カボットは、インドへの別ルートを発見するため、北東探検を推奨した。それが認められ、 1496年のカボット特許状が再発行されている。この北東探検が1、2年後に実現しそうになった とき、リチャード・チャンセラー[?-1556]が主席水先案内人に指名される。かれは、カボットがス ポンサーになった航海でレバントまで帆走しており、数学者のジョン・ディー[1527-1608、思想 家、星占術師]とすでに密接な関係があり、当時、使用されていた航海計器を改良したことのあ る、航海術の熟達者としてよく知られていた。ヒュー・ウィロビー卿[?-1554]という将校が遠征を 指揮するため、総司令官になりたいと申し込んでいた、一団のなかから選ばれている。 インドへの北東航路を探検するため、3隻の船がロンドンの事業家や金融人のグループによ ってしつらえられた。その資金は合計6,000ポンド、1口は25ポンドであった。その3隻はエドワー ド・ボナ・ベンチャ号(160トン)、ボナ・エスペランザ号(120トン)、ボナ・コンフィデンツァ号(90トン)であ り、それぞれピンネスとボートを各1隻積んでいた。チャンセラーは、ボナ・ベンチャ号に航海長 のステファン・バロ[1525-84]、その若い弟ウィリアム(エリザベス女王の治世、海軍の監督官と なる)、そして合計47人の乗船者、そのうち10人は旅客、とともに乗り組んでいる。ボナ・エスペ ランザ号には、ヒュー・ウィロビー卿とともに6人の商人を含む34人、そしてコンフィデンツァ号に は、コルネリウス・ダフォース船長と3人の商人を含む31人が乗船していた。 それらの船のキールは、それをフナクイムシから防護するため、鉛で覆われていた―イング ランドで最初に用いられた金属による覆いである―。カボットは、カタイあるいは中国までの航 海指揮を統制する一連の規則を制定している。 それらの規則はまさに思慮分別の基準を定めたものであり、その後の多くの遠征に影響を 与え、その統制に役立った。ログ・ブック[航海日誌]は保存すべきである。それには、採用した 針路、風や天候、潮流の観測値、毎日正午の太陽の高度、そして月や星の位置が書き込ま れる。船長は、「すべての島の住民の名前、それぞれの島の必需品や非必需品、かれらの特 徴、性格、気質、かれらの所在地、かれらが好むもの、そして丘や山、河川、地面や地下にあ る金属」を記録しておくべきである。 祈とう者は毎日、昼夜祈るべきである。「雑言、悪口、みだらな言葉、ダイス遊び、カード遊 び、あるいは他の度を越したゲーム」は許されない。料理人あるいは司厨手は、毎週あるいは それ以上の頻度で、「生肉、魚、ビスケット、肉」、さらに「ビール、ワイン、オイル、あるいは酢」 について、正確な食料の量を書き留めておくべきである。また、効率よく使うべきである。酒類 は樽から注いだり、「汚物を船内に捨ててはならないし、乗船者の健康をよりよく維持すため、 調理場など、あらゆる場所を清潔にしておくべきである」。病気は取り除くか、弱めるべきであ る。「他人の荷物を運ぶのは、その人に敬意を持てなくても、人としてのマナーである」。乗組員 には会社の制服が用意されていたが、この制服は船長が「かれらを整列させて点呼したり、ま たそれを披露したくなったときに着るものとする」。 乗組員は会社の取り引きが終わる前に、個人の交易を行ってはならない。「外国人との付き 合う場合、あれこれの宗教論議に陥らないよう、注意すべきである」。人々はうまい話しにそそ のかされて乗船していた。それがかれらを酔わせたとしても、かれらを狂暴にしたわけではな い。 ◆チャンセラー、モスクワに到着◆ イングランドからの遠征は最善の計画、最善の艤装でもって始まった。かれらの船は15か月 間の食料を用意していた。ウィロビーは必要となれば、人を徴発する権限が与えられていた。 1553年7月、その年月は後で分かったことであるが、船隊はエドワード六世の書簡に従い、ノー ス岬[ノルウェーのノルカップ岬]に向け針路を取った。かれは、すべての統治者宛ての親書を 書いており、交易の利益を称賛していた。デンマークから現代のノルウェーのノース岬より150 マイル東のバルデまでの全域は、当時知られていなかった。そのため、500マイル東、北緯70度と 80度のあいだにある北極圏[ロシア]のノバヤ・ゼムリャ島を探検した後、ボナ・ベンチャ号は嵐 で行き別れていたボナ・エスペランザ号とボナ・コンフィデンツァ号とともに、ラップランド地方の 「ケゴールの近くを流れる」アルジナ川で越冬することにした。どのように北極圏の冬に対処し たらよいか解かっていなかったため、かれらの船に乗船していた人々はほとんどが死ぬことと なった。 ボナ・ベンチャ号のチャンセラーは、バルデで1週間他の2隻を待って滞在した後、白海に入 り、ドビナ川の河口に投錨している。かれは、セント・ニコラスの西25マイル、セント・マイケルある いはアーチャゲル近くのネノクソに着き、そしてモスクワに入り、その道筋で2、3のロシア語を 収集している。モスクワで、かれはイワン四世(「雷帝」)[1530-84、在位1547-84、ロシア初代皇 帝]の如才なさや威厳ある振る舞いに感銘を受けている。ツアーは、かれにイングランドの統治 者に親書を授け、イングランド人のモスクワ公国との交易を促し、かれらを保護すると約束して いる。チャンセラーは1554年帰国し、ロシアとの交易を提唱している。その帰途、フランダース 人海賊に襲われている。 1555年、「血まみれの」メアリー[一世、1516-58、在位1553-58、新教徒の迫害者]が王位にあ り、スペインのフェリペ二世[1527-98、在位1556-98]と結婚した年であるが、その2月ロシア会 社に特許状を下付し、カボットを終身司令官に任命している。この会社はイングランドで最初の 完全な法人組織の株式会社であった。冒険商人の規制会社にあっては、そのメンバーが個別 または共同で資本を出して交易しており、会社自体は交易に携わらなかった。株式会社の場 合、それ自身が交易し、そのメンバーは行わず、行うことも期待されていない。その交易は会 社が取り決めた地域のなかで個別に行われる。ロシア会社には独占権が与えられていたが、 それは新しい交易基地の開拓者に相当の報酬を認めてよいとするものであった。会社の目的 はアジアへの北方航路の開拓であったが、北西航路を含むすべての探検とイングランド以北 の交易について独占権が与えられていた。201人のメンバーのうち、その主力はロンドン商人 であった。かれらは若干のスティプル商人のほか、その多くが冒険商人であり、かれらは人に 先駆けて、バーバリ諸国、ギニア海岸、そして西インド諸国に航海していた連中であった。 ◆2回目のチャンセラーの北東航海◆ チャンセラーの2回目の航海資金を作るため、新たに投資の呼び掛けが行われた。それは、 エドワード・ボナ・ベンチャ号と、フェリペ・アンド・メアリー号という両王の名をつけた船で行なわ れることになった。ギリシャ語とポーランド語、イタリア語で書かれたツアーへの親書が、両王 から授けられた。フェリペ王は、そうした航海を全面的に支持、支援していた。表立って言い立 てはしなかったが、かれの考えではローマ教皇の地球に関する裁定は北極圏には及ばないと みていた。この方針に踏み切るまでに相当の年月がかかったが、そのときに採用された。それ は、スペインが絶対不可侵の地位から、植民している領土を何とか維持するのに精一杯という 地位まで後退していたことに関わりがあった。 ロンドンの代理店あるいは商会が、ロンドンで、ロシア会社と物品を売買していた。ロシアが 経済的にイングランドより発達していなかったため、様々な工業製品―イングランドから完全に 捺染し、化粧された毛織物、銅板、そして金属製品、中継商品としてワイン、砂糖、スパイス、 果物、コショウ、そして金属製品―が、2回目の遠征に当たって積み込まれた。それらは、魚 油、あく[木炭からとる炭酸カリ]、ワックス、[ミンクなどの]毛皮、麻、亜麻、そしてロープと交換 するのに使われた。この北東航路は、ロシアへのバルト海ルートの代替航路として計画された わけではないが、当時それに近づけなくなっていたので、そう見られても仕方のないものになっ ていた。同じことが第二次世界大戦でも起きているが、この場合ドイツの力を弱めるのに役立 った。 この北東航路は大変、難路かつ危険であった。それは、距離、北方という針路、そして秋か ら春までは凍結する港といった物理的条件にあった。ウィリアム・バロが提案した日程表によ れば、その2隻はテムズ川を[1555年]5月初めに出発し、その月末にセント・ニコラスに着く。そ こに30日間滞在した後、6月末までに出発し、10月10日にはロンドンに帰ってくる。ロシアの商 品が6月末までに準備できなければ、「いい方の船を1隻、ないしは2隻」をセント・ニコラスに8月 末まで残すというものであったという。事実、その2隻がウィリアム・バロの見込みより遅れ、7月 最後の週の少し前にセント・ニコラスを出発し、9月または10月にイングランドに到着している。 ツアーはこの2回目の遠征を歓迎し、その交易によって自分が権力の源であることを証明し てみせ、そしてイングランドがロシアで極めて不足している熟練職人や知識人を提供してくれる ことを期待した。かれは、ロシア会社にイングランドとの交易独占権と、ロシア全域における交 易を無税で行う権利を授与した。商人たちはモスクワでは商館があてがわれ、モスクワと海岸 間の大きな市場であるボログダやコルモグロでは商館を買ったり、またセント・ニコラスの対 岸、ドビナ川にあるローズ島に倉庫を建設する権利を認められた。 ◆南方航路に強引に割り込む◆ こうした2回にわたる北方への航海が行われているさなか、他のイングランド人船員たちは同 じような商人たちから資金を集め、南方に押し出しつつあった。チャンセラーを有名にした航海 より20年前、ウィリアム・ホーキンズは[リベリアの]パルマス岬のポイントをかわしきれず、ベニ ン湾に向かってしまった。パルマス岬の地点で、海岸は東に、しかも少し北東に曲がっている。 風はほとんどの場合西から吹いており、ギニア潮流も同じ方向から流れていた。そうしたことか ら、帆船の場合、黄金海岸あるいは象牙海岸の各地点から、自分のコースを後戻りすること は、きわめて困難であった。 1553年、ロンドンの冒険商人のシンジケートが、トーマス・ウィンダムの指揮の下で、ギニア遠 征を準備していた。かれはウィリアム・ホーキンズと親密な間柄であった。アントニョ・アン・ピン テアードという、イスラム教に改宗したキリスト教徒で、ポルトガルのオポルト[=ポルト]に住むユ ダヤ人を、水先案内人に指名していた。フランス人はすでにこの地域と交易しており、あるフラ ンス人外科医がウィンダムの遠征に加わっている。ウィンダムは、コショウなど現物の「粒もの」 貨物を求め、「変節者のユダヤ人」のアドバイスよりさらに東の方に向かってしまったため熱病 にかかり、死亡している。同じように、ウィンダムの船ライオン号の乗組員は3分の2が死んでお り、生き残りの乗組員は商人を奥地に残したまま、僚船プリムローズ号に乗って帰国してい る。ピンテアード自身は、帰国航路の途中で死んでおり、この遠征で参加した140人のうち、帰 国できたのは40人に止まった。死んだ水夫には、歴史を通じて、何も残らない。しかし、その航 海は150ポンドの金を黄金海岸から手に入れていたので成功であり、さらにギニア海岸が商業 的な成り立つことを証明した。 1554年―チャンセラーがモスクワから戻ってきた年、また老ウィリアム・ホーキンズが息子の ウィリアムとジョンを残して死んだ年―に、強力なシンジケートが組織され、新たなギニア遠征 に向かっている。ジョージ・バーンズ卿、ジョン・ヨーク卿、アンソニー・ヒックマン、エドワード・カ スリン、そしてトーマス・ロックが投資家として加わり、トーマスの弟のジョンが指揮者に指名さ れていた。ジョンは、兄と同じように根っからの商人であり、ちょうどエルサレム巡礼から帰って きたところであった。かれとともに、この遠征に15歳のマーティン・フロビシャー[卿、1535?-94、 北西探検に向かう、無敵艦隊と交戦]が航海している。かれはジョン・ヨーク卿の私生児であ り、しかも前年のウィンダム遠征の生き残りであった。 そのとき、ジョン・エバンゲリスト号(170トン)、トリニティ号(140トン)、バーソロミュ号(90トン)、そし て2隻のピンネスの5隻が用意された。ピンネスの1隻はイングランド海岸を越す前に転覆してし まった。他の4隻は、黄金、象牙、そして穀物海岸に到着し、金400ポンド(約20,000ポンド、1988 年価格で約300万ポンド)、きば250本、そして大量の「粒もの」を持ち帰った。 こうした成功は、当然のように、西アフリカは自分たちの領土と考えるポルトガル政府から抗 議を招いた。(メアリー統治下の)イングランド枢密院は今後、少なくともコショウを持ち帰るため の、ギニア航海を禁止することとした。また、商人たちは自分たちの政府に関連するローマ・カ ソリックの条約にもかかわらず、ローマ教皇からどういわれようと、交易に関するどのような制 限にも耐えるといったことはまったくありえなかった。「われわれは商人である」と、ポルトガル 政府の抗議に答えている。
メアリー女王と枢密院は、その年、別のギニア航海に参画していた。また、同じころ、別のロ ンドン商人ウィルソン・タワーソンが[ポーツマス沖合いの]ワイト島のニューポートから、9月30 日ハート号(60トン)とハインド号を指揮し、出帆していた。タワーソンは後続者より上手に、帰国 の航海を行っている。2月13日パルマス岬を越えており、黄金と象牙の全海岸をわずか9日間 で通過している。かれは経験のなかから、午前2時から8時までの早朝、風は北北東から陸に 向かって吹き、それ以外の時間は南西の風になることを発見していた。1556年5月14日、2隻 の船は無事にブリストルに投錨している。タワーソンは2隻とも、それらの乗組員をだれ一人失 っていない。かれは持ち帰った積み荷の中身を明らかにしていないが、日計表には金約130ポ ンド、きば50本という記載がある。現代の投資からみても、その帰り荷は素晴らしいといえる。 タワーソンはこの航海に引き続き、別の航海を1556-7年に行っているが、そのとき賄賂を振 りまき、そして専らバーバリ海岸を帆走すると誓約した上で、出港認可状を手にしている。不思 議なことに、3回目の航海はエリザベス女王が即位する以前の1558年1月に出発していなが ら、2隻の王室船―ミニオン号(300トン)とタイガー号―を、民間所有のクリストファ号とともに使っ ている。ミニオン号は4本マストで、2本のミズンの上部にラテンスルを上げていた。その船はジ ョン・ホーキンズが後に、[メキシコのベラクルス近郊の]サン・ファン・デ・ウルアで見つけ出すこ とになる船であった。他方、タイガー号は帰国航路の途中、乗組員が衰弱して操船できなくなっ たため、海の真ん中に放棄されることとなった。他の2隻は、10月ポーツマスによたよた帰り着 いたが、それら乗組員はたった12人となっていた。 アフリカ人はヨーロッパ人の金に対する貪欲さを満たすことができなかった。それをめぐっ て、フランス人とイングランド人はお互いのギニア交易について、何かにつけ誇張するきらいが ある。タワーソンの3回目の航海はそれ以前の2回に比べると利益は少なかった。そうしたイン グランド人活躍によって、ポルトガル人はその地方の交易を一人占めできなくなり、イングラン ド人はスペイン人とは違うと感じざるをえなくなった。 ◆ロシア会社の交易・航海実務◆ この遠征で重大な損失がみられたにもかかわらず、4隻以上の船が1557年5月ロシアに向け 出発している。そのうち2隻―ジョン・エバンゲリスト号とトリニティ号―は、1554年にギニアに行 った船である。この航海に関する多くの情報を、ロシア会社が代理人[交易を請け負った商人 船主かつ株主とみられる人物]に出した書簡から知ることができる。
◆ロシア会社、バルト海に進出◆ この会社は、マスト、タール、獣脂、あるいは毛皮といったかさばる商品について、それらが ダンチッヒやその他バルト海の供給地から輸入すれば安くつき、またその地域の運賃率が低 いこともあって、関心を示していない。ロープ職人以外に、ミンクなど値打ちのある毛皮を探す ため、毛皮商を差し向けている。会社は10人の徒弟を選抜し、雇用しているが、その「何人か は会計として、何人かは顧客の指示や手数料による売買のため、また何人かは海外に送り込 み、その国の著名な都市の情報収集に従事させているためであった」。かれらは毛織物、皮 革や金属の市場、皮革に使う染料、そして織物交易について徹底的に調査していた。そのお かげで、かれらは何を売り何を買えば利益になるかを、正確に判断できるようになった。 この遠征の資金づくりのため、再度、資本の募集が行われた。4隻の船が民間船主から用船 されたが、そのうち3隻は会社のメンバーの船であった。オセフ・ナピアはツアーへの贈り物を 携え、プリムローズ号に乗ってロシアに戻っている。その結果、300年以上も有効となる、通商 条約が締結されることとなる。 ロシア会社は北東航路を発見することができなかったが、ロシアの川からペルシャに至る、 利益の大きい東方へのルートを探索することをあきらめたわけではなかった。1558年、エリザ ベス一世がイングランド王として即位した年、ロシア会社の社員が[エストニア共和国の]ナルバ に入り込んだ。それは会社がバルト海の拠点をえたこととなり、交易に計り知れない刺激とな った。ロシア会社と関わりのない船主たちも、その会社の独占を打ち砕くべく努力してきたが、 1564年になると東河岸の港から6隻の「もぐり商船」が出帆し、ナルバと交易するようになってい る。1566年、ある法律が通過するが、それはロシア会社の特権を確認し、それをナルバにも広 げるとともに、ニューカッスル・アポン・タインやヨーク、ハル、ボストンなどの地方の商人にも、 ロシア会社に参入することを認めた。 この件で強調すべきことは、ロシア会社がその業務として、「宇宙形状誌を学んだ」男を年俸 20ポンドで雇い、自社の航海者に教授し、また就業中の多数の水先案内人や船長を訓練して いたことでも解かるように、航海事業を強化したことである。その法律が通過した同じ年、ロシ ア会社はセント・ニコラスから帰ってきた数隻が、イングランド職人の指示通りに作った索具で 完全に装備されていたにもかかわらず、満船になっていなかったと苦情を述べている(そうした [標準]索具が急速に受け入れられるようになった)。翌年、会社はセント・ニコラスに加え、ナル バとの交易を始めている。ナルバの重要さを示すかのように、会社は1,300トンを積んだ船隊を バルト海の港に向け送り出しているが、白海にはたった800トンを積み出すに止まった。[バルト 海では、]その合計トン数の2倍がスペインとポルトガル、同量が[フランス北西部の]ルアン、そ してその余りがロンドンに向け積み込まれていた。数年たって、ロシア会社はかなり激しい損 害をこうむっているが、その額は廃業に追い込まれるほど大きくはなかった。1580年代までこ の株式組織は独自性を維持していた。 ◆エリザベス一世の海運支援、過去を踏襲◆ 1550年代、新しい事業が付け加わったにもかかわらず、イングランドの地位は海事国のなか でまだまだ低かった。あらゆる種類の商船隊のトン数は、およそ50,000トン(それは現在のコンテ ナ船2隻分より少ない)であったが、イングランドはハンブルグ、リュベック、フランス、ヴェネチ アあるいはラグーナ[干潟]、そしてジェノバより小さな船隊を所有するにとどまっていたし、イン グランド人はオランダ人やスペイン人、ポルトガル人の後をいまなおよちよちと歩いていた。 そのころになると、1,000隻を超えるオランダ船が毎年バルト海に入り、木材や穀物、獣脂を 仕入れていたが、バルト海に入ったイングランド船は50隻弱であった。そうした状態にありなが ら、イングランド海運はあらゆる海岸に沿って活動し、漁業にも分け入り、手の届く限りの大陸 に乗り出していた。北方、南方の交易に使われた船隊は、他の分野の船隊に比べ、極端に少 なかった。 新しい女王の政治は、プロテスタントの前任者の海運支援に関する政策を見習ったものであ る。航海法が法令集として廃止同然になっているなかで、広範な差別関税[輸入貨物の産出国 や商品に応じて高い税率をかける関税]のシステムが確立され、造船に関する補助金は途切 れずに支給されるようになった。また、ある新しい法律が制定され、鉄の精錬のために海岸か ら14マイル以内にある、立ち木を切り倒してはならないと規定した。5年後には、ヘンリ七世の航 海法を改正し、国内交易はイングランド船に限り認めることとし、また漁業船隊を維持するた め、水曜日と土曜日は魚の日とすると宣言した。 スペインとの関係は、エリザベス女王が即位するまでは和やかであり、イングランド人は主と してアンダルシアの港セルビアやカディス、そして特にジブラルタル海峡の出入り口近くの[カタ ルヘナの]サン・ルカスと交易していた。サン・ルカスでは、特許権をえており、またイングランド 教会もあった。さらに、ビスケー湾の海岸と取り引きしており、その地方からイングランドに鉄 が輸出されてきた。[スペイン西端の]ビゴ湾は海事的にも商業的にも便利であったので、遠征 に当たっての集合地、また食糧補給地、船体修理地として使われた。スペインの植民地カナリ ア諸島はイングランド人にも開かれており、1554年ジョン・ロックのギニア遠征に投資し、それ を援助したアンソニー・ヒックマンやエドワード・キャスリンが継続的な取り引きを確立していた。 ◆ホーキンズの奴隷交易とその航海◆ 1562年、老ウィリアム・ホーキンズの若い方の息子で、ベンジャミン・ゴンソンの義理の息子で もある、30歳になったジョン・ホーキンズが最初の奴隷航海に乗り出している。このジョンは根 っからの船員であり、10歳代にカナリア諸島との交易のなかでシーマンシップを学んでいるが、 兄のウィリアムとともに父から商船や私掠船などの船隊を、交易や航海に関する優れた知識と ともに、受け継いだ。 そのかれに奴隷交易の可能性について吹き込んだのは、テネリフェ島に住んでいたスペイン 人商人ペドロ・デ・ポンテであった。かれの義父は、ロシア会社の総裁であり、食料雑貨会社の メンバーでもあるトーマス・ロッジ、そして別の2人の著名な企業家、アンダーマン・ダイオネル・ デュケットとウィリアム・ウィンター卿と利害関係があった。 1562年10月、ホーキンズは100人弱を乗せた、ソロモン号(120トン)、スワロー号(30トン)、40トン のバークのジョナス号の、3隻を船出させている。ペドロ・デ・ポンテはスペイン人の水先案内人 を提供し、[ハイチとドミニカのある]イスパニオラ島で商品を買い付けるスペイン人のグループ を編成していた。 ホーキンズも、船が乗船者によって人口過剰にならなければ、航海は病気から免れることは 解かっていた。しかし、かれの船隊が大西洋を横断する際、ポルトガル船を用船したにもかか わらず、300人以上の奴隷を積んだため人口過剰になってしまった。かれの言葉によれば、 「一部を武力で、一部を他の方法で」奴隷を獲得しており[ダニエル・P・マニックス、土田とも訳 『黒い積荷』、平凡社、1976]、それをイスパニオラ島で生皮、砂糖、しょうが、真珠、そして貴金 属と交換している。 かれの貨物のなかにはポルトガルで売るものも含まれていた。その貨物は、ギニアへの密 輸商品だとして、ポルトガル当局に差し押さえられている。ポルトガル人は、ホーキンズの言い 分に関わりなく、かれを海賊だとみなしていた。かれがイスパニオラ島で用船したもう1隻の船 はカディスで没収され、その際スペインが持ち去った貨物を取り返そうとしたが失敗している。 かれはプリマスの特権享受者になったが、それはたった8年前、自治都市[プリマスのこと]が メアリー女王の花婿となるスペインのフェリペ二世を歓待していたころのことであった。その後 も、かれは「古い主人」[フェリペ二世のこと]に仕えると主張していたが、古い主人はホーキンズ の新しい主人である女王の婚約者ではなかった。したがって、そうしたことが許されないこと は、かれにもよく解かっていた。古い主人はすでにフランスと協力するつもりになっており、また イングランドをなだめる必要もないと考えていたからである。ホーキンズは損害や失望にもか かわらず、堂々たる成果を上げている。 現代の歴史家は「モンテーニュ[1533-92、フランスの随筆家]以外に、奴隷交易を悪とみなし たものはいない」というが、その文言を証明することは困難である。実用主義者や便宜主義者 はつねに思いやりのある人間主義者とは相容れないものがあり、人間として同じ意見になるこ とはまれである。例えば、スペインのイザベル女王は西インド人の奴隷化を禁止したが、それ は奴隷交易の利益がなくなるまで意味がなかった。エリザベス女王もまた奴隷化は忌まわしい ものであり、アフリカ人たちの交易は天国を地獄に変える復しゅうであると宣言していたが、ホ ーキンズが損得勘定を示して見せ、次の航海のシェアを差し出すと述べると、言い分は変わっ てしまった。ドレイクは奴隷を一人解放したという。スペイン人のバルトロメ・デ・アルボーニは 1573年の奴隷交易の不正義と反道徳をあからさまに攻撃している。ホーキンズが最初の奴隷 航海を行ってから数年後、[フランス南西部、ビスケー湾の]ギェンヌの議会は「フランスは自由 の母、ニグロ奴隷は禁止だ」と宣言している。 フローレンス生まれの商人フランシス・カルレッティ[1573-1636、『世界周航記』執筆、1517年 来日、榎一雄『商人カルレッティ』、大東出版社、1984]には、1591年奴隷交易は「入信した敬け んなキリスト教徒からみて尊敬に値しない、非人間的な輸送」に見えた。そして、奴隷交易を 「人間の肉と血から」利益を絞り出すものだと書いている。カルレッティから30年後、[アフリカ西 部の]ガンビアの統治者であったイングランド人のリチャード・ジョブソンは、「われわれはそうい った商品を扱わない人間であり、われわれはそれを買いもしないし、売りもしない。われわれな りのやり方がある」と答えている。しかし、そうした良心の呵責にホーキンズが悩まされたことは なかった。 1563年5月、ホーキンズは次の航海を計画していたところ、マーチィン・フロビシャーが5隻の 拿捕船をプリマスに引き連れてきた。そのすぐ後、トーマス・コブハムと協力して、フェリペ二世 への贈り物であったタペストリーが積まれた、キャサリーン号を拿捕している。この事件で、フェ リペ二世は苦渋の頂点に達した。そのころになると、海賊と私掠の違いを示す線を引くことが、 ますます困難になった。ドーバーの市長やその近郊の有力者は、1563年だけでフランス船600 隻以上を拿捕していたといっているが、それは当時、イングランドがフランスと[ユグノー]戦争し ていたので正当なものであった。その一方、かれらが60隻のスペイン船を掠奪していたことが 解かっている。それに伴ってイングランド船も安全でいられなくなった。ジョンの兄であるウィリ アム・ホーキンズは、私掠者のトーマス・スタクリーと船を共有し、フランスとの戦争の最中、フ ロリダにアングロ・フレンチ[いわば英仏連合の]遠征船隊を編成しようととするが、その計画を 相棒がスペイン大使に漏らしてしまっている。 ◆ホーキンズの2回目の航海◆ その年、別のギニア遠征がポルトガルの反対にもかかわらず実行されている。スペイン人が フィリピンを征服した年である1564年の1月、フェリペ二世はすべてのイングランドの商船を低 地帯諸国から排除し、入港しているすべてのイングランドの商船を拘留する命令を発令してい る。それによって降りかかってくるリスクを、ホーキンズと女王は、2回目の奴隷交易を行う際、 十分に気付いていた。 ホーキンズは、1564年10月になるまで、出帆しようとはしなかった。そのとき、この遠征に女 王の大型だが欠陥のあるイエス・オブ・リュベック号(700トン)(女王がその船を買った場所の名 前が付いている)、ソロモン号(現代風にいえば140トン)、タイガー号(50トン)、そしてピンネスのス ワロー号(30トン)、さらに2隻のギニア海岸にある川に入りやすい小型の舟が参加することにな った。それぞれの乗組員は80人、35人、20人、15人、合計150人であったが、最終的には冒険 紳士とその従者が加わり、170人となった。 それらの船の12.5トンに及ぶビスケットが基本的な炭水化物として準備された。それとともに、 船隊は120バレルのあらびき粉、40ホグスヘッドの牛肉、20クォターの大豆や丸豆、80切り身のベーコ ン、6ラストの干し魚、そして12ハンドレッドウエイトのタラが積まれた。飲み物として、40トンのビール、 35トンのサイダーと40樽の白ぶどう酒が積まれた。白ぶどう酒は1樽6ポンドで、紳士の飲み物で あった。雑多のものなかに、オイル1トン、蜂蜜1ホグスヘッド、アニス[セリ科の一年草、香味料]1クォ ターが含まれていた。50人のニグロを養うために、たった120クォターの大豆が当てられることにな っていた。その他、「コッツ」―船倉に置かれる寝床とみられる―や、ニグロ用のシャツと靴が 注目される。遠征の総費用は、船隊への投資額、輸送する貨物、未記載の雑多な支払いは別 して、4,990ポンドと見積もられている。 フェロル[スペイン・ガルシア地方の港、ラコルーニヤの対岸]で、ホーキンズはイングランド海 軍のしきたりとなっていた航海命令を出している。「日々神に仕えよ(すなわち、毎日祈りを指揮 すること)、他人を愛せよ、食料を大切にせよ、火気に注意せよ、仲間受けをよくしろ(すなわ ち、船隊を保つこと)」。 テネリフェ島で、ホーキンズはペドロ・デ・ポンテと会合を持っている。シエラ・レオーネ沖のサ ンブラ島で停泊し、数日間、毎日上陸し、村々を焼き、住民を捕縛している。バムバで、10人の 奴隷をえたものの、7人の水夫を失っている。最終的に、船倉を400人の奴隷で埋め、1565年1 月29日西インドに向け出帆している。 ホーキンズの船隊は28日間凪に巻き込まれ、大西洋横断に時間がかかっている。また、ベ ネズエラ沖の大きな島であるマルガリータ島で、スペイン人の水先案内人を雇うことに失敗して いる。スペイン国王の外国船との交易禁止令は、そのとき新大陸には届いていなかった。現代 の[ベネズエラの]プエルト・カベリョ近くのバーブラタでは、ホーキンズがスペインに仕えると申し 出るまで、スペイン人から交易を拒否されている。それに続いて、税金で悶着している。ホーキ ンズは、「弓矢、火縄銃、そして短い槍」で武装した、100人の水夫を引き連れ上陸するまでは、 交易は一向に始まらなかった。その結果、スペインの統治者はホーキンズに交易を許してしま った罪人として、スペインに送り返されるはめになった。 そのころ、ホーキンズはベネズエラのポテトのサンプルを取り、また[オランダ領アンティルの] クラサオ(キュラソー)島で肉や生皮を手に入れている。かれはリオ・デ・ラ・アチャ[コロンビアの リオアチャ]に向かい、100人とともに上陸して、合法的に交易許可状を与えられている。そこ で、奴隷のほとんどがその他の商品ともに売り払われ、金、銀、真珠、その他宝石、そして安 い生皮と交換している。 かれは、イスパニオラ島で、砂糖と多数の生皮を財宝と交換するつもりでいたが、その位置 が解からず、イスパニオラ島、サンタ・クルズや[キューバの]ハバナを見過ごしている。フロリダ に行こうとして、フランスの水先案内人を雇っている。フランスの植民地を見つけると、必需品 が不足して危険になっていた船隊に、それを補給するため、直ちに上陸している。フランス人 にもイングランド人にも喜ばれようとして、かれはフランス人植民者を母国に送ると申し入れた が拒否されている。その翌年、フランス人植民者はスペイン人の手によって皆殺しの目にあっ ている。 この遠征は、フロリダから北上し、ニューファンドランドの浅瀬に向かい、そこで魚を捕り、そ の後で母国に帰ることにし、1565年9月20日船隊は帰帆して終わっている。死んだのはたった 20人であり、そのなかにはバムバで殺された7人を含んでいる。ペンブブルグ伯とその枢密院 の仲間は60lの利益をものにし、女王には王室船の損料として500ポンドが支払われている。 ホーキンズはかなり裕福な人物となって帰帆していたのである。 ◆アフリカの金探しの航海◆ 1566年の失敗に終わったアングロ・フレンチ遠征はアフリカの金を見つけるために企画され ていた。この遠征には、アントニオ・ルイとアンドレ・ホーメンという2人のポルトガル人が関わっ ていた。後者はガスパー・カレイラとして知られていた。かれら2人はデ・モンルックの失敗後、 イングランドに来てイングランド人に、アフリカの金を探す計画を吹き込んでいた。ホーキンズ はそれを取り組まず、次の冒険事業に回さざるをえなかった。 ホーキンズはスペイン大使に、持ち船を立ち入り禁止の場所に乗り入れないと誓ったが、か れの船に奴隷の日常食とする大量の豆を、新品の毛織物やリネンとともに積まれているのを 見て、デ・シルバは疑いを強めた。ホーキンズ兄弟は2,000ポンド投資しており、ウィリアム・ウィ ンターもそれに関与し女王とその他枢密院のメンバーも加わっていた。 1567年7月30日、女王の軍艦イエス・オブ・リュベック号とミニオン号がロンドンからプリマスに 向け出帆した。プリマスでは、艦長トーマス・ボルトンと船長ジェームズ・ラウンズが乗るウィリア ム・アンド・ジョン号(150トン)、新造船とみられる100トンのスワロー号、ユディット号(50トン)、そして エンジェル号(33トン)といった、ホーキンズの船隊が待機していた。最終的に、小艦隊が編成さ れ、ホーキンズが[コーンウォル州の]サルタッシュのロバート・バレット船長とともにイエス・オ ブ・リュベック号に乗って出帆していった。かれの部下はたった20人であった。バレットは、遠征 のなかで必ず頻繁に起きる陸戦隊の指揮を初め、すべての行動にあらゆる権限を持った副司 令官として働いていた。ドレイクは、最初イエス・オブ・リュベック号に乗っていたが、次いで航海 中、命令により、拿捕したポルトガルのカラベル船、そしてユディット号に乗船している。ミニオ ン号の艦長はトーマス・ハンプトンであった。その他、ロンドンの投資家の利害を代弁する商人 のウィリアム・クラークや、1564年にホーキンズと一緒に航海し、かれの信用をえていたジョー ジ・フィッツウィリアム、将官艦長エドワード・デュドリーが乗船していた。積み荷のなかには、リ ネン、毛織物、綿布とこはく織、スズ、武器、そして剣があった。 エリザベス一世は、3年にわたって失敗していたが、その年もポルトガルとイングランドの通 商協定を締結しようと努力している。イングランドの立場は最高顧問ウィリアム・セシル[1521- 98、バーリー伯、郷士出身]が明確に打ち出していた。かれは、「教皇に権威や権限があると断 言されても、われわれにとっては預かり知らぬものと同じと、答えるしかない。法律があると主 張するが、それよりはるかに所有が優先している。ポルトガル王はエチオピアを征服できなか った、その領有を維持することもでなかった、その地に権威を根づかせ、貢ぎ物を受け取るこ とさえできなかった」と解説している。別に驚くことではないが、交渉は整わなかった。 ホーキンズが、1567年プリマスで準備をしていたところ、7隻のスペイン軍艦がプリマスの入り 江に一寸した間違いを起こし、挨拶もしないで入ってきた。ホーキンズはそれら軍艦に発砲し、 かなり痛めつけた―その行動が、後日[後述される1568年9月のイングランド人虐殺事件]、サ ン・ファン・デ・ウルアで、自分の手を縛るものとなる。その事件後、金探検の案内人ルイとホー メン、別名カレイラが、プリマス市内から影を消し、フランスに逃げていった。 ここでのポイントは、ホーキンズが女王とセシルに、その航海を奴隷航海にしようと提案し、 了解をえたことである。6隻の船が10月2日に出帆している。その4日後、デ・シルバが諜報活 動に長けていることを示すかのように、「貴国の船舶がわが主人の船を海上で掠奪し、貴国の 船舶が入港を禁止されている土地で交易している。かれらは貴国の国民が町の通りでわが国 民を掠奪している。かれらは貴国のすべての港でわが国の船を攻撃し、船から囚人を引きず り出している。貴国の説教者がわが主人を辱めている。そして、われわれが正義を唱えても、 脅迫されるだけである」と述べている。 ◆ホーキンズ、スペインに懲らしめられる◆ しかし、それだけが祈りではない。乗組員のジョン・ハルトップによれば、ホーキンズは3人の アフリカ人酋長とうまみのある取り引きをしている。「3人の王が7,000人のニグロを引き潮の海 上まで引き連れて来たが、かれらは300人を除き、その陸上地点まで引きずられ、血まみれに なっていた。そこから西インドに運ばれて行った」。その前に、ホーキンズはフランス人に拿捕さ れていたポルトガルのカラベル船ガラティア・ディ号を徴発し、ドレイクに指揮させている。その 後、フランス船長は許され、ギニア海岸にいた他のフランス船に引き取られている。1568年2 月、船隊は西に向かっている。 その船隊はマルガリータ島で食料を補給し、4月9日ボルブラータに向け出帆している。そこで 2か月間非合法の交易を行った後、クラサオ島とリオ・デ・ラ・アチャに向け出帆している。いま やユディット号の指揮をまかされたドレイクは前進し続け、スペイン船を拿捕している。ホーキ ンズは規則にやかましい人物であったが、リオ・デ・ラ・アチャの王の会計係であるミゲル・デ・カ ステラノスと和解し区切りを付けている。かれはドレイクとラヴェルの前年の遠征を欺いていた のである。ホーキンズがそこに着くと、武力で交易を許可させ、部下が失った資産の償いをし たうえで、250人の奴隷とその他商品を処分している。 ホーキンズの船隊―特にイエス号―は、さらに交易を続けたが、暴風で被害を受け、現代の メキシコ海岸のベラクルス近郊のサン・ファン・デ・ウルアに、修理のため入らざるをえなかっ た。2日後、1年一回のスペインの銀船隊がセリビアから着いた。その船には新しい副王となる ドン・マーティン・エンリケが乗っていた。 その後、[ホーキンズの船隊はスペインの銀船隊の騙し討ちに遭い]ドレイクはイエス号に逃 げ込んでいる。ホーキンズはミニオン号に乗っていたが、そのかれの船隊はわずかな財宝を 抱えて逃げ回り、ドレイクの帰着5日後、たった15人の生き残りとともに、1569年1月プリマスに たどり着いたといわれている。その後、イエス号の船長ロバート・バレットは、セリビアの取引所 にある刑場で、火あぶりの刑にかけられている。この遠征は、金儲けとして失敗であったばか りでなく、イングランドとスペインとの関係の転換点を記すものとなった。 [これらジョン・ホーキンズの航海は、増田義郎『略奪の海 カリブ』、岩波新書、1989に詳しい]。
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