ホームページへ

目次に戻る

イギリス海員組合100年史の研究
−世界の船員にとって海員組合とは何であったのか−

篠 原 陽 一

目次
まえがき
1 『NUS100年史』の著者とその構成
  1 著者の略歴
  2 章別構成
  3 産業別労働組合史の意義
2 『NUS100年史』の主な内容
  1 船員慈善、相互扶助と1850年海運法
    1) 船員に対する慈善
    2) 船員の相互扶助
    3) 1850年海運法の制定
  2 組合設立とそれをめぐる攻防
    1) ウィルソン、NAS&FUを設立
    2) 海運連盟の目的、手段
    3) NAS&FUの任意解散
  3 組合の再建、全国スト、船主の組合認知
    1) 組合再建、財政の中央管理
    2) 外国人船員問題と国際組織
    3) 1911年大ストライキの成功
  4 ウィルソンの指導路線、戦時NMBの設立
    1) 対決重視か、制度重視か
    2) 戦争による妥協の産物、NMB
  5 1906年海運法改正と議員ウィルソンの立場
    1) 1906年海運法改正の努力
    2) 反社会主義的な労働組合主義
  6 1920年代の賃下げ、TUCからの除名
    1) NMBの船員供給とその役割
    2) 賃金引き下げとその反対運動
    3) ウィルソンの政治信条と組織対立
  7 第2次世界大戦時の船員被害と戦後改革
    1) 船員の自発的勤務、死亡率50%
    2) 国際船員憲章の制定と船員常置制度の確立
  8 非公認ストライキとその対応
    1) 1947、55、60年非公認ストライキ
    2) 組合幹部の対応、船内代表制の採用
  9 1966年大ストライキと海運法改正
    1) 所得政策のもとでの大ストライキ
    2) 1970年海運改正法、労使関係法との対応
    3) 労使関係法に屈服、TUCからの除名
  10 組合危機のもとでの創立100周年
    1) 新しい船員制度の挫折
    2) 海外置籍による組合員の激減
    3) 栄光と苦悩の創立100周年
3 『NUS100年史』とNUS100年の評価
  1 『NUS100年史』の特徴と制約
    1) その特徴
    2) その制約
  2 NUS100年の評価
    1) 船員の大衆組織としてのNUS
    2) 船員の民主組織としてのNUS
    3) 経済取引団体としてのNUS
    4) 社会改革団体としてのNUS
    5) NUS100年の教訓

まえがき
 1980年代に入って、世界の船員労働は大きく様変わりした。それは、先進国の海運企業が
 自国籍船を削減し、それを便宜置籍船に移行させたことによって、世界の船員が先進国人船
 員から途上国人船員に置き換えられたことにある。そのもとで、先進海運国の海員組合はそ
 の運動が行き詰まり、組合員数を大幅に減らしたことにおいて、その存在そのものが問われる
 こととなった。
 それは、世界の船員にとって、いままでの海員組合は何であったのか、今後の海員組合は
 どうなっていくのかということであろう。そこで、過去の蓄積の上でしか、将来がありえないとす
 れば、過去を振り返り、それを反省することでもって、一定の回答がえられるであろうというも
 のである。
 こうした世界の船員労働の大きな構造変化と、そのもとでの先進国の海員組合の危機状況
 のさなかにあって、イギリス海員組合(the National Union of Seamen、以下、NUSという)は、
 1987年、創立100周年を迎えた。NUSは、世界の海員組合のなかで指導的な地位を占め続け
 てきただけに、その歴史を振り返ることは、大いに今日的意義があるといえる。
 NUSは、創立100周年に当たり、労使関係論の専門家であるアーサー・マーシュとビクトリア・
 ライアンに委嘱して、100年史を執筆させ、次のような書物を刊行した。
Arthur Marsh and Victoria Ryan
The Seamen: A History of the National Union Seamen 1887-1987
 Malthouse Publishing Ltd, 1989, A5, 9+357+16pp.
 この大部な著書(以下、『NUS100年史』という)の簡
単な要約は、すでに全日本海員組合機関 誌「海員」
(1991.9−1992.2月号)に、雨宮洋司氏と伊藤正志氏
(いずれも、当時、富山商船高等専門学校教員)とと
もに掲載してきた。
 しかし、それは内容を忠実にしかも極端に要約した
にとどまり、それぞれの時代における史 実やその記
述について解説、評価することがなかったし、労働組
合史研究上の論点について 念頭におかれていなか
った。
 そこで、『NUS100年史』を各章毎に紹介しながら、
それらの課題 を追及し、それを通じて世界の船員に
とって、いままでの海員組合は何であったかを明ら
かに してみたい。その場合、イギリスの海員組合が
爼上に上ることになるが、日本の海員組合の歴 史と
の関連づけも行う【1】【2】。
[注]
【1】 NUSは、過去に The Story of the Seamen:A
Short History of the National Union of Seamen,
1964を発行している。その邦訳は、『全英海員組合
ものがたり』、全日本海員組合教育パンフレット62、
1967である。
【2】 日本に関する事情についての参考文献を、逐
一上げることは省略する。それについて は、『全日
本海員組合40年史』、『全日本海員組合活動資料
集』、1986を参照されたい。

1 『NUS100年史』の著者とその構成
 1 著者の略歴
 責任執筆者とみられるアーサー・マーシュ氏は、1964年以来、オックスフォードにある労使関
 係研究所の主任研究員である。第2次世界大戦に従軍後、オックスフォード大学で近代史と
 PPE(哲学・政治学・経済学)を学び、1948年同大学の特別課外研究委員会の常勤講師となり、
 その後16年間、労働組合、最新の経営管理、労使関係教育を研究してきた。また、ドノバン委
 員会[労働組合と雇用者団体に関する王立委員会、1965-68、筆者注、以下、それを[ ]におい
 て示す]に参画したことがあり、多くの労使関係の審理や仲裁に関与してきた。そして、機械工
 業、鉄鋼業、事務職などの多数の産業に関する調査研究に従事してきた。著書として、『機械
 工業の労使関係』、『労使関係大辞典』、『労働組合ハンドブック』、『労働組合史辞典』(ビクトリ
 ア・ライアンと共著)、『従業員関係対策と意志決定』などがある。共同執筆者のビクトリア・ライ
 アン氏は、ラスキン大学(オックスフォード)を卒業後、1971年より前出の労使関係研究所の調
 査部調査職員である。
 このように、両氏はイギリスにおける労使関係論の専門家のようであり、特にそのエンサイク
 ロペディストとして業績を上げているようである。したがって、広い視野から、労働組合史を扱
 いうる立場にある。ただ、海運や船員に関する専門知識については不明であるが、それなりに
 消化して執筆されている。

 2 章別構成
 『NUS100年史』は、次のような章立てで構成されている。
 序文  NUS書記長サム・マクラスキー
 第1章 すくい難い者たち
 第2章 ハベロック・ウィルソンと新組合運動 1887-94
 第3章 組合の再建と新地平 1894-1911
 第4章 第1次世界大戦と海事協同会
 第5章 ハベロック・ウィルソンと労働運動 1
 第6章 ハベロック・ウィルソンと労働運動 2
 第7章 ウィルソンの遺産
 第8章 一般組合員運動
 第9章 1966年大ストライキ
 第10章 海運・労働市場と船員
 補遺  P&O社との対決
  脚注
  付録 (NUS、その他船員組合の組合員数と資産)

 時代的には、第1章から第3章が第1次世界大戦以前を扱い、NUSが労働組合として確立し、
 船主団体によって、ようやく認知されるまでの経過が記述されている。第4章から第7章は両大
 戦間期に当たり、創立者ウィルソン組合長の非政治主義と大恐慌期前後における賃金減額を
 めぐって、その組合の内外で生じた対立、抗争が記述されている。第8章から補遺が第2次世
 界大戦以降から現在までで、ウィルソンが築いた伝統が払拭され、新しいNUSに変身していく
 過程が記述されている。紙幅的には、第1章から第6章までが、全体の過半を占めている。そ
 れは、創立者ウィルソン組合長が組合設立を決意し、死亡するまでの時期に当たる。それほ
 どに、NUSとその歴史にとって、ウィルソン組合長が持つ意義が大きいものがあったことを示し
 ている。
 なお、脚注は実に75ページにも及んでいるが、それは単なる参考、引用文献の羅列ではなく、
 すでにみたように著者たちが労使関係論のエンサイクロペディストであることから、労働組合幹
 部を中心とした略歴や史実をふんだんに盛り込んだものとなっており、さらに深く時代背景を知
 りたいものにとっては、好個の案内資料となっている。

 3 産業別労働組合史の意義
 ここで取上げる労働組合史はイギリスの、しかもその海員組合史である。そうした特定の産
 業別労働組合史の意義は、どういったところにあるのか。その点について、あらかじめ確認し
 ておく。
 イギリス資本主義とそのもとでの労働組合は、それらの理念型としてとらえられ、それら以外
 の比較の対象とされてきた。イギリスは、資本主義の母国として、しかも最初の覇権国家とし
 て、世界経済を支配してきた。そのイギリス海運は、イギリス資本主義の成立の基盤をなし、
 自らも世界海運において超然たる地位を築いていた。そのなかで、イギリス海員組合は早い
 時期に設立され、世界の船員の社会的地位の向上に、指導的な役割を果たしてきた。
 しかし、イギリス海運の地位は後進海運国が進出するにつれ低下し、イギリス人船員の賃
 金・労働条件も世界に誇りうる状況ではなくなる。そして、最近にいたっては、便宜置籍船の台
 頭と途上国人船員の進出によって、イギリス海運は「衰微」し、イギリス人船員は著しく減少して
 しまった。そうした歴史を持つイギリス海運とそのもとにある海員組合について、その100年を
 振り返ることは、海運産業における労働問題を研究する場合、格好の資料といえる
 資本主義のもとで、労働問題は個別資本が労働者を雇用することを通じて発生する。しか
 し、資本主義は生産手段を異にする各種の産業によって構成されており、個別資本はその分
 岐をなしているにすぎない。それぞれの産業のありようは、ただ単にその産業自身の生成や盛
 衰ばかりでなく、その国の資本主義の生成との関係や、それがその国の産業構造に占める地
 位、それが国家と取り結ぶ関係、さらにその国やその産業の国際上の地位との関係などが異
 なってくる。
 それに伴って、それぞれの産業における労働者の労働能力や気質、労働態様はもとよりとし
 て、個別資本の指揮・監督、労働者の供給や労働市場のあり方、労使の交渉と対立、その結
 果としての賃金・労働条件の水準、さらにはその労使関係への国家介入のあり方なども異なっ
 てくる。確かに、労働問題はすべての産業に共通する性格を持つとはいえ、具体的には産業
 特殊的な性格を持つものとしてしか現れえない。したがって、労働組合史を研究するということ
 は、まずもって産業別労働組合史を取上げるということにならざるえない。それを通じて、その
 国の労働組合史をまとめることができるというものであり、またその国におけるそれぞれの産
 業別労働組合史の特殊性もまた明らかにすることができる【1】【2】。
[注]
 【1】 イギリス労働運動史の研究に関する邦書は少なくないが、それを通覧できるものとし
 て、富沢賢治『労働と国家−イギリス労働組合会議史−』、岩波書店、1980がある。
 【2】 また、『NUS100年史』に相当する時代のイギリス海運史については、好都合なことに、
 Ronald Hope, A New History of British Shipping, John Murray, 1990 の第三部(抄訳)が、三上
 良造氏により「英国海運の衰退」として、雑誌『海運』に1992.2より連載中であるので、参照され
 たい。なお、その抄訳には、『NUS100年史』であまり取り上げられていない、イギリス人船員の
 賃金・労働条件の実態が若干、紹介されている。

2 『NUS100年史』の主な内容
1 船員慈善、相互扶助と1850年海運法
 「第1章 すくい難い者たち」は、時期的にはウィルソンが1887年に組合を設立するまでであ
 り、主として17、8世紀におけるイギリス人船員の産みの苦しみ、「哀れな水夫」に対する慈善と
 かれらの反抗、相互扶助団体の活動、団結禁止法をめぐる動き、本格的な海運法とそれに対
 する労使の反応、そして船員労働組織の盛衰が記述されている。ここでは、船員に対する慈
 善や船員の相互扶助、それらの団体、および世界の船員法の基礎となった1850年海運法とそ
 れに対する労使反応について、その記述内容を紹介し、解説を加える。
 この時期は、イギリス資本主義が産業革命を成功させ、世界の覇権を握った時期、また1849
 年に航海条例が廃止されたように、イギリス海運もまた帆船から汽船に変わり、完全に資本主
 義化した時期に当たる。また、その時期の社会労働運動は、チャーチスト運動や10時間法運
 動がみられた時期でもある。ただ、それらと船員およびその労使関係に及ぼした影響について
 は、ほとんど関説されていない。
1) 船員に対する慈善
 著者は、18世紀の船員について、「われわれの島の国民には、相反する性格を持つ人間が
 いる。聖なる人と罪深い人、救われし者とならず者、重圧に勝利した人とそれに屈服した人
 が、それである。これら性格を、わが水夫ほど色濃く持っている国民もまたとない。尊敬と嫉
 妬、おそれと同情が、いろいろな割合で、かれらの評価となってきた」(原書1ページ、以下同じ)
 と要約している。こうした見方は、現代においてもまた日本においても、大なり小なりみられると
 ころであり、船員を誤解するパターンとなっている。
 イギリスにとって、船員は必要不可欠な職業でありながら、その置かれている状態は悲惨極
 まるものがあった。そうしたことに、無関心ではいられなかった。そこで慈善が現れる。それに
 ついて、次のような記述がみられる。
 「1696年の『船員奨励増進法』という議会法は、あらゆる等級の船員から毎月賃金から6ペンス
 を徴収し、グリニジ王立病院を運営することとした。それは教区での救済を代替しようとしたも
 のであった。しかし、その便宜を水夫がえたいと思っても、ほとんどかなえられなかった。その
 病院は、すぐに病気や災害、老衰に陥った被害者をわけへだてなく、面倒みることができなくな
 った。そして、商船船員が王立海軍に従事していても、それに入る資格が制限されるようにな
 った。それに代わる措置が必要であった。1747年、全国商船船員基金が設立された。それ
 は、グリニジと同様、船員の寄付によって運営された。それには、短期間の給付ではあった
 が、船員の年金や寡婦の救済という制度が含まれており、当時としては進んだ機構であった。
 当初は大変うまくいっていたが、結局は支払請求に圧倒されてしまい、19世紀、海運が拡大し
 ているにもかかわらず、1851年に廃止されている。この商船船員基金は、多くの私的な慈善団
 体が病気にかかった船員の救済や、船員住宅、水夫の子供の教育を実施するにあたっての、
 一つの実例となりまた刺激となった。それら団体は19世紀まで事業をつづけた」という(4-5ペー
 ジ)。
 この船員に対する慈善の記述は、きわめて簡略化されているが、政府が絡んだ慈善として
 の特徴は、一応示されている。1601年救貧法の制定に伴い、船員の救貧も教区に委ねられて
 いたが、1696年法に伴いそれから切り離された。その理由は、雇用の特殊性から、居所が定
 まらず、居所で雇用されもしない船員が増加し、一時の居所となる教区が救貧しなくなったた
 めとみられる。その結果としてではあるが、グリニジ王立病院、さらに全国商船船員基金が設
 立され、それが船員の拠出金でもって運営されてきたのは、政府や船主が教区の費用を代わ
 って負担しようとしなかったため、船員に拠出させるしかなかったからとみられる。
 それらの施設は、イギリス最初の拠出制医療あるいは年金制であるといわれているが、事実
 上は船員の相互扶助(自助)にすぎず、それが政府によって運営されたことが慈善であったい
 えば、そういえなくはない。そうした施設が船員に広範に利用されるわけはなかった。これら公
 的施設以外に、純然たる私的慈善もなかったわけではなく、その陸上一般施設が1860年代以
 後、発達したのに比べれば、それらが早期に発達していたといえるが、資本主義的な海運の
 発達あるいはそのもとでの船員の増加とともに衰退せざるをえなかったのは、当然の成り行き
 だった【1】。
2) 船員の相互扶助
 こうした慈善のかたわら、船員は他の労働者と同様に、自らの問題は自らが解決するとし
 て、福祉クラブを結成するとともに、「18世紀に入ると、船員はそのおかれている悪い状態に対
 する不満を、いたるところで、しかも一挙に爆発させる」(5ページ)。そうした請願やデモはおおむ
 ね暴動となる。
 イギリスの北東海岸は、船員組織の揺籃の地であり、ウィルソンの出身地でもある。その一
 角のサウスシールズで、1798年に水夫基金が設立され、「遭難や拿捕、あるいは病気や予期
 せぬ不幸、衰弱、老齢に陥った船員を援助する」ことにしている。また、同じく、ノースシールズ
 で、1824年に船員王旗協会 (the Seamen's Loyal Standard Association)が設立される。著者
 はそれを大変、野心的な友愛団体だったとしている。この船員王旗協会の「目的は、北東海岸
 の……多数の船員組織の活動と連係し、退職給付や遭難や病気、死亡の給付を管理するこ
 とにあった。しかし、ある船主は[1824年]団結禁止法の廃止を受けて、それ以外の重要な目的
 を持った労働評議会を打ち出そうとしている」と恐れていた(8ページ)【2】。
 この組織は、船主に要求書を出したり、クローズドショップを目指したりはしていなかったが、
 最低賃金を制定したり、船員の苦情を取上げる意図を持ち、その地方の賃上げストライキに
 関与していた。また、同協会は他の労働者組織とともに、団結禁止法の廃止に当たって、著名
 な急進主義者スランシス・プレイスから、議会の委員会に対する働きかけやそこでの説明の仕
 方について指導を受け、そのお礼に「週1ペンスの寄付を集めて買ったという、形のよい銀製の
 花瓶」を贈ったという(9ページ)。
 このように、先進的な地域において、団結禁止法をかいくぐりながら、相互扶助を基礎にし
 て、それらと連携を取ることで、労働組合の役割を担おうとする組織がみられえるようになった
 が、それらは著者がいうように船員の上っ面を組織するにとどまり、全国組織に発展する契機
 とはならなかった【3】。
3) 1850年海運法の制定
 イギリスは、1849年航海条例を廃止し、自由貿易に進む。それに伴って、その海運も世界に
 売れるサービスを提供せざるをえなくなった。「1836年、ある専門委員会はイギリス船の建造不
 良、整備不完全、船長と士官の泥酔・無能力を指摘していた」し、また「1846年……、ある委員
 会が……甲板積みの貨物は固縛すること、旅客船の検査は強制とする、また100トン以上の鉄
 船は隔壁を2つ設けること、そして『運賃は賃金の原資』という格言にもとづき、船員賃金は貨
 物が輸送され、船主が運賃を受け取った時に限って支払われてきたが、今後は貨物の輸送の
 有無にかかわらず、勤務を基準にして支払うこと」を勧告した(10)。ページしかし、何ごとの変化
 も起きなかった。
 1850年になって、政府は海運法を制定する。その制定に当たって、「海運サービスに雇用さ
 れている男たちが劣悪な状態にあるという、世界各地の領事からの報告が大きな影響を及ぼ
 していた」。その法律は、「シーマン・シップの基準、そして士官の虐待や船主の悪行から自衛
 できるといった、いままでとは違った側面の問題を取り上げていた」。それは、船長や士官の能
 力試験とその資格の取り消し、乗船契約書に「航海の種別と距離、乗船期間、乗組員の定
 数、賃金総額や積み込み食料、そして乗船中の規律と制裁を記載させる」(11ページ)。また、地
 方海運局を配置して、船長・士官の試験や船員の乗下船を管理することとした【4】。
 この法律に対して、「どんなわずかな規制でも、それを守ることはイギリス船の貨物を運ぶ権
 利を損なわせることになる」と、船主が不満をとなえたのはもとよりであったが、船員にとっての
 不満は「乗下船するたび毎に海運局に取られる手数料と、政府が法律に盛り込んだ船内規律
 条文にあった」。そこで、これまた北東海岸のノースシールズなどで、船員連合保護組合(the
 Seamen's United Protection Society)と称する組合が結成され、賃上げと法律改正を求めるス
 トライキを行う。それはロンドン、リバプールにも拡がり、さらに議会に請願を出すまでになる。
 それによって、「22か条に及ぶ規律違反の条文はその施行が停止され、そして雇入れや雇止
 めの際の手数料についても譲歩が行なわれる」(13ページ)。この紛争について、タイムズ紙は
 1797年王立海軍のノアの大反乱のミニチュア版だと評したという。
 この法律は、世界における船員法の先駆けといえるものである。著者は、「陸上では1972年
 雇用契約法のもとではじめて詳細を定められたものが、海上ではすでに122年前に整えられて
 いた」と評価している(12ページ)。この法律は、船員組織の要求に基づくものではなく、イギリス
 船とイギリス人船員が惨状をきわめていたため、政府がイギリスの威信を保とうとして、先取り
 的に法制化したものであった。したがって、本格的な労働保護法といえるものではなく、船員労
 働能力と労働規律の標準化を目指したものであった。船主に代わって、政府が船員を取締ま
 ろうとする役割を持った法律に、船員が反発し、それを廃止させようと、いわゆる制度的闘争
 を全国規模で展開した意義は見逃せない。しかし、船内規律条文の本格的な是正は、後述の
 ように、1970年海運法の制定まで待たねばならなかった。
[注]
 【1】 近世までのイギリス人船員の歴史、なかでも船員慈善や船員雇用、船員徴発について
 は、拙著『帆船の社会史−イギリス船員の証言−』、高文堂出版社、1983を参照されたい。
 【2】 ヘンリー・ペリング著、大前朔郎、大前 真訳『新版イギリス労働組合運動史』、25ペー
 ジ、東洋経済新報社、1983には、この団体は、雇い主の侵害に対抗するための団結の原理を
 擁護し、非組合員と乗船することを拒絶しようとしていたと紹介されている。
 【3】 シドニー・ウエッブ、ビアトリアス・ウエッブ著、荒畑寒村監訳、飯田 鼎、高橋 洸訳『労働
 組合運動の歴史』上巻、467ページ、日本労働協会、1963には、後述のNAS&FU設立前に、北
 東海岸で組織された船員の組合について記述されている。
 【4】 小門和之助『船員問題の国際的展望』、426-464ページ、日本海事振興会、1958は、
 1850年海運法に至る過程とその制定内容を詳細に紹介している。

 2 組合設立とそれをめぐる攻防
 「第2章 ハベロック・ウィルソンと新組合運動 1887-94」は、グレートブリテン・アンド・アイルラ
 ンド全国合同水火夫組合(the National Amalgamated Sailors' and Firemen's Union of Great
 Britain and Ireland、以下、NAS&FU という)の難産と、それをめぐる船主との攻防、船主の戦
 闘組織=海運連盟の結成、その圧迫のもとでのNAS&FUの任意破産について、記述されてい
 る。この期間は、イギリス労働組合の画期となった新組合運動が台頭した時期に当たる。ここ
 では、NAS&FUの設立、海運連盟の目的と手段、そしてNAS&FUの解散について取上げる。
1) ウィルソン、NAS&FUを設立
 『NUS100年史』の前半部分は、ハベロック・ウィルソン(J.Havelock Wilson、1860-1929)の歴史
 だといっても、決して過言ではない。ここで、かれの出自とNAS&FU設立の経過について、少し
 詳しくふれる。
 かれは、1860年、サンダーランドの服地職人頭の子供として生まれ、父親が死亡したことで、
 印刷工や石版工の徒弟に出される。13歳の時、海上に出て、11年間、さまざまな船の司厨ボ
 ーイ、有能船員、甲板長(次席士官相当)、時には調理手として働き、1879年に結婚して3年
 後、サンダーランドで「ウィルソンの宿泊と食事の禁酒店」と呼ばれる小さな食堂を開く。かれ
 は、「海上生活を送っていたことで持っていた外航船員家族に対するこだわりや、かれらとの
 長年のつき合いのなかで、労働組合運動について関心や不満を抱き、その改善が必要と考え
 るようになった。そこで生まれ育ち、仲間のいる土地で、最善を尽くすこととした」という(18ペー
 ジ)。
 ウィルソンは、1880年から「サンダーランドの組合」において活動し、吃水線の制定に大きな
 役割を果たした下院議員サミュエル・プリムゾル(1824-1898)をはじめ【1】、全国的に信望のあ
 る組合幹部や組合出身議員、弁護士から組合運動、議会工作、大衆宣伝の仕方を学んでい
 る。当初、その組合を全国組織に切り替えようと努力するが、それが受け入れられなかった。
 かれが組織した支部の剰余金を、本部に手渡さなかったことがとがめられる。それを契機にし
 て、自前の組合の設立に踏み切る。1887年7月、サンダーランドでNAS&FUの設立の会合を開
 くが、それに参加したのはただ一人であった。それにくじけず、同年8月に再度開催したところ、
 12人となった。
 この設立について、ロンドンのディリー・テレグラフ紙は、「……この組合は何を目指そうとして
 いるのか。まずすべての労働条件を改善すること、ついで賃金あるいは歩合金を担保として、
 しかも利子なしで前渡し金を支払わせること、そして適正な労働時間と公正な賃金を獲得すべ
 く努力することである。また、病気になった組合員を船主に扶養させること、起訴されて陸上に
 拘留された組合員に、賃金や裁判費、扶養費に関する救済策を講じることである。さらに、こ
 の組合は海運サービスに最良の船員を提供するように努力し、また乗組員が決められた時刻
 にしらふで乗船するよう監視することにある。そして、海難にあった船員の救済、求職旅行する
 船員の援助、傷病給付や結婚祝い金のための基金の設立などを検討することにしている。こ
 うした制度はすべて賞賛、喝采に値しよう。……辛かったことやいやだったことを忘れてしまう
 ほど、長い間、面倒を見てもらえなかった人々がいま目覚めて、組合を作ったわけであるが、
 看板通りのことをやり遂げられるであろうか。船乗りの友達は、かねがね、いろいろと尽力して
 きたが役に立たなかったと、絶望しているではないか。水夫自身が、そうならないことを望む。
 そして、このサンダーランドの全国船員組合という立派なプロジェクトが、何もなしえかったとい
 うことにならないよう希望する」という期待と不安を記事としていた(22ページ)。
 このNAS&FUの設立にあって注目すべきことは、まず弱小の地方組織を合同させるのではな
 く、最初から巨大な全国組織を目指したことにある。それが成功したのは、すでに全国合同組
 合が拡がりをみせているもとで、一般船員においてもそれを希望する雰囲気があり、それをウ
 ィルソンがつかんで精力的に活動した。しかも、それに当たって新聞記事にもみられるように、
 一般船員の日常的の切実な要求を広範かつ具体的に取上げ、その解決を目指したことにあ
 る。さらに、NAS&FUとして最良の船員を供給することを事業としたことが、別段注目される
 【2】。
 なお、NAS&FU、その後身の組合が、士官や漁船員の組織化を試みているが、水夫、火夫、
 調理員、司厨員といった、ほぼ、現代にいう船舶部員の単一組織たり続けた。その点で、戦前
 日本の海員組合と同じであるが、船舶職員を含む戦後のそれとは大きく異なっている。また、
 NAS&Fとその後身の組合には、日本と同様、1900年代から20年代にかけて、調理員、司厨員
 を中心に3つほどのかなり有力で、好戦的なライバル組合があった。それら組合も、1920年代
 半ばには解散するか、ウィルソンの組合に吸収されることになる。
 日本の船員組織は、イギリスに遅れること25年後の1912(明治45)年の日本船員同志会を嚆
 矢とするが、本格的な組織は同じく34年後の1921(大正10)年の日本海員組合であった。この
 組合は、ILO第2回海事総会において採択された海員紹介条約により有料職業紹介が禁止さ
 れたことを契機して、諸組織がやむなく合併して設立されたものであり、またいわゆるボーレ
 ン、イギリスでいえばクリンプ(Crimp)と呼ばれる船員供給業と闘うために設立されたわけでも
 なかった。そうした点で、戦前の日本海員組合はウィルソンの組合とはかなり大きく違ってい
 る。なお、後年、その組合長となった浜田国太郎はウィルソンとなぞらえることができよう。
2) 海運連盟の目的、手段
 NAS&FUの組織化が進むにつれて、船員は組合長のウィルソンの思惑を超えて戦闘的にな
 り、各地で賃上げやそのためのストライキ、船内消灯、海運局のピケッティングを行うようにな
 る。1889年、新組合運動[多数を占めるようになった不熟練工の組合]を象徴するロンドン・ドッ
 ク・ストライキが起きる。それを支援して、水夫や火夫はピケッティングやデモ行進に参加し、
 NAS&FUは多額の寄付を集め、その成功に寄与する。そうしたなかで、NAS&FUの闘いも成功
 を収め、かなり鯖が読まれているが、組合員数は1889年末には60,000人となる。
 船主たちは最初、ウィルソンの組合を侮っていたが、次第に無関心ではいられなくなる。すで
 に、1870年代半ばから、北東海岸では船主組織が設立されていた。1890年になるとNAS&FU
 に対抗することを目的して、リバプールにおいて雇用者労務協会、そしてロンドンで全国組織
 の海運連盟(the Shipping Federation)が設立される(リバプールの協会は、1967年まで、それ
 に加盟しない)。これら組織の目的や手段について、船主自身の言葉を含む原文を、少し長い
 が、引用しておこう。
 「海運連盟にとって、かれの組織をあらゆる手段を講じて粉々になるまで破壊し、その脅威に
 終止符を打つこと以外に、何の目的もなかった。その主な手段は『海運連盟証』とスト破りであ
 った。前者を持てば、船員は海運連盟の加盟船主に優先的に雇用されるが、その見返りとし
 て非組合員と一緒に働くことを誓約させられた。また、その『羊皮紙の証書』を持っていれば、
 傷病などの際給付を受ける資格があった。『船長組合発行の証明書がなければ働くことはいっ
 さい認められず、また船長が証明書を作成しなければ、イギリスから出港する汽船に乗り組む
 ことは許されない。こうしたことは横暴といわれるかもしれない。この考えは確かに粗雑である
 が、そうであるからこそ力を持ちうる。かれらの組合と同じように、かれらを横暴に扱えばよ
 い。他に、かれらに対抗する方法がなければ、横暴も優れたものといえる』[船主自身の言
 葉]。どの港でも、ストライキはかってないほど無残に押しつぶされていった。それは労使戦争
 のようになった。……『自由乗組員』は全員かどうかはともかく、手がきやかぎ棒を携えて、スト
 ライキ船に乗り込み、他にやりようがなければ暴力さえふるった。それに組合員も、同じように
 対抗した。……ウィルソンの組織は、そうした猛攻撃に堪えるだけの力量がなかった」(31ペー
 ジ)【3】【4】。
 そうしたやり方に反対する船主もいたが、大勢とはならなかった。海運のみならず、個別資本
 が労働組合を制度的に認知しないもとで、それに対抗する場合の態度や方法の原型をみる思
 いである。そうしたいわば手荒い手段は、海運連盟が組合を認知し、ウィルソンとの協調が進
 むなかでなくなる。しかし、補遺で取り上げられているP&Oフェリー紛争に際して、大量のスト破
 りと団体交渉の回避がみられるように、現代においても、それらが決してなくなったわけではな
 く、資本主義の危機のもとでは、それが国際的な労働力の入れ替えを伴いながら、再現してい
 るといえる。
 なお、日本の船主組織は1892(明治22)年日本海運業同盟会を嚆矢とし、それが1920(大正9)
 年に大企業を含む日本船主協会となる。イギリスに比べれば、日本の船主は船員の全国組織
 が結成される前から、それに先手を打つ形で自らの組織を結成していたこととなる。
3) NAS&FUの任意解散
 1890年代に入ると、NAS&FUは海運連盟の攻勢のもとで、ストライキは次々と失敗していき、
 ウィルソンの人気は低下し、組合員数は1893年には15,000人に減少する。そして、NAS&FUは
 裁判に取り込まれ、その財政は逼迫していく。それが誇大に取り上げられ、ウィルソンはその
 敵対者から、組合員の利益にならないストライキを組織して、金を大雑把に使いはたしている
 と批判されるようになる。そして、不法集会と暴動の容疑で拘留されたり、脱船を教唆扇動した
 あるいは名誉を毀損したとして、罰金刑が出される。1893年、ある海運会社と商業紙の告訴に
 基づき、NAS&FUに破産宣告、そしてウィルソンに債権取り立ての令状が出される。
 そこで、「われわれは、名誉ある労働組合が債権者から告訴され、強制的に解散させられ
 て、その運動に致命的な被害が出るおそれが明らかとなったことを、認めざるをえない。われ
 われは、敵の機先を制して、1894年グレート・ブリテン・アンド・アイルランド全国合同水火夫組
 合を任意解散する」ことを決意するにいたる(35ページ)。
 こうした衰退はNAS&FUだけではなく、かなりの新組合でもみられたが、その原因について、
 船主たちの組織だった頑強な抵抗ばかりでなく、かなり多くのことが指摘されている。それらを
 整理して解説する。まず、当時の事情としては、「新組合のリーダーたちも、自らの組織の成長
 スピードについていくことが困難であった。組合執行部員は一夜づけで訓練されたにとどまり、
 したがって管理方法も間に合わせもいいところであった。……そうした責任に堪え、有効な組
 織運営を行なえる人物はわずかしかえられなかった」。NAS&FUの事情としては、「海運産業で
 は、他産業のように工場長と熟練工組合とのあいだで一定の関係が作られていなかったた
 め、雇用者の反応は過敏で、妥協のないものとなった」。また、「特に、船員の組合は他の組合
 と比較して、その職業の特殊性から、多数のフルタイム職員を抱えざるをえない点で、不利な
 立場にあった。かれらをいったん採用すると、効率が悪いとか金がかかりすぎるといった理由
 だけで、解雇することは不可能であった」(33ページ)。
 そうした執行部員について、ウィルソンはその質を批判するとともに、かれらが「『頭なしの船
 員に、誰かれもなく、手をかそうとする貧民救済係』になっている。そして、組合支部は最初か
 ら費用のかかる騒がしい連中に取り込まれ、……金を使いすぎていた」としていた。そうした状
 況となったことについて、「かれも認めているように、組合財政は中央管理しないという、かれ
 の考えが災いしていた」(32-33ページ)。こうした問題点は、現在においても無縁ではない。
[注]
 【1】 G.D.H.コール『イギリス労働運動史』2、153-154ページ、岩波書店、1953には、プリムゾ
 ルの議会活動がかなり詳細に紹介されている。
 【2】 コール前掲書2、185ページにおいて、NAS&FUは新組合主義(運動)の再興という大きな
 流れのもとで結成されたととらえられている。
 【3】 海運連盟の歴史書として、 L.H.Powell, The Shipping Federation  1890-1950, 1950が
 あり、その抄訳が小門和之助訳『イギリスにおける労働関係史』、運輸省船員局、1952であ
 る。
 【4】 ペリング前掲書、124ページには、海運連盟の好戦的な性格とその利用が契機となって
 設立されたウィリアム・コリソンの自由労務者協会について、若干、詳しく紹介されている。

 3 組合の再建、全国スト、船主の組合認知
 「第3章 組合の再建と新地平 1894-1911」は、ウィルソンが組合を再建し、国際組織の結成
 に取組み、1911年の大ストライキを成功させ、それを通じて船主たちに、全国水火夫組合(
 the National Seamen's and Firemen's Union of Great Britain and Ireland、以下 NSFUという)
 を認知させる過程、そしてライバル組合との抗争が記述されている。ここでは、組合再建の仕
 方、外国人船員問題と国際組織、そして1911年の大ストライキの経過について取上げる。
1) 組合再建、財政の中央管理
 NAS&FUがどのように解散され、NSFUがどのように設立されたかは、すでに知るよしもないと
 いうが、それがNSFUとして1894年末再出発したようである。それに当たって、ウィルソンは執
 行体制の再編成を行っている。組合員が 実質 5,000人を割る状態となっていたことに応じて、
 三役以外の執行委員20人から8人に、全国を7つの地域に分割し、それぞれの地域の支部の
 数を2つから7つに集約し、またかれが批判してやまなかった地方執行部員を締め出し、執行
 部員を指名する権限を組合長が持つように改め、さらに執行部員は組合長に対して責任を負
 わせることとした。そして、組合財政は中央で管理することとした。
 こうした改革は、一面では近代的な組織に作り替えようとしたものではあったが、他面ではか
 れの組合長としての権限を著しく強めようとしたものであった。それは、その後における組合幹
 部の内紛や一般組合員との対立の要因となっていく。社会労働運動の組織において、中央集
 権制は必要不可欠ではあっても、そこに組合民主主義が貫かれていなければ、それが組合幹
 部の独裁あるいは官僚制へと転化することは避けられない。ウィルソンは、組合再建にあたっ
 て、そうした配慮をするほどには、労働運動は成熟していなかったし、その余裕もなかったであ
 ろう。
 この再建された組合も借金まみれで、職員の賃金は未払い、家賃は滞納、税金は未納、組
 合長は金がなくなってニューヨークで足止めを食うといった状態が続く。そして、NAS&FUの衰
 退のもとで、ライバル組合が生まれたり、組合の分裂が起こり、再建後、それらとの抗争にも
 手を患わされることとなる。組合員数も直ちに回復しなかったが、1910年になると組織対象90,
 000人に対して商務省の数字で12,000人となる。その一方、海運連盟はNAS&FUを圧倒したこ
 とで信用が高まり、会員数や資金量も増え、主要36港に登録事務所を置き、スト破りをいつで
 も供給できる体制を整えていたとされる。
2) 外国人船員問題と国際組織
 ウィルソンは、組合設立時から、外国人船員問題に関心を持っていた。海運連盟が力をつけ
 るなかで、船主たちは外国人船員の雇用を減らすより増やすようになった。この問題に対する
 当初のかれの考えは、外国人船員が「低賃金労働力として供給され、また組合員の配乗を阻
 止する政策の脅しの手段として利用されていた」から、「かれらはわが組合の加害者となってい
 るという」ことにあった(50-51ページ)。その後、考えを改め、NAS&FUは1889年から、それが支
 払われそうにないとわかっていながら、イギリス船に少なくとも2年間勤務した外国人船員の組
 合加入費を20ポンドと定め、その組織化に取組むようになる。真偽のほどは明らかではない
 が、1891年には外国人組合員は20,000人になっていたという。
 その上で、ウィルソンは、一方で「イギリス船に雇われる外国人船員の数と質を規制している
 現行法規をさらに強化、拡充すべきだと、常に意見を表明していた。特に、船主が外国の港で
 イギリス人船員を解雇し、その代わりとして低賃金の外国人乗組員を雇用する悪習や、船主
 がイギリス人船員より悪い条件でラスカル[東インド人の俗称]を採用できるようにしているイン
 ド海運法を廃止する必要を強調しつづけた」。さらに、他方で、「外国人船員は、イギリス人船
 員にとって大きな災いの元になっていると思ってきたが、それはばかな考えだったとわかった。
 何年にもわたり、チャンスを逃してきた。いまでは、外国人もイギリス人と同じように、この世で
 生活してゆく権利を等しく持っていることに気づいた」という(51ページ)。
 それに即して、ウィルソンは組合再建後、閉鎖していた国際支部を再開し、一方ではNSFUの
 国際的な影響力を強め、他方では外国の船員が組織されることを援助するため、国際活動に
 専念するようになる。その重要なかなめとして、1896年、ウィルソンの呼びかけのもとで、国際
 運輸労連( the International Transport Workers' Federation、以下、ITF)に発展する会合が開
 かれる。それは、ウィルソンの考えにしたがって、「賃金の引き上げと労働条件の改善のため
 に、船舶、港湾、河川の労働者を全員、組織することに全力を傾ける。そして、すべての港の
 同一の労働者について、可能であれば統一賃金を設定し、さらに世界各港において労働時間
 制などの規制を確立することを目指すことにあった」(52ページ)。しかし、その初代会長となった
 新組合運動の指導者トム・マンなどは、国際社会主義を前進させようとしていた。
 ウィルソンが、外国人船員問題について考えを改めたことは、特筆に値しよう。その成果は、
 次項のストライキの成功の鍵となり、ILOの最低賃金制や労働時間制の契機となるが、その本
 格的な解決は現在まで持ち越されたままである。
3) 1911年大ストライキの成功
 ウィルソンは、数年かけて、イギリス国内のみならず、アメリカ、ヨーロッパ諸国に出向いて、
 国際ストライキを呼びかけて回っている。それは、「同じ日の同じ時刻に行なうものとし、団体交
 渉の権利と統一賃金率、船内就労条件の確立について、組合が正式に確認するまでつづけ
 る」というものであった(52)。ページいたるところで、熱狂的な支持を受けたとされる。それにもか
 かわらず、ウィルソンの国際行動について、海運連盟はそれが行えるものではないとして、警
 告さえ発しなかったという。
 このストライキの経過をたどれば、1910年7月に要求が船主に出されるが、海運連盟はウィ
 ルソンの予想通り、交渉しようともしなかった。その要求は、「全国最低賃金の設定、甲板・機
 関・司厨部の乗組定員制の確立、海運連盟が一方的に指名した医者による健康検査の廃
 止、海運連盟事務所での雇入れ事務の廃止、入港中に部分賃金を受け取る権利、契約時に
 代理人を立ち会わせる権利、労働時間制と時間外手当の確立、船首居住施設の改善であっ
 た。1910年7月、約100人ほどの下院議員がNSFUの幹部を連れて、全権委任団として商務大
 臣と面会している。大臣は、その要求の取扱いを調停機関に委ねることとした」(54ページ)。
 NSFUは、各地で大衆集会を開いた後、「いま宣戦を布告する−1911年6月14日−船員のスト
 ライキは強固だ−自由のためストライキを打ち抜こう」という銘文を縫いとった旗を掲げる。「ス
 トライキは野火のように、イギリスの港を取り囲んだ。ストライキがサザンプトンから各港に拡が
 りはじめると、船主たちは譲歩しはじめる。それが他の港のストライキをあおり、また雇用者の
 決意を鈍らせることにつながった」(58ページ)。「ウィルソンが自信を持っていた通り、2週間過ぎ
 ると船主や各地の協会は次々と賃上げを認めることで、ストライキを収めるようになった。6月
 28日には、約100社の船主がロンドンに集まって、各港の標準賃金を設定することを決定して
 いる」。そして、「1911年11月17日、海運連盟は代表者会議を開き、『NSFUを承認することは契
 約の自由にもとるものではなく、また水夫や火夫を組合員、非組合員の別なく雇用することを
 妨げるものでない』という結論に達し……遂に、この組合は公然たる存在となり、長かった混迷
 に終止符が打たれる」こととなる(57-58ページ)。
 この全国的なストライキの成功と海運連盟のNSFU認知の背景について、著者は特別に整理
 しているわけではないが、一方で「確実にいえることは、労働力不足がみられたなかで、ストラ
 イキが急速かつ広範囲に行なわれたこと……その闘いをすべての港が一丸となって、しかも
 同時に実施されたこと」(60ページ)、そして「1911年6月から年末までに、船舶や港湾で働く労働
 者延べ27万人が直接、その争議に参加していた」ことが上げられる(56ページ)。
他方で、「自由労務者が十二分に用意されていたはずであったが、それは誇張にすぎなかっ
 た」こと、政府高官や行政機関において「非妥協的な船主と対決している労働組合に同情」が
 みられ、船主のなかにも「資本と労働は敵対するより、協調しあうことが大切と考える」ようにな
 っていたことにある(60ページ)。自らの積重ねと力の結集、そして時代の流れにそったことで、
 成功したといえよう【1】。
 なお、戦前日本の海員組合の大争議は、1928(昭和3)年の社外船ゼネラルストライキである
 が、そのとき後述の日本版NMB(海事協同会)における団体交渉を通じて、普通船員標準給料
 月額協定を獲得している。こうした全国賃金協定は、それなりの仕掛けなくして獲得しえないこ
 とを知りうる。
[注]
 【1】 コール前掲書3、97-99ページには、1911年ストライキの経過が紹介されている。「如何な
 る形での労働組合をも否認し続けていた海運連合は、海員の団結を承認することは[船内の]
 規律を危うくするものであるとの口実の下に、これらの要求について討議しようとさえしなかっ
 た。組合は、……全国ストライキを宣言した。数日を出ぬ中に、全国の主要な港市は、この罷
 業によって殆んど機能を失った。船主たちは、……組織的にストライキ破りの労働者に頼ると
 いう方策で常に対処して来たが、この場合も同様の手段でこれを切抜けようとした。……」とさ
 れる。
 なお、多くの著作において、1911年ストライキが関説されているが、ウエッブ前掲書下巻、586
 ページにみるように、それがロンドン港湾労働者の闘争の火をつけたこととの関連で取り上げら
 れているのが、ほとんどである。

 4 ウィルソンの指導路線、戦時NMBの設立
 「第4章 第一次世界大戦と海事協同会」は、ウィルソンはストライキを成功させた後、制度重
 視に転換し、無用な争議を回避し、海運連盟に団体交渉制度を受け入れるよう働きかける、
 それが第一次世界大戦におけるNSFUの協力を確保する必要から、海事協同会(the National
 Maritime Board、以下、NMB)の設立として達成されたことが記述されている。ここでは、ウィル
 ソンの労働組合運動や労使関係についての考えと、第1次世界大戦のもとでの海事協同会の
 設立について取上げる。
1) 対決重視か、制度重視か
 1911年に、トム・マンや新組合運動指導者ベン・ティレットが結成した全国運輸労働者連盟が
 翌年、全国運輸ストライキに入る。NSFUは組合員の一般投票において、それに同調すること
 を決め、ストライキに入る。しかし、ストライキに入っている組合のリーダーは思い思いで動いて
 いた。そこで、ウィルソンは、その中止を呼びかけざるをえなかった。さらに、1913年、アイルラ
 ンド運輸一般労働組合のストライキが起きる。それはサンディカリスト(急進的組合主義者)ジェ
 イムズ・ラーキンに指導されていたが、その過激な運動のあり方は他の組合幹部から支持を
 失う。
 ウィルソンは、特にラーキンなどの好戦的なやり方について、次のように批判している。「お雇
 い幹部に労働組合運動の成否を委ねてしまっている人々は、それら幹部の責任の重大さにつ
 いて、あれこれ発言することがあっても、子供じみた反乱を試みる向こう見ずな使徒の言いな
 りになり、軽はずみな計画のもとで総崩れになっても、それも仕方がなかったと自分自身を許
 してしまった」。「労働陣営の一画がくずれると、全体が弱くなってしまう。しかし、ある特定の分
 野でとられている常軌を逸したやり方に、すべての紛争が巻き込まれことは良いことでも、正し
 いことでもない。……リーダーというものはためらわずに決断したり、また混乱に引き込もうと
 する人々と、必要に応じて手を切るべきである。それは、その闘いが敗れそうな場合だけでな
 く、『現在の状態が後退あるいは危険にさらされそうな場合も含まれる』」(67ページ)。
 こうした失敗のかたわら、「1913年に目立って増加した組合員を保護、維持するため……ウィ
 ルソン以外のリーダーも、雇用者と合同で調停・仲裁機構を作って、親密な関係を取り結ぶよ
 う」になっていく。それは、ウィルソンにあっては、かれが「ひとりの労働組合活動家となった当
 初から抱きつづけてきた考え方であった。それは、雇用者あるいは労働組合のどちらかが雇
 用の仕組みを一方的に支配するのではなく、双方がある調停機構を設立して、雇用と労働条
 件、さらには休暇、そして貨物・旅客運賃までも、共同で決定していこうとするものであった」。
 すなわち、「被用者の代表と雇用者の代表による団体交渉を確立することにあった。そのため
 には、強力な組合と強力な雇用者の組織が必要と考えていた」という(59ページ)。
 そうした考えは、いま上でみたような歴史に名を残す、「新組合主義の主唱者やサンディカリ
 ストの教祖たち」に受け入れられるものではなかった。著者によれば、「かれらは、双務協定に
 力を割くよりも抑圧者と対決して、その権力を打倒することを目指していた。そして、かれらは
 最終的な権威は組合員に帰属していると信じてやまなかったし、かれらに代わって資本と打ち
 解けあって話し合い、妥協するといったことは考えられないことであった」(67ページ)。
 20世紀に入ると、労働組合が安定した組織となり、制度的な存在になるにつれて、組合幹部
 の指導路線の違いが次第にあらわになってくる。すでにみた運輸労働者のストライキは、当時
 の対決主義者の一人が自ら、「われわれの組織が若くて弱体にもかかわらず、やたら強がっ
 てみたにすぎなかった」と反省しているように、労働大衆から浮き上がっていた。他方、交渉主
 義者はその縄張りにおいて、それなりの成果を上げうる状況に次第に満足し、それが労働大
 衆との溝を深めることになるとは思いもしなかったかにみえる。この時点をもって指導路線の
 違いを超えた組合幹部の連帯は終わる。それに当たって、ウィルソンは足早に、制度重視の
 路線に突き進んでゆく。
 ウィルソンは、ストライキを組織するかたわら、すでに1910年から海運産業における全国労使
 機構を提案してきたし、1911年ストライキを成功させると、さらにその自信を深めていった。そ
 の自信は、かれの提案を受け入れる開明的な船主が増えつつあることにあった。しかし、その
 一人のランシマン(船長、船主、下院議員、伯爵)がいうように、「加盟船主に幾度となく、ウィル
 ソンと和解するよう懇請した結果、多くの人々がそう思うようになったが、海運連盟には全体と
 して偏見がこびりついており、代表者会議はウィルソンと闘うため何100万ポンドも浪費してきた
 にもかかわらず、かれを認知することを拒んでいた」(68ページ)。しかし、NSFUの組合員数が、
 1912年組織対象船員の3分の2に当たる71,000人にもなると、もはや無視できなくなる。
2) 戦争による妥協の産物、NMB
 1914年8月、第1次世界大戦が勃発する。直ちに、NSFUは海軍省が徴用あるいは用船され
 た商船の配乗について協力することとし、商務省とのあいだで覚書を結ぶ。しかし、人集めは
 困難を伴い、乗り遅れや脱船も起きる。1915年になると、海軍省は「水夫はいったん乗船しは
 するものの、その直後に下船してしまい、出帆を遅延させている……輸送が沈没ばかりか、船
 員の規律違反によって停滞し、戦闘が妨害されている。そこで、商船隊の全船員を王立海軍
 の予備役に徴用して、海軍の規律にしたがわせることにしたい」と提案してきた。それに対し
 て、NSFUは「船員の愛国心に汚名を着せるもの」、そして「不満をいう権利を奪われ、固定賃
 金を押しつけられた、かの[近世海軍の]船員強制徴発や守銭奴の『飢餓船』を思い起こさせ
 る」として頑強に反対し、それを撤回させる(78ページ)。
 他方、船員賃金は開戦時、海軍省との協定で月1ポンドの引上げはあったが、それを含む改
 善は遅々として進まなかった。それに対して、海運連盟は「船主たちはしっかり稼いでいるが、
 大金を蓄えたわけではない。過去2年間が悪かったので、それを埋め合わせているに過ぎな
 い」と述べていた(78ページ)。それでも、船員の死傷に対する年金、功労金、遺族補償や、船が
 全損した場合、1か月賃金またはイギリスに帰国するまで日割り計算した賃金の、いずれか高
 い方を受け取り、また遺失品の補償をえられる権利が、何とか確立する。
 1917年、アメリカが遂に参戦すると、その官労使は有能水夫および火夫に対する賃金・ボー
 ナスを1か月90ドルまたは18ポンドに引上げ(イギリス船では、10ポンド)、さらにアメリカの港に入
 る外国船に乗船している船員に対して「下船する権利」を認めた。それにより、アメリカの港に
 入ったイギリス人船員は大挙して脱船するようになった。イギリス政府は、開戦と同時に、海運
 産業における協議機関を設置してきたが、効果がなかった。1917年8月になって、一歩踏み込
 まざるをえなくなり、海事調停委員会を設立するが、それは直ちには動こうとはしなかった。と
 ころが、リバプールで賃上げを要求して停船がはじまり、NSFUの統制を超える勢いをみせはじ
 めたため、同調停委員会は当面の賃上げと全国賃金の制定を約束せざるをえなくなった。そ
 して、同年11月になって、海事協同会(NMB)が設立されることとなる。
 「この機構の役割は、紛争の予防と仲裁および標準賃金の設定と雇用の規制にあると明文
 化された。その議長、副議長、事務局長は、海運監理官とそれぞれのグループ−水夫・火夫、
 機関士、航海士、調理員・司厨員−の適格組織の代表から指名されることとなった。……海事
 協同会は、港毎に、労働組合と海運連盟が指名する地方調停員を配置することとした。その
 職務は、労働供給を適切に確保し、各船の出帆を遅延させないようにすることにあった。しか
 し、かれらの本来の仕事は紛議を収めることにあった。『意見の不一致や紛争が生じた場合、
 地方調停員あるいは必要な場合、地方または中央の海事協同会に照会が行なわれ、その状
 況が審査されるまで、作業停止は行なわない』。それでも解決しない場合、最後の手段として
 海運監理官に照会を出すことができるが、それが下した仲裁も労使が合意しない限り有効とし
 ないとしていた」(83ページ)。
 この戦時NMBは、戦後の1919年に労使の任意機関としてのNMBに変わるが、その成立によ
 って、著者は「NSFUと海運連盟とのあいだに協力関係が生じた。それはウィルソンと労働組合
 の努力のなせる技であった」と述べている(83ページ)。そうしたことともに、戦争という危機のもと
 で、政府が労使対立を回避しようとして、それに介入せざるをえなかったことが直接の契機とな
 り、そうせざるをえなくしたのがNSFUの力であったといえよう【1】。
[注]
 【1】 佐野 稔『イギリス産業別組合成立史−鉄道労働組合を中心として−』、ミネルヴァ書
 房、1971には、鉄道労使関係においても、同時期、NMBと同様な機関が設立されたことが記
 述されている。
 【2】 アレン・ハット著、塩田庄兵衛訳『イギリス労働運動史』、130ページ、理論社には、1928
 年の労働組合会議(TUC)大会において、その総評議会がTUCと雇用者とによる全国産業協議
 会と強制裁判所の設立に関する報告書を提案したことに関連して、「それは、故ハヴァロック・
 ウィルソン氏が船舶資本の利潤を増大させ、海員にたいする搾取を容易にするために案出し
 た、偽装御用組合主義という巧妙な制度[NMBのこと]を、一般におしひろめようとするもののよ
 うにみえた」と解説している。

 5 1906年海運法改正と議員ウィルソンの立場
 「第5章 ハベロック・ウィルソンと労働運動 1」は、ウィルソンが20数年間、下院議員として、議
 会において船員法制の改善に努力し、他方、労働党に社会主義の影響が及ぶことに反対して
 対立し、そして第1次世界大戦において愛国派運動を進めたことが、記述されている。ここで
 は、議員ウィルソンとしての成果である海運法改正と、議員ウィルソンの特異な政治信条につ
 いてふれる。
1) 1906年海運法改正の努力
 イギリスの船員は、議会における船員擁護者としてすでにみたプリムゾルを仰いできたが、
 かれが引退するとジョセフ・チャンバレンに変える。そして、1890年代からは、ウィルソン自ら、
 船員の議会代表となる。ウィルソンが、どのような動機で下院議員になろうとしたかは、明らか
 にされていない。かれは、1890年の初挑戦における落選以来、1892年のミドルズブラでの初当
 選、1922年のサウスシールズでの落選まで、ミドルズブラやワンズワース、サウスシールズ選
 出の下院議員として、5回当選している。なお、その間、1回の立候補辞退と3回の落選があっ
 た。
 商務長官であったジョセフ・チャンバレンは、「バーギンガムの実業家から政治家に転身して
 きたので、プリムゾルのように、心の底から社会正義が沸き上がるといった具合にはいかなか
 った」が、海運関係法の改正に努力している(92)。ページ1880年には安全な積み付けを確保す
 る穀物積付法、賃金前渡証の廃止と下船時の賃金全額支払いを定めた船員賃金法、1885年
 には満載吃水線の表示基準の作成、1890年にはその表示の強制、1892年にはその不適正な
 表示船や食料の積み込みの取り締まりなどについて成果を上げていた。
 ウィルソンが初当選したとき、かれは「職務中における権利行使不能、遭難船員の外国港か
 らの本国への送還、船内居住施設、有能船員の格付け、[海外での]船員の遺棄、航海中に供
 給される食料や日用品、船員の配乗数、賃金の配分、海運局の組織改革といった課題」を抱
 えていた(93ページ)。「かれの議会ロビイストとしてのやり方は、[社会改良主義を目指すフェビア
 ン協会の]ウエッブ夫婦の舌を巻かせるものがあった。その行動は常に強引であった。しかし、
 いっこうにはかどらないため、自分のやり方に不満げであったという」(92ページ)。
 その成果の一つとして、1897、1906年に海運法が大改正される。1906年法では「標準食料表
 が制定され、食料の検査は強化され、外航船には有資格調理員の配乗が義務づけられた。
 欠陥外航船を留置する範囲は、過積みや不正積載ばかりでなく、他の欠陥にも広げられた。
 満載喫水線は小型の沿海船にも適用されることになった。穀物の不正積載の規定は外国船
 にも広げられ、また材木の甲板積みはイギリス船、外国船を問わず、監督されることなった。
 外国人船員は、イギリス語を使いこなせなければ雇用しえないことになった」(94ページ)。
 その法律は、その後、約70年にわたり有効たり続けることになるが、その成果について、ノー
 スイースタンガセット誌は「ウィルソンのやり方が、国民大衆の感情と一致しただけではなく、最
 良の船主たちを勇気づけた。それら船主は、自尊心を持ってより多くの利益を上げるには、食
 事に不満をならし、賃金が安いといって、いい加減な仕事をいやいやされるより、[それらを改
 善して]有能な船員を集め、誠実な仕事をさせる方がよいと考えていた。イギリスの偉大さは海
 運業に負っているが、ウィルソンは過去から現在まで、それを一貫して追及してきた人物であ
 る」と、言葉を尽くして賞賛したという(95ページ)。
 しかし、ウィルソンは自らがえた成果について、決して満足していなかった。著者によれば、
 「NMBが設立されてからは、何かにつけて船主たちの影響力に左右され、解決を先送りする、
 定見のない議会から回答を引き出そうとするより、団体交渉を活用すれば、よい仕事ができる
 と確信するようになった」という(191ページ)。NMB設立以後、ウィルソンが海運法改正に取り組
 んだ様子はなく、1920年のILOにおいて船員の週48時間制条約をねばり強く獲得しようともして
 いない。そのため、後述するように、例えば船員の労働時間法制は陸上より立ち遅れ、また海
 運法も前近代的な遺物を残すこととなったといえる。それは世界の船員にとって、かなり不幸
 なことであったといえる【1】。
2) 反社会主義的な労働組合主義
 イギリスでは、1860年代末になって労働者代表の下院議員を送り込む組織が生まれるが、
 多くの労働組合は自由党を通じて、その政治的要求を解決しようとしていた。そうした労働者
 代表は自由=労働派と呼ばれた。他方、1868年ナショナルセンターとして設立された労働組合
 会議(the Trades Union Congress、以下、TUC)は議会委員会を設置して、政治に望んでいた。
 1893年、いくつかの社会主義団体の代表が集まり、独立労働党が結成される。しかし、TUCは
 それを唯一の労働者政党とはしなかった。1900年になって、TUCの加盟組合と独立労働党な
 どが連合して労働代表委員会を設置する。それが1906年に労働党と改称され、1918年には社
 会主義綱領を作成する。
 ウィルソンは、第1次世界大戦前は基本的に自由=労働派あるいは自由党員として、それ以
 後は愛国派の議員として当選している。その選挙に当たって、ウィルソンと独立労働党や労働
 代表委員会、労働党と、いざこざを繰り返したばかりか、労働運動の政治的な主流と組みしよ
 うとはしなかった。そうした立場をとることについて、「自分は労働組合主義者であり、また政治
 家であったとしても、船員や海運の問題に関して、それを自由な取り引きに委ねようとする自
 由党員でも、また階級闘争や政府の規制のいずれにも反対しようとする中立議員でもない」と
 し(87ページ)、また他の議員に対して「どういった党派に属していようと、その議員が船員の利害
 のために行動しまた議決してくれさえすれば、それでよい」という態度をとっていた(90ページ)。
 さらに、「ウィルソンは、議会に組合代表を送り込んだり、また『労働組合がかかえる労働党』
 といった考え方に反対であったわけではない。しかし……社会主義者を毛ぎらいし、かれらに
 労働運動を指導する資格を与えることを特に警戒していた。また、労働組合は政治のなかで、
 正当な地位を占めるべきだと考えていた。……労働と資本は利益の配分をめぐって交渉しあう
 ことは当然の権利であり、正当であるが、そうした労働組合の機能は相手側を根絶することを
 目的としない場合に限り、有効であると感じていた」のである(97-98ページ)。ウィルソンが、反社
 会主義的な労働組合主義を強めていくにつれ、独立労働党や労働党、社会主義者から、その
 敵とみられるようになる。
 しかし、ウィルソンがそうした政治信条を持っていたにもかかわらず、労働運動のおける業績
 が大きく、TUCのなかに一定の支持者を持っていたこともあって、1889年から9年間、TUCの議
 会委員会の、また1918年には労働代表委員会の一員に選出されている。また、NSFUにあって
 も、かれの政治信条に忠実であったわけではなく、1922年には組合員投票を行い、必要数を
 上回る票でもって、労働党に団体加入している。そうしたことは、TUCが特定の政治信条にとら
 われたナショナルセンターではなく、また労働党が社会主義団体と団体加盟の労働組合の連
 合体であるという性格を持っていることにもみられるように、現実主義的に物事を処理していこ
 うとするイギリス人の社会的な態度に基づくものであろう。
[注]
 【1】 コール前掲書3、55ページは、1906-9年にかけて、多くの社会改良法案が通過している
 が、その一貫として1906年海運法が制定されたとしている。

 6 1920年代の賃下げ、TUCからの除名
 「第6章 ハベロック・ウィルソンと労働運動 2」は、国際労働機関(ILO)が船員の週48時間制条
 約を採択しなかった経過、NMBにおける船員供給とそれが果たした役割、1920年代における
 賃金引き下げとそれをめぐる一般組合員の反対運動、NUSのライバル組合の没落、ITFや運
 輸労働者連盟からの脱退、炭鉱分裂組合を支援したことによるTUCからの除名、そしてウィル
 ソンの死亡が記述されている。ここでは、NMBにおける船員供給とそれが果たした役割、1920
 年代における賃金引き下げとそれをめぐる一般組合員の反対運動、そしてウィルソンの政治
 信条による組織対立についてふれる。
1) NMBの船員供給とその役割
 ウィルソンの長年の目標であった船員合同供給管理は、戦時NMBを通じて実現する。それ
 は、「商務省の全国船員登録制度と、海運連盟およびNSFUの代表で構成される地方調停員
 が発行する資格証明、あるいは就業前に取得するPC5証(Port Consultant 5)と結びついてい
 た。この仕組みは、いずれの組合にも利益」があるはずであった。戦後、NSFUは「それを商務
 省が関与しない新たな制度として継続させ、PC5証を登録と証明の機能を兼ね備えた書類とす
 るよう提案する。それによって、NSFUはそれぞれの港の船主代表と協力として、求職船員の
 なかから、誰を雇用することが適当かを決めるようになり、スタンプが正しく押されたPC5証は
 船主と組合が就労適任者として認知したことを示すものとなった。その際、最も重要なことは、
 PC5証の発行がNSFU執行部員による組合員名簿の点検に結びつけられたことであった。そ
 の結果、NSFUの執行部員が求職者のなかから、誰を選ぶかを決めることができるようになっ
 た」(115-116ページ)。
 このPC5証の発給は、NSFUに限られた方式ではなかったが、ウィルソンはそれを利用して
 「執行部員に、『NSFUの組合員にならない限り、PC5証は受け取れないと、船員たちにはっき
 りと伝えよ』と申し渡していた。それによって、組合員は目立って増加し、また財政も膨らんでい
 った。船員たちはNSFUの組合員なることを望むようになり、[失業が増えているもとで]立場が
 好くなることを期待して、組合費を支払うようになった」。こうしたNSFUが船員供給を独占し、自
 らを唯一の船員組織にしようとする動きは、当然のようにライバル組合から反発を招かざるを
 えなかった。それは他の組合の権利を侵害するものだとして、TUCにおいて取上げられ、
 NSFUを除名すべきであるといった議論が出るところとなった。しかし、すでに大勢は決してお
 り、それまで何とか維持されてきたライバル組合も、ここに至って息の根を止められることとな
 る。
 こうした結果について、著者は直接的な解説を加えてはいないが、いま上でみた文言から明
 らかなように、この船員合同供給制度は船主の雇用調整に即して、NSFUが船員の供給を独
 占していく制度として確立した。それにより、NSFUは船主に対する団体交渉力を強めることに
 なり、また船員に対して決定的な統制力を発揮することができるようになった。この二つの機能
 が、どのように発揮されることになったかは、次項にみる通りである。
 日本版NMBは、1926(大正15)年に海事協同会という名で設立される。それは、海員組合が
 ILO条約に即して職業紹介権を獲得しようとした運動を危惧した政府が、船主を説得して設置
 した機構であった。それは、ただ単に職業紹介事業ばかりでなく、「待遇に関する事項の協議
 決定」、「船主、船員間の争議の予防及調停」を目指したものであった。さらに、それに当たって
 職員の組織である海員協会とともに、海員組合は独占的な地位を与えられることとなった。当
 時の日本の労使関係においては画期的な制度であった。それはイギリスのNMBをほぼそっく
 り借用したものであったし、それを媒介とする海員組合の役割もほぼ同じような経過をたどるこ
 ととなる。
2) 賃金引き下げとその反対運動
 1920年代に入ると、海運不況も深刻なり、失業船員も増える。ウィルソンは、船員賃金の減
 額の動きを押さえ込んできたが、ついに1921年NMBの会議において月額2ポンドの減額を組合
 員に通知すると発表する。それに続けて、1922年に2ポント、1923年に1ポンドを減額し、1924年
 には1ポンドを回復させるが、1925年に1ポンド減額する。それら賃下げは船主からの要求では
 なく、NSFUからの提案によるものであった。そこで、「ウィルソンの過ちは、その批判者から、
 賃金を減額したことではなく、それと闘うことなく合意したことにある」とされる(112ページ)。そこ
 で、賃下げ反対ストライキと少数派運動が起きる。
 そのための組織として、「1921年には主要な港に、一般船員の『自衛委員会』(vigilance
 committee)が作られる。かれらの目的は『改革』にあり、その支持者は2つの陣営に分かれて
 いた。その一つは、政治志向はないが、NSFUあるいは1926年に改名したNUS(the National
 Union of Seamen)の外部において、『一つの大きな組合』を結成することを『改革』と考えている
 連中であった。他の一つは、コミュニストとその仲間であり、所期の目標は一般船員を組織し
 て、NUSの内部から、ウィルソンやその一派の指導に反対させることにあった。そして、組合運
 営は一般船員に委ねられるべきであるとし、そのためには『裏切りものの執行部員を追放し
 て、大衆の統一と福祉を目指す強固な基盤に作り替える』ことを目指していた。後者のグルー
 プは、1924年からプロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)船員部門の書記であっ
 たジョージ・ハーディの管轄のもとにあり、その影響を受けた船員少数派運動としてあらわれて
 いた」(120ページ)。
 1925年の賃下げの場合、「少数派運動のリーダーたちは、船員たちをあおって立ち上がら
 せ、NSFUの指導部を追放する機会がやってきたと感ぜずにはおかない状況となった。ストライ
 キが発生した。ロンドンドックでは、多くの船員たちが雇入契約に署名することを拒み、非公認
 ストライキ委員会を設置した。8月8日、大集会がジョージ・ハーディの呼びかけにもとづきポプ
 ラタウンホールで開かれ、C.W.ハリスを代表とする15人のストライキ委員会が設置された。ハ
 ーディはこわれて、ハリスのアシスタントになっていた。絶好のチャンスであった。『当初から、
 少数派運動と共産党は全力を上げて、船員たちに働きかけていた』」(122ページ)。それに対し
 て、「17,000人以上の船員が、海運連盟の手であちらこちらから集められ、イギリス諸港を出帆
 する船に補充され、約3,000人が他の港に移された上で、ストライキ中の船員と入れ替えられ
 た」という(123ページ)。すなわち、NSFUの暗黙の支持のもとで、スト破りが投入され、NSFUに反
 抗する船員との入れ替えが行われたのである【1】。
 日本においても、1920年代、船主側から賃下げの動きが起こり、それに対して現場船員は反
 対運動を起こす。それに対して、海員組合は公認、非公認争議を仕分けして望む。1925(大正
 14)年にはイギリスの少数派運動に相当する海員刷新会が結成され、同年非公認として抑圧さ
 れる小樽海員争議、翌年日本郵船争議が起きる。その後、すでにみたように、海員組合は
 1928年大争議を成功させるが、1931(昭和3)年海事協同会において賃下げを承認する。こうし
 た経過は、イギリスとその時期、内容ともほぼ一致しており、いずれの海員組合もほぼ同じ路
 線を歩みつつあったのである。
3) ウィルソンの政治信条と組織対立
 そうしたことから、当時のNSFUについて、近年の論文においても、「何が何でも、海事協同会
 (NMB)を維持していこうとする熱望は、それをコミュニズムの防波堤にしようとする政治的な理
 由が強まるにつれ、その全国組合を事実上、船主たちの会社組合にしてしまった」といった評
 価を与えられることとなっている(105ページ)。
 NSFUは、1919年再建されたITFに加わらず、第一次世界大戦中にドイツ人が犯した罪を償
 わせるため、1918年国際船員連盟という組織を設立する。それは、ITFの競合組織となる。
 1925年にはITFに加盟するが、上記の賃下げ反対ストライキに関連してか、翌年には脱退す
 る。また、1921年には、NSFUが賃下げを認めたことに抗議して、ストライキに入ったライバル
 組合を、最初から親密でなかった全国運輸労働者連盟が支援したとして、それから脱退する。
 このように、NSFUは戦前から連帯してきた組織から手を引いていくのである。
 1926年、TUCは「1920年のイギリス共産党の設立メンバーで、1923年以降炭鉱少数派運動
 に影響力を持っていた」A.J.クックが指導するストライキを支援するため、ゼネラルストライキを
 呼びかけるが失敗に終わる。炭鉱労働者はストを続行したものの、次第に崩れをみせはじめ
 る。このゼネストに当たって、NSFUは組合員の一般投票を行ってそれに同調せず、また非政
 治的な炭鉱分裂組織に組織的、財政的な支援をするようになる。そうしたことをめぐって、
 NSFUにおいて内部対立が起き、書記長など幹部が解任される。そして、1928年、NSFUは分
 裂組織を支援したとして、TUCから除名される。しかし、こうしたNSFUの動きは、ウィルソンの
 政治信条と組合運営に負っていたので、かれの死亡をもって終わる【2】。
 ウィルソンによって解任された書記長デービス船長は、「紛れもないウィルソン賛美者であり、
 しかも頑固な反コミュニストであった。かれもウィルソンを尊敬し、進んで、かれに忠勤を励んで
 いたが、すぐ気づいたことは、組合長の意向に逆らえば、誰かれを問わず、かれの言葉でいえ
 ば『熱湯を浴びせかけられる』ということであった」し、また「副書記長のジョージ・ガニングがい
 うように、『船橋から出される命令にはつきしたがう』、『この組合のリーダーは一人だけで、そ
 れはかの組合長をおいてないとする』、『かの組合長は絶対であるので、あらゆることを投げう
 って応じる』ことが、正常とされていたのである」。また、著者によれば「ハベロック・ウィルソンの
 晩年は、非政治的な組合主義と産業平和への狂信、あらゆる犠牲を払ってでも組合統制を守
 るという、かれがかねてから実行してきた決意、そして自分に対する哀れみや悲しみとが、な
 い交ぜになって彩られていたかにみえる」といっている(128ページ)。
 1929年、すでに以前から病をえていたウィルソンは執務中、心臓発作で死亡する。69歳であ
 った。かれには、すでに名誉勲位(CH)、上級勲士(CBE)が与えられていた。ジョージX世とメア
 リー王妃から、ウィルソン夫人に哀悼の手紙が送られてきた。海運連盟のサンダスン伯は、
 「『労働組合運動のなかで、建設的な考えを持った数少ない人物の一人であった』と語った。労
 働組合にあっては、かれの初期の組織的な業績を賞賛しはしたものの、それが晩年まで続か
 なかったことを残念がった」とされる(130ページ)。かれの一生について、これ以上か解説するの
 は蛇足といえよう。なお、この組合において、ウィルソンの死後、組合長という名称は使われ
 ず、組合のトップは書記長となる。
[注]
 【1】 コール前掲書3、237ページには、1923年賃下げの際に行われた非公認ストライキが敗
 北したことが、少しふれられている。
 【2】 ぺリング前掲書、241ページには、NSFUが炭鉱分裂組合を支持する海運産業における
 御用組合として描かれている。

 7 第二次世界大戦時の船員被害と戦後改革
 「第7章 ウィルソンの遺産」は、1930年炭鉱労働組織と和解してTUC、また1933年労働党へ の
再加盟、1930年の国際満載吃水線会議、1932年世界恐慌のもとでの賃下げとその回復、
 1936年ILO海事総会における多様な条約と勧告の採択、それを受けてのイギリス国内での1日
 8時間週48時間と週休制の獲得、第二次世界大戦における船員の動員と被害、そのもとでの
 労働条件の改善、国際船員憲章の制定、船員常置制度の確立が記述されている。ここでは、
 世界大戦中の船員の動員と被害、国際船員憲章の制定と船員常置制度の確立についてふれ
 る。
1) 船員の自発的勤務、死亡率50%
 ウィルソンと交代した書記長ボブ・スペンス(1876-1954)は、NUSを穏やかな海に導こうとした
 とされる。1932年、世界恐慌のもとで、再び賃下げを余儀なくされる。それについて、「NUSの
 組合員は、NMB協定が守られなくなった事態を、NMBがもはや賃金減額や労働条件切下げの
 手段以外の何ものでもなくなったと判断していた。NMBは存在そのものが危機に瀕しつつあっ
 た」(140ページ)。その時、スペンスは、この組合ではじめて一般組合員による特別代議員大会
 を開いて、それを処理している。さらに、1937年までにそれを全額回復し、その後2回増額して
 いる。
 1939年9月、イギリスはしぶしぶドイツに戦争を布告する。日がたつにつれて、船員は第一次
 世界大戦の経験が再び繰り返されると感じるようになったが、船を止めるわけにはいかなかっ
 た。「1941年5月26日、徴用令が商船隊にも適用されることとなった。1936年以後、商船隊に勤
 務したことのある18歳から60歳までの男たちが登録することを求められ、それに応じて11,000
 人が1941年の残りの期間と1942年中に海上に復帰してきた」。それがうまくいったのは、陸上
 には「商船隊に1回以上、雇入契約を結んだことのある男たちが多くいた。……かれらの多く
 は、軍人より民間人を好んでいたし、徴兵が逃れられるということで、海上に復帰してきた」か
 らであった(150ページ)。
 しかし、1941年秋になると、政府は商船隊の乗組員として必要な数の男たちをかき集めるた
 め、食料の増配や戦時手当の支給といった手を使う以外に方法がなくなった。さらに、重要な
 こととして、「下船中または休暇中の船員たちは商船予備員プールに編入され、その期間、所
 定の賃金が支給されることとなった。そして、部員は乗船期間1か月につき2日、士官は2.5日
 の休暇が与えられることとなった。1943年7月1日より、遭難船員はイギリスに帰国するまでの
 期間、あるいは他船に乗船するか、陸上配乗プールで勤務を申し渡されるまでの期間、戦時
 危険手当を含む稼得賃金全額が保障されることとなった。このようにして、乘下船を通じて、賃
 金が継続して支払われるようになった」ことが上げられる(150ページ)。
 こうして動員された船員が、その戦争で「どれだけの命が失われたかを正確にいうことはそ
 れほど容易ではない。少なくとも、26,000人がおおむね魚雷で船が沈没した時に死んでいる。
 それに加え、約1,000人が救助船や乗客として商船に乗っていて、それらが敵の攻撃で沈んだ
 時に死んでいる。さらに、衝突により、また戦時捕虜収容所やその他戦争による事件で5,000
 人が死んでいるので、合計32,000人となる。そうしたことばかりではなく、戦争に駆り出されたこ
 とによって早死にしたり、再起不能になったりした人もいる。それを含めると、38,000人近い人
 が死んだとみられる。敵の攻撃に対して、船が沈没した際、その乗組員の生存率は5年間の
 戦争を通じて、2分の1以下とみればよい。それより悪い年もあった。まさに、公海における大
 量殺人であった」という(149ページ)。戦勝国でも、敗戦国でも、船員は軍人以上に、死を免れな
 かったのである。
 これに対して、上下両院は、1945年11月、「商船隊の士官と部員が、不屈の精神で食料や資
 材の備蓄、そして軍隊や軍事物資の輸送に当り、さらに民間人でありながら勇敢に敵の攻撃
 に向かっていったこと」に感謝する決議を採決する(152ページ)。こうしたことで、船員が報われ
 るわけはなかった。
2) 国際船員憲章の制定と船員常置制度の確立
 第二次世界大戦とその戦後は、前大戦とは異なっていた。「戦争中、労働運動は一致団結し
 て、戦争を支持していたし、あらゆる政策決定について諮問されていた。……政府側あるいは
 雇用者側から、労働運動が獲得したものを取り返そうという、反革命的な動きも一切みられな
 かった」(152ページ)。
 1943年、戦争のさなかにもかかわらず、同盟、中立の10か国の船員代表が集まり、国際船
 員会議を開催する。その翌年には、国際船員憲章と呼ばれる「賃金率、休日、週労働時間、
 雇用継続、そして医療保障に関する最低基準のリスト」を作成し、「われわれは、国際的に雇
 用条件は遵守されるべきあると考えているし、この度の戦争を成功に導くに当り、船員が払っ
 た犠牲に対する直接的な償いを要求する」こととした(153ページ)。その要求として、「月額最低
 賃金16イギリスポンド、遠洋航海船の甲板部、機関部船員について1日8時間、週56時間、日勤
 船員について1日8時間、週48時間がおおむね妥当とされていた。さらに、有給休暇12日、船
 舶調理員の資格証明、年金、良質な船員設備や様々な便宜、そして合意された国際基準に署
 名しなかった国の船舶に対して、署名した国々の港において積荷や揚荷を拒否することが付
 け加えられた。それらを実現することによって、『船員職業を作り直し、子供たちにとって船員
 が天職になってくれることを期待していた』」という(154ページ)。
 それが、1946年のシャトルILO海事総会に持ち込まれ、9つの条約と4つの勧告として結実す
 る。そのなかでも、重要な条約は第76号賃金、労働時間及び定員条約、第72号有給休暇条
 約、第70号社会保障(船員)条約、第71号船員年金条約、第75号船員設備条約であった。世界
 の船員は、第1次世界大戦とは違って、労働改革をしっかりと取り込んだのである。それは、戦
 争の犠牲の償いとしてばかりではなく、戦後における世界の政治情勢を反映している。
 1942年、チャールズ・ジャーマン(1893-1947)は、ボブ・スペンスと交代して書記長代行となり、
 戦中、戦後処理をして、1947年54歳で死亡する。NUSは、戦時商船予備員プールを船員常置
 制度として発展させる。それは、「雇入契約の期間を2年とし、同じ期間で更新について、雇入
 期間中に、船長や士官、部員が海運産業内の不特定または特定の会社において勤務しつづ
 けることを誓約した場合、それを認める。前者は『一般常置船員』、後者は『会社常置船員』と
 呼ばれるようになった。常置船員には、『雇入契約が失効し、船舶の勤務がなくなっても』、次
 の船の指名を受ける資格を与えられ、そして『常置手当』を支払われるようになった」(157ペー
 ジ)。
 「この常置制度は、雇用の継続を補償するとともに、全員についてではないが、多くの船員に
 対して職位昇進の機会を付与することにあった。……チャールズ・ジャーマンは『船員が、いま
 獲得した労働条件はかれらが人生のなかで予想だにしなかったものである』と発言している。
 まったく、その通りであって、常置制度はNUSにとって輝かしい成果の一つに数えることができ
 る。それは、1890年代初め、初期のNSFUが生き残りをかけた闘いや、1920年代ハベロック・
 ウィルソンが労働組合運動の動きに反対したこと以上に、人々に精神的なショックを与えた」と
 いう代物であった(156ページ)【1】。
 日本においても、戦争の産物として、1939(昭和14)年船員保険法が制定され、戦時統制機関
 の船舶運営会における継続雇用が戦後の予備員制度となり、戦後改革として新船員法が制
 定される。それらは、世界の船員労働運動の成果のすべてではないが、そのかなりの部分を
 取り込んだものとなった。
[注]
 【1】 拙稿「イギリス海運における船員雇用−その歴史的概観−」、海事産業研究所報182、
 1981.8は、近世以降における船員雇用とその制度を整理している。山本泰督「イギリス船員常
 置制度の制度的特質」、『経済経営研究』15(2)、1965.3は、それを分析している。

 8 非公認ストライキとその対応
 「第8章 一般組合員運動」は、全国交渉の衰退と職場交渉の台頭がみられるが、そのなかに
あって海運労使関係は安定性を保ってきたとはいえ、1940年代末からNUSにおいても一般組
 合員運動がそれなりにみられ、1955、1960年には非公認ストライキが起こり、それを指導する
 改革委員会との調整が求められ、船内代表制が採用されることになる過程などが記述されて
 いる。ここでは、一般組合員の不満とその運動組織、非公認ストライキ、およびそれに対する
 組合幹部の対応、船内代表制の採用についてふれる。
1) 1947、55、60年非公認ストライキ
 戦後イギリスでは、全国交渉、全国協約、常勤執行部といった制度が労使関係の規制力を
 失い、職場交渉、職場協定、職場委員がそれら取って代わるようになる。そのなかにあって、
 ハベロック・ウィルソンが完ぺきにまで作り上げてきた「NMBと海運法のもとで築かれた統制シ
 ステムは、がっちりと組立てられていたので、それが組替えられそうにもなかったし、ちょっとそ
 っとでは海運産業全体のなりわいが変りそうにもなかった」(161ページ)。それにもかかわらず、
 一般組合員運動とストライキが起きる。
 1947年秋、マージサイド一般組合員運動委員会が組織され、非公認ストライキを行う。その
 中止を説得される。その条件として、NUSに「すべての主要な港から一般組合員代表を選び、
 かれらを雇用者と接触する交渉委員会の構成員に加え、また常置制度をめぐって生じる紛議
 をその代表にも審査させること」を受け入れさせる(163ページ)。
 1955年、リバプールで定期旅客船の非公認ストライキが始まる。このストライキについて、報
 道機関は「共産党に吹き込まれた扇動者」による間抜けた騒動としつつも、そうした行動に出
 たことに無理からぬものがあるとしていた。その要求はNMBで取上げざるをえなくなる。しか
 し、かれらの不満のうち、「組合指導部の現場船員の無視、非民主的な運営、独りよがり、そし
 て正当な要求の熱のない取り上げ方」については、未解決のまま捨ておかれた(166ページ)。
 1960年、非公認ストライキが起きるが、それはいままでになく組織立ったものであった。その
 時、全国の主要な港で非公認ストライキ委員会が設置され、それを統合する全国船員改革運
 動(the National Seamen's Reform Movement、以下、NSRM)という組織が設立される。そのリ
 ーダーは、「『赤』ばかりでなかった。古手もいたし、新手もいた」し、後に組合長となるジム・ス
 レーターも含まれていた。そのかれは北東海岸で改革運動家として活躍していた共産党員で
 はあったが、いわば正統派の共産党員の受けはよくなかったとされる。
 かれらの要求は、「1 すべての船員について、週44時間。月額賃金4ポンド引上げ。2 月曜日
 から金曜日まで1日8時間、週40時間。3 日曜日のすべての労働時間に、時間外手当の支給。
 4 乗組員が選出する船内代表の導入、[陸上の]職場委員と同じ権限の付与。5 年次有給休暇
 24日、銀行休業日に対する社会便宜や家庭生活の欠落の補償(当面、クリスマスの日と聖金
 曜日)。6 [非公認ストライキに対する]船主による解雇、NUSによる統制の拒否」となっていた
 (170ページ)。しかし、「その本来の目的は、組合改革そのものにあった。『ストライキに参加して
 いるイギリス商船船員は、労働条件が不満になっている原因が、NUSの体質にあると考えてい
 る。NUSを浄化することを、まずもって最重要な目標として取り上げている』」とみられていた
 (168ページ)。
2) 組合幹部の対応、船内代表制の採用
 1948年、チャールズ・ジャーマンに代わって書記長となったトム・エーツ(1896-1978)は、東西
 冷戦の開始とTUCの共産党員の影響排除に呼応して、一般組合員運動の押さえ込みを図る。
 1955年ストライキに当たっては、海運連盟が再雇用を拒否する声明を出すが、NUSはそれを
 追認する。しかし、1960年ストライキに当たって、船員出身ではじめてTUCの議長になっていた
 エーツはいろいろ強がってみたものの、その勢いを押さえることができず、ジム・スレーターと
 非公式会談をせざるをえなかった。NUSは、スト参加者に中止を呼びかけたり、その海運法違
 反処分や常置登録の取り消しを黙認したりする一方で、NSRMの要求に即して、同年8月、
 NMBにおいて「賃上げ7.5%、航海中週労働日5.5日、入港中週44時間、そして時間外手当率の
 引上げという、『短期間の交渉で達成された最大級の成果』」を上げる(169ページ)。しかし、
 NSRMはそれに満足せず、同年7月からはじまったストライキは9月末まで続く。
 このストライキによって、NSRMの要求のうち経済要求はかなり達成された。しかし、組合改
 革については「何一つ獲得できなかったが、NUS指導部の信頼度をいたく傷つけ、同じNUSに
 立ち戻ることをできなくした。NUSがいままで実施してきた方法に対する不満は、ちょっとした意
 見の違いによる不平といったものではなかったので、指導のあり方をどう変えていくかについ
 て」検討せざるをえなくした(172ページ)。
 このNUSにとって最大の非公認ストライキが収まった1960年末、その前年に勲爵士(ナイト)を
 授けられていたエーツは引退を余儀なくされる。それに代わって、ジム・スコット(1900-1962)が
 書記長になる。その選挙に当たって、NSRMにとって好意的であるとみえたことから、かれに多
 数の支持票が投じられることになったが、当人はまったく逆であった。そのかれも、1962年に
 急死する。それ代わって、ビル・ホーガス(1911-1973)が書記長になるが、その選挙はウィルソ
 ンが40年前に採用した複数投票制(例えば、組合歴15年以上の組合員には4票を与える)にも
 とづいて行われ、30,879票となっていたが、対立候補のジム・スレーター(1923-)は9,855票であ
 った。NSRMは、大衆から十分な支持をえており、対立候補を押し出すところまで来ていたので
 ある。
 こうして書記長になったホーガスは、前任者のスコットと同じように、それに反対であったが、
 長年の懸案となってきた船内代表制を同年の年次大会に提案するに至る。この船内代表制に
 対して、船主は「労使関係に多大な被害をもたらし、海運産業や国家を破壊させるシステムで
 あって、それは不必要であるばかりか有害だ」と拒否する(177ページ)。そこで調整を余儀なくさ
 れ、それを「NUSと組合員とのあいだに立つ純粋な助言者とし、そのあいだの意思疎通を図る
 こと」を職務とし、「乗組員の苦情を取上げるにあたって組合員を集合したり、かれらの代表に
 なったりする権限はないもの」とすることで、船主に受け入れさせる(178ページ)。この船内代表
 制によって、「一般組合員と執行部員のあいだの信頼関係が再構築されたこと」になった。しか
 し、それが約500隻で選出されていた、1970年をピークにして衰退していく【1】。
 日本の海員組合においては、1946(昭和21)年ゼネラルストライキ後、内部対立が生じ、右派
 幹部が会社派船員と妥協して指導権を握る。それによって労使関係は安定するようになり、海
 員組合は労働組合運動の分裂に与していく。それらは後期ウィルソン時代と見まごうばかりで
 ある。しかし、1960(昭和35)年、労働協約乗組定員中央協定が撤廃されたことを契機として、イ
 ギリスの一般組合員運動に相当する、在京(一部阪神)の職場委員を中心とした京浜職懇運動
 が起こり、経済要求を組合幹部に突きつけるようになる。それを無視できず、組合幹部は船主
 団体から譲歩を取りつけざるをなくなる。
 なお、イギリスの船内代表は日本の船内委員長に相当し、日本の職場委員とは異なる。日
 本の職場委員は、早くも1950(昭和25)年に、会社派船員と組合幹部との妥協によって設けら
 れたものであった。それは、陸上にあって組合機関とともに苦情処理に当たり、また各社労務
 委員会の組合側交渉委員に指名される。こうした個別の会社や船舶における組合下部機関
 の配置の経過や時期、その役割などは、日本とイギリスとではかなり異なっている。
[注]
 【1】 H.A.クレッグ著、牧野富夫他訳『イギリス労使関係制度の発展』、30-31ページ、ミネルヴ
 ァ書房、1988には、NUSにおけるショップシチュワードが船内代表に後退し、それを改革派幹
 部が評価していないことが紹介されている。

 9 1966年大ストライキと海運法改正
 「第9章 1966年大ストライキ」は、1911年以後はじめて行われた公式ストライキの経過、それ
 をめぐるNUSと政府、TUCとの関係、本格的な改正となった1970年海運法、1971年労使関係
 法に従ったためTUCからの二度目の除名を受けたことが記述されている。ここでは、大ストラ
 イキの経過と、それをめぐるNUSと政府、TUCとの関係、および海運改正法の内容と労使関係
 法への対応についてふれる。
1) 所得政策のもとでの大ストライキ
 1964年、労働党が久しぶりに政権につくが、保守党政権の所得政策を引き継ぐ。すでにみた
 ように、船員の労働時間制は1960年代当初、若干の改善がみられたが、陸上労働者とのひら
 きは埋まらなかった。NUSは、1966年有能船員の基本給を月額60ポンド、週40時間制を要求し
 て交渉に入る。それに当たって、最初から、所得政策の制約を無視し、またストライキも辞さな
 いと言明していた。それに対して、船主は週40時間制を3年間かけて実施し、政府のガイドライ
 ンに収める対案を用意してきた。それをNUSの執行委員会は拒否し、同年5月16日より、当時
 において3番目か4番目に長い、47日間に及ぶストライキに入る。
 このストライキを前にして、労働大臣や首相はNUS幹部と接触して、その中止を要請する。ス
 トライキがはじまった夜、首相の「ハロルド・ウィルソンはテレビを通じて談話を発表し、船員に
 同情するものがあるが、NUSが政府の勧告を即刻、認めなければ、行政権限を振るって、そ
 れに対抗せざるをえないと、声を荒げて警告した。NUSの要求が受け入れられれば、『所得政
 策の外堀』が埋められることになり、生活費の急上昇や輸出品の高騰につながる。『それは国
 家と社会に反抗するストライキであり、われわれが望みも求めもしない挑戦である』と述べた」
 (184ページ)。
 このストライキが終わる7月1日には、「518隻の沿海船と373隻の外航船がイギリスの港で停
 船し、65,000人の組合員のうち26,000人が怠業していた」ように(180ページ)、「ストライキの威力
 は一向に衰えるけはいがなく、政府がそれを突き崩そうとしても、わけなく跳ね返されそうであ
 った」という(184ページ)。5月22日には、非常事態宣言が出され、ピアソン仲裁委員会が設置さ
 れる。同委員会は、週40時間制の2年間での実施を提示する。それをNUSは受け入れない。し
 かし、TUCは仲裁が出されると、ストライキは有害だとするようになり、6月20日にはそれを援助
 する必要ないと加盟組合に通告するようになる。その同じ日に、ウィルソン首相は下院におい
 て、「政治的な動機を持った男たちが、強固なグループを作って、中央執行委員の執行活動の
 みならず、諸港においてよく組織されたストライキ委員会に加えている圧力を、われわれは現
 実的で合理的なものと認めることはできない」と発言する(187ページ)。
 こうしてNUSのストライキは泥沼に入るが、TUCの示唆に基づき、ピアソンを議長とした労使
 会議がもたれ、ピアソン仲裁を修正する形で妥結する。このストライキの社会的な意義につい
 て、著者はまとめていないが、それは所得政策を貫こうとする政府の非常事態宣言や「赤の妖
 怪」発言といった押さえ込みや(強権発動はなかった)、その政府を支持するTUCの方針に逆ら
 ってまでして、長期のストライキを続け、一定に成果を上げたことは注目に大いに値する。その
 組織的な意義について、著者は「中央執行委員会が決定的な役割を果たし、『改革者』あるい
 はその同調者といった平組合員がわき役にとどまったこと……ウィルソンやトム・エーツ、ジム・
 スコットが、常勤職員を従えて、そのやり方を思い通りに決めてきた、創立以来のスタイルとは
 違ったものであった」ことを上げている(189ページ)。要するに、NUSはこのストライキにおいて、
 船員の労働条件の立遅れとそれを取上げる一般組合員運動のもとで、NUSは従来の穏健な
 運動路線を修正して闘わざるえなくなり、それに応じて合議制で組織運営せざるをえなかった
 ことを、このストライキは示したといえる【1】。
 イギリス同様、日本の海員組合においても一般組合員運動はますます高揚し、その対応を
 めぐって組合幹部は一枚板でなくなり、組合運営の主導権は次第に京浜職懇とそれを支持す
 る一般組合員に移っていく。その決算として、イギリスと同時期の1965-66年大ストライキ、そし
 て1972年長期ストライキが発生する。その間、組合幹部のリコール運動と組合民主主義確立
 運動が進められ、大幅な賃金・労働条件の改善や、組合機構の改革が実施され、さらに現場
 船員の中央執行委員の当選や組合三役の辞任や更迭、それに代わる左派幹部の登場がみ
 られ、伝統的な反共・労使協調路線は払拭されていく。こうした一般組合員運動の形態やそれ
 が持つ要求、それに伴う経過は日本、イギリスともほぼ同一といっても決して過言ではなく、現
 代における労働組合あるいは労働運動の再生の法則性を示していたといえる。
2) 1970年海運改正法、労使関係法との対応
 ピアソン仲裁委員会は船員法制についても検討し、従来の海運法は「船員が一般市民とは
 違うということから、ちょっとした違反を犯罪として扱ったり、その雇用者である船主たちに対し
 てではなく、その船に雇われている船長に様々な責任をかぶせる[といった]……時代遅れの
 条文は削除されるべきであり、……20世紀半ば、商務省の法令や団体交渉によって確立した
 慣行と一致させるべきである」と勧告していた(192ページ)。その趣旨を入れて、実に約70年ぶり
 に、1970年に海運法が改正されることとなる。それは主として船内規律条文の改正であった。
 1970年法において、「雇止手帳に『Decline to Report』という文言を記入することは廃止され、
 烙印を押す処罰手続は大幅に改正され、船長が罰金を取ることに変更された。1894年法で
 は、脱船や休暇でない欠勤は賃金および手回り品の没収、またそれらを国外で起こせば、10
 週間の懲役または禁固という処罰となっていた。1970年法では、正当な理由によらず、船に乗
 り遅れた結果としての欠勤は即決の100ポンド以下の罰金に引き下げられた。法律が定める命
 令に服従しなかった場合、1894年法では12週間以上の禁固刑に処せられることになってい
 た。度重なる不服従や徒党について、1970年法では、これまた100ポンド以下の罰金に引き下
 げられ、一回限りの不服従は即決の50ポンド以上の罰金となった。それと同様な措置が、泥酔
 や勤務中に及ぶ幻覚にも採用されることとなった。船を喪失させたり、破損したり、それに重大
 な損害を与えた場合、1970年法では2年間の禁固あるいは200ポンド以上の罰金となった」(193
 ページ)。
 また、「脱船は、約250年後になって、陸上と同じように離職と同義語として扱われることにな
 った。『他の船員と徒党を組んだ』かどうかは、それが海上で発生した場合に限って適用すると
 いうことになった。したがって、入港中『法的命令に服従したくないため』徒党を組んでも、それ
 を処罰しないことになった。それによって、国外の港で係留中であれば、『ストライキする権利』
 が認められることになった。NUSは、自ら望んだことではなかったが、罰金や刑罰が1970年法
 に残ることになったことについて、それらの廃止には一定の時間の経過が必要であると言い訳
 していた。さらに、例えば公共の安全を脅かすような不安全な仕事について、それを処罰する
 ことは当然と誰かれも認めているとして、1970年法において、そうした違反の罰金は200ポンド
 から400ポンド、またタンカーにおける喫煙の罰金は10ポンドから20ポンドに引上げられた」とされ
 る(193ページ)。こうした程度の改正に、NUSが満足したわけではなかったが、それを認めざるを
 えなかった【2】。
3) 労使関係法に屈服、TUCからの除名
 1970年、保守党が政権につくと、そのヒース首相は労働運動の押さえ込みにかかる。それに
 当たって労使関係法を制定し、労働協約に法的拘束力を持たせる、非公認ストライキの民事
 責任は認めない、ストライキ投票を義務づける、入職前のクローズドショップを禁止するなどと
 した。それは労働組合の存在そのものの脅威であった。そのなかでも、NUSにとっては入職前
 のクローズドショップの禁止は、船員常置制度の崩壊につながるものであった。この法律に対
 して、TUCはいままでになく反発して、組合登録の取り消しなど、ボイコット作戦に出た。
 こうしたTUCの方針に、NUSは反対ではなかった。しかし、船員常置制度を維持していくため
 には、NUSにとっては組合登録を続けて、認可クローズドショップを政府から取りつける必要が
 あった。こうしたNUSとTUCとの対立は、「かれらが中央執行委員会で大きな勢力を占めていた
 こともあって、改革者たちにとっても悲しい試練となった。かれらは、ヒースの法律を打破する
 ため、TUCが好戦的傾向を強めつつある時、それに一定の距離をおかざるをえなかったから
 である」(194ページ)。
 「1972年1月10日、NUSはTUCに対して、わが組合の完全な崩壊を防ぐには認可クローズドシ
 ョップしかないと確信し、3月9日イギリス海運連盟と同道して、全国労使関係裁判所に共同認
 可申請書を提出すると通告した。……1972年9月4日、NUSはTUCから公式に加盟組織から排
 除され、その組合代表は名簿から削除されることになった」(197ページ)。こうした除名は、NUS
 をはじめ19の組織でみられた。なお、1974年再び労働党が政権に復帰し、労使関係法が廃止
 されたことで、NUSはTUCに再加盟する。
 NUSの1966年ストライキに対して、TUCはそれが支持する労働党の政策を考慮して、その押
 さえ込みを図った。逆に、労使関係法に当たっては、NUSがTUC方針と違った行動を取り、そ
 の反対運動を妨害した。それらは、どのような労働組合であっても、その国のすべての労働者
 に関わる利害を擁護することなくして、自らの組合員の利害を擁護することはできないとして
 も、個々の労働組合にあっては個別産業における力関係、過去からの蓄積、当面の要求や課
 題に基づいて行動せざるをえない場合がある。イギリスでは、その社会経済が困難をきわめて
 いることを反映して、労働運動が政権に関与するまでに一応、発達してきたにもかかわらず、
 根本的な社会改革への展望がない場合、その全体の利益と部分の利益が一致しなくなってい
 ることを示したといえる。
 しかし、そうした対立を、NUSやTUCは恒久的な組織分裂にまで発展させようとはしていな
 い。イギリス労働組合は、その与えられた状況に応じて、その組織連帯のあり方を現実主義的
 に処理するという柔軟な姿勢が、その長年の慣行となっているかのようである。イギリスでは、
 ほとんどの労働組合が単一の産業別・職業別組織として、その地位を維持し、また同時に労
 働党を団体加盟している特殊事情があるとしても、そうした姿勢を日本の労働組合が学ぶとこ
 ろがないとはいえないであろう。
[注]
 【1】 ペリング前掲書、312-313ページは、1966年ストライキについて、それ以前の指導部が戦
 闘性を欠いていたため、船員の労働条件が悪くなっていたので、その要求には正当性があっ
 た。また、政府が組合に圧力をかけたのは所得政策のこともあるが、そのストライキによって
 ポンド危機が急速に進展したことを憂慮したからであるとしている。
 【2】 1970年海運法の邦訳は、『英国商船法(船員に関する規定)』、海事産業研究所、1982
 である。

 10 組合危機のもとでの創立100周年
 「第10章 海運・労働市場と船員」は、1970年代後半から組合員数が激減した背景、ピアソ
 ン、ロッチデール報告の海運産業改革の提起【1】、シーライフ計画の挫折、所得政策に依存し
 た賃上げや週40時間制の獲得、参加型の組織運営への取り組み、サッチャーリズムのもとで
 の海外置籍、FOCの国際規制の困難、1981年の時間外手当引上げストライキ、職場確保の
 闘い、そして創立100周年の祝賀とNUSの困難が記述されている。ここでは、新しい船員制度
 の挫折、海外置籍による組合員の激減、そして創立100周年について取り上げる。
 なお、「補遺 P&O社との対決」は、サッチャー政府の顧問を会長とするP&Oユーロピアン・フ
 ェリー社との大量解雇反対闘争がスト破りと政府の組合圧迫によって敗北していく経過が記述
 されているが、ここでは省略する。
1) 新しい船員制度の挫折
 1966年のピアソン報告は海運法の改正と海運産業の労使関係の刷新について、1970年ロッ
 チデール報告は海運産業の組織と構造、その経営の仕方、関係者の取るべき措置について
 検討していた。それら報告は、共通して、「イギリス海運が伝統にとらわれ、新技術や新型船…
 …そして現代的な人事管理の採用をためらっているため、利益の薄い産業なってしまってい
 る。また、この産業は『伝統から脱皮できず、守勢に回っているため、動きが鈍く、発展の機会
 を追及するより、現状の利益を維持することにきゅうきゅうとしている』」と批判していた(203ペー
 ジ)。
 それらの提案に、船主は進んで未来を託そうとはしなかった。それでも、1960年代半ばに
 は、キュナード社が「職務融通制度」(inter-departmental flexibility、IDF)を採用したり、またシェ
 ル社のタンカーが「多目的配乗制度」(general purpose manning、GP)と呼ばれる実験を行った
 りしていた。これらの新制度も、労使双方から大方の賛成をうることができなかった。それによ
 って明らかとなったことは、何ごとも中央交渉で決めるという「必然的にNMBが持っている欠陥
 や、イギリス船主協会に一定の距離をおき、NMB協定を唯一の協定とはみなさない、海運会
 社の『独自性』を際立たせた」だけだったとされる(206ページ)【2】【3】。
 1975年、雇用者と船員諸組合が共同で支援し、船主が経費を負担するシーライフ計画という
 機構が発足する。その目的は、「イギリス海運産業で、イギリス船員が送ろうとする海上生活
 が、労働力の効果的な利用方法の開発を通じて、より魅力的なものにする道を探ることにあっ
 た」。その計画が終了する1979年には、「すでに国際海運不況が切迫しつつあった。良き時代
 は終わり、景気後退が日増しに強まってきた。シーライフ計画の直接経費もさることながら、船
 主たちの疑心暗鬼に加え、その改革案を実施する場合、予想外のコストがかかることが明ら
 かとなった」。そして、「船舶職員団体はその支持を取り下げてしまった。船主のなかにいた改
 革信奉者も数少なくなり、熱も覚めていった」のである(207ページ)。
 このシーライフについて、NUSは自分たちにとって実現可能な提案を出してくれたとみてい
 た。しかし、事態は急展開してしまっていた。そのシーライフでさえ、「イギリス海軍と同じよう
 に、かなり過酷な条件のもとで働いていながらコストが高いとされるイギリス人船員を、どんな
 国の船であっても働こうとするコストが低い外国人船員と取り替えるという『安易な』解決が時
 代の流れになりつつあると危惧していた。勿論、シーライフが意図したわけではないが、それ
 は改革のシグナルではなく、回避のシグナルになってしまった」のである(208ページ)【4】。
 このようにして、イギリスでは日本でいう船員制度の近代化は日の目をみることなく、イギリス
 船の海外移籍へとただまっしぐらに突き進んでいくこととなった。日本においては、1970年代よ
 り船員制度改革論議が行われていたが、イギリス同様、挫折が続いた。イギリスのシーライフ
 の挫折が明らかとなった1979(昭和54)年、官労使学の「船員制度近代化委員会」が発足し、近
 代化船の実験と実用に取り組み、イギリスに比べればその制度改革を一応、方向づけた。し
 かし、便宜置籍船(Flags of Convenience、以下、FOC)に対抗できる日本船を編み出すという
 目標は、周知のように、その発足の時点で、すでにその基盤を失っていた。日本も、結果から
 みれば、イギリスと同じとなった。
2) 海外置籍による組合員の激減
 1970年代に入ると、イギリスにおける「船員の供給力不足は、NUSにとって交渉力を強めさせ
 たといえなくないが、同時に、それとは対称的な結果、すなわち第三世界の国々に居住する低
 賃金労働者を雇用する圧力を創出させる」ことになった(216ページ)。それ以前の1965年に、
 NMBにおいてその雇用量を現状維持とする非ヨーロッパ人配乗協定が結ばれていた。1974年
 には、NUSはそれに加えて、「NMBが定めている賃金をよりも低いレートで、非居住船員を雇
 用しているNMB構成員の船主に対して、それら船員1人当たり年間15ポンドをNUSに納入する
 よう要求し」、それを認めさせる(217ページ)。その年、労働党政府は人種関係法を国会にかけ
 ていた。その法律が、船舶における賃金差別を温存しようとしていたので、NUSはそれに反対
 した。その問題を解決するため、三者協議会が設置され、1978年、来る1982年末までに賃金
 格差を5段階に分けて解消する勧告が出される。しかし、この問題は、1976年には490隻の船
 舶に17,000人以上の非居住船員が乗船していたが、1984年になると137隻に4,000人強に減少
 したこともあって、未解決のまま放置されることとなった。
 それはことの一面であった。すでに、1970年代に入ると、FOCを「本来の国籍に戻して、その
 真正な管理の下におく」ことを目指してきたITFと長年、同じ立場であったイギリスの船主たち
 は、その考えを変えるようになる。1976年の第147号ILO商船(最低基準)条約は、FOCを安全
 問題に矮小化した動きの現れとなった。また、1980年代、国連貿易開発会議(UNCTAD)も根本
 目標を投げ捨ててしまう。書記長スレーターは、1977年当時を振り返って、「ITFがあらゆるとこ
 ろでFOC船を停船させ、『ブルーサーティフィケート』[ITFが同意した協約を持っていること示す
 証明書]を取らせ、ITF賃金表を適用させることができたはずである」といったという。それに対
 して、著者は「各国政府が政策を変更し、それを再び変更することを拒否している時、どの程
 度、達成できたであろうか? それが十分、達成されないもとで、労働組合がFOCと共生する以
 外に、FOCに対して果たしてどれほどのことができたといえようか?」と述べている(221ページ)。
 「1970年代半ば、500総d以上の外航船は1,700隻ほど保有、登録されていたが、10年後に
 は700隻以下に減少し、さらに減少しようとしていた。1975年から85年にかけて、イギリス船は
 隻数で3分の2、トン数で4分の3が売船、解撤、あるいは海外移籍によって消えてなくなってい
 た。イギリス船として生き残ったのは、船舶設計や荷役技術を改良して乗組員数を削減し、在
 来船よりも有用かつコスト効果のある船に限られるようになった」(218ページ)。それに伴って、
 「海運産業の一般的な雇用環境は破局的な状態になりつつあることが歴然としてきた。1979
 年、船員常置機構に登録されている船舶部員は約29,000人であったが、1987年には15,400人
 になっていた。……海運産業は、元来、労働力を断続的に雇用しようとする産業の一つであ
 る。船主たちは、コストを最小にしようとして、お互いに比較しあいながら、労働力を減らすこと
 に専念していた。NUSは、他の組合員に就業機会を与える必要があるとして、組合員に任意
 解雇手当を受取ることを奨励するといった、変則的な事態を陥らざるをえなくなった」のである
 (220ページ)。
 それに対して、NUSは職場確保の闘いを組織する。しかし、それに成功していない。それにつ
 いて、著者は「労働市場の管理や労使関係制度の維持を棚上げにした上で、市場競争と市場
 の力に信頼を寄せ、特に1970年代その必要性が認められた、労働者や労働組合の権利を系
 統的に縮小させていく」ことを追及するサッチャーリズムの攻勢にさらされ(218ページ)、労働運
 動が全体として大きく後退していた。しかも、外国人船員との「勝負は目に見えていた。イギリ
 スの製造業も、イギリス労働者がいままで行っていた仕事を海外に輸出していたが、船主ほど
 極端ではなかった。船舶は、陸上の施設とは違って、非常に簡単に『フラグアウト』(海外移籍)
 することができる」とき(202ページ)、NUSがひとり闘い抜けるものではなかったといいたいかのよ
 うである。それでは、どうすればよかったのか。それは予定外ということであろうが、上記の
 FOCに関するスレーターの発言に対するコメントからすれば、成り行きとしてみるかのようであ
 る。
 なお、日本の事情については、いまさら解説するまでもない。
3) 栄光と苦悩の創立100周年
 1973年、ホーガスがこれまた急死する。それに代わって、1974年ジム・スレーターが書記長と
 なる。「ウィルソン時代以後のNUSの歴史は、長期にわたって逡巡したとはいえ、他に例のない
 労働組合主義への過程であった。組合員の意見をできる限り聞き入れる組織、権力を組織の
 なかに分散させた組織、そして民主主義的に政策を立案し、意思を決定していく組織たろうとし
 た。そうした変更は、すべて、その組合の後継書記長の態度と責任に負うところが大きい。ビ
 ル・ホーガスは、一般組合員運動の圧力のもとで、ウィルソンの時代から伝統となっていた厳
 格主義を正式に緩和しようとして、様々な努力をした最初の人物であった。しかし、書記長は
 組合員の同僚であり、その代表だという考えにしたがって、誠心誠意振る舞うようになったの
 は、スレーターにおいてない」とされる(213ページ)。
 スレーターは、NUSを「組合員のための組合」にしようとして、組合機構の再編成、選挙制度
 の改善、複数投票制の廃止、船内支部の導入、機関誌編集者や研究職員の採用、教育サー
 ビスの改善などの措置を講じるとともに、1976年の週40時間制の獲得、船員常置機構の改
 善、1978年の拠出年金制度の導入、1979年の船内規律違反の罰金制の廃止などの成果を上
 げる。他方、執行部員にあっても、「正規の組合員の要望に答えることが当然と考え、しかもそ
 れを態度で示すようになった。さらに、かれらはNUSを自らそのものと受け止め、自らの利害は
 組合活動により左右されると判断するようになった。その結果として、組合員の結束は非常に
 固まった」のである(217ページ)。
 1986年、「ジム・スレーターはハベロック・ウィルソン以後、はじめてのNUS組合長となった。そ
 うした栄誉をえたのは、100周年が近づいていることもあったが、かれが高く評価されていたか
 らである。スレーターの後継者はサム・マクラスキー(1932-)以外にいないと、誰からもみられて
 いた。……かれは、船内組合員活動の強化、組合内部の意思疎通の改良、執行部員の訪船
 活動の奨励、そして団体交渉への海上組合員の直接参加を維持、発展させたとし、さらに『組
 合員が自分の暮らしのために必要だと認めれば、どんなことをしてもそれを実現してみせる』と
 付け加えたこともあって、圧倒的な支持を受け、書記長に当選した」(226ページ)。
 1960年代の船員改革運動の活動家が、奇しくも組合長と書記長になり、その組合もウィルソ
 ン時代のそれではなくなった、まさにそのとき、NUSは創立100周年を迎える。1987年9月18
 日、マリタイムハウスに「支部代表、年金生活者、執行部員、組合職員、そして労働運動、組
 合運動の来賓など300人」が参集して、祝賀の宴が開かれる(226ページ)。マクラスキーは、海上
 にいる組合員に「『われわれの組合は、100年前、船員にとって最良の労働協約を闘い取るた
 め設立されたが、いまやその組合の生き残りをかけて闘わざるをえなくなっている』。安易な時
 代は過ぎ去っており、イギリス商船隊を衰退させている基盤と、労働組合運動に対する政府の
 敵意が、そこにある。それらがさらに強まろうとしている。それは、NUSが独自の組織としての
 存立そのものの脅威となっており、その再生をかけて他の組合との合併も考えざるをえなくな
 った」と、メッセージを送った(224ページ)。
 NUSは、1950年代10万人の組合員数を誇っていたが、1987年には24,405人まで落ち込んで
 いた。事実、NUSは1990年9月10日、鉄道員全国組合と合同して、鉄道・海事・運輸労働者全
 国組合(the National Union of Rail, Maritime and Transport Workers, RMT)の一部門となる。
 日本の海員組合にあっても、1972年の長期ストライキ後、左派幹部の指導が曲がりなりにも
 確立していく。それを危惧して、1975(昭和50)年、日本船主協会の菊池会長はいわゆる菊池
 構想(FOCの認知、船員制度の近代化、労使協調の確立)を発表する。それに呼応して、翌
 年、大会社を中心とした会社派船員による海民懇運動が起こり、右派幹部とともに、その巻き
 返しが成功を収めることとなる。その成り行きとして、今日まで、船員制度の近代化、日本船の
 海外置籍、それらに伴う日本人船員の激しい雇用調整が進められることになったことは、周知
 のところである。それによって、日本の海員組合も外航部門に限れば、イギリスと同様の結果
 となっているといえる。
 イギリスにおいては、サッチャーリズムという労働組合圧迫政策のもとで、その海員組合が後
 退せざるをえなくなったが、それに対して日本では会社派船員の策略によって、その内部から
 労働運動が後退していったこととはきわめて対称的であり、イギリスでは到底考えられないこと
 であろう。そのあいだにおいて、労働者の意識や組合幹部の資質にかなりの違いがあることを
 みざるをえない。
 なお、いさかか強引な類推であるが、その時期や業績、人物においてイギリスの組合長エー
 ツは日本の組合長陰山壽や中地熊造、またホーガスは南波佐間豊、スレーターは村上行示
 や土井一清になぞらえることができるかもしれない。
[注]
 【1】 ピアソンおよびロッチデール報告のおおむねの邦訳は、『イギリス海上労働問題−実情
 調査委員会第1回報告−』、海事産業研究所、1966、『英国ピアソン委員会報告書(海運産業
 の諸問題についての調査委員会の最終報告書)』、日本船主協会、1967、『海運調査委員会
 報告書(ロッチデール報告書)』第1、第2分冊、海事産業研究所、1972、1974である。
 【2】 拙稿「イギリス船員の多目的配乗制度−その研究文献の紹介と論評−」、『海運』583、
 1976.4は、某社における結果の分析の紹介である。
 【3】 クレッグ前掲書、55-56ページは、ピアソン報告を引用して、NMBにおいてタンカー会社
 の意向が無視されたこと、その多目的配乗制度による賃金の上乗せ、NMB協定を上回る大手
 会社の個別協定についてふれている。
 【4】 シーライフ報告の一部については、1977年時点の船員雇用と船員常置制度の実態を
 扱った拙稿『海運諸外国における船員の雇用制度に関する調査研究−イギリスにおける船員
 雇用の実態と制度について−』や、海上労働科学研究所、1981、青木修次訳『商船船員の一
 括供給制度に関する研究』、日本海技協会、1982がある。

3 『NUS100年史』とNUS100年の評価
 1 『NUS100年史』の特徴と制約
1) その特徴
 この『NUS100年史』の執筆依頼に当たって、マクラスキー書記長は、序文で、著者たちに組
 合の記録をあますことなく披露し、「わが組合の海上ではなく陸上における運動の概括的な評
 価と、特記すべき史実を描きが出してもらうことにあった。その場合であっても、当然のことな
 がら、何が重要であるか、どう評価すべきかについて、わたしや仲間たちの観点ではなく、か
 れらの観点でもって決めてもらった」という。
 著者たちは、まえがきにおいて、「労働組合の歴史は、多少控えめな姿勢で書くことが望まれ
 る。労働組合のなかには、その労使関係を含め、独特な色合いや言葉使いを多く持っている
 場合があるが、イギリス海員組合にはそうしたものはない。しかし、海運産業にはそれなりの
 特殊性がある ……全体を通じて、この組合が労働運動の紆余曲折のなかに、どのように位置
 づけられるかを示しながら、この組合の方針や闘争がどのように展開したかを解説するように
 した」としている。
 そうした依頼や執筆の意図は、100年史という長期の歴史を扱い、しかも紙幅が少ないにも
 かかわらず、十分に果たされているといえる。そのなかでも、伝記作家から扱いにくく、異論の
 出やすいNUSの創設者ハベロック・ウィルソンについて、「かれの賢明さと無分別、好評と不評
 など、あらいざらい描き出すこと」に成功している。それとともに、NUSが海運連盟と抗争しなが
 ら、労使関係制度を確立する過程、組合の方針や闘争について組合幹部がどのような理念を
 持ってきたか、それをめぐってどのような対立があったか、なかでも一般組合員運動がどのよ
 うに行われたかについて、それらの整理に成功している。
 それに当たって、日本的な公式組合史とは違っているところは、それぞれの時代の組合幹部
 や一般組合員の証言や記録、あるいは新聞記事がふんだんに取り込まれていることである。
 そのため、われわれは同時代人となったかのように、その状況を念頭に思い浮かべることが
 できる。その根拠は、多くの組合幹部が文章を書き残し、また組合記録が大切に保存されてお
 り、しかもそれらを集中して保存してくれるセンター(例えば、ワーウィック大学現代資料センタ
 ー)があることによる。そうしたことは、イギリス人が自らの歴史に自信と責任を感じていること
 によろう。
 それでありながら、著者たちが文献解題で述べているように、海運産業における労使関係の
 歴史に関する文献は乏しい。そのなかで、取り上げられているものとして、下記のものがある。
 Havelock Willson,My Stormy Voyage Through Life, Co-operative Printing Society,
 1925.
 Edward Tupper,Seamen's Torch, Hutchinson, 1938.
 F.J.Lindop, A History of Seamen's Trade Union to 1929, M.Phil. Thesis, London School of
 Economics, 1972.
 Basil Mogrides,Militancy and Inter-union Rivery in British Shipping 1911-1929,
International Review of Social History, Vol.6, No.3, 1961. L.H.Powell, The Shipping
 Federation:A History of the First Sixty Years,1890-1950,Shipping Federation, 1950.
2) その制約
 こうした著者たちの、読者に判断を委ねようとする執筆姿勢は、イギリスにおける歴史家の
 一つの立場であるが、日本人のように性急な国民にとっては物足りないものとなっている。しか
 し、かれらも、それなりに史実について評価を与えているわけであって、それらについては脈絡
 を整理しながら、解説してきた。また、一般的なイギリス労働運動史の文献を引用しながら、そ
 れを補強してきた。そのなかでも、1960年代の一般組合員運動の発生後、NUSは大きく変化し
 ていったとみられるが、その変化の性格とそれが持つ限界について取り立てて記述されていな
 いことは、今後の世界の海員組合運動を展望しようとするとき、大変、惜しまれる。
 著者たちは、NUSについては特殊性を認めていないが、海運産業にはそれを認めている。そ
 れに従えば、後者が前者や労使関係に影響を及ぼさなかったように読み取れることになるが、
 はたしてそうであろうか。例えば、生産単位が同一でしかも同じ技術水準の船舶に、船員が企
 業横断的に移動しながら就業するという特殊性から、際立って産業横断的な労使関係制度が
 確立したとみられるが、そのことにおいて船員が海外置籍によって外国人船員に置き換えられ
 ると、それらが一挙に形骸化してしまっている状況をみるとき、著者たちが労使関係論の専門
 家であるだけに不思議といえる。その関連について最初から念頭になかったかもしれない。
 それはさておき、著者たちは依頼の範囲に忠実であったためか、あるいは紙幅の制約もあっ
 てか、イギリス資本主義なかでもその海運経済の発達と船員労働との関連づけが乏しい。そ
 のため、例えば帆船から汽船に変化したことによって、船員の労働や性格、さらに労働運動の
 ありように、どのような影響があったのか、またいまだ歴史となっていないかもしれないが、イギ
 リス船の海外置籍について、NUSがどのような方針を持ち、どう闘ったかについて掘り下げら
 れていないことは残念である。
 さらに、それぞれの時代の賃金・労働条件や労働実態についてふれるところが少ない。その
 ため、第一次世界大戦後、NUSが労使関係制度を確立したにもかかわらず、両大戦間におい
 て賃金・労働条件に目立った改善がなかったこと、それにくらべ第二次世界大戦後、特に一般
 組合員運動の発生後において目立った改善があったことについて、鮮明に受けとれないきら
 いがある。
 この『NUS100年史』は、総じて、史実を大切にしながら、それを評価することをなるべく避ける
 という、著者たちの基本的な姿勢に基づいて書かれた組合史といえる。したがって、当然の成
 り行きとして、日本で議論されているような、ときとして微細に過ぎるともいえる、イギリス労働
 運動史の論点が整理された組合史研究とはなっていない。それを深めるのは、他の人々の課
 題となっている。

 2 NUS100年の評価
 この『NUS100年史』からえたNUS100年について、率直な感想を述べることで、当面の評価と
 したい。その本来的な評価は今後に残される。
1) 船員の大衆組織としてのNUS
 まずもって、労働組合は資本・経営に対して共通の利害を持った、一定範囲の労働者を組織
 し、それらを組合員として団結させ、組合幹部がそれぞれの時代や組合員の要求に即した理
 念や方針を示して指導しながら、組合員の利益を向上させていく運動体である。その場合、労
 働組合はばらばらな労働者を一つの集団として組織して、はじめて力を発揮しうる。したがっ
 て、まず労働組合はどのような範囲の労働者を、どのような形態で、しかもどれくらいの数を組
 織してきたどうかが問われる。
 NUSは、イギリス船に乗り組む船員、なかでも部員を組織範囲とし、その全国規模の単一組
 織すなわち産業別労働組合を結成し、それを維持することを目指してきた。NUSは、その限り
 で、おおむね成功を収めてきたといえる。
 しかし、その組合員数には消長があり、それが最も後退したのは、NUSの前身であるNAS&
 FUが船主組織の攻勢にさらされ、1893年に任意解散したことが上げられる。それを再建し、
 1911年ストライキに成功し、1919年戦後NMBの確立以降、組合員数を急激に増やし、1920年
 には100年の歴史のなかで最大の99,321人、組織率は70-80lとなったとみられる。しかし、両
 大戦間の海運不況のもとで、それが減らざるをえなかったが、ライバル組合の後退のもとで、
 その組合員を吸収して単一組織となった。戦後においては、1957年の97,517人を頂点にして、
 イギリス海運の後退、それに伴うイギリス船の減少、さらに技術革新による乗組員数の減少の
 なかで傾向的に減少しはじめ、そしてイギリス船の海外置籍の追い打ちがあり、1970年の50,
 000人から1987年には24,405人に減少してしまった。その減少してしまった組合員のなかで、主
 要な分野となっていたフェリー船員もP&Oユーロピアンフェリー争議が敗北したことで、現在さ
 らに減少したとみられる。
 NUSには、1900年代から1920年代まで、the National Union of Ships' Stewards, Cooks,
 Butchers and Bakers、the British Seafarers' Unionや the Amalgamated Marine Workers'
 Union (それらの最盛期の組合員数は、それぞれ1920年の25,970人、1913年の7,605人、1923
 年の12,392人)といったライバル組合があった。それらは、主として司厨部員の組織であった
 が、それらとNUSとの対立は、まず単一組織を確立しようとするウィルソンの方針にかかわっ
 て、それら船員の組織争いとしてはじまり、次第にウィルソンの独善的な態度や労使協調的な
 姿勢への反発となっていく。それらライバル組合は、好戦的な運動を展開することになるが、
 NUSが主要な部分を組織してしまっていたので、それに多くの船員に結集するところとはならな
 かった。それらライバル組合は、すでにみたように、NMBにおける船員供給管理の確立のもと
 で、1920年代末には消え去っていく。
 NUSが船員の単一組織たりえたのは、イギリスにおいて最も強固かつ好戦的な労務団体で
 あったとされる海運連盟に、ウィルソンが対抗しきったことにある。しかし、その単一組織の成
 果であるNMBが確立されると、NUSはそれを海運連盟との良好な関係のもとで維持しようとす
 るようになる。それをめぐる問題は、後述するとして、いま上でみたように、その後のNUSはそ
 の原因にまで立ち向かわないまま、海運市況や雇用構造の変化にさらされ、その組合員数は
 破滅的に減少してしまい、最後には独立組織として維持することさえ困難となってしまった。そ
 れにもかかわらず、イギリス海運企業がゴーイングコンサーンたり続けているとき、この100年
 はNUSとその組合員=船員にとって、何であったのか。
 その結果からみればよく分かるように、まず船員にとっては労働力として、イギリス海運経営
 にとって必要不可欠であっても、それがコスト要素として不適合にならない限りで雇用され続け
 るが、そうでなくなれば、いつでも代替されるべき対象であった。そして、NUSは船員を不適合
 なコスト要素としてしまうおそれのある組織として本来、不必要であったが、NUSがそうした組
 織にならない限りにおいて単一組織として、また船員そのものがそうならない期間において船
 員組織たりえたといえる。そうした展開は、労働組合が資本主義経済のもとでの経済取引団
 体にとどまる限りにおいて、一つの法則的な成り行きを示すものであったといえる。それはNUS
 のみならず、あまたの労働組合が置かれている立場といえる。
2) 船員の民主組織としてのNUS
 労働組合は大衆組織であるので、それが組織している個々の組合員の経済的な利害や政
 治的な立場が一致しているとは限らないので、それらの相違を超えて、組合員が団結しあって
 きたかどうかが問われる。その団結力が、組合員の自然成長的な意識を克服し、目的意識的
 な意識の獲得を通じてえられたものであったかどうかが問われる。さらに、それが組合幹部と
 執行部員や一般組合員とのあいだにおける意見や思想の相違を十分に調整、統一した上で
 の、またそれらを規約、組織、運営において十分に保障した上でのものであったか、一言でい
 えば組合民主主義が貫かれていたかどうかが問われる
 NUS100年史の前半期はウィルソンの家父長制支配のもとにおかれ、その後半期はそれが
 次第に改められた歴史だといってよい。そうした家父長制支配は、ウィルソンの持論に基づくも
 のであったが、それを許してしまう客観的な組織環境もまた見落とせない。船員労働の特殊性
 として、船員はかなり分散して多数の船舶に配置され、さらにそれら船舶が七つの海に散開し
 て航海し、しかも船員の入職・退職やその船間の移動が激しいとき、船員を組織すること自
 体、大変な困難を伴うし、それを組織したとしても、それを維持しながら適切な組合運営を行う
 ことには格段の工夫が必要となる。
 こうした特殊性を克服しようとすれば、すぐれて組合員の意識の成長を促す措置や、その意
 見を反映させ、あるいは組合機関に参加させる措置が不可欠である。しかし、そうしたことは、
 ウィルソンにあっては関心の外にあったとみられる。それが、NUSにおいて取り上げられるよう
 になるのは、1960年代一般組合員運動あるいは船員改革運動が発生してからである。その成
 果として、すでにみたように、様々な組織改革が行われ、組合幹部がNUSは民主組織となった
 と自負するまでになる。しかし、その改革の一つであった船内代表が当初、多くの船舶で配置
 されたものの、10年もたたないうちに衰退していったことは、先の特殊性もさることながら、組
 合員の意識の成長を促しながら、下から団結力を高めていくことについて、必ずしも成功して
 いるとはいえないことを示している。
 NUSにあっては、そうしたことに努力するよりも、組合員を陸上からの指導に従わせること
 で、団結力を維持していこうとする傾向が支配的であった。この傾向は、すでにみたようにNMB
 という制度が確立し、NUSがそれを自らの組織を維持することと同義とするようになったこと
 で、しがらみのようになる。この幹部請負主義に対して、1920年代には船員少数派運動、1960
 年代には一般組合員運動あるいは船員改革運動が起きる。それに当たって、賃下げ反対と
 か、賃金・労働条件の改善といったことが掲げられるが、その内なる目的は経済要求の獲得
 の前提としての組合改革あるいは組合民主化にあった。それら運動が、左派の運動としてしか
 起きなかったことは注目すべきであるが、それが単に外部から持ち込まれている限りでは成果
 が実ることはなかった。
 しかし、1960年代以降の運動は、NUSに限ったことではないようであるが、次第に内部から
 の運動として行われるようになり、一般組合員の支持が広がるようになる。その結果、イギリス
 労働組合のなかにあって組合官僚制が強固とみられていたNUSにあっても、組合員参加型の
 組合運営を行わざるをえなくなり、そのもとでストライキによって経済要求を獲得するというよう
 に変化する。しかも、その運動のリーダーが組合幹部となり、左派組合の一画を形成するまで
 になる。その点から、NUS100年をみると、著者たちもいっているように、ウィルソンの家父長制
 支配と幹部請負主義が確立し、そのもとで組合員は長いあいだ統制され続けてきたが、その
 組合員自身が長い期間かかって、それをようやく克服し、さらに組合の路線や方針をめぐっ
 て、組合幹部と執行部員や一般組合員との統一がそれなりにえられるようになった歴史といえ
 る。
 その場合、日本と比較して決定的に違うところは、企業主義的な運動が持ち込まれていない
 点である。それはともかく、NUSに組合民主主義が確立した時点において、NUSが存亡の危機
 にさらされたことは、歴史の皮肉といわざるをえないし、世界の船員にとっても残念なことであ
 った。
3) 経済取引団体としてのNUS
 労働組合は、一定範囲の労働者を組織することでもって、労働市場における個々の労働者
 の労働力商品の個別取引を制限し、それらの集団取引者となる。そのことを個別企業に認め
 させた上で、労働力商品の供給とその条件について取引を行い、そのことを通じて組合員の
 賃金・労働条件を維持、改善していこうとする運動体である。その場合、その集団取引を継続
 的な慣行・制度とし、それにより多くの個別企業を拘束することができれば、所期の成果を上
 げうる。したがって、労働組合は、個別企業とその集団とのあいだで、どのような団体交渉の
 慣行・制度を築いてきたか、それを通じて、どのような労働力の供給が行われるようになった
 か、また個別企業とその集団から、組合員の雇用の安定をはじめ、どのような取引条件を獲
 得したかが問われることとなる。
 NUSは、海運企業や海運連盟の頑迷な組合否定の態度に災いされ、それらに自らを認知さ
 せ、団体交渉に引き込むことに、まず多くの努力と犠牲を払わなければならなかった。その慣
 行を、NMBという一つの安定した制度として発展させるためには、これまた第1次、第2次世界
 大戦というさらなる犠牲が必要であった。NUSが、すべての海運企業を巻き込んだ団体交渉制
 度と労働力供給機構としてのNMBを獲得したことは、経済取引団体としての大きな成果であっ
 た。この制度が日本にも輸入されたことでも明らかなように、それがなければ世界の海運労使
 関係の諸制度はおぼつかないものになっていたであろう。しかし、このNMBは、NUSにとっては
 その単一組織を維持していく点ではきわめて好都合な制度であったが、船員にとっては功罪
 の二面性をはらむものとなった。
 NUSが、1920年代、ウィルソンの家父長制支配のもとにおかれ、団体交渉制度としてのNMB
 をてこにして賃下げが行なわれたり、また賃金・労働条件の水準が決して高いとはいえないと
 き、NMBは労使協調機構とみなされざるをえなくなった。また、労働力供給機構としてのNMB
 は、それが船員養成規模と関連づけられたことにおいて、入職規制あるいは供給規制の役割
 を果たし、その限りで船員の雇用安定にそれなりに寄与したといえる。しかし、それ以上もので
 は決してなく、海運労使にとって不都合な船員を選別するフィルターとなり、海運不況に当たっ
 て失業防止の機能を果たすことがなく、また船舶の海外置籍に当たって、それに伴う雇用調整
 を容易にしてきたといえる。そうしたことは、それなりの集団取引機構が整備されたとしても、
 資本主義経済のもとでは、それがあらかじめ持っている限界を示したものといえる。
 イギリス人船員の賃金・労働条件の基本的な部分は、産業別全国協約としてのNMB協定に
 よって決定されてきたが、その水準は第2次世界大戦後に限ってみても、一般組合員運動に
 促されてその改善に踏み切るとか、報道機関がその経済要求を当然とみなして支持すると
 か、特に近年において所得政策を利用しながら改善していくといった状況をみてわかるように、
 陸上労働者に比べて常に後追い的であったし、またイギリス海運の地位の低下が関連してい
 たとしても、世界に誇れるものではなかった。それは、NUSが組合統制を重視し、NMB協定の
 安定性に過度に依存してきた結果といえる。それに伴う矛盾は、まずもって一般組合員運動
 の発生として、またマクラスキー書記長が序文でいっているように、「われわれの中央賃金交
 渉は、多数の個別協定の攻撃を受けている。その協定は、陸上エネルギー産業によって運営
 されている、新参の会社ばかりでなく、伝統的な海運会社でも結ばれている。また、船主は海
 運産業が持っている船員供給機構から、次第に手を引きつつある」といった事態として現れざ
 るをなかった。
4) 社会改革団体としてのNUS
 労働者は、経済的な利害ばかりでなく、様々な社会的、政治的な利害を持っている。労働組
 合は、それらの向上に取り組まざるをえない。それらの向上は、当該産業の労使の力関係に
 とどまらず、一国における労使の力関係およびそれらと国家との関係によって左右される。そ
 れを個別的にも、全体的にも有利にするため、労働組合は他の労働組合ばかりでなく、労働
 者政党、各種協同組合などと連帯しなければならないし、その経済的、社会的、政治的な要求
 を国家に持ち出してそれを認めさせ、さらに進んで自らにとって望ましい政治を追及せざるをえ
 ない。したがって、労働組合は経済取引団体にとどまりえず、社会改革団体として運動せざる
 をえない。そこで、当該労働組合がどのような労働者連帯を行いながら、社会改革運動に参画
 してきたか、その場合、当該労働組合がどのような政治的な立場や方針でもって、それに望ん
 できたか、その結果として、どのような成果を上げてきたかが問われることとなる。こうした観
 点について解説するのには、史料が不十分ではあるが、次のことは確かにいえる。
 NUSは、19世紀最後の四半期における新組合運動の一翼を形成し、労働者連帯を広げ、そ
 の高揚に貢献していたし、国際的にはITFの設立に重要な役割を果たしていた。そのことにお
 いて、ウィルソンは著名な組合幹部として名をはせた。しかし、第1次世界大戦後、NUSの地位
 がNMBの設立にあいまって安定するようになり、また労働党が社会主義綱領を採択し、TUCが
 好戦的になってくると、NUSはそれらの運動に反対する立場をとり、分裂組合を支持するまで
 になっていく。それは、ウィルソンの労使協調・反社会主義という思想・信条に基づくものであっ
 た。しかし、1930年代、TUCと労働党が右旋回したことで、NUSにも受け入れられるものとなっ
 ていった。こうした経過をみると、ウィルソンはそうした事態を先取りしていたことになる。
 その後、NUSはイギリス労働運動の流れに沿った動きをみせるにとどまり、また大組合にか
 かわらず、その主流に踊り出ることもなくなっていった。しかし、戦後もかなり経過した1960年
 代、一般組合員運動が起きるなかで、NUSは大きく変化し、労働党政府の政策やTUCの指導
 に反する行動をとるようになる。また、ウィルソンからすれば怒りの対象ともいえる左派幹部が
 組合トップとなり、NUSはイギリス労働組合のなかで左派組合と黙されるまでになる。こうした
 NUS自身の変化や1970年代前後の労働運動の好戦化のもとで、ウィルソン時代の負の遺産と
 して著しく立ち後れ、一定の政治状況がなければ改正されることのない海運法も大幅に改正さ
 れていく。しかし、その後において、NUSが特段に好戦的な方針を採用しているわけではなさそ
 うである。
 資本主義が独占段階に入ると、個別組合やナショナルセンターは根本的に社会改革を進め
 ようとする路線と漸進的に社会改革を進めようとする路線のどちらかの色合いを持つようにな
 り、そのあいだで対立が起きる。しかし、NUSの歴史をみるように、労働組合は一定の路線に
 縛られるものではなく、変貌を遂げる。その変貌が、どのような契機で起きるかは、NUSの歴
 史をみても明らかなように、まずもって一般組合員の動向にかかっており、それを代表しうる組
 合幹部が組合内部に育っているかどうかにかかっているようである。また、近年におけるNUS
 とTUCとの対立をみるとき、個別組合はナショナルセンターの路線と一致しなくても闘わざるを
 えない。それらが全国レベルで一致することは、最近の複雑な政治経済状況のもとでは困難さ
 を増しつつあるかにみえるが、それを克服することなくして、そのどちらの側にも展望がないこ
 とを示したといえる。
5) NUS100年の教訓
 最後に、NUSの100年の歴史にとって、また世界の船員にとっても、最大の問題でありなが
 ら、それに対応できなかったことについてふれ、締めくくりとしたい。それがNUS100年にとって
 の、また現代につながる教訓といえるものである。それはいうまでもなく、非居住外国人船員と
 便宜置籍船(FOC)の問題である。それらの問題について、『NUS100年史』においては明確な記
 述がみられないのは残念なところであるが、およそ、次のようにいえる。
 NUSにとっては、イギリス船における非居住船員のうち、ヨーロッパ人については、それを組
 織することを通じて、その労働条件をイギリス人と同一にすることで処理してきた。東インド人
 ついてはそれを組織したり、またその労働条件について関与しようとした様子はない。第1次世
 界大戦後、ヨーロッパ人船員が減少してしまい、また東インド人船員の職種が最初から限られ
 たものであったため、NUSはその本格的な処理をしないですませてきた。そこには、大英帝国
 の植民地支配という時代的背景が災いしていたとみられる。そうした経過が、ただ単にイギリ
 スばかりでなく、世界における非居住船員の問題、さらにFOCの問題を解決していくに当たって
 の、大いなる禍根となったといえる。
 NUSにとって、FOCの問題は、イギリス海運が三国間海運として成長していく限りで重大な問
 題であり、また世界の海員組合のリーダーとしても、その処理は自らに課せられた大きな問題
 であった。それに対して、NUSはITFのFOCボイコット運動やITF協約締結運動について、その
 中心的役割を果たしてきた。それらは、多国籍企業に対する先駆的な国際連帯運動として、
 かなりの成功を収めたものとして評価されうるものである。しかし、1970年代後半、FOCがすべ
 ての先進海運国に蔓延しようとしていとき、NUSの組合長が回顧しているように、世界の海員
 組合に警鐘を鳴らし、新しい方針を打ち出して、断固たる闘いを挑まなかったことが、NUSの
 みならず先進海運国の海員組合の凋落の原因になったといえる。その責任はひとりNUSに帰
 すことはできない。ただ、NUSが1960年代以降、変貌したとみられるにもかかわらず、それに
 はなおさらなる変貌が必要であったことを知りうる。
 こうしたNUSの限界は、これまたひとりNUSに限ったことではなく、先進海運国の海員組合を
 含め、世界の労働運動が持つ限界でもある。その限界とは何か。その答えは、NUS100年の
 歴史において、すでに与えられている。イギリス船(以下、日本に置き換えてもよい)が海外置
 籍してFOCとなり、それに途上国人船員が配乗されるようになったことで、NUSはその組合員
 数を劇的に減少させ、他の運輸労働組合と合同せざるをえなくなった。それは、海運企業が便
 宜置籍という不公正な制度を利用するようになったことによって、イギリス人船員が労働市場
 における途上国人船員との就労競争に破れ、NUSが経済取引団体としての立場を奪われたこ
 とにある。それは、現象的には単純な経済論理にしたがったもののようにみえるが、決してそう
 ではなく、資本主義経済が国家やその制度によって維持されていることの一環である、経済外
 的制度を媒介とした経済論理にしたがったものである。そうした意味での経済論理に翻弄され
 続けてきたのが、NUSの100年といえる。
 いま、それを克服しようとすれば、NUSばかりでなく世界の海員組合が単なる経済取引団体
 たり続けてきたことから脱皮し、社会改革団体としても大きく成長することなくしてありえないこ
 ととなる。そのことを、NUSはその歴史において証明してみせたといえる。世界の船員は、それ
 を教訓として、新たな答えを引き出さなければならない。その一つの答えは、UNCTADの運動
 が示した新国際海運秩序であろう。それは、先進国、途上国の労働運動の共通な課題として、
 また国内、国際における同次元な運動として実現していくに違いない【1】。
[注]
 【1】 その若干のヒントは、拙稿「現代海運の展望と課題」篠原陽一、雨宮洋司編著『現代海
 運論』、237-247ページ、税務経理協会、1991に示している。

初出書誌:同題名、『海事産業研究所報』 319,322,327 1993年1月,4月,9月

ホームページへ

目次に戻る

先頭に戻る

inserted by FC2 system