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3・1・2 増補:母なる貿易=バルト海穀物交易(下)
3.1.2 Expansion Mother Trade = Baltic Grain Trade (below)

▼新型船フライトの採用による輸送料の低下▼
 16世紀前半と後半のライ麦輸入価格とその輸
送料の史料がある(ティーホフ前同、p.180、表
18)。それによれば、16世紀後半、アメリカ銀の
流入による価格革命によって、オランダのギルダー
貨の価値は大きく低下した。その上で、1ラスト当た
りのライ麦輸入価格は世紀前半の平均37ギルダー
から、世紀後半の96ギルダーへと約2.5倍も上昇し
た。それに対して、輸送料はライ麦価格に応じて
おおむね変動したものの、1ラスト当たりの輸送料
は16世紀前半4-10.5ギルダー、世紀後半3.25-19ギ
ルダーになっていた。
 16世紀前半から後半にかけて、輸送料がライ
麦価格のように上昇しなかった結果、輸送料がラ
イ麦価格に占める比率は、16世紀前半から後半
にかけて20数パーセントから10数パーセントに低減して
17世紀のオランダのフライト
ヴェンツェルホラー画、1647
ストルク地図協会蔵(ロッテルダム)
いる。それは、交易(取引)費用の低減として、大きな意義を持とう。そればかりでなく、16世紀後半の段階において、輸送料が穀物価格に占める比率が10数パーセントになったことにおいて、商人と船主の分離は相当程度進んでいたことを示そう。その場合、商人は船舶の逼迫にともなう輸送料の高騰を甘受せざるをえなかったであろう。
 ティーホフ氏は、1591-1758年までの150年余の用船契約書を調査し、アムステルダム―プロイセン―アムステルダムの輸送料を読みとり、整理している(ティーホフ前同p.184、図22。数値は付録C、欠落年あり)。プロイセンの港はダンツッヒのほか、ケーニヒスベルグ、エルビング、ピラウであるが、輸送料は同額である。
 1ラスト当たりの輸送料(以下同じ)の大まかな傾向を示せば、1590-1622年にかけて12-13ギルダーから8-9ギルダーに低下する。1624-62年のあいだは、1640年の高騰期を挟んで、12-15ギルダーの範囲で推移する。1666-1710年(この期間、データの大きな欠落がある)、数次の戦争による異常な高騰を含みながら、戦間期に当たる1680年代には10数ギルダー前後で推移するが、1690-1710年には20ギルダー前後まで上昇する。しかし、1724-58年になると、15-18ギルダーまで低下して推移する。
 なお、ティーホフ氏は17-18世紀の輸送料がライ麦価格に占める比率を分析していない。17-18世紀、1ラスト当たりライ麦価格が140ギルダーとする注記にしたがって(ティーホフ前同、p.361。なお、p.92には17世紀の価格としてほとんどが100-200ギルダーとする)、17-18世紀の輸送料がライ麦価格に占める比率を計算すればおよそ10-15パーセントの範囲にあり、16世紀後半とほぼ同じである。この長期的な低率の持続は、近世オランダのバルト海穀物交易の費用構成にとってきわめて、重要な意義を持ったといえる。
 いまみたように、15世紀末からの新型船フライトの導入によって、輸送料は一挙には変化しなかった。しかし、1590-1620年の期間において、輸送料は明らか低下する。その時代に、イタリアへの穀物輸送がはじまり、それにかなりの船腹が割かれ、その輸送料は以下にみるようにかなり高水準であったが、そのことがバルト海交易に影響を与えたとはいえない。
 イタリアへの穀物交易は、それがジブラルタル海峡を越えることから「海峡通過貿易」と呼ばれ、イタリア西岸(ジェノヴァ、ラスペッティア、リヴォルノなど)への輸送料は、1591年89ギルダーから、92年75、94年62、96年54、そして98年22ギルダーに低下していった。イタリア東岸への輸送料は西岸より高かったが、それも急激に低下した。その後の1600-05年は22-33ギルダーのあいだで変動する。
 オランダ人にとって、イタリアへの地中海航路は「新しく危険な長距離航海」ではあったが、高い輸送料に惹かれて参入する船が増え、またその航海が習熟されるにつれて、その輸送料も実際にかかった費用に基づいた合理的な水準まで低下した。それによって、「海峡通過貿易」もオランダの穀物の中継交易ネットワークのなかに組み込まれることとなった。
▼戦時の輸送料の高騰と護衛船団による輸送▼
 近世、海上輸送料の変動の大きな要因は戦争である。1591-1758年のあいだに、オランダのスペインに対する反乱(80年戦争、1568-1648年)、第2次英蘭戦争(1665-67年)、九年戦争(1688-97年)、大北方戦争(1700-21年)、スペイン継承戦争(1701-13年)、オーストリア継承戦争(1740-48年)といった戦争が起きている。戦争が通常で、平和は例外といった状況にあった。
 戦争がはじまると輸送料は高騰する。1591-1758年用船契約書から取り出された輸送料リストのなかで、年平均25ギルダーを超えた年次は、第2次英蘭戦争中の1666年32.88、九年戦争中の1692年28.43、同じく1694年34、大北方戦争中の1703-4年33-26.4、同じく1709-10年25.38-25.88ギルダーであった。
 戦時に輸送費が上昇する原因について、ティーホフ氏は「海軍局は貨物船を借り、それを軍艦へと改造し、そうした船舶の乗船する乗組員を集めた。このため、貨物船が不足し、船乗りの賃金は上昇することになった。船主は戦時に大きな利益をあげ、多くの船を指揮するようになった」という(ティーホフ前同、p.195)。
 フライト船をはじめ、オランダの商船はほとんど武装されていなかったので、戦時になると攻撃を受けやすかった。そのため軍艦による護衛が必要となった。バルト海交易船は護衛船団のなかに入って、バルト海地方に向かうことになったが、護衛船団は年間に数回組まれたが、時には2-3回にとなった。軍艦による護衛を受けることになった船主は、航海回数の減少による損失を、高額な輸送料を請求することで埋め合わせた。
 船主や用船者のなかには護衛船団に頼らないものもいたが、その場合船に大砲を備え付け、それを扱う乗組員を増やす必要があった。そうした負担の増加に加え、大砲の搭載によって船舶の輸送能力の一部が奪われた。その目減りした量に相当する輸送料を、船主は用船者から受け取った。また、用船者のなかには護衛船団なしで航行する船に対して、進んで高額な輸送料を支払ったという。大規模となる護衛船団がバルト海に着く前に、抜け駆けして、利益をうることができたからであった。
▼輸送費は粗利益の3分の1から2分の1▼
 穀物商人にとって、穀物を輸入するに当たって、税金、輸送費、保険料、商品計量費、港湾荷役費、倉庫料など様々な費用があるなかで、輸送費が最大であった。そのため、穀物商人から「海運業による利益とともに、利益の一部が失われる」という不平が述べられた。穀物のダンツッヒでの仕入価格とアムステルダムでの販売価格との差、すなわち粗利益に輸送費が占める比率が半分あるいはそれ以上を占めることもありえた。
 具体的にみると、1698年アムステルダム市政府が食糧不足を憂慮して、穀物を備蓄するために、ケーニヒスベルクからライ麦と小麦を輸入したとき、輸送料として1ラスト当たり11.50ギルダーを支払っているが、それは取引費用の40パーセントを占めていた。
 1698年は食糧危機で、商人にとって極めて有利となった。ダンツイヒにおけるライ麦の買値は149ギルダー、アムステルダムにおける売値は244ギルダー、粗利益は95ギルダーであった。それに対して、輸送料は僅か14ギルダーにとどまり、それが占める比率はわずか15パーセントだった。
 その6年前の1692年はまったく異なっており、戦争によって輸送料が上昇していた。他方、ライ麦価格はかなり低く、それぞれ70ギルダーと128ギルダー、それらの価格差は58ギルダーしかなかったが、それからおよそ半分の
オランダ船の商品陸揚げ
28ギルダーの輸送料が差し引かれた。
 こうした穀物価格や輸送料の変動が大きくない時期、すなわち比較的に平和な時期はどうなっていたか。戦間期は、1670年代のデータが欠如しているが、12年休戦期間の1610-20年、1684-88年、そして1724-38年が、それに当たる。それらの年代の平均輸送費は9.5、12、16ギルダー、平均粗利益は28、36、38ギルダー、輸送費が粗利益に占める比率は34、33、42パーセントとなっている(ティーホフ前同、p.198、表22)。
 休戦期間から1680年代にかけての粗利益と輸送料の上昇は、当時生じつつあった物価と賃金の全般的上昇に連動していた。次の1680年代から1720年代にかけては、インフレーションがなかったことで、粗利益は前期とほぼ同じであるが、輸送料は12ギルダーから16ギルダーへとかなり上昇し、オランダ船の輸送料はもはや17世紀ほど安価ではなくなったとされる。それら年代の輸送料の推移はすでにみたように、17世紀半ばから18世紀半ばにかけては大幅な上昇が生じたとはいえない。
 そもそも、粗利益は仕入価格や販売価格の高低によって決まる。輸送費が同額であっても粗利益が違えば、輸送費が粗利益に占める比率は同じにはならない。その肝心の穀物の仕入価格と販売価格が、ティーホフ氏の分析では示されていない(ティーホフ前同、p.87、図8において、ダンツッヒとアムステルダムのライ麦価格を図示するが、数値を読みとることはできない)。
 そこでいま、販売価格をいずれの年代について同一の140ギルダーとして、輸送費が穀物販売価格に占める比率(この比率を、ティーホフ氏も前述の通り利用しているが、別の指標を持ち出す)を計算すると、6.8、8.6、11.4パーセントである。この比率は、輸送費が粗利益に占める比率に比べ、かなり小さい。また、粗利益から輸送費を差し引いた「純利益」を計算すると、18.5、24、22ギルダーとなる。純利益は、輸送費が上がったにもかかわらず、むしろ増加あるいは若干の減少となっている。これは重要な経営指標である。 
 ティーホフ氏は、自らの分析から「18世紀にはオランダ海運は、間違いなく17世紀よりも高くついた。貿易の利益がほぼ同じだったため、商人は費用が高騰する問題に直面した。輸送費は、純利益に決定的な影響をもたらすので、このことは重要とはいえなかった。輸送費は、貿易の粗利益の半額、場合によってはそれ以上となった。
 それゆえ、オランダ船が18世紀の間にバルト海地方からの穀物の海上輸送において、圧倒的な地位を喪失したことは驚くにあたらない。19世紀は、オランダ[の穀物交易のことであろう]はバルト海地方で周辺的地位を占めるに過ぎなくなった」と強調する(ティーホフ前同、p.200)。
 このティーホフ氏の結論はいささか支離滅裂である。まず、前述のように、18世紀の輸送費は17世紀に比べ高騰したとはいえない。それにもかかわらず、それが高騰したとして、バルト海穀物交易の利益に決定的な影響をもたらしたとする。しかし、同氏の分析を補足した結果からみて、輸送費が決定的な影響を与えたとはいいがたく、またそれをもってオランダ海運が圧倒的な地位を喪失したとか、バルト海穀物交易が周辺的地位を陥ったとかすることは、論理の飛躍である。
 18世紀から19世紀にかけてのオランダのバルト海穀物交易の衰退やそれに伴うオランダの海運の衰退は、輸送費など取引費用の上昇といった内在的な要因ではなく、それ以外の内在的な要因や外在的な要因によるとみなければならない。
▼海上交易のリスクを軽減する3つの方法▼
 ティーホフ氏は、オランダ人は海上交易につきもののリスクを軽減するための3つの方法を、中世の海上交易先進地から取り入れていたという。第1はリスクの分散であって、商品を数隻の船舶に分散して載せたり、また複数の人びとや企業が船を共同で所有する方法である。第2は「共同海損」であって、積荷や船舶の損害を複数の当事者が負担しあう方法である。第3は、船主が船舶を抵当に入れて航海資金を借りる、船舶抵当貸借という方法である。
 オランダにあっては、16世紀末になってはじめて現実に海上保険、すなわち掛け金の支払いを裏づけとする保険が導入される。しかし、それは広がらなかった。それは、古くから発達してきた3つの方法が、バルト海交易のリスク軽減に役立っていたからであった。海上保険はより近代的な第4の方法として、後述のように、17-18世紀になって一般的に採用される。アムステルダムでは、1598年に海上保険会議所の設立が提案され、1612年までにそれが設立されたことになっている。
 すでにみたように、オランダ船のほとんどが共有船であって、少なくとも2人以上の人物や企業が分担しあって所有されていた。この方法は海運業に融資し、それが拡がる最も一般的な手段であった。それは、15世紀にまでさかのぼり、19世紀最後の四半世紀まで残存した。共有船は、多くの場合、4分の1、8分の1あるいは16分の1に分割された。
 船舶に投資しようとする人びとは、1隻だけに投資してその船が喪失して、すべての財産を失うことをおそれ、多くの異なる船舶に投資した。共有船は、主として商人によって所有されていた。彼らは、共有船の持ち分を根拠にして、自分たちの商品を積載する船内のスペースを確保していた。富裕な商人は、多数の船に投資していた。ある商人は、1643年に死んだとき、78もの異なる船の持ち分があった。また、他の商人は、1652年に死亡したとき、120もの持ち分を持っていた。
 共有船には商人だけでなく、船長をはじめ、いろいろな投資家がかかわっていた。海運に関連する木材商人、造船業者、ロープ製造人、帆布製造人、醸造業者がいた。彼らは商人にスペースを貸付けていた。それ以外に、寡婦、孤児、聖職者もいた。そこで肝心なことは、この投資は多くの船の持ち分を購入して、はじめて比較的安全になった。したがって、小額しか投資できない人びとがいたから、持ち分が細分化されたのではなく、リスクを分散させる必要性があったからであった。
 商人たちは、同じ目的地に輸送される商品であっても、それを分割して数隻の船に少しずつ積載する傾向があった。この方法はバルト海交易に特に適していた。バルト海の積出港で、商人は穀物を小口で仕入れることが多く、またバルト海航路に就航する船が多いこともあって、船待ちすることなく直ちに輸送していたからであった。多数の小さなロットに分割し、それを別々の船に積載する方法は、少なくとも17世紀前半まで広く実施された。
 なお、この共有船の方法は、ニシン漁船においても採用されていた。
 第2の「共同海損」という方法は、海事法のもとで行われた。具体的には、「船長が嵐によって船舶全体を失いかねない危険な状況に陥り、船荷の一部を船外に投棄し、メーンマストあるいは錨を切断し、破滅から船を救った方が良いと判断した場合」や、「海賊が船舶を拿捕し、身代金を要求した際にも適用された。こうした場合、損害は船主と貨物の所有者の間で分担された」(ティーホフ前同、p.204)。この「共同海損」は現在も有効な方法であるが、バルト海交易においては少な
くとも18世紀末まで非常に一般的であった。
 第3の船舶抵当貸借という方法は、船が無事に到着した場合、借り手は発生した利子に加えて、融資を受けた全額を貸し手に支払わなくてはならなかった。それができなかった場合、貸し手には事前に合意された契約に基づき、船舶や商品を差し押さえる権利があった。しかし、船が無事に到着しなかった場合、貸し手はすべての金額を失うリスクを負った。この方法は、バルト海の海運業では一般的だったが、16世紀以降あまり実行されなくなった。
 船舶抵当貸借の利率は、航海の予定期間と航海する航路の危険性によって決まったが、公証人文書によれば、オランダからダンツイヒやケーニヒスベルクへの航海の利率は17世紀最初の四半世紀は約5-12パーセント、17世紀の第2四半世紀は3.5-13パーセントのあいだで変動していた。この利率は、ティーホフ氏によれば低利だとされ、それが可能となったのはバルト海が安全であり、資金が不足しておらず、片道航海の1か月間だったことに求められるという。
オランダの公証人
▼17-18世紀、海上保険の普及、料率の低下▼
 海上保険は、オランダにおいては見向きされず、16世紀末になって導入される。それ以前、オランダの商人が商品に保険を掛けようとすれば、アントウェルペンまで出掛けなければならなかった。オランダで現存する最古の保険証券は、1592年1月アムステルダムで作成されたものであった。この保険証券は、ジュノヴァへのライ麦輸送に関するものであった。
 1598年、アムステルダム市政府によって保険に関する最初の法令が公布され、また1598年海上保険・海損会議所が設立されるが、1612年になるまでそれが公的には機能することはなかった。そのためもあって、バルト海交易に関する海上保険が、どのように普及したかは跡付けできないとされるが、1630年代になっても一般的ではなかった。
 17-18世紀になって商品保険が一般的に利用されるようになる。また、船体保険は戦時に限られ、一般化するのは19世紀となってからであった。それでも、1635年の推計では保険料の年額は43万ギルダーであった。いま、その料率が3パーセントであったとすると、船舶・積荷価額は約1400万ギルダーとなる。
 アムステルダムの価格表から、保険料率が最も低い6月に掛けられた、バルト海東部沿岸のレーヴァルとリーガ向けの商品に対する保険料率を調査したものによれば、1630年代後半は2-4パーセントだったが、1730年代には1.25-2.25パーセント、1760年代後半には1-1.5パーセントに低下した。1世紀半のあいだに、保険料率はおよそ半減したのである。
 この17-18世紀における保険料率の低下について、次のような説明が施される。まず、航海術や造船術は18世紀末になっても17世紀初頭と比べてあまり改善されておらず、遠洋航海のリスクを半減させるほどには進歩しなかった。しかし、アムステルダム保険会社はハンブルクやとロンドンにある保険会社と、いままでにまして激しい競争に直面し、保険料率の低下への圧力が生じた。
 ヨーロッパの金融市場、その一部であるアムステルダムの市場のさまざまな部門が統合し、保険料率はもはやオランダの海上交易をめぐる需給関係だけでは決定されなくなっていた。16-17世紀、ほとんどの保険業者は商人が兼業していたが、1700年頃から専門業者が生まれ、その専門家たちはどの航路やどの期間にどのようなリスクが起きるかについて、多大な経験を積み上げていた。
 海上保険料は季節によって大きく変化した。バルト海は3月から10月末までが航海可能な季節だったので、輸送料は夏の終わりに上昇しはじめるが、保険料率はそれ以上に季節に応じて変化し、春と初夏が低く、9月と10月はその3倍以上、冬季はさらに高くなった。
 海上保険料は戦時になると高騰する。平時、大多数の商人や船主は海上保険を利用しないし、商人のなかには保険を引き受けて貯蓄する傾向があった。そこで、戦争が勃発すると、一挙に保険の需要が高まると、専業でない保険業者たちは撤退した。こうした成り行きから、海上が危険になると、保険料率は瞬く間に高騰しまったという。
 戦時、護衛船団に参加する船舶の保険料率は、それに保護されない場合より低かった。そのため、戦争が勃発すると、2種類の異なる料率が決められた。最高と最低とでは5倍ほどの料率の差ができた。17-18世紀にかけての九年戦争やスペイン継承戦争、大北方戦争の時代、護衛船団が編成されたが、護衛船団に加わらない船舶に積載された商品の保険料率は9-10パーセントに達し、1717年と1718年には20パーセントに達した。
 海上保険がリスクを軽減する方法に取って代わった。それは、金融上のリスクの分散ではなく、保険金が支払われることで、リスクそのものが排除されたからであった。商品を数隻に分けて積載したり、また数隻に分けて投資する必要がなくなった。それでも保険料を惜しんで伝統的な方法が採用され続けた。18世紀半ば、ホラント―プロイセン間の保険料は明らかに低率となった。それは多くの人々が海上保険を掛けるようになったあらわれであった。
 しかし、異常事態においてはどの方法をとっても充分ではなく、商船隊は軍艦によって護衛されるしかなかった。
▼バルト海交易と海運業を支える恒久的組織▼
 オランダにおいて、東西インドとの交易はそれを独占する会社によって厳しく規制されていたが、それ以外のヨーロッパ海域の交易に携わる商人たちは政府から規制されもせず、またお互いを制約する取り決めをすることもなく、自由に活動していた。しかし、商人たちは時には共同で活動する、最低限の取り決めを持つ、必要性を感じていた。
 オランダには、16世紀からアムステルダム、ロッテルダム、ホールンとエンクハイゼン、ミデルブルフ、そしてドックムに海軍局が置かれていた。それらの財源は輸出入税であった。それらオランダ海軍は、17世紀前半、北海にも侵出してきた北アフリカのバーバリー海賊船やスペインの軍艦、手強いダンケルクの私掠船に対抗できなかった。
 1625年、地中海交易にかかわるレヴァント貿易委員会が設けられる。その主要な役割は、地中海においてオランダ商船隊を敵の軍艦や海賊船から保護するため、護衛船団を編成することにあった。また、出港の準備が整ったオランダ船が、規定通り、最小限の武器と乗組員数を乗せているかどうかを調べた。そして、護衛船団の費用は地中海向けの船に積載された商品に課した関税でまかなわれた。
 数年後の1631年には、バルト海地方で活動するアムステルダムなど6つの都市の商人や船主たちはレヴァント貿易委員会にならって委員会を作り、特別税を徴収して護衛船団を編成した。その委員会は1656年まで活動する。これら17世紀前半結成された商人や船主たちの委員会は、護衛義務を果たせない海軍局の無力を埋めることにあった。
 1688-97年の九年戦争は北海やバルト海で活動するオランダ海運に深刻な影響を与え、オランダ商船隊はダンケルクから出動するフランス私掠船隊の脅威にさらされた。オランダ海軍は、南方のフランス沿岸のチャンネル諸島や地中海における任務におわれ、バルト海に護衛のために派遣してきた艦船は数隻の軽武装フリゲート艦だけだった。
 17世紀末、バルト海交易、ノルウェー交易、そしてロシア交易、それぞれの利害を高めようとして、3つの委員会が作られる。そのうち、バルト海交易に従事するアムステルダムの商人たちは、1689年、3人の代表委員を指名して、バルト海貿易・海運業委員会を設立し、海軍局に護衛船団の派遣を要請する。その成否は明らかでない。1697年の終戦時、代表委員は高速船を用船して、そのニュースをバルト海に伝えたという。
 1700年大北方戦争、1701年スペイン継承戦争が勃発する。1702年10月末、海軍局は代表委員を召集し、バルト海やノルウェーからの帰還を、船舶に警告するよう勧告する。その後、代表委員は海軍局がバルト海に派遣している護衛船団を監視するという責務を、はじめて持つことになったとされる。1702年11月、商人と船主たちは、代表委員の数を3人から6人に増加することを決める。
 代表委員は、バルト海貿易に従事していた人びとから、民主的に選出された。すでにみたように、1704年は111の、1706年は137のアムステルダム企業の代表によって、新しい代表委員が選出された。1706年の選出に当たって、船主たちから代表委員は船主の利害を代表していないとの苦情が出て、商人と船主のグループからそれぞれ3人の代表委員を選出することとなった。そして、1717年、代表委員は自分たちを商人と船主の正式な代表として認めるよう、アムステルダム市長に請願する。それが受け入れられ、バルト海貿易・海運業委員会は公的な地位を獲得し、代表委員は理事と呼ばれることとなる。
▼バルト海貿易・海運業委員会の事業▼
 バルト海貿易・海運業委員会の事業は、@海軍に十分な護衛を要請するなど、海上安全の確保、A1719年以降、アムステルダム市から委任された穀物取引所の管理、Bバルト海交易全般に関する助言と関与であった。
 代表委員、後の理事の責務は、アムステルダム海軍局を説得し、充分な数の軍艦をバルト海の商船隊の護衛に割り当てさせたことにあった。彼らは、バルト海における護衛船団の必要性を力説し、海軍局や市長に陳述書を送り、影響力のある人々を訪れ、また必要ならば連邦議会のあるデン・ハーグにまで出掛けた。
 「例えば、[スペイン継承戦争中の]1707年6月のアムステルダムでは、重武装した6隻の私掠船に支援を受けた、9隻の軍艦からなるフランスの艦隊がダンケルクを離れ、[北海の真ん中にある]ドッガー・バンクに向かっているというニュースが広まった。これは破壊的な結果をもたらすかもしれなかった。それは、バルト海地方とノルウェーから来た商船隊が、この航路を通じて帰還する予定だったからである。代表団は、連邦議会に対してオランダの艦隊指揮官フアン・デル・ドゥッセンに命令し、商船隊を探し、本国への帰還に際して護衛するよう要求した」(ティーホフ前同、p.221)。
 これとは逆に、海軍局がバルト海貿易・海運業委員会に要請を出すということもあった。オーストリア継承戦争中の「1743年、海軍局の依頼で、理事は船舶をチャーターし、エーアソン海峡にいる軍艦に食糧を供給した。1748年、委員会は現実に軍艦乗組員の賃金の一部を支払っているが、こうした状況はおそらく滅多にないことだった……海軍局は、1か月11ギルダーの通常の賃金で働こうという人員を十分に雇用することも、それ以上支払うこともできなかった。結局、何百人もの船乗りが1748年に1カ月5ギルダーの賃金を余分に受け取ったが、それは委員会が出費した」(ティーホフ前同、p.211)。
 また、代表委員は戦時、海上の安全を確保するため、ハルヨートと呼ばれる小型高速船をチャーター、商船隊に対して私掠船や敵国の軍艦がいるという警告を送り、また海上が安全になって帰還が可能になったこと知らせた。チャーターした小型船の出費を賄うため、すべての船主たちからハルヨート代と呼ばれる賦課金を必要に応じて徴収した。
 アムステルダム穀物取引所の管理は、まず商人、仲介人、仲買人が売りたいと思う穀物のサンプルを保管するために使用される、貯蔵施設の割り当てを管理することにあった。1723年以降、定期的に新しい穀物計量器を購入し、穀物取引で使用するようになった。
 バルト海貿易・海運業委員会が穀物取引所の管理を委任されたことで、穀物交易に関連するあらゆる事柄に関与することを迫られることとなった。例えば、穀物を運搬する労働者たちの賃金引き上げ、州税を支払わなくてはならない事務所の場所、穀物の盗難とその救済の問題が、それにあたった。
 バルト海貿易・海運業委員会が関与した興味深い例としては、18世紀前半、リーガにあるオランダ改革派集団への援助がある。それは、アムステルダムの穀物商人は現地の代理人に依存するようになっていたが、現地のオランダ人はなお現地で大変な生活を余儀なくされていたからであった。ロシア貿易委員会もロシア各地の教会に援助していた。
 アムステルダム市政府は、様々な問題について、バルト海貿易・海運業委員会の理事に助言を仰いだ。連邦議会は、コペンハーゲン、エーアソン海峡、ダンツイヒ、ストックホルム、ベルゲン,ヘルゴランドに外交代理人を派遣していた。これらの役職が空席になると、アムステルダム市長から相談が持ちかけられ、理事が望ましいと考える候補者が任命された。
 バルト海貿易・海運業委員会は、商人と船主たちにとって、バルト海地方に関する情報の収集拠点として機能した。委員会は、デン・ハーグにおいた代理人と定期的に連絡をとっており、代理人はホラント州議会と連邦議会が採択した決定を伝えてきた。また、ヘルシンボリやダンツイヒに配置されているオランダ人外交官と定期的に連絡をとっており、さまざまな商品市場の状況、政治情報、輸送料などに関する情報を受け取った。バルト海地方の諸都市が交易に関する新しい規則を決めると、それをできるだけ早く把握しようとした。
▼無給の理事たちの年収は6000-30000ギルダー▼
 バルト海貿易・海運業委員会の理事には、賃金や謝礼は支払われなかった。しかし、その候補者をみつけることは難しくはなかった。この職につけば政治に影響を与える機会が提供され、またその職は名誉ある地位と考えられた。そのため、大方の理事は死ぬまで、その職に続けた。賃金や謝礼がなくても、無料の夕食や飲み物、時には会議中とその後のタバコ、そして毎年たっぷりと出される菓子などが楽しみであった。それに定期購読新聞の閲覧が加わった。
 バルト海貿易・海運業委員会の理事たちは富裕であった。それが理事に選ばれる唯一の条件であった。1742年当時の理事の年収は6000ギルダーが3人、10000ギルダーが2人、30000ギルダーが1人であり、使用人の数は2-5人を抱え、馬・馬車を3人が所有、別荘を2人が所有していた。
 当時のアムステルダムには、4万世帯以上が居住していたが、年収6000ギルダー以上という高い収入をえている家族は601世帯に過ぎなかった。また、1019人(前出では1111人)の商人に課税が行なわれていたが、そのうち6000ギルダー以上の収入があると査定された人は213人(21パーセント)だけだった。なお、当時、2000ギルダー以上の財産を持つものが、大資産家と呼ばれた。
 それらアムステルダムおいてもっとも富裕な理事たちが、参審人を任命されたり、市参事会員、さらには市長に就任することは当然のようにみえるが、そうではなかった。18世紀に就任した48人の理事のうち、参審人あるいは市参事会員になったものはわずか4人にすぎず、市長はまったくいなかった。18世紀において、バルト海交易人が政治に身を置くことはまれで、ただただ交易一途であったのであろう。
 それら以外に、彼ら理事たちの特徴は、すでに述べたように、その多くがメノー派教会に属していたことである。18世紀に就任した48人の理事のうちおそらく20人がメノー派信徒だったとされる。アムステルダムの全人口のうちメノー派はほんの数パーセントであったので、これは異常な高さであった。
▼アムステルダム、穀物を「はしけ」で瀬取り▼
1650年ごろのアムステルダムにおける産業立地
 倉庫群            木材河岸
 l  ヴエステルッケ島群   A ハールレムメル木材河岸
 2 ブラウヴュルス運河   B ヨーデン木材河岸
 3 プリンセン運河      C ハウトコーベルスブルフヴァル
 4 オウデザイスコルク   D レヒトボームスロート
 5 オウデハンス       E クロムボームスロート
出所:岩井 桃子著『水都アムステルダム』、p.75、法政大学出版局、2013

 穀物は、航洋穀物船の船倉にバラ積みされて、輸入された。アムステルダム港の場合、水深が浅く、穀物船は大きすぎて、港湾ドックのダムラク(現在同名の通り)に入れない。そのため、穀物は船から、特殊な平底船である「はしけ」(lighter、小型船と訳されている)に積み替えられた。そして、計量され、袋に入れられ、保管倉庫まで運搬された。瀬取りの後、船は接岸したとみられる。アムステルダム以外の港では、はしけは用いられず、船は埠頭に接岸して穀物を下ろした。
 穀物の船から倉庫までの移動ともなって発生する作業は、現代風に分析すれば、@穀物を船倉から小型船に移す作業、A小型船に接岸に移された穀物の量を計量する作業、B小型船を埠頭まで移動させる作業、C穀物を袋に入れて倉庫まで横持ちする作業に分かれる。@は船内荷役、Aは検量、Bははしけ運送、Cは沿岸荷役という。
 それらは広くいえば港湾荷役に当たるが、現代においてもそれらは異業種で、職種の異なる労働者が担い手となっている。ティーホフ氏にあっては、Bが穀物用小型船船員、Cが穀物運搬人、Aが穀物計量人などとして取り上げられている。それら職種それぞれにギルドがあった。@の船内荷役については後述する。
 穀物用小型船船員と訳されているが、その船員は船主でもあるので、船主船頭というべきである(終章「結論」の訳文は、荷船の船頭となっている)。そのギルド以外に、アムステルダムには国内輸送用小型船船長と河川航行用小型船船長のギルドがあった。特に、後者は運河を使って、大量の穀物を後背地に輸送しており、彼らの脅威となっていた。
 穀物用小型船は、アムステルダム市から許可書を取得する必要があった。許可書の数が隻数の上限となった。上限数をアムステルダム市が管理した。1624年、穀物交易が不振のため、225隻にまで減らされた。1641年、穀物交易が盛況になると、穀物商人の要請を受け、250隻に増やされる。17世紀には269隻となる。17世紀前半倉庫不足が深刻になると、小型船は倉庫代わりに利用され、ダムラクに係留された。
 しかし、小型船の許可書が上限数まで発行あるいは取得されることはなかった。18世紀初めには未発行の許可書が146通もあった。1768年には許可書の発行権がギルドに移された。この小型船の上限数に対して、穀物用小型船船員ギルドの会員数は1690年182、1700年155、10年124、20年83、30年65人と減少し続ける。穀物用小型船は1隻当たり、1601年の市条例では最低150、1621年には250ギルダーの税金を支払うことを要求された。
 この会員数の減少は、18世紀最初の20年間、バルト海穀物交易が落ち込んだことを反映し、また穀物用小型船の魅力が低下したことを意味した。これによって、許可書の上限数と会員数、実働の小型船の数とのギャップが広がった。
 穀物用小型船は、全員に仕事を割り振るシステムを持ちえないまま激しく競争しあって、毎日、穀物商人と輸送料を交渉してチャーターされた。1624年穀物交易が減退すると、市政官は競争激化を憂慮して、輸送料を最低1ギルダー、最高4ギルダーと規制し、その隻数を減らすこととした。逆に、穀物交易が増大した1640年、穀物商人は従来の輸送料は1.5-2ギルダーであったが、いま5-6ギルダーという不当な金額が要求されたと不平をいっている。1698年、最高料金が6ギルダーに引き上げられる。
 17世紀には、穀物仲買人がギルドの会員として受け入れられる。18世紀半ば頃になると、ギルドの会員は少額の罰金を払えば、他の会員の小型船を下請けとして使うことが可能となった。その結果、穀物の仲買人や代理商がギルドの会員のなかで優位な立場に立ち、他の人びとに自分の都合で仕事を割り振りするようになった。
 ティーホフ氏は、小型船は1日数ラストの穀物を運び、また1ラスト当たりの輸送料は数スタイフェルだというだけで、小型船の大きさや1日の輸送回数を示していない。いま、輸送料を4スタイフェルとし、1日当たりの輸送料を2ギルダー(40スタイフェル)、輸送回数を2回とすると、小型船の大きさは5ラスト、したがって10トンとなる。この程度の輸送料は、穀物商人にとって他の費用に比べれば、ささやかな出費にとどまったという。
 また、ティーホフ氏は、小型船1隻当たりの乗組員の数を示さないまま、17世紀小型船船員の数は200-300人程度であった。そして、続けて、18世紀以降ギルド会員数は100人未満になったという。それは船頭の数であっても、穀物用小型船によって生活の糧をえている人びとの数ではないのではないか。
▼穀物運搬人、賽投げによる割り振りとその廃止▼
 「穀物運搬人は、穀物の入った布袋を頭上に置き、小型船から倉庫や穀物庫まで運搬する。布袋以外の職業用道具としては、小型船のタラップ、穀物小屋に行くために必要なはしごがあった」(ティーホフ前同、p.240)。そして、この文言の注として、「穀物運搬人以外に、穀物搬入人がいた。彼らは帆布を用いて小型の船舶に、船外の[訳文のまま、正しくは「外洋穀物船から」であろう]穀物を搬入した。1655年、穀物運搬人と穀物搬入人は同一のギルドへと統合された……[穀物運搬人は]たぶん数が少なかったか、組織化されていなかったか[とみられるので、ここでの]……分析は運搬人に限定した」とある。
旧港地区プリンセン島の河岸と倉庫
1896年撮影
出所:ガリマール社編『望遠郷アムステルダム』、p.259、
同朋舎出版、1994
運搬人同業組合の
カルトウーシュ
アムステルダム歴史博物館蔵
出所:左同、p.77
 現代風にいえば、ティーホフ氏のいう穀物運搬人は沿岸荷役人、穀物搬入人は船内荷役人ということになるが、船内荷役の担い手について言及していない。穀物搬入人の数が少なかったことは、外洋穀物船から小型船に穀物を積み替えるという船内荷役は、外洋穀物船の乗組員によって実施されていたことを示すかのようである。
 アムステルダムの穀物運搬人はギルドを結成しており、その会員にならなければ穀物運搬はできなかった。このギルドには穀物用小型船船員も加入しており、彼らの2つのギルドは「不可分の集団」とされた。そればかりでなく、穀物運搬を主業としていない穀物仲買人やパン屋なども会員となっていた。
 穀物運搬人の仕事の割り振りは、中世から16世紀まで賽を投げて決められていた。しかし、賽が投げられていたのは4ラスト未満の少量の穀物に限られており、大口の穀物についてはそれを扱う仲買人や代理商が自分たちで穀物運搬人を決めるという、逸脱行為が行われていた。1614年には賽を投げることもなくなった。これによって穀物運搬人への仕事の配分は不公平で不平等となった。そのため、時代が下るが、1788年100人の穀物運搬人から、打開策について陳情が行われたという。
 17世紀以降、穀物の仲買人や代理商が穀物運搬人を決めるシステムは、雇用者と労働者の恒久的な関係へと発展していき、彼らの港内サービス部門への影響力が強まっていった。
 アムステルダムの穀物運搬人ギルドの会員数は、その上限が決められたことはなく、他の港に比べかなり多かった。その会員は、1640年にはおよそ700人であったが、1700年頃には1000人に増えた。しかし、18世紀になると減少し、1729年700人、47/48や80年600人、1828年500人くらいとなった。これら会員はフルタイムとパートタイムの会員に分かれており、18世紀初め前者は3分の1であった。
 17世紀半ばまでの会員数は、バルト海穀物の盛衰に対応していた。その後、彼らは非バルト海穀物や東インド交易品の運搬という仕事をえたが、バルト海穀物の運搬量の減少には逆らえなかった。
 穀物運搬人の賃金についてはよくわかっていない。賃金は担ぐ重さや運ぶ長さばかりでなく、担ぎ上げる高さによって決まった。彼らは賃金を規制されることを嫌った。1729年、穀物運搬人ギルドの親方とバルト海貿易・海運業委員会は賃金について協議したが何も決まらず、賃金は上昇し続けた。通常、穀物運搬人が穀物商人に要求した賃金は、1ラスト当たり1-2ギルダーであって、それは穀物価格からみて法外ではなかった。
 穀物用小型船船員や穀物運搬人を雇用したのは穀物商人ばかりでなく、穀物の仲買人や代理商も雇用した。アムステルダムのギルドが、雇用主となる仲買人や代理商をも会員として受け入れ、しかも彼らに自由に振る舞っていたことは、彼らが港湾サービス部門を仕切っていたことを示そう。
▼穀物の計量、穀物の保存とかき混ぜ▼
 アムステルダムで売買される穀物は計量が強制された。計量は計量人1人、配置人1人、そして積載人(女性)2人の組み合わせで行われた。計量の仕方の訳文は受け入れがたい。布製のブッシェル容器(36リットル、日本の俵の半分)が枡として用いられた。配置人が穀物の入った容器をささげ持ち、計量人が穀物のつまり具合を検査し、そして積載人につまり具合を加減させたとみられる。
 計量人と配置人は、小型船船員や穀物運搬人とは違って、アムステルダム市から指名され、宣誓して仕事していた。それは彼らの仕事が消費税や輸出入税に関わりがあるからであった。計量人と配置人にはギルドがあったが、積載人にはなかった。彼らの仕事は賽投げで割り振られていたが、穀物船が大型化するとその引き当て高に大きな違いが生まれたので、ギルドは1702年、またその半世紀後、それを是正する―大きな荷は順番で、小さな荷は賽投げで決めるといった―措置がとられた。
穀物計量人のギルドホール
P・フアン・リーンダー画、18世紀
アムステルダム公文書館蔵
ミルヤ・ファン・ティーホフ著、玉木俊明・山本大丙訳
『近世貿易の誕生-オランダの母なる貿易-』、図6、
知泉書館、2005
 また、計量人と配置人の数は厳しく制限されており、17世紀初めそれぞれ42人であったが、ギルドは多すぎると判断して、1612年アムステルダム市に申し立てして36人に減らしている。1749-1828年は30人となった。ただ、緊急時に雇用される補助者が、17世紀24人、18世紀24-18人用意されていた。17-18世紀、穀物計量に計量人と配置人が100-200人、そして積載人が同数雇用されていたことになる。
 1ラスト当たり計量人や配置人、積載人の賃金は、1578年1.25、1、1、合計3.25スタイフェルであったが、1603年2.75、2.75、1、合計6.5スタイフェル、そして1761年3.75、3.75、1.5、合計9スタイフェルと上昇した。17世紀初め、アムステルダムの賃金は西ヨーロッパのどの地方よりも高かったので、穀物商人は彼らと対立した。
 アムステルダムには、穀物を一時保管あるいは長期に貯蔵する倉庫が、数百もあった。1680年倉庫の4分の3は穀物で溢れていたという。倉庫の賃貸料は1か月単位で、1ラストあるいは1フロア当たりで決められた。1569年の例では、1か月1ラスト当たり、12-24スタイフェルであった。16世紀半ばから17世紀半ばの穀物交易の拡大期には割増金が付けられた。
 倉庫に入れられた穀物は発熱して発火した。穀物を良好な状態に保つためには、かき混ぜる必要があった。高品質の穀物は月に1回くらいで良かったが、それが悪い穀物は毎日かき混ぜる必要があったという。乾燥した穀物は10年近く保存することができた。穀物をかき混ぜる仕事は女性の仕事であった。その量は数十ラストであったという。1598年1ラスト当たり6ペニングの賃金が支払われた。
 穀物在庫目録がたまに残っているが、それによればアムステルダムの在庫量は1556年11月7000ラスト以上、1693年2月25000ラスト、1835-45年1-3万ラストとなっている。したがって、こうした在庫量をかき混ぜるには、相当数の女性労働者―いま、1-2万ラストの穀物を、1人が1日50ラストをかき混ぜたとすれば、200-400人―が働いていたことになる。




フラネケル(フリースラント州)の穀物運搬人会館と道具類
▼バルト海交易に、見切りを付けた商人▼
 大著は、その末尾で「周辺化の時代」に穀物交易の委託代理商を行っていたが、それに見切りを付けた商人といえるウィレム・ド・クレルク(1795-1844)の生涯を扱っている。
 ウィレム・ド・クレルクは、18世紀初めから何代にわたって、交易、保険、金融、そして委託代理業を営んできた一家の長男として、アムステルダムに生まれる。彼は予定がかわって商人になるが、それに当たってフランスの併合から解放された1814年北西ドイツ、16年バルトやロシアに業務旅行を行って、100人穀物商人や農民たちを訪ねている。1816年、ロシアでは、商用蒸気船を見物している。オランダでは、1870年代まで蒸気船が活躍することはなかった。
 1818年、ウィレムは祖父が引退、父が死亡したため、S&P・ド・クレルク商会を23歳でもって引き継ぐこととなった。S&P商会は、膨大な借金を抱えていたが、一族の援助で救われる。1818-25年は、豊作のため穀物価格は低下し、フランスやスペインが輸入税を引き上げたため、困難の時代であった。そして、S&P商会は、前貸した穀物供給業者が倒産して多大な損害が生じ、倒産しかける。
 1824年、東インド交易を行う半官半民の、オランダ貿易会社が設立される。それに、ウィレムは進んで書記になり、S&P商会から手を引く。彼は、6年間S&P商会を経営したにとどまるが、実業界で高い名声をえたとされ、1821年には穀物計量人を監督する4人いる委員になっている。1831年からオランダ貿易会社の理事になり、オランダ東部の繊維産業を活性化させる。彼は、交易や文学、宗教について多くの論文をものにしたほか、1810年から死亡する1844年までの日記を残している。
 1769年に設立され、1853年に解散することなったS&P商会は、自分の勘定で穀物を取引するのではなく、オランダ南部・東部、ドイツ北部、そしてバルト海の商人から、穀物や脂肪種子(トウゴマなど)の販売を委託される業務を行っていた。S&P商会は、顧客を維持しまた受託高を増やそうして、バルト海の商人に前貸していたがそれが焦げ付き、倒産の危機を招いたようである。
 S&P商会は18世紀末から19世紀末初めが全盛期で、その代表は有力な商人50人の1人となり、またバルト海貿易・海運業委員会の理事になっている。また、その利益率は20パーセントもあり、その資本金は大規模の100-200万ギルダーと小規模の10万ギルダー以下とのあいだの、中規模20-30万ギルダーであった。ウィレムが見切りを付けたころには小規模になっていた。
 19世紀、オランダは穀物を自給できるようになり、アムステルダムの地位は低下した。そのとき、彼は「政府は商品集散都市を商人にだけに任せ、規制は最小限にし、徴収する税は最小限でなければならない」と、伝統的な自由貿易論を展開していた。しかし、オランダ貿易会社の理事として、オランダの繊維産業については保護貿易論を支持した。その動機は、それを保護すれば多くの雇用が生み出され、貧困と道徳の乱れに対抗できるという、社会的で倫理的なものであった(以上、ティーホフ前同、p.328-90)。
 なお、冒頭に取り上げたコルネリス・ピーテルスゾーン・ホーフトの生涯はバルト海穀物交易人の成功の歴史であったが、このウィレム・ド・クレルクとそのS&P商会の歴史はバルト海穀物交易の衰退の歴史であった。
▼アムステルダムの盛衰と取引費用の役割▼
 ティーホフ氏は、「われわれが知りたいことは、バルト海地方の穀物集散地としてのアムステルダムの活動において、取引費用が果たした役割」であるという(ティーホフ前同、p.13)。ここで明らかなことは、オランダのバルト海穀物の海上交易についてではなく、アムステルダムというバルト海穀物の集散地について取引費用が果たした役割である。
 ここでいう取引費用とは、「1人の商人が、世界のある地域(この場合、バルト海地方の穀物)で商品を購入し、それを別の地域で販売(この場合、アムステルダムの穀物)するために負担しなければならないすべての費用である」(ティーホフ前同、p.10)。
 ティーホフ氏は、大著の結論として、およそ次のように述べている。
 「拡張の時代」(1540-1650年)、アムステルダムはバルト海穀物の集散地として台頭したが、その成功に寄与したのは、低い輸送費であった。輸送費の低さは、優れたフライトが採用されたことだけではなく、船舶の共有制が採用されたことで保険料がいらなかった、安全な海において運航効率が良かった、そしてバルト海交易が大規模となって「規模の経済」が生まれたことで、実現したという(ティーホフ前同、p.294-5)。なお、海上交易における生産単位は船1隻ごとであるので、海上交易が大規模となっても「規模の経済」は生まれない。
 その他の取引費用について、取引所の開設、仲介人の登場、価格表の発行などの経済制度の改善によって、情報探索費用が低くなった。また、アムステルダムの商人は小規模で、血縁の紐帯が堅い。港湾サービス部門に対する市政府の規制は緩く、商人はサービス料金を自由に交渉することができた。最後に、貿易にかかる税、特に輸出税が他の地域に比べ低かったという(以上、ティーホフ前同、p.296)。
 「収縮の時代」(1650-1760年)になると、アムステルダムへのバルト海穀物の輸入量は低下したが、他の産地からの輸入増によって相殺された。ただ、西・南ヨーロッパ諸国は「拡張の時代」比べ、アムステルダムに頼らなくなり、その地位に不利益をもたらした。
 「構造的に、輸送費が長期的に上昇する傾向にあった。18世紀前半には……17世紀ほどには絶対的に安価というわけではなかった」。そして、絶え間ない戦争によって、海が危険な状態になり、輸送費と保険料に大きな影響を及ぼした。それに対処するため、バルト海貿易・海運業委員会を設置して、商船隊の保護について海軍に協力する。そして、護衛船団を用いなければ利益が上がらなくなる(以上、ティーホフ前同、p.297-8)。保護費用と機会費用の発生である。
 この時期、郵便制度の発達により、情報探索費用が低下する。商人と船主との分離が起きはじめ、また海上保険業者が登場した。それに応じて、商人企業数は減り、1社当たりの投資額が増大して、組織が改良された。オランダから代理人を派遣しなくても、現地の商人が成熟したことで、彼らを代理人として指名することができるようになった。ティーホフ氏は明示しないが、それらを取引費用の低下とみているようである(以上、ティーホフ前同、p.298-9)。
 しかし、「成長の再開」(1760-1800年)の時代になると、バルト海からの穀物輸出量は増加したが、アムステルダムが穀物の販路を見つけ出すことが困難になった。それは、オランダの人口が停滞し、ジャガイモの栽培が増加して、自給率が高まった。他方、ヨーロッパ諸国の人口が増加して、バルト海から穀物輸入を増大させるが、その穀物はアムステルダムを経由しなくなった。
 「1800年から、バルト海地方からの輸入品が工業化しつつあるイングランドに直接流入することが急速に増え、結果的に、バルト海地方とイングランドには強い絆ができた。イングランドは、バルト海地方からの穀物の大輸入国、大消費国として、オランダに取って代わった。
 バルト海地方の穀物に対する絶え間ない大きな需要は、オランダから北海の反対側へと変化した。この変化は、確かに、アムステルダム穀物市場が急激に低落した説明として、最も重要な要素である。19世紀には、アムステルダムが国際的流通拠点として機能するのは、例外的状況に過ぎなくなった」(ティーホフ前同、p.299)。
▼若干の批判▼
 ティーホフ氏の結論は、「拡張の時代」にあってはバルト海穀物交易にかかる取引費用の低さが、アムステルダムを穀物集散地として成功に導いたが、「成長の再開」の時代になるとバルト海穀物がイングランドに直接、輸出されるようになったことで、アムステルダムが穀物集散地としての地位を失ったとしている。取引費用は、アムステルダムを穀物集散地としての成功の要因であっても、その低落の要因であったとはいえない。そのことをティーホフ氏は明文としていないが、そのことは次の文言からみて明らかである。
 「18世紀中頃からのオランダの輸送費がどの程度かということは、わからない。だが、オランダ海運業の競争力は、確実に衰えていった」という。そう述べた直後に観点を大きく転換して、「オランダ人は、17世紀にはかさ張る商品輸送のための造船・輸送面で目立っていたが、この頃から重商主義政策の採用で刺激を受けた外国の競争相手国が、それ以降海運業と造船業を発達させた。オランダ人だけが、かさ張る商品の輸送で生じる規模の経済から利益を得ていたが、18世紀にはイングランドと他の数か国も貿易と商船隊を拡大し、その間に輸送費を削減させた」とする(ティーホフ前同、p.300)。
 われわれが、18世紀前半、「成長の再開」の時代の直前、輸送費が穀物輸入価格に占める比率を試算したところ、10-15パーセントになった。この比率は「拡張の時代」や「収縮の時代」と大きな違いはない。「成長の再開」の時代になって、輸送費が急上昇したとは考えられない。オランダ船の輸送費の低さは、バルト海穀物交易が「オランダの内なる交易」となった「拡張の時代」に形成され、その他の取引費用の低減を含みながら、「収縮の時代」を経て「成長の再開」の時代になっても継続したとみられる。
 したがって、「成長の再開」の時代になっても、オランダ船の輸送費などの取引費用の低さは、アムステルダムを穀物集散地として発展させる要因たり続けたはずである。それにもかかわらず、アムステルダムは穀物集散地としての地位を失った。アムステルダムを穀物集散地として成功と衰退を、取引費用といった内在的な要因だけで説明することは困難であったといえる。そのことを承知していて、その説明を放棄しているかのようである。
 穀物など、かさ高貨物は運賃の負担力に乏しいとされる。中世後期イタリアにおける羊毛や毛織物の輸送経費(海上運賃と海上保険料)が輸入価格に占める比率は、20-30パーセントであった(Webページ【2・4・4 中世イタリア、地中海交易の掉尾を飾る】参照)。それからみて、バルト海穀物の輸送費が占める比率は妥当な状況にあったとみられる。
 それでは近世オランダ(せまくアムステルダム)のバルト海穀物交易は何であったのか。一言でいえば、オランダの穀物不足分の買付交易と穀物不足国への中継交易で構成されていた。ただ、その主たる役割は、前者にあった。それぞれの国ぐにの穀物不足はオランダの穀物交易を成り立たせる必要条件であるが、穀物の取引費用の低さはそれを成り立たせるための十分条件(あるいは競争条件)であったにとどまる。
 オランダにおいて穀物不足が解消されれば、自国向けの買付交易という主たる役割を失うこととなる。また、穀物不足国(や、その他の国ぐに)がバルト海との直接交易を成り立たせる条件を整え、直接交易するようになれば、オランダの中継交易の一部あるいは全部を必要としなくなる。そうした事態になれば、オランダの穀物交易の取引費用は相対化する。
 ティーホフ氏の大著は、たぐいまれなる海上交易の研究書であり、驚嘆に価する内容となっている。それでありながら、主たる取引費用である輸送費を構成する船舶費や船員費については、史料の制約からか分析されていない。そして、バルト海交易は「母なる貿易」だとして元書の表題にしているが、それ(特に穀物交易)がオランダ交易全体における位置づけやそれが果たした役割について、具体的な説明がないことは、大変惜しまれる。
 それに関連して、訳者は近世を中世の延長ではなく、初期近代であるとしたうえで、訳書の表題を「近世貿易の誕生」としている。しかし、オランダのバルト海穀物交易は近世と呼ばれる時代の交易ではあるが、その実態は中世交易の延長とその終焉である。したがって、訳書名の「誕生」は初期近代の先駆けと誤解されかねないので、「近世貿易の盛衰」といった素直なネーミングが望ましい。
(2008/05/05記、2013/07/20補記)

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