待した効果を上げた西インド諸島や北アメリカの植民地交易の当事者にとって、その条例が持つ制限が耐え難いものとして排斥されることとなる。さらに、18世紀後半にはじまる産業革命によって大量に押し出されてくる工業製品を、イギリスは世界的規模で何らの制約も受けずに売り捌く必要に迫られる。そのとき、航海条例は自由な交易とその拡大にとっての障害となり、1849年に廃止される。
▼東インド会社の分裂と合同、インドの綿織物▼
 東インド会社は、共和制期、大きな改革を受ける。まず、東方との交易は実質的にすべての人に開かれてしまった。1657年、クロムウェルの特許状によって、株主総会が最高機関となった。また、オランダと同じように、宣戦、講和、条約の権利も与えられ、現地政府となった。
 そして、会社組織は航海ごとの当座組織から、総裁と理事会を設置して、経営の持続性を保つ、恒久的な組織に改変された。出資状況が公開され、株主は総会を通じて会社経営に参画し、株主には配当金が支払われるようになった。1662年、有限責任制の株式会社となり、払込資本は返済しない資金として取り扱われることとなった。
 チャールズ2世が復位して新しく特許状が付与されると、東インド会社は単なる交易会社でなくなり、いままで以上に政治的、司法的な権力を振るうようになった。その世紀の最後の10年間に用船されたベーカリイ・カッスル号、ベドフォード号、タヴィストック号、ストレートサム号、ホーランド号、ヨシア号、マーシャ号、フリゲートのザ・ラッセル号、ウェンワース号、ビューフォート号、マッシングバード号といった船名は、どういった地方で投資された船であるかがわかる。それら地方の貴族階級も海運を格好の投資先とみなすようになった。
 このとき以降、この会社は許可状がなくても金銀の延べ棒を持ち出すことが認められたことで、交易は格段に増加するようになる。また、1650年カルカッタ近郊のフーグリ、1662年ボンベイ、そして1686年カルカッタというように、次々とインドの拠点が設立されていった。ただ、ジャワ島のバンタンではオランダとの紛争が続き、1682年イングランド人は撤退を余儀なくされ、それに代えてベンクーレン(スマトラ島南部、現ベンクル)を開く。
 イギリス東インド会社の交易額は次第に増加するが、18世紀の最初の3分の1までの増加はほんのわずかであった。スパイスなど東方の贅沢品は、従来通り地中海経由で持ち込まれていたが、すでにイングランドは喜望峰経由で入手した後、それら商品を地中海諸国に供給するまでになっていた。
 そのころ、スパイスは母国向け貨物としての優越性を失っており、貨物の価額の70パーセントから80パーセントは綿織物となっていた。ペルシアやベンガルからのシルクと、パキスタンからのラホールのインディゴが価値ある貨物となり、また東インドやマラバールからのペッパーと、ベンガルからの硝石や砂糖が大宗貨物となっていった。そのうち、綿織物の輸入増加は、毛織物工業との対立を招いた。
 ベーカリイ・カッスル号は、1681年イングランド向けに帰帆したとき、マドラス地方から出発した最も豪華な船といわれ、積荷の金額は8万ポンド(1988年価格で500万ポンド以上)の値打ちであった。しかし、その積みトンの半分以上が硝石であったが、それが全体に占める価額はごくわずかであった。
 インドへの輸出品はわずかしかなかった。毛織物、鉄製品、銅製品、ビールはさておき、鉛や鉄は通常、底荷として運ばれたが、その多くがおおむね母国に持ち帰えられた。1680年代、東インド会社は、イングランドへの輸入価額の約14パーセントを持ち帰りとなっており、また年間に配当金として20パーセントを支払っていた。
 ロンドン東インド会社は、1680年以後もぐり商人や海賊との競争にさらされてきたが、1698年から1708年にかけてその独占権が停止される。それはジェームズ2世が失脚して、新しい国王にウィリアム3世が登位すると、インド交易の独占に反対する議会の勢力が強くなった。それに呼応して、1698年、ウィリアム3世が新会社の設立を命令し、旧会社の特権を失効させたのである。
 その後10年間、旧会社はその存続が認められたことから、新旧両会社のそれぞれが争いながら、東インド交易を行うこととなった。彼らは、相手をつぶそうと政治工作に多くの金品が投じ、またお互いが生き残るための折衝も行われた。その結果、1708年東インドと交易するイングランド商人の合同会社、通称イギリス東インド会社が設立される。しかし、その株主は相変わらずロンドンの商人たちが中心で、ブリストルやハルなどの地方の商人は除外されていた。
 旧会社総裁で経済学者のジョサイア・チャイルド(1630-99)は、旧会社の特権を擁護するため、10万ポンド費消したとされる。トレヴェリアン氏によれば、この抗争について、「東方の富はもはやアラビアのお伽話ではなく、確実な事実であって、その上に年1年とシティの財産が築かれ、地方の新しい名門が創設されつつあるのだという知識」に基づいていたという。
 そして、その例としてトマス・ピット(1653-1726)を上げ、「初めは密猟者として、つぎには猟場番人として、すなわち、初めはもぐりの貿易商人として、つぎには東インド会社のマドラス知事として、インドで財を成したのち、彼は故国でオールド・セアラムの議会選挙区とともに地所を購入した」(以上、トレヴェリアン2巻、p.217、1974)。また、彼はマドラス知事在任中に巨額のダイアモンドを集め、それをフランス王室に売ったことでも有名である。
 ロンドン東インド会社は、分裂のなかで利益を二の次にして、当時使用していた700-800トンという大型船を400-600トンという船に取り替えている。こうした混乱した時代にもかかわらず、イングランドの交易は初めて中国にまで広がり、中国海域では150-200トンの船が専ら使用された。
 イギリス東インド会社は、大量のコーヒーをイエメンのモカから輸入していたが、1736年になると茶がコーヒーより評判が良くなる。しかし、高関税は密輸を蔓延らせ、東インド会社の交易の助けにもならなかった。また、シルクや陶磁器を中国から輸入していたが、最も価値のある東方の商品はベンガル湾の純正なシルクとコットン製品であった。それらは裕福な人々の高価なファッションであった。それら貨物の運賃率は1トン当たり20ポンドであった。
 東インドからの輸入品の構成は、18世紀当初と半ばでは、大きな違いをみせる。1699-1701年の輸入額は75万ポンドから109万ポンドへの増加し、輸入品の構成は繊維品69.2、胡椒13.6、茶・コーヒー2.2、香料・薬種1.9パーセントであったが、1752-54年になると54.4、2.9、35.4、4.1パーセントとなる。
▼イングランド、奴隷交易に本格的に参入▼
 イングランドは、1680年代以後、スペインが後退すると、奴隷交易に本格的に参入する。奴隷船の母港は、ロンドンからブリストル、リバプールに広がっていった。アフリカからアメリカへの奴隷交易の規模は、300年間で約1500万人といわれているが、そのうちイギリスは約200万人あるいは300万人を交易したとされる。また、イギリスは18世紀半ばにかけて奴隷交易ブームとなり、その交易量は他を大きく引き離し、年間平均7万人であったという。最初から悪とみなされていながら、やめられるわけがなかった。奴隷交易は「負の遺産」であるためか、イギリス人は多くをふれない。
 奴隷は、有名なアメリカへの中間航路の途中において水夫より若干、多く死んでいるが、その数は奴隷の数に応じて大量となった。奴隷交易は、奴隷の死亡率が低ければ、その儲けはきわめて大きいものとなった。奴隷が死ぬと、2ポンド10シリングから3ポンド10シリングの損失となった。この額は男性奴隷の当時の通例の購入価格であり、西インド諸島では18ポンドで売られていた。水夫が死ねば賃金は水とともに流れた。
 チャールズ2世の弟で、後のジェームズ2世(在位1685-88)となるヨーク伯は、奴隷交易が悪であるとは考えていなかった。1660年、アフリカと交易してきたイングランド王立冒険会社という会社は彼に敬意を表し、自らの特権を証明するため、奴隷にDY(Duke of Yokeの略)という文字の焼き印を押すこととなった。その会社は、年間に最低3000人を供給する契約を、砂糖・タバコ植民地に結んでいた。
 国王は、イングランド王立冒険会社に投資しており、その会社を宣伝するため、「ギニー」という新しいコインまで発行した。このコインはギニア海岸から輸入された金で鋳造されていた。イングランドがオランダ戦争に勝っても、奴隷交易のほとんどがオランダ人の手に委ねられたままであったため、国王や取り巻きなどの投資家は投資金を失っている。
 それにもかかわらず、1672年に王立アフリカ会社が設立され、様々なことが持ち上がる。1680-88年間、王立アフリカ会社は約250回の奴隷航海を企画し、60,783人を船積みしたとされている。そのうち、46,396人あるいは4人に3人が、その航海で生き残った。
 当初から、王立アフリカ会社はイングランド人のもぐり商人と争わなければならなかった。1698年、奴隷交易はすべてのイングランド商人に開放される。その場合、10パーセントの貨物税を王立アフリカ会社の取り分として支払う必要があった。1680-1700年間、30万人の奴隷、新世界での価格でいえば300万ポンド以上が、王立アフリカ会社やもぐり商人によってイングランド船に積み込まれたと評価されている。
 なお、18世紀初めまでのイングランド人の奴隷交易は、その全体の10パーセントにも及んでおらず、それ以外は専らスペイン人、ポルトガル人、オランダ人、そしてフランス人が輸送していた。
▼貨物上乗人の採用、用船契約が広がる◆
東インド会社船ロイヤル・シャーロット号三態
中央:展帆した側面、左:船首、右:船尾
ロバート・ドッド画 
18世紀後半
国立海事博物館(ロンドン)蔵
東インド会社船の
ある船長
地球儀に左手を置き、右手はディバイダーを持っている
作者不明、1690?
国立海事博物館(ロンドン)蔵
 共有船の管理船主は、通常、その船の経営の方向づけを国内で決定するような場合、その船の最大シェアを持つ船主の同意を求められた。その同意のなかには船長の指名とともに、事業不調になった場合の船の処置を含んでいた。管理船主は乗組員を雇い、貨物を探し、運賃を集金し、そして修理を手配していた。長期航海の場合、それが終わってから、船主たちは配当金がいくらなるかを聞かされることになった。
 船長たちには巨大な期待が寄せられていた。船長という職は船主と親せき関係を結ぶに等しかった。船長は、貨物を受け取るとき、船主あるいは用船者によって指名された同乗する管理人、事務長、あるいは代理人の命令に従うよう、指示されることがあった。そうした職名は17世紀末には貨物上乗人supercargo(積荷監督)という用語に置き換えられた。
 しかし、バルト海では、船長は航海と同じように積荷についても、終始、責任があった。その地方の交易は決まりきった交易になっていたので、船積みにあらかじめ責任を持つスーパーカーゴなしですまされてきた。地中海では、船長はおおむね、事実上、管理船主がなっており、その責任は航海期間が長くなるほど大きくなった。
 管理船主が、どうしてもしなければならない重要な決定は、それぞれの目的に即して用船契約を結ぶことである。用船契約は、個別の航海毎に結ばれるのがほとんどであったが、運航者が航海の成功度合いを積み込み量の多寡で計るようになったため、期間用船契約time charterは船腹用船契約tonnage charterや、ワインや砂糖、オイル、その他貨物をより多く積むことを求める協定(数量輸送契約)に置き換えられていった。
 1650年以後、期間用船はまれにタバコ交易に使われるだけになり、また1680年以後、砂糖の輸入にまれに用いられた。現代の基準からいえば論外であるが、荷役時間は大変制限されていた。所定の時間以内に船積みが終わらない場合、用船者は船主に1日単位で滞船料を支払わねばならなかった。1660年以後、乗組員の雇用や支払いは船主の負担となり、用船者は関係がなくなっていった。
 代理人のネットワークが海外にも次第に広がっていった。管理船主は、用船契約がない場合、貨物を獲得してくれそうな仲買人や代理人がいるところに、次第に自分の船を持って行くようになった。
 船主は何らかの損害を生じても、保険が広く行きわたるようになっていた。保険料の平時レートは保険金の3パーセントかそれ以下であり、戦時危険レートは6-14パーセントであったが、時には35パーセント以上にも高騰することがまれにみられた。戦時になると、10回に1回よりは少ないとしても、つねに拿捕される危険があった。17世紀中に、海賊は事実上、征討されていたので、保険料に良い影響を及ぼしていた。
 海運業は、1580年以後急速に成長するが、わけても1660年から1689年にかけて、初期の取るに足りない産業から、イングランドの急速に発達する産業の1つにのし上がっていった。1582年から1686年までの約1世紀のあいだに、トン数は6.7万トンから少なくとも34万トンと、5倍以上も増加した。その間、人口は間違いないところ、2倍ほど増加した。海運業は1つの産業として、いまや農業、織物業、そして建設業に次ぐ産業となった。
 イングランドの輸出と再輸出の価額は3倍となり、海運業はロンドンの繁栄に貢献するようになった。1689年には、人口150万人のうち5万人あるいは30分の1の人々が海運業に従事していたが、次の世代になるとその産業の発達のペースはスローダウンする。
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