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(1100-1400)
―主な内容とその特色― 
 この章(34-53ページ)は、ノルマン・コンクェスト以後、イングランドはフランス大貴族の属領になるが、封建国家としての体裁が整えられ、12,13世紀、人口が倍増すほどに成長を見せる。国王と封建諸侯とは、外征費用をめぐって紛争を繰り返すなかで、王権は制約され、有力諸侯が伸張し、内乱が起きる。14世紀半ば、毛織物生産地のフランドルの領有をめぐり百年戦争が始まり、またペストの猛威が振るい、社会の変動が始まる時期にあたる。 まず、12世紀、羊毛がイギリスの生命線として輸出されていく。それに毛織物が続く。従来からのスズ以外に、石炭などが輸出されるようになる。それらが、当時の輸出品目のほぼすべてである。それに対して、輸入品目の多いことが示される。なお、イギリスは辺境の後発国の地位に甘んじていたのである。
  それらイギリスの交易を牛耳っていたのはイタリア人商人であり、ついでハンザ同盟のドイツ人商人たちであった。13世紀、正当な職業として認められたイギリス人商人たちも、自国の交易に参入するようになり、14世紀にはステイプルという組織を作って羊毛の輸出を管理するまでになる。そして、この時代における帆船の型や船尾舵などについて、要領のよいまとめがある。
  イングランドの国王は自前の海軍を保有せず、11世紀以降、イギリス海峡のシンク港に艦隊を提供させ、14世紀には商船を利用するようになる。主要な輸入商品であるワインの輸送について、オレロン海法が規制力を持つようになる。それを敷衍するかのように、イングランドの国王は海商について様々な規制を行なうようになる。こうして、イギリスの海事力が次第に育成されてきたことが示されるが、実力は伴っていなかったといえる。
  この時代となると、航海や取引、商人や船長、船員の様子を具体的に知らせてくれる、巡礼歌や俗謡が残されるようになり、それらを扱った小説が現れる。そのうち、チョーサーの『カンタベリー物語』が引用される。
  最後に、この時代における船員の賃金やカーゴスペースの記録が紹介される。そして、図誌、磁石、砂時計、航海書などの、航海用具が使用されだしたことを解説する。それにつけても、日本などに比べれば、すでにこの時期に海事国として離陸しているかに見え、それを示すかのような史料が豊富に残されていることは、脅威というほかはない。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆イギリスの生命線=羊毛◆
 12世紀のイギリスは19世紀のオーストラリアと共通するものがある。それぞれの国において
 羊毛が「国富の半分」であり、海外での稼ぎの全部であったとされる。ヘンリー一世(1068-
 1135、在位1100-35)の治世のもとで羊毛の交易は盛んになり、イギリスとアイルランドの各地
 からフランダース[ベルギー西部からフランス北端まで地域]に輸出されていった。12世紀末に
 なると、純正なイギリスの羊毛は、ヨーロッパのどの地域のものよりも高値で取引されるように
 なったし、イーペルやガン[=ゲント、いずれもベルギー西部]といった町で成長しつつあった毛織
 物業にとってなくてはならないものとなった。
  13世紀になると、イギリスの羊毛は[イタリア中部の]フローレンス地方の毛織物業者にとって
 も重要なものとなった。その世紀末には、364ポンド入りの大袋25,000袋が、毎年輸出されるよ
 うになった。その最大の輸出港はボストン[リンカンシャー州]であり、それにロンドン、ハル[ハ
 ンバーサイド州]、サザンプトン[ハンプシャー州]、リン(ヘンリー八世[1491-1547、在位1509-47]
 以後は、キングス・リン、ノーフォーク州)、ニューカッスル・アポン・タイン[タイン・アンド・ウェア
 州]、イプスウィッチ[サフォーク州]、サンドウィッチ[ケント州]がつづいた1。14世紀の前半、1349
 年ペストが襲ってくるまで、何年間もブームがあったが、百年戦争(1337-1453)が始まると、そ
 の最初の数年間で原羊毛の輸出量は年間35-44,000袋に減少した。それは1,000万頭の羊か
 ら刈り取った量に当たる。14世紀最後の30年間の輸出は、その数量のおよそ半分まで減少し
 た。
  [イングランドの毛織物も評判は高かったらしく、たとえばロビン・フッドのリンカン・グリン[12世
 紀後半の伝説の英雄で知られるシャーウッドの森の猟師が着た緑色の毛織物]は、1265年ご
 ろベネチアでは最も高価な毛織物の一つとして、港湾使用料のタリフに記載されていた。ま
 た、14世紀までに、毛織物はさまざまな産地の銘柄ものにも需要が出るようになったという]。
  イングランドの毛織物の生産と輸出は、ペストの流行前に、すでに盛んになっていた。それが
 治まると輸出は再び増加しはじめ、14世紀末までに長さ24ヤード[1ヤード= 91センチ]、幅1.5-2ヤード
 のブロード・クロス[広幅黒ラシャ]が毎年約40,000反輸出されるまでになった。その服地は、4.5
 ヤードで、大袋一杯分の羊毛を必要としたので、この40,000反は9,000袋以上の羊毛を輸出した
 に等しい。それに加え、15,000袋が輸出され続けていたし、それはいろいろな服地に使える有
 用な羊毛であった。羊毛が毛織物として輸出されるようになっても、羊毛の輸出量は収縮しな
 かった。羊毛と毛織物の輸出総量は、人口増加に比べそれほど減少しなかったし、それらの
 合計価額はそれ以前に比べむしろ高くなっていった。
◆スズ・鉛・石炭の輸出◆
 羊毛、そして交易が伸びつつあった毛織物以外に、イングランドは従来通りスズを輸出し、さ
 らにそれを精製してロッドやブロックとして売り、その後イングランド特産品となる、白ろう製[ス
 ズと鉛の合金]の船も作るようになった。スズはわずかであったが、イタリアの船ではるか小ア
 ジア[黒海と地中海のあいだの地域]まで運ばれていた。1380-1年、ジェノバとカタルニア[スペ
 イン北東部]の商人たちが合計350,000ポンドのスズを船積みしていた。しかし、14世紀なると、
 その年間の輸出額が10,000ポンドを超えることはなくなったようである。コーンウォル州のフォイ
 はスズ交易に重要な役割を果たしており、エドワード三世(1312-77、在位1327-77)の治世にあ
 ってはロンドンよりも国王の艦隊に勤務する船員で賑わったといわれている。鉛もまたイングラ
 ンド各地で産出しており、そのいくらかが輸出され、外国の城や修道院の屋根やトイになってい
 た。例えば、荷馬車100台分の鉛がニューカッスル・オン・タインからルアーン[フランス北西部]
 に向け、クレールボー[フランス・アルザス地方]の修道院の屋根ふき用として船積みされ、また
 荷馬車241台分が同じ目的でヨーク[ヨークシャー州]から積み出されていた。
  12世紀末から、イングランドやスコットランドの炭坑が開発され、タイン川[タイン・アンド・ウェ
 ア州]からの輸出はエドワード三世の治世中、急増した。海上輸送炭の小道がロンドン[セント・
 ポール大聖堂前]のラドゲイト・サークル近くで見つかっているが、それは1253年に設けられた
 もので、石炭は多分、フリート川[現在のファリンドン・ロードにあった]の埠頭の小道の根元に
 陸揚げされていたとみられる。しかし、この新しい燃料は、イングランド人よりも外国人が好ん
 で使っていた。……1377年には、40隻以上の船がタインサイドの石炭貿易に従事し、年間約7,
 000トンの石炭を低地帯諸国に輸出していた。
◆ワイン・染料の輸入◆
 輸入にあっては、ワインが大宗であった。イングランドのワインはフランス・ワインの洪水に対
 抗できなかった。フランス・ワインは12世紀半ばから少し裕福になったイングランドに輸入され
 続けた。14世紀の最初の3年間におけるイングランドの輸入量は、ボルドーの輸出総量の4分
 の1ぐらいであったとみられ、年間約20,000トンと推定される。それは4,000万本のワインに等し
 い。この輸入量は、400万人の人口にとって、男性が1日に1-2本飲める量に相当する。1337
 年、百年戦争が始まると、ワインの値段は上がり、ボルドーからの輸入は落ち込んだが、その
 代替品としてスペインものの輸入が増加するようになった。
  次いで、イングランドの輸入で重要なものは羊毛業が必要とする原材料であった。それはま
 ず染料であり、そして染料を固定する物質[媒染剤]−ミュウバンと木灰である。……細葉大青
 は[フランス北部の]アミアン道やソンム川の周辺、さらにそれらの南部地域から、ピカルディー
 地方を経由して渡来していた。……ブラジルという[スオウの木から採られ]、皮を染めるのに多
 く用いられる安い赤色染料は、東方から渡来したと信じられていた。輸入品のサフランから黄
 色染料が作られた。ミョウバンは、深紅の染料の唯一の媒染剤として使われているが、スミル
 ナ湾[現在のトルコ・イズミル湾]や黒海から渡来した。他方、木灰はバルト海から輸入してい
 た。
  塩はチェスター近くのナンウィッチ、イングランドの東海岸、その他で生産されていたにもかか
 わらず、中世イングランドにあって塩は重要な輸入品となっており、ナント近郊のブールヌフ湾
 から渡来した。きたスペインから鉄が渡来していたが、14世紀以降になるとスウェーデンの鉄
 が取って代わり、増加していく。また、イベリア半島から水銀、オリーブ・オイル、セッケン、ワッ
 クス、高級皮革、イチジク、レーズン、アーモンド、カンゾウ[=甘草、豆科の植物]、砂糖、米、そ
 して時々、オレンジやレモン−この2つは大変な贅沢品であった−が渡来していた。中世にお
 いて果物はイタリアからも来ていたが、イタリアの商人はシルク、綾錦、ギリシャの小粒干しブド
 ウ、レバント[東地中海地域]の甘口ワイン、そして東方の珍品−コショウ、シナモン、グローブ、
 ジンジャー、その他香辛料、ルビー、エメラルド、象牙、そして白檀、貴重な染料、コットンとモ
 スリン−といった贅沢な品々を持ち込み、売ろうとしていた。そうした交易にイングランド人はい
 まだ参入できないでいた。
  ボードや樽材にも加工されるバルト海の木材は、中世の建築に極めて広く使われた素材で
 あった。ノルウェーやバルト海から、マスト、スパー、そしてオール、木灰、タールとピッチといっ
 た森林製品が渡来していた。キャンドル用のワックス、魚や鯨のオイル、そして黒テン、テン、
 アーミン[北国の小イタチ]の高価な毛皮は、北方からの輸入品であった。これら商品のほとん
 どはロンドンなど東海岸の港に持ち込まれた。
  ドイツやフランスに母港を持つの11隻の船が、1293年嵐にあって、スカーバラ[ノース・ヨーク
 シャー州]に吹き寄せられたが、その積み荷のなかに、ボード20,060枚、ピッチ992バレル[36ガ
 ロン、1ガロン=4.5リットル]、木灰61樽、バター45バレル、アザラシの脂肪とオイル22ラスト[重量
 の単位、通例4,000ポンド]、樽に入ったニシン23ラスト、雄牛や馬、山羊、アザラシ、小牛、羊の
 生皮や皮52ラストと19ディカー、野ウサギの皮500枚、ポペルとスタデリン(毛皮の種類)15.5束、
 干し魚あるいは干しタラ2,800本、ワックス1個、弓状の樽板300枚、そして若いオオタカ4羽が積
 まれていた11。最後の生皮は20ディカー、1ディカーは10枚の生皮に換算される。こうした商品
 は羊毛や毛織物、小麦と交換されていた。
◆ハンザ同盟、ロンドンに大商館◆
 [イングランドの人口は12、13世紀、急激に増加し、ノルマン人の征服時100万人、1349年の
 ペスト直前には400万人となったが、その後、激しく減少し、14世紀末には約230万人となった]
  11世紀初め、通称ビリングスゲイト[ロンドン・ブリッジのたもとにあったシティのゲイト]の通行
 税がイングランドの最初の財源として取られるようになった。それはいくつかのグループの外国
 人を確認するために設けられた。その対象となったグループは北フランス、低地帯諸国、ライ
 ンランド[ドイツのライン川以西の地方]の人々であった。フリースランド人やヴァイキングははず
 されていた。ケルン[ドイツ西部]の商人は、1000年、ロンドンに倉庫を設置しようとしていた。
 1157年、ヘンリー二世[1133-89、在位1154-89]は、ロンドンに「商館」あるいは「コントール」[ハ
 ンザの大商館をいう]を設置することを許可した。
  その後、ドイツ商人たちは−1241年ごろから−ハンザ同盟に加盟するようになった。それは
 リュベック、ブレーメン、ハンブルグ[ドイツ北部]を含む、多数のドイツ都市の商人たちの組合
 であった。ハンザはバルト海など利益の大きいニシン漁業を掌握してきたが、13世紀にはバル
 ト海とスカンジナヴィアとの交易をほぼ完全に統制するようになった。ロンドンのコントールはハ
 ンザの四大コントールの一つであった。それ以外は、ブリュージュ[ベルギー北部]、ベルゲン[ノ
 ルウェー南西部]、ノブゴロドであった。この同盟は海運システムを開発したが、それはローマ
 人同様、複雑なシステムであった。
  13世紀初め、何人かの聖職者が商人という職業は、必要かつ正当な職業の一つであると承
 認した。14世紀初め、イングランドの商人と商船が、北東海岸からバルト海にかけて、ハンザ
 商人と同一条件でもって競争するようになった。オランダからも競争が仕掛けられた。かれら
 はバルト海における利益の大きいブリュージュ向けの穀物交易のシェアを狙っていた。当時の
 輸送コストは穀物の価格のおよそ半分であった。ドイツ人がオランダ人を、デンマークのバルト
 海岸のニシン漁業のなわばりから排除しようとしたところ、デンマーク人は北海において資源を
 ますます拡大するようになり、さらに14世紀末にはニシンの新しい樽詰めや酢づけの技法を開
 発するまでになった。その魚はとるやいなや、はらわたをかき出し、塩引きし、頭と尾を交互に
 して、樽に重ね詰めしていた。塩をあいだに入れて、重ね詰めされ、一杯になった樽はしっかり
 とシールされていた。北海のニシンはバルト海ものより劣っていたが、大量であったので、広く
 売ることができた。
◆イングランド商人の台頭◆
 地中海の船員は西方の海に近付こうとはしなかったし、イギリスの東海岸に冒険しようとした
 けはいもない。それにもかかわらず、イタリアの商人は13世紀初めからロンドンに住んでいた。
 しかし、地中海から北西ヨーロッパへの直航ルートを開き、ミョウバンをイングランドの羊毛と
 交換したのは、1270年代のジェノバのカラックcarrackであった。ベネチアが最初に組織した北
 西ヨーロッパへのガレーの航海は1314年であったが、1319年サザンプトンへの航海に失敗し
 たこと以前に、かれらが来たという痕跡は見当たらない。また、1270年より前に、フリースランド
 の商人は大量のイングランドの羊毛を取り扱っていた。
  1275年になると、イングランド人が羊毛交易の3分の1、イタリア人が4分の1、そしてドイツ人
 とフランス人がその残りを取り扱っていた。1270年代、少なくとも327人のイングランド人が羊毛
 輸出の許可状を持っていたし、14世紀までにイングランド商人はこの国のほとんどの羊毛輸出
 を取り扱う力量を備えるまでになった。バルト海に冒険したのと同じように、イングランドの商船
 はこの時期までに、ガスコーニュのワイン交易については優勢な地位を獲得していたが、イベ
 リアとの交易においてはまだまだ弱小の地位にあった。
  交換が起きる1つの要素は、施政者に十分な歳入がないことにあった。その有力な財源は交
 易であった。ビリングスゲイトの通行税には、多くの物品が課税対象として記載されていた。
 1203年、[毛織物を多く輸出したいがため]羊毛の輸出について関税が導入された。その年、ロ
 ンドンで約836ポンド、ボストンで780ポンド、サザンプトンで712ポンドが徴収された20。1275年に
 は、この関税は従前の半額、すなわち大袋当たり6シリング8ペンスに設定された。1303年、いまや
 「旧税」となった1275年税とは別に、[イギリス人を有利にするため]「新税」として羊毛を輸出す
 る外国人の納める関税は10シリングに引き上げられた。そして、1347年には差別関税をイングラ
 ンド毛織物の輸出に課税しようとしたが、ハンザ商人たちはそれを納税しようとはしなかった。
  14世紀の最初の40年間、ステイプルstapleが設立された。それは、それを通じてしか未処理
 の羊毛は輸出させないとした固定ポイント、そして交易を支配しようとしたイングランド商人の
 組合[羊毛輸出商組合]でもあった。ロンドンが主要な羊毛の輸出港、またカレー[フランス北部]
 がステイプル都市となった。その他のところでも、ステイプルが設立されたが、時間がかかっ
 た。
  毛織物と羊毛の関税をみるとき、毛織物の価格に比べ、その関税は厳しいものではなかっ
 た。そうしたことで、イングランドの毛織物輸出はさらに押し上げられる結果となった。しかし、
 羊毛輸出のほとんどはイングランド人の手で行なわれるようになったが、毛織物輸出はそうは
 ならなかった。外国交易人に対する周期的な攻勢にもかかわらず、ドイツ人やイタリア人は増
 加しつつある毛織物の輸出港に立派な住居を構えていたし、また外国人による交易は、中世
 の残る期間も、イングランドの海外交易において相当な比率を占め続け、14世紀初めよりも高
 くなる場合もみられた。
◆ハルク、コグ、キール、クノール◆
 大量な貨物−羊毛、ワイン、穀物、そして魚−の輸送需要に直面して、北ヨーロッパの造船
 業はそれに見合った船を建造していった。1000年から1250年にかけて、船は次第に長く、深く
 なり、輸送能力は5倍となった。1250年、北方の船は地中海のものより改善されたが、北方の
 経済は停滞していた。
  良く知られているように、すでに6世紀より前から、いろいろな違いがある船がみられた。ま
 た、10世紀になるとハルクhulk、コグ、キールkeel[タイン川の平底船]、そしてクノールが、北方
 の海域において貨物輸送する重要な船の種別であった。それぞれの船の起源について、専門
 家の見解は一致していないし、全く異なった船に発展しているにかかわらず、同じ名称が長年
 にわたって用いられ続けた。中世における船の発達について、すっきりした記述をものにする
 ことは困難である。
  ヴァイキングの貨物船であるクノールがアメリカで発掘されているが、それはバスbuss[平底
 帆船]に改造されているという人がいる。他の人は、コグがスカンジナヴィアの船の原型だと信
 じてやまない。コグは、10世紀あるいはそれ以前から、小型平底の沿岸航行船として利用され
 てきたが、ライン地方以外のドイツにおいて改良され、1400年ごろトン数200トン以上、長さ90フィ
 ート以上、ビーム幅30フィート以上になった。それをハンザ商人が使うようになるが、かれらの水夫
 は13世紀半ばまで、バルト海の入り口を過ぎなければ、コグにセールをかけようとはしなかっ
 た。そうしたことからみても、コグはクノールを原型にしていたといえる。
14世紀の一本マストのコグ

 コグはキールあるいは簡易キールのどちらも持っておらず、船首材、船尾材はそれがまっす
 ぐか曲がっているかに関わりなく、鋭く一直線に立ち上がっており、乾舷が高い船となってい
 た。船底の板は一枚板かつなぎ板かであり、急傾斜の外板は船底湾曲部からクリンカー建造
 となっていた13世紀、船首にバウスプリット[斜檣]あるいはスパーが現れ、その下に小さい四
 角のセールがかけられ、船が風上に向けて動くのを助けるようになった。船楼あるいは「カッス
 ル」が、船の前後に、防戦の目的で付けられ、またマストには檣楼が付け加わった。船尾に
 は、ウィンドラス[巻き上げ機]がセールを揚げたり、アンカーをたぐるのに用いられるようになっ
 た。このコグ系統の船は、150年間も、北方の、なかでもバルト海からの貨物輸送において、優
 勢を極めた。
  丸型船底のハルクが、14世紀一杯、コグ同様、大型になっていったが、1380年以後、ある権
 威者によれば、造船業はコグとハルクを組み合わせたデザインに生み出し、コストを切り詰め
 るようになったという。14世紀末、すべての大型船はコグに近いものになったに違いない。この
 合成船は、フレームを皮や外板を張ってから差し込むという、船殻建造であった。この建造方
 法では、船のサイズに限度があった。
◆船尾舵、バージ、トン数◆
 12世紀から13世紀にかけて、船尾舵が採用されるようになった。その初期の船はすべて1本
 または数本の船尾オールであったが、1本オールが次第に当たり前になっていた。右舷側
 starboardという言葉は、'steering board'[操舵板]が語源となっているが、いつも右舷に船尾オ
 ールが縛られていたわけではない。ウィンチェスター大聖堂[ハンプシャー州]の正面にある彫
 刻は1180年ごろのものと判定され、船尾舵を持った初期の船の例として取り扱われてきた。し
 かし、その彫刻は通常より船尾に置かれた、船尾オールを再現したものという指摘もある。
  そうだとしても、1200年にまで遡れるイプスウィッチの印章については、船尾舵の軸がはっき
 り示されており、議論の余地はない。船尾舵を持った船は操舵手の要求と一致していた。船側
 舵は、水がなくなれば引き上げることが出来るが、船が傾斜すれば使えなくなった。セールの
 面積も広がり、キャンバスにリーフ・ポイント[縮帆索]を神経のように結び付け、またセールの
 下部にボンネットと呼ばれた追加布を着脱するようになった。
  他の新しいアイデアをも含め、船尾舵が一般に普及するのには時間がかかった。13世紀以
 降の文献をみれば、商船には異なったタイプの操舵具があり、また船尾舵を持った船は割高
 の港湾使用税を支払わされていた−例えば、リンカンシャー州のトークシーでは、他の船の2
 倍であったことが解る。ロンドンやイプスウィッチで支払われた関税から、船がいくつかのクラ
 スに分けられており、その最大のクラスは「スカルター」を持つもので、その用語にはいろいろ
 な綴りがあるが、少なとも常設型式としてのシェルターあるいはキャビンといった設備を持つ船
 を意味していた。
  その他広く使われていた船として、バリンジャーbalingerやバージbargeも含まれるが、それら
 用語はアングロ-カスティリアン[イングランド-カステリア]交易に携わる[フランス語やイタリア語
 の船]「ヌフnef」あるいは「ネイブnave」という用語と結び付けて用いられた。バリンジャーはバー
 ジよりも通常、小型で、おおむね40トンから60トンまでであり、16トンという小型もあった。バージは
 ほとんどが100トン以下であったが、200トン以上のものもあった。
  13世紀末、船のサイズとしてトン数は、その算定の方法が混乱していたものの、広く使われ
 るようになった。それは運ぶワイン樽の数やワインのトン数で示めそうとしたものであった。そ
 のトン数は当初20ツルーハンドレッド−そして20ハンドレッドウエイト−遂に2,000ポンドとなった。それは、
 液体の1立方フィートの重量を基礎にした計り方で、ワインのトン数を表現したものである。1,000
 オンスまたは62.5ポンドである8ワインブッシェルは1ホグスヘッドまたは1/4トンであり、したがって4ホグスヘッ
 ドまたは32ワインブッシェルは1トンとなる。252ガロンというワインのトン数には、40立方フィートという目減
 り量が含まれている。それがドライ・カーゴのトン数となるが、その1単位は小麦4クォーターが
 占める容積が近似値として2,000ポンドとなる。
  1300年、積トン240トン以上、乗組員30人といった大型船もあったが(積トンは現代の純トンにほ
 ぼ等しい)、それは例外に属していた。平均的なイングランドの商船は100積トン以下であった。
 闘う砦でもあった船首楼は大型船のみに付けられていた。小型船の船首には何も付けず建造
 されたが、船尾楼はキャビンという設備を設けるようになったため大きくなっていった。そのころ
 までに、船中央に、船付きボートを積むようになった。
◆王立艦隊の設立、民間船の徴用◆
 11世紀、エドワード懺悔王[かれの跡目争いとして、ノルマン・コンクェストが起きる]は自ら艦
 隊を維持するのではなく、[イギリス]海峡の特定港が必要なときに所定数の船を用意すること
 を義務づけ、その見返りとして特権を与えるという方法で同様な効果をえようと考えた。それら
 の港−シンク港Cinque Portsと呼ばれたサンドウィッチ、ドーバー、ハイズ、ロムニー[現在、ニ
 ュー・ロムニー]そしてヘイスティング[以上5港が、最初のシンク港]、ウィンチェルシー、そしてラ
 イ[、さらにシーフォード]−[ケント州またはイーストサセックス州]は、13世紀中、絶頂に達した。
 それらの港は、自らの費用で、国王に、成人21人、少年1人が乗り組む157隻を、それぞれ年
 間15日を提供することになっていた。1244年には、最初の幾つかの船員病院がサンドウィッチ
 に設置された。
13世紀のシンク港の船

 しかし、海路保持を契約のなかに入れたため、すぐさま防衛の目的も果たせないことが解っ
 た。ノルマン人の征服後、シンク港が供給できる以上の大船隊を要求された最初の事件は、
 1189年のリチャード一世の十字軍遠征であった。その艦隊は100隻以上となり、船はイングラ
 ンド、[フランスの]ノルマンディーやポァトゥー地方のすべての港で買船あるいは用船されたも
 のであった。次の世紀になると、国王は何隻かのガレーを所有するようになり、そのほとんど
 が商船としても使えるように幅広となっていたし、さらにその後半になると機会さえあれば、すぐ
 に船を用船に出せるようになった。例えば、1232年ジョン・ブランコビリーは王室船クイーン号
 の使用に対して、国王に年間50マルク[ドイツの貨幣単位]を支払い、その船を良好な状態に保
 つことを条件として、かれが望むところに出掛けて交易していたという。1297年、エドワード一世
 [1239-1307、在位1272-1307]は艦隊を305隻に引き上げた。その要員は5,800人であった。
  14世紀半ばまでに、ほとんどのシンク港が沈泥で埋まってしまったので、国王は自分の船を
 40隻あるいは50隻を、ロンドン・タワーからそれほど遠くない、ロザーハイズ[テムズ川南岸]や
 ラトクリフ[同北岸]に保持するようになった。しかし、それでもって海上での作戦あるいは中隊
 の移動に当たって決して十分ではなく、イングランド人船員の強制徴発impressmentや外国人
 の雇用は避けられなかった。1347年、百年戦争に入って10年目、エドワード三世はエドワード
 一世時代の2倍に及ぶ738隻と、約15,000人を徴用した。百年戦争期間中、商船が海軍の中核
 となったが、船員徴発、商船の自由航行の禁止、そして不十分な補償は、すべて通常の交易
 や利益を破壊するものであった。そこで不満がいつも聞かれた。
◆オレロンの判例と船員◆
 そのころまでに、いくつかの命令が海事事件に関わって発令されるようになる。1154年から
 1453年にかけて、ガスコーニュ地方のブドウ園やボルドー地方の港はイングランド人の手に落
 ち、ボルドーのワインは、13世紀、急激に増加した、最たる交易品となった。その交易は、オレ
 ロン島で下される裁定によって、規制されていた。このオレロンはジャージー島と同じくらいの
 島であり、フランス海岸から1-2マイル、ラロシェルの真西にあった。そこに海事法廷が設置され
 ていたといわれ、海事法の骨格が次第に形作られ、北方海域にも受け入れられていった。
  オレロンの裁判は船員を重要視してきた。船長と乗組員とは同席して食事し、全く同一の地
 位にあった。また、船長は出帆するかどうかを、聖ポールの日[コンスタンティヌスのポール、?-
 351、6月9日]であっても、その前に乗組員にはかる必要があった。大方の支持がえられない
 のに出帆し、嵐で船を喪失させれば、船長の責任となった。多数の乗組員が言い争いになっ
 た場合、船長はその案件を自由投票に掛けなければならなかった。その決定に従わないで、
 損失や損害が起きれば、船長に責任があった。嵐となり、貨物や道具の一部を放棄しなけれ
 ばならなくなった場合、そのやり方について少なくとも乗組員の3分の1の賛成をうる必要があっ
 た。
  遭難しそうになった場合、船員は救助仕事を行なうよう要求されていたが、その見返りとして
 謝礼と帰国運賃をもらう権利があった。船長は、必要があれば、救助した物品を担保にして、
 船員に支払う現金を多くすることが出来た。船長は、入港すると、商人にワインの樽やその他
 貨物の陸揚げに使う、ロープや道具を示さなければならなかった。それを怠り、ロープの切断
 によって損害が出れば、船長は責任を問われた。
  そのほかにも、様々な判例があった。それは、船員が特別の交易を申し渡された場合の臨
 時収入から、船を乗り揚げた際、それに対する賠償力ないと見られる水先人の解雇権にまで
 またがっている。こうした海事コードはオレロンにおいて最初に採用され、それが北方海域に
 おいて逐次、修正され、その後世界に受け入れられるようになったといえる。オレロンの判例
 は、12世紀、リチャード獅子心王によって編纂されたとみられる。14世紀、イングランドで受け
 入れられるようになり、またドイツやオランダ、フランダースの多くの港で適用されるコードとな
 った。
  こうした判例からみて、中世という時代の海上生活は不確実そのものであったといって、決し
 て過言ではない。13世紀、すべての船の船長は敵国人に被害を加えるよう言いつけられてい
 た。そこから私掠privateeringが生まれた。その世紀末には、レター・オブ・マーク letters of
 marque[私掠許可状]が発行されるようになった。この書面は海上で損害を被ったことがあれ
 ば、いかなる集団であっても報復することを認めるものであった。私掠と海賊との区別は簡単
 なものであった。例をとれば、ヘンリー三世[1207-1272、在位1216-72]は敵味方の船員を30
 人、無差別に絞首刑にしたかどうかで見分けていた。また、いつかの野蛮な処罰がオレロンの
 裁判で実行されている。それらは、遭難時に何もしなかったとか、乗組員の殺人とかに関かわ
 るものであったが、そうした犯罪の防止にほとんど役立たなかった。
  国際関係もまた不確実であった。エドワード三世が定めたスペインからフランダースへ航行
 する外国商船の「無害航行」の規定は、イングランド人船員による拿捕を禁止していなかった
 ばかりか、拿捕船のイングランドの港への連行についても禁止していなかった。一時代後の
 1379年、ポルトガル船がイングランドで捕獲・拘留され、ブリストルでポルトガル人の身元照会
 が行なわれた。ブリストルの当局は、かれらはリスボンで商売している多国籍市民であり、過
 去2年間、ブリストルで交易相手として取り扱われていたという記録のある人々と回答してい
 る。
  商人たちは、自衛措置として、仲間の一人をその航海の指揮者に選び、船団で航海するシ
 ステムを採用するようになった。トラブルが起きそうな場合、船に衛兵を乗せた。ワイン船団は
 そうしやり方で出帆していたが、それ以外の目的地に向かう船団でもみられた。13世紀のコグ
 は戦闘目的に適しており、14世紀末まで唯一の軍艦として使われていた。いったん、政府が海
 運に規制を加えるようになると、いやをなく造船についても関心を持たざるをえなくなる。まず、
 巡礼者や貨物についての積載制限を決めたことを手始めに、船の大きさの測定に関する規則
 を開発する。1368年、エドワード三世は、ワインが外国船に積み込まれる前に、イングランドと
 ガスコーニュの船が積み終えていなければならないと布告した。1381、82年には、最初の航海
 法−強制力はなかった−が制定され、イングランド船が利用できるのに、外国船を用船するこ
 とは違法となる。
◆チョーサー時代の船員◆
 ワイン交易における戦争に影響は、1320年から1350年にかけて1トン8シリングから13シリング4ペン
 スまで、ボルドーからロンドンの運賃率が上がったことに良く示されている。14世紀初頭、すべ
 てのイングランドの港がワイン交易に直接、関わっていたが、同世紀末、イングランドの海運
 は全体として停滞するようになり、東海岸の港はそれに一層、巻き込まれた。ただ、ブリストル
 の重要度はむしろ増大していった。多くのワイン交易商人は自ら船を所有しており、その交易
 に当たっては最も大型の船−なかには200トン以上のものあった−を使用していた。
  そうした船はブリストルからプリマスなどに回航され、セント・ジェームズ・オブ・コンポステラ教
 会に向かう巡礼者を拾っていた。ケンブリッジのトリニティ・カレッジが所蔵している、この時代
 以後の歌謡[この巡礼舟歌は、C.E.フェイル著、佐々木誠治訳『世界海運業小史』、p.107-13、
 日本海運集会所、1957に若干、詳細な引用がある]は、水夫や巡礼者の様子を図解してくれ
 る。「セント・ジェームズ向けに出帆すれば、あらゆるゲームは止めよう」と歌謡作者は語るが、
 その種トラブルは海上では頻繁に起きていた。さらに続けて、サンドウィッチ、ウィンチェルシー
 やブリストルから出帆すると、かれらの多くはすぐに船酔いにかかってしまい、海の上にいるよ
 り死んだ方がましだと願うようになったという。
   そこで塩っ辛いトーストを欲しがり出す、
   煮物やあぶり物が食べられない。
   すぐに人の食べ物を買おうとする
   1日か2日かで。
  水夫たちは、この巡礼者たちの苦しみを見て楽しんでいたし、その間、かれらの食品を食べ
 ていた。船長は大工を呼び、道具を持ってきて、あちこちにキャビンや多くの小さな仕切りを作
 るよう命令している。そうするのは、わらの束が手の届くところにあるのに、巡礼者のなかには
 外套にくるまって寝たり、また好き勝手に暖を取ろうとしていたからである。「すぐに、飲食しな
 い木のようになった」、乗船者の一人が思い浮かぶ。
   ベットに入って二晩目
   枕元で吸い上げポンプが詰まる
   そこで死んだ方がましになる
   悪臭を嗅ぐよりは。
  この俗謡について、水夫にして桂冠詩人ジョン・メイスフィールド[1878-1967]は「堅牢な木造
 船にしみこんだ水は船底の汚水となって腐る。この腐った水のにおいは堪え難いが、においが
 あるのは水漏れが大事にないことを示す」と解説している。この俗謡は初期のポンプの使用を
 記録している。水の駆除に、ウィンドラス[巻き上げ具]やバッケット[汲み上げ具]が付いてい
 る、「巻き上げボール」が、早くから役に立っていたという。
  14世紀初め、ブリストルや西方海岸から来た船は、おおむねロンドンの商人に用船され、そ
 れ以前スペイン船の縄張りとなっていた地域よりさらに南方に出掛けていた。その世紀末、そ
 れらの船はイギリス海峡や大西洋ルート上にあるいくつかの国に立ち寄リ、また地中海に入っ
 て北アフリカまで冒険する、複雑な航海に従事するようになる。
  ジェフリ・チョーサー[1340?-1400、詩人]は、14世紀のイングランド海運について熟知してい
 た。かれはワイン商人の息子であり、青春時代をウォルブルーク川[現在はなく、同名の通りが
 ある]のテムズ川への合流点で過ごし、成人になると各地を広く旅行していた。かれは[1391年
 ころ]アストロラーベastrolabe[天体観測具]に関する論文を息子のために書いている。それ以
 上に重要なことは、1374年から1386年にかけて羊毛・羊皮・なめし皮の関税・代替税監督官、
 そして1382年から[ワインの]簡易関税監督官として税関で働くようになってから、ロンドン[・シテ
 ィ東端]のオルドゲイトの搭の上に住むようになったことである。
  チョーサーが描いた商人は、頭の上にフランドル製のビーバーの帽子をかぶっていた。そし
 て、イースト・アングリアと低地帯諸国間の海域の海賊は一掃されることを切望している。また、
  「船長」は西方から来たとみられるが−「わたしの知る限り、かれはダートマス出身でした」−
   ……ゴートランド島からフィニステーレ岬までの港を、
   じっさい、すべてをよく知っていましたし、
   またブルターニュやスペインの入江の一つ一つにも
   よく通じておりました。
   かれの乗っている船はマグダレン号と呼ばれていました。
   桝井迪夫訳『カンタベリー物語』上、p.36、岩波文庫、1995。
 この船長は、風雨にさらされた、辛抱強く、善良な仲間であり、自分以上に潮の干満、潮流、
 月の満欠を知っているものはいないという。かれは特にワイン交易に精通しており、用船者と
 の取引に誠に用意周到であったが−
   ボルドーからの帰り途、貿易商人が眠っている間に、
   葡萄酒を何杯も失敬したりしました。−
   同上、p.35。
  かれは海賊と交戦する準備もせず、船尾楼も作っていなかった。しかし、かれの水先案内に
 匹敵するものはいなかったと、チョーサーが強調しているように、ジブラルタル海峡から東1,000
 マイルにあるカルタゴといった南方まで、船を持って行っていた[なお、同上『カンタベリー物語』下
 には、「船長の話」があるが、上記の船長とは異なる]。
◆船員の賃金と仕事◆
 そうした働きに報いがなかったわけではない。1375年[ケント州の]「クインボロー審判記録」に
 よれば、船員はロンドンとボルドーを往復航海すると、8シリングとワイン1トンの運賃相当額を受け
 取っていた。船員は、実際にワインを運んで、手取り賃金の2倍以上を稼いでいた。アイルラン
 ド南海岸の港との往復航海については、10シリングと生皮30枚の運賃相当額を受け取ってい
 た。ニューカッスル石炭の往復航海の支払いは、4シリングと石炭2クォーター[1クォーター=28ポンド]分
 のスペースであった。スコットランド[・パース郊外]のスコーンへの片航海は8シリングと3人宛のニ
 シン1ラストの運賃相当額であった。それらは最低の賃金であった。大型船では、それに加え、
 船主は週3回の肉食、毎夜、チーズやオニオン、イワシなどの魚を刻んで味付けしたパンを支
 給する場合があった。乗組員の賃金は船でいの一番に支払われた。おおむね、船主は「持ち
 分所有者」あるいは交易事業の共同出資者である、乗組員を雇用していた。
  正味あるいは年間の支払額の価値を評価することは困難である。14世紀、国王に使われる
 と、船員は1日3ペンス支払われ、通常、1週間毎に6ペンスのボーナスが付いた。同時期、高賃金
 職人に属する石工は食事なしで1日3ペンス、また親方でも4ペンス以上は稼げなかった。この船
 員の賃金はありふれた労働者を上回っていたが、いつも同じように稼げたわけではない。1988
 年の価格で、船員は乗船6か月で約600ポンド、船長はそのおよそ倍額を稼いだことになる。
 1390年、議会に出された請願は、船員が法外な賃金を要求していると嘆いているが、ペスト流
 行後、賃金が高騰していたことは明らかである。
  1351年ヨークシャー発ロンドン向けの小麦の船積について、詳細な書類が現存している。ハ
 ルからの航海は30日かかり、「乗組員が急ぎに急ぎ、また食糧の世話を十分した」にもかかわ
 らず、乗組員の取り前は40ペンスであった。船員たちは、長距離の帆走はより日数がかかるの
 と同じように、「長期間」は「高賃率」を意味すると信じ、現代的な刺激的なボーナス付きで、一
 般水夫は1日3ペンス、船長は1日6ペンスが支払われてよいと信じていたとみられる。4隻という小
 船団のなかの2隻の乗組員は12人、他の2隻は10人であった。
  船長と航海士が航海を引き受け、事務員または事務長が帳簿をおおむね預かり、倉庫を管
 理していた。かれらに加え、掌帆長を含む少数の「船尾楼の役付船員」と、「マスト前方の平船
 員」がいた。大型船は、料理人以外に「小姓」、キャビンボーイ、召使がいた。一連の規律が、
 罰金やヤーダムから海中に落とすといった処罰を伴って実施されていた。
  船員の仕事には季節性があったが、その季節も広がっていった。ハンザの船はマルタン祭
 (11月11日)から主の奉献の祝日(2月2日)まで、出港しないことになっていた。ただ、ニシンやタ
 ラ、ビールを積んだ船は除かれていた。それは冬の市場において有利に立つためには、出帆
 の時期を遅らせる必要があったからである。
  人騒がせなスカンジナヴィアの『王の鏡』[ノルウェーの礼儀作法を述べた教訓詩]は、13世紀
 半ば父親と息子の対話という形式で書かれているが、そのなかで「海を渡り、しかも自分の船
 を動かして、商売に出掛けるためには、秋になってから船のタールを塗り、出来れば冬中、タ
 ールを保つべきである。その船が、秋に材木の塗装が出来ない状態になった場合、春になっ
 てからタールを塗り、それをすぐさま乾かすべきである。仕上がりの良い船のシェアを買うか、
 それとも一切買わないかである。自分の船の魅力は保つべきである。そうすれば、有能な人間
 が近寄って来るので、配乗[乗組員の手配]は容易となるはずである。夏が始める前に自分の
 船の準備は終え、また船内の道具類はすぐに使えるようにしておくべきである。それが出来る
 のであれば、船は晩秋まで使ってはならない」と書かれている。
◆図誌、磁石、砂時計、天測◆
 チョーサーの船長は蓄積された記憶に全面的に依存していたが、14世紀となると潮汐表と水
 路誌を、船長は大いに役に立てるようになった。これらの図誌は、異なった海域の水位、「陸地
 の形」や海底の形について、多くの情報を船長に提供していた。船長は測鉛を投げ、それに付
 けた獣脂に、引っ掛かってくるものを確かめていた。測鉛と測索は、日中はもとより霧や闇のと
 きにも大いに用いられたが、13、14世紀には航路発見の道具となった。
  自然にある鉱石−天然磁石あるいは磁鉄鉱−を原料とした鉄片から、磁力が出ることを古
 代の中国人やギリシャ人は知っていた節がある。また、アラブ人はヨーロッパ人より前に、ボー
 ルに浮かべた磁石を使っていたとされている。しかし、1200年以前に、天然磁石や人口磁石の
 コンパスが航海の目的にして使用されたいう、明白な証拠はない。イングランド人アレキサンダ
 ー・ネッカム[1157-1217、アウグスチノ大修道院長、自然科学者]は、その時代のものかきであ
 るが、水夫が磁針を使用していたと書き残している。しかし、中世、技術革新がいちはやく伝播
 したとはいえず、かなり後になるまで、コンパスが商船に普及したという証拠はほとんど見当た
 らない。
  海図を北方の船員はまだ用いていなかったが、砂時計は1295年からイングランド船の目録
 に見られるようになった。それは当直時間を定め、守るのに用いられた。中世の水夫たちは、
 出来る限り、陸が見える範囲に身を置きながら、「視認点から視認点まで」あるいは物標から
 物標まで帆走していた。
  太陽が上がるか、星が光るかすると、航海者たちは季節毎に違う太陽の正午の高さやいくつ
 かの星の位置を測って、自分のいる緯度や赤道からの距離を知るという賢明なアイデアを利
 用するようになる。13世紀、ノルマン人はサンストーンsunstone[日長石、眺める方向により、黄
 褐色や赤色の反射光を出す]を使用していた。それは曇った日であっても太陽の位置を測る装
 置であった。それより以南においては、アストロラーブが用いられた。1292-5年という早い時期
 に、イギリス人ロバートが、モンテペリエ[フランス南部]で、天体の赤道からの日々の太陽赤緯
 表を編集している。それは緯度の正確な観測に役立てられた。その後継者である中世の船員
 は、浮きやあぶくが浮かぶ様子を観察して、船のスピードを正確に観測するようになった。
  [しかし、船員がいままでのように神頼みをやめたわけではなかった]。船員は、中世イングラ
 ンド教会に飾られた聖人なかでありふれた一人である、聖ニコラオス[?-345/352、小アジアの
 大司教]を守護聖人として、とりなしを仰いでいた。嵐は、海賊や陸の難船荒らし、ライバル港
 の船員より、危険であった。その記録が真実であったとすれば、エドワード一世は若き王子時
 代、海の嵐にあって命を失いそうになり、聖母にシトー女子修道院を寄進することを約束して、
 命を保障してもらったという。
  聖母の身代わりとなっている惑星ヴィーナス(いまもってローマ・カソリック教団が船員たちを
 加護するシンボルである、よいの明星[金星]やステラ・マリス)は、災い多き海を航海するもの
 のために輝く、灯明と考えられてきた。船員たちは、お互いの幸せのために、自分たちの船だ
 けでなく、自分が陸にいるときも、灯明や燈火を捧げていた。ローマ支配時代、すでにドーバー
 港とカレー港の入り口にはいまと同じ所に灯台があった。13世紀には、ヤーマスへの入り口に
 灯台が設けられるようになり、また1328年には高さ35フィート、8面体のセント・キャサリン灯台が
 ワイト島に建設された。

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