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結章 近世海上交易論
―加工再輸出交易のはじまり―

▼ヨーロッパで起き、アジアで起きない商業革命▼
 16世紀、ヨーロッパでは産業革命に先駆けて、商業革命が起きたとされる。それは近世世界経済の修辞の一つである。それについていろいろと説明が加えられてきた。
 例えば、竹岡敬温氏は「中世末期のヨーロッパをおそった経済停滞は、平和の回復、人口増加、そして16世紀の海外発展とともに終りを告げるが、この近世ヨーロッパの海外発展の幕を開いた15世紀末の『地理上の発見』は……東インド貿易とアメリカ大陸貿易の2大分野を開いて大洋貿易を発展させ、国際商業の構造を大きく変化させて、ヨーロッパ経済に画期的な影響を及ぼし、以後2世紀余にわたってヨーロッパ諸国間に国際商業戦をひきおこした。これを経済史上、『商業革命』とよんでいる」と述べる(同他編著『概説西洋経済史』、p.38、有斐閣選書、1980)。
 アダム・スミス(1723-90)は、「アメリカの発見と、喜望峰を経由する東インドへの航路の発見とは、人類の歴史に記録されたもっとも偉大でもっとも重要な2つの事件である」が、「2、3世紀という短期間しか経過していないので、はたしてこの結果が全体としてどれほどのものなのかを見わたすことさえ不可能である」と、18世紀後半になっても商業革命が進行中であるかようにいう(同著、大内兵衛他訳『諸国民の富』3、p.388、岩波文庫、1965)。それを受けてか、竹岡敬温氏も商業革命は「地理上の発見」以後、2世紀余にわたる国際商業戦、通常、重商主義戦争の期間に及んだとしているかにみえる。
 浅田実氏は、商業革命が長期化に及んだとしても、16世紀の交易品は香辛料や銀、担い手はポルトガルやスペイン(実質はイタリアや南ドイツ)の商人、18世紀のそれらは砂糖や茶、キャラコ、イギリスやオランダ、フランスの商人となっており、その差異は歴然であるという。
 そして、前者をヨーロッパの、後者をイギリスの商業革命と呼ぶ場合があるが、それらは前期、後期あるいは本来の商業革命というべきであって、本来の商業革命は「産業革命を準備し」、また「生活革命を生まずにおかないところの、ヨーロッパ外世界との経済的・商業的交流……こそ、本来の商業革命と考えるべき」とする(同著『商業革命と東インド貿易』、p.11、法律文化社、1984)。
 このように、商業革命はあくまでのヨーロッパにおける、あるいはヨーロッパにとっての商業革命である。ヨーロッパで起きた商業革命が、アジアではなぜお起きなかったのか。
▼産業革命前に「近代世界システム」が成立?!▼
 商業革命は、一面ではヨーロッパ世界における社会経済の変革だけではなく、他面では非ヨーロッパ世界に対する「ヨーロッパの拡張」であったとされている。それは、15世紀のポルトガルとスペインの世界分割競争にはじまり、17-18世紀の重商主義戦争(植民地取得戦争)においてイギリスが勝利したことで一応決着する。なお、東ヨーロッパにはトルコが拡張したことにより、ヨーロッパの交易圏は狭められた。
 そのなかでの新しい事態は、ヨーロッパ列強が世界各地を侵略―植民地や交易拠点を建設―しながら、世界各地から経済諸力を結集するようになったことである。これについて、イマヌエル・ウォーラースティン(1930-)は16世紀の大航海時代以降の、ヨーロッパ列強の世界各地への進出の結果として、ヨーロッパ列強が中核国となり、アメリカやアフリカを周辺国として支配する、近代世界システムが誕生したとする。その場合、アジアやロシアは周辺国としては扱われていない(同著、川北稔訳『近代世界システム』T、U、岩波書店、1981)。
 浅田実氏は、ウォーラースティンが商業革命を言及しなかったことに残念がりながら、すでにみたように「商業革命というのも、結局こうした大航海による交通技術の革新を利用して、広範に点在していた世界各地の経済諸力を結集することに他ならなかった。つまり、商業革命の勝利者は……世界システムの形成者であった」し、「商業革命によって近代世界システムは形成されたのだ」といえるという(浅田前同、p.14-15)。
 ウォーラースティンは、「近代」=資本主義的という用語を冠し、それが現代に無段階に引き継がれた世界システムとしているが、浅田実氏にあっては産業革命前に起きた商業革命がそれを形成したという。そこで、明らかなことは、商業革命あるいはそれによって形成された「近代世界システム」が、商人あっての商品、あるいは商業あっての工業という、古代からの社会経済システムを変革しなかったことである。それを成し遂げるのは産業革命に他ならない。
 したがって、商業革命が形成した「近代世界システム」は近代=資本主義的世界システムではないが、現代まで引き継がれている中核国と周辺国とのあいだの支配・従属関係と、中核国が周辺国から経済諸力を取り込む交易関係が近世、商業革命を通じて形成されたことは明らかである。
 すでにみたように、商業革命は前期と後期では交易品と交易の担い手には大きな差異があり、後期の商業革命の勝利者となったイギリスの交易はアメリカ・アフリカやアジアから農産品を輸入し、それを加工して多くをヨーロッパ諸国に、そして一部をアメリカ・アフリカやアジアに再輸出した。この輸入品の加工・再輸出が産業革命を準備することとなった。その意味で後期の商業革命は本来のあるいはイギリスの商業革命と呼びうる。
▼アジアはヨーロッパ人が求める東方産品の産地▼
 「地理上の発見」あるいは新航路の発見の目的は、アジアに出向いて、金・銀・香辛料を入手することにあった。その直近の契機は、マグレブ交易における香辛料の高値や、オスマン・トルコの東地中海への進出に対応することにあった。そして、それを動機づけあるいは合理化したのが、アフリカにいるキリスト教徒との邂逅とか、異教徒へのキリスト教の宣教であった。
 奢侈的動機と宗教的動機とがない交ぜになって、海外に進出して行こうとするヨーロッパ人の心性は、すでに11-13世紀の十字軍運動によって培われ、そしてポルトガルとスペインによるレコンキスタの成功によって熟成されたものであった。そのあからさまな前例は、ヴェネツィアが自らの交易のために第4次十字軍を利用して、ローマ教会と対立する東方教会があるコンスタンティノープルを征服したことによく示されていた。
 ヨーロッパ人の大航海時代をさかのぼること約50年前、中国明代の1405年から約30年間にかけて、鄭和(1371?-1434?)を司令官にした7次にわたる南海大航海が行われた。それは、16-17世紀になってポルトガルやオランダが進出する、インド洋と東南アジア島嶼部をくまなく遠征していた。この大航海の目的は示威活動と交易促進にあったが、それに当たって武力を使うことはなく、また交易拠点を建設することもなかった。
 その大航海事業の目的は達成されて朝貢交易は盛んになるが、その後海禁政策がとられ、朝貢交易も制限されてしまい、その成果は一時的なものに終わる。こうして、中国が中核国となって東南アジアやインド洋を周辺国とする、「世界システム」を構築する機会をむざむざと逃してしまう。そうしたありようは、何も明朝に限ったことではなかった。それはなぜか。
 まず明らかなあるいは決定的なことは、アジアが、ヨーロッパ人が古代から求めてやまない、東方産品の産地であったことである。中国は絹・絹織物や陶磁器、その他工芸品、インドや東南アジアは香辛料や綿織物の産地であった。それに対して、ヨーロッパ人には見返り商品が、古代からほとんどなかった。近世になっても同じで、バスコ・ダ・ガマ(1469?-1524)はみすぼらしい産品を差し出し、カリカットの王に笑われた。
 それでも、ヨーロッパ人たちにとって東方産品はなくてはならず、アメリカ産の銀でもって支払うしかなかったが、それを補うためアジア域内交易―時代は下がるが、オランダの日本との俵物交易、イギリスの中国との阿片交易が、その典型―に携わることとなる。
 他方、中国は領土が広く、多くの特産品を持っており、遠隔地から格段の産物を買い付ける必要に迫れることはほとんどなく、東南アジアやインドの国々からの朝貢交易でもって足りた。そうした状況はインドでもほぼ同じであって、グジャラートやマラバール地方の交易民が活躍したとはいえ、進んで買い付け交易を行う必要はなかった。東南アジアは東西交易の中継点に位置していた。
▼ヨーロッパの武力によるAAAへの進出▼
 近世、ヨーロッパ人が東西両インドに、特にアジアの場合見返り商品がないにもかかわらず、かなり安易に進出できたのはなぜか。いまアジアに限っていえば、中国の明朝は冊封体制をしいていたが、インドと東南アジアに海上覇権を築いていたわけではなかった。アジアの国々は、ヨーロッパ人の進出に対して、個別に対応することとなった。アジア人とヨーロッパ人とが相対したとき、そのあいだの武力―大型武装船、銃器・弾薬、戦法―と征服欲には、画然たる差があった。
 十字軍運動やモンゴルの世界制覇の時代、アジア人とヨーロッパ人の武力の差はほぼ互角であった。モンゴルの世界制覇は騎馬の勝利であった。それに対して、ヨーロッパ人はイスラーム勢力に対抗し、またヨーロッパ内の長年にわたる陸戦や海戦に生き抜こうとして、様々な砲や銃を改良し、また戦法―舷側砲による片舷斉射―や築城法を考案してきた。
 16世紀以降、ヨーロッパ人の武力の優位が確立し、それに基づくその領土的・経済的な侵略は現在まで続いている。それはさておき、近世、ヨーロッパ人はインドと東南アジアの交易拠点を次々と攻略して、自らの拠点としていった。そのなかでも、ポルトガルのアジア進出を決定づけたのは、1509年のディヴ沖の勝利によるインド洋、そして1511年のムラカ占領による海峡の制覇であった。
 ジャネット・L・アブー=ルゴド氏は、13-14世紀、ヨーロッパ・中東・インド・東南アジア・中国にまたがる世界(交易)システムが存在した、そしてこのシステムは「単一の覇権が生産と交易の条件を他者に強要するようなことをしなかった」という(同著、佐藤次高他訳『ヨーロッパ覇権以前』下、p.183、岩波書店、2001)。これはいままでで述べてきたことと同じである。
 しかし、アブー=ルゴド氏によれば、16世紀までに「『東洋の没落』が『西洋の興隆』に先行していた」とする。その「東洋の没落」の内容は判然としないが、その明白な史実として鄭和の大航海を取り上げる。「1435年以降、中国艦隊の撤退は……インド洋交易に権力の空白をもたらした。その結果、この空白はまずポルトガル、ついでオランダ、そして最後にはイギリスによって埋められることになった」。このように、「ヨーロッパの征服を容易にしたのは、先行するシステムのこの退化であった。したがって、『西洋の興隆』を単に先に機能していたシステムの『乗っ取り』であるとか、あるいは、それは何よりもヨーロッパ社会の内的特質[武力もその一つ]に帰せられる事柄だと見なすのは誤りであろう」と批判する(同著下、p.178)。
 「近代世界システム」は、ヨーロッパ列強にとって繁栄の、アメリカ・アフリカ・アジア(AAA)にとって悲劇の始まりとなった。その世界史的転換は、アブー=ルゴド氏にあっては、アメリカ・アフリカ・アジアの自業自得であって、ヨーロッパの進出における「暴力性」や「乗っ取り」は免罪されることとなる。アブー=ルゴド氏は世界的視野をもって、13-14世紀の世界交易を分析したが、その結論はヨーロッパ中心あるいは優越史観の裏返しである。
▼ヨーロッパの繁栄の、AAAの悲劇の始まり▼
 それに対して至極当然の結論もある。16-17世紀は、ヨーロッパにあっては商業革命ばかりでなく、軍事革命の世紀でもあったとされている。ジェフリ・パーカー氏は、16世紀、(1)軍艦の舷側砲の採用と斉射、(2)マスケット銃の採用と野砲の援護、(3)急激な持続的な兵力の膨張、(4)攻城砲に対抗する要塞の建設という、4つの軍事革新が集中したとする。そして、ヨーロッパ列強の世界支配を最終的に可能にしたのは何かを問い、次のように結論づける。
 「西洋はいよいよ世界の頂点に立った。ヨーロッパ諸国が地上と海上で果てしない戦いに明け暮れたおかげで、思いもかけなかったところから、たいした利子配当が最後に返ってきたのである。西洋諸国は、史上最初の地球的規模の覇権をまんまと手中におさめた。それはなににもまして、16-17世紀の軍事革命を基礎にした西洋の軍事的優位の所産であった」(同著、大久保桂子訳『長篠合戦の世界史-ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500-1800年-』、p.210、1995、同文館出版)。
 なお、訳者の大久保桂子氏は、長篠合戦において世界史上初のマスケット銃の一斉射撃が行われたという、著者の一片の指摘に驚嘆して、手前勝手に訳書名を付けたが、当の斉射についてはかねてから疑問が出されてきた。
 近世の商業革命あるいは「近代世界システム」は海上交易の担い手が先兵となり、国家がそれを支援する形で行われた。それは暴力が荒れ狂い、血肉をもってあがなわれた。この史実を、アダム・スミスは一方ではアブー=ルゴド氏とは違って率直に認め、他方ではアブー=ルゴド氏と同じようにはぐらかしている。
 「東西両インドの原住民にとっては、これらの事件からもたらされるはずの商業上のいっさいの利益は、これらの事件によってひきおこされたおそるべき不幸のなかに沈没し、失われてしまった。とはいえ、こういう不幸はこれらの事件そのものの本性からというよりも、むしろ偶然に生じたものであるように思われる」。
 また、「地理上の発見」直後は「たまたまヨーロッパ人側の力がひじょうに優越していたので、かれらは遠方の国々で罰もうけずにあらゆる種類の不正行為を働くことができたのである。ところが、おそらく今後はこれらの国の原住民がこれまでよりもいっそう強くなり、またはヨーロッパ人がいっそう弱くなるであろう」と、とぼけたことをいっている。(以上、スミス前同、p.389)。
 それに対して、カール・マルクス(1818-83)は産業革命を準備した世界各地から経済諸力の結集の過程について、「アメリカにおける金銀産地の発見、原住民の絶滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪の開始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらが資本主義的生産時代の暁光を特徴づける。これら牧歌的過程は[資本の]本源的蓄積の主要な契機である。その後に続くのが、地球を舞台とするヨーロッパ人諸国民の商業戦争である」ととらえられてきた(同著、資本論翻訳委員会『資本論』第1巻24章、新書版4、p.1285、新日本出版社、1983)。
 また、伊藤栄氏は商業史に引き寄せて、近世「商業は著しく政治的性質を帯びるものであった。それは、史上の世界市場への拡大が各国民の通商戦という形で行なわれたこと、商業が保護制度と植民制度をともなったことに最もよく表現される。商人は国家の保護を求め、王権と商人との密接な結合が生まれた。大商人は王権の保護の下に『独占会社』をつくり、貿易の独占をはかり、海外諸国を収奪し、植民地化しようと努力した」とする(同著『西洋商業史』、p.125、東洋経済新報社、1971)。
▼世界の中継交易人オランダの限界▼
 ヨーロッパの商業革命あるいは「近代世界システム」は、国家権力による暴力と海上交易人の貪欲の合作によって育まれた。そのための包括的な政策が重商主義政策であった。
 近世、オランダ人は海上交易人として躍り出て、世界の中継交易人となった。まず、ヨーロッパ交易圏では、バルト海の穀物と南ヨーロッパの塩や羊毛、銀との双方向の中継交易によって、また、アジア交易圏では東インド会社が香辛料交易をほぼ独占して、海上覇権を確立する。大西洋交易圏では、西インド会社が他国の植民地への奴隷の供給や砂糖の買い付けなどのもぐりの交易に励んだ。
 オランダは、17世紀前半「黄金時代」を迎えるが、後半からはイギリスやフランスの追い上げにさらされる。ヨーロッパ交易圏では、穀物の自給率が高まり、「オランダ交易の母」であった穀物交易は激減する。大西洋交易圏では、ブラジルの砂糖農園以外に、本格的な植民地を建設しなかったことから、その交易は頭打ちとなる。
 オランダは、海上交易人が圧倒的な地位を占め、都市貴族として、それぞれの都市や地域を支配する連邦共和国であった。イギリス絶対王政のように官民一体になって、一つの国として海上交易を保護し、また重商主義政策が展開する基盤がなかった。
 16世紀以降、イギリスの毛織物がヨーロッパ交易圏を席巻するようになり、また18世紀イギリスが植民地産品やその加工品を再輸出するようになると、オランダの中継交易は香辛料交易に特化して(あるいは東インド会社だけを残して)、短い繁栄として終わることとなる。海上交易人たちは自己勘定の交易を放棄して、受託交易人や利子生活者、金融業者に成り下がったとされる。
▼世界をイギリスの海とした重商主義政策▼
 イギリスの絶対王政は基本的には封建的な利害の擁護者であった。彼らは、自らの政治・財政的な基盤を維持しようとして海上交易を奨励し、仕向地別の商人組合の設立と交易独占などの特権を付与して税収を高め、自らもそれらに参画して利益を手にしてきた。海上交易人たちは、イギリスが海外進出の後発国であったため、絶対王政を最大限利用する。
 イギリスでは1642-88年市民革命が起きる。その時期はすでにみた商業革命の時期と一致する。この市民革命による社会構造の変革は漸進的で、海上交易の特権組合も解体されることはなかった。しかし、絶対王政の恣意的な政策は次第に実施できなくなり、国民の利益に即して自国産業を発展させ、それによって海上交易を増大することでもって、交易収支を黒字化する重商主義政策―それは資本の本源的蓄積政策でもあった―が展開されることとなった。その重要な柱として自国海運の保護と植民地の獲得が実施された。
 イギリスの重商主義政策は、ヨーロッパ諸国の利害と対立することになり、17-18世紀、多くの重商主義戦争が起きる。イギリスはそれらに次々と勝利して海上覇権を手にする。まず、オランダを17世紀半ば航海条例と3次の戦争でもって次第に追い詰め、中継交易国の地位から引きずり落とす。フランスとは、1756-63年の七年戦争を最後にして、世界の植民地争奪戦に勝利する。そして、ポルトガルやスペインを、経済的に従属させる。
 こうして、イギリスを中心にしてヨーロッパばかりでなく、アメリカやアジアを工業製品の販路、そして原料・食料供給地として包摂する、世界経済が築かれることとなった。イギリスの商人や船主たちは、重商主義政策から多くの交易需要を引き出し、七つの海をイギリスの海とする。
 フランスの海上交易は、ルーアン、サン・マロ、ロリアン、ナント、ラ・ロシェル、ボルドー、マルセイユといった交易港において、王政と対立するカルヴァン派新教徒の商人が担い手となっていた。17世紀前半、それら交易港はオランダ商人に牛耳られることとなった。彼らは、毛織物や穀物を輸入し、またワインや塩を輸出していた。フランスのオランダとの交易は入超となり、スペイン植民地への輸出でえた銀で支払っていた。
 17世紀後半、絶対王政が確立すると、財政総監J.B.コルベール(1619-83)は特権階層のための徹底した重商主義政策―なかでも関税戦争を仕掛ける―を展開する。東インド会社、西インド会社、セネガル会社など特権会社が設立するが、成功しなかった。その際、活躍したのが私掠船であった。それら政策はオランダやイギリスとの対立を呼ぶ。
 18世紀前半より、フランスの経済は成長を続け、特に西インド諸島のコーヒーや砂糖、綿花の生産はイギリスの植民地を上回る規模となり、それによってすでにみた主要な交易港はいままでになく繁栄する。後述するように、18世紀末にはフランスは、イギリスに次いで、世界第2の海運国に躍り出る。
▼世界各地の経済諸力の結集=買い付け交易▼
 商業革命は海上交易の革命でもあった。「地理上の発見」は、ヨーロッパ人にとって交易圏の飛躍的な拡大となり、世界の海のほぼすべてを自らの交易圏に組み込むこととなった。それに伴い、彼らの伝統的な買い付け交易は世界大に拡大していった。そこで重要なことは、ヨーロッパの非ヨーロッパ世界から、どのように経済諸力を結集したかである。
 近世ヨーロッパ列強が結集した交易品は、初めは中世と同じように香辛料や銀などが大きな比重を占めていたが、植民地が建設されると、次第に穀物、砂糖、タバコ、茶といった農産品や、綿花といった工業原料が多くなっていった。そして、植民地生産にとって不可欠な経済諸力である奴隷の交易が空前の規模になる。
 ヨーロッパ人は、アフリカ大陸あるいは喜望峰を周回する航路を発見したことで、それまで取りつけなかった東インド、そして広くアジアと、直接交易するようになった。それによりヨーロッパ交易圏とアジア交易圏は海路により結びつくこととなった。ただ、それは古代からの多段階の中継交易を排除して、伝統的な交易品を直接入手するにとどまった。
 アジアにおいては千数百年にわたって、いくつかの交易圏とのあいだで遠隔地や近隣地との交易が行われていた。ヨーロッパ人たちは、このアジアの伝統的な交易秩序を割り込み、それを破壊しながら交易することとなった。彼らは、いくつかの交易都市を支配することはできたが、アジアをアメリカのようにヨーロッパの周辺として取り込むことはできなかった。
 このアジア交易に対して、アメリカ・アフリカはヨーロッパ人にとって未知の土地であり、またそれとの交易は新規に登場した交易であった。ここに、大西洋交易圏が築かれたことで、海上交易圏が世界の海にくまなく築かれたこととなった。
 アメリカ・アフリカはヨーロッパ列強による地域分割の対象となった。南アメリカには、インカ帝国をはじめ大小様々な国々が存在しており、ヨーロッパ人による領土の占拠に抵抗した。アメリカ・アフリカには、香辛料はなかったが、金や銀があった。ヨーロッパ人たちは、まずそれを略奪し、そして採掘した。さらに、アメリカでは栽培植民地を建設して、交易品を生産するようになった。これら採掘や生産に当たって、まず先住民を、それに代えてアフリカで買い取った黒人奴隷を酷使した。
 この近世ヨーロッパ列強の買い付け交易は、近世、「地理上の発見」と植民地建設の拡大にともなって、際限もなく増大していった。この際限のない買い付け交易は、機械制大工業が大量な原燃料資源の、地球を半周するような長距離輸送を伴う買い付け交易として引き継がれている。この買い付け交易は、近世までは海上交易の主たる形態をなしていたが、近現代になると工業製品の売り込み交易の副次的な形態となる。
 近世、世界に広がった交易圏の相互依存あるいは多角的な関係が、築かれることとなる。例えば、アジア交易圏の東方産品はそのすべてではないが、ヨーロッパ向けかアメリカ向けかを問わず、アメリカ大陸の銀でもって支払われるようになり、アジア交易圏と大西洋交易圏との依存関係が深まる。これにより、世界の交易量の増大が促される。
▼オランダの中継交易からイギリスの加工交易へ▼
 近世にあっても中継交易がなお大きな役割を果たしていた。近世ヨーロッパにおいて、ドイツ・ハンザに代わって、オランダが大きな役割を果たすこととなった。そのオランダは、17世紀、史上最大の中継交易人として振舞い、「近代世界システム」の体現者となる。しかし、すでにみたようにその繁栄は短く、18世紀なるとその役割は著しく減退する。
 中世、イギリスはヨーロッパで最大の羊毛などの輸出国であったが、その多くはイタリアやハンザの商人によって壟断されてきた。近世、イギリスが羊毛輸出国から毛織物輸出国に転換する。それは近世初期におけるヨーロッパ交易圏の構造変化であった。
 その場合、イギリス人は、自国産の毛織物を外国人の買い付けや中継交易に頼ることなく、しかもオランダなどの先進毛織物と競争しながら売り込む必要に迫られた。イギリスは、毛織物工業を自国の良質な羊毛を原料とした、国民的な産業として育成したことにより、毛織物を世界各地に売り込むことに成功し、その輸出においてオランダを追い抜く。さらに、イギリスはアメリカ大陸の栽培植民地から農産品を買い付け、それを加工して再輸出することに成功する。それは本格的な加工再輸出のはじまりとなった。
 それに当たって、イギリスは航海条例を制定するなど重商主義政策を展開して、本国と植民地の輸出入をすべて自国の商人や船主の手で行わせ、それら交易から中継交易国オランダを排除しようとした。この自国貨・自国船主義の政策は、イギリスのみならずヨーロッパ諸国において広く採用される。それはオランダの中継交易の役割を終わらせることとなった。
 近世、ヨーロッパ諸国においては、古代から流れであった第三国が交易民や中継国となって、輸出入国の交易に参入するという形態は重商主義政策のもとで終焉し、輸出入国がぞれぞれ自国船を保有して自国貨を輸送するようになった。それにより、ヨーロッパ諸国の海事勢力はそれぞれの植民地を含む国力に対応することとなる。
 その結果、1670年代、ヨーロッパの全船腹量約200万トンのうち、イギリスの50万トン、フランスの10万トンであるとき、オランダは90万トンという突出した地位を占めていた。しかし、1786/7年になると商船保有量(内航船を含む)はイギリスの120万トン、フランスの72万トンに対して、オランダは第3位の40万トンに凋落する。それらに、デンマーク・ノルウェー39万トン、イタリア25万トン、スウェーデン17万トン、ドイツ16万トン、スペイン15万トン、ポルトガル9万トン、オーストリア8万トンが続くこととなった。
▼おわりに▼
 近世、ヨーロッパの海上交易も、近代への過渡期であった。海上交易は、世界各地から経済諸力を結集することになったが、それは伝統的な最終消費財の買い付け交易の世界化であった。それでも、栽培植民地から輸入した農産品や若干の工業原料を加工し、再輸出するようになった。この加工再輸出は、商人あっての交易から、工業あっての交易のはじまりであった。
 しかし、いまだ産業革命以前にあって資本主義的生産様式は確立しておらず、生産価格を基準とした交易(あるいは平均利潤が配分される交易)―工業製品の売り込み交易―は成立していない。それは、19世紀においてイギリスが綿花を全面的に輸入、それを加工して、世界各地に再輸出すること―イギリスの経済力の拡張―を手掛かりとして成立することになる。
 近世の海上交易の担い手については、特にヨーロッパにあっては大小規模の交易量の増加と海上保険の発達、海運市場の成長によって、商人と船主の分離がかなり進んだ。しかし、その全面的な分離は、近代商業の成立や、汽船の発達にまたねばならなかった。
 近世の海上交易において決定的なことは、ヨーロッパ列強によって世界が分割され、アメリカ・アフリカ・アジアがヨーロッパ列強の原料・食糧供給地、また工業製品の販売市場に組み込まれ、この「近代世界システム」のもとで海上交易が展開されるようになったことである。
 「近代世界システム」の展開に際して、オランダはイギリスやフランスから追撃されてはやばやと脱落、イギリスは重商主義戦争に勝利してその世界制覇がほぼ明らかとなる。しかし、イギリスの海上交易における隔絶した地位を確立するのは、19世紀に入ってからである。

【付記―近現代の海運と交易について―】
 この連載『海上交易の世界史』は、近世までを予定してきたし、従前利用していたブロイバダーが提供するホームページ容量10MBも消化したこともあって、一応完結としている。
 近現代の海上交易は、海運とのほぼ完全な分離のもとで、また船舶が帆船から汽船に転換するなかで、海運史そして交易史として扱われることとなる。近現代の海運史については、『海運概説』『現代の海運』『現代海運論』などの拙編著や、ホームページ「海上交易の世界と歴史」の関連ページ、なかでもe-Book【イギリス海運史】を参照されたい。いま、その主な特徴について簡潔に述べれば、次の通りである。
 19世紀、「世界の工場」となったイギリスは、1870年、世界の工業生産高の32パーセント、交易高の25パーセントを占めていた。その時、それら比率はアメリカが23、8パーセント、ドイツが13、10パーセントであった。商船保有トン数の比率は、イギリスが34パーセントという、隔絶した地位を築いていた。
 イギリスの商船隊は自国の交易量を上回る規模となっており、他国の貨物を積み取って運賃を稼ぐ、有力な輸出産業となっていた。なお、保有トン数の比率はイギリスに次いで、同植民地やアメリカがそれぞれ9パーセント、ノルウェー、フランス、イタリアがそれぞれ6パーセントであった。
 20世紀に入ると、後発資本主義国が経済成長するが、なかでもアメリカが急成長して世界覇権を築き、それにドイツが追随したことによって、イギリスの地位は大きく低下する。1913年の工業生産高のうち、アメリカは実に36パーセントを占めるまでになり、ドイツは16パーセント、イギリスは14パーセントに落ちた。
 世界交易額に占めるイギリスの比率は低下したものの、アメリカ15、ドイツ12、イギリス16パーセントとなっていた。また、それに対して、イギリスの海運業の地位は揺るぐことはなく、1911年それら国々の保有トン数の比率は2.5、8.7、33.8パーセントとなっていた。
 第2次世界大戦後、アメリカの世界覇権は揺ることがなかったが、旧ソ連の台頭や日本の異常な高度成長によって、1971年工業生産高に占める比率は大きく変化して、アメリカ33、旧ソ連16、西ドイツ5、日本5、イギリス4パーセントとなった。それら国々の交易額に占める比率は13、4、10、6、7パーセントとなった。
 1970年の商船保有トン数の比率は、リベリア14.6、日本11.2、イギリス11.4、ノルウェー8.5、アメリカ8.1、旧ソ連6.5、ギリシア4.8パーセントとなった。この大きな変化は、リベリアやパナマから国籍を小売りされた外国船と、ノルウェーやギリシアといった非荷主国の船が増加したことによる。なお、前者のアメリカが産みの親、日本が育ての親となった便宜置籍船(FOC)は、アメリカやギリシア、香港、そして近年、日本など先進国の船主が実質保有者となっている。
 近現代、海上交易において取引される品目は、先進国が工業製品、低開発国が一次産品を輸出入しあうという非対称な構造のなかで、それらはいずれも増加するが、数量において、一次産品は工業製品を一貫して上回り増加する。
 一次産品の交易量は、特に第2次世界大戦後、世界的な石油需要の拡大と、日本の原燃料多消費型の重化学工業の大量需要によって、著しく増大する。それはさらなる長距離輸送をともなっていた。海上荷動き量は、1950年戦前規模の5億トンを回復すると、その後驚異的な伸びとなり、1968年には20億トンとなった。戦前、石油は20パーセントにもならなかったが、1968年には54パーセントを占めるまでになる。
 産業革命の最後に、船舶という交通手段は帆船から汽船に転換する。汽船は19世紀初めに実用化されていたが、汽船のトン数が帆船を上回るのは1893年であった。そのなかで、海運業は商人船主の自己輸送(プライベート・キャリッジ)から脱して、独立船主の他人輸送(パブリック・キャリッジ)の担い手となる。そして、国家の助成を受け、多数の船舶が投入され、カルテルが結ばれる定期船海運と、1隻1隻が輸送単位として海運取引される不定期船海運に分かれ、前者が工業製品、後者が一次産品を主に輸送することとなる。
 すでに、戦前から、一次産品の専用船として石油タンカーが出現していたが、戦後、鉄鉱石、石炭、穀物などの専用船、そして工業製品の専用船といえるコンテナ船が登場する。それらは10、20、30万トンと大型船化していく。それにより、1950年の商船の船種別構成は、貨物船79.7、タンカー20.3パーセントであったが、それらは41.6、37.9、そしてその他専用船20.6パーセントという構成となる。
 これら大型の専用船やタンカーは、原燃料多消費型の重化学工業系の大荷主(ほとんどが独占企業)に低価格で長期用船され、下請け輸送体制に組み込まれていった。それにより、不定期船海運は開かれた海運市場で取引される分野でなくなり、大工業荷主に従属するインダストリアル・キャリッジ(工業化輸送)となる。
 最後に、繰り返しになるが、現代の海上交易の性格を一言でまとめれば、多国籍企業の世界支配体制のもとで、大量の原燃料資源の買い付け交易を基盤として、大量生産された大工業製品の売り込み交易(あるいは、大工業製品の売り込み交易とそれが必要とする原燃料資源の買い付け交易)が、大型専用船やコンテナ船による超長距離輸送として世界大に展開されているといえる。
(2009/03/31記)

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