◆ローマ人の非海洋性◆ ローマ人たちは、ブルターニュやコーンウォルを辛うじて占領していたにとどまり、また占領時 代の後期になってウェールズをローマ化したものの、アイルランドを全く征服できなかった。か れらは海洋民でなかったので、イギリス海峡、特に、警備しやすい、しにくいにかかわりなく、ド ーバー海峡一帯の海岸に見向きもせず、またフランスそしてコーンウォル、アイルランド、その 他北部にいたる古代の海路を見逃していた。 アイルランドの伝説によれば、最初のアイルランドの船隊が後222年に海上遠征に乗り出し、 その世紀末になると、南アイルランド人がコーンウォルや南ウェールズの海岸に移住するよう になったという。コルニッシュのスズ鉱山は細々と掘りつづけられていたが、200年後に再開発 され、取引も次第に大きくなっていった。 後3、4世紀になると、ローマン・ブリテン人は北ウェールズのアングルシー島やブリストル海 峡の両側に、監視塔を次々と建設していった。セバーン川[ブリストル海峡に注ぐ川]の河口 に、アイルランド人の攻撃に備えて小船隊を配置するようになった。それら船舶は快速で、軽 快な舷側舵を持ち、オールを使うガレーであり、人々を寝泊まりさせ、海岸への侵入に夜間で も備えるようになっていた。 他方、ローマ人の荷船は鈍速かつ鈍重であった。そうした船は船首、船尾同形で、そのうち 大きい方が船尾であり、船首より高くなっていた。また、1枚の横帆を張っていた。地中海の船 のなかには、船首にアートモン[アルテモン、スプリットスルのいわば前身]という小さな四角いセ ールを、操舵を補助するヘッドスルとして張るものもあった。3世紀になると、小さな三角のセー ルが晴天時、船の行き足を強めるため、メンスルの上に取り付けられるようになった。 ローマ帝国の役人や地主たちは、フランス、ドイツそしてスペインから、船で運ばれてくる香 辛料やワイン、シルクに強い関心を持っていた。4世紀に入ると、ローマ帝国の植民地は銅、 鉄、金を輸出することを禁止される。さらに、何世紀か後の重金主義を先取りするかのように、 ある374年法は「異民族」の手に渡ってしまった金を、交易によって是が非でも取り戻せと宣言 している。その直後、ワイン、オリーブ油、そして−注目すべきことに−船材が、禁輸リストに追 加されている。 後世の多くの規制法と同じように、ローマ人の法律も有効ではなかった。大量の銅などの、 後期ローマ人の居住地域の産物が、4世紀、アイルランドに輸入されているし、後期ローマ帝 国の埋蔵コインがゴールウェーなどの中央アイルランドで発掘されている。それと同様なもの が出る場所が、スコットランドやノルウェーの海岸に至る西方への海洋ルートに沿って、広がっ ている。それが何を意味するかはともかく、ケルト人の南方への交易はゴールやスペインの西 部まで広がりをみせていた。スペインのガルシアのコルニャはポルトゥス・ブリターニュとして知 られていた。ケルト人はビスケー湾を直接、縦断した最初の人々といえる。 ハルとサウス・シールズが、ローマン・ブリテン時代、スコットランド人とピクト人との海洋交易 のセンターとして維持されてきたのと同じように、チェスター[ランカシャー州]はアイルランドとの 交易のセンターであった。しかし、ローマ帝国の末期となると、「異民族」が帝国の産品が欲しく なれば、自ら船を仕立てて、それを探すしかなかった。ある著者は、その時代の北方海域につ いて詳細な研究を行ない、「大西洋における海事力の伸長はローマが作った通商の鉄のカー テンの成果である」と結論づけている。4、5世紀の大西洋における海上交通は小規模であり、 基本的に地中海から切り離されていたし、またブリテン人やアイルランド人は銀、鉄、女奴隷を 交換の手段としていたと書いている。 ◆アイルランド聖人の航海◆ 5世紀の第2四半期−多分、ブリテンがローマ帝国から離脱した440年ごろ−になると、ローマ の船隊はイギリス海峡に現れなくなる。それは時間の無駄を引き起こし、ローマン・ブリテン時 代の船大工の技能を衰退させるものとなった。その前後から、アイルランド人はブリテンの西 海岸に侵入し、交易を行なうようになるが、若き聖パトリック[389?-461?、アイルランドの守護聖 人]を捕縛した9人の人質のニール[?-405、タラ王、アイルランド・オニール朝の始祖]は、はる か遠くワイト島まで侵略していた。その時代の変動の一つの結果は、ブリターニュとガルシア に、ケルト人の植民地ができたことであった。 それへの植民は、5世紀半ば南ブリテンからはじまり7世紀初めまで続いたが、そのピークは その始まりと6世紀半ばであった。第二のピーク時には、デボン州やコーンウォル州の人々が 主に植民したといわれ、かれらはウェセックス[イングランド南部、アングロ・サクソン時代の七 古王国の一つ]に押し入ってきたサクソン人に圧迫されていたとされる。 そうしたことで、一時、二三の品物の交換が起きたが、すぐに立ち消えた。聖パトリックは、北 アイルランドの労役場から逃げ出す際、商船に乗ってゴールへの道をたどった。かれは叙階 後、船でブリテンに戻り、家族に会った上で、オセール[フランスのブルゴーニュ地方]に再び旅 行している。その後、かれは431-2年にかけてアイルランドに出帆し、キリスト教活動を行なっ ている。西イギリスやアイルランドの聖人たちの足跡を見ると、ほとんどが地中海にあるレラン 諸島[フランス・カンヌ沖]の修道院で修行している。 「王」アーサー[古代イギリスの伝説上の王]が生きていたのはちょうど500年ごろとみられ、い まみた時期に当たる。ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリテン王の歴史』は、ノルマン人[10世 紀、フランス西部のノルマンディーを征服した北欧人とフランス人の混合民族]の[1066年イング ランド]征服後についてふれ、実人物としていないにもかかわらず、アーサーがアイルランドとア イスランドを征服し、またゴトランド島[スウェーデン]やオークニー諸島の王から貢ぎ物を出させ ていたと書いている。この指摘は、ヴァイキング[800-1100ごろに進攻したスカンディナビア人] がそうした海に乗り出す前のアイスランドやバルト海について、何がしかの知識を持っていたこ とを示唆する。ジェフリーは、その後の王がノルウェーやデンマークを自らの領土に加え、支配 していたと指摘している。 これらの指摘が事実かどうかはさておき、アイルランドの聖人たちは当時すでに大西洋に乗 り出していた。アイルランド人のサガのなかで、最も注目されるのは聖ブレンダン[484-577、神 の約束の地を目指し、西の海を漂った]の航海である。聖ブレンダンの足跡を完全にたどるこ とは大変、困難なことであるが、次の点について疑いはない。「昼ばかりで夜のない」島はイギ リス島の北方にあり、また西方への帆走、「動き出す」島、泡立つ大釜、そしてその他火山や地 震による振動について書かれている。それらはアイスランドに関する説明とみて間違いない。 そして、聖ブレンダンはヴァイキング[赤毛エリクの子レイフ・エリクソン]が500年後に発見する ことになるヴィンランド[カナダの東海岸]を発見したということになっている。かれがさらに冒険 を続けたとしても、コロンブス[1446?-1506、イタリアの航海者]が航海するまで、アメリカはやは り経済的には無価値であった。なお、コロンブスの航海はヴァイキングの発見航海より、さらに 500年後である。 ◆聖人の使ったカラ◆ 聖ブレンダンの一連の航海は、519-524年と525-527年にかけて行なわれたと信じられてい る。最初のシリーズにおいて、かれはカラ[コラクルの方言]に乗って帆走していた。それはアイ ルランド地方の皮張りボートであり、アイルランド海ではすでに普及していたし、一説によれば、 聖人とその一行は鉄製の道具を使っていたとされる。その道具はアイルランド特有の超軽装 の船に使うものであった。このアイルランドの船は、小枝細工の舷側とリブ[肋骨]で出来てお り、それらはオーク材の樹皮でなめした雄牛の皮が張られ、結合部にはタールが塗られてい た。こうした細工の船に、かれらは40日分の食料、ボートの損傷を修理するのに使う皮に塗る のに十分な植物油、そして「乗組員が使用する様々な道具類」を積んでいたという。 諸説があるが、聖ブレンダンのために建造されたカラは、かれが出来の良いカラの故郷であ るケリー地方[アイルランド南部]生まれであったことから、20人ほどの人を運べる容積があり、 また30枚以上の皮が張られていたことはほぼ間違いない。聖ブレンダンに、海路、従った聖コ ルンバ[521-597、アイルランドの修道士、ケルト人のキリスト教化の功労者]や聖コーマック[聖 パトリックの弟子]もカラを使っていた。前者は、563年にアイオナ島[スコットランドのハイランド・ マル島沖合いの小島]に最初の航海に出かけ[布教の中心となる修道院を創設し]ているが、そ の一行は12人であった。後者は、聖コルンバの弟子の一人であるが、かれの皮張りボートが 14日間、南からの暴風に追い立てられ、意図に反し、北極圏まで航海したとされる。この試練 は、とげを持った恐ろしい生き物に出会うことで、終わっている。その生き物は、いま推察すれ ば、グリーンランドの夏に発生する、狂暴な蚊である。 カラが安上がりで、耐航性が十分あったとしても、6世紀半ばの西方の海を帆走した、唯一の タイプの船ではなかった。船はそれぞれ、特別な目的、平時用か戦時用かに即して建造されて いたし、造船工も一種類の作業方法にとらわれていたわけではなかった。聖アダムナン[624 (625)-703(704)、アイオナ修道院長]著の『聖コルンバの生涯』[688-692?]によれば、その当時 のアイルランドの船は異なった多種類の方法で建造されており、聖コルンバの二回目の航海 は養母の忠告に従い、木造船で行なったとされている。 ◆アイルランドの進出◆ アイルランドの海上交通の規模について、極めてわずかながら、文献から情報を拾い出すこ とができる。聖コーマックの『用語辞典』は9世紀に編集されたものである。それによれば、ニー ルの孫が50隻のカラ船隊を持ち、アイルランドとスコットランドとを行き来していたが、船隊がそ っくりラスリン島[北アイルランドの北部]近くで起きる強大な潮流の渦巻に巻き込まれ、船はわ ずか一日でぼろぼろになり、生存者は誰もいなくなったとしている。 また、アイルランドの放浪部族長ルファイド・マッコンに、あるスコットランドの王からアイルラ ンド国内制覇に手助けするというよう申し入れがあった。そのとき、遠征部隊の海上輸送のた めに、帆船、ガレー、そして小型船、さらに小型の舟がかき集められた。その数が非常に多か ったので、アイルランドとスコットランドのあいだに「カラの長い橋」が出来たと書かれている。 729年、タイガーナックの年代記によれば、ピクト人の150隻の船がロス・クィシーニの突端で難 破したとされる。 このピクト人の船の指摘はアイリッシュ海の交通がアイルランド人の手に完全に落ちていな かったことを示すことになる。アイルランドは経済的にはまだまだ未開発であった。確かに、金 の加工や皮製品の制作、粗布の織り方には固有の発達がみられ、リンネル[亜麻布]の製造も はじまっていた。しかし、本当にセンターとしての都会といえるのはティプレアリ[アイルランド南 部]のカセルだけであり、そこはマンスター[同地方]の王の要塞があったところで、物品の取引 が貨幣を使わないで行なわれていたようである。 アイルランドのアーマー[同北部]やクロンマクノイズ[同中部]、グレンダロッホ[同東南部]にお かれた修道院−それらに3,000人以上の修道士や修行者が住み着いており、世俗の人々がい る場所から遠く離れところにあった−という施設は、町の機能を多く備えていた。 8世紀になるとウェックスフォード[同東南部]近くのカルメンの市やダブリン近くのテルトンの市 が、毎年、多数の人々を引き付けるようになった。その交易のほとんどはゴールの商人の手で 行なわれていた。 さらに北方では、ピクト人がノルウェー海岸にかけて、交易を行なっていた。アイルランド人が 交易を独占していたわけではないが、6、7世紀になるまでに、かれらは遠隔地への大洋航海 を開拓していく。それは多くの航路の発見を刺激し、ノルウェー人がそれに習うことになった。 ◆ヴァイキングの来襲◆ 西方世界は、イギリス人船員の豪胆さにおかげを大変、被っているが、ヴァイキングに対して も借りが少なくない。 8世紀前半、ムーア人[アフリカ北西部のイスラム教徒]がスペインや南フランスを侵略してき たが、それに伴いかれらの本国とアイルランドとのあいだの交易が途絶えてしまった。スコット ランドとノルウェーとの関係は続いたが、そのあいだのルートに沿ってノルウェー西部のヴァイ キングが動き始めたのである。その初期の勢力浸透は穏やかであった−一時期、ヴァイキン グは侵略者ではなく、交易商人や内陸の買付人とみられていた−が、この9世紀末になると古 代スカンジナヴィア人はアイスランド、フェロー諸島、シェトランド諸島、オークニー諸島、マン 島、そしてアイルランドの海岸沿いに住み着くようになった。 ……860年後になると、ケルト人と古代スカンジナヴィア人との大規模な雑居地がアイスランド でみられるようになった。そして、イングランドとフランスとの交易が再開された。200年にわた って、アイルランドにおいて目立った経済発展があったが、それはノルウェー人とアイルランド 人との合作によるものであった。ノルウェー人の主なコミュニティは海岸にあったが、常に優勢 だったというわけではなく、10世紀半ばになると人種間の婚姻が広く行なわれるようになる。 バルト海と東方とのロシア経由での陸上交易ルートは、9世紀半ばごろあちこちで閉鎖されて いたが、870-880年にかけて再開し、銀の流入が北方海域における交易を刺激するようになっ た。多くの金や布がアイルランドからイングランドに移入されるようになった。900年ごろ、ワイン がアイルランドに再び輸入されるようになった。941年、アイルランド王ミューアケルタッチ・レー ザークロークスがダブリンのノルウェー人の要塞を攻撃したとき、その要塞は壁で取り囲まれ ており、貢ぎ物として金、彩色の暖炉や食料を差し出せるほど豊かであった。同様に、アイルラ ンド人がリメリック[同西部]を968年に占領したとき、宝石や金、銀、鮮やかな東方の絹を見つ けており、征服後もこの町では交易が続けられたが、駐留キャンプの維持のための年貢として 365トンのワインが征服者に支払われたとされる。 この時期のアイリッシュ海の主な海事勢力は、アイルランド人そのものではなく、アイルランド 来住ノルウェー人であった。ただ、20世紀初期の帆船のように、かれらの皮ボートやカラは経 済的に時代遅れとなっていた。アイルランドでの生活を組み立てるに当たって、ノルウェー人は 蜂蜜、小麦、木材、皮製品、コブのある赤、青の布、そしてスカンジナヴィア型の木造荷船を輸 入し、贅沢品を持ち帰えらせていた。アイスランドからは、毛皮、セールに使う粗悪な毛布、羊 皮コート、を輸出していた。さらに、アイスランドやフランスへの奴隷交易が行なわれていた。か なり強調することになるが、ベルファスト[北アイルランドの首都]からクライド湾[イングランド北 西部]や、ダブリンからマージー川やアングレシー島[ウェールズ北部]へのルートの交通は頻繁 であった。 これらルートは現在まで引き続き残っている。オートミール、少量のサーモンや塩、鉄は以外 に、スコットランドは輸出するようなものはなかった。アイルランド来住ノルウェー人とヨーク[ノー ス・ヨークシャー州]のデーン人との健全な交易関係は、954年ヨークのデンマーク王が没落す るまで続いた。その後、チェスター[マージサイド州]に鋳造所が建設され、重要な地位を占める ようになる。それはナンウィッチ[チェスター近郊]の塩の輸出に負っていた。1000年ごろになる と、カーディフ[ウェールズの首都]やスウォンジー、ブリストル[ブリストル湾]、トットネス[プリマス 近郊]が、ブリテン西海岸で目立つ存在となっていった。その年、アングロ・サクソン・ペニーが あらわれるが、それはダブリンのシトリック三世が、自らの肖像を入れて鋳造した、アイルラン ド最初の硬貨であった。 ◆サットン・フーの船墳墓◆ 近年まで、海事問題の歴史家はそのほとんどが海軍史家であり、イギリス海運は海洋ヴァイ キングから国を守るため、海軍を設立したアルフレッド大王[849-899、ウェセックスの王]ととも に始まると強調されてきた。多くの読者は、アングロ・サクソン人[ノルマン人が侵略してくる以 前にイギリス人となっていたゲルマン民族]が海に乗り出すまで、イギリス海運は全く興らなかっ たとか、大王がひとつ船を建造してやろうと考え、ヴァイキング船に注目するまで興りようもな かったとか、またイングランドの住民が北海に横断しようと考える数世紀前から、デンマークか ら来住して来た海上侵略者[デーン人]が大洋航海船を発達させていたといった結論を植付け られてきた。 こうしたシナリオは納得できない。ヴァイキングは長年にわたって優秀な宣伝代理人を抱えて いたといえる。一世代前まで、アングロ・サクソン人は低地帯の国々の海岸まで漕ぎ下り、その 後でイングランドに渡って来たと推察されている。また、いま上にみた記述はイングランド人が 何世紀にわたって帆走の仕方について、何一つ学ばなかったと仮定しているかのようである。 著名な考古学者たちは、[624/5年以降遺物で、イングランド南部のサフォーク州のデベン川 から発掘された、イースト・アングリアの王の墓である]サットン・フー船墳墓の船は、「ノルウェ ー人とアングロ・サクソン人が建造していた全く同じ系統のボートであって、少なくとも同じ段階 を歩んでいたことは明らかである」といっている。しかし、サットン・フーの船の詳細は不明であ る。 アングロ・サクソン人が老練な船員であったことを知るには、かれらの詩作を見るにこしたこ とはない。その「叙事詩」はエセクター・ブックにある。それはデボンとコーンウォルの司教であ り、エドワード懺悔王[1002?-66、アングロ・サクソン系の最後の王]の大法官でもあったレオフ リックが、エセクター大聖堂に献納したものである。そのなかに海上案内があり、その説明は 注意深く読み取り、吟味するに価する。 その1つは海上の嵐や、錨、船について、他の1つは「船の外板を壊す、容赦のない、危険き わまりない」氷山について述べられている。そのころの船員たちが、どこで氷山に出会ったので あろうか? ウィリアム・コッパー[1731-1800、詩人]は18世紀、北海で氷山が出現したことを記 念して一つの詩を書いているが、8世紀でも、また18世紀でも、イギリスが厳冬であったことに 変わりはない。しかし、氷山はヨーロッパの海ではあまり現れない。アングロ・サクソン人の船 員が、小さな氷山や流氷に出会ったとすれば、さらに北方に航海していたに違いない。 こうした叙事詩や『船員たち』と呼ばれる詩作は、8世紀に書かれたとみられるが、初期の交 易と大いに関連がある。『船員たち』の解説者は海上航路に疎い人物ではない。かれらは自ら の苦労話をしているが、海の魅力を認めている。かれは陸の人間の安易な考えを軽蔑しつ つ、新たな地域に向け航海に出たがっている。「自らの真実を歌い、旅を語ろう。辛い日々は 度重なる試練の時であった……波のうねりは恐怖であった。ボートのへさきでの夜の当直がい つもの仕事だ。船は絶壁に押し付けられそうになった。寒さに悩まされ、足は凍傷で動かなくな った……陸で裕福に暮らしていた男に、浮浪者のように、氷が浮かぶ海の上で、冬を過ごすこ となど、解りはしない……」という。 この文章はプロの船員が書いたものとして信用できる。それは後世のイギリス船員も口にす る典型的な嘆きである。 ◆新しい船と交易の拡大◆ ローマ帝国は上手に組織された社会であったが、それが解体すると、港は再び浜辺にかえっ てしまい、波止場はなくなり、交易は衰退してしまった。それに伴い、簡便で小型の船が求めら れるようになり、しかも安価に建造されざるをえなくなった。 スカンジナヴィアのクリンカー[よろい張り]式建造は薄い板を用い、容易に板張りできるた め、節約の必要を答えるものであったので、南方の船大工もこのスカンジナヴィア方式を取り 入れはじめた。それと同時に、木製のたるが、ローマ時代からのアンフォーラより経済的だとし て、船に積み込まれるようになった。たるは、後期ローマ時代から知られていたが、ワイン交易 が盛大になったスペインで改良されたもので、それを上手に積めば貨物スペースは有効に利 用できるようになった。 考古学は、この加工品の起源が当地にあるとは、容易に決めようとはしない。それが他の場 所で作られ、交易の結果として到着したり、あるいは他の方法、多分に略奪品あるいは贈り物 の交換品として渡来するからである。しかし、ある慎重な作家がいう「近代化前の市場取引メカ ニズム」の結果として、諸産物が500-600年にかけてライン川からイースト・アングリアやケント 地方に、また600-640年にかけてセーヌ川からサセックス[いずれも、前出七古王国の一つ]に 持ち込まれていた。8世紀になると、それ以前はさておき、セーヌ川からの諸産物はサザンプト ン[ハンプシャー州]に到来するようになり、クロークが大陸物に見習って作られるようになった。 また、カール大帝[フランク国王、在位768-814]はマーシア[前出七古王国の一つ]の王オファ [二世、在位757-796、イギリス人の王と自称]に、サクソン商人たちはフランスに入ると巡礼者 になりすまし、通行税を逃れるようとしていると抗議して来ている。同じころ、フリースランド人 [オランダやドイツ沖合いのフリージア諸島の人]が諸産物を、イギリスを含むヨーロッパ各国に 運んでおり、ロンドンとヨークに倉庫を設置していた。ヴァイキングが、810年前後、フリージア 諸島を襲撃すると、かれら商人は南方に移民してしまう。 これら交易はそう長くは続かなかったし、船が少なくとも7、8トンほどの貨物を運んでいたとい うものの、その規模は小さかった。イギリスの富裕階級は羊毛、金属そして奴隷を、自分たち の土地では産出しない贅沢品と交換していた。塩は、貧乏人、金持ちにかかわりなく、必需品 であった。 5世紀のゴール人[アナポリス・]シドニウス[430?-80?、ローマの詩人]によれば、サクソン人の 船はセールを積んでいたし、その造船方式はローマン・ケルト風の伝統を守っていたという。 8、9世紀に入り、ロンドン橋の少し下流に一つの橋が設置される。また、同時代の船の遺物 は、9世紀のアングロ・サクソン・コインの絵柄となっている、ハルクという船に関わりがあるとみ られている。この船は、船尾は丸みを帯び、キールは持っていないが、スカンジナヴィアの船と は異なった方法で建造されており、バナナをくり貫いたようだと書かれている。そうした船は貨 物を効率良く運び、また浜辺に容易に近づくことが出来た。さらに、2本の側舵を持ち、前方に1 本のマストを立てていた。これらはケルト人の帆船に共通してみられる様式であった。 ケントで出土し、895年の1、2年前後とみられるグラベンシーのボートは南方伝統の建造方式 を踏襲しているが、その傾斜する船首はイギリスや低地帯諸国で使われた、コグを思い起こさ せる。コグは船首・船尾同形船なので、引き潮時に打ち上げられることはあっても、浜に乗り上 げることが出来ない。 ◆航海の記録=叙事詩、布教◆ 氷山にふれるアングロ・サクソンの叙事詩を見ても、その船がケルト風のカラベル建造、ある いはスカンジナヴィア形式でのクリンカー建造、さらにはそれらの折衷であったかどうかは解ら ない。しかし、それが多くのリブを持ち、また中央部には「開口部」あるいはホールドがあり、 「人々に役立っていた」。その船は大型の漁船でもあったようであるが、本来は商船であった (そのどちらにも使われたはずである)。デッキ(甲板)が張られていたことはさておき、次の指摘 は魚以外の貨物がより多く含まれていたことを示めそう。「その船は人々に大量の食料を運 び、食品を貯え、また毎年、金持ちや貧乏人たちが用いる贈り物を運んでいた」。年毎の記述 から、年間の交易は夏の数か月間に行なわれている。それが多くの国々から来る商人の慣習 となっていたことが解る。 サクソン人支配のイギリス時代、確かに多種多様な船や船員があり、何がしかの沖合漁業 や、捕鯨、沿岸航海、そして海外交易などがみられた。セールは東海岸においても、おおむね 西海岸と同じように用いられていた。それは次の航海をみれば解る。700年、聖アイブス[7世紀 ごろ、ペルシャ生まれ、大陸から布教]はノーザンブリア[前出七古王国の一つ]からブルターニ ュに行くため、快適な風を待ち受けていた。聖ウィルリド[634-709、663年ウィトビー会議のロー マ教会派]は直接、北海を横断してフリージア諸島に渡った。そして、[690年]聖ウィルブロード が異教徒のデーン人を改宗させようともくろみ、北海周辺を帆走した。それら聖人は、好戦的 なデーン人がアイリッシュ海からノルウェーに向けて出帆したように、北海を渡ってかれらの住 むところに出向いたものといえる。 9世紀初期の南方の船については、司教リムベルト[865-888、ハンブルグ大司教]の『聖アン スカル伝』[875?]をひもとけばよい。その書物は[ドイツの]ケルンからフリージア諸島への航海 が書かれている。その船は北方の船から発達したもので、その設備はデンマーク王ハーラル [青歯王、在位940-86]が選んだことが解っている。かれは、聖アンスカル[801-865、ハンブル グ・ブレーメン大司教]の一行とともに北方を旅行したが、聖人の目的に即して南方の船を選 び、またかれとその同行者が過ごせるよう、キャビン[船室]を二室、用意させた35。 9世紀におけるオーセベリィやゴクスタッドの船が、[ノルウェーの]オスロ・フィヨルドに沿って発 掘されているが、北海ではなく、本来、バルト海で使うためのクナールknarrと呼ばれるヴァイキ ング船であった。9世紀半ば以降になると、30人の人々とともに、かれらの家畜、かいば、雑 貨、そして家具を、西向きにはアイスランド、東向きにはブリテンに運んでいた。そして、船首、 船尾に短いデッキを張り、完全な形のキールを据えていたが、キャビンは知る限りでは用意さ れていなかった。 ◆国王、海運交易を認知◆ 10世紀末、アルフリック[955-1010?、学者、僧院長]がかれの属する階級の人々向けに書い た読み物は、その時代の生活のありさまをよく知らせてくれる。アルフリックは、修道士、農場 主、狩猟者、漁労者、塩製造人、そして商人と付き合っていた。ある漁労者は大変、臆病であ ったので、遠洋漁業には行かない−「殺せる魚は取るが、殺されそうな魚を取るつもりはない」 −が、捕鯨に向かう人々の勇気を称えていた。ある交易商人は、首長には十二分に、また「王 や富裕な人々、その他の人々には必要に応じて」、自分が評価した通りに、ものを言いすぎる きらいがある。 その商人は、海外まで行って取引しており、遠隔地で自分の荷物を売り払い、故郷にない商 品−「深紅ガーネットとシルク、珍宝と金、細工物のよろいかぶと一式、ワインとオイル、銅とス ズ、硫黄など、多くの物品」−を買い付ける。かれは危険な目に遭いながら、そうしたものをす べて輸送したといっているが、銅とスズはブリテンの他の地域から持って来ていたはずである。 「時には難船して、すべての商品を失うことがあるが、自分の命を失うような危険に会ったこと はない」。その結果、自認しているように、それに支払った価格よりはるかに高い価格で、それ ら商品を売っていた。 アルフレッド大王(在位849-899)は、その名前からサクソン人と知れる商人ウルフスタンの航 海を認知していた。ウルフスタンはバルト海まで帆走し、ポーランドのビスツラ川の河口に住む 好戦的な人々に商品を売っていた。かれの報告によれば、その地方の馬は値打ちのある買い 物であったという。かれはドイツ、フランス、イタリー、フランダース、そしてフリージア諸島とは 交易していないが、かれの交易の多くは狭い海峡を横断した上で、[フランスの]カントヴック(現 在のエタプル)[フランス・ピカルディ地方、ドーバー海峡に面する]、ルーアンやアミアンといった 内陸港とのあいだで行われていた。 アルフレッド大王は、スカンジナヴィアやバルト海との接触に痛く興味を持っていた。 900年ごろ、エギルのサガ[13世紀作成、一族の功業物語]によれば、西ノルウェーから小麦 や服地、金属の引き換えに干し魚や毛皮が、イングランド−多分、イースト・アングリア−に届 けられていた。その時代の以後ものとみられるイングランドの青銅製品がノルウェー西海岸か ら発掘されている。一方、10世紀のグリムスビー[ノーフォーク州]の財宝には、西バルト海との 交易に形跡がある。 911年デーン人たちは東イングランドやとノルマンディに土地を確保し、そのときすでにさらに 南方の地中海にまで航海していた。それはフリースランド人が開発した交易パターンを引き継 いだものであった。その世紀末になると、ヴァイキングの攻撃はもはや海賊の一人働きとなり、 侵略は全く政治的な戦略に従って行なわれるようになり、また新しいタイプの船、商業上有利 なロングシップが使われるようになった。 グリーンランドは、986年にアイスランドから最初の移民があったところであるが、そこからヴ ァイキングは北アメリカ(ヴィンランド)に進出していた。そこは、ヴァイキングのリーダー・カール セファリの指示で、[1020年ごろ]少なくとも男女二人のスコットランド人が上陸したところであ る。それらの船に乗っていた人々は最終的にはアイルランドで遭難している。 そのころまでに、イングランドでは交易は名誉ある仕事になりつつあった。それは、アセルス タン王(895-940、在位924-939)[アルフレッド大王の孫、統一イングランド王]がかれの積み荷 を運ぶ、かれの船も加わった遠洋航海を、商人あるいは航海者が3回完遂すれば、直ちに thane(大郷士)という位階とそれに結び付いたすべての特権を授けていたことにも示される。 それより半世紀以上前、最初のノルマンディ大公となったダブリン王シトリック三世は、ルー アンで貨幣を鋳造したとき、アングロ・サクソンの貨幣をモデルにしていた。 ヴァイキングとサクソン人とは交易について重要な取り決めを行っている。991年、オーラフ・ト リュグヴァソン[ノルウェー王、在位995-1040]とエセルレッド短慮王[二世、ウッセックス王、在 位978-1016、デーン人に敗れ、ルーアンに逃げる]とのあいだで条約が結ばれる。それによれ ば、オーラフは部下がイングランドの港にいるアングロ・サクソン船や外国船、そして外国の港 に入っているイングランド船に危害を加えることはないと約束している。 ◆10世紀の積荷、寄港地◆ 10世紀末、巡礼者たちはサンチャゴ・デ・コンポステラだけではなく、聖地パレスチナまで航海 するようになった。干しタラなど干し魚がアイスランドから輸入され、穀物がポーランドから低地 帯諸国に海上輸送されるようになった。フランダースの商人はロンドンで羊毛を買付け、他方 ラインランド[ドイツのライン川以西地方]の石うすを持ち込んでいた。イギリスのスズや、銅、鉛 がドイツにはけるようになっていったし、イングランドの純正の服地がドナウ川[源流部に近い] のレーゲンスブルグにまで届いていた。サクソン商人居留地が、デンマーク・ヴァイキングの町 の一つであったヘゼビュー[ドイツ・シュレヴィヒ近郊、旧デンマーク領]に設立され、また他のイ ングランド商人がイタリアのパビア[ミラノ近郊]で特典を取得していた。そこで絹、香辛料などの 東方の贅沢品を購入していた。経済的には、北西の地域はイギリスやドイツから入ってくる銀 貨によって結び付きがあり、また人口のほとんどが町に住むようになりつつあった。 そうした交易センターとしてのロンドン、ダブリン、ケルン、ヘゼビュー、そしてノブゴロド[ロシ ア西部、セント・ペテスブルグより内陸]は、すでに中世後期の市のようになっていた。こうした 発達は改良がなかったので起こりえないはずであったが、それを可能にしたのは初期中世に おける最も複雑な道具としての船であった。 こうした活動の規模はローマ時代より大きかったとは決していえない。前54年、シーザーは 500隻20,000人でもって、ブリテンを征服した。1005年、その人口はシーザー時代の40万人か ら約100万人に増えただけだと考えられている。また、イングランドは310ほどの地域[ヴァイキ ングの船区]に分かれ、それぞれの地域は60本のオールとその人数分が乗る船を建造、維持 する費用を出せる規模となっていた。 したがって、理論的に海上防衛力を保つためには、18,000人といった多数の人々を召集しな ければならなかった。それはともかく、数年後、カヌート[994?-1035、デンマーク人、ブリテン王 (在位1018-35)・デンマーク王・ノルウェー王]は10,000人弱の人々を配乗した、わずか240隻で もって他国を征服している。これらの数字は非常に確かである。すでに、サクソン人は四半世 紀前からデンマークの侵略者に24万ポンドを支払ってきたため、経済的に弱体化していた。こ れらの事実から解るように、交易がそれほど大きな規模であったとはいえない。 征服王ウィリアムとその後継者のもとで、イングランドは経済停滞期に入っていった。イギリ スの交易船は征服される相当以前からあったが、その伸びは弱くなってきた。そうした商業を 維持、拡大しうる機会を、ドイツ人やフリースランド人、フランダース人といった商人たちは見逃 さなかった。かれらの商業はハンザ同盟のもとで最盛期を迎える。 ノルマン人の[1066年のイングランド]征服物語が縫い込まれた、[フランス北部の]バイユーの タペストリに描かれている船[その一部は、このホームページ掲載の『帆船の社会史』の目次ペ ージ参考]は、一本マスト、船首尾同形、クリンカー建造で、長さ79フィート、幅16.8フィート、船中央 部の深さ6.8フィートであった、9世紀のゴクスタッドの船とは少し違っている。タペストリの船は、そ れより深さがあり、船首尾の直立あるいは傾斜しているスロープが強調されている。そうした違 いは刺繍婦の腕の悪さに原因があるとみられる。このタペストリは、現在、征服後10年以内に イングランド人の平信徒の女性が刺繍したと信じられているが、その時代の最も進んだ船を再 現しているわけではない。 権威者の言葉によれば、サクソン人の船は「全体として、最上部の外板のラインにはオール の穴が開いているが、船首から船尾にかけて繋がっているノルマン人の船とは違い連続する ことなく、マストのある船中央部で途切れており、オールの穴のない船がかなり見られる」。そう したことからいって、刺繍婦に指示しまたはタペストリをデザインした人物−多分、征服王ウィリ アムと争っていた、異母兄弟の司教のオド[1036?-97、ケント伯]−は、その船がサクソン人の 船とは違っていることを知っていたはずである。 サクソン人の船は征服される前にキールをすえ、数本のオールでもって動き、かつノルマン のロングシップ以上にセールに依存する船になっていた。また、アングロ・サクソンの叙事詩に 書かれている「出入り口」を持っていたとみられる。そして、それらは商人から徴発され、ハロ ルド[二世、1022?-1066、ウィリアムに討ち取られたサクソン朝最後の王]を乗せ、フランスに旅 した船であることに間違いない。
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