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国家と労務管理、そして船員
―船員は国家からどのように扱われてきたか?―

篠 原 陽 一

目次
 eまえがき
 まえがき
 1 海運企業の管理と船員
 2 人事管理と船員政策
 3 職場管理、労働条件管理と船員政策
 4 労使関係管理と船員政策
 5 戦時船員政策
 あとがき

eまえがき
 この論文は、いわば、いままで船員労働、海運経済等を研究してきたことを、小論文で要約
 するよう求められたとすれば、それに答えたといえるものとなっている。
  したがって、日本の船員労働とその歴史をひもとく際の視点、あるいはそれらを研究する際
 の論点をおおむね網羅し、それらに回答を与えたものとなっている。その意味で、船員労働問
 題研究の総括といえる。
  なお、この論文は、長年、神戸大学経済経営研究所において、船員労働、海運経済等の研
 究に多くの業績をあげられた、山本泰督氏の退官記念論文集に掲載されたものである。

まえがき
 船員は国家に翻弄されてきた。
 その国家の政策である海運政策はともかく、船員政策の歴史と性格について、不思議と関説
 する機会がなかった。そこで、この小論は戦前、戦後の日本国家が実施してきた船員政策に
 ついて、それが海運企業の労務管理にどのような効果を及ばしてきたか、そのなかで船員は
 どのように扱われたかという観点から整理し、自らの不足を補おうとするものである。
  なお紙幅の関係で、主要な政策に限ってしかもその大筋での効果を、簡略に扱うしかなかっ
 たことを、あらかじめ断っておきたい。

1 海運企業の管理と船員
 日本において、それが直接であるか、間接であるかはともかく、船員ほど、国家とその政策
 に取り囲まれ、それに左右されてきた職業は、他にない。その場合、国家は船員を、一人の国
 民あるいは単なる船員としてではなく、海運企業に雇用されている労働者として扱っている。し
 たがって、国家が船員をどのように扱ってきたかは、国家が船員を対象として、船員と海運企
 業の関係に、どのような政策でもって関与あるいは介入してきたかを問うことになる。
  海運企業は、資本家が資産を投じ、雇用した労働者を働かせて、最大限の利潤を獲得しよう
 とする、営利企業の一つである。他方、船員は資産を所有していないので、海運企業といった
 何らかの営利企業に雇用されなければ、生活できない(経済的強者と経済的弱者、それを前
 提とした資本家=雇用者と労働者=被用者の関係)。海運企業は、自らの指揮命令のもとで、
 船員を労働させる。それに管理・抑圧されて、船員は労働させられることになる。その労働によ
 って、海運企業は船員に支払った以上の価値を獲得し、船員は自らが産み出した価値のう
 ち、賃金以外の価値を失う(管理者=抑圧者と被管理者=被抑圧者、搾取者と被搾取者の関
 係)。
  このような船員と海運企業との関係のもとで、海運企業は、当面の課題に即していえば、@
 一定の労働能力を持つ船員を選抜、採用、配置し、それとともにA船員の賃金をはじめ、乗下
 船、労働時間、休日・休暇・労働環境など、雇用・労働条件を決め、B資本家の経営活動を代
 行する管理者を陸上や船内に配置したうえで、C船員が船舶や積荷を損なったり、燃料を無
 駄遣いしたりせずに船舶を運航し、それに当たってD船員が職場の秩序を保ちつつ、その持
 てる能力を十分に発揮して労働するよう仕向け、さらにE雇用と就業について、船員が不平を
 鳴らしたり、要求を持ち出したり、そのために団結したりすることに対処しなければならない。
 それらに当たって、いろいろな慣行を利用しまたいろいろ制度を用意して、資本家としての管
 理を行っている。
  それらは、海運企業の経営管理の一部であるが、その主要な部分である。そして、それらの
 うちCは生産・資材管理に当たるが、それ以外は労務管理としての、@人事管理、A雇用・労
 働条件管理、B管理者管理、D職場管理・人間関係管理、E労使関係管理に、おおむね当た
 る。 これら労務管理の個別分野に、国家が実施してきた船員政策がどのような効果を及ぼし
 てきたかを取り上げ、さらにそれを超えるものとして、どのような政策がみられたかを検討する
 こととしたい。
2 人事管理と船員政策
1 船員の養成、供給、排除
  海運企業は、船員の募集、選抜、養成、解雇など、船員の量的確保に関する人事管理を行
 わなければならないが、それに国家はどのように関ってきたか。
  船員の養成は、船舶職員については現在の商船大学の系列(設立以後、ほぼ現在までの卒
 業生、約22,500人)や商船高等専門学校の系列(約18,000人)、そして日本海員掖済会の高等
 海員養成所(戦前まで約140,000人)などの系列において、また船舶部員については日本海員
 掖済会の普通海員養成所(戦前まで約80,000人)や、現在の海員学校の系列(約52,000人)に
 おいて行われてきた。なお、1880(明治13)年設立の海員掖済会は、皇族や貴族を総裁に仰ぐ
 慈恵団体であり、船員の養成の他、宿泊、乗船斡旋、医療、援護、表彰などを行った。
  国家は、それらを基幹的な船員を養成する機関とみなしてきた。それらの目的は、完成した
 船員を養成することにあった。それら卒業生は時代をさかのぼるほど、特定小数の海運大企
 業に供給された。また、国家は、その時々の船員需給の変動に応じて、国立機関を中心にし
 て、学校や学科の増設・改廃、養成規模の調整を行ってきた。
  こうして、国家は海運企業、わけても海運大企業に対して、それが必要とする船員を、持続
 的かつ積極的に供給し続け、その人事管理を支援してきた。それによって、海運企業は優秀
 な新規船員を、きわめて容易に調達できるという便宜が与えられ、それに応じてその募集・選
 抜・訓練の費用をほぼまったく免れてきた。海運企業が国家、国民に依存したあるいは助成さ
 れた費用は莫大なものがある。それにもかかわらず、国家や企業が、そうした養成された船員
 の計画採用や職業定着、雇用維持について、責任を取ることはなかった。
  その最たる事例が、1980年代における海運企業の脱日本船・脱日本人船員経営とその促進
 を図る海運・船員政策であった。この日本人船員からアジア人船員への政策転換によって、日
 本人外航船員は1980(昭和55)年の38,425人から1992(平成4)年には9,993人まで減少した。
 1987−89(昭和62−平成元)年には、その政策を仕上げるため、緊急雇用対策という名の約
 10,000人にも及ぶ大量解雇が実施された。そのもとで、全国の船員給源地は崩壊し、また船
 員養成機関は危機状況となった。後者の大幅な改廃について回顧しないが、その養成規模は
 1973(昭和48)年度商船大学2校320人、商船高専5校600人、海員学校13校1,255人から、
 1991(平成3)年度以降それぞれ2校280人、5校400人、8校440人への縮小を余儀なくされた。
  なお、海運企業にあっては、きわめて少数の企業が一時期、特定職種に限って、若干の自
 社船員を養成したにとどまる。しかし、最近における外国人船員の雇用に当たって、海運大企
 業はフィリピンなどに、自前の入職前訓練機関を設置するようになった。その一環として、国家
 は外国人研修船員の受け入れ、外国の船員養成機関への資金や人材の援助を行ない、海運
 企業の外国での船員調達を支援している。
2 船員の資格の設定、配置の基準
  次に、海運企業は、雇用する船員の技能を判定し、それを一定の構成でもって配置するとと
 もに、それらの昇進や人事考課を決めるといった、船員の質的編成に関する人事管理を行わ
 なければならないが、それに国家はどのように関ってきたか。
  国家は、前述および後述の船員養成機関の教育・訓練に加えて、西洋形商船船長運転手及
 機関手試験免状規則(1876・明治9)、船舶職員法(1896・明治29)の系列において、資格別免
 許の特定、資格別試験の実施、免状保有者の配置、免許の取り消しなどを定めてきた。
  これら法令は、例えば現行船舶職員法1条にみるように、「船舶の航行の安全を図ることを
 目的」としており、その限りで単なる船員を対象としている。それはさておき、それらは海運企
 業の、それぞれの船舶において配置すべき船舶職員の数、それぞれの職務内容と、それに応
 じた技術的な(労働)能力や資格、また船舶職員の職位昇進や人事考課、さらにはそれらの採
 用・解雇・配置などの計画と実行について、一定の客観的な基準を与えるものであった。その
 点で、それら法令はその人事管理を補強してきた。
  しかし、それら法令は海運企業に対しては、そうした補強ではなく、本来、その人事管理を規
 制することにある。例えば、船舶職員の定員、そのもとでの必要な職種別資格、さらには資格
 そのものの厳格さなどである。それに対して、海運企業はそれらの規制に反対し、その緩和を
 求めてきたが、その最近の顕著な事例が、海外貸渡船マルシップにおける日本人船舶職員の
 軽減定員を認める、現行船舶職員法20条特例措置の長期適用である。
  さらに、人事管理に対する補強と規制の緩和を一挙に達成した、最近における際立った事例
 が、船員制度の近代化である。それは、船舶の技術革新が一巡し、人べらし効果が限界に達
 しているもとで、船内職務を再編成することで(船員の職務範囲の変更と資格の修正によっ
 て)、乗組定員を大幅に削減しようとしたものであった。それに当たり、運輸省は官公労使によ
 る船員制度近代化委員会を設置し、それに本来であれば海運企業が行うべき船内職務の再
 編成という管理を計画させ、実験という名目で実行させ、そして評価させた。それは、同時に、
 それに伴って発生するであろう、船員からの反発を封じ込めようとした点で、労使関係管理の
 補強でもあった。
3 非近代的な労務慣行の黙認
  いままでみたように、国家が船員と海運企業との関係に関与する政策ばかりでなく、国家が
 それに関与しない政策を見落とすことができない。その最大の事例が、戦前におけるボーレン
 と高利貸、船内賭博の制度である。
  国家は、船員に、特に船舶部員の求職・求人については、日本海員掖済会に、その設立以
 後、海運大企業を中心に、無料の海員媒介(乗船斡旋)事業を行わせてきた。その斡旋数
 は、明治期にあってはかなりの比率であった。その後の企業や船員の増加に伴い、ボーレンと
 呼ばれた船員口入れ業・周旋業が船員の募集と乗船先の斡旋について大きな役割を果たす
 ようになった。それらボーレンは、おおむね特定の海運企業と結びついて、船員を供給し、船
 員から少なくとも1か月以上の賃金に相当する手数料や宿泊代を徴収していた。
  戦前の職長(水夫長・火夫長)の多くは、ボーレンから船員の借金を引き継いだり、船内での
 賭博や陸上での遊興を奨励したりして、貸し金を増額した。その金利は通常2割という高利で
 あった。賃金は、月ごとの全額・直渡しではなく、職長を通じて内地帰港時に清算払いされた。
 貸し金を抱え込もうとしない船員には、様々な差別が加えられた。職長は、ボーレンや港のボ
 ス、金貸しから元手をえていたし、警察や会社のお偉がたへの付け届けに怠りなかった。高利
 貸の悪習は、海運大企業において根強かった。
  そうした有料職業紹介や中間搾取、不正慣行を、国家は取り締まることなく、放置し続けた。
 それらは、戦前における船員の悲惨と無権利の基盤であった。それらに対抗したのは、1924
 (大正13)年設立の海員刷新会といった左翼少数派だけであった。後述の日本海員組合は、
 その組合運営に当たって水火夫長に依存していたので、その高利貸ばかりでなく、それに結び
 ついているボーレンを排撃することができなかった。こうして、ボーレンは日本海員組合の設
 立、さらに海事協同会の1927(昭和2)年からの無料職業紹介開始にもかかわらず、形を変え
 て残存し、また高利貸は1937(昭和12)年船員法改正において給料直渡しの規定が盛り込ま
 れたことを経過し、いずれも戦時体制に入ってようやく終止するところとなる。
  こうした非近代的な労務慣行を、国家が黙認・放置してきたことは、海運企業の人事管理を
 補完して、船員の安価な調達を可能にし、さらに後述の管理者管理・職場管理や労使関係管
 理をも補完し、船員の不満・要求そして運動の圧迫を実効あるものとした。
  なお、便宜置籍船(以下、FOC)やマルシップをめぐる船員の雇用のなかで、戦前に横行した
 非近代的な労務慣行の一部が復活し、それに国家が関与しようとしていないことは、資本が持
 つ本性を支持する国家の本質を示したものといえる。

3 職場管理、労働条件管理と船員政策
1 船員取締、労務管理基準
  海運企業は、雇用した船員を指揮命令して労働させ、船舶を運航するが、それに当たって、
 それを代行する船長を配置して船員を管理させる。この管理者管理・職場管理について、国家
 はどのように関ってきたか。
  国家は、主として、船長について商法(1890・明治23、1899・明治32)や船員法(1899・明治
 32、1937・昭和12、1947・昭和22)の系列において、またそれを含む船舶職員について前出の
 西洋形商船免状規則、海員懲戒法(1896・明治29)、海難審判法(1947・昭和22)において、さ
 らに船長を除く船員について前出の船員法の系列において、それら船員の職務や権限、そし
 て職務に伴う責任や義務、さらにそれに違反した場合の処罰(懲戒、罰金、懲役)を、詳細に
 定めてきた。なお、日本海員掖済会は船員の表彰とともに船員の懲戒(乗船媒介停止、禁止)
 を行っており、1899(明治32)年から1919(大正8)年まで、毎年(いわば、船員法制定から海員
 組合結成まで)、乗船媒介数の約2−3%に相当する懲戒を行っていた。
  明治時代、海運企業は企業経営として未発達であり、船舶運航に当たっての指揮命令に困
 難を伴い、しかもその指揮命令を被用者である船長にほぼ全面的に委ねざるをえず、さらに
 多数の未熟辣船員を短期雇用しながら、それに多種多様な職務に従事させる必要があった。
 それに加え、当時の国家は絶対主義的天皇制国家として、資本主義を上から保護・育成し、
 それを保障するため国民に対して専制的権力を振い、特に海運企業活動については軍事的
 な観点から深く関与する必要があった。そうした状況に対応して、国家は船長を含む船員の労
 働を直接の対象として、すでにみたような諸法令を整備した。
  それら法令のなかには、人命・船舶の安全の確保のための規定を含むとはいえ、その多くは
 海運企業が雇用した船長あるいは船員を指揮命令するという管理、具体的には生産・資材・
 労務管理に関する社則や就業規則に盛られるべき規定であり、しかもその内容が近代的労使
 関係のもとでは到底認められないような規定を含んでいた。そして、それらの実効を、処罰でも
 って保障しようとしたものでもあった。
  こうした法令を基盤とした政策は、国家が海運企業の管理者管理・職場管理に深く介入し
 て、それらのあるべき制度や基準を定めるとともに、船長や船員を直接、取り締まろうとしてい
 る。すなわち、それら管理を補強する政策であるとともに、国家の船員管理といえる。したがっ
 て、戦前船員法は船員取締兼管理基準法と名づけうる。
  戦後船員法は、新憲法=労働基本権が確立しているもとでの労働基準法の特別法として、
 戦前船員法を廃棄した上で制定されるべきであったにもかかわらず、それらの規定のかなり
 の部分を引き継ぐこととなった。戦後船員法の文言が、戦前船員法と同じであっても、適切な
 解釈が求められることになったとか、またそのいくつかがその後削除されもし、しかもそれらの
 多くが事実上、死文化しているとされる。しかし、戦前・戦後のそれらの規定が、いまなお海運
 企業の社則・就業規則に取り込まれているとき、その労務管理の基準となり、それに客観性を
 与える役割を果たしていることは見逃せない。そのことは、国家と資本は時代を超えて、労働
 者の管理・抑圧について同じ立場であることを、はしなくもよく示したものといえる。
2 労働保護水準の低さ、陸上後追い
  海運企業は、船員を労働させるに当たって、賃金をはじめ、乗下船、労働時間、休日・休暇、
 労働環境などの雇用・労働条件を定めなければならない。この労働条件管理に、国家はどの
 ように関ってきたか。
  国家は、西洋形商船海員雇入雇止規則(1879、明治12)、すでにみた商法や船員法の系
 列、そして船員保険法(1939、昭和14)などにおいて、海運企業の労働条件管理に規制を加
 え、船員の労働・生活を保護してきたとされる。
  しかし、明治時代の法令は、それ自体として到底、船員の労働・生活を保護するためのもの
 ではなく、いま上でみたように船員取締兼管理基準法でしかなかった。それでも、雇入契約期
 間の制限、船員の雇入契約の解除、雇入地までの送還、船主理由による雇止に伴う手当、職
 務上傷病に対する治療費、同傷病中の給料の支払い、船員手帳への雇入条件の記載、食料
 の支給などといった、消極的な保護規定を含んでいた。
 1937(昭和12)年の船員法は、ILO(国際労働機関)において数多くの国際海上労働条約が採
 択され、日本海員組合や海事協同会が結成され、1928(昭和3)年には社外船大争議が行わ
 れるといった経過を受けて制定された。しかし、こうした海運労使関係の基本的な変化にも関
 らず、従来の性格を払拭するものではなかったし、労働時間制などの本来的=積極的な保護
 規定が盛り込まれていなかった。ただ、1923(大正12)年の船員最低年齢及び健康証明に関
 する法律を廃止して、それを15歳(石炭夫、火夫18歳)に引き上げて取り入れたほか、給料直
 渡し、雇止手当の拡大、医師・医薬設備、職務外傷病中の給料の支払い、領事等の船員法事
 務、船舶所有者に対する処罰の強化、船員に対する処罰の軽減などがみられた。
  船員保険法は、1922(大正11)年に健康保険法の制定に並行して立案されるが、その後放
 置され、1928(昭和3)年の労働者災害扶助法、1938(昭和13)年の国民健康保険法の後を受
 けて、ようやく1939(昭和14)年になって制定される。その最大の特色は、いまだ陸上労働者に
 もない、養老年金・廃疾年金を設けたことであった。それは、すでに日中戦争の最中の制定で
 あることでも明らかのように、当面する戦時体制のもとでの船員確保のための手段であった。
 なお、船員保険法は年金受給年齢を55歳としてきたが、それがはからずも前述の1980年代の
 雇用調整に有効に働いたことは皮肉といえる。
  戦後船員法にあっては、すでに述べたように、戦前からの船員取締兼管理基準に関する規
 定を引き継いだとはいえ、戦後改革の一環として、保護規定は一新、拡充された。その決定的
 な規定は、労働時間制、定員制、有給休暇、安全衛生、就業規則などである。しかし、それら
 は主として国際海上労働条約の戦前水準を盛り込むにとどまった。航行中の労働時間制は週
 56時間制という週休制のない規定となっており、それさえ700総トン未満の船舶には適用せ
 ず、しかも様々な例外規定が設けていた。こうした保護水準の低さは、いろいろな規定にみら
 れた。それ以外で重大なことは、船内労働安全・衛生や船員福祉に関する基本規定を欠いて
 いたことであった。その後、保護規定の部分的な改善はみられたが、本格的な改善ほ遅々とし
 て進まず、1989(平成元)年になってようやく週48時間制が導入されたことにみられるように、
 労働基準法との違いを残しながら後追するにとどまった。
  このように、船員法による海運企業の管理に対する規制は極めて緩やかなものであり、戦前
 にあってはそれが持つ性格からして、船員の労働・生活の保護を目指したものでなく、海運企
 業のほぼ無制限な搾取を保障するものであった。戦後にあっても、労働基準法の特別法とし
 て、海運企業の管理を特別に規制し、それによって船員の労働・生活を特別に保護しようとし
 てきたといえず、それらを労働基準法以下にとどめることによって、海運企業の搾取を可及的
 に擁護するものになっていた。

4 労使関係管理と船員政策
 海運企業は、船員が雇用と就業について不平を鳴らしたり、要求を持ち出したり、そのため
 に団結したりすることに対処しなければならない。この労使関係管理に、国家はどのように関
 ってきたか。
1 海事協同会による管理の制度化
  国家は、1900(明治33)年の治安警察法、1925(大正14)年の治安維持法などによって、労働
 運動を弾圧することを基本政策とし、その上にたって、船員の労働運動については、すでにみ
 たように船員法等によって、船員の不平や要求が噴出しないよう、また船員が団結しないよ
 う、事前の処置を整えてきたが、それを完全に抑圧できるものではなかった。1896(明治29)年
 には海員倶楽部(後の海員協会)、1906(明治39)年には機関都同志会が結成され、団体交渉
 や争議が行われる。それに対して、海運企業はすでに述べた人事管理(大企業では、一部船
 員の継続雇用)の運用と、警察権力の支援をえた企業レベルでの約争処理でもって、さしあた
 って対応しえた。
  しかし、1921(大正10)年に全国の船員団体の合併による大規模な日本海員組合が結成さ
 れる。それに対して、国家は1926(大正15)年、日本船主協会と海員協会、海員組合を構成員
 とする、海事協同会を設立させる。それは、産業レベルでの船員の職業紹介や、待遇の協議
 決定、争議の予防・調停を目指したものであった。特に、すでに述べた非近代的な労務慣行に
 迎合している日本海員組合に対して、船舶部員の唯一の交渉団体としての地位を与え、その
 組織を擁護することでもって、海員刷新会などの下部組合員運動を制圧しようとしたものであ
 った。この労使協調機関のもとにあっても、すでにみた社外船大争議が行われ、産業別最低
 賃金という画期的な制度が策定されはする。しかし、それは昭和恐慌期において、最低賃金の
 引き下げを円滑に行う役割を果たしたものの、失業に対する有効な対策を立てることはなかっ
 た。
  この海事協同会を中心とした政策は、国家が日本海員組合を労働運動弾圧政策からみて
 許容しうる範囲にあることを前提にして、産業レベルの労使関係管理制度として海事協同会を
 斡旋し、それを監理・監督するという保障のもとで、それを望んでいない海運企業に日本海員
 組合を対等な交渉相手にすることを認めさせ、それによって産業レベルでの労使関係の安定
 化と賃金・労働条件の低位平準化を図ろうとしたものであった。さらに、それを実施しようのな
 い企業の企業レベルの労使関係管理をも代替しようとしたものであった。この体制は戦後の
 先取りでもあった。
2 穏健組合の体制的取り込み
  戦後日本の労使関係は労働基本権が確立したことで激変する。しかし、海運産業にあって
 は、戦前の組合幹部が敗戦2か月後の1945(昭和20)年10月に結成された、産業別単一組合
 である全日本海員組合に横滑りし、また国家が船員労働行政を労働省に移管しなかったこと
 で、産業レベルでの激変はまぬがれた。しかし、海運企業にとっては、戦後制度としての船員
 の終身雇用のもとでの、企業レベルの労使関係管理を確立し、伝統的な産業レベルのそれと
 調整をとる必要があった。この課題は、アメリカ型労働協約の締結と運用、規模別船主団体の
 結成による産業別統一交渉の分断、企業主義的な職場委員の育成とそれを中心とした企業
 内交渉の確立、そして企業内福利厚生による企業意識の醸成として達成する。
  国家は、海運政策や船員政策に関る海運造船合理化審議会、船員中央労働委員会といっ
 た多種多様な審議会や委員会、それら政策の推進団体や関連団体、その他生産性本部など
 といった機関に、海員組合の現旧幹部を組み入れ、その審議や運営に参画、関与させてき
 た。そのなかで、国家は戦後再建のための計画造船・利子補給をはじめ、1964(昭和39)年か
 らの海運集約・再建整備、1970年代半ばからの脱日本船・脱日本人船員経営政策など、重要
 な海運政策の立案と実施に当たって、海員組合幹部の支持を取りつけ、賃金抑制や雇用削
 減、組合員の説得といった課題を担わせ、その絶大な協力のもとで、それらを成功させてき
 た。
  このような国家の政策に絡めとられた組合幹部とその労使協調路線に、下部組合員は反対
 せざるをえないし、また組合幹部にあっても下部組合員の要求を無視し続けられないことか
 ら、一定の節目において、かなり大規模な労使対立や労働争議が起きざるをえなかった。それ
 らに当たって、国家は船員中央労働委員会等を通じて、例えば1954(昭和29)年産業別ユニオ
 ン・ショップ制、1957(昭和32)年最低保障本給制、1960(昭和35)年産業別年金制、1972(昭
 和47)年92日に及ぶ長期ストライキ、1974(昭和49)年産業別基本給制などにみるように、海員
 組合の要求をできる限り認めるかたちで、それらの解決を促してきた。それによって、組合幹
 部と下部組合員との対立も暫時、解消されることとなった。
  そこで重要なことは、これら産業別制度が海員組合に一方的に有利なものではなく、海運企
 業の労務費の負担について十分に配慮したものであり、また企業レベルの労使関係管理を制
 約するものでもなかった。それは、それ自体が持つ賃金・労働条件の低位平準化という機能を
 貫徹させる制度、特に海運大企業にとっては船員コストが安上がりとなる制度として解決され
 てきたものであった。
  国家は、戦後にあっては戦前にもまして体制的な観点に立って、海員組合幹部に社会的地
 位を与え、産業別労使関係制度を支持することを通じて、海運企業の労使関係管理を補強
 し、労使協調を促進してきたといえる。ただ、それは海員組合幹部が反共・労使協調路線を堅
 持し、官僚主義的な組合運営によって組合員を統制する体制を前提としていた。そうした体制
 が、1940年代後半と1970年代半ばに崩れかけようとしたが、企業主義的船員による反共民主
 化運動が組織されたことで、その崩壊は免れてきた。そうした機会を含め、海運企業は企業別
 組合を志向する労使関係管理を展開することはなかった。

5 戦時船員政策
1 軍需輸送要員の育成
  国家は船員を単に海運企業に雇用された労働者として扱ってきたわけでほない。戦前にお
 いては、国家は特に船舶職員について、直接的な軍需要員とみなし、それに応じた特殊な地
 位を与え、そのための教育・訓練を行ってきた。1875(明治8)年設立の三菱商船学校は、
 1882(明治15)年に官立の東京商船学校に移管されるが、その校則は「本校生徒ハ専ラ航海
 或ハ機関ノ業務二従事シ且海軍予備員志願ノ者二限ルベシ」と定めた。それに伴い、海軍兵
 学校(海軍砲術学校)での砲術授業や海軍生徒に準じた徴兵猶予の措置が取られることとな
 った。さらに、1804(明治37)年には、入学と同時に海軍兵籍に編入されて予備生徒となり、卒
 業と同時に海軍予備(機関)少尉候補生、実歴により予備(機関)中佐まで累進させられること
 となった。それは1918(大正7)年に強化され、そして公立の商船学校について海軍予備練習
 生・予備一等(機関)兵曹・海兵団の制度が採用される。後述の官立の海員養成所が設立さ
 れると、それについて海軍予備補修生・海兵団の制度が導入される。それらは敗戦まで継続
 する。
  この商船学校生徒および卒業生が海軍予備員となることによって、その学校教育もそれに
 応じた体制を取るところとなり、砲術や軍事の教科が強化された。さらに、現役軍人が校長に
 就任しまた教官として配属され、軍事学の教授、軍事訓練の指導、学生の監理・訓育に当たっ
 た。また、その一環として、学費の官費支給、全寮制の採用、卒業後の乗船義務などが実施さ
 れた。特に、1943(昭和18)年の清水高等商船学校の開校に当たって、海軍中将の校長は「本
 校は戦場である」と訓示し、文民教官44人に対して配属武官40人でもって、1学年1,100人ある
 いは1,800人といった生徒を入学させ、海軍兵学校並みの教練・訓育を行った。こうした教育訓
 練を受けた船舶職員が、国家や現役軍人から、第2次世界大戦中、それ相応とみられる扱い
 を受けたわけではなく、ただ死を恐れぬ軍需輸送要員として使い捨てられていった。
2 若年船員の大量徴用・養成
  戦前、国家が戦争を起こすと、かならず、ほとんどの商船と船員を徴用した。船員の一部は
 軍隊に召集された。そして、国家は戦争によって損耗する船員を補充するため、新規船員の
 募集と養成の規模を拡大してきた。
  国家は、日清、日露戦争、第1次世界大戦に当たり、商船と船員を徴用した。それに対応し
 て、日本海員掖済会は陸海軍御用船に船員不足が生じないよう、馬関、宇品、佐世保に臨時
 出張所を設け、また中国・四国・九州に職員を派遣し、新旧船員の募集につとめ、戦時中、通
 年の約1.5倍の件数の乗船斡旋を行った。なお、上記の戦時期約6年間における臨時出張所
 の斡旋数は47,024件であった。
  日中戦争、第2次世界大戦に当たって、国家は1939(昭和14)年船員職業能力申告令、1940
 (昭和15)年船員徴用令、そして1942(昭和17)年戦時海運管理令等を公布した。新規船員の
 募集(徴用)は、おおむね国から割り当てられた国民学校高等科卒業者を、1942(昭和17)年
 設立の戦時海運管理の実務を担当する船舶運営会が受け入れることでもって行われた。さら
 に、同会は自力でもって募集を拡大しようとして、大々的な広告宣伝や職員の全国派遣などを
 行った。応募者のうち、年少者は後述の船舶運営会系および官立の普通海員養成所に入れ
 られた。戦時中に、新規応募者は101,930人を数えたが、実際に乗り組んだ数は、その約6割
 であったとされる。既存船員の徴用は、1944(昭和19)年を最多として、その数は26,100人であ
 った。新規船員および徴用船員の数は、開戦時の船員数からみると、その約1.5−2.0倍に当
 たる。なお、陸海軍に召集された船員の数は、不明である。
 1942(昭和17)年から敗戦までに、船舶職員の養成数は官公立の商船学校で7,783人であっ
 た。船舶部員の養成はすさまじく、船舶運営会が管理する全国20か所にも及ぶ普通海員養成
 所において、38,384人が養成された。それでも不足することから、国家にあっても、明治以来は
 じめて船舶部員の養成に乗り出さざるえなくなり、1939(昭和14)年より全国に6か所の海員養
 成所(1か年)と3か所の普通海員養成所(3か月)を順次、設置し、それぞれ3,227人、9,964人、
 合計13,191人を養成した。これら戦時期の船舶部員の養成数は、日本海員掖済会における
 1888(明治21)年から開戦前までの養成数にほぼ匹敵する。
3 戦争被害と戦後切り捨て
  第2次世界大戦中、こうした船員徴用・養成以外にも、かなりの船員が補充されていったが、
 それらを含む船員の戦争被害についてはいくつかの資料がある。通常使われているのは運輸
 省の数値であり、海運ならびに陸海軍関係を含む敗戦時の全船員数215,670人、戦没船員52,
 870人、それら合計数に対する死亡率19.7%(前者に対する後者の比率24,5%)、また500総ト
 ン以上の大型船に関しては、それぞれ73,003人、30,592人、29.5%(41.9%)である。それ以
 外では、厚生省調べの、同じく233,645人、61,256人、20.8%(26.2%)である。いずれにしても、
 その死亡率は陸海軍を上回る。なお、戦没船員の碑には、60,598人が奉名されている。
  日本の敗戦によって、いま上でみた船員は軍需輸送要員として命を落とすことはなくなったけ
 れども、乗るべき船もなくなっていたので、その多くは帰郷していた。それに対して、船舶運営
 会は1945−46(昭和20−21)年にかけて約24,000人を徴用解除するとともに、640万人にも及
 ぶ軍人・軍属や在留邦人の引き揚げ輸送および126万人の中国人・朝鮮人の帰国輸送に必
 要な船員を、GHQ(アメリカ占領軍総司令部)の命令を盾に動員した。それらを万全に終らせ
 た船員を待っていたものは、大量首切りであった。また、敗戦時、船舶職員を含む養成機関に
 は、約12,000人という多数の生徒が在籍していたが、そのうち5,120人に対して退校措置が取ら
 れた。
  このように、戦時船員政策は船員の大量確保を最大の使命とし、それによって集めた戦前を
 上回る船員を、海運企業の戦後再建にとって余分な船員として整理することでもって終了し
 た。ただ、その場合、戦前一般的でなかった会社別終身雇用という人事管理制度を、戦後、す
 べての海運企業に持ち込むとなった。それに伴って、海運企業は戦前、成り行きに任せてきた
 労務管理を、全般にわたって見直しを迫られることとなった。

あとがき
 戦前、戦後の船員政策の特徴なり、その本質なりについては、すでにおおむね解明されてい
 るので、いまさらながら、それを摂取しながら要約するまでもないであろう。また、戦前、戦後の
 船員政策が、海運企業の労務管理に及ばしてきた効果と、その結果として、船員にどのように
 扱われたかについての特徴は、すでに行論のなかで指摘している。ここでは、その総括的な特
 徴を述べることでもって、まとめとしたい。
  戦前、戦後の船員政策は、海運企業の労務管理等のかなり広い領域に積極的に介入して、
 それらを財務的にも非財務的にも極めて手厚く支援、補強、補完し、船員労働の圧迫と搾取を
 促進させた。したがって、それは海運企業の側面からみれば、その労務管理のかなりの部分
 を、国家が代行する政策として現象することとなった。そう受け取られるに十分であったため、
 海運企業にはたして労務管理があったのかという愚問さえ出されることとなった。
  勿論、戦前、戦後の船員政策が海運企業の労務管理等を規制して、船員労働の圧迫と搾取
 に制約を加えてこなかったわけではない。しかし、その規制は一般の労働政策の水準を決して
 超えるものではなかったばかりか、多くの面でそれを下回った。そして、海運企業の外航船員
 の切り捨てに当たり、船員政策はそれを促進、政策対象の放棄さえして、海運企業の労務管
 理の貫徹に腐心してきた。
  戦前、戦後を通じて、船員政策が特に海運企業の労務管理等を助成する政策たり続けたの
 は、逓信省あるいは運輸省という産業官庁において船員政策が、その本来の行政である海運
 政策からほとんど逸脱することなく、整合的に立案、実行され、それら政策に海員組合幹部が
 おおむね迎合し、その当然の延長として、船員法改正などといった制度的要求闘争を積極的
 に取り組まず、その後進牲を放置してきた結果である。
  なお、はじめにおいて述べたように、船員政策のイデオロギー性、なかでも船員労働の特殊
 性論をはじめ、船舶の安全と船員の権利、船員の失業、乗下船にわた船員福祉、ILO条約と
 の関係、船員の職階や学歴等による差別管理、船員の災害・疾病、その治療と補償、船員の
 選挙権や税金などについてふれることがなかった。
【参考文献】
 米田富士雄『海事協同会の回想』、日本海事振興会、1952。
 小門和之助『海上労働問題』、日本海事振興会、1955。
 笹木弘『船員政策と海員組合』、成山堂書店、1962。
 山本泰督『船員の雇用制度』、神戸大学経済経営研究所、1965。
 西巻敏堆『わが国におけるボーレンの興亡』、海事産業研究所、1973。
 武城正長『海上労働法の研究』、多賀出版、1985。
 浅井栄資『慟哭の海』、日本海事広報協会、1985。
 船員問壌研究会編『現代の海運と船員』、成山堂書店、1987。
 海員史話会編『聞き書き海上の人生―大正・昭和船員群像―』、農山村文化協会、1990。
 『日本海員掖済会80年史』、同会、1960。
 『東京商船大学100年史』、同学、1976。
 全国海員学校後援会『海員学校50年の歩み』、同会、1990。

初出書誌:同題名、『国民経済雑誌』(神戸大学)171(1)(山本泰督教授退官記念論文
集)、1995年1月


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