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▼叙事詩人カモンイス、日本をうたう▼
ルイス・デ・カモンイス(1525?-80)は、ポルトガルの「大航海時代」を自らも駆け抜け、その時代を歌い上げた『ウズ・ルジアダス(ルーススの民のうた)』という、世界に誇る叙事詩を書いた詩人である。
ゴアで乗った船は、中国に輸出する商品を満載し、マラカ(マラッカ)海峡を通って南シナ海に入り、海南島に着き、ザビエルが没した上川島(サンショアン)を通過して、マカオに到着する。この航海は『ウズ・ルジアダス』第]歌に歌われている。このマカオで『ウズ・ルジアダス』を書き続ける。 1558年、委託金着服の疑いがあるとされて、カピタン・モールのレオネル・デ・ソウザ(後述)が指揮する船に乗せられ、ゴアに向かう。メコン河口で台風に遭遇して難破する。ここで無一文になるが、『ウズ・ルジアダス』の原稿は離さない。商船に救助されて、ゴアに入る。ゴアで投獄されるが、無実とした釈放される。 1567年になって帰国を決意するが船賃がない。友人の助けをえてサンタ・クララ号に乗り、1570年4月17年ぶりに帰国する。1572年になって、王の承認と異端審問所の許可をえて、『ウズ・ルジアダス』を出版、たちまち売り切れる。王から3年間15000レアルの年金が下付される。1580年帰らぬ人となる。 日本をカモンイスは歌う。
▼レコンキスタの賜物、ポルトガル王国▼
ポルトガルはユーラシア大陸最西端、イベリア半島にある。ギリシア人はイベリア、ローマ人はヒスパニアと名付けた。カモンイスは、「ここに大地尽き、大海の始まるところ」と歌った。そこから、ユーラシア大陸の最東端にへばりついている小さい島国の日本まで、直線距離にして約12000キロメートル、喜望峰周りゴア・マラカ経由で約30000キロメートルである(地球の円周約47000キロメートル)。 1543年ヨーロッパ人として初めて日本に渡ったのがポルトガル人であり、1553年日本人として初めてヨーロッパの土を踏んだのがポルトガルであった。そのあいだわずか10年である。 ポルトガル人は種子島に漂着したフランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ダ・モッタ、アントニオ・ペイショットという3人であった。日本人はフランシスコ・ザビエル(1506-52)の帰途、同行した薩摩の下級武士ベルナルドという信者であった。彼は、ゴアから喜望峰を経由してリスボンに到着し、ローマに渡って教皇パウロ4世(在位1555-59)に謁見する。再びポルトガルに戻るが、1557年コインブラで客死する。 イベリア半島が海上交易の世界史に登場するのは、前10世紀頃東地中海のフェニキア人がイベリア半島に銅や錫を求めて渡来し、アブデラやマラガ、カディスといった交易地(港市)を築くようになったときからである。前201年、第2次ポエニ戦争でカルタゴを破ると、ローマ人はイベリア半島に侵入し始める。それに、混交ケルト・イベリア族は激しく抵抗するが、その後はローマ化が急速に進む。 ローマ帝国に衰退の兆しが現れるとゲルマン民族の移動が始まり、イベリア半島には409年スエヴィ族が侵入して来る。ブラガを都としていたスエヴィ王国は、585年トレドに都をした西ゴート王国に併合される。そのもとでカトリックへの改宗が進む。 711年、西ゴート王国の内紛に乗じて、イスラーム教徒がジブラルタル海峡を越えて半島に侵入し、グアグレッテの戦いで西ゴート王国を滅ぼす。イスラーム勢力はキリスト教徒に寛容政策を採ったこともあって、数年にしてほぼイベリア半島全域を支配する。イスラーム教徒はコルドバに都を定め、10世紀から華やかなイスラーム文化が花開かせ、8世紀半にわたってイベリア半島に留まり、その南部に強い影響を及ぼす。 しかし、イスラーム教徒侵入後まもない722年から、イベリア半島北部のカンタブリア山脈からキリスト教徒の反撃が始まる。それはレコンキスタ(国土回復運動あるいは戦争)と呼ばれ、当時のヨーロッパのキリスト教徒にとって一種の十字軍運動であり、多くの異境の人々も参加していた。その最中の9世紀初めに、現スペイン北部のサンティアゴ・デ・コンポステーラで12使徒の1人である、サンティアゴ(聖ヤコブ)の遺体が発見される。彼はキリスト教徒戦士の守護神となる。日本の島原の乱においても、キリシタンたちは「サンティアゴ」と叫んで、徳川幕府軍と戦ったという。 キリスト教徒は徐々に南下を続け、キリスト教徒のなかで最大の勢力を誇っていたレオン・カスティーリャ国王アルフォンソ6世(在位1072-1109)は、1085年タホ川(ポルトガルではテージョ川)以北、トレドまでを平定する。それに反撃しようとして、北アフリカから新たなイスラーム勢力が猛烈な勢いで侵入して来る。アルフォンソ6世はフランスに援軍を求め、ブルゴーニュの騎士たちが西方十字軍として参戦してくる。 その騎士の1人アンリ・ド・ブルゴーニュ(?-1112)は、1096年アルフォンソ6世の娘テレサと結婚し、現ポルトガル北部をポルトゥカレ伯領として与えられる。その子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世、在位1143-85)は、1143年ローマ教皇の仲介をえて、カスティーリャから分離独立する。ポルトガル王国の建国である。 彼は建国後も、コインブラを拠点にしてレコンキスタを続け、1147年第2次十字軍としてポルトに寄港したイギリス艦隊の支援を受けて、リスボンなどを攻略し、テージョ川を越え、その領土を拡大する。 1212年、スペイン南部のラス・ナバス・デ・トロサの戦いで、カスティーリャ、アラゴン、ポルトガルのキリスト教連合軍がイスラーム軍に対して決定的な勝利を収めると、イスラーム教側は急速に後退し始める。 ポルトガルは、1249年アフォンソ3世(在位1248-79)がアルガルヴェ地方に残った最後のイスラーム都市ファロを征服して、ポルトガルのレコンキスタを完了させる。なお、1492年コロンブスの新大陸「発見」の年、カスティーリャとアラゴンの連合軍のグラナダ攻略によって、彼らのレコンキスタもようやく終わる。 ▼ディニス王の治世、中世の黄金時代▼ ポルトガル王国は首都をリスボンに移す。ディニス王(在位1279-1325、農夫王)は聖俗貴族勢力を抑えて王権を強化し、農業や交易を振興したことで、その治世、黄金時代を迎える。 そのうち海上交易について、金七紀男氏は次のようにまとめているが、フェルナンド1世(在位1367-83)もほぼ同様な政策を実施しており、それを含む内容となっている。このまとめ以外に、1193年に早くも商館がフランドル(現ベルギー)のブルッへ(ブリュージュ)に設置され、また同年イギリスとのあいだで交易協定が結ばれている。なお、ブルッへの商館は1488年にはアントワープに移され、イングランドやセビーリア、ヴェネツィアにも商館が設けられた。 「外国貿易もこの時期著しい発達を見た。建国以前から、すでに北欧ことにフランドルやイギリスとの交易が行なわれ、ワイン・乾果(干し葡萄・干し無花果・アーモンドなど)、蝋・塩・コルクなどが輸出され、各種の繊維製品・武器・装飾品などが輸入されていたが、この貿易を行なうリスボン、ポルトの商人たちは商業ブルジョアジーとして1つの社会階層を形成するようになり、国王もさまざまな免税特権を与えて彼らを保護した。1293年、北欧と取引する商人に対して海上保険制度が作られ、14世紀後半には100トン以上の船を建造する者には王領地の森林から無償で木材が与えられた」。 「レコンキスタが終了して、地中海の航行が可能になると、イタリア商人がポルトガルに進出し始めた。ことにジェノヴァ人は、ポルトガルを中継点として北欧・地中海間の交易に介入し、しだいにポルトガル商人を締め出すほどの影響力を及ぼすようになった」という(以上、同著『ポルトガル史(増補版)』、p.56-7、彩流社、2003(1996))。
ポルトガルのジェノヴァ人のとの結びつきは、大航海時代以前から始まっていた。ジェノヴァの商人のリスボンへの進出や砂糖きび農場への投資がめざましい。1290年、その航海計画は失敗するが、アフリカ南端を迂回してインドに到達しようとしたヴィヴァルディ兄弟が、ポルトガルの大航海時代の先駆けとなった。ディニス王は、1317年ジェノヴァ商人のエマヌエレ・ペサーニョと協定を結び、彼を世襲提督とするとともに、イタリア人船長20人をして招いて、海軍を創設している。なお、1455年カボ・ヴェルデ諸島を発見したアルヴィーゼ・カダモトも、ジェノヴァ人であった。 しかし、1320年代頃から、それまでの経済的繁栄に陰りが見え始め、ことに1348年に蔓延した黒死病によってポルトガルの人口は3分の1に激減する。それによって農民不足となって耕地の放棄が起こり、飢えに苦しむ貧民は食料を求めて都市に集中し、社会不安が醸成される。黒死病によって深刻化した経済不況は15世紀末まで続く。 1383年フェルナンド1世が死去すると、その王妃レオノール・テレスは、カスティーリャ王を後ろ楯にした専制を始まる。それに対して、リスボンの市民は、前国王の異母弟でアヴィス騎士団長のドン・ジョアンらを味方して、反乱を起こす。彼は、1385年コインブラで開かれたコルテス(身分制議会)においてジョアン1世(在位1385-1433)に選定され(アヴィス朝の始まり)、アルジェバロツタの戦いでカスティーリャ軍を破る。この1383-85年の民衆蜂起あるいは革命とカスティーリャとの戦争の勝利によって、ポルトガル人は国民として一体となり、ヨーロッパ最初の国民国家が築かれたともされる。 ジョアン1世に勝利を導いたものは、莫大な戦費を賄ったリスボンやポルトのブルジョアジーたちであった。それにより、彼らは国政に強い影響力を持つようになる。すでにみたように、レコンキスタが終わると、イベリア半島の国々は海上交易に関心を寄せ始めるが、ポルトガルは地中海に向かうことができない。そのため、その関心は自然と大西洋に向けられ、王権と都市のブルジョワジーは150年に及ぶ大西洋開拓を積み重ねて、ヨーロッパ諸国に先駆けて大洋に広がる「海洋王国」となる。 ▼エンリケ、西アフリカ沿岸の探検と植民▼ 1415年、ジョアン1世は200隻、兵士5万人という大艦隊を送って、北アフリカの商業都市セウタを攻略する。セウタはイスラーム教徒の船の発進基地であっただけでなく、ブラック・アフリカから金が流れ込み、その背後には沃野が広がっていた。しかし、イスラーム教徒は交易都市を、セウタ
エンリケは海賊行為に乗り出すが、そのサイドビジネスとして、探検を始める。1418年マデイラ諸島、1427年アゾーレス諸島が再発見され、前者が1433年エンリケに譲渡されると植民が進められる。1434年には西サハラのボジャドール岬―不帰の岬として恐れられていた―をこえ、ヨーロッパ人にとって未知の領域に進出することになる。その後、ポルトガルに雇われたジェノヴァ人が活躍し出す。
1455年には、教皇ニコラス5世(在位1447-55)はポジャドール岬以南のアフリカ大西洋岸の征服と貿易独占権が、ポルトガルに属することを認める。この教書は、1452年の教書とともに、ヨーロッパ人による植民地主義と大西洋の奴隷交易を正当化するために利用された。 その1455年、ポルトガルは現モーリタニアのアルギン島に、サハラ以南のアフリカで、最初の商館を設立するそして、。エンリケが1460年に死ぬまでに、ポルトガルはセネガルからガンビアまで進み、アフリカの最西端をまわって、シェラレオネ近辺にまで進出していた。それ以降、その活動領域はさらに拡大する。 彼の死後、アフォンソ5世(在位1438-81)の治世においても、金を目指したアフリカ西岸の開発は続く。「この期間の初期の開発は個人の請負で行なわれた。1468年[リスボンの富裕な商人]フェルナンド・ゴーメスという商人は、1472年までの5年間、毎年2万レイスを王室に支払[…い]、シエラ・レオーネ以南の海岸を100レグアずつ開発するという条件で、全ギニア海岸の交易独占権を取得、1473年この条約はさらに1年延長された」という(安部前同、p.78)。 ポルトガル人は、1471年になって黄金海岸で待望のスーダンの金を取引することに成功する。また、ゴーメスは奴隷海岸のサン・ジョアン・バティスタ・デ・アジアュダに商館を置いて、小麦、織物、衣類、毛布などと交換して金を取得する。こうしてポルトガルは金をはじめ、奴隷や象牙、マラゲッタ胡椒を持続的に輸入できるようになる。 それによって、遠洋航海と遠距離交易がいまや十分に儲かる事業となり、またポルトガルは1457年にはクルザド金貨を鋳造することができるようになった。なお、ギニア湾岸はその交易品から、胡椒海岸(現リベリア)、象牙海岸、黄金海岸(現ガーナ)、奴隷海岸(ナイジェリア、ベナン、トーゴ、そしてガーナ東部の海岸部)などと名づけられることとなる。 ▼1498年、ヴァスコ・ダ・ガマ、インドに到達▼ 1474年、アフォンソ5世は西アフリカ事業を王室の独占とすることを宣言し、それをジョアン王子に譲渡する。しかし、ポルトガルは1481年にアフォンソ5世が死ぬまでは、カステイリアとの戦争に忙殺されて、アフリカ西岸の大きな開発は行えない。1479年、ポルトガルは西アフリカ沿岸を争ってきたカスティーリャとアルカソヴァス条約を締結して、ヴェルテ岬以南の沿岸を確保する。
ディオゴ・カンという航海者が、同じ1482年(さらに、1488年)、ジョアン2世の「赤道を越えよ」との命を受けて、アフリカ西海岸を南下、ポルトガル人として始めて赤道を越える。彼は、コンゴ川のデルタに到着した際、ポルトガル王がこの地を占有したことを示す、パドランという十字架のついた石柱標識を立てる。それ以後、ポルトガルの征服者たちは、それに見習うようになる。後述のダ・ガマも、喜望峰の近くにパドランを立てるが、離岸すると、原住民がすぐに破壊したとされる。 ジョアン2世は、1483年コロンブスの西回りの提案を拒否し、アフリカ大陸を南下する計画を続ける。1487年、バルトロメウ・ディアス(1450-1500)をアフリカのさらなる探検に海上から、そしてペロ・デ・コヴィリャンとアフォンソ・デ・パイヴァをプレステ・ジョアンの国(エティオピア)とインド洋航路の探索に陸路から、派遣する。1488年、ディアスはアフリカ南端を迂回する。その南端を「嵐の岬」と呼んだが、ジョアン2世によって「喜望峰」と命名される。さらに進もうとするが、乗組員の反対にあって帰国する。インド洋航路の調査からも貴重な情報がもたらされた。 ジョアン2世は、それらの成功にもかかわらず、なぜか直ちには反応しない。1490年嫡子の王子が死んだとか、1494年には深刻な飢饉が起きたとか、後継者争いが起きたとか、総じて気弱になったからとされる。あるいは、コヴィリャンからの報告を待っていたからだともされる。このコヴィリャンは、1520年ポルトガルがエティオピアに使節団を派遣したとき、その国の宮廷に仕えていたという。 スペインに鞍替えしたコロンブスが、1492年すなわち喜望峰発見から4年後、新大陸を「発見」して帰帆する際リスボンに漂着して、ジョアン2世に謁見する。それに対応してか、2年後の1494年地球を二分するトルデシリャス条約が、ポルトガルとスペインとのあいだで締結される。ここにおいて、ポルトガルは初めてインド洋に入り込んで、アジアの香辛料を獲得する意志を固めたとみられる。 ジョアン2世のいとこのマヌエル1世(在位1495-1521)は、ディアス後の10年目となる1497年になって、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)の率いる4隻の船(100-120トンのカラベル船3隻、小型輸送船1隻、乗組員170人)を、インドに派遣する。その艦隊は1498年遂にインドに到達する。その後のアジア進出については、Webページ【2・3・3 西南アジアに押し入るポルトガル】と【3・2・1 東南アジアの港市とヨーロッパの進出】においてふれた通りである。それを簡単にたどれば次のようになる。 ポルトガルは、1510年ゴア、1511年マラカといった胡椒の産地・集散地を攻略して要塞化する。1522年には、丁字や肉豆蒄の産地であるマルク(モルッカ)諸島のテルナテ島に進出する。アデンの攻略には失敗するものの、1503年にはソコトラ島に要塞を構え、1515年にはホルムズを制圧する。さらに、ポルトガルは東進して、早くも1513年に中国に接触し、その30年後日本に到る。 こうしたポルトガルのアジア進出は、海のシルクロードにある交易拠点を武力支配して制海権を握り、海のシルクロードにおける交易路を大西洋に引き込み、ヨーロッパ向けアジア交易を独占しようとしたものであった。それは、あくまで交易ネットワークを築くことにあり、領土を拡大することではなかった。 それに成功したことから、ポルトガルは海洋帝国とか、交易拠点帝国と呼ばれる。その結果、香辛料などアジアの産品は紅海やペルシア湾―地中海経由ではなく、喜望峰―大西洋経由で輸入されるようになり、その担い手はイスラーム教徒やヴェネツィア人からポルトガル人に替わる。 16世紀初めから半世紀にわたって、毎年6-7隻の船が喜望峰を経由してインドに渡り、年間1500-2000トン前後の香料を、ヨーロッパに持ち帰ってきた。当時の積み荷の8割は胡椒で、そのほか肉桂・生姜・丁子・肉豆蒄等の香料、宝石・真珠などであった。しかし、それ以降になると、インドやペルシアの宝石・ダイヤモンド・絹、インドのグジャラートやベンガルの綿織物、中国の陶磁器などの取扱いが次第に増える。 ヴェネツィアがヨーロッパの香辛料交易を支配していた、15世紀末には胡椒の価格が高騰して、1501年1キンタル(約50キログラム)が131ドゥカド(クルザド)まで跳ね上がっていた。しかし、リスボンに胡椒が海路持ち込まれると、1503年40クルザド、20クルザドに暴落する。それでも、ポルトガル人は現地で1キンタルの胡椒を3クルザドで買い入れていたので、十分採算がとれた。
その場合、ポルトガルが海洋帝国となりえた財務的な裏付けは、イタリアやドイツの商人に大いに依存していたことにあった。ガマの第1回遠征もフィレンツェ商人の出資なくして成り立たなかったとされる。それを代表するのはバルトロメオ・マルキオーニであった。彼らは、後続のアルメイダやアルブケルケといったインド副王たちの遠征には、イタリアやドイツの商人は多額の出資をしただけでなく、自前の船や代理人をインドに派遣さえしていた。 なお、16-17世紀の通貨換算率は、およそ、クルサド、ドゥカド、スクードは同額、1タエル=1-2クルザド、日本の銀1貫=100ドゥカドとされる。 ▼ポルトガルの盛衰、スペインによる併合▼
なお、このポルトガルの艦隊の巡航と監視、カルタスの所持と関税の徴収という強制システムは、インド洋において実施されたにとどまり、マラカ以東においては現地の王や首長と交易協定を結び、カルタスを強制せず、砲艦外交にも走らなかった。 ポルトガルはアデンを攻略できなかったため、紅海交易ルートを閉鎖に追い込めなかった。ポルトガルのインド洋の制海権の掌握には、最初からほころびがあった。しかも、そのルートを支配するマムルーク朝(1250-1517)などに対抗するため、イランのサファヴィー朝(1501-1736)のホルムズ経由のペルシア湾交易ルートを黙認さえしていた。1538年、オスマン帝国がアデンを征服すると、イスラーム教徒の紅海交易ルートは再開され、香辛料は地中海に再び流れ込むようになり、ポルトガルの独占が崩れる。 その結果、1550年代、インド洋から西に向かう香辛料の海上交易のうち、ポルトガル人たちが支配していたシェアはせいぜい4分の1程度になり、アラブ半島経由の交易量は喜望峰経由に匹敵するまでに回復したとされる。 ポルトガルは、アジアの産品などをリスボンからフランドルのブルッヘに置いた商館に持ち込んで、ヨーロッパ諸国に向けに売りさばいて利益を上げてきた。しかし、アジア産品が紅海やペルシア湾―地中海経由での流入が復活すると、その役割が終わり、1549年ブルッへの商館は破産する。また、後述するように、16世紀半ばからポルトガル王室の海上交易権(航海権、後述)が譲渡されるようになると、ポルトガル王室独占はますます有名無実なものとなり、インディア州からの収入は激減してしまう。 こうしてポルトガルの香辛料交易が衰微し始めるなか、1556年ドン・セバスティアン(在位1557-78)が即位すると、ポルトガルの王室へのスペインの影響力が強まる。彼は、1578年無謀なモロッコ再征服をこころみて大敗、本人も戦死し、国の財政は大きく傾く。その後継として、ジョアン3世の孫に当たるスペイン王のフェリペ2世(在位1556-98)が、1580年ポルトガル国王(在位1580-98)を兼任することになる。 彼は、ポルトガルを併合したにもかかわらず、その自治を認め、その海外支配を保証する。それをポルトガルの貴族や聖職者ばかりでなく、商人たちも歓迎する。それは、アジアの香辛料交易に不可欠な新大陸からの銀をセビリアから手に入れ、またイギリスやフランスの私掠船が活動するなか、スペインの艦隊の保護を受けたいからであった。このスペインの寛容な政策とスペインへの市場の拡大によって、ポルトガル経済は好転する。 スペインによるポルトガル併合あるいは同君連合の時代は、1580年から1640年まで続く。この時代、ポルトガルの海事力の衰退は著しい。1499-1579年と1580-1612年を比較するとき、ポルトガルを出帆した船の数は620隻から186隻(年平均で7.7から5.6隻)に減少し、またそれらのポルトガル帰港率は89から64パーセントに低下した。この時代、ポルトガル人はアジアにとどまり、日本とのいわゆる南蛮交易を育むこととなる。 ▼カーザ・ダ・インディアの組織と権限▼ ポルトガルの海外進出は、ポルトガル王室の事業あるいはその管理のもとで行われたようであるが、その機構や実態は体系的に知るところとはなっていない。それを統轄する機関が、王権に直属するカーザ・ダ・インディア(インド商務院と訳されている)であった。 ポルトガル王室は、ガマの帰国後、1500-05年にかけて3回、インドに交易船隊を送り込んでいるが、そのなかにはフィレンツェやジェノヴァ、クレモナ、アウグスブルグの商人、そしてポルトガルの貴族が仕立てた船も含まれていた。 ポルトガル王室は、商人あるいは乗組員の区別なく、輸出入ともに積荷の商品価格に対して25パーセント(当初50パーセント)、ベレンのジェロニモス修道院建設のために5パーセントの関税を徴収していた。しかし、インドの交易品に対する関税としては、ポルトガル王室が長年にわたる喜望峰航路の開発費や護衛に対する保護費としては不十分であった。 ポルトガル王室は、インド交易を独占して税収を上げ、それによって艦隊と要塞の費用を捻出しようとして、1507年カーザ・ダ・インディアを設立する。それには前史があり、航海王子エンリケの時代の1455年、アルガルヴェのラゴスに設置された、アフリカ交易所に起源があった。1482年、ジョアン2世はギニアにミナ砦を建設するが、金の取引を国王独占にするとリスボンに移される。そして、1506年になってインド・ミナ商務院規約が公布される。
カーザ・ダ・インディアの設立によって、イタリアや南ドイツの商人たちはインド交易(香辛料の現地買い付け)から排除されることとなった。カーザは、インドで仕入れた香辛料を、自らが決めた価格でもって、彼ら商人に払い下げるようになった。払い下げ価格のうち30-60パーセントが税金であった。それでもイタリアや南ドイツの商人たちは大きな利益を上げた。 早くも1508年、アントワープにカーザ・ダ・インディアの代理店が置かれ、ヨーロッパ向けの香辛料を扱うことになる。これにより、ヨーロッパの商人たちは香辛料の仕入れ先を、ヴェネツィアからアントワープに次第に切り替えるようになり、ヴェネツィアなどによる地中海交易は後退させられる。 淺田実氏は、経済人類学者カール・ポランニー(1886-1964)が示した交易の類型から、カーザ・ダ・インディアは「再分配企業体」、すなわち「軍事力の利用と支配を通じて、支配下の商品(胡椒、香料)を一手に集め、それを人びとに再分配する機関であった」とする(同著『商業革命と東インド貿易』、p.61、法律文化社、1984)。 ▼国家歳入にしめる交易収益の高さ▼ 「大航海時代」のポルトガルという国家は、王室の交易による利益と海上交易に対する関税によって成り立っていた。 ジョアン2世の時代、西アフリカのミナ商館などから年間800キロの金をはじめ、奴隷・象牙・マラゲッタ胡椒が、マヌエル1世の時代、喜望峰経由でインドの香辛料が直接リスボンに入ってきた。それらからえた巨大な収益によって、彼らは絶対王政を確立する。その時代の国家歳入の状況は次のようであった。なお、1クルザド=400ミルレイス、1ミルレイス=1000レイスである。 「インド航路開設まもない1506年では[総額約50万クルザドのうち]国内歳入(リスボン税関の収入を含む)19万7000クルザド、それに対して海外からの収入は30万3500クルザドと全体の61パーセントを占め、香料[の取引]だけで早くも4分の1に近い23パーセントに達している。アジアの香料とミナの金だけでも25万5000クルザドと全歳入の51パーセントを占めることになる。 これがインド香料貿易の最盛期の1518-19年度になると[総額約77万クルザドのうち]、アジアの香料だけで30万クルザドに上り、国内収入の28万5000クルザドを上回って、全歳入の38.8パーセントを占め、海外収入は48万7500クルザドで、全体の63.1パーセントになる。この数値から改めて16世紀前半のポルトガルの国家財政が海外収入に大きく依存していることが分かる」(金七前同、p.104)。なお、いずれの場合も、ミナの金の収入は12万クルザドである。 16世紀後半になると、カーザ・ダ・インディア官僚の腐敗や汚職、密貿易、交易維持費用の増大が起きる。そのため、ポルトガル王室はインドの胡椒交易を商人に次第に委ねるようになり、1570年にはそれから完全に手を引くようになる。カーザ・ダ・インディアは、胡椒買い付けと輸送、そして売り捌きの委託あるいは請け負いを、インド契約やヨーロッパ契約に分けて、商人たちと結ぶようになった。 カーザ・ダ・インディアの御用を承る商人は、イタリアや南ドイツの少数の大商人たちであり、買い付けや売り捌きのシンジケートを組んでいた。1591年、ヨーロッパへの売り捌きシンジケートのうち、南ドイツのウェルザー家とフッガー家のシェアは32分の12であった。これによって、カーザ・ダ・インディアは単なる徴税機関となり、胡椒交易は自由化されたこととなる。そして、南ドイツ商人の交易独占が確立する。
1577年のインド胡椒薬種商品取締規定によれば、関税は1キンタル当たり胡椒18クルザド(カーザ・ダ・インディアの払い下げ価格は32クルザドとなっていた)、丁字、肉柱、肉豆蒄、藍30クルザド、生姜50ミルレイス、その他の商品従価10パーセントとなっている。それ以外に、インド副王の収入になる胡椒1キンタル当たり100レイスや、船賃および慈善事業への付加税を支払ったとされている。
そして、1577年規定でインディア州領域の関税も変更されたらしく、「自由港になったマラッカでは輸出入関税が免税され、またマラッカ経由マラバール海岸に運ばれる胡椒はカナノール、チャーレ、コテン、クーフォンの諸港でも取引が自由化された。ポルトガル向けの胡椒は無税で船積みされるようになったが、ポルトガル本国以外に船積みする場合は6パーセントの輸出関税がかかった。すべての積荷はカーザ・ダ・インディア宛とし、他の地点への輸送や転売は禁じられていた」(以上、安部前同、p.132-5)。 ▼奴隷交易の先駆けにして最後の廃止者▼ ポルトガルは大西洋における奴隷交易の先駆けであった。エンリケ王子の時代、西アフリカ探検が進められるが、その積極的な成果として奴隷交易がはじまる。初期は奴隷狩りであった。1441年、アンタン・ゴンサルヴェスを船長とする船がモーリタニア北部のリオ・デ・オロに上陸して、黒人でないアゼネゲ人を12人捕らえ、ラゴスに連れ帰った。1444年には、ランサローテ・デ・フレイタスが奴隷の最初の輸送船団となる6隻を率いて、さらに南のアルギン礁に赴き235人の捕虜を拉致してくる。 1466年には、ベルデ岬諸島サンティアゴ島に砦が建設され、セネガル川からパルマス岬までの、上ギニア地域の交易拠点になる。また、1482年には黄金海岸にサン・ジョルジュ・ダ・ミナ砦(通称エル・ミナ)が建設され、金交易の拠点となる。1488年、バルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の希望峰に到達する。その後、1493年には下ギニアのベニンやギニア湾のサントメ島が平定される。それ以後、サントメ島は奴隷の収容所、かつ砂糖生産地となる。 ポルトガル人は、マディラ諸島やカナリア諸島に加えてサントメ島においても、砂糖業を発達させるが、それに黒人奴隷が送り込まれることとなる。ポルトガル王室は、奴隷交易を自らの管理下におくため、1486年にリスボンに奴隷局を創設する。 布留川正博氏によれば、「この組織の役割は、まずアフリカからリスボンに運び込まれてきた奴隷を受け取り、検査し、標準価格をつけ、オークションで売却することであった。また、奴隷商人に交易許可証を発行し、特許料を受領した。この許可証によって貿易を営む商人は、さらに売上高の4分の1を税として奴隷局に納めなければならなかった。これは現金でよりも奴隷そのもので支払われる場合の方が多かった」という(池本幸二他著『近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で』、p.97、人文書院、1995)。 ポルトガル商人が獲得した奴隷の数は、15世紀後半は年間数百人から2千人程度であった。16世紀前半順調にいった場合、年間5500人程度であった。このうち3500人がモーリタニアから上ギニアで獲得され、残り2000人が下ギニアならびにコンゴで獲得された。それら奴隷のうち約2000人がリスボンに運ばれ、その半数がヨーロッパ諸国に転売された。その残りは、西アフリカの砂糖プランテーションに送られ、またミナ砦において金と交換された。 1492年、コロンブスのアメリカ大陸「発見」によって、スペインの砂糖プランテーションがカリブ海諸島に建設されるようになり、黒人奴隷の需要が喚起される。その経過については、Webページ【3・1・1 スペイン、その破壊と略奪の交易】を参照されたい。1510年以来、ポルトガル人はそれらスペイン植民地に黒人奴隷を、ほぼもっぱら送り込むようになる。 ポルトガルの奴隷交易は、16世紀前半、ポルトガル王室の重要な収入源となる。1550年代末の奴隷交易による王室収入は約3000万レイスに達していた。他方、16世紀初頭のミナの金交易による王室収入は約4800万レイスであったが、50年代にはそれが半分以下に低下したので、王室にとって奴隷交易は安定した収入であった。 1500年、ブラジルがポルトガル人船長ペドロ・アルヴァレス・カブラルによって「発見」されるが、ポルトガル王室の関心は当初パウ・ブラジル(蘇芳)に限られていた。しかし、1530年代からブラジルへの植民が進めれ、1532年にブラジル南東部のサン・ヴィセンテ、翌年には北東部のペルナンブコに、砂糖業が導入される。 それにインディオが使用されるが、彼らは労働意欲を持ちえず、労働生産性は著しく低かった。そうした彼らを駆り立てたため、彼らはポルトガル人に反抗し、砂糖プランテーションの焼き払うなどするようになる。それに対して、ポルトガル人たちは内陸に向けて無差別な奴隷狩りを行って、16世紀末までインディオ奴隷制を採用する。それでも労働力が不足するため、1570年代からアフリカ黒人奴隷の輸入が本格的に行われるようになる。 フィリップ・D・カーティン氏によれば、アフリカ黒人奴隷の輸出量は1451-1600年27万人、17世紀134万人、1701-1810年605万人、そして1811-70年189万人、合計955万人であったという。それぞれの期間において、ブラジル向け輸出量が占める比率は18.2、41.8、31.3、60.3パーセント、合計38.1パーセント(364万人)となっている(同著『大西洋奴隷貿易―その統計的研究』、p.268、University of Wisconsin Press、1969)。 大西洋奴隷交易において、ポルトガルのブラジル領への輸出量が圧倒的である。それに次ぐのがカリブ海諸島である。ブラジルの輸出量の多さについては、ブラジル内において奴隷の再生産が行われなかったことが指摘されている。 17世紀、大西洋奴隷交易にオランダやイングランド、フランスが参入してくるなかにあっても、ブラジル領への黒人奴隷の輸出についてはポルトガルが終始一貫して関わっている。19世紀、奴隷交易や奴隷制の廃止が広がるが、ブラジルはコーヒーブームのなかで、それらの廃止を拒み続ける。その奴隷交易は1850年、奴隷制は1888年になって廃止する。その時、ブラジルには250万人にものぼる黒人奴隷がいた。 ▼インド洋交易船の航程と香辛料の取引▼ ポルトガルのインド洋交易船は、その最盛期の16世紀前半、次のような航程をたどった。「毎年3月か4月、約7隻の船から成るインド船団がリスボンのレステロを出港し、7月喜望峰を迂回してインド洋に入る。船団は南西の季節風に乗って8月後半から9月前半にインド西海岸に到達する。各地で買い集められた香料を満載した船は1月ころコーチンを離れると、今度は北東の季節風を利用して2月に喜望峰を越え、大西洋を北上すると、6月中旬から9月上旬までにテージョ川河口に入港した。往復1年半を要する長い航海であった」。 なお、これら艦隊はそのすべての艦船が本国に帰航するわけではなく、そのほぼ3分の1が現地における軍事や交易のために留め置かれた。なお、本国とインドのあいだを往復する航海はきわめて危険で、本国を出航した船の約20パーセントすなわち5隻のうち1隻が難破したとされる。 その時期、「ポルトガルには年間3-4万キンタル(1500-2000トン)の香料が喜望峰経由で搬入されたが、この量はアジアで生産される香料の約15パーセントに相当した。香料は、いったん商務院内に収められると、25パーセントの関税を上乗せして、1キンタル当たり胡椒22クルザド、肉桂25-38クルザド、丁子60-65クルザド、生姜18-21クルザド、肉豆蒄300-312クルザド、豆蒄花92-100クルザドの価格で売却された」(以上、金七前同、p.105)。 カーザ・ダ・インディアにおいて、どのように実務が行われたかについて、「多額の金を納付した業者の船は原則として船団を組んで航海した。[インディア州で]胡椒を買い付けると、普通積荷は4キンタルの荷包み(梱)を単位とし、また乗組員のキンタラーダの積荷を積み込む。リスボンに着くと、積荷はすべてカーザ・ダ・インディアにおろした。そこで、ヴェドール(取締役)が業者とキンタラーダの所有者から香辛料を買い取った。ただ、王室は自ら決定する価格で買い取り、それを都合のよい時期に外国に売却した」。この交易がいま上でみた個人の自由貿易に当たるようである。 一手の買い手である「カーザ・ダ・インディアは、香辛料をポルトガル船、後にはフランドル船やオランダ船に積み込み、アントワープのフランドルの商館に輸送し、ドイツやイタリアの大口買取り業者に売り渡した。これらはフッガース、ヘシュステター、ヴェルセルなどの大商人であった。ポルトガルの領土内では胡椒は王室の独占であったのに対し、国際市場ではこれらの大会社が取引を独占していた」という。 なお、インド仕向け船の乗組員のキンタラーダの積荷とは、彼らの給与が低いため、「司令官から水兵にいたるまで、香辛料の取引に参加できる権利があった。それは、階級に応じた俸給の一部として、一定数量の胡椒を取得する権利であった。それに必要な金額は商館に預託された」(以上、安部前同、p.132-5)。 ポルトガルの初期の香辛料交易時代から、乗組員に香辛料の取引が認められていたとは思えない。それはともかく、帆船時代の乗組員には一定量の私交易―カーゴ・スペースという―が広く認められていた。それによって利益をえたのは、小金持ちの乗組員さておき、貧しい乗組員に融資していた、陸上にいる小金持ちであったであろう。 ▼インディア州とその組織、使用船▼ ポルトガルのマヌエル王は、インド洋における海上交易の画期的な意義を認識して、1505年に司令官フランシスコ・アルメイダ(在任1505-09)を初代副王として派遣し、インド洋の制海権を獲得させることとした。そして、1507年アルブケルケ(在任 1509-15)を2代総督に任命し、インド洋の要地を征服して要塞や商館を建設することとした。また、それら要塞や商館を維持する経費は現地で支弁させることとした。インド洋における航海や交易は、すでに述べたリスボンのカーザ・ダ・インディアが統轄していた。 インディア州(領)の最高責任者は副王あるいは総督であった。副王には現地に駐留する艦隊の司令官を兼ね、東アフリカ海岸、マラカ、マカオなどの役人や軍隊、艦船に対する支配権が与えられていた。彼らは過去にインディア州で勤務し、功績をあげた人物のなかから任命されるのが原則であった。その任期は3年で、再任あるいは重任される場合があった。なお、副王と総督の区別は任命される者の身分による呼称で、その権限は同じであった。 副王(総督)は、はじめはコチン、1530年以降はゴアに駐在した。そのもとに、事実上の総督府が作られた。通常3人の監督官がカーザ・ダ・インディアの指示を受けて、インド洋各地にある商館や船舶に配置された商務員を指揮した。1563年以後、正式に副王を議長とする諮問機関が置かれ、ゴア大司教、首席異端審問官、ゴア市のカピタン(軍事指揮官)、ゴア市のフィダルゴ(後述)、財務管理官、高等裁判所長、その他によって構成された。 ポルトガル人は、インド洋各地に建設された要塞あるいは商館、それに付属する区域を本国と同じように都市(シダーデ)と呼んでいた。それらのうち、コチンとゴアは早くから本国の都市と同じ特権が与えられ、またマカオには1582年、コロンボとマラカには17世紀初め、市参事会が設置された。マラカでの設置が17世紀初めになぜなったかは不明である。それ以外は基本的には兵士や船員が駐屯するだけの集落であった。 このように、ポルトガルはいち早く海外進出を遂げ、1530年代インド洋に覇権を築くが、それが保有する外洋船は300隻にとどまり、その拡大する支配圏を維持するには不十分だった。さらに、インディア州において造船施設があるのはゴアだけで、しかも小型船を建造するにとどまった。そのため船舶の不足となったが、ダウやジャンクなどのアジアの船でもって、それを補わざるをえなかった。 ▼アジアに来た、残ったポルトガル人▼ ポルトガルからアジアにやって来て、その艦船や現地の要塞、商館に配置されたポルトガル人は、少数の上級貴族のほかは、フィダルゴと呼ばれる血統を重んじるが貧乏な農村貴族と、平民の兵士や船員たちであった。彼らのインディア州において勤務できる期間は通常3年であった。 ポルトガルは、その王権が伸張した1527-32年という時期の調査で人口わずか140万人という、小農業国であったので、その拡大する支配圏に要員を補充することは容易ではなかった。平民の兵士や船員たちは、主としてリスボンの他、北部のミーニョやドウロ地方から供給された。その数を補うため、アルブケルケは現地人との混血を奨励したという。 1540年頃、インディア州にいたポルトガル人の数が10000人を超えることはなかった。このうち、勤務者となる資格のあるのは6000ないし7000人で、実際に勤務についているのはその半数くらいであった。この10000人ぐらいでは、東アフリカのモサンバサから中国のマカオまでの要員としては、明らかに不足であった。 1000、2000トン級のガレオン(大型で重装備したナウ)はポルトガル人だけで満たすことができず、数人の士官と15-20人の砲手を除いて、それ以外はすべてアジア人かアフリカ黒人奴隷を使わざるをえなかった。また、小型船の場合、船長ひとりがポルトガル人で、後はアジア人が当たり前であった。アジア人はグジャラートのイスラーム教徒の船員が多かったといわれる。 インディア州の勤務者は任期が満了すると、原則として帰国しなければならず、帰国の旅費は自弁であった。ただ、現地の女性と結婚した人びとに限り、現地に住み着くことが許された。そのため、多くの人々が民間ポルトガル人として、アジアに残るようになった。 民間ポルトガル人はインディア州を構成する都市のほかに、インド洋交易圏を形成する各地の港市にも住み着き、商人、傭兵、職人などになって活躍した。彼らは、現地でポルトガル人町を築いて、来航するポルトガル船のための商品集荷などのさまざまな活動を行った。彼らが特に盛んに活動した地域は、現在のビルマやタイであった。彼らは現地にポルトガル風の生活を持ち込み、「インド=ポルトガル文化」を生んだ。 ポルトガル人傭兵隊が、ビルマのタウングー朝の成立、それをめぐる動乱、そしてアユタヤ侵攻に大きな役割を果たしたことはよく知られている。1543(天文12)年、種子島に漂着した倭寇王直の中国船に便乗していた3人のポルトガル人は商人であり、火縄銃を将来させたことはよく知られている。 ▼ヌーノ・ダ・クーニヤの改革―独占の緩和―▼
生田滋氏は、「インド洋貿易圏におけるポルトガルの活動とその影響」(生田滋・岡倉登志編『ヨーロッパ世界の拡張』、p.18-37、世界思想社、2001、所収)において、その事例を詳しく紹介している。それを要約しても次のようにかなり長文となるが、ポルトガルの東アジアにおける航海権の譲渡などといった開放が、具体的にどのように行われていたかを知りうるので、あえて掲載する。 その大まかな特徴は、王室の交易独占はゴアから遠くなればなるほど緩和、開放され、それがインディア州の勤務者に対する特権としてばかりでなく、インディア州に居留する民間人にも譲渡されるようになり、しかもそれが競売に付されるようになっていたことである。 ▼王室船を用いた交易の部分的な開放▼ インディア州の首府ゴアからモザンビクやセイロン、モルッカ諸島向けの航路には王室船を就航させ、勤務員の給与や商館・要塞などの駐留に要する費用(以下、それらを現地経費という)を賄うための交易が行われ、その残余の交易について部分的な開放が行われている。 特に、モルッカ諸島航路における先買いや課税の状況は、王室独占の緩和あるいは開放の条件を示したもののようにみえる。なお、カピタンは司令官、艦長・船長、要塞の長官などを指す。 @ アフリカ東海岸のモザンビクとソファラ向けに、毎年1隻が王室負担でナヴィオ(通称ナボ、中型のナウ)が仕立てられ、その船には食料、武器弾薬、カンバーヤ(グジャラート王国)の衣服、数珠玉などの商品が運ばれる。それら商品は各地で金や象牙と交易されて、現地経費の支払いあるいは充当され、その剰余が王室のものとなる。この航海や交易は、インディア州において行われた王室船による王室交易となっている。 A セイロン向けに、毎年1隻が王室負担でナヴィオが仕立てられる。その船は、セイロンに食料や金を運び、その貢物を受け取って帰る。この航海のカピタン職(航海権)は、当初はともかく、後には身分の低い、功績の大きいフィダルゴにも与えられるようになった。この航海はカピタンに1回毎に4000クルザド前後の収入をもたらした。彼には40ミルレイスという名目的な給与が与えられていた。 B モルッカ諸島において、ポルトガルの交易支配が成功せず、王室の交易は困難となっていた。そのため、ここでは毎年1隻のガレオンがモルッカ諸島に向かうことが許されていたが、それ以外の船が向かうことは禁じられていた。このガレオンには、現地経費に充当するための金や衣服のほか、個人採算の商品が持ち込まれ、そこから個人採算の丁字を持ち帰えられていた。 その場合、彼ら海上交易人には、往路の積荷に出港税8パーセント、モルッカ諸島出帆時に積荷となった丁字の3分の1を強制買い上げられたうえで、復路の積荷に取得税20パーセント、入港税8パーセント、マラカ通過税1バール当たり3クルザドという重い税が課せられていた。それでも利益が十分にあったのであろう。なお、国王の丁字の買上げ価格は1バール当たり1500レイスであった。
ゴアから、コロマンデル海岸を経由してベンガル湾に向かう航路では、インディア州勤務者にその交易がほぼ全面的に開放され、航海権を取得した勤務者やそのアンダー・ライセンスをえた民間人による、民有民営となっていた。これまでの航路とは違って、独自に調達されたいわば特許船が就航しており、現地経費を賄うための交易は行われていないことになっている。 C コロマンデル海岸で積荷して、ベンガル湾岸に沿ってマラカに向かう航路では、毎年数隻のナヴィオが王室の経費負担で派遣されていた。いまではそれは取りやめとなり、歴代の国王が特定の人々に、その功績に酬いるため恩賞として、その航路の航海権を与えるようになった。 彼らは、自らの負担で数隻のナヴィオを準備して、それら海岸に出向いて国王のナヴィオと同じように航海する。特権を与えられていない人々は、特許船に一定の積荷料(運賃をいい、積荷の価額の10パーセント)を支払って商品を積み込むか、それに便乗しなければならなかった。 この航海から挙がる利益は、ペグー向け5000-6000クルザド、マルタバン向け1000クルザド以上、テナッセリム向け1000クルザド前後、ウジュン・サラン向けはそれよりもやや低く、ケダ向けも同様で、マラカ向けは6000クルザドであった。 D ベンガル湾岸に直接に向かう航路では、特定のカピタンに特権を付与するのではなく、副王の部下すなわち勤務者が申請することで与えられようになっていた。この航海権を与えられた者は、その航路において略奪行為を働き、カルタス(航海許可証)を所持しないイスラーム教徒のダウを多数拿捕して大きな利益を挙げていたという。 なお、この航路に限って違反船の拿捕権が付与されていたように書かれているが、他の航路についても同じであったのではなかろうか。 ベンガル湾岸の港には、多数の民間ポルトガル人が契約したナヴィオが来航して商取引を行っていたので、それらの港に向かう航海を管轄するカピタン・モール(統括司令官)の職が設けられていたという。ピプリ向けは8000-10000クルザド、小さな港サトガオン向けは6000-7000クルザド、大きな港チッタゴン向けは2000クルザド近くの利益があったという。 ▼マラカのカピタン、事前に航海権を取得?!▼ ポルトガルは、1511年マラカを占領し、そこを東南アジアの軍事・交易の最大拠点とするが、そこに駐在するカピタンにはマラカ以東の航路について、特別扱いがなされていたようにみえる。マラカのカピタンにあっては、その特権を小分けにして、民間人に売り渡している。 E マラカのカピタンは、当時、ジャワ島東端のバランバンガンに向かう航海を自分の経費負担で行っていたが、それ以外の航海については自分の経費で行う場合もあったが、その権利を他人に売る場合が多かった。 マラカを起点とする近距離航海については、その特権はマラカのカピタンにあらかじめ与えられていたとみられる。これはかなり重要な措置であるが、ゴアにいる副王も同じであったかにみえる。 F マラカから中国への航海は薬種や香料、その他を運ぶため「薬種航海」と呼ばれた。それはマラカのカピタンだけに認められた航海であって、それ以外の船が就航すること禁止されていた。彼は、自分の負担において、あるいは特権を売却することで、毎年1隻のナヴィオを派遣していた。 中国向けの船にはカピタンのほか、他の人々の商品が積み込まれた。1回毎に10000クルザドの利益があり、その権利は5000ないしは6000クルザドで売却された。したがって、カピタンは3年の任期中に20000クルザド近くの利益をうることとなった。 ▼航路特権の売却価格―予想利益の1/2から1/3―▼ このように、インド大陸南端以東の航海権はそれを譲渡された者が、それをさらに下位者―そのほとんどは民間ポルトガル人とみられる―に売却している。その1回当たりの売却価格は、東アジア航路においては予想利益の2分の1から3分の1となっている。特権取得者は、3年の任期中に、特権航路で上がる利益の1-1.5年分を少なくとも手にすることができた。特権取得者は、王室の高官やインディア州の副王や高官に相当の贈り物をしたり、あるいは賄賂を使っていたであろう。 G 中国から日本に向う船は、その航海権を取得した者が自分の経費で準備した船を、何とゴアから出発させたという。 ゴアでは若干の商品を積むが、マラカではそれに入港税8パーセントが課せられた。ただ、マラカでは同地のカピタンが特権を持っているため薬種や香料を積むことができないが、彼から権利を買い取れば積むことができた。他方、マラカでは日本に向う船を仕立てることはできないため、マラカの人々が日本との交易を加わるためには、往路、復路を問わず、多額の積荷料をカピタン・モールに払わなければならなかった。 カピタン・モールが資金を持っている場合は自分の船で日本に出向いて利益を挙げるが、それがなかったり、あるいは日本に行きたくない場合は船に商品を積み込み、マカオでその帰航を待ったという。マカオでは中国産や東南アジア産の中継品が積み込まれた。ポルトガル人にとって、日本に向う航路はゴア―マラカ―マカオ―日本という航路として行われた。 H 日本に向う航路にはマラカ―アユタヤ―日本という航路もあった。航海権を与えられた者が、毎年1回航海する。アユタヤにおいて日本に向けの商品が積み込み、日本に直接向かう。日本からの帰路、マカオに寄港した上で、マラカに戻る。この航海からは1回毎に1500クルザド前後の利益がある。この航海権には500クルザドの価格がついた。 I マカオから東南アジアに向けた航海も行われていた。スンダ向けの航海は、毎年1回、胡椒を積み取るために派遣され、1回毎の利益は6000/7000クルザド前後であった。この航路は明の海禁令が解かれると、中国船が多数進出してきたため、ポルトガル船は撤退を余儀なくされる。 マカオからパタニ向けの航海は、毎年1回、1000クルザドの利益があり、その権利は300クルザドで売却された。マカオからティモール向けの航海は、毎年1回、400クルザドの利益があり、その権利は400クルザドで売却された。 ▼航海権、勅令によって下付、売却を承認▼ 高瀬弘一郎氏は、ポルトガル史料から、日本に関する国王の副王宛の勅令や書簡を91通抽出している。そのうち、日本への航海権の譲渡に関する勅令や書簡は26通(筆者によれば28通)であり、それらは1563年から1623年までの日付となっている。したがって、日本への航海権は1560年代というかなり早い時期から譲渡されていたことになる(同著『キリシタン時代の貿易と外交』、八木書店、2002、以下、高瀬貿易という)。 国王が交易や航海が独占しているので、航海権の下付(高瀬弘一郎氏は贈与という)は当然、国王が行うが、航海権を下付することを直接の内容とした勅令は1560、70年代の7通にとどまる。それ以外は、航海権の下付の目的や下付の可否、航海権に関する応答となっている。王から下付された航海権はすべてカピタン・モール航海権となっているが、単なるカピタン航海権があったような文言も見受けられる。 また、その目的をマラカ、マカオ、セイロンなどにある要塞や教会の造営・修理費用を捻出するためとする、1回限りの航海権の下付となっている。しかし、同じ年に複数、下付されている場合もあり、他の文書では2回、3回の下付の例もある。したがって、ここで抽出されたのは特定の目的ための1回限りの航海権にとどまり、通常の3回程度の航海権下付については含まれていないとみられる。 要するに、ここに抽出された26通の元本は、王が下付した日本への航海権のすべてを網羅していなかったということである。 それはともかく、その一例は次の通りであるが、それは他に比べ詳細な勅令となっている。当然の指示以外で注目されるのは、特権取得者がインディア州の副王に交易資金を貸与するよう命じていることである。それは初期の航海権の下付の例であるからであろうか。
「1612年3月27日付け、リスボン、インド副王宛て書簡。シナ司教プレイ・ドン・ジョアン〔・ピント〕ザ・ビュダデから、マカオ市の聖母教会のために、マカオからコチンシナへの航海およびマカオから日本への航海権を与えてくれるよう、朕に要請してきた。同航海権をカピタンたちは、毎年レアル貨500パルダウで売却するのを常とする。また時には、マカオからカンボジアへの航海やマカオから日本の航海権が、レアル貨300パルダウの値になる。彼からの要請を聞き入れることが出来るよう、朕は貴下に対し、その値、関係の規則や勅令に基づき日本航海を行なう者に関する事柄、それらの航海を行なうのか、航海権を売却するのか、司教に譲与するについて不都合があるか等、これらの航海権について情報を得るよう依頼する。その他、彼の俸禄について支給が延滞している分を支払うよう、貴下に依頼する」(高瀬貿易前同、p.353-4)。 「1615年2月20日付け、リスボン、インド副王宛て書簡。朕の許可を得て行なわれる日本航海権の売却が、その職務に要求される資質と能力に欠ける人物に対して行なわれていること、そのために朕に対する奉仕において多大の不都合と混乱を来していることを知った。可能な限りこれを是正するのが適切であるから、朕は貴下に対し、そのように尽力し、これの売却はカピタン職の義務を遂行することが充分出来るだけの人物に対して行なうことを命じるよう依頼する」(高瀬貿易前同、p.357)。 なお、日本航海権は1万6000クルザドで売却された例が示されている。 ▼ポルトガル王室交易の利権化▼ インド洋と東南アジアにおける海上交易は、まず国王が勤務者に航海権を下付することで開放され、それがさらに民間ポルトガル人に売却されるようになると、インディア州勤務者の地位に応じた利権となる。そうなればインディア州勤務者の地位そのものが利権となる。 16世紀後半は、ポルトガルのインド洋や東南アジアの活動が衰退し始めた時期に当たる。その時点で、それらの航海と交易が王室の独占だという建前はなくなってはいないが、それがインディア州勤務者や民間人にほぼ全面的に開放されつつあったといえる。17世紀になると、海上交易の権利はいまやインディア州勤務者の功績に対する恩恵ではなくなり、競売でもって落札される利権となり、王権に寄生する貴族や高級官僚、高位聖職者の利殖の対象となった。それに伴って王室の収入は次第に減少したとみられる。 それでありながら、王室の独占という建前は国王が航海権を下付する形式で堅持され、またインディア州の艦隊や要塞、商館は維持されなければならない。したがって、インディア州は王室に一定の収入を保障し、またインディア州が現地経費を調達しなければならない。それら王室や現地の経費は、インディア州における関税や取得税などの課税、基幹航路における王室船による交易、交易品に対する王室先買い権の行使、民間船による王室の交易などによって生み出されていたのであろう。それも次第に浸食されていったとみられる。 ポルトガルの海上交易の利権化について、合田昌史氏は「ポルトガル国王は1550年代以降王室貿易の一部を、特権として大貴族や騎士団に譲渡するようになった。インド領の役人や王室船の乗員は船内にスペースを与えられ、自費で香辛料を購入してインド領の経費でそれを輸送した。ポルトガル人の私貿易はとくにべンガル湾と東南アジア島嶼部において目立っていたが、しだいに東アジアへと拡大していった。短期の譲渡益は長期的にみて、王室の損失をもたらした。数千クルザドで売却された貿易権の価値は約200万クルザドに相当したからである」と述べている(同稿「ポルトガルの歴史的な歩み」『世界各国史16スペ イン・ポルトガル』、p.384-5、山川出版社、2000)。 |