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(1775-1815)
―主な内容とその特色― 
 この章(236-264ページ)は、題名通り、アメリカの独立戦争、ナポレオン戦争、かれが破れる1805年のトラファルガー海戦、そして1815年のワーテルローの戦いまでの戦争の時期、そしてイギリス海運として交易から分離し、国民的産業に膨張していった時期までを扱っている。それだけに内容も豊富である。 まず、それら戦争における軍事輸送、そのための商船の徴発、戦時船腹の喪失、そして船員の強制徴発が最盛期を迎えたことについてふれる。アメリカの独立は、イギリスの海運条例の効果を減退させ、アメリカ船にヨーロッパ市場を開放する。そればかりか、アメリカ船はアイルランドとの交易を深め、ニューファンドランドのタラ漁業に結びついていく。
  さらに、西インド諸島との交易はイギリス人の生活必需品となった砂糖に加え、コーヒー、そして産業革命を推進する綿工業の原料である、綿花を供給するようになる。それは三角貿易の完成である。奴隷交易はブリストルやリバプールの商人の反対にもかかわらず、1807年廃止法が議決され、その廃止に向かう。その廃止直前の奴隷交易は空前の規模となる。それはイギリスがそれまで輸送してきたすべての奴隷の3分の1に当たる。
  18世紀末になると、東インド交易において一番利益の上がる産物は、中国茶となった。東インド会社は、それに大型船を投入し、常備船に加え、臨時船、さらに域内交易専用の現地船といった大小様々な船舶を配置するようになる。イギリスとアメリカ、西インド諸島とのあいだの郵便物輸送はすでに17世紀後半から始まっていたが、18世紀末になるとより一層組織化されていった。
  18世紀末ごろ、イギリスの人口が1200万人、そのうち船員数は実に30万人(2.5パーセント)であり、6家族のうち1家族が海事関係者であったという。
  東インド会社船の船長は、船主に高額の指名料を払って船長職を手に入れていたが[陸海軍士官の買官制に同じ、1850-70年代にかけてなくなる]、その見返りとして船長は自己無賃貨物の売買による利益や、運賃総額の1パーセントの謝礼金などにより、インド成金(ネイボップ)の一員となり、一般の船長とは隔絶した地位を占めていた。その他の船員もたまには実入りがよくなることもあったが、財産を築けはしなかった。
  18世紀末における大きな構造変化は海運業界と交易業界がはっきりと区別あるいは分離するようになり、従来の特権的な商人船主以外に、多数の海運専業の船主が育ってきた。また、船長が共有船主ではなく、単なる俸給使用人(サラリーマン)になりつつあったことである。
  航海条例の改正によって、信頼性のある船腹統計、さらに入港船統計や造船統計も作成されるようになった。18世紀末、イギリス船の平均トン数は113トンにとどまっていたが、様々なセールが帆上帆に重ねられ、鉄材が使用されるようになる。この全装帆船を横目に見ながら、19世紀入ると汽船が登場し、交通革命が始まる。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆アメリカの独立、イギリス海運、衰退せず◆
  1775-83年アメリカ独立戦争が起きる。1783年には平和となるが、フランスは10年後[1795年]
 再びイギリスに戦争を宣言する。1802-03年の短期間の平和は別として、この[ナポレオン]戦
 争は1815年まで続く。スペインは1796-82年および1804-14年にかけ、また独立したアメリカも
 1775-1815年にかけ、イギリスと戦争する。このように、イギリスは戦争に巻き込まれるが、そ
 の多くは[トラファルガー海戦など]海戦であった。
  その期間におけるイギリスの当初の損失は、アメリカ大陸における最も重要な植民地を失っ
 たことであるが、その損失はイギリス海運に悲惨な目に合わせ、また交易における既存の重
 商主義理論が実際に正しかったことを証明してしまった。その一方で、アダム・スミス[1723-90、
 古典派経済学者]は、アメリカ[13州]の植民者が独立を宣言したころ[1776年]に刊行した『国富
 論』において重商主義を攻撃し、また「レッセ・フェール」あるいは政府の商業への介入の抑制
 という新理論の種をまいた。それは19世紀の経済思想となる。
  アメリカ植民地の喪失または『国富論』出版後、40年すると、イギリス海運は衰退することな
 く、その船腹は少なくとも2倍となった。1776年のトン数は608,000トンから1,125,600トンのあいだと
 推定されるが、後者の数値には前者では除かれていた沿岸船の数値が含まれているとみられ
 る。1786年の航海条例は15トン以上の船はすべて登録しなければならないと宣言しており、フラ
 ンスと交戦中の1792年の登録トン数は1,187,000トンとなっていた。それは信頼できる数値といえ
 る。1815年になると、その数値は約2,600,000トンにまで増加するが、それに比べれば、次の25
 年間の伸びは小さかった。
  しかし、アメリカ独立戦争[1775-83]は従前の植民地との交易を引き裂き、その戦争へのスペ
 インの参戦後は、地中海との交易もまた悪くなっていった。1783年から数年間は不況となっ
 た。その戦争の初期、イギリスは地理上、重大な不利を被ることとなる。イギリスは北アメリカ
 に70,000人の連隊を維持し、そのため大西洋を横断して2,000マイル以上も、それら連隊の大部
 分を輸送し、また食料、弾薬、その貯蔵品を供給しなければならなかった。1776年、27,000人
 の連隊が北アメリカに向け積み出されるが、それはユリウス・シーザーが紀元前54年にイギリ
 ス海峡を横断して送り込んだ遠征隊よりも多かった。アメリカ独立戦争中、29,000人以上のドイ
 ツ人傭兵が大西洋を横断した連隊のなかに含まれていた。
  これら戦争に関わる連隊や軍用品の移動は海運に需要をもたらした。100人の兵隊を運ぶ
 のに200トンの船が使われた。その船は、多くの奴隷を積んで4回ほど輸送していたことがあっ
 たが、兵隊をいわしのように詰め込んで運んだといわれている。かれらは、「少年たちが口に
 する『さじのように重なり合って』いた……片側が一つの側に耐えられなくなれば、右にいる男
 が『回れ右』と叫べば、縦一列が一度にひっくり返った。再び耐えられなくなれば、左にいる男
 が最初の側に寝返れば良かった」。
  西インドやインドへの連隊や軍用品の輸送に当たり、政府は商船を正規に船腹用船してい
 たが、それらは通常の業務を行っていた商船であった。それらの船が運べる復航貨物は少な
 かったし、軍用品やほとんどの軍人は帰国しなかった。海軍省は、北アメリカに連隊や軍用品
 を輸送するため、年間に約300隻を用船している。そのため、海軍本部によって輸送局は1690
 -1724年に設けられたことがあったが、1794年のフランスとの戦争中に再設置されている。1776
 -83年にかけて、年毎の輸送費用は500,000ポンドから1,000,000ポンドまでかかり、80,000トンの船
 腹が雇われ、それにより公開市場の運賃は上がった。そのほとんどがロンドンで雇われ、海軍
 省は敵の作戦で被った損害を補償すると、船主に約束していた。この約束にもかかわらず、こ
 の時期、多くの船主が破産しているが、それは海軍省が運賃率を固定したことに原因があっ
 た。
  アメリカ独立戦争中の船の損害は、隻数としては、前世紀、ウィリアム三世がかかわった戦
 争時より少なかった。ウィリアム三世時代の商船隊は1776年に比べればかなり小規模であっ
 た。それでも、3,386隻のイギリス商船が拿捕され、そのうち495隻が再拿捕され、507隻が身の
 代金を払っている。戦争発生時に、イギリス船総隻数の3分の1以上がお国のために失われて
 いる。戦争が始まるとオランダ船のほとんどが雇い切られ、それが終わるころの船腹不足は、
 平和にならなければ、輸送が途絶するところまできていた。
◆アメリカ船、イギリス交易に食い込む◆
 1783年、戦争が終わると、イギリスでは落胆が広がる。アメリカ植民地の喪失は、ある人々
 にとってはイギリスの威信の失墜と映った。他の人々は、航海条例による保護交易からニュー
 イングランドの船主たちが自立すれば、それに対して何らかの特例が出されるものと期待して
 いた。しかし、北アメリカ産の多くの貯蔵品、特にタバコについて、アメリカ船が直接、ヨーロッ
 パや極東と交易し始めると、先の期待は見込みがなくなった。例えば、グラスゴーのタバコの
 輸入額は1775年の4,500万ポンドから1777年には30万ポンドにまで減少し、国際タバコ交易にお
 けるグラスゴーの地位は永久になくなる。
  アメリカ船は、和解の言葉を聞くと、イギリスと直接、交易し始める。アメリカ産の製品も、従
 来からイギリス植民地から輸入される製品と、同じ関税レートであった。しかし、それら商品を
 アメリカ船に積めば、外国船に課税されている「トン税」を支払う必要がなくなったので、ますま
 すアメリカ船に積まれるようになる。
  タバコや製材は無税となり、アメリカ産の製材はバルト海からの輸入品より有利となった。ア
 メリカ木材の需要は、フランス戦争でバルト海との交易が困難になると、あらゆる面で増大して
 いった。1801-1811年にかけ、ヨーロッパからイギリスへの木材総輸入量は159,000ロードから
 125,000ロードまで減少し、同期間、アメリカからの輸入は3,000ロードから154,000ロードに増加し
 た。アメリカ産品の特恵待遇、バルト海交易の困難、そしてアメリカの中立の立場とが結合しあ
 って、アメリカの国際収支をバランスさせるという効果を上げる。フランス戦争が起きると、イギ
 リスとアメリカとの交易に、アメリカ船が次第に選好されるようになる。
  当時、イギリスは北アメリカ産タバコ輸出量の5分の2、米やインディゴの5分の1を受け入れて
 いた。1790年以後、木炭のあくや真珠灰―それらは織物の漂白や石鹸の製造に用いられた
 ―が米同様、値打ち品となり、また小麦や小麦粉も交易されるようになる。主だった船積み品
 となったのは、毛皮、トウモロコシ、なまこ型あるいは棒状の鉄、タール、テレピン油、そして魚
 油、さらに大量の木材、主としてたる板やふた板であった。
  イギリスやアイルランドからアメリカへの輸出は、その約90パーセントが現地で売られる工業製
 品―織物と衣服、靴、陶器、鉄器、板ガラス、塗料、白鉛、書籍、銃器、ビール、塩、石炭、く
 ぎ、そしてチーズ―であった。アメリカはその独立にかかわりなく、イギリス製品にとって最も重
 要な市場のままであった。それら双方向の交易額は1783年から1801年、さらに1801年から
 1807年にかけも増加するが、その四半世紀におけるイギリスの従来からの植民地への輸出
 は、年間約500万ポンドであった。それは輸入額の3倍以上であった。
◆アイルランドやニューファンドランドの交易◆
 アメリカにとってアイルランドとの交易は特に重要であった。亜麻栽培業は、栽培を増やすに
 当たって、その種を増やすのか、それとも布を増やすのかという選択に迫られる。天候のせい
 もおおいにあったとはいえ、アメリカ船がコットンのセールを使っていたため、アメリカ人は亜麻
 の種を増やすことを選ぶ。アイルランドの亜麻布生産は増加する。亜麻の種は冬季ニューヨー
 クからアイルランド向け船積みされたが、そのとき小麦粉や木炭のあくも貨物となった。その見
 返りとして、アイルランド船はリネン、チーズ、そして人民を送り付けた―ニューヨークの警察官
 の多くがなぜアイルランドの出自を持ち、またアメリカ人の資金がなぜいまなおアイルランド共
 和軍[IRA]の資金源となっている理由の一つである。
  ニューファンドランドと交易する商人やその沖合いで漁業に従事する人々は、エリザベス時
 代と同様に振る舞っていた。自分たちの船を春に艤装し、夏に漁労し、処理し、そして輸出して
 いた。そのころ、つかまえたタラの4分の1は西インド諸島に送られ、砂糖、ラム酒、そして糖蜜
 と交換された。その2分の1はスペイン、ポルトガル、そして地中海に送られ、塩、果物、そして
 オリーブ・オイルが買われた。その残りは、魚油やアザラシ漁業製品とともに、主としてイギリス
 に向け船積みされた。
  漁業の船は毎年3月14日のセントパトリックの日に氷海に向け出帆し、10,000匹以上のアザ
 ラシが捕まえ、毛皮と1,500トンのオイルを作った。タラのオイルは潤滑油や灯油として輸入され
 た。当時、その値段は1トン40ポンドであったが、19世紀初めガス灯が発達すると半値となる。タ
 ラ漁業は20,000人の男たちを雇用し、ナポレオン戦争末期、年間200万ポンドの交易をし、その
 額は10年前に比べて2倍になっていた。セント・ジョンズに入港する隻数は1794年の400隻から
 1815年には852隻に増加した。
  イギリスからニューファンドランドへは、塩、食物、牛肉、豚肉、チーズ、毛織物、細工物、そ
 して機械類が送られた。西海岸地方は、毛織物とともにサージ、ロープ、ネット、そしてより糸を
 供給した。細工物や大陸産品はロンドン、塩、石炭、そして工業製品はリバプール、食料品や
 移住者はウォーターフォード、コーク、その他のアイルランドの港から船積みされた。
◆西インドとの交易の増加、綿花の登場◆
 この時期のイギリスの西インド諸島との交易は、ヨーロッパ海域に比べ二次的となったが、植
 民地交易のなかではいまなお最も重要であった。そこは他の植民地交易よりも値打ちがあり、
 イギリスにおいて砂糖に多額の金が費消されるようになると、重商主義者の考えと一致するよ
 うになった。
  定期交易船は、毎年4月あるいは5月、そして9月あるいは10月に、それ以前の2倍ほど到着
 するようになるが、いまなお西インド諸島と交易する船の航海は年にわずか1回であった。そう
 した船はイギリスを秋に離れ、翌年の5月あるいは6月に収穫された砂糖を積み取り、それら貨
 物をバルト海の港が凍る前に再輸出するべく、その時期をみて母国に帰着していた。そうした
 船が西インド諸島からの出帆が遅れ、ハリケーンの季節に入ってしまうと、保険料は2倍となっ
 た。
  1774年、234隻が黒砂糖あるいは未精製の砂糖76,600樽、そしてラム酒12,257樽を西インド
 諸島から輸送し、イギリスの港に入っている。カリブ海に向かうイギリス船の合計トン数は、ア
 ジアと交易する船よりはるかに多く、その5倍、またアフリカの28倍、またアメリカと交易するイ
 ギリス船および外国船を合わせたものより9倍もあった。西インド交易船がスペインや植民地
 向けの商品を積み出すことが認められるようになると、イギリス領地の産物ばかりでなく、スペ
 イン領地の産物を積んで帰るようになった。
  王立海軍を除き、ラム酒はイングランドではそれまで全く飲まれていなかった。それに対する
 税金が減らなかったにもかかわらず、西インド諸島の人々はイングランドにコーヒーを持ち込
 むことに成功している。1814年コーヒーの輸入額5,100ポンドうち(4,400ポンドが西インド諸島産で
 あり、ジャマイカが最大の産地であった)、10分の9が再輸出された。その他の西インド諸島の
 輸出品であるインディゴ、染料木、ピーマン、そしてジンジャーに加え、綿花がいまでは重要な
 交易品となった。
  1807年、イギリスの初期からの西インド諸島産の綿花は、その輸入総額7,400ポンドのうちわ
 ずか500ポンドにすぎず、新しく征服された植民地が約1,000ポンド、そして残額がアメリカから送
 られて来ていた。しかし、西インド諸島産の綿花―そのころ「海島産」綿花と呼ばれるようになっ
 た―は、長年、特産品であったため、特に品質が良く、そのほとんどがランカシャー地方に持
 ち込まれた。
  サント・ドミンゴ島にあったフランス人のプランテーションが攻略すると、西インド諸島のイギリ
 ス人はヨーロッパで消費される砂糖の大部分を手に入れるようになる。新種のサトウキビが開
 発され、1793年以後その収穫が増加する。その結果、それが砂糖の過剰生産を引き起こし、
 1799年以後イギリス市場において砂糖は過剰となり、7年後には砂糖価格は半値となる。砂糖
 の売り上げが減少するに伴い、カリブ海や南アメリカの地金がそれに取って代わり、輸入業者
 に買い付けられるようになる。その地金はイギリス人が東インド交易をバランスするためになく
 てはならなかった。
◆奴隷交易、最後の膨張とその廃止◆
イギリスが奴隷貿易を廃止するのは、この時代の末期になってからではあるが、それまでの約
 1世紀間のイギリスの奴隷貿易はすさまじいものであった。クエーカー教徒は1783年議会にそ
 の廃止を請願しているし、ジョン・ニュートンは1788年『アフリカ人奴隷貿易論』という効果を上
 げたパンフレットを書いている。後者の年、議会はある規制法を通過させ、中間航路における
 奴隷の損失を少なくする措置、例えば有資格の船医を乗船させるといった措置を取るよう、ア
 フリカ航路船に要求している。
  1789年、ジョン・ニュートンはその交易に反対する理由を枢密院に提出した一人である。枢密
 院は、そのとき奴隷の8人に1人がアメリカへの航路で輸送中に死んでおり、その1世紀前は4
 人に1人が死んだケースがあったと結論づけている。その世紀末、死亡率はさらに低くなり、ほ
 ぼ18人に1人になった。それが良くなったのは、奴隷が西アフリカでかなり高価となったからで
 あるが、その価格は100年間で3ポンドから10ポンドへと、3倍以上になった。
  1792年ブリストル冒険商人協会が奴隷貿易廃止に反対する請願、1796年リバプールが廃止
 反対の請願を議会に行っている。それに抗して、1796年、下院は奴隷貿易の停止を決議する。
 しかし、再び戦争が始まるとその問題はさたやみとなる。リバプールは、当時、奴隷制に関す
 る利害が他の港に比べ、非常に大きかった。1799年、別の廃止法案が提案されると、リバプ
 ールは再びそれに反対する。
  イングランド人は、18世紀大西洋を横断して輸送された奴隷600万人のうち、250万人を運ん
 でいた。その規模は、その交易が廃止される1807年前の四半世紀だけで、イギリスがそれま
 で輸送してきたすべての奴隷の3分の1に当たる。
  当時、そのほとんどがメーソン−ディクソン線[ペンシルバニアとメリーランド両州との境界
 線、奴隷制廃止前の南北分界線]より南方にある北アメリカのイングランドの初期植民地に
 は、700,000人以上の奴隷がいた。しかし、世紀の変わり目、イギリスがフランスやオランダ支
 配の島々を占領すると、直ちに西インド諸島における奴隷の需要が高まる。数年後、イングラ
 ンドの奴隷輸送は事実上リバプールの独占となり、奴隷制廃止までの15年間、リバプールから
 毎年100隻の奴隷船が出帆していった。1798年がピークで149隻、合計トン数50,000トンのリバプ
 ール船が大西洋を横断し、52,227人の奴隷を輸送している。それらの船は従来、平均約160トン
 であったが、いまでは300-500トンとなっていた。
  その時代の末期、奴隷はその品質によって異なるがおよそ25ポンド相当の商品と交換され
 た。かれらは胸に焼き印を押された。女や子どもには足かせはしなかったが、男は船が海岸
 に離れるまで足かせされた。非人間的な船長もいたし、奴隷が反乱を起こすこともあったが、
 奴隷航海を3回も成功させた船長のクローは、中間航路で死者を出していない。かれが用意し
 た食料のなかには、乾燥小えび、ヤマいも、エンドウ豆、そして米から作られた薄いスープが
 含まれていたという。乾パンやココナッツも用意され、病人には特別の食事が支給された。アメ
 リカで、奴隷は50ポンドから80ポンドまでの様々な価格で売られた。
  奴隷交易は間違いなく利益が上がり、当時、ロンドンやブリストルの富と同様、リバプールの
 ほとんどの富を生み出したとはいえ、著名な事業に数えられるほどの利益はなかった。リバプ
 ールのエンタープライズ号は、1803-04年非常に短期間の航海に成功し、24,430ポンド8シリング
 11ペンスの「利益」を稼いだとされるが、それは412人の奴隷の販売価格であった。それに対し
 て、費用は17,045ポンド2シリング2.5ペンスであり、投資に対する見返りは40パーセント台となる。
  商人が被った奴隷の損失補償に関わって、[ウィリアム・]サミュエル・ウィルバーホース[1759-
 1833、政治家]は、1807年努力の末、遂に奴隷交易を廃止に追い込む[奴隷制を廃止したわけ
 ではない]。イングランド最後の奴隷船キッティズ・アメリア号が、その年の7月27日マージー川
 を離れている。その廃止は1815年の[パリ]平和条約にも組み込まれる。イギリスは自分自身
 の奴隷交易を廃止したばかりでなく、その後75年間にわたり他の国々の奴隷輸送に反対する
 キャンペーンを指導する。大西洋横断交易は、1849年以後急速に減少し、奴隷は不足の度を
 強めるが、契約労働力、特にフランス人やポルトガル人がある程度それに取って代わる。
◆北極圏の捕鯨の隆盛、鯨油の多様な用途◆
 奴隷交易の終結は、西インド諸島の経済的な重要度が低下したことが、唯一の要因ではな
 い。砂糖産業はブラジルや東インドから競争を持ち込まれ、またフランスやドイツの化学工業
 がサトウキビの代替として砂糖大根を開発していたからである。西インド諸島の栄光の日々は
 すでに終わっていた。
  特に、1783年から1808年にかけ、外洋交易は北極圏、太平洋ともども、西インド諸島の砂糖
 交易のような状況になりつつあった。捕鯨に対する補助金は1733-1800年間に約200万ポンドに
 及んだが、1780年代までは鯨油1トンにかけた費用がその市場価格以下になることはなかっ
 た。鯨油は家庭の灯火、街灯、粗末で固い織物を柔らかくする流動油、潤滑油、その他様々
 な目的に使われた。また、捕鯨船の船長や士官たちには、航海の仕切り歩合として、鯨油が
 支給された。
  1800-1804年、合計トン数25,000トン、平均トン数80トンの捕鯨船隊は、7,000トンの鯨油と7,000ハ
 ンドレッドウエイトの鯨骨を毎年持ち帰っている。その需要が強まり、物価が上がるにつれ、鯨油の
 価格は押し上げられ、フランス戦争末期には1トン60ポンドまで引き上げられた。ハルは北極圏
 の捕鯨の最も重要な基地であったが、ロンドンは太平洋のマッコウ鯨取りの新事業に強い関
 心を持っていた。その捕鯨の重要さは、フランス戦争開始時にから取られだしたマッコウ鯨とも
 ども、アメリカ独立戦争中に初めて認められるようになった。
  ロバート・イーストウィックは、1784年捕鯨船に乗って、最初の航海に出ている。かれは12歳
 のとき徒弟となり、16か月間フレンドシップ号に乗船し、鯨ろうを満載して帰って来ている。船長
 は親切ではあったが、少年を大海原に投げ込んで、はばからなかった。士官は、若いイースト
 ウィックの目には、「野蛮人」のように見えた。しかし、イーストウィックは王室艦に勤務したこと
 のある、65歳の老水夫と友達となっているが、その老水夫は「船内に正義もなく、不正義だら
 けよ、少年。二つのこと、仕事と反乱があるだけだ。覚えときな。命令されたことが仕事、それ
 を拒否すれば反乱さ。国王のフリゲートの処罰はヤーダム落としだ。商船ではなわ鞭が専ら使
 われる」。
◆東インド会社の独占廃止、自由交易へ◆
 新世界における綿花の増加やランカシャーの機械制綿工業の成長に関わらず、極東との交
 易は従来通り重要であった。アダム・スミスは、東インド会社のインド統治を攻撃している。そ
 の会社は、1784年[インド法に基づいて]設置された監督局の行政管理下に置かれることとな
 る。インド領域に影響力を振るう[イギリス政府と東インド会社の]二重権力は、1773年の規制
 法とともに始まる。ウォーレン・ヘースティングズ[1732-1818]が初代[ベンガル]総督に指名され
 る。しかし、1789年には政府が事実上、亜大陸を支配するようになる。1818年にはイギリス政
 府がインド全域の支配権力となる。1793年、東インド会社はインドにおける交易独占権の放棄
 を強要され、その交易は1813年完全に開放されることとなる。フランスとの戦争中、その会社
 のベンガルにおける徴税権からえられる収入は、そのほとんどが自衛費用に使い果たされて
 いた。
  毎年、会社船に乗ってインドに向かった兵士のうち、10分の1が入れ替わった。会社船は、連
 隊や政府の物品に加え、金銀塊、鉄、そして毛織物を持って来た。後者は法律に基づく義務で
 あった。インドからの輸入品には、シルクとともに綿製品、硝石、インディゴ、砂糖、そして米が
 含まれており、それらのほとんどがベンガル産であった。マドラス、ボンベイ、そして1790年以
 後、ペナンは主として戦略的な理由から[イギリスが]防衛していた。フランスとの戦争の最中、
 喜望峰とセイロンをオランダから奪取しているが、東インドのペッパーはオランダのなわばりに
 置かれていた。
◆中国茶交易の隆盛、多種多様な会社船◆
 商業上の利益は、そのほとんどが中国茶の交易からえられるようになった。それは、イギリ
 スから送られて来た毛織物、スズ、その他商品と部分的に、また地方船あるいはいわゆる「現
 地船country ship」[現地船籍で現地交易専航船]が中国に持ち込んできた綿花や阿片と交換
 された。
  1784年代替法は、事実上、アメリカ植民者を激怒させ、密輸を激増させてきた、[アメリカの]
 茶税を廃止する。そして、東インド会社は適切な価格で、茶をイギリスで売ることを承認する。2
 年もたつと、その輸入は600万ポンドから2,000万ポンドに跳ね上がった。
  「現地船」のうち70、80隻はカルカッタ、また別の25隻ほどがボンベイから運航されていた。そ
 れらはインドにあるチーク材で建造されており、1810年ボンベイで建造されたエール・オブ・バ
 ルカレス号は1,406トンという大型船であった。1817年ボンベイで軍艦トリンコマリー号として建造
 された、現存するフォドロアント号もそれとは全く同じような船であった。毎年、現地船は価額で
 500万ポンドほどの商品を輸出しているが、東インド会社はその「現地交易」に当たって [支配人
 として]インドに住む会社従業員やその手下を指名していた。
  イギリスから来て極東交易に従事する船は、主に東インド会社に所定の航海数を決めて用
 船に出そうとする、資本家の一団によって建造されていた。その運航ぶりはその時代としては
 格式が高く、洗練されていた。その「マリン・インタレスト」として知られる一団の船主たちは、東
 インド会社の株主でもあった。かれらは、その交易に終生使う「常備船regular ship」ばかりでな
 く、必要に応じて追加する「臨時船extra ship」についても、テムズ川で建造していた。イングラン
 ドのカシ材が少なくなり、その供給不足になるに伴い、東インド会社は鉄の部分を増やした船
 や、インド建造のチーク材船を使用するようになる。後者は18世紀末にかけて増加する。
  中国交易が確立した当初に従事していた船は、インド交易に使われていた船よりはるかに小
 型であったが、18世紀末には36-38門の大砲を装備し、また125人もの乗組員を引き連れてお
 り、建造に50,000ポンドから70,000ポンドかけられていた。1,200トンの船もあり、それは東インド会
 社船よりもはるかに大きかった。それらの船は目的地で着くと、中国政府の都合から、広東沖
 にある黄埔という錨地に限って停泊することが許可された。
  インドと交易する船のサイズはフーグリ川の水深によって制約されていた。インド交易のう
 ち、布地やシルクの交易に当たって800トンの船が使われ、乗組員100人、大砲26-32門であっ
 た。「荒物」―硝石、砂糖、そして米―については、500トンほどの船で間に合い、そうした船も大
 砲を12-20門積んでいた。「臨時船」は通常、小型船クラスに属していたが、それらを含め、東
 インド会社の船隊は約100隻、合計90,000トンで構成されており、超大型船と超小型船がそれぞ
 れ30隻含まれていた。
◆オーストラリア流刑者の輸送◆
 ジェームズ・クック船長の[1768-71、72-75、76-79年の]航海やアメリカ独立戦争の結果とし
 て、将来、重要な意義を持つこととなる、新しい「交易」が1787年から開始される。それは、「ニ
 ュー・ホーランド」あるいはオーストラリアのボタニー湾にあるポート・ジャクソンと、それから遠く
 離れた太平洋上のノーフォーク島への囚人輸送である。
  1775年以前、多くの囚人はアメリカに向け船積みされ、それは前の60年間で40,000人以上で
 あった。この交易では、請負人が政府に代わって仕事をしていたが、判決文に基づく、アメリカ
 での流刑者の勤務に対して金品が支払われることになっていたので、かれらは流刑者の適切
 な扱いに少しは関心を持っていた。アメリカが、その独立戦争によって重罪人のはけ口ではな
 くなったため、かれらはそれに代えて古船の監獄に入れられ、あふれかえることもあった。
  1784年輸送法はノーフォーク島やボタニー湾にかれらを送り出す機構を制定する。重罪人の
 輸送を引き受けたオーストラリア請負人はアメリカに船積みしていた連中と同じように、かれら
 の輸送について適切な関心を持てなかった。その上、オーストラリアでは、年季奉公人の需要
 がまだなかった。当初、この新企画は流刑者が死のうが生きていようが、請負人は17ポンド7シリ
 ング6ペンスを受け取れることで始められたので、かれらが死んでくれれば利益が多くなった。
  オーストラリアへの輸送の初期における船内条件はおおむね悪く、病気は蔓延した。1787-8
 年最初の船団は囚人輸送に用船された6隻の輸送船と、それに加え3隻の倉庫船、2隻の軍艦
 で構成されていた。それらの船は200-400トンであり、この場合男584人、女192人の流刑者を輸
 送している。2度目に出発した船隊の死亡率は高く、1,006人のうち、海上で267人の流刑者が
 死亡し、上陸後さらに150人が死んでいる。この場合、請負人―カムデン、カルバート、そして
 キング―は奴隷業者であった。3次航海後、請負人への支払いは、流刑者が健康で上陸する
 まで延期された。1815年以後、死亡率は122人に1人となった。例外はあったが、1811年以後、
 男と女は別々の船で輸送するようになる。
  1798年の流刑者には[フランス革命を支援した]すべての社会階層の代表が含まれていた。
 さらに、この一団には、その年アイルランド反乱に連座して追放された、「断髪党員たち」もい
 た。1822年に『人生と冒険』を刊行したジョン・ニコルは流刑船に乗船勤務していたが、非道な
 扱いを見聞していない。女たちは乗組員のなかから、乗船中の夫を選ぶことを許されていた。
  ロバート・イーストウィック船長は、その世紀末「現地船」に乗り、インドからポート・ジャクソン
 やノーフォーク島に茶や砂糖を持って行っているが、流刑者は全体として自分の運命にほぼ甘
 んじていたと見ていた。マトンの値段は1ポンド当たり2シリング6ペンスであった(1988年約2.80ポン
 ド)。ポート・ジャクソンには劇場が作られており、イーストウィックは[ジョージ・ファーカー、1678-
 1707、劇作家、1706年作の]『徴兵官』や、『仮面の処女』を見ており、そのどちらも大変、出来
 が良く、大いに楽しめたという。その劇場のこけら落としは、有名なスリの次のような暗唱がプ
 ロローグとなっていた。
遠方から広がる海を越えて、われわれはやって来た
 (それなのに喝采もなく、ドラムの響きもなかった)、
 誰もが真実の愛国者だ;誰もがそう理解していた、
 おのれの国の利益のために、おのれの国から追い払われた。

 1787年から最後の流刑船が出た1868年までに、825隻が刑事被告人を積み、オーストラリア
 に向かっているが、男女160,023人が上陸している。最初の自由移民の流入は1820年代まで
 は起きなかった。
◆定期郵便船のより一層のシステム化◆
 西インド就航船は、戦時と同じような状況であっても単独で行動する許可状を入手していた
 が、単独でしかも定期的に航海していたのは郵便船である。それらは、当時イギリス交易にと
 って必要不可欠になった、公用その他の郵便物を郵送していた。ある郵便船のサービスは、
 早くも1661年ハルウィッチから出発している。ある郵便船は、毎週木曜日と土曜日の午後2時
 に、ヘルボーテスリーを出帆した。[郵便物は]「夜になれば陸揚げしない」ことになっていた。最
 初のラ・コルーニャから、1689年[コーンウォル]ファルマスからのサービスに代わり、翌年以降
 そのサービスは拡大した。他の郵便船駅はロンドン、ドーバー、そして[ウェールズの]ホリーヘ
 ッドやミルフォードにあった。
  ファルマスの重要性はその位置にあった。そこはイギリス海峡とそこを吹き抜ける向かい風
 から外れていた。ロンドンからファルマスへの最初の郵便馬車が、1785年に走っている。30隻
 の定期郵便船がそこを発着場所にしていた。それらは150-200トンで足が早く、見栄えの良い船
 であり、4,000-4,500ポンドかかっており、サイズにもよるが18門以上の大砲を「密輸船」のように
 備え、また強制徴発を免除された船員が18-40人乗り組んでいた。郵便規則は、その郵便船
 が二段縮帆できるトップスルを掲げていて、政府郵便を受け取った場合直ちに出帆する責務
 を負わされていた。その正規の年間給与はわずか104ポンドであったが、ある船長は郵便船勤
 務で年間1,000ポンド以上も稼いでいた。その指揮ポストは父親から息子にしばしば引き継がれ
 ていた。その他乗組員も、当時としてはかなり高い金額を稼いでいたが、1810年、さらに1814
 年に賃上げを要求して、不成功のストライキを行っている。
  郵便ボートは、通常7年間の契約で、郵便局が特に集配の迅速さに注目して、雇っていた。
 郵便ボートは正貨を移送し、ニュースを運び、そして陸海軍の重要な諜報源となっていた。アイ
 ルランド、大陸諸国、リスボン(毎週)、ジブラルタル、西インド諸島(毎月)、ブラジル、そしてハリ
 ファックスとのサービスは、定期的かつ多頻度であった。1806年、郵便サービスはジブラルタル
 からマルタにまで広げられた。それらの船が攻撃にさらされると、郵送中の郵便物は海中に投
 棄し、沈められた。スペイン向けの料金は2シリング2ペンス、アメリカ向けは3シリング7ペンスであっ
 た。非公用の郵便袋もコーヒー・ハウスを通じて集められ、他の商船を利用して発送された。こ
 れを定期的なシステムにしようとして、郵便局は1799年船便局を開設し、そして1814年法は郵
 便局に郵便物を運ぶため、軍艦、商船の別なく使用することを許可している。
  全体として、郵便船はいいサービスを提供していたが、郵便物以外の貨物や正貨の運賃は
 船長と乗組員の取り分であった。それら取り分への関心は郵便局と対立することが多かった。
 戦時、かれらは捕獲しやすい弱そうな船を襲い、公の意志疎通を遅らせる傾向があった。それ
 ら郵便船は旅客、主として武官、官吏、そして商人とその家族を運んでいた。その運賃はジブ
 ラルタルへは35ギニー、ジャマイカへは54ギニーであった。戦争中、郵便船のなかには、私掠船
 に拿捕される船もあり、ファルマスの郵便船19隻がフランスとの戦争中に捕まっている。
◆アジア人船員の雇用、おさげ髪の流行◆
 船員数もまた増加した。18世紀末の航海事業は、現代よりはるかに国民的な産業であった。
 当時の人口1,200万人のうち、船員はあらゆる種類の船員を含め300,000人であり、そのなか
 にはイギリス船に乗り海上で働く外国人は含まれていない。アジア人船員の雇用は東インド会
 社の初期にさかのぼるが、東インド会社船の乗組員は往航中、死亡や脱走で大幅に減少した
 ので、インド人(ラスカルlascar)、後には中国人でもって補充せざるをえなかった。イギリス船に
 おけるそれら船員の雇用は1980年代まで続いた。
  ウィリアム・ヒッキーは、1808年東インド会社船に乗って帰国するとき、「9人のアメリカ人や18
 人の中国人以外に、ヨーロッパのほとんどすべての国々の国民を含む、見知らぬ多くの乗組
 員」についてふれている。かれは10人以上がイングランド人乗った船を見たことがないという。
 「現地船」はほんの数人のイングランド人を乗せているだけであった。アジア人船員の賃金はイ
 ングランド人の半額に達していた。ナポレオン戦争中、王立海軍には126,000人の船員と海兵
 がおり、それ以外に145,000人の商船船員が登録されていた。それ以外に、漁船員、水辺船
 員、そして非登録船で働く船員がいた。イギリスでは、6家族のうち1家族が直接、海に依存して
 生活してことになる。
  東インド会社や、ハドソン湾会社、郵便船の士官は制服を着ていたが、その他のほとんどの
 商船士官はそうではなかった。特色のある紺色サージのズボンとジャケット、「根っからの船乗
 り」とか「真のイギリス人船乗り」といわれた水夫と同じような、おさげに結った髪型がイギリス人
 船員のなりふりであった。おさげ髪はフランスとの戦争の後も続いた。
 船員ウィリアム・リチャードソンは1785年初めの状況を、次のように記録している。「それまで、
 わが船長は習わし通り、髪にカールをかけ、髪を耳の後ろにふさふささせていた。しかし、ある
 日、かれは髪をおさげに束ね、やって来た。大変奇異にみえたが、かれはやめなかった。それ
 がおさげ髪の流行の始まりであった」。
  1783年、海洋協会設立者ジョナス・ハンウェーは、各地が海の学校を設立するよう主張した
 書物を刊行している。かれが死んだ1786年、海洋協会が古船をその目的にあうよう改造し、最
 初の一般船員のための訓練船を配置している。翌年、ハルのトリニティ・ハウスが陸上に海洋
 学校を設立している。ハルには、海洋協会の会計理事であるジョン・ソーントンの一族がおり、
 ハンウェーの教えを広げやすかったからである。それまで船員を訓練しようなどと考えるもの
 は誰もいなかった。それでも、航海術を素質のある士官に教示しようとするいくつかの小さな施
 設が、すでに少なくともブリストル、ウィットビー、ニューカッスル、そしてロンドンなどにあるには
 あった。1775-98年間クライスト・ホスピタルの院長であったウィリアム・ウェールズ[1734?-98]
 は、海上生活を送り、またクック船長に同行した数学者[・天文学者]であった。そのころ、トーマ
 ス・リンは東インド会社を退職し、リーデンホール通りで教師を始めている。その教室と受付は
 会社が提供していた。1772年、タワー・ヒルに住むハミルトン・ムーアが『新航海実務』を刊行
 し、また1800年ごろ、『航海表』や『シーマンシップ』で知られるJ.W.ノーリーがリーデンホール通
 りで活躍していた。
◆徒弟出身の商船船長、各種の報酬◆
 東インド会社の士官は別にして、士官の誰かれもが船首出身者[たたきあげあるいは実地出
 身者]であった。徒弟は、船尾で士官とではなく、[船首で]一般船員とともで食事をしていた。イ
 ーストウィック船長も徒弟をしているが、当時徒弟になる際 [船長に]支払う謝礼金は10-20ポン
 ドであった。サミュエル・ケリー船長も回想録を残しているが、1779年海上に出たとき徒弟では
 なかったが、かれは親切に扱われ、23歳で船長となっている。18世紀末、徒弟を率いる際の一
 般規則が定められ、徒弟期間の最後の3年間、徒弟は強制徴発から保護されることとなった。
 利益の上がる交易においては、縁故関係あるかないかが、おおむね若者の成功の鍵となっ
 た。
  東インド会社の素質のある士官にあっては、おしなべて王立海軍の拝命士官候補生と同じよ
 うに、航海術の試験に合格しなければならなかったが、ほとんどの商船士官は航海術を経験
 からえており、3のL、すなわち測程、測鉛、そして緯度を知っている程度であった。ヒッキーに
 よれば、東インド会社船の船長は良い教育を受けた紳士であり、制服を着用し、航海中の日
 曜日も仕事していたという。しかし、通常の商船船長は間違いなく頑丈で、ときには残酷であ
 り、おおむね大酒飲みであった。フレデリック・マリヤット[1792-1848、海軍士官、海洋小説家]
 によれば、飲酒が海難や悲劇の半数以上の原因となっていた。
  異なった産業の形態を海運に押し広げることは極めて困難である。その初期はともかく、18
 世紀末の東インド会社では、東インド会社船の管理船主あるいは「船舶管理人たち」が実務を
 とっていた。その指揮を委ねた船長に「自分たちの船」を売ることもあった。かれらは指名した
 船長からおおむね8,000ポンドないしは10,000ポンド[の謝礼金を]を受け取っていた。当人が望め
 ば、すでに指名されている船長がその指揮権をさらに競売にかけ、高値で売ることができた。
 そうした高額な支払いをしても、通常の商船勤務の賃金以外に、十分な見返りを期待しえた。
  月10ポンドの賃金、食事手当て、そして港での費用に加え、船長は50トンを限度にして無運賃
 の往航貨物を積む権利があった。ただ、自分の勘定で、羊毛製品、金属、あるいは軍需品を
 輸出することはできなかった。復航は、20トンの無運賃を認められていたが、一覧表に載ってい
 る貨物に限られた。それらによって、かれらは1トン当たり25ポンドほど稼ぐことができた。さら
 に、稼得運賃総額の1パーセントの船長謝礼金を受け取っており、1,200トンクラスの船の船長謝礼
 金は1航海100ポンドになった。それに加え、旅客輸送からも金を稼いでいた。
  往航運賃は尉官の95ポンドから将官の235ポンドまであり、高貴な人士はさらに高かった。復
 航運賃はそれらよりさらに高かった。また、船中央部の貨物スペースに関する料金も船長に支
 払われた。それは、倹約家の船長が稼いだ額は1航海平均4,000ポンド以上になったが、そのう
 ち少なくとも4分の1が投資額に相当した。一般の物価が18世紀後半、3倍となった。これら船
 長の取り分の多さがそうした物価騰貴や船長になるための過大な投資が原因となっていた。
 東インド会社末期あるいは戦時中、船長は実際にはいま述べた以上に―1988年価格で年間
 50,000ポンド以上―稼いでいたとみられる。それは、商船船長がそれ以前、それ以後も稼いだ
 ことのない額であったので、かれらは商船勤務で一財産をなした人たちといえる。
◆東インド会社の士官は良家の出身◆
 東インド会社の船長はそれ自身一つの階層をなしていた。多くの船長、またときには士官や
 その他乗組員も賃金以上のものを、公認の役得や私的な交易といった方法で稼ぐことができ
 た。
  ケリー船長は、海上生活を送ってきたなかで、賃金と公認の役得を組み合わせても年間75ポ
 ンド以上を稼いだことはたった一度だけだったと主張している。商船勤務の有能船員の通常賃
 金率は1か月30シリングであった。特別の場合は、それより多くなった。通常、戦時にはなると賃
 金は上昇するが、ケリーは西インド諸島で乗組員が欠員となり、復航に当たって船員一人一人
 に45ギニーを支払っている―それはかれの稼得額の3倍であった。
  郵便船勤務の船員は1か月わずか22シリング6ペンスであったが、かれら自身の冒険商品から
 利益を上げることができた。東インド会社勤務の有能船員の通常賃金は1か月35シリンクになっ
 ていたが、航海中は60シリングであった。しかし、戦時に奴隷船に乗船していたクロー船長は、
 「船員周旋業者」への支払い3-4ポンドあるいは船員供給業者への手数料以外に、有能船員た
 ちに6ギニーを支払っている。この奴隷船の大工は10ギニー稼いでいた。西インド諸島との交易
 で、あるブリストルの船員は前渡し金として3か月の賃金を受け取り、残りの半額は西インド諸
 島で支払われることになっていた。
  船員の労働条件は北東海岸の石炭交易が最も整備されていたし、それが短命な地方組織 
 にとどまったとはいえ、最初の労働組合が設立されたのもその地域であった。北東海岸の船
 員は、有能船員に昇進する前に、シーマンシップの実務を試す、決まりきった口述試験に合格
 する必要があった。ニコルによれば、グリーンランド船員―北極圏の捕鯨船員―はイギリス人
 船員のなかで最も粗暴という噂を立てられていたが、そうした「手ごわさ」も強制徴発隊とやりあ
 えるほどのものではなかった。
  捕鯨船の労働条件は当然、悪く、東インド会社船が最も良かった。例えば、1,200トンのロイヤ
 ル・ジョージ号が、1807年500人の兵士と160人の乗組員を乗せて、プリマスからマドラスに向け
 出帆している。その船長のティミンズにとって、5か月の航海は処罰もなく、病気も大変少なく、
 死者1人にとどまる航海となった。それより少し前の1792年、ロバート・イーストウィックは、東イ
 ンド会社船バーウェル号に五席士官として乗船している。その船は、「いまなお良い思い出とし
 て残っている、優秀な船員で、やさしい紳士であった」ジョン・ウェルアドバイスという、似つかわ
 しい名前の船長に指揮されていた。その船には7人の士官がおり、「かれらは全員、良い家庭
 の教育のある紳士であった」という。
  イーストウィックは、インドで現地勤務につき、21歳で、レベッカ号の指揮を委ねられている。
 その船は中国との阿片と綿糸の交易で、「年間4,000ポンド稼いで」いた。しかし、不確かな交易
 領域にあっては、稼げるのと同じように、損することもままあった。また、東インド会社に勤務し
 ていると、冒険生活は限られていた。イーストウィックは、実働13か月の南アメリカ交易におい
 て10,000ポンド―この額は最初にえた財産の半分に当たるが、1988年価格で230,000ポンドであ
 る―残すことになったが、それを手にするまでに相当な財産を三度作り三度失っている。そう
 いた金を手にして、数年後の1814年、かれは廃業している。
◆船員の主な死因はいまなお病気◆
 イギリスの南アメリカ交易は、フランスとの戦争中、スペイン植民地が孤立状態となったこと
 で、一挙に増大する。1806年、イギリスはブエノス・アイレスを占領し、また1808年以後、イギリ
 スが最終的に領有することになる、それら[中南米]地域で独立戦争が始まる。イーストウィック
 船長がアンナ号を指揮して、新規航路を開拓しようとしたとき、かれはどういう種類の商品がそ
 の市場に適しているかの知識を持ち合わせていないことに気づいた。とはいえ、「イギリスの連
 隊がいて、戦闘があれば飲酒がみられ、勝利すれば祝杯が上げられるので、いずれにしても
 スペイン・ワイン大だる[105ガロン]80樽やブランデー40樽を用意しておけば良い」と結論づけて
 いた。
  イギリスで阿片の使用が法律的に認められると、東洋における阿片交易に合法性があると
 いわれるようになった。ウィリアム・ジャーディン[1784-1843、医学博士]は阿片交易人であり、
 中国との交易で著名となった会社ジャーディン・マセソン・アンド・カンパニーの共同設立者であ
 るが、かれは1802年東インド会社船ブランズウイック号船医助手として海上生活に入ってい
 る。その後、同号のほか、イーストウィックのレベッカ号に乗り、中国への阿片と綿糸の交易に
 馴染むようになった。ジャーディンの賃金は1か月2ドル10シリングであったが、かれには2.5トンの
 「特典」貨物が認められていた。1804年、船医に昇進し、賃金は1か月3ドル、貨物は7トンに上が
 った。
  東インド会社船とグリーンランド船には船医が乗船していたが、1789年以後奴隷船、また
 1803年以後旅客船に乗るようになった。しかし、その間、海上での病気や死亡は頂点に達して
 いた。
  フランスとの戦争の海戦勝利の代価は100,000人の死者であり、道端で物乞いする多数の不
 具の船員は国民的なスキャンダルであった。
  天然痘以外の伝染病は押さえ込まれておらず、壊血病もオレンジやレモンが高価なことから
 [それらが用いられず]流行していたし、コレラが接触伝染病であることに誰も気づいていなかっ
 た。また、マラリア、赤痢、肺結核、そして西インド諸島の黄熱病は当たり前であった。災害も
 病気と同様であり、溺死、マストからの墜落死、船倉内の汚染空気による窒息死、焼死、傷害
 死、毒死などなど。船内の設備はおおむね不潔、換気不十分、食料―塩引き豚肉とビスケット
 ―は悪く、水は飲用不適であった。
  奴隷船の乗組員の死亡率は、第一次世界大戦のフランダース戦におけるイギリス人兵士の
 それに匹敵している。リバプールやブリストルの奴隷船船員の5分の1以上が航海中で死んで
 いる。それ以外に、脱走あるいは解雇されたもののなかにも、死者がいた。平均的な奴隷船
 の乗組員は35人であった。そのうち7、8人が船内で死に、11人以上が通常の病気でギニア海
 岸あるいは西インド諸島に置き去りとなっている。当初の乗組員の約半分弱が帰国したにとど
 まる。クラークソンによれば、これらの船に残った乗組員の大半は体が不自由になるか、盲目
 なるか、あるいはリバプールやブリストルの病室で死んだという。また、当時、奴隷交易に5,000
 人の船員が雇用されていたが、毎年そのうち2,000人あるいは40パーセントが死んだと評価してい
 る。
◆強制徴発の脅威、米英戦争を誘発◆
 船員は強制徴発に逃れることができなかった。フランスとの戦争中、海洋協会は年間平均1,
 000人の山出し船員を海軍に送り込んでいるが―22年間に22,973人―、これら新兵はあまりに
 栄養不良であったので、ニュー・ギニアの高地族より小さかった。多くの水夫が必要であった。
 海運にとって、徒弟が強制徴発の対象外となり、また労働力不足や賃金高騰があってもかれ
 らの賃金は安かったので、かれらは非常に重要であった。1812年、平均的な軍艦の登録構成
 は、8パーセントが少年志願兵、15パーセントが成人志願兵、12パーセントが割当兵(5ポンドの手当てを
 受け取っていた)、15パーセントが外国人、そして50パーセントがイギリス人徴発兵であった。それら
 徴発された男1人当たりのコストは27ポンドであったが、かれらはそうした額の一部も受け取っ
 ていなかった。
  1775年から1815年にかけて、強制徴発が主要な補充方法となり、しかもその方法が実行さ
 れた最後の戦争となった。商船船員はインドでも強制徴発され、しかも半減した船は自国人船
 員を乗り組ませるよう強制されていた。船員はアメリカに来ていて強制徴発され、その上、海外
 に出かけない政府御用の食糧補給船に供給される場合もあった。ほとんどの船員がイギリス
 海峡で、復航中に徴発された船員であった。それが出来るところであれば、かれらはしばしば
 脱走した―ある権威によれば、その3分の1が脱走した。[ハラシオ・]ネルソン[1758-1805、提
 督]は42,000人の船員が1803年までのフランスとの戦争で艦隊から脱走していたと評価してい
 る。
  強制徴発が1812年戦争の主な2つの原因の1つであった。ナポレオン[一世、1769-1821、フ
 ランス皇帝在位1804-15]が発した、1806年のベルリンおよび[翌年の]ミラノ勅令といった「大陸
 封鎖令」によって、大陸諸国はイギリスとの交易を禁止される。イギリスは「枢密院令」で対抗
 し、大陸諸港を封鎖する。そうした行動は中立国の権利を侵害するものであり、アメリカが大
 陸諸国と交易を行うようになると、その利害を損なうものとなった。
  イギリスは、アメリカ船からイギリス人船員を強制徴発し、また[乗組員に]イギリス人船員が
 いると嫌疑をかけていた。イギリスは、商船はある国の主権が及ぶ領域の一部ではないと主
 張し、アメリカはその一部だと主張していた。アメリカは、禁制品と「敵の軍務についているも
 の」を確かめる、戦時臨検を認めていた。イギリスは、イギリス人の「臣従義務は取り消しえな
 い」という教義を固執していた。それに対して、アメリカは「任意な国籍離脱」という教義を採用し
 ていた。
  その結果、イギリス人海軍士官がアメリカ船に乗船し、またそれから下船していた。アメリカ
 船にあっても、船員がイギリス人として乗っていれば違反であった。この過程で、約8,000人の
 イギリス人がアメリカ人船員に移動している。あるイギリス人士官が1812年アメリカの私掠船の
 船長に取り立てられている。かれが乗組員を問い詰めたところ、「予想通り、何人かはイングラ
 ンド人であった」という。「密告するつもりはなかった」と、用心深いアメリカ人船員が答えてい
 る。「双方の国にいたことのある男の出生地がリンカシャーのボストンか、あるいはマサチュー
 セッツのボストンかを知ることは、およそ困難である。かれらは自分のことを良く知ってもしな
 い。ある船員が乗って来たとき、そんな質問などしない」という。
◆交易と海運の分離、サラリーマン船長登場◆
 長期の戦争中も、イギリスの交易は急速に発達していった。唯一となった特許会社である東
 インド会社はいまなお排他的な特権を保持していたが、それも崩壊しつつあった。ハドソン湾
 会社は交易を続け、自社船を所有していたが、すでに久しく法的独占は失われていた。1750
 年以後、王立アフリカ会社も極めて緩やかな組織になっていた。ロシア会社は[白海の]アルハ
 ンゲリスクとの交易のみに利害があった。レバント会社はフランス人から激しい競争を仕掛け
 られ、政府補助を受け、やっと維持されていた。冒険商人会社など、古くからの規制会社のほ
 とんどが1806年までになくなり、ある会社がハンブルグに唯一の商館を維持するだけになって
 いた。
  イギリス交易の大量貨物は、いまでは不屈で、個性的で、しかも激しい競争心に燃えた、私
 的な商社を荷主として運ばれるようになっていた。[海運は]共同経営が事業組織の基本になっ
 ていたが、沿岸海運は単一の所有者の下にあった。交易業界と海運業界とは区別されるよう
 になり、1794年の運輸省の設置がその成り行きに拍車をかけた。19世紀初めには、全国船主
 協会が1802年に設立されるが、その会員は純然たる船主業を営むものに限られていた。その
 主たる会員はロンドンにしかいなかったので、その協会の影響力は極めて部分的であった。他
 の船主クラブが北東海岸にみられたが、それらは今日にいう扶助補償団体の前身であった。
  [19世紀に入ると]遠距離交易にあっては、船長が自分の船に利害関係を持つことは次第に
 当たり前ではなくなり、かれは一人の俸給使用人となりつつあった。それでも、大きな責任を課
 せられ、貨物を探し、契約を果たす必要があった。
  特定のコーヒー・ハウスが海運業界の顔になっていた。エルサレム・コーヒー・ハウスは東イン
 ド商人の溜まり場であった。ジャマイカ・コーヒー・ハウスは西インド諸島商人や船長の集会所
 であった。バージニアやバルト海との交易関係者は、1810年スレッドニードル通りのアントワー
 プ・タバーンという大きな店に移動し、そこをボルチック取引所と改名する。「税関近くのサムス」
 で、船長たちは次航海の荷主や旅客と会っていた。ロイズ・コーヒー・ハウスは船長お気に入り
 の溜まり場であった。1812年、すでにその「船長の部屋」についての言及がみられ、現在のロイ
 ズにも同じ名前の部屋がある。
◆現在のロイズ、王立取引所で店開き◆
 [1769年旧ロイズから革新業者が分離独立した、現在に至る]「新しいロイズ」が1774年王立
 取引所に店開きする[正しくは、移転する]。ロイズは戦争の圧迫に耐え抜き、1810年には1,400
 -1,500人の加入者がいたが、その3分の2が保険引受人であった。その一人である「ディキー・」
 ソーントンは反奴隷制主義者で、海洋協会の初代会計理事であったジョン・ソーントンの長男
 である。かれは「300万ポンドの支払い能力がある」といわれたが、かれ一人でセント・ペテスブ
 ルグに向け船積みされる金について250,000ポンドの「保険を引き受け」、そのリスクがなくなる
 まで国庫債券を担保として預託すると申し入れている。1810年、ロンドンにおける損害補償額
 は10,000万ポンドを超えており、ロイズは世界最大の海上保険センターとなった。リバプールで
 は、1802年にある海上保険団体が設立されるが、それ以外に私的な保険が他の港で実施さ
 れていた。
  沿岸交易における貨物の損害は比較的小さかったが、様々な原因による船舶の損害は戦
 争による損害と同じように多かった。それらは沿岸や近距離の交易にみられたものと同じであ
 った。外国交易では、1793-1801年にかけて毎年、18隻のうち1隻が喪失していた。1795年、フ
 ランスの提督リッシュリューはレバントで船団から外れた30隻を拿捕しているが、そのほとんど
 がシルクを積んでいたといえる。1810年、大量のイギリス船がバルト海の港に差し押えされて
 いた。
  保険料率は戦時危険の程度に応じて変動した。沿岸航海の料率は1.5パーセントであるが、危
 険性の高い戦闘地域では20パーセントに上がった。平均は6パーセントであった。保険がなければ、
 戦時中に、大量の船腹が補充されることはなかったに違いない。ロイズは、ネルソンから大変
 色よい賞賛をえたこと、また保険引受人は負傷者や戦闘で死んだ人々の扶養家族を救済する
 ための金額を引き上げたこともあって、海軍本部との関係は良好であった。ロイズは1802年か
 ら、海岸一帯に救命ボートを配置している。
◆イギリス海運の船腹統計、入港船構成◆
 議会は、船員たちの福祉についてほとんど関心を持っていなかったが、船員供給に限って関
 心があった。海運投資について、1786年、1696年航海条例の有効期間を延長するに当たっ
 て、若干の規制が加えられることとなった。それはイギリス帝国の15トン以上の全船舶に対して
 概括的な登録を要求するものであった。この規定は、それが定める特権を受ける権利のあるイ
 ギリス海運を、独立戦争後のアメリカ海運と区別するのに役立てられた。また、この規定によ
 る登録簿は信頼性のある統計の確立の先駆けとなった。最初の登録時には、船主たちの名
 前が記録されることになっていたが、船主たちの持ち分は記録されていなかった。2つの異なっ
 た証書が発行されている。植民地交易に専航する船は「イギリス植民地登録簿」、その他の船
 は「イギリス人所有ヨーロッパ向け交易外航船登録簿」に載せられていた。
  1793年フランスとの開戦時、5,500隻のイギリス船が外国交易に従事していた。なお、アジア
 の「現地船」を除く。さらに、12,000隻が「外国沿岸」とイギリス沿岸の輸送、内陸漁業、そして西
 インド諸島と北アメリカとの地域輸送に従事していた。スコットランドの主要な港から692隻、52,
 225トンの船が、1774年外国交易に従事し、また隻数は同じであるがトン数が半分の船が、スコ
 ットランドにとって交易の相手になりえないアイルランドを含む、沿岸交易に従事していた。
  ロンドンは他に比べはるかに重要な交易センターであった。14,000隻が毎年出港している
 が、そのうち10,000隻が沿岸交易、そして3,700隻が外国交易に従事していた。後者のうち2,
 200隻がイギリス船であった。5月から10月にかけて、船混みが人々を驚かしていた。
  1798年に水上警察が設立されるまで、貨物のこそ泥のおかげで失われた費用は、1年に350,
 000ポンドと評価されている。
  入港する船のうち、400隻以上が西インド交易船であり、1年に122,000ホグスヘッドの砂糖を持
 ち込んでいた。また、400隻以上が材木船であり、その250隻が川面に貨物を卸していた。約
 300隻が石炭船であり、1ダースほどのバージに取り巻かれていた。50隻が東インド会社船であ
 った。こうした船に加え、3,500隻のバージ、ライター、ホイ、パントpunt[方形平底船]、その他の
 小船がいた。
  唯一といえる湿ドックがブラックワルのブランズウィック・ドックと、ロザーハイツのグリーンラン
 ド・ドックであった。西インド・ドックは1802年、東インド・ドックは1806年に建設された。それに対
 して、ロンドン・ドックは1800年以後発達し、セント・キャサリーン・ドックは1828年に完成してい
 る。グリーンランド・ドックは1807年以降、コマーシャル・ドック会社によって拡張された。19世紀
 の最初の15年間は、その後150年間引き継がれる、ロンドンにおけるある種のドックの様式が
 最も多く採用された活動期であった。ロンドンの全域のなかで、最も混雑した地域は[テムズ川
 の湾曲部の]プールであった。
  1776年、イギリス船の40パーセントが植民地建造船であり、それに外国建造船を加えれば、そ
 の年に登録された船のうち、イギリス建造船は半分以下となる。アメリカ植民地が失われると、
 多くのカナダ船が売りに出されるが、材木はカナダ、西インド諸島、アフリカ、そしてインドから
 の材木輸入は増加した。同時に、鉄の使用が増加し、材木の保護に役に立つこととなった。
  ロンドンは造船センターとしては衰退し続けた。北東海岸はいまでは、イギリスの新造船を40
 パーセント建造していた。その多くは石炭交易向けであった。そして、合計120,000トンの船隊と労
 働者6,000人を雇用する船隊を抱えていた。ロンドン、南海岸、そして北西海岸は、それぞれ新
 造船を約15パーセント建造していた。また、ブリストル海峡とウェールズを合わせた地方と東アン
 グリア地方は、それぞれ約7.5パーセント建造していた。1790年、600隻、約50,000トンの船腹が新
 造されているが、200トンを超える船はわずか75隻にとどまっていた。世紀の変わり目、イギリス
 船は14,363隻であったが、その平均トン数はいまだわずか113トンであった。
◆節税ねらい転覆しやすい棺桶船の登場◆
 大型船はといえば、ロイヤル・キャロット号1,282トンや1804年建造のマルクス・オブ・コンワリス
 号1,360トンのような、東インド会社船であった。そうした船は長さ130フィート、ビーム幅40フィートであ
 った。平甲板が採用され、材木に替えて鉄製の隅材や支柱が徐々に使われるようになった。
 船の幅は甲板上より水線上の方が広くなったが、その広い部分は伝統的な「タンブル・ホーム」
 [内側へのわん曲]ではなくなりつつあった。1810年になって、東インド会社は木製のくぎに替え
 て金属製のくぎやボルトを使うようになる。
  そうした船の建造に当たって、いいかげんなトン数の計測をうまく利用しようと、船の幅を犠
 牲にして、その深さを増そうという誘惑にかられるようになる。1773年規則が制定され、トン数
 を計測する目的で、船の容積を計算する場合、船の深さは用いなくてもよかった。深さは幅の
 半分と仮定されていた。そのため、船はトン数にかかる税金を「減らそう」として、幅を狭くし、深
 さを大きくして建造される場合が多くなった。その結果は、悪天候に抵抗力ない、狭くて深い
 「棺桶船coffin ship」であった。この分別のないトン数計測の方法は、19世紀半ばまで船体設計
 の発達を阻害することとなった。
  西インド交易船もまた同様により狭く、より深かった。それら船は200トンから500トンまで広が
 り、19世紀最初の10年間の平均規模は300トンであった。船くい虫防止法として、外板に銅板が
 張られるようになった。5人から10人ほどの旅客を運ぶのが普通であったが、かれらのなかに
 は甲板にしつらえたバスに飛び込んでいた。「貿易風」に乗り、穏やかな天気のとき、乗組員は
 外板を黄色や黒色、ときには赤色のペンキを塗っていた。外板の塗装はどのクラスの船でもま
 ちまちであった。人々の想像にある、「木製の外板」を黒色と白色をチェックに塗るの典型的な
 デザインは、19世紀末まで身につかなかった。
  北アメリカと交易する船のなかに150-250トンのバークも含まれていたが、大方は400トンから
 500トンであった。捕鯨船も商船とほぼ同じ大きさであったが、船の操縦を良くするため軽いブー
 ムが採用され、乗組員あるいはフォアスル下の住人にとって操作がしやすくなった。グリーンラ
 ンドの捕鯨船と太平洋の捕鯨船とは違っており、後者は鯨の脂身からオイルを抽出するのに
 使う、レンガ製の製油器を備えていた。石炭船の平均サイズは世紀の変わり目、220トンであっ
 た。
◆帆上帆を重ねる帆船、汽船の登場◆
 1800年までは150トンの船でさえ3本マストの横帆船であり、1850年になってもバークやバーケ
 ンティンbarquentineはまれであった。2本マスト船が普通であり、石炭船やバルト海船の多くは
 ブリグまたはスノーであった。スミルナやギリシャの港からオレンジやレーズンを積んで競争す
 る果物船はトップスル・スクナー[フォアマストの縦帆の上に2枚の横帆を掲げる]であった。縦帆
 スクナーはタラ漁業に登場した。海峡横断あるいは沿岸旅客は、イギリスにおいて特に発達し
 た、スマートなカッターcutterに乗せて運ばれた。
  1793年、多くのイギリス船は、ミズンマストに三角帆に替えた上で、「ドライバー」あるいは「ス
 カンパー」と呼ばれる縦帆とともに掲げるようになる。セールは全体として船の後方に掲げら
 れ、在来のヤードにはガフが付けられていた、先端まで広げられるようになった。そして、世紀
 末に向け船尾のブームにセールが張れるようになる。それぞれのマストのセールの面積は、
 新しいセールを付け加わるにつれ、広がっていった。スタンスル[補助横帆]がフォアマストやメ
 ンマストに付けられる。また、トップゲルンスルがミズンマストに現れる。それを取り付けるため
 に立てられたトップゲルンスル・マストに張られる。同様に、バウスプリットも、新しい三角のジブ
 を張るジブブームが付けられたため、長くなった。ステイスル[支索帆]はすべてのステイに取り
 付けられようになり、1800年ごろ全装帆船が完成し、37枚ほどのセールを張るようになった。
 他方、いままであった華美な飾りはなくなり、船首像が主な装飾としてしつらえられた。大方の
 船は40年間で引退したが、その価格は18世紀末1トン当たり5-20ポンドであり、平時は約5ポンド
 であった。
  最初の蒸気機関が、炭坑の出水をくみ上げるため工夫され、それに成功していた。最初の
 蒸気鉄道が、1825年[クリーブランドの]ストックトンから[ダラムの]ダーリントンまで敷設され、川
 岸の桟橋に石炭を運んでいた。海運の未来を画する蒸気船という新しい兆候が、フランスとの
 戦争が終わる前に明白になっていた。
  ウィリアム・サイミングトン[1763-1831]の最初の蒸気船が、1789年[スコットランド南部の]ダン
 フェリスのダルスウィトン湖を蒸気で走ることに成功していた。次いで、かれのシャロット・ダンダ
 ス号は1802年[スコットランドを縦断する]フォース−クライド運河で、バージを引っ張った。その
 ころ、イギリス人は戦争しているだけであったが、アメリカ人は川や湖の輸送を蒸気船の定期
 サービスに作り替えた。1812年になり、ヘンリー・ベル[1767-1830]がコメット号を建造し―クラ
 イド川の漕ぎ手には「悪臭船」としてつとに軽蔑された―、グリノックからグラスゴーにかけ蒸気
 で走り、間違いのない成功を収めていた。
  1815年になると、大騒ぎされた河川や内陸水路の蒸気船も忘れられる。その年、テムズ号が
 グラスゴーからロンドンまでランズ・エンドを経由して汽走し、さらにロンドンから[ケント州の]マ
 ーゲートまでのサービスを開始した。このサービスはロンドンっ子にとって、第二次世界大戦末
 後数年間まで、馴染みがあった。

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