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イギリス海運における船員雇用
―その歴史的概観―
Employment of Seafarers in British Shipping
─Its historical overview─

篠 原 陽 一

目次
はじめに
1 イギリスにおける船員雇用の形成
1 「後進」海運国イギリス
  2 イギリス海軍の強制徴発
  3 イギリス海運の船員補充方法
  4 外国人、特にアジア人船員の雇用
2 イギリス船員雇用関係の近代化
  1 船員周旋業の規制と船員の登録
  2 船員の訓練と職業資格
  3 外国人船員の雇用差別と規制
  4 海運労使関係の対立抗争
3 イギリス船員雇用関係の制度化
  1 第1次世界大戦後の船員供給制度
  2 戦時船員プールとその効果
  3 第2次世界大戦後の船員常置制度
  4 船員常置制度の1968・73年改定
あとがき

はじめに
 イギリスにおける船員雇用とその制度については、船員常置制度がよく取り上げられるが、
 いろいろな側面をもつ船員雇用関係、それをめぐる労使対立、さらにはそれらの歴史について
 ふれたものは、ひじょうに少ない。そのため、イギリス海運における船員雇用の全体像が、あ
 まり鮮明になってこなかったといえる。そこで、ここでは、イギリス海運における船員雇用の歴
 史的な概観を試み、その本格的な研究の手掛りとしたい【1】。

1 イギリスにおける船員雇用の形成
1 「後進」海運国イギリス
  世界海運の歴史において、イギリスが海運国としての地位を築きはじめるのは、1588年にス
 ペインン無敵艦隊を撃破し、1651年にクロムウェルが航海条令を公布してからである。そし
 て、イギリスが世界海運における覇権を完全に獲得するのは、産業革命の成功のもとでイギリ
 スが“世界の工場、世界の銀行、世界の貿易……”の地位を築き、蒸気船が帆船を圧倒する
 ようになった、19世紀中葉であった。イギリスは、地中海貿易はもとより、大航海時代にも乗り
 遅れた「後進」海運国であったが、海軍と私掠船の活躍、フランス、オランダなど先進海運国と
 の海戦の勝利、植民地の建設・奴隷貿易、そして産業革命を経過して、ようやく海運国となっ
 た。したがって、それだけに、イギリスにおける海運と船員の歴史には、注目すべきものがき
 わめて多い。
  イギリスが、海運国として世界の海に乗り出した時、すでに大航海時代の冒険と略奪と私掠
 の夢は、すでに過去のものになっていたが、それでも商船の数は増加し、長期の遠洋航海に
 出て行った。C.E.フェイル(C. Ernest Fayle)氏は、17世紀にはすでに「中世とは異なって、乗組
 員のうちに商人または船舶持分所有者を兼ねている者が存在しなくなった。大洋航路も当初
 の冒険企業的魅力を失っていた際とて、教養または身分のある者で平船員になろうとするもの
 は殆んどなかった。海員たちは、単なる『労働者』(hands)となってしまった。ペティによれば、
 船員の給与は、なお、『賃銀・賄料(およびいわば居住用の)他の諸設備をふくめて(1週)12シ
 リングの高給』つまり、農業労働者の3倍に相当したと計算されているけれども、彼らの地位
 は、いまや、陸上での比較的割のよい職業と比較すればずっと低下してしまった。彼等は、不
 況期にしがない低賃銀労働者が取扱われるような仕方で、船主から非道い取扱いをうける」
 【2】という状態になっていた。
  イギリス商船は、17世紀最後の40年間に3倍、18世紀の75年間に3倍も増加した。それは植
 民地貿易の拡大と航海条令による海運保護によるところが大きかった。こうした商船の増加
 は、大量の船員を持続的に需要するところとなった。そして、一度、戦争が勃発しようものな
 ら、海軍は一挙に大量の船員(彼らが戦闘に参加しなかったわけではないが、主として運航要
 員としての水夫や航海士)が必要となった。逆に、戦争が終れば、大量の船員が解雇され、大
 量の失業船員が出た。エンクロージア(土地囲い込み)によって、農民が農村から追い立てら
 れ、都市に流れ込み、港湾都市には大量の貧困者、失業者があふれていた。それにもかかわ
 らず、すでにみたように、船員の賃金は陸上より特に高いわけではなく、苛酷な労働と生活が
 あるばかりか、病気(主たる船員の死亡原因)や戦争で死ぬのが当り前になっていたので、船
 員のなり手は少なく、したがって海運であれ海軍であれ、いつも船員不足に悩まねばならなか
 った。したがって、海軍はもとより海運も、尋常な方法をもってしては、船員―特に水夫−を十
 分に補充することができなかった。

2 イギリス海軍の強制徴発
  イギリス海軍の将兵の補充方法は、創設以来、徴兵制ではなく、基本的に志願兵制であった
 (陸軍は志願兵と民兵の組合せであった)。しかし、戦時になって、大量の戦闘・運航要員が必
 要になると、そうした方法では要員をとうてい充足できなかったので、強制徴発という方法
 (impressment)を一時的に採用することが、法的に認められていた(陸軍も同様であった)。そ
 れは、艦隊や艦船が港湾都市に補充駐屯所(rendezvous)を設置し、徴発隊(pressgang)を編
 成して、要員を捕獲する方法であった。その徴発対象は、いろいろ変化したが、おおむね一般
 成年男子(老人を除く)であった。実際のところは、有能な商船船員にならざるをえなかった。
 徴発隊は、港でぶらぶらしている船員や若者を連行したり、徴発船を仕立てて帰港中の商船
 を停船させて、それから船員を奪った。おおむね禁じられていたが、往航中や航海中の商船
 からも船員を連行したり、また外国商船に乗り組むイギリス人船員も下船させた。
  こうした商船船員の強制徴発をもってしても、船員が不足するので、戦時・平時にかかわら
 ず、1597年放浪者取締法(Vagrancy Act)や1795年割当法(Quota Act)は市長が放浪者、浮
 浪者、救貧者、軽犯罪者を、海軍に送り込む権限を認めていた。こうして送り込まれた貧困者
 は、強制徴発船員よりも多かったといわれるが、船員としてはほとんど役に立たなかった。こう
 した補充は、いうまでもなく、資本主義の本源的蓄積期における労働強制の一環であった。商
 船は、その乗組員を強制徴発された場合、海軍から代替船員を受け取ることになっていたが、
 それに当てられたのがこれら貧困者であった(そうして乗り組まされた船員をmen‐in‐lieuと呼
 ぶ)。こうした方法で、海軍は商船から有能な船員をかっさらうとともに、無能で都合の悪い連
 中を商船に追い払った。そのため、商船は有能な船員を奪われて運航不能に陥ることが、し
 ばしばであった。こうした強制徴発に対して、市民はおそれおののき、時には暴動まで引起し
 た。海軍の強制徴発には、その後いろいろな規制がくわえられたが、第1次世界大戦時に徴兵
 令が出されるまで廃止されることはなかった【3】。

3 イギリス海運の船員補充方法
  他方、商船船員の補充方法は、どうなっていたか。それは、よく知られているところである
 が、J.S.キッチェン(J. S. Kitchen)氏は次のようにまとめている。「18、19世紀、多くの船員は
 “周旋業者”(crimps)を通じて、乗組員が欲しい船主に雇われることになっていた。周旋業者
 は、海港にある酒場(ale houses)や簡易宿泊所(1odging houses)の経営者であって、船員に
 安い寝床を、流れ者に仮のねぐらを提供していた。彼らの目的は、船員に金を使い果させたう
 えで船員を脅し、商船に売り込むことにあった。船員は、周旋業者に借金を抱え込まされ、船
 に連れ込まれることになった。その船で署名をして、賃金の前渡しを受けるが、そこでばかば
 かしいほど安い交換率で、前渡金(advance)の手形が割引かれ、船員は借金を清算したこと
 になる。また、船が入港すると、船員は引きずり降されるか、酒場に行かざるをえないようにさ
 れるので、いずれにしても周旋業者に従わざるをえない。船員は、いつも、そうした方法でだま
 しつづけられ、まったく不利な状況におかれ、周旋業者から逃げ出す機会を奪われつづけた」
 【4】。
  この船員周旋業者は、すでにみたように、船員のなり手が少なかったので、誘拐的な行動に
 出る場合がしはしばであった。若者を甘い言葉で誘惑し、酒場に引っ張り込み、悪酔する酒を
 しこたま飲ませたうえで、金品を巻き上げ、監禁部屋に閉じ込めたりして、出港間際の商船に
 連れ込んだ。周旋業者は、自分が扱っている船員の商船が入港すると、着岸しないうちに乗り
 込み、その船員の賃金や持物を差し押えたりした。アメリカ大陸では、誘拐的な補充を、上海
 る(shanhai)と呼んでいる。イギリスの周旋業者は、商船船員の補充を行っていただけではな
 く、海軍が強制徴発をはじめると、それに協力した。その場合、周旋業者は船員や成人を誘拐
 して、海軍に引き渡し、被教発音に支払われるべき賜金(bounty)を横取りした。この賜金は、
 戦争がはげしくなると大幅に引き上げられたので、周旋業者にとって大儲けの礫会となった。
 この船員周旋業者に対して、19世紀中葉よりいろいろな規制がくわえられるようになったが、
 20世紀中葉までなくなることはなかった。
  イギリスにおいて、いろいろな船員訓練機関が設けられはしたが、本格的な機関が設立した
 のは、20世紀に入ってからであった。そのため、少年が船員になろうとする場合、船長と年季
 奉公契約を結び、徒弟にならねばならなかった(an indentured apprentice ship)。その場合、
 その親は船長に、謝礼金(premium)を支払った。1563年職人規制法において、航海徒弟制が
 明文化された。しかし、そうした本来の徒弟が、それほど多くいたとは考えられない。それで
 も、多くの少年が商船に送り込まれていた。1601年エリザベス救貧法は、市長が教区における
 救貧少年や救貧者の子供を見つけて、年季奉公契約をさせて海上に追いやることを認めた。
 さらに、1703年船員増加法(an Act for the Increase of Seamen、etc)は、そうした10歳以上の
 少年を21歳になるまで年季奉公させること、すでに徒弟になっている教区救貧少年を海上勤
 務に切り替えることを認めるとともに、その船のトン数に応じて一定の徒弟を乗り組ませるよ
 う、船長に義務づけていた。こうした救貧徒弟制は、資本主義成立期における労働強制の一
 環であるとともに、救貧費用の節減の有効な手段であった。この制度は、1970年商船法が制
 定されるまで、廃止されなかった。

4 外国人、特にアジア人船員の雇用
  イギリス海運は、少なくとも20世紀までは、船員職業自体が魅力ある職業でなかったうえに、
 海軍に有能な船員を奪われ、そして逆に労働意欲の乏しく無能な貧困者や救貧少年をかかえ
 ざるをえなかった。それでも、戦争が終ると、海軍は大量の徴発船員を放出したので、港湾都
 市には失業船員がみちあふれ、海運はよりどりみどりであった。したがって、海運にとって持続
 的に船員を確保して行くには、船員周旋業者に依存することが、適切な方法であった。さらに、
 その誘拐的・詐欺的な行為で、船員が補充されてくることは、賃金抑制の方法としても有効で
 あった。そうしたことで、なんとかやって行けなかったわけではないが、船員の供給量や賃金水
 準の変動はさけられなかった。そこで、イギリス海運が船員を安定的に確保し、かつ賃金費用
 を抑制しうる方法として採用したのが、外国人船員の雇用であった。
  イギリス商務省は、次のようにのべている。「イギリス以外に居住するイギリス船部員の雇用
 は、17世紀以来のイギリス海運の特徴となっている。イギリス船の乗組員には“女王の臣民”
 を雇用することが、国の政策として奨励されていた。しかし、1660年に“東洋に行く”イギリス船
 の乗組員は、その4分の3がイギリス人でなければならないとする法律(第2次航海条令、引用
 者注)が制定された。18世紀のあいだ、かれらの雇用は立法府の承認を受けてつづけられ、
 そして航海条令の廃止にともない部員の労働市場はすべての希望者に開放された。かなりの
 外国人部員の流入がみられたが、それは主として北ヨーロッパからの流入であった。イギリス
 の離島、北ヨーロッパ、そしてアジアという3つの供給源は、第1次世界大戦までつづいた労働
 市場の傾向であった。その間、北ヨーロッパ人はいろいろな理由から、目立った数ではなくなっ
 て行った。1919年の外国人制限改正法(the Aliens Restriction(Amendment)Act)は、雇用さ
 れつづけているアジア人船員とその特殊な賃金率に関する地位を、法制的に確立した。アジア
 人部員に低賃金を支払うという船主の自由は、1968年人種関係法(the Race Relation Act)ま
 で制約されることはなかった」【5】。
  この航海条令は、戦争のたびごとにゆるめられた。たとえば、1709年法は戦時中にかぎりイ
 ギリス船に乗り組むイギリス人の比率を4分の1まで引下げてよいと規定した。それは、「強制
 募集制度によって徴発されたイギリス船員或いは賞与〔賜金、引用者注〕目当てに海軍志願兵
 になったイギリス船員にとって代るために外国人海員を雇傭することを許容せざるを得なかっ
 たからである。さらには、航海条例の規定する諸制限が耐えがたい桎梏となりつつあった西イ
 ンド諸島植民者の不平に応えるためにも、より恒久的な条例の修正を必要とした」【6】からで
 ある。1794年法は、イギリス人船員の範囲を、自国出生市民、帰化市民、居留民証書所持市
 民、征服地、譲受地の市民のほか、イギリスに寄港しない商船に乗り組む西インド人
 (negroes)、東インド人(boars)、その他アジア人をも、イギリス人船員として雇用されたものと
 みなすと規定した。このようにして、外国人船員の雇用は拡大されて行ったが、それにともない
 イギリス国内に放置される東インド人が増加し、彼らを扶養するための教区の救貧負担がいち
 じるしく増加しはじめた。
  1823年法は、イギリス人船員とみなす範囲をすべての東インド人、その他アジア人にまで拡
 大したが、その際それらと西インド人とを区別した。それと同時に、ヨーロッパ人とは能力や作
 業の面では、同等とみなさないとも規定し、また100登録トン当り本来のイギリス人船員を4人
 乗り組ませるようにした。それは、航海条令の趣旨をそれほどそこなわないようにしながら、ヨ
 ーロッパ人よりも東インド人を雇用するよう奨励するものであった。ここにおいて、航海条令の
 制限はおおむねその意義が失われることになり、1849年に廃止されることになった。それにと
 もない、いままでとは逆に、東インド人やその他アジア人船員を、イギリス人船員とみなしたり、
 取扱ったりしないことになった。なお、それとは逆に、内航船の乗組員については、すべてイギ
 リス人でなければならなくなった。この航海条令の廃止は、いうまでもなく、イギリスが海運国と
 して世界海運の覇権をとったことを意味するが、それは同時に、外国人船員の雇用が無制限
 に許容され、その覇権がさらに確実になって行く方法ともなったのである。ただ、1894年商船法
 (the Shipping Act)は、船長、1等航海士、機関長はイギリス人でなければならないと規定し
 た。
2 イギリス船員雇用関係の近代化
1 船員周旋業の規制と船員の登録
  1845年、船員が船から逃げるのをやめないかぎり、船に船員を乗り組ませるには、周旋業者
 を通じて行なう以外に方法はないという強硬な反対意見があったにもかかわらず、船員保護法
 (the Seamen’s Protection Act)がようやく議会を通過した。その前文には、「ここ数年問、乗
 り組んでも利益にならないような船に、船員が乗り組まざるをえないように仕向けるある種の人
 びとによって、イギリス王国の船員は重い負担と大変な不正のもとにおかれている……」とし
 て、次のような船員周旋業の規制を行なうこととした。船員周旋業者は免許を受けなければな
 らないし、供給船員から金品を受け取ったり、要求したりしてはならない。それに関連して、前
 渡し賃金は乗船して6時間後に、船員に直接に支払われることとした。そして、周旋業者は、船
 長の許可をえずに着岸前に船に乗り込んだり、入港後24時間以内に訪船して、船員に借金さ
 せて下宿に泊るようそそのかしたり、船員の持物を持ち出したり、あるいは過大な宿泊料を取
 ったり、借金の代りに持物を不当に割引いたりしてはならないことになった。
  船員の登録は、海軍が強制徴発を行ったり、船員からも6ペンスの福祉税を徴収したりする
 必要から実施されていたが、船員保護としてはなにほどのこともなかった。1729年法は、船員
 に雇入契約を所持させることにしたが、これまた不正な補充慣行に十分な効果を上げえなか
 った。1835年法は、雇入契約が読み上げられ、立会人の面前で署名させるよう規定したが、こ
 れまた効果を上げえなかった。それでも、1844年一般商船船員法(the General Merchant
 Seamen’s Act)は、船員の登録証(Register Ticket)の所持を強制した。1850年、イギリス船員
 雇用にとって、一つの大きな転機となった法律が、ようやく成立するところとなった。1850年商
 船法(the Merchant Marine Act)は、船主に地方海事委員会(Local Marine Board)を設置さ
 せ、それを通じて海運の業務や法律の施行を監督しようとするものであった。また、雇入契約
 の様式を改善し、それをその海事委員長(Shipping Master)の立会いのもとで読み上げ、説明
 したうえで、船員に署名させるようにした。そして、委員長は法定手数料以外の報酬を受け取
 ったり、要求してはならないと規定した。さらに、その船員の範囲に、新補充者も含めることに
 した。
  このように、船員周旋業に対する社会的な批判が強まり、それを規制する法律が制定された
 ものの、それらはまったく有効性を発揮しえなかった。それが本格的に規制されるには、後述
 するような制度や運動が必要であった。J.S.キッチェン氏は、「あからさまにいって、船員周旋
 業は法律の威信によって消滅したわけではない。同時代人によれば、周旋業は19世紀末ま
 で、船員生活の一側面であったと強調されている。事実、1889年にリバプールで、全国合同水
 火夫組合(the National Amalgamated Sailors’ and Firemen‘s Union of Great Britain and
 Ireland、N.A.S.F.U.)が最初の大ストライキを行った際、周旋業者たちは船主側について活動し
 ていた……海運連盟(the Shipping Federation、S.F.、1890年)が設立され、それが同事務所に
 おいて船員を雇入れるようにすると主張したことが、この国で周旋の慣行を最終的に終らせる
 ことになった」【7】としている。しかし、後述するように、真の意味で、船員周旋業が終るのは、
 1947年の船員常置制度の設立にまたねばならなかったとみるべきである。
  なお、1970年商船法および商務省規則には、1845年船員保護法の趣旨にそった規定が、い
 まなお残されている。

2 船員の訓練と職業資格
  イギリスにおける船員の訓練は、最近まできわめて貧弱な体制で行なわれてきた。ロッチデ
 ール報告は、次のようにのべている。「この国におけるはじめての組織的な航海学校は、17世
 紀に創立された。それまでに、『航海術』の教育は、主として個人教師に任されていた。18世紀
 末までに少数の航海学校があったし、多くの公立中学校やその他学校も、航海の授業をある
 程度行なっていた。しかし、これらの学校に通学した船員は、比較的わずかであった。19世紀
 のかなりの時期にいたるまで、船員の大多数は、訓練の全部または大部分を、職場でしかも
 普通は場当り的なやり方で受けていた……。
  現在ある職員向けの学校の大多数は、19世紀の後半および今世紀の初頭に創立されたも
 のであり、部員向けのそれは、主としてもっと新しく創設されたものである。これらの学校の大
 多数は、もともと地元の必要を満たすために港に設置され、したがって居住設備をほとんど必
 要としなかった。今日多数の海技訓練学校があり、しかもその課程が多様であることは、どの
 程度船員に公式の職業訓練を与える必要があることが認識されたか、またどの程度そうした
 必要が長年の間に漸進的に満たされてきたかを如実に示すものである」【8】。
 1850年商船法は、甲板職員の資格制度のほか、その訓練に関する規定を設けていたが、そ
 れを制度的に確立しようというものではなかった。商船奉仕協会(the Mercantile Marine
 Services Association)という団体が、1859年にマージー河に訓練船Conway号、1862年にテム
 ズ河にWorcester号を設け、職員になろうとする少年を教育することになった。その後、各港に
 増加し、16の航海学校と3つの乗船前訓練校が設立されたとされる。それらは、その訓練が義
 務的でなかったため、統一的な基準では運営されず、それぞれが独自な訓練方法を採用して
 いた。また、機関職員の訓練は、まったく放置されていた。こうした状況は、実に、第2次世界
 大戦後のかなりの時期までつづいた。部員の訓練にいたっては、まったく放置されつづけた
 が、それでも第1次世界大戦の経験から、その必要が強調され、海運の官労使の協力のもと
 で、1918年にグレーブセンドに海員学校が設立された。その後、海運連盟(S.F.)は各港に海
 員学校を設立し、第2次世界大戦後には12か所になった。その他、19世紀以来からあった宗
 教、慈善、公共団体の訓練校も10か所になっていた。最近はともかく、こうした訓練機関の修
 了者は、新規補充船員にくらべ、かなり少数であった。
  1935年、海運の官労使は中央委員会(Central Board)を設け、甲板見習職員の全産業的な
 訓練課程を確立した。1942年、同委員会は商船訓練委員会(the Merchant Navy Training
 Board、M.N.T.B.)に改称され、すべての船員職種の訓練基準を制定したほか、職業資格の付
 与など広範な事業を実施するようになった。1944年バトラー教育法が制定され、義務教育は10
 年15歳(1971年に16歳)にまで延長され、また18歳まで全日制の教育機関に在籍しない少年
 に対し、継続教育(Further Education)を提供する規定を設けた。1964年、産業訓練法(the
 Industrial Training Act)が制定され、すべての労働者に適切な職業訓練を提供すること、その
 費用は産業全体で公平に分担すること、しかもそれを全国的なシステムとして行なうことを、目
 標とした。それにともない、海運産業も戦前にくらべ学校卒業資格の高い入職者を受け入れざ
 るをえなくなり、また職業訓練を拡充しなければならなくなった。
  M.N.T.B.は、1964年以来、全産業共通の職業資格である普通国家得業免状(Ordinary
 National Diploma、O.N.D.)を付与することができる甲板職員訓練課程を設定し、さらに1970年
 にはO.N.D.より一段低い普通国家得業証書(Ordinary National Certificate、O.N.C.)の課程を
 設定した。機関職員の訓練は陸上の技術学校(Technical College)で行なわれていたが、その
 職業資格については早くも1952年より海上でO.N.D.を取得できる訓練課程が制定されていた。
 1960年代後半より、M.N.T.B.もその訓練課程について積極的に関与するようになった。1970年
 代に入って、甲板、機関職員訓練課程に、卒業資格の高い入職者を受け入れる課程も追加さ
 れた。甲板、事務部員の訓練は、全英海員学校(National Sea Training、College、Gravesend)
 でほぼ集中的に行なわれるようになり、その訓練課程に下級免状(5,000総トン以下の当直免
 状)を取得できる課程が設けられるようになった。なお、機関部員のための海員学校や訓練課
 程はなく、陸上の産業訓練に依存している。なお、現行の船員の訓練、資格、学校の状況につ
 いては、他の文献にゆずる【9】。

3 外国人船員の雇用差別と規制
  1894年商船法は、アジア人船員について、いくつかの重要な差別規定を設けた。第1に、イン
 ド人船員にふさわしい内容を持つ雇入契約でもって雇用することが要求された。第2に、その
 最低要件として、インド人船員はインド向け船舶に再契約されることを認めることを要求され、
 また雇用者は船員のインドヘの帰国を確保する方法を契約に規定するよう要求された。第3
 に、アジア・アフリカ人船員がイギリス国内に遺棄されて、救貧を受けたり、秩序を乱したりした
 場合、雇用者には罰金が課せられることになった。なお、この点、インド人船員は雇用者の負
 担で、救貧されることになっていた。こうした規定は、イギリス人とアジア人船員、そして外国人
 におけるヨーロッパ人、インド人、その他アジア・アフリカ人この差別を容認するとともに、次第
 に増加してきたアジア人船員をイギリス国内に滞留させず、母国に送還しようとするものであっ
 た。1919年外国人制限改正法は、「商務省は、どのような人種の外国人が、どのような資格で
 あれ、どの地域からであってでも、慣行として船舶に雇用されることを容認し……イギリス人の
 ために賃金率が設定されている場合に、それ以下の賃金率でもって雇用されるという、それら
 人種の外国人の権利を侵害しようとするものではない」という規定を設け、異なる人種には異
 なる賃金率という伝統的な賃金差別の原則を、法律のうえで確認した。1914年、第1次世界大
 戦の勃発にあたり、船主が大量のアジア入船員を雇用したことに対して、船員団体は反対した
 が、現実には大量に雇用された。そうした状態を、戦後になって、法的に確認したのが、上記
 の規定である。なお、この1919年法は1894年商船法における船長、1航、機関長はイギリス人
 にかぎるという規定を再掲している。
  イギリス海運は、外国人船員を賃金差別しながら、約3世紀にわたって雇用しつづけてきた
 が、1968年人種関係法はイギリス国内で雇用されている外国人労働者について、賃金をはじ
 めとした差別待遇を一般的に禁止した。その際、イギリス船に雇用されているイギリスに居住
 しない外国人船員が問題となった。雇用者からの要請により、イギリス政府はそれを例外とし
 て容認しはしたが、その差別を廃止するよう奨励した。海運労使による海事協同会(the
 National Maritime Board、N.M.B.)の1969年非ヨーロッパ人船員配乗に関する実務協定は、現
 状以上に非ヨーロッパ人部員の雇用を拡大しないことを規定し、また1975年協定はその雇用
 者にペナルティを課すことを規定した。こうしたアジア人船員の雇用規制と差別是正の方向づ
 けが出されたことで、1976年人種関係改正法においても海運は適用除外となった。1970年商
 船法は、それ以前の1894年法にあった雇用上の差別を解消するようになり、アジア人船員保
 護の性格を強めたが、若干の規定は選択的な差別規定として残っている。また、1970年法は
 1894年法や1919年法の船長等はイギリス人でならなければならないという規定を廃止したが、
 海技免状の取得要件をテコにして、従前と同じ効果を上げているという【10】。

4 海運労使関係の対立抗争
  イギリス船員の状態は、ロッチデール報告が認めているように、悲惨な状態がつづいた。「19
 世紀の初期には、ほとんどの船員の身分は、羨しがられるようなものではなかった。船員は、
 海上では、しばしば堪航性のない船の中で、危険で貧しくみじめな生活を送っていたし、陸上で
 は、しばしば不良周旋業者やその他の搾取者の犠牲になっていた。彼らを保護する全国的な
 労働組合はなく、国家は、彼らの福利厚生を確保するために、示渉を行なうことはほとんどな
 かった。今日では、様相は、非常に変わっている」【11】。それでも1825年の団結禁止法廃止以
 前にも、いくつかの船員の組合があり、かなり活発に活動していたが、いずれも短命に終っ
 た。1851年に、Penny Unionと呼ばれる船員組合が北東海岸に結成され、25支部30,000人にな
 ったが、これまたオーストラリアのゴルード・ラッシュや鉄道の発達にともなう沿岸航路の衰退
 により、1858年に消滅した。その後は、かの有名なサムエル・ブリムゾル(Samual Plimsoll)氏
 の船舶安全の闘いや、ジェームズ・フェル(James Fell)師の周旋業との闘いがみられただけで
 あった。
  1878年に、将来、恒久的な部員組合の基礎となる通称Sunderland Seamen’s Unionなどが
 設立されたが、成功しなかった。そして、1887年、その組合の著名な活動家であったJ.ハベロ
 ック・ウィルソン(J. Havelock Willson)氏が全国合同水火夫組合(N.A.S.F.U.)を設立した。初期
 のこの組合はきわめて戦闘的であり、1889年にはリバプールで6週間のストライキが行なわ
 れ、その後ストはあたりまえになった。同組合は、すべての部員を組合員にしようとして活動
 し、結成2年後には50支部65、000人にもふくれあがった。こうした組合攻勢に対して、船主は
 1890年に“ストライキという武器に対抗する戦闘機構”(a fighting machine to counter the
 strike weapon)として、海運連盟(S.F.、その後B.S.F.、現在 G.C.B.S.)を結成した。このS.F.は、
 ストライキに対して3隻の要員補充船(depot ship)にスト破りを乗せて対抗したり、組合員を雇
 えという要求に対して連盟雇用証(Federation Ticket)を発行して、それを所持する船員を優先
 雇用したりした。
 このように、イギリスの海運労使は全面的な対立抗争をくりひろげることになったが、1890年
 代 初頭の不況と船主の攻勢のもとで、N.A.S.F.U.はその力を急速に弱めてしまった。その後、
 各種の海員組合が再生され、組織も急速に拡大した。1911年には、海員・港湾大ストライキが
 行なわれたが、政府が船主に好意を示さなかったため、組合に有利に展開した。また、同年、
 国民保険法が制定された。それにともない、S.F.も労使関係の近代化にふみきらざるをえなく
 なり、船員団体を“善良な労働組合”として承認した。しかし、連盟雇用証の所持者の優先雇用
 を直ちにやめたわけではなかった。第1次世界大戦がはじまって、多数の船員が必要になり、
 多くの正当な要求が出されるようになった。イギリス政府は、1917年7月、S.F.と全国水火夫組
 合(the National Sailors' and Firemen's、Union、N.S.F.U.、N.A.S.F.U.の後身)を召集し、海事協
 同会(N.M.B.)を設置した。このN.M.B.の設置は、イギリス海運労使関係の大きなエポックとなっ
 た。

3 イギリス船員雇用関係の制度化
1 第1次世界大戦後の船員供給制度
  戦後の1920年、イギリス政府の斡旋により、海運労使は合同産業協議会を設立し、戦時と
 同じN.M.B.という名称を引継いだ。創立当時の同会は、「イギリス王国の海上覇権の維持にあ
 たり、イギリス商船隊の雇用者と被用者が緊密な協調を確保するため……(a)船主と船長、海
 員および見習との紛争の防止と調停、(b)商船における全国標準賃金率および所定の雇用条
 件の設定、改正および維持、(c)雇用者と被用者の合同管理による水夫および火夫の単一供
 給制度の設立」を目的としていた。
  船員団体はその本来の目的から、結成以来、船員周旋業者に対抗し、船主の搾取を制限す
 るため、船主に対して賃金率の交渉を行なうとともに組合員だけを雇用するよう運動してきた。
 船員団体が多数の船員を組織しはじめ、自由な契約と補充の利益がなくなることを恐れたS.F.
 は、連盟事務所を通じての補充や連盟雇用証の発行などで対抗した。N.S.F.U.などは、1911年
 国際海員ストライキの統一要求ともなった、「海運連盟事務所における雇用の停止」、「契約調
 印の時に船員代表が出席する権利の保証」、「最低賃金制……の設定」などを、1910年にイギ
 リス船主に要求していた。このストライキは成功をおさめ、連盟雇用証がなくても雇用されるこ
 とになったが、根本的な解決ではなかった。そうした船員供給をめぐる労使対立に、政府が介
 入して、一定の解決をあたえたのが、第1次世界大戦後のN.M.B.における水火夫の単一供給
 制度(a single source of supply)であった。 同制度は、海運労使双方がそれぞれ一手に掌握
 しようとして努力してきた部員供給を、共同管理(jointly control)というかたちで解決しようとし
 た妥協の産物であったが、船員団体にとっては船主の自由な補充を制限した点で、大きな前
 進であった。また、全国的賃金率を設定し、さらに雇用契約時に組合代表者が立合うようにな
 ったことは、船主の自由な契約を阻止し、船員周旋業者の活動を制約しうるようになった点で
 も同様であった。
  しかし、この部員単一供給制度は、部員供給を単一の機構にし、それを共同管理することに
 したにすぎず、また商船法などが期待している雇用慣行を産業上の制度として定着したにすぎ
 ない。さらに、重要なことは、船員の継続的な雇用とその確保を保障しようとしたものではなく、
 また船員の下船時における生活維持を保障しようとしたものでもない。また、船員の登録ある
 いは補充・解雇を通じて、その雇用量を調整する機能を持つものでもなかった。それは、あくま
 で労使による部員供給の共同管理制度であって、労使による部員の共同雇用制度ではなかっ
 た。したがって、船員は海運産業の景気変動に応じて吸引と反発を余儀なくされ、その雇用の
 安定はなかったのである。
  すでに、戦前からウィルソン氏の率いるN.S.F.U.は、J.コッター(J. Cotter)氏の率いる料理人・
 司厨員組合(the Cooks’and Stewards’ Union、C.S.U.)やE.ジンウェル(Emmauel Shinwell)氏
 の率いるイギリス海員組合(the British Seamen’s Union、B.S.U.)と対立していたが、N.M.B.の
 設立とともにふたたびN.M.B.内における組合代表権をめぐり、はげしく対立するようになった。
 ウィルソン氏は、N.M.B.においてC.S.U.が事務部員の代表であることを認めていたが、B.S.U.を
 友誼組合とは認めず、N.M.B.から追い出した。戦後不況のもとで、ウィルソン氏は賃金カットに
 合意したが、C.S.U.はそれに反対してストライキに入った。S.F.とN.S.F.U.とは一体となって、C.S.
 U.に対抗した。そうした背景のもとで、1922年に、S.F.はN.M.B.における唯一の真の部員代表は
 ウィルソン氏の組合とすることに同意し、さらにクローズド・ショップを認めた。それにともなう新
 しい協定はPC5(Port Consultant5)と呼ばれる船員供給の書式を採用し、労使双方の職員が
 捺印することとなった。組合職員は、組合費完納者でなければカードを発給せず、また捺印し
 ようともしなかった。同年、C.S.U.とB.S.U.は合併して、合同海員組合(the Amalgamated
 Marine Workers’ Union、A.M.W.U.)となり、ウィルソン氏のN.M.B.における組合代表権やクロー
 ズド・ショップに反発するとともに、1925年には賃金カットに反対するストライキを行った。それに
 対し、S.F.とN.S.F.U.はN.M.B.が定めている賃金率や雇用条件を遵守することを誓約した船員に
 かぎり、雇用するという協定を結んだ。こうした協定にくわえ、C.S.U.とB.S.U.との合併を否認す
 る判決が出されたため、A.M.W.U.は解散を余儀なくされた。そこで、N.S.F.U.は事務部員をも組
 織して、1926年、全英海員組合(the National Union of Seamen、N.U.S.)と改称し、イギリスで
 ほぼ唯一の部員組合となったのである。
  N.M.B.および部員単一供給制度はうえにのべたような限界があるとしても、部員とその組織
 にとって大きな前進であった。こうした制度が確立されなければ、世界の船員労働の近代化は
 さらに遅れたであろう。それはともかく、船主やS.F.にとって、それはあきらかに大きな後退であ
 ったにちがいないが、必らずしもそうではなかった。いまみたように、ウィルソン氏とそのN.U.S.
 は、N.M.B.が設立されると、それを維持するためにライバル・ユニオンを制圧し、S.F.から唯一
 の部員代表組合としての地位とクローズド・ショップを容認された。そのことを通じて N.M.B.す
 なわち海運労使関係は長期的に安定することとなり、“世界に誇るべき労使関係”とか、“その
 労使関係は他産業の模範”であるとかといわれるまでになったのである。しかし、逆にJ.C.キッ
 チェン氏が指摘するように、クローズド・ショップは「平組合員の意見がますます無視される」と
 いう結果となり、「組合指導者は、その行動に関して、定期的に、平組合員の怒りに直面せざ
 るをえなくなった」【12】のである。その際、重要なことは、イギリス海運の労使関係の安定化、
 協調化が、政府の支持のもとで進められ、確立したことである。

2 戦時船員プールとその効果
  第2次世界大戦が勃発し、多数の新しい船員を受入れ、それを保持する必要が生じた。イギ
 リス政府は、1941年に商船要員令(Essential Work(Merchant Navy)Order)を公布し、200総ト
 ン以上の商船乗組員の職場離脱を禁止し、他方その召集義務を免除した。それにもとづき、
 商船予備員プール制(Merchant Navy Reserve Pool)が設けられ、新しい船員を受け入れると
 ともに、下船した船員をそのプールに強制的に編入し、乗船中賃金を若干下回るプール賃金
 を支給することになった。乗船中賃金はもとより、このプールの運営費用はイギリス政府が負
 担したが、その運営は政府の委任によりS.F.が行なった。こうした労働力統制によって、戦時
 中の商船要員ほ確保されることになったが、それは戦後における船員供給、雇用方式を決定
 する際に、海運労使が検討の余地をせばめるものとなった。このプールは、N.U.S.から、船員
 団体が長年にわたって求めてきた方式が実現したと評価されていたからである。
  1944年7月、ロンドンで開催された国際船員会議は国際船員憲章(the International
 Seafarers’Charter)を採択し、戦時中採用された規則的な雇用制度を大きな進歩とみなしたう
 えで、「船主によって継続的に雇用される制度が設定されるべきであって、ただ船員が希望す
 る場合にのみ、かかる関係は中断されるべき」であり、「各国は適当な港に事務所をもった船
 員プールを設置しなければならない」し、プール船員には乗船中賃金の80%以上の手当が支
 払われるべきであるとした。
  また、1946年6月、シアトルで開催されたI.L.0.第28回(海事)総会は、船員の継続雇用に関す
 る決議を採択し、「平時において雇用の規則性と継続性を船員に提供する体制が確立される
 ことは、大いに望ましいことであり」、それを「推進するための全国的機構の設置と維持、およ
 び正規雇用期間が中断している期間において、船員に生活費を支給する規定を検討すべきで
 あり」、「その機構は、その国籍を有する船員またはその国に居住する船員で、その国の航洋
 船に通常勤務する者に適用すべきである」としたのである。
  このような国際的な動向にくわえて、イギリスにおいても船員の多大な犠牲をともなった戦争
 協力の代償として、また“船員の労働条件を戦前の状態に逆もどりさせてはならない”という熱
 望のもとで、戦後において船員雇用制度は何らかの改革を行なわざるをえない情勢におかれ
 ていた。イギリス海運労使は、戦時中からN.M.B.において、戦後処理について団体交渉をつづ
 けてきたが、その焦点は戦時危険手当の廃止と船員雇用制度の改革であった。1946年2月、
 新しい協約が締結されたが、それは稼得賃金の引下げと船員常置制度(the Merchant Navy
 Established Service scheme、M.N.E.S.S.)の設立など広範な内容を含んでいた。T.エーツ
 (Thomas Yates)N.S.U.書記長は、このM.N.E.S.S.について「これこそ英国商船に働く全船員を
 保証するものであり、海運史上例を見ないほど、あらゆる点からみて申し分のない協約」であ
 ると評価した。このM.N.E.S.S.は、1947年3月より実施されることになったが、平組合員はそれを
 含む新しい協約にけっして満足せず、非公認ストライキを散発的に行なった。こうした状況は、
 第1次世界大戦後と同じことの繰返しであり、W.U.S.の方針や指導者の態度が、基本的に変化
 していなかったと評価されるような経過であった。

3 第2次世界大戦後の船員常置制度
  船員常置制度の目的は、「所定の海上履歴を持つ船員に安定的で魅力ある職歴ときわめて
 規則的な雇用(a stable and attractive career and greater regularity of employment)を提
 供することで、船員が商船隊に期待するようにさせ、そして船主に対して航海中および停泊中
 の船舶に、有能で信頼のおける船員(efficient and reliable personnel)を配乗し、それを維持
 することにある。この制度のもとにおかれる船長、職員および部員(以下船員という)の数は、
 船舶の稼動状況および常時、船内作業に船員を雇用している船主の自由意志によって決めら
 れるものとする。将来の雇用については、適宜、できるかぎり長期の推定を行なうこととする。
 なお、季節的な変動を考慮しながら、この制度に加入資格のある船員をできるかぎり多数、常
 置制度に入れ、いかなる場合もそれら船員の70%以上を入れることを目指すものとする」とな
 っている。
  この目的において、雇用制度としてのM.N.E.S.S.の本質が、あますところなく示されている。ま
 ず、第1次世界大戦後の労使共同管理の船員供給制度とはちがって、船員に規則的な雇用を
 それなりに保障する制度となっており、船員雇用の近代化の一つの到達点をなしていよう。そ
 の場合、船員の雇用量はあくまで、船主の自由意志にゆだねられており、制度自体がそれを
 規制することを放棄しているし、さらに規則的な雇用を提供する最小範囲を加入資格のある船
 員の70%においている。
  次に、この制度の適用範囲は、「イギリス王国あるいは近接のヨーロッパ大陸において、海
 事協同会の通常の協定が適用される船舶と雇入契約(Articles)を結ぶ乗組員に適用される。
 アジア人およびアフリカ人の乗組員には適用されない」としている(なお、マルコニー国際無線
 会社と直接雇用契約を結んでいる通信士も、適用外である)。この適用範囲は、すでにのべた
 I.L.0.決議と一致しており、イギリス居住船員およびヨーロッパ人船員とアジア・アフリカ人船員と
 を、広い意味での雇用制度において、完全に差別する内容となっている。この適用範囲(第2
 条)と目的(第1条)との関係は明示されていたが、文字通り読めば、アジア・アフリカ人船員の
 雇用量もまた船主の自由意志にゆだねられているはずであるから、イギリス居住船員および
 ヨーロッパ人船員と、アジア・アフリカ人船員との構成比率は未確定である。それにより、前者
 における常置船員の構成比率を70%以上にするといっても、その絶対量は未確定とならざる
 をえない。したがって、M.N.E.S.S.が提供する規則的な雇用の範囲は、きわめてあいまいなもの
 にならざるをえない。
  常置船員の種類には、会社常置船員(Company Established Employees)と一般常置船員
 (General Established Empl1yees)とがあり、そのいずれになるとしても勤務成績が良好でなけ
 ればならず、前者はまったく会社の選別にまかされている。会社またはM.N.E.S.S.は、それら船
 員を雇用する場合、2年間にわたって規則的な雇用を提供するという会社勤務契約
 (Company Service Contract)または一般勤務契約(General Service Contract)を結ぶよう要
 請されている。その2年間において、雇入契約の有無にかかわらず、船員に就業機会を提供
 できない場合、M.N.E.S.S.は一般常置船員に失業保険金以外にそれを補完する常置手当
 (established benefit)を、また会社は会社常置船員に失業手当金および常置手当を上回る手
 当を支給しなければならない。したがって、その手当の支給の終る、すなわち雇入契約が更新
 されないかぎり、常置船員はM.N.E.S.S.または会社から排除される。ただ、会社が一般常置船
 員に会社常置船員と同額の手当を支給すれば、下船後もそれを自社に留保することができる
 (この種船員は、会社常雇い船員(Company Regularsと呼ばれている)。また、会社が会社常
 置船員を一般常置船員に切り替えた場合、船員には6か月間の常置手当が支給される。な
 お、一般常置船員は非常置船員に対して優先的に雇用される。非常置船員も、M.N.E.S.S.に登
 録されるが、常置手当の支給はない。
  このM.N.E.S.S.は、「イギリス海運連盟とリバプール港雇用者が、商船常置船員の管理および
 統制の責任を負い、それを本協定では管理委員会(the Administration)と呼ぶ」という規定で
 もって運営されている。その運営費用は、それら船主団体の構成船主が共同で負担している。
 また、管理委員会と船員団体は、同数の代表者による中央委員会(Central Board)を設けて、
 一般常置船員数の決定、船員の配乗や交代に関する方針を審議することになっている。しか
 し、それらの最終的な決定権は、管理委員会が持っている。したがって、船員団体はM.N.E.S.
 S.に関して、単に諮問にあずかっているにしかすぎない。山本泰督氏は、「イギリスの普通船員
 の海員組合が労働力の唯一の供給源でありながら、組合員全体の雇用の安定、継続性をは
 かるべく常置制度の枠の決定に関与しないで、船主ないし船主団体が実質的には一方的に常
 置船員数、常置船員への採用権を把握している」【13】と評価している。
  このように、M.N.E.S.S.が第1次世界大戦後の船員供給制度にくらべ、明確な雇用制度として
 確立され、船主の船員雇用に一定の形式をあたえ、そして一定の範囲ではあるが、船員に規
 則的な雇用と下船中の生活保障を提供するようになった意義はけっして小さくない。しかし、多
 くの本質的な側面において、従前の制度に決定的な変化があったとはみられず、船員団体が
 M.N.E.S.S.や会社の雇用計画を規制しながら、長期的に船員の雇用や下船中の生活を保障す
 る、真の意味での雇用安定制度ではなかった。M.N.E.S.S.は、その目的が示しているように、そ
 の制度を通じて船員の勤務評定を行なって、優秀な船員を長期的に確保し、それを船主に安
 定的に供給する船主の雇用管理制度であるといえる。その点で、労使の共同雇用制度では決
 してなく、船員団体の規制を受けた船主の共同雇用制度でもない。それは、せいぜい船主の
 限定的な共同雇用制度にすぎない。その最終的な意義は、それを個別会社の労働需要の変
 動の全産業的な緩衝体とし、その機能の範囲で船員に規則的な雇用を提供し、それを通じて
 海運労使の安定化をはかることにあるといえる。

4 船員常置制度の1968・73年改定
  こうしたイギリスの船員常置制度は、その後、部分的な修正はあったが、1968年、さらに1973
 年に大幅改定されるまで、その基本は維持されつづけた。その間、イギリス船の隻数、それに
 応じて船員の雇用量が大幅に減少したにもかかわらず、その制度が安定的に維持されたの
 は、イギリス人船員の廃業率や移動率がきわめて高く、常置船員になろうとする船員もそれほ
 ど増加せず、そして外国人船員がそれほど増加しなかったからである。
  イギリス海運は、他の海運国とちがって、深刻な船員不足に悩まされることはなかったが、そ
 れでも1960年代に入ると有能な船員を確保する必要がさらに生じてきた。その一方で、船主は
 アジア人船員の雇用を拡大してきたが、それに対し船員団体は反発せざるをえなかった。さら
 に、1960年代に入ると、海運労使関係は激動期に入った。船員団体は、賃金引上げ、労働時
 間の短縮、休暇の増大など、広範な要求をかかげてストライキを行なうようになった。そして、
 N.U.S.のなかにも、全国海員再生運動(the National Seamen’s Reform Movement)が発生し、
 非公認ストライキも行なわれた。その結果として、N.M.B.では1963年苦情処理協定、1966年船
 内代表協定が結ばれた。また、職員については1938年以来船主拠出の私的産業年金があっ
 たが、1965年になってようやく部員のそれが設定され、常置船員、非常置船員の別なく適用さ
 れることになった。1967年には、ピアソン報告書が提出され、有能な船員の確保とそれに対す
 る安定した雇用の提供のほか、特定会社における継続雇用の促進が勧告された。
  こうした背景のもとで、1968年に、M.N.E.S.S.は大幅に改定されることになった。その目的とし
 て、規則的な雇用だけでなく、規則的な収入を提供することがつけくわえられた。常置船員を
 70%以上確保するという規定は、本来、無意味であったためか、なくなった。アジア・アフリカ人
 船員には適用しないという規定もなくなったが、それは社会情勢を反映したものにすぎず、慣
 行としては適用除外であった。
  常置船員の種類は、従来通りであった、それらが会社またはM.N.E.S.S.と2年間の契約を結
 ぶということではなくなった。会社常置船員は、雇用期間は最低1か年で、3か月前に当事者の
 どちらかが予告しないかぎり、その契約は無期限に継続するという会社勤務契約を結ぷことに
 なった。また、一般常置船員は、従来通りM.N.E.S.S.と契約するが、その契約期間は無期限と
 なり、3か月の予告によって終了するという一般勤務契約を結ぶこととなった。さらに、会社常
 置船員の下船中の生活保障は従来通りであるが、一般常置船員については就業機会がない
 場合、2段階の常置手当が連続支給期間12週間、年間支給期間18週間を限度として支給され
 るようになった。
  このように、常置船員の雇入契約の長期化が意図され、それを通じて船員の継続的な雇用
 を提供しようとする制度となった。会社常置船員の場合、会社がそれを一般常置船員に切り替
 えないかぎり、その下船中の生活を継続的に保障されることとなった。それに反し、一般常置
 船員は常置契約を2年毎に更新しなくてよくなり、規則的な雇用が予定されることになったが、3
 か月予告規定により契約期間が不特定となり、また常置手当の支給期限が限定されたことに
 より、二律背反(いわばambivalence)の状態におかれることになった。
  従来の非常置登録船員の規定は簡単であったが、公的訓練手当などの支給をはじめ、「そ
 の登蘇船員の数を減少させる必要があると判断された場合、または非常置船員が無能力で
 あったり、規律違反や常置船員制度の運営を害するような行為を犯した場合、あるいはそうし
 た行為を犯しかねない十二分の根拠がある場合」、その登録は直ちに取消されるという規定
 が設けられた。こうした規定は、船員の非公認な組合運動に対処しようとした規定である。常
 置船員の規律や処罰の規定は従来から設けられていたが、非常置船員の規定が設けられた
 ことで、その意味あいは拡張した。その反面、平組合員の労使協議への参加要求を反映し
 て、一般常置船員の提供された雇用に対する苦情申立ての権利、常置、非常置船員の処罰
 に対する控訴の権利と、苦情審判所の設置などの規定が、新しく設けられている。
 1970年代に入って、イギリス居住船員の雇用量はいちじるしく減少したが、有能な常置船員は
 増加しなかった。それに対し、アジア人船員は増加し、それに対する船員団体の反発も強まっ
 てきた。さらに、1965年余剰人員解雇手当法が制定され、1968年に海運労使は余剰船員解雇
 手当協約(the Redundancy Payment Agreement)を結んだ。また、1971年労使関係法が制定
 され、種々議論のすえ、1973年に海運労使は公認クローズド・ショップ協定(the Approved
 Closed Shop Agreement)に再署名した。
  こうした背景のなかで、1973年に船員常置制度はふたたび改定されるとこになった。まず、
 常置船員の名称と範囲が変更になり、従来の会社常置船員は会社勤務契約船員
 (Company Service Contract Seafarers)、一般常置船員は登録船員(Registered Seafarers)
 と呼ばれるようになった。従来の非常置船員は登録季節船員(Registered Seafarers
 (Seasonal))として登録されることとなり、それらすべてを常置船員と呼ぶようになった。登録船
 員(季節船員を含む)の無期限の登録(=契約)は、登録船員の側から4週間前に通告した場
 合、余剰船員解雇手当協約またはその他余剰解雇協定の適用を受けて、終了することとなっ
 た。なお、65歳以上になると、登録を取消される場合があるという規定がくわえられた。なお、
 常置手当の連続支給期間は15週間、暦年支給期間は18週間となった。会社勤務契約船員に
 ついては、ほぼ従来通りであったが、契約を終了させられた船員の再審査申立ての規定が設
 けられた。その他、余剰船員解雇手当や公認クローズド・ショップ協定にともなう条文整理が行
 なわれている。
  このように、M.N.E.S.Sは、1968、1973年の改定によって、いわば継続的な雇用から連続的な
 雇用への移行がみられ、また常置船員の雇用上の権利を擁護するようになった。それととも
 に、常置船員が提供された雇用を拒否せず、誠実に就労するように仕向け、それを通じて船
 員を選別して行く、規律的な措置も強化されて行った。そうしたことによっても、M.N.E.S.S.がそ
 の設立以来もっている本質は変化せず、ますます、有能な船員を選別、確保して船主に提供
 し、それを通じて海運労使関係を安定化する役割を強めて行った。なお、M.N.E.S.S.の詳細な
 内容や現行規定については、別の文献にゆずる【14】。
     
あとがき
 以上、きわめて簡略ではあったが、イギリス海運における船員雇用とその歴史について概観
 してきたが、その結論あるいは評価については、今後、具体的で個別的な部分の研究を行な
 った後で、あたえることとしたい。
  なお、イギリスにおける船員雇用統計の分析、最近の船員常置制度の運用の実態、イギリス
 人船員の入職、廃業、職業意識の実態、そして今後の船員雇用制度の若干の展望について
 は、『海運諸外国における船員の雇用制度に関する調査研究』(海上労働科学研究所、1981.
 3)という予備的な作業を行なっているので、参照されたい。
 【注】
 【1】この小論は、主として下記の文献を参考資料とした。
  小門和之助『イギリスにおける海上労使関係史』運輸省船員局、1952。
  C.E.フェイル:佐々木誠治訳『世界海運業小史』日本海運集会所、1957。
  全日本海員組合『全英海員組合ものがたり』、1967。
  F.H.Hugget:Life and Work at sea, George.G. Harrap、1975.
  J.S.Kitchen:The Employment of Merchant Seamen, Croom Helm、1980.
 【2】注〔1〕フェイル前掲雷、P.191−192。
 【3】海軍の強制徴発の実態と意義、その影響については、注〔1〕フェイル前掲書のほか、
  C.Lloyd:The British Seamen, Fairleigh Dickinson Univ. Press、1968、
  J.Stevenson:London‘Crimps’riot of 1794,International Review of Social History16(1)、
 1971. などが詳しい。
 【4】注〔1〕Kitchen前掲書、P.149−150。
 【5】G.Britain Dept. of Trade:Report of the Working Group on the Employment of non-
domiciled Seafarers, p.6、H.M.S.O.,1978.
 【6】注〔1〕フェイル前掲書、p.209−210。
 【7】注〔1〕Kitchen前掲書、p.153。
 【8】『海運調査委員会報告書(ロッチデール報告書)』第2分冊、p.89、海事産業研究所、1972。
 【9】たとえば、安田岩男「イギリス及び欧州諸国における船員教育及び船員職業制度の動向」
 『調査研究時報』55、航海訓練所、1979.8。
 【10】外国人船員の雇用の歴史とその意義については、拙稿「便宜船員の歴史的考察」『海運
 経済研究』14、日本海運経済学会、1980を参照されたい。
 【11】注〔8〕ロッチデール前掲書、p.54−55。
 【12】注〔1〕Kitchen前掲書、p.281。
 【13】山本泰督「イギリス船員常置制度の制度的特質」『経済経営研究』15(2)、p.109、1965.3。
 【14】海事産業研究所訳『英国海事協同会年報』、国際海運問題研究会訳『英国海事協同
 会』、日本海運振興会、1978。

初出書誌:同題名、『海事産業研究所所報』182 1981年8月



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