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(1569-1581)
―主な内容とその特色― 
 この章(115-128ページ)は、フロビシャーの3回にわたる金鉱探しの航海や、ドレイクの私掠世界周航を中心にした、いわば熱に浮かされたような、イングランドの海外への突出する様子が描かれ、1580年ドレイクのイギリス帰還の翌年で終わっている。そのなかで、女王とその取り巻きの海事プロジェクトへの参画を広がり、それによる蓄財が強まった時期に当たる。 1581年、現在のオランダにつらなるネーデルランド北部州が独立するが、このスペインに対する反乱に便乗して、イングランド人たちは私掠にこれ努める。それでも、私掠者たちはスペインに二枚舌を使うことをやめない。
  この間、イングランド人はスペインの縄張りであるカリブ海に分け入り、当然のようにいさかいや奪い合いを起している。それに対して、エリザベス一世は黙認するのではなく、ホーキンズやドレイクをはじめ、グレンビル、ギルバートといった人たちに、進んで私掠許可状を与えている。
  イングランドは、自らが探検し、発見した、自前の航路を欲しがっていた。それが北西航路であった。それに向けてフロビシャーが三度にわたって航海を挑む。それは金鉱探しの航海として企画され、出資フィーバーが起きるが、いずれも失敗に終わる。それらの経過が、豊富な史料があってか、詳しく記述されている。
  最後に、ドレイクの私掠世界周航が紹介されるが、それがもたらした驚嘆に値する掠奪物は、誰彼もがスペインの黄金の輝きを自らのものしたいと思わせたに違いない。次第に、イングランドとスペインとの敵対は、いずれ戦争で決着つけるときがくる。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆オランダ独立に便乗した私掠のばっこ◆
  サン・ファン・デ・ウルアでの敗北から一世紀以上たってから、イングランドは奴隷交易を放棄
 する。アントワープが時代に逆らえず、交易センターから脱落すると、イングランドは輸出品に
 ついてかれらから外国の安定した顧客を奪う。イベリア帝国の実りの大きい交易に対するねた
 みと低地帯諸国の新しい状況が、イングランド船をしてさらなる闘いに駆り立て、私掠にのめり
 込ませた。
  フランスで、再び[ユグノー教徒と旧教徒との]内乱が起きると、ラ・ロシュルがユグノー教徒の
 基地として使われるようになる。低地帯国オランダでは、フェリペ二世に反乱した人々は「海乞
 食sea-beggar」という放浪船隊を作り、私掠船と力を合わせてラロシュルから海に向かっていっ
 た。イングランドの船長のなかには、かれらのリーダーから、カトリックのフランスやスペインの
 商船の掠奪委嘱状をもらうものが出て来た。スペインの北方交易は事実上中止になり、さらに
 大西洋やカリブ海にいるスペイン船が掠奪の対象となった。オランダ、フランスとイングランド
 は共同して遠征するのが当たり前となった。
  1567年、フェリペ二世はプロテスタンティズムと政教分離主義を抑圧するため、アルバ伯
 [1508-82]をオランダ総司令官に指名した。ジョン・ホーキンズは、3回目の失敗した奴隷航海
 からプリマスに帰ってきたとき、アルバ伯の連隊を乗せたフェリペ二世の船が、オランダ反乱
 軍のリーダーであるオラニエ公ウィレム[1533-84]の旗のもとで活動していたイングランドの私
 掠船に拿捕され、プリマスに連れ込まれているのを目撃している。ホーキンズの旗艦となった
 女王の持ち船イエス・オブ・リュベック号の喪失を含む、西インド諸島における損害を少しでも
 償うとして、エリザベス女王はスペインの船に積まれている財宝を「貸し付け金」の形で徴発す
 ることを認めている。この処置に対するスペインの報復は、イングランド船の捕獲ばかりでな
 く、その積み荷の押収や乗組員の監禁を含んでいた。これに対するエリザベス女王の答えは、
 イングランドにいるすべてのスペイン人の監禁と、イギリス海峡の港に入港しているフェリペ二
 世の人民が所有する船の拘留であった。
  この事件をめぐる状況は少々複雑である。マーティン・フロビシャーは1563年スペイン船を拿
 捕したとして入牢させられていたが、1565年になるとユグノー教徒の許可状をえて航海してい
 る。1569年にはオラニエ公ウィレムから委任状をえている。その年、フランス船に海賊行為を
 働いたとして、再び入牢している。かれ以外の船がユグノー教徒の旗の下で帆走している。そ
 のなかにはカスル・オブ・コンフォート号も含まれていた。その船は、ウィリアム・ホーキンズとリ
 チャード・グレンビル[1541?-91、提督]が共有していた船であり、1566年のフェナーの不成功に
 終わったギニア遠征にも参加していた。すでに、他の船はイングランドの私掠許可状を持って
 いたし、海賊もはびこっていた。1568年、ニューファンドランドとラブラドルのあいだのベル・アイ
 ル島で、フランス海賊に船が拘留され、「苦痛と苦悩を味わわされた。市政参与官とその他乗
 組員は頭にロープを巻き付けられ、金のありかを白状させられた」と、ある航海者が証言して
 いる。かれは「かれらは頭から目玉を絞り出そうとしていた」と思ったという。 その前後、幾た
 びか耐えがたい状況になり、政府は海賊の海を征討するため艦隊を送り出したが、一向に成
 果はなかった。
◆私掠者たちのスペインへの面従腹背◆
 1570年以降、様々な要因が作用し、イングランドの地中海との結びつきが強まった。1571
 年、ローマやヴェネチア、スペインは連合して、レパントの海戦[オスマン帝国の海軍の地中海
 全域への進出を食い止めた戦い。それ以後、ヨーロッパ諸国の海軍力は強化される]でトルコ
 を撃破したが、その一部であるトルコ−ヴェネチア戦争は地中海経由の海上交易におけるヴ
 ェネチアの支配力を弱めた。イングランドは次第にアドリア海における活動範囲を広げ、1580
 年代にはトルコに至る。モロッコとの交易も続いており、1573年以後、[イタリアの]レグホーンと
 の交易が始まる。その港はトスカーニ伯が開発したものである。1575年になると、その港はギ
 リシャの島々から直接、干しブドウを輸入できるようになった。その交易は長年にわたりフロー
 レンスが取り仕切っていた。そして、コンスタンチノープルに、ロンドンの代理店が設けられるよ
 うになった。
  1570年5月、エリザベス女王が[ローマ教皇から]破門宣告を受けると、カトリック[貴族の反
 乱]組織がイングランド全土で結成される。ウィリアム・セシル(その翌年、バーリー伯となる)[女
 王の側近]は政治状況を考慮し、ホーキンズに奴隷航海の再開を禁止する。それに接すると、
 ホーキンズは躊躇なく、持ち船をベラ・クルスからスペインに帰帆中の財宝艦隊の攻撃に使い
 たいと提案する。しかし、その提案は実行されなかったが、1570-71年の冬、自分たちの損害
 を埋め合わせようと努力し、ホーキンズ兄弟はドレイクを海上に送り、[スペインの]ベンタ・デ・ラ
 ス・クルセスを掠奪させている。
  翌年の夏、バーリー伯の黙認をえて、ホーキンズは自分の部下をスペインの監獄から取り戻
 す必要から、カトリックたちの主張を受け入れる振りをすることとした。フェリペ四世に忠勤ぶり
 を示そうと、16隻の船を提供することにした。その1隻であるクリストファ号は500トン、乗組員250
 人、50門の大砲を備えており、ハンザあるいはフランダースからの捕獲船であった。2、3隻の
 用船も含まれていた。それら船隊の合計トン数は3,170トン、配乗人員は1,585人、大砲は500門
 であった。この船隊は、ウィリアム・カニングスが一世紀前に国王に提供したという船隊より、5
 分の1ほど大きいだけであった。それが、ホーキンズが持つ戦力の規模であったが、エリザベ
 ス一世時代初めの海運おいて一定の地位を占めていた。勿論、時代背景は大いに異なってい
 るが、現代のP&O社がその地位を奇しくも占めている。
  力を誇示しあった後、セビリアのイングランドの囚人は釈放され、いまやイングランド議会の
 議員となっていた、ジョン・ホーキンズのスペイン領西インドで行った犯罪は忘れられ、スペイン
 貴族の称号さえ贈られることとなった。その間、バーリー伯はイングランドでローマカトリック教
 会の陰謀を暴露している。いまや、女王に敵対するイングランド人はいなくなり、スコットランド
 のメアリー女王にイングランドの王冠を授けようとするスペイン人侵入者もいなくなったといって
 いる。
◆ドレイクの私掠急ぎ働き◆
 1571年の年末、ドレイクは25トンのスワン号に乗って、急ぎ働きの偵察航海に出掛け、[コロン
 ビアの]カルタヘアで1隻を焼き討ちし、その船主を身代金目的で連れ帰っている。
  海賊船や私掠船―その乗組員はイングランド人やフランス人、フランダース人で構成されて
 いた―がイギリス海峡を制圧し、イングランドのスティプル商人のオランダへの羊毛交易など
 の交易を阻害していた。まっとうなイングランド商人の組織が書いたとみられる苦情申し立てを
 受けて、1572年5月、ある委嘱状がジョン・ホーキンズとジョージ・ウィンターに発行される。それ
 は、かれらがオランダの海乞食を含む「フリーブーダー(略奪者)と通称された」連中に命令を下
 し、ケント、サセックス、サザンプトン、そしてワイト島の海岸を正常な状態に戻すよう求めたも
 のであった。
  商人たちは、船や商品が没収される恐れがあったので、イングランドの港に入れなかったか
 らである。その上、すべてのイングランド人がフリーブーダーのやり方を嫌うようになり、またイ
 ングランドの海賊も船と人もろとも逮捕されるべきものと考えられつつあった。当のホーキンズ
 もどちらに組みするか、はっきりさせる必要に迫られつつあった。
  1572年12月、プリムローゼ号が[本土とワイト島との]ソーレント海峡の港に入っていた。この
 船はフランス人の船長ベイルトンに指揮を委ねられ、サザンプトンから来たコーンウォル人が
 帆走長や掌帆長になっていたが、そうした構成はまれではなかった。また、多数のロンドン商
 人がポルトガル[北部の]のビアナ[・ド・カシュテロ]やカムニャ向けの、毛織物やその他商品を
 船積みし、スペインの輸入禁止令と衝突している。その禁止令は、エリザベス女王がイエス・オ
 ブ・リュベック号の喪失の報復として、プリマスにいたスペイン財宝船を拿捕した際に設けられ
 たものであった。ビゴでは、「あらゆる残酷と非道」が仲買人に加えられ、かれらは「足かせと
 鎖」に繋がれていた。
  ホーキンズなどの援助を受け、ドレイクはその冬、再度スワン号とパスコ号を引き連れ出帆
 し、40,000ポンド、1989年価格で560万ポンドの利益を上げている。しかし、その半額がシンジケ
 ートを組んだフランス人の相棒に渡っていた。1572年の[パリにおけるユグノー教徒の]サン・バ
 ルテルミの虐殺の後、リシュリュー[1582-1642、枢機卿]が[1627年]ラ・ロシュルを包囲する
 が、そのときホーキンズの持ち船がイングランド人とフランス人とによる包囲された町の救援作
 戦に参加している。それは失敗に終わる[この項は理解に苦しむ。1627年以前に、ホーキンズ
 兄弟は死んでいる]。
◆三方一両得の海難事故処理とくずれ◆
 ホーキンズはしばしば損害賠償の訴訟に関わっている。そこで注目されることは私掠活動に
 光が当てられたことである。かれは1574年、海上保険引き受けシンジケートを組んでいたジョ
 ージ・ストダードとその他8人のロンドン人に対して、ある訴訟を起こしている。
  プリムローゼ号を指揮してことのある流れ者のフランス人船長ベイルトンが、プリマスにル・ア
 ーブルのエスペランス号を連行してきた。その船はルーアンの商人フェルナンド・デ・クインタナ
 ドーヌのものであった。その時代の状況を反映して、イギリス海峡を通過する商品の持ち主
 は、ロンドンで、それに海上保険を掛けるという慣行があった。この例では、船と唯一の積み荷
 であるバーバリ産の砂糖について、ストダードとその仲間が200ポンドの保険を引き受けてい
 た。
  保険付きの船が事故を起こし、保険金の請求が出されると、海上保険業者は各地の海港で
 実力のある人物たち―この例ではホーキンズ[を仲介者にすべく]―に接触し、彼らがその船
 や貨物を保険金以下の価格で引き取れるかどうかを持ち掛ける。当事者にとって、私掠者あ
 るいは仲介者たちはそれら船や貨物を捕獲すればその度、利益が上がるし、また商人たちは
 割増金の形式で所定の代金を支払ってそれら取り戻せば損失は軽くなり、そして保険業者た
 ちは受け取った保険料の一部を失うことになっても全部は失わないという、寸法となる。勿論、
 船がその目的地に安全に着けば、保険業者たちは儲けとなる。
  仲介者たちはそれぞれの土地に影響力があった。彼らは私掠者たちに圧力を掛け、捕獲品
 の価格を下げさせていた。エスペランス号の例では、ジョン・ホーキンズは、弁明書のなかで、
 ストダードとその仲間と王立取引所において、口約束したことを認めている。
  この合意によれば、彼は自分の支出額や正常な料金に見合った金額でもって、船を引き取
 ることを約束していた。その船の保険金が200ポンドであることを知っていたが、彼はその船を
 65ポンドで買い取った上で、船と貨物をクインタナドーヌ商会に送り付けている。その後、訴訟
 上の被告たちが、ホーキンズへのそれ以上の支払いを拒否したため、ホーキンズは法廷で賠
 償を要求するに及んだのである。
◆スペイン人や黄熱病、マラリアの反撃◆
 イングランドと新世界とは、スペイン人である―ドレイクとホーキンズが4年前に仲間にした―
 ヘンリー・ホークスという商人の、メキシコのベラ・クルスからの報告を見ても解かるように、そ
 のあいだの結びつきはかなりのものになっていた。ホークスは、サン・ファン・デ・ウルア事件当
 時、ベラ・クルスと交易するしかなかった。そうせざるをえなかったのは、5年間、黄熱病とマラリ
 アが発生していたからであると、かれは1572年に書いている。「その町は様々な病気に巻き込
 まれていた。それは高温、そしてモスキートと呼ばれる、ぶよや蚊が原因となっている。モスキ
 ートは男、女の別なく、眠っているときに刺す。刺されると、すぐさま体が膨らみだし、止まらな
 い。毒虫に刺されたかのようになる。そこで多くの人々が苦しみながら死んでいく」。ハクルート
 は、この報告をかれが集めたイングランド人の航海記録に加えている。しかし、それが当時ば
 かりかその後においても、医学的な関心を呼び起こすことはなかった。モスキートがらみの病
 気はその後300年間も等閑視され続ける。
  1573年、リチャード・グレンビルはウィリアム・ホーキンズやピアーズ・エッジカンバなどと図り、
 マゼラン海峡を経由で、東アジアに向かう南方航路の発見を検討している。かれの計画は仮
 想大陸のオーストラリアを発見する航海であり―それは、北半球にある大規模な陸地の釣り
 合いとして、南半球に間違いなく存在すると考えられてきた―、そして西方と北西の航路を発
 見することにあった。これらのプロジェクトは、クック艦長の時代にまで、海事課題として引き継
 がれることになる。グレンビルは、その提案した計画のなかで、予定利益が十分見込まれる、
 海運活動の増加、聖書の広布、製品の市場、金の発見、そして植民地の建設といった、植民
 地帝国のプログラムを先取りしている。1574年、エリザベス一世はグレンビルに許可状を出す
 ことを拒み、3年後ドレイクにそれを与えている。
  その年1574年、ジョン・ノベルがカリブ海に船を乗り入れたところ、乗組員28人は2人の少年
 を除き全員、スペイン人によって殺され、少年たちは一生、ガレーで過ごさせられることになっ
 た。その直後、ギルバート・ホスリーはアメリカ海岸に姿をみせ、すばらしい財宝を集めてい
 る。1576年、ブリストル商人のアンドリュ・ベイカーは、異教を根拠にして、カナリア諸島で船と
 貨物を押収しているが、カリブ海では自分自身の損害を償なわされるはめに陥っている。不幸
 なことに、かれの貴重な獲物は反逆者たちに取り上げられる。かれらの乗ったスキップ(小舟)
 は嵐で転覆し、他方ベイカーはスペイン人に捕らえられ、打ち首になっている。同じ1576年、ジ
 ョン・オクセハムは4年前までドレイクと一緒に働いていたが、パナマ地峡遠征を先導している。
 かれは反逆者のチマルームズを支援したスペイン人に取って代わって、その町を取り仕切る
 つもりでいたが、逮捕され、首吊り刑に処せられている。
◆イングランドに残された北西航路◆
 ハンフリー・ギルバートやマーティン・フロビシャー、ミシェッル・ロックは、それぞれロシア会社
 の重役たちに、北西航路の発見に関するプロジェクトを持ち込んでいた。かれらは、地理学上
 の情報をうるため、歴史家リチャード・ウィルス、それに加えて文書執行人リチャード・イーデン
 から助言をあおいでいた。後者は、20年前、ピータ・マルティア著『新世界の10巻』[1516]を翻
 訳、刊行していた。その本には北アメリカの一部を含む地図が含まれていた。その地図はニコ
 ロ・ゼノとアントニオ・ゼノがその素材を提供したとみられる。かれらは、14世紀末「北方[すなわ
 ちスコットランド高地]の首領」に仕えていたとき、西方の海に入り航海したといわれている。そ
 の地図には重大な誤りがあったが、その後の地図の土台となった。
  フロビシャーやロックが働き掛けた結果として、ジョン・ディがセバスティアン・カボットの死後、
 ロシア会社の正式な地理学と数学の助言者になり、航海用具の使用法や「幾何学や宇宙形状
 学の法則」に関する詳細な説明書を書いている。この遠征を議論した他の人々として、リチャ
 ード・ハクルートやステフアン・バロ(北極探検の最多経験者)、その弟でいまや海軍会計検査官
 となったウィリアムがいた。ウィリアムは新規の発見地点をプロットした航程線の地図を描いて
 いる。
  そこで重要なことは、ハンフリー・ギルバートがミシェッル・ロックと共通の目的を持って協力し
 あい、また翌年、フロビシャーと関係のあったジョージ・ガスコイン[1530?-77、政治家]がギルバ
 ートを訪れ、『カタイおよび東インドへの北西航路を実証する論文』の写しを手渡していることで
 ある。この論文はギルバートの同意をえずに出版されている。
  この呼びかけの結果がフロビシャーの最初の北西航路である。有力な後援者―そのなかに
 は、バーリー伯、ウォルシンガム卿[1530?-90、女王の側近]、レスター伯ロバート・ダドリー
 [1532?-88、女王の寵臣]やウォーリック伯といった人々が含まれ、彼らは根っからの知り合い
 で、彼の禁固刑にわれ関せずであった―は、まず875ポンド、次いで食料や艤装品の購入費と
 して1,205ポンド11シリング8ペンスを投資している。女王はこの企画を通じて、フロビシャーをよく知
 ることとなったが、好意を示すにとどまった。
  1576年、フロビシャーはガブリエル号(20トン)、ミッシェル号(25トン)、そして7トンのピンネスといっ
 た、当時の基準から見ても小船隊を指揮し、出帆していった。グリーンランドの南端を回った
 後、海岸に沿って帆走し、バフィン島を横目に見て進んでいる。その島は、かれが調査航路を
 実証できるものと期待し、北西航路に入って行く出発点の一つとみていたところであった。通り
 抜けられる航路を発見できなかったが、フロビシャーは黒い鉱石を積んでいた。それは金を含
 んでいると考え、持ち帰って来たものであった。
  ロンドンで、ミッシェル・ロックは、フロビシャーの鉱石をロンドンの別々の信頼できる3人の分
 析人に手渡したが、かれらはいずれもその鉱石は金を含んでいないと答えてきた。しかし、ロ
 ックはその遠征に738ポンドを投資していたので、簡単に諦められなかった。かれは、イタリア人
 の分析人ジョン・バプチスタ・アニエロを探し出し、自分のいう通り金を含んでいると言わせてい
 る。ウォルシンガムが金の発見を信用していなかったため、ロックは次の航海の資金集めが
 困難となった。
  1577年3月、国王はロック、フロビシャーやかれらの後援者に特許状を与え、タカイ会社の設
 立を認めた。ロックは終身総裁、またフロビシャーは総監督に指名されている。そのとき、女王
 は1,000ポンドと200トンのエイド号を投資しており、その航海の投資総額は5,150ポンドであった。
 エイド号には海兵64人が乗船していた。その僚船は、海兵16人のミッシェル号、海兵13人のブ
 リエル号であった。それ以外に、それら3隻に143人が乗船していたが、そのなかには36人の
 士官と紳士、14人の「採鉱工や精練工」、そしてアグネロの友達で分析専門家として知られるヨ
 ナス・シュッツがいた。船用品として積まれた30トンの石炭は、採鉱工や精練工が使うことになっ
 ていた。
  フロビシャーは、往航、「復航中の3隻のイングランド人が乗る漁船に出会ったので、われわ
 れは友達への手紙を託している」。こうした長期航海に出掛ける往航中の船が行う慣行は、そ
 の後300年間も続いた。10月20日、カナダで、船隊は―200トンの―貨物を満船しているが、そ
 れはシュッツがフロビシャーに金になると保障した鉱石であった。そして、フロビシャーはその
 土地を「領土に付け加えた」という。
◆フロビシャーの北西航路の金鉱探し◆
 フロビシャーの帰国は商業界にとっていままでとは違ったブームを喚起した。ドイツ人の探鉱
 専門家ベルナルド・クラニッシュが、その鉱石には良い成分が含まれていると宣言したため、
 人々は争って投資し出した。さらに、「その土地は素晴らしい財貨が十分えられる見込みがあ
 る。そうした土地が発見されるに違いない」。
  フロビシャーは、2回目の航海で200トンのエイド号に乗船して帆走し、商船が大型になっても
 使えるように、交易ルートを開拓した。1560年と1577年の間、100トンから200トンまでのイングラ
 ンド船の数は72隻から120隻、また200トン以上にあっては6隻から15隻に増加した。他方、当
 時、950トンのトリンプ号が費用約4,000ポンドで建造されていたとはいえ、800トンから1,000トンまで
 の大型軍艦はイングランド人には採用されなかった。そうした船について、ウォルター・ローリ
 ー[卿、1552?-1618、探検家、女王の寵臣]は、実用的でなく、費用が掛かりすぎ、たまにしか使
 われず、また水深が深すぎるといっている。ある600トンの船が同じ大きさの船より2倍も多い大
 砲を搭載していたが、操船しづらくはなかった。中規模のガレオンは、ある程度快速で風雨に
 強い「レース・ビルド船」[競争船]として、王室船隊の主力となった。ガレオンは、カルバリン砲に
 よって、次第に武装されるようになる。カルバリン砲はキャノン砲より軽く、速射が出来、射程
 が長く、そして反動がなかった。同種のリベンジ号[テニスンの詩で有名な軍艦]は、フロビシャ
 ーが期待できそうな鉱石を持って帰ってきたときに、完成している。その船は1588年ドレイクの
 旗艦となり、またグレンビルの伝説となった最後の戦闘の際、指揮した船であった。
  フロビシャーがロンドンに帰帆したのは、女王がグレンビルに拒否していた特許状をドレイク
 に与えていたころであった。ドレイクの水夫たちは、自分たちの船はアレキサンドリアに向かう
 とほのめかされていた。しかし、宮廷の人々は、ドレイクの真の目的がアメリカを越えて東方に
 至る航路を調査すること、さらに南アメリカにおける植民の可能性を調査すること、そして北西
 航路の西側の入り口を探すことにあると気づいていた。
  ドレイクのプロモータの全リストは発見されていないが、そのなかに女王、レスター伯、ウォル
 シンガム、クリストファ・ハットン卿[1540-91、大法官]、ウィリアム・ウィンター卿、ジョン・ホーキ
 ンズ、その義父ベンジャミン・ゴソスン(ゴンスンのおかげで、ホーキンズは、翌年、海軍の会計
 官に昇進している)が含まれていたことはほぼ間違いない。ドレイクは、その年末1577年12月
 13日に出帆しているが、その航海がかれの世界一周として知られることとなる航海であった。
 かれの船が真冬に出帆していることは、造船技術が改良されたことを示そう。
  唯一の目当てである金(銀はともかく)の約束が果たされるかどうかが、支配者にとっての最
 大の関心であった。エリザベス女王は、フロビシャーによる1578年の3回目の航海に、1,350ポン
 ド投資していた。そのとき、400トンのトーマス・アレン号から、ミッシェル号やガブリエル号よりも
 小型のムーン号までの、15隻が出帆している。ジョン・ラシュリーの持ち船フランシス・オブ・ホフ
 ィ号は41人もの採鉱工を乗せていた。120人の将来性のある植民者が徒党を組み、砦を完成
 させている。それは、越冬用に集めた部品を組み立てたもので、プレバブ式建築の初期の例
 である。
 この航海で、フロビシャーはハドソン海峡を通り抜けている。船隊に参加していたウォルホー
 ルという名前の牧師が、新世界においてイギリス国教会[16世紀、ヘンリー八世の時代にロー
 マ教皇の支配から独立した教会]の最初の祈とうを行っている。その祈とう文は壊血病、海中
 転落、その他事故で死んだ約40人に捧げられたというが、それは疑わしい。植民地は建設さ
 れなかった。また、採取してきた鉱石は大変な関心を呼び起こしたが、それがぎらぎら光る金
 はなく、価値がないに等しかった。女王は痛い目にあった。フロビシャーの妻や子どもはすぐさ
 ま落ちぶれてしまった。ミッシェル・ロックも没落し、債権者監獄にほうり込まれた。北西航路は
 投機人にとってもうたくさんとなった。
◆ギルバートの西方航路の探検◆
 同じ年夏、1578年8月、ハンフリー・ギルバートが特許状をえている。かれは、1576年の『講
 話』の刊行に続けて―それはフロビシャーのカタイ会社の宣伝に役立った―、ニューファンドラ
 ンド沖の漁期中に、スペインや、ポルトガル、フランスの漁船を拿捕するプロジェクトを提案して
 いる。それら漁船は300隻以上を数え、そのトン数は7,000トンと評価された。その他、ギルバー
 トはスペイン財宝船の拿捕や西インド諸島におけるイングランド植民地の建設を提案してい
 る。
  ギルバートの特許状は6年間、探検する権限を与えていた。「キリスト教徒の王侯や人々に領
 有されていない、遠方の異教にして野蛮なやからの土地、町々、そして領地を発見し、探索す
 ることを認め……最善を尽くすものとする。そして、この権限は、本人、その後継者や受託人
 に付与、享受されるものとする」。1578年11月、様々な変転の後、ギルバートは7隻の船ととも
 に出帆している。かれと提携してはいたが、別々の航路をたどっていたヘンリー・ノーリズは
 様々な海賊行為に関与していたし、ギルバートの乗組員のなかにも多くの海賊が含まれてい
 た。旗艦であるアン・オーチャ号はギルバートが指揮しており、船長はヘンリー・ペリーであっ
 た。王室船のファルカン号は、ウォルター・ラーリーが指揮し、ポルトガル人のシモン・フルナン
 デサスが船長であった。かれらの船は大砲102門、人員409人を乗せ、1年間食料を積んでい
 た。
  その時代のトーマス・チャーチヤードの詩作は、ギルバートを言い当てている。
 何はともあれ、異国の地に、名声を求めようと
 あらゆる安らぎと、金目のものを投げ捨て、故郷を旅立つ
 この選ばれた男たちこそ、大いなる恩典をえる値打ちがある
 かれら以外の人が、どんなことを言い立てようと
 妻や、友達と別れを告げ、のた打ち回る海に立ち向かう
 人生というセールを広げ、それにすべてを賭ける
 そうした男たちこそ、王侯と祖国に迎えられ
 墓場に入っても、栄誉を称えられる、当然の権利がある

 ギルバートの船隊は、4か月後、損害を受け、成果もなく、帰帆してきた。ギルバートは植民
 地建設の計画を捨てなかった。それはさておき、かれは「乗組員が外国商船の掠奪を止めさ
 せることは不可能だし、その意志もない」と表明している。 女王は、1578年ハンザ商人の持っ
 ていた免税特典を廃止している。1579年、「イーストランド商人組合」と呼ばれていたイーストラ
 ンド会社(東方会社)に最初の特許状が交付され、エドワード・オズボーン卿が代表者となって
 いる。この「イーストランド」という用語は[ポーランドの]ビスツラ川以遠を指しているが、イースト
 ランド会社にノルウェーのスカゲラク海峡、スウェーデン、ポーランド、リトアニア(ロシア会社に
 留保されていたナルバ川の港を除く)、プロシャ、そして[現在のドイツとポーランドを分ける]オ
 ーデル川より東岸からダンチッヒやエルブロンク、そして[ロシアの]ケーニヒスベルグまでの
 [旧]ポメラニアに至る交易独占権を与えられていた。バルト海には海賊はいなかった。個別の
 冒険商人はその会社の設立を喜んでおらず、ロシア交易同様、もぐり交易が当たり前となって
 いた。
  1580年5月、ギルバートは、わずか8トンという小さなフリゲートfrigateのスクイレル号に乗り、
 大西洋を横断している。その船は[アメリカ北東部6州の]ニュー・イングランドを視認したとみら
 れるが、帰帆したのは6月末以前であった。この航海のシーマンシップには目をみはるものが
 あるが、本来の経済的な重要さは全くなかった。ジョン・ウォーカーという人物がそのころアメリ
 カ海岸に行き、300枚の盗品の生皮を持ち帰り、銀鉱山を発見したと報告している。その年、ギ
 ルバートは自分が持っていた北緯50度以北の航路探検に関する権利を、ジョン・ディに譲って
 いる。
◆ドレイクの私掠世界周航から帰還◆
 それでも、カタイへの航路を発見するため、北東向けの試みが繰り返された。チャンセラーと
 一緒に航海したことのあるアーサー・ピットは、40トンのジョージ号を率いている。また、フロビシ
 ャーの老練水先案内人の一人チャールズ・ジャックマンは20トンのウィリアム号を指揮したが、
 [ロシア北方の]カラ海から帰帆中に喪失している。同じ年、コンスタンチノープルとの最初の接
 触は、ムラト三世[1546-95、在位1574-95]のイングランド人に対するヨーロッパ人と同じ条件で
 の特許状の発行として実現している。その直後、フランスの大使はスルタンにその特許状を取
 り消すよう、説得している。
  1580年の最重要な事件は、その9月[26日]のドレイクの世界一周からの帰還である。この遠
 征はあらゆる種類の食料を必要以上に積み込んでいた。また、ドレイクはそれらが人々を喜
 ばせ、印象を残すに違いないとみていた。かれの家具は高価なもので、食器類は銀製であっ
 た。また、音楽家と画家を連れており、後者は訪れた海岸の様子を描いている。かれの主治
 医は殺されるが、ドレイクとその士官は「洗浄剤や、硬膏、軟膏」の使い方を知っていた。そし
 て―他のエリザベス時代の指揮者と同じように―、かれは機会がある度に、新鮮な食品を補
 給しようとしていた。1579年4月、病気が発生するが、そのときかれらは68日間も陸を見ていな
 かった。また、熟練職人も乗せていたので、どんなときでも船を傾け掃除したり、修理したりす
 ることができた。
  160トンのゴールド・ハインド号に乗ったドレイクは16日間かかってマゼラン海峡を通過してい
 る。それは、その世紀の短期間での通過記録であった。マゼランは37日間、キャベンディッシ
 ュ[1555?-92、3人目の世界周航者]とジョン・ホーキンズの子リチャード・ホーキンズ[1560?-
 1622]はそれぞれ49日間、46日間かかっていたからである。かれの成功は、大陸の西側のパ
 ナマ沖で金目のものを大量に積んでいた財宝船ムストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプション号、
 通称カカフェーゴ号(くそたき火号)を拿捕したことによって、黄金の輝きで彩られることが確実と
 なった。その報告には、「われわれはその船に、宝石や貴石、銀貨板が詰まったチェスト13
 箱、80ポンドの金、そして20トンの銀といった巨額の財貨があることが解かった」といっている。ド
 レイクは[外国人を]逮捕しても、すぐに釈放していた。かれは、スペイン王が太平洋における交
 易を許可していなかったので、[イングランド人は]両大洋のいずれにおいても掠奪の被害を被
 っていたに違いないという見方であった。かれはいとこが10年前サン・ファン・デ・ウルアで失っ
 たものを取り戻そうとしたのである。
  しかし、掠奪物がドレイクの唯一の目的ではなかった。かれが通ってきた道を戻ることは不
 可能だと決断したとき、[カナダ西部の]ブリティッシュ・コロンビアよりさらに北方に向け、北東航
 路の西側の入り口を探そうと航海し、サン・フランシスコ近郊に錨地を見付けている。そこで、
 かれは町と町の中間に、砦で囲んだ交易地が設けられ、ドックヤード、避難所、そして倉庫とし
 て使用されている様子を目撃している。サン・フランシスコは、19世紀、中国交易におけるアメ
 リカのホーン岬回り船が、その道筋として最後まで使用された港である。
  ドレイクは西海岸から、[インドネシアの]モルッカ諸島まで行き、インド洋を横断し、そして喜
 望峰を回って、プリマスに帰帆する航海に挑み、それを成功に導いたのである。かれは太平洋
 とインド洋を横断した最初のイングランドの指揮者として、また初期エリザベス時代の最も有名
 な英雄として帰還した。
  ドレイクの驚異ともいえる価値のある掠奪物は、1988年価格でおそらく1,600万ポンドと見積も
 られる。それは一般大衆を興奮させたが、権力者はその目立った金銭的な成功に興味を持ち
 ながらも、かれが香料諸島のテルナテのスルタンと結んだ口約束に重要性を見出していた。そ
 の約束はイングランド人がポルトガル人のスパイス交易の独占を破ってよいとするものであっ
 た。直ちに、広範な戦略が練り上げられた。
  それはドレイクは東インドに戻り、ヘンリー・ノーリズはマゼラン海峡の海域で越冬し、スペイ
 ン船をできる限り拿捕した後、モルッカ諸島でドレイクと合流しようというものであった。そして、
 ギルバートは6隻とともにキューバに向かい、大西洋に、スペイン財宝船を襲撃する基地を設
 営する。フロビシャーは北西航路の発見する計画を変更し、そのルート上でドレイクと連携する
 ことになっていた。しかし、いくつかの邪魔が入ってしまう。かれらは20年後、東インド会社の設
 立を主導するようになるが、それまでの広範な戦略に関連した唯一の成果は1582年のエドワ
 ード・フェントンの航海であった。

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