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「円仁・入唐求法巡礼行記」を読む

▼9年余りの入唐求法巡礼日記▼
 『入唐求法巡礼行記』は、最後の使節となった承和の遣唐使の一行に、請益僧として参加した、円仁(圓仁、794-864)の自筆日記である。なお、請益僧は短期間の入唐研究員であり、長期滞在の留学僧(学問僧)と区別された。
 彼の略歴は、「平安初期の天台宗の僧。諡(おくりな)は慈覚大師。下野(しもつけ)の人。15歳で比叡(ひえい)山(延暦寺)にのぼり、最澄に師事した。838年(承和5)入唐、揚州、長安など各地で密教や天台学をまなぶ。847年(承和14)に560巻あまりの経典をもって帰国。その後は第3代の天台座主(ざす)となり、天台密教の基礎を築いた」(Microsoft Corporation Encyclopedia2001)。
  その日記は漢文である。そのため現代としては訳書が必要となる。その標準書は、円仁著、足立喜六訳注、塩入良道補注『入唐求法巡礼行記』1、2、平凡社東洋文庫157、442、 1970、1985(以下、足立訳注『入唐記』とする)である。
  この足立訳注書は直訳の文語体となっており、さらに口語体(現代語)の訳書が必要となる。 その訳書として次のものが利用されている。円仁著、深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』、中 公文庫、1990(以下、深谷訳『巡礼行記』とする)。これは原文との対訳となっている。
  『入唐求法巡礼行記』は全4巻となっているが、足立訳注『入唐記』では23の章立てが行われ ている。以下、その章立てに即して、主要な海事情報を取り上げる。
  大まかな流れは、末尾の【承和遣唐使年表】を、参照されたい。

▼博多出帆して、長江河口に漂着▼
 「第1巻1 遣唐使舶の過海」は博多出帆から長江河口漂着までの航海がまとめられている。
 この承和の遣唐使は、すでに836年、さらに翌年に、渡海を試みたが失敗していた。四つの船うち、第3舶は出発前に難破して用をなさず、また第2舶は副使小野篁の病気(実は仮病、乗船せず、短期の遠島処分となる)を理由に出発できなかった【注1】。そのため、第1舶と第4舶だけで発航することとなり、前者に遣唐大使藤原常嗣、円仁(慈覚大師)などが乗込む。
 838(承和5)年6月13日、一行は博多で乗船するが順風がえられず、3日間滞船する。18日志賀島まで行くが、ここで5日間風待ちする。22日五島列島の宇久島に着き、翌日「ここで唐に行く者と日本に留まる者が互いに別れた。午後6時になるころ、帆を上げ大海を渡るべく出航した。北東の風が吹き、夜になって暗いなかを進んだ。第1舶と第4舶の2船はお互いに火縄やたいまつを焚き、発火信号を交わしあった」(深谷訳『巡礼行記』、p.20)。この「日本に留まる者」は単なる見送り人である。
 6月24日には航行安全祈願が行われた。第1舶は第4舶を見失う。27日には「船体の隅角や接続部に使ってある鉄の板が、波の衝撃で全部脱落してしまった」(深谷訳『巡礼行記』、p.22)。この鉄板は「要部を保護するために、表面を覆う平板の鉄片」と注釈されている(足立訳注『入唐記』1、p.12)。28日、出帆後早くも5日目に大陸沿岸に接近したもようで、海水は黄泥白濁となる。そのとき、新羅人通訳の金正南が白濁と河口について説明を行っている。大使は、水深が5尋(9メートル)となり、座礁を恐れる。
 「そうこうしているうちに、東からの風がしきりに吹いてきて大小の波が高く猛り立ち、舶は急に走り出して速度を増し、とうとう浅瀬にのり上げてしまった。あわてふためいてすぐに帆をおろしたが、舵は2度にわたってくだけ折れ、波が東と西の両側から互いに突いてきて舶を傾けた。舵の板は海底に着き、舶の艫(後部)はいまやまさに破れ割けようとしている。そこで、やむなく帆柱を切って舵を捨ててしまうと、舶は大波にしたがって漂流しはじめた」。さらに、「泥水(アカ)が船中にあふれ出し、とうとう舶は沈んで沙土の上に乗ってしまった。船底には官物・私物のあれこれが泥水のまにまに浮かんだり沈んだりしている」という有様となった(深谷訳『巡礼行記』、p.24-5)。
 7月2日、先遣していた射手(警備兵)【注2】壬生開山が帰ってきて、長江河口の揚州海陵県白潮鎮桑田郡東梁豊村に到着していることが分る。「ただちに、小[さな]倉船に日本国からの貢献物を移し、録事1人、知乗船事(船管理官)2人、学問僧円載(円仁と同じく、最澄の弟子)ら以下、27人が同様に乗り移り、陸を目指して出発した」という(深谷訳『巡礼行記』、p.28)。
 翌日、「午前2時ごろ潮がさしてくる。航路を知っている水先案内船に前方を誘導され、掘港庭にいった。午前10時ごろ白潮口に着くと、潮の逆流がきわめて激しい。大唐人3人と日本の水手らが船を陸上から曳いて流れを横切り岸に到着、ともづなを結んでしばらくの間、潮が満ちてくるのを待った」とある。ここで第4舶が山東半島北方の渤海に漂着したことを聞く(深谷訳『巡礼行記』、p.32)。
円仁の行程図
▼揚州に移動、大使、長安に向かう▼
 「2 掘港より揚州に向かう」は、運河を利用して、掘港から揚州まで移動するときの記録である。
 7月14日、迎えの船を待たずに、「大使1人、判官2人、録事1人、知乗船事(船中の管理役、録事の次の位)1人、史生(記録係)1人、射手、水手(水夫)ら、総勢30人が水路から船で県庁に向かって」しまう。その後、「7月18日。早朝、公私の財物をもやい船に運んだ。録事以下、水手以上の者は水路から船で揚州府目指して進んでいった」。
 運河での運搬は、「水牛2頭が[注釈はないが、1組当たりで、ということであろう]40余隻のもやい船をつないで引っぱる。あるいは3隻を横に並べで1船とし、あるいは2隻を横に並べて1船とし、ともづなでつないでいる。前と
淮河と大運河を結ぶ水門
後ろでは距離が離れているので聞こえづらいから互いに大きな声を出し合い、かなり早い速度で進む。運河の幅は2丈余(約6メートル)、曲がることなく真っ直ぐに流れている。これが、あの有名な隋の場帝が掘り作らしたものである」と書き残す(以上、深谷訳『巡礼行記』、p.35-6)。
 遣唐大使から文書が来て、「今回の漂流中に破損した第1舶は便宜のあり次第、所管地域の駐屯部隊に監視してもらい、その舶の乗り組みの水手らは数をたしかめて、全員上陸出発させよ。残留する者があってはならない」ということになったという(深谷訳『巡礼行記』、p.37-8)。
 「3 大師等は開元寺に寄宿して、天台山に至らんことを請う」は、遣唐大使が円仁たちの入山希求を胸に納め、長安に向け出発するまでの記事である。
 同年8月8日、すでに来ていた情報に加え、「第4舶はなお泥の上に居り、いまだに停泊個所に着いていない。日本国からの貢献品もまだ運び揚げられていない。その舶の張り板ははずれ落ちて、船中は泥水でほとんど一杯になり、潮の干満にしたがって船倉の水がひいて、舶は泥の上に乗ったり水中に沈んだりで、ほとんど航海の役には立たなくなっている。求法僧(円行[799-852]・常暁)らはまだ上陸していない。船頭の判官(菅原善主)は上陸して海辺の漁師の家にいる。船中の人5人は体がふくらんで死んだ」ことが知らされる(深谷訳『巡礼行記』、p.52)。
 8月10日、新羅人通訳の朴正長から、出帆が後れていた第2舶が海州(江蘇省東海県)に着いたという手紙が、第1舶の金正南のもとに来る。後述の通り、この第2舶のみがかろうじて日本に帰り着く。その乗船者の官人たちが大使一行と合流したかにみえるが、明らかでない。
 8月17日、赤痢にかかっていた、船師(船長)佐伯金成が死ぬ。遺品は従者に授けられる。また、第1舶に派遣していた副船長の楊侯糸麻呂が急ぎ帰って来て、水夫長佐伯全継が掘港で死んでいたという。8月24、第4舶の判官一行が30隻ほどの小船に乗ってやってくる。
 10月5日、遣唐大使らは揚州を長安に向け出発するが、「入京する官人は大使1人(藤原朝臣常嗣)、長岑判官(長岑高名)、菅原判官(菅原善主)、高岳録事(高岳百興)、大神録事(大神宗雄)、大宅通事(大宅年雄)、別請益生(特別研究員)伴須賀雄、真言請益僧円行ら、それに雑職(各種の職事官)以下35人、官船は5艘」であった(深谷訳『巡礼行記』、p.70)。
▼開元寺に寄宿、ハリー彗星を見る▼
 「4 大使の帰還まで開元寺にありて入天台山の勅許を待つ」の内容はタイトル通りである。
 円仁は、10月22日早朝、ハリー彗星(周期74.7年、[通常は約76年をいう])を見る。翌日も、「暁になって部屋から出て、この彗星を見ると、東南の空の隅にあってその尾は西を指しており、炎はきわめてハッキリと見えた。遠くからこれを望み見ると、光の長さは全体で10丈(約30メートル)以上もある。どの人も皆、これは兵剣[兵乱]の光を意味するものに違いないと言った」という(深谷訳『巡礼行記』、p.77-8)。その後も、彼は日食、月食、月と金星の接近などの天文現象にたびたび遭遇している。
 日本を出発した年の12月18日、早くも新羅人の通訳金正南をして、「往路の第1舶・第4舶の破損の度が大きかったので、遣唐諸使の帰国の船を決めるために、楚州(のちの淮安)に向かって出発」させている。その直後に遣唐大使が長安に着いたという連絡が来る(深谷訳『巡礼行記』、p.102)。
 そして、年が改まった839(承和6)年の閏正月4日には、「新羅人の通訳金正南の要請で購入した船を修理させるために、工匠の監督、大工、船工、鍛工(かじ屋)ら36人を楚州に向け出発させた」とある(深谷訳『巡礼行記』、p.120)。その一方、その翌日には「日本の朝貢第1舶に随属してきた水手、射手ら60余人の誰も彼もが、皆病いに倒れ苦しんでいる」とある(深谷訳『巡礼行記』、p.121)。
 1月8日、日本語が非常によくわかる「新羅人の王請という者がやって来たので会った。彼は日本の弘仁10年(819)に出羽の国に流れ着いた唐の人張覚済らと同じ船に乗っていたという。漂流した事情を聞くと、こう言った。『いろいろな物を日本と交換するために、この揚州を離れて大海を渡ったが、たちまち暴風に遇って流されること3か月、出羽の国(山形県)に漂着した。その張覚済兄弟2人はまさに出航しようとするときになって、2人とも同じように船から脱走し出羽の国に居留してしまった。私どもは北出羽から発って北海(日本海か)を航海し、幸いにも好風に恵まれて15日で長門の国(山口県)に流れ着いた」という話であった(深谷訳『巡礼行記』、p.110)。
 「唐の人張覚済ら」とか(新羅人とみてよい)、「出羽の国(山形県)に漂着した」とか、「船から脱走し……居留した」とかいうが、遣唐使一行をおもねっての言葉使いであろう。新羅人商人は北九州のみならず、東北の豪族といわば密貿易を行っていたことを示そう。
▼新羅船を9隻購入して、帰国の運びに▼
 「5 遣唐使は勅許を得る能わずして楚州に帰り海州より過海す」はタイトル通りで、円仁が初志を断念せざるえない状況となったことが示されている。
 2月6日、揚州の役所が天子の勅にしたがって、遣唐使節団の揚州残留者270人それぞれに、判官から水手に至るまで、絹5疋(1疋=12メートル)を禄(報給)として支給してきたという。この270人は、この時点で揚州に寄留していた第1舶と第4舶の乗船者であって、長安や楚州などに派遣されていたものは含まれていない。なお、第2舶はすでにみた海州(江蘇省東海県)に留まっていたとみられるが、同船の判事藤原豊並は長安で死亡したことになっている。
 遣唐使は838(承和5)年12月3日長安に到着し、翌839(承和6)年1月13日参朝し、閏1月4日長安を離れ、2月12日楚州に戻ってきた。しかし、円仁にとって無念なことに、日本僧たちの去就については円載のみが天台山に入ることを許され、円仁などすべての僧は本国に帰還するものとするという、勅符となっていた。28日、円載とその従者2人は一行と別れ、天台山に向かう。その後、彼は40年も唐に留まり、877年帰国の際に遭難して死亡する。
 揚州にとどまっていた官人や僧たちは、10隻に分乗して大運河を使って楚州まで行って、大使一行と合流することとなった。それを前にして、同年2月22日第4舶の射手1人、水手2人が唐人に暴行したとして逮捕、留置されたことをはじめとして、遣唐使一行の何人かが私交易をめぐっていくつかのトラブルが起きる(詳細は後述する)。逮捕、留置された人々も放免され、2月22日、出発する(深谷訳『巡礼行記』、p.134)。
 遣唐使は、天子から9隻の船を雇って修理することを認められていたが、足立喜六氏らの指摘によれば、それに見合う新羅船を購入したようである。円仁は、「3月17日。携帯品を運んで第2舶(現地発注の新羅船)に載せ、長岑判官と同船することになった。使節団の一行はそれら9隻の船に分乗し、各船はそれぞれの船頭[指揮官]が指揮統率した。船頭は日本人の水手を統率するほか、さらに新羅人で海路をよく知っている者60余人を雇い入れ、船ごとにあるいは7人、あるいは6人とか5人を配置した」(深谷訳『巡礼行記』、p.147)。彼らは舵取りや水夫で、博多着後、新羅に帰国している。
 帰国船が新羅船を雇船でなく購入となったのか、それが9隻となり、しかもそれらを容易に調達しえたのか。こうした船の購入をはじめ、通訳や船員の雇用、さらに入唐船の出自を含め、新羅依存については検討に値する。
 3月22日、円仁が乗った第2舶をはじめ9隻の帰国船が、唐の監送武官の船に見守られながら、海州に向かって出帆する。その途中、東海山(雲台山)近くの連雲港において、2日にわたって、遣唐大使は帰国船から官人を集めて渡海の方法について協議するが、まとまらない。4月3日、第2、第3、第5、第7、第9舶の5隻は出帆することを決める。4月5日になり、残る第1、第4、第6、第8舶の4隻もまた、順風の西風が吹き出したとして出帆することになる。そこで円仁は計画を貫くこととする。
 それは、すでに「楚州に滞在していた際、新羅の通訳金正南と謀って、密州の地に行ったならば上陸して人家に泊し、その間に朝貢船が日本に向け出発したならば山中に隠れていて、そこから天台山に向かい、併せて長安に行く」という計画であった。「大使もこの計画に反対されなかった」。そればかりか、それまでの贈与に加え「大使は金20大両を賜わった。人々も別れに臨んで悲しまない者はなかった。[4月5日]午前8時になるころ、9隻の船は帆を上げて出発し、風に委せて東北を指してまっすぐに進んで行った。岸の高い所に上がって望み見ると、白帆はずっと海の彼方に続いている。僧ら4人[請益僧の円仁と、惟正、惟暁という僧、水夫の丁雄満]は山岸に留まった」のである(深谷訳『巡礼行記』、p.160)。
 なお、円仁の日記では明示されていないが、帰国船の一団に入唐第2舶が加わったことで、総数10隻となっていた。
▼帰国船に「遺棄」され、在留を果たす▼
 「6 大師の留住の謀計は成らず 第2船に乗せられて過海の途に就く」では、いわば密入国に失敗し、帰国船で強制送還されることになったことが示される。
 密入国した円仁たちは、新羅僧と称して旅を続けようとするが発覚し、警備役所に捕らえられ、海州衙門に送致される。他方、出帆したその日の4月5日夜半の暴風によって、帰国船はちりぢりとなった。ただ、4月8日、前判官が死亡したことで昇進して、入唐第2舶の船頭となった良岑長松判官が病気になったため、東海山の海竜王廟に留まっていた。その船には法相宗の請益僧戒明や新羅人通訳道玄が乗っていた。
 そこで、円仁たちは良岑判官に引き合わされ、4月10日その第2舶に乗船して帰国させられることとなった。その後8日間航海を続けるが、登州牟平県唐陽陶村の南辺に漂着してしまう。なお、この8日間に、2人の水手が死亡、水葬にふされている。また、飲料水が1日につき、役人2升、従者や水手は1.5升支給されたが、翌々日には1升に減るという記事がある(1奈良升0.72リットル、1唐升0.59リットル)。
 「第2巻7 海上難航 図って朝貢船に拗却せられ 
赤山法花院に留住す」では、帰国船にいわば遺棄さ
れたことが千載一遇となり、天台山入山を目指せるよ
うになったことが示される。
 帰国船は、4月5日渡海することとなったが、その後
風がえられないため陸から離れることができず、7月
23日になってようやく山東半島の文登県靖海衛東方
南岸の赤山浦から帰帆することとなる。入唐第2舶は、
4月18日三度、乳山浦の西方に漂着する。その間、天
候は益々険悪ことになり、舵手、水夫(半死のまま捨
てられる)、卜部諸公たちが死ぬ。
 この第2舶の航海の難渋ぶりは、具体的には次のよ
うなものであった。5月27日、「明け方、大きな雷が急に
赤山法華院
落ちて来て、帆柱をつんざき、船尾の甲板は斜めによじれむしり取られた」。その裂けた帆柱は「改めて造りかえるべきだ」、「帆柱を造るといっても、その材木をここで急に入手することは困難」と議論しあったが、「後の説に従って、早く出発しようということになった」という(深谷訳『巡礼行記』、p.206-7)。また、6月23日赤山浦漂泊中、「舶は大風のために吹き流されて荒磯にぶつかり、かじの板が破損し、同時にはしけ2隻も割れくだけてしまっている」。「船上の多くの人は気が転倒して食事ものどに入らず、まるで半死の状態のようである」。翌日、「船頭は手分けしていかりになる石を採って来させ、またかじを造る材木を探させた」とある(深谷訳『巡礼行記』、p.215-6)。
 その後、だらだらと風待ちしていた。ところが、「7月16日。早朝、赤山院から下りたが、その途中で会った人の言うところでは、帰国する第2舶は昨日出発したという。前日まで船が停泊していた所に行って、舶の姿を探したがどこにもその姿はなかった。茫然としてしばらくは岸頭に立ちつくした」という事態となった。「そこで文登県の役所に報告するため出ていった。院内の老いも若きも、円仁らがとり残されたことを非常にふしぎに思い、親切に慰めてくれた」とある(深谷訳『巡礼行記』、p.221)。それは僥倖でしかなかったであろう。
 その5日後の7月21日午後4時ごろ、入唐第2舶同様、嵐に翻弄されたらしく、すでに3か月前に帰帆していたはずの「遣唐大使以下の乗った9隻の船がやって来て、この赤山浦に停泊した」のである。「そこで、惟正をやって大使のご機嫌をうかがわせる……大使は近江権博士の栗田家継[などを]……派遣してきて請益僧を慰問され、同時に先にこの地から出発した第2舶が遭難したことについて質問があった」(深谷訳『巡礼行記』、p.223)。
 その翌々日の「7月23日。早朝、赤山の上から、きのうまで船団が停泊していたところを望み見たが、9隻の船の姿はいずれも見えない。それで、昨夜のうちにみな出航したことを知ったのであった」。「赤山の東北方、海の彼方100百里(約55キロメートル)ほどのところに遥かに山が見える」。「円仁・惟正・惟暁の3人の僧はぜひとも天台山に行きたい一心で、日本に帰りたいという気持を忘れ去り、赤山院にふみ留まっている」と書く(深谷訳『巡礼行記』、p.223)。
 承和の遣唐使の帰国船は、入唐第2舶が合流したため、10隻となった。遣唐大使に同行した帰国船9隻うち8隻が帰国し、1隻のみが遭難した(その船名は不明)。それに先発した入唐第2舶は、相変わらず御難を引きずり、台湾周辺で遭難する。その生存者は残骸で数隻の小船を作って帰国する(後述する)。これは大いに称賛に値しよう。この船に円仁が乗っていれば命を失ったに違いない。
 こうして、遣唐使の四つの船はいずれも遭難して海の藻屑となったが、円仁たちが乗った船を含め、帰国新羅船は小型でありながら、それなりに航海をまっとうしており、新羅人たちの航海・造船術の高さが見て取れる【注3】【注4】。
▼円仁在留・帰国の協力者・新羅人たち▼
 大使は円仁たちに一緒に帰国しようとも、または円仁たちも大使に一緒に帰国したいともいわなかった。こうして合意の「遺棄」によって円仁たちは念願を果たすこととなった。
 円仁が在留することに成功したのは、彼の一途な思いばかりではない。足立喜六氏は、「大使の9隻も赤山浦に入浦したが、また放置してその儘発去した。ここに大師等は、まったく朝貢使に置去られて、赤山法花院に留住することとなった。これはもちろん、陰に陽に画策したる謀計であって、大師の不屈の一到心は、漸く留住の目的を貫徹し得た。ただし、船上の諸官人、林大使・張宝高、新羅署の通事押衙・張詠、邵村のc正・王訓等、諸新羅人の援護に頗ることは頗る大である」と解説している(足立訳注『入唐記』1、p163)。
 具体的には、山東半島までの航海の難渋や滞船が、円仁にとって在留工作の期間となっていたのである。839(承和6)年4月29日、入唐第2舶の「新羅人通訳の道玄に、この地に留まることがうまくいくものかどうかを検討させた。道玄は他の新羅人とそれについて相談して帰って来て言うには、『留まる件はうまくいきそうである』」と。5月1日、「この村に円仁が留まることができるかどうかを聞かせる」と、村の世話役王訓らがいうには「もしも留まることを希望するのであれば、私らが一生懸命和尚のお世話をいたしましょう。和尚は強いて日本に帰るには及びません、云々」という。「第2舶幹部の賛成が得られないので、まだ在留の決心がつかない」とある(深谷訳『巡礼行記』、p.195)。
 5月16日、臨検の押衙の使いが来たのを利用して、「請益僧は唐に留まりたいという旨の書状を書いて、商人の孫清に持たせ、林大人(後に述べる張宝高)の家に届けさせている」(深谷訳『巡礼行記』、p.201)。同時に、赤山浦停泊中に法花院などを訪れ、宿泊までするようになり、さらに6月29日には「夜明け頃、[通訳]道玄闍梨と客室に入り、唐国に滞在することについて相談した」という(深谷訳『巡礼行記』、p.219)。
 山東半島の文登県清寧郷赤山村に赤山法花院という寺があり、円仁はそこに長期に寄宿す ることとなる。そこは、「もともとは張宝高が最初に建てたところである……冬は法花経を講義
 し、夏は8巻の金光明経を講義するもので、この講義は長年にわたって行なわれてきた……い まは新羅人の通訳で軍事押衙(警備長官)の張詠および林大使(張宝高)、村の長老の王訓らが 完全に管理している」とされる(深谷訳『巡礼行記』、p.214)。なお、この寺は比叡山麓西坂本の 赤山禅院や、京都北郊赤山明神の起源となった。
 張宝高に関する情報は、4月2日帰国第2船の指揮官長岑宿爾[高名]が進路決定と関連さ せて、「新羅は張宝高と乱を興し互いに戦っている」と述べている。さらに、4月20日、山東半島 に漂着すると、新羅人が小船に乗って早速やって来る。その彼から円仁は、張宝高が閔哀王 [在位838-39]を打ち倒すため神武王[在位839]と協力し、彼を王とすることに成功したことを知 る。なお、張宝高の略歴はコラム通りである。
莞島の張宝高(保皐)の銅像
張宝高の略歴
 新羅の勇将にして保皐、弓福、弓巴とも称する。『三国史記』、『三国遺事』、『新唐書』新羅伝・百済伝、『続日本後紀』等に見ゆ。
 初め唐に入って徐州軍中小将となり、帰って新羅興徳王[在位826-36]に謁し、[828年全羅南道莞島に置かれた]清海鎮大使に任じ、兵卒万人を与えられ清海〔山東省東端〕に鎮ぜしめらる。後に閔哀王金明[に]反して簒位す[王位を簒奪しようとする]。
 興徳王の太子祐徴は、妻子と共に清海に逃れ、宝高に頼って復仇を謀る。宝高は卒5000を差わし金明を討って、ことごとくその党類を殺傷す。〔『入唐求法巡礼行記』第5章839(承和6)年〕4月2日の条に張宝高反して新羅と戦うとあるは、これなり。
 ここに張宝高は祐徴を新羅国の太子に復したのである。即ち、祐徴[は]即位して神武王と称し、厚く宝高の功を質し、その女[娘]を納れて妃となさんことを約した。
 しかるに、ついで神武王病死し、後王文聖王[在位839-57]はその約を践んで[ふまえて]王妃となさんとす。しかるに群臣はその[彼の]微賎なるを以って聴かず。張宝高怒り、清海に拠って反せしが、朝廷これを征すること能わず。承和8年(841)11月に至り、張宝高は刺客閻長に暗殺せられた【注5】。
 張宝高は、清海鎮警備の外に交易船を派遣して、広く海上に活躍した。『続日本後紀』に見ゆる、我が国に通商を求めたのも、この時である。また、赤山に法花院を建て、大師の留住を援護した事も、頗る偉大である。ことに赤山法花院の滞留、公験の下付、五山の巡歴、帰還の過海に、始終異常なる援護を加えたる張押衙、崔兵馬司等は、皆張宝高の麾下の人々である。
 慈覚大師は、太宰府を出発する際、筑前太守小野岑守[小野篁の一族]の紹介状をえている(『入唐求法巡礼行記』第9章[840(承和7)年]2月17日条)。宝高は日本へ渡航したこともあり、太宰府の役人と面識があったからであるという。
出所:円仁著、足立喜六訳注、塩入良道補注『入唐求法巡礼行記』1、p.179-80、平凡社東洋文庫157、1970。

 「6月27日。聞くところによると、清海鎮張大使の貿易船2隻が旦(赤か)山浦に到着した」。また、円仁は「6月28日。大唐の天子が新しく即位した王を慰問のため、新羅に派遣する使者青州兵馬使……らと寺[赤山法花院]の中で会った。夜分になって、張宝高は大唐売物使(新羅から唐へ物品をもたらす使者)の崔兵馬副使(張宝高の配下、崔暈、俗称弟十二郎)を寺につかわして来て、われわれを慰問してくれた」という(深谷訳『巡礼行記』、p.218)。
 そのとき、張宝高はどこにいたのかはともかく(多分、新羅であろう)、新羅の実力者として唐に深く関わり、山東半島を実効的な権限をふるっていたことは明らかである。彼は、その配下をもってして、円仁に親切に応接していたのである。彼の支援によって円仁の在留がはじめて決まったといえる。したがって円仁にとって張宝高は求法巡礼行の恩人といえる。その彼は、円仁の長安滞在中、暗殺される。
▼五台山を経て長安への、求法巡礼の旅▼
 「8 赤山法花院の屏居、9 公験を得るが為に青州に向かう、10 公験を得て五台山に向かう、11 五台山に到り大花厳寺に入る、第3巻12 竹林寺と大花厳寺、13 中台、西台、北台、東台を巡遊す、14 長安に向かって発し、南台に登る、15 長安に到る行旅、16 資聖寺に寄住して長安の諸大徳に学ぶ」が続く。
 それらは、円仁は勧めもあって天台山入山をあきらめ、公験(旅行許可書)をえて五台山を経て長安に至るまでの、求法巡礼の旅を書き残したものであり、この日記の本体である。その期間は、839(承和6)年7月から845(承和12)年6月まで、実に5年にわたる。その旅行は当然陸路を取っており、当面する海事情報はさしあたってないが、注目すべき記事は次の通りである。
五台山
 赤山法花院に屏居した翌年の840(承和7)年2月17日、円仁は張宝高に手紙を送っている。そのなかに、「求法ののちは、赤山に戻り帰って、清海鎮から方向を変えて、日本に向かいたいと思っています……円仁が戻り帰ってくるのは、ほぼ明年(841)の秋になるだろうと推定しています。もし清海鎮方面に人、船が往き来するようなことがあれば、どうか閣下からおはからいの命令を出していただきたく……お願いします。僧らが日本に帰れるかどうかは、いつにかかって閣下の大きな援助によるのです」と、張宝高を仰ぎ奉り、はやばやと帰国船を予約する(深谷訳『巡礼行記』、p.273)。
 そして、「円仁は故郷の日本を離れるとき、謹しんで筑前大守から書状一通を預かり託されてきて、大使に差し上げる手はずでした。ところが、唐の地を目前にして船が浅瀬に座礁、沈没するという予期しない出来事にあい、いろいろな物を流失しましたが、このとき託されてきた書状も波にさらわれ海底に沈み落ちてしまいました……どうかけしからんと責められませんよう、お願いする次第です……早い機会にお目にかかりたいと願う心情が増すばかりです」と詫びる(深谷訳『巡礼行記』、p.275)。張宝高の日本と関わりがいかに奥深いかを知りうる。
 840(承和7)年2月22日、唐の文宗(在位826-40)が崩じたことを聞く。4月1日、公験をえて、五台山に向かう。そして、8月22日、円仁は早くも長安に入る。翌841(承和8)年1月、武宗(在位840-46)の即位により、唐の年号が開成から会昌に改まる。その842(承和9)年3月には、ウイグル族が唐の領内に侵入してくる。8月、円仁は帰国の意向を漏らす。その頃から、会昌の廃仏と呼ばれる武宗の仏教迫害のきざしがみえる。
 842(承和9)年5月25日、天台山国清寺に入った円載の従者僧仁済が来て、手紙や消息をもたらす。そのなかには、遣唐大使藤原常嗣は帰京したものの死亡したとか、入唐「第2舶は南の裸人の国に漂着し、舶は破損、人も物も損害を出したが、偶然にも30人ほどは命が助かって、破損した大きな舶を割いて小船を作り、それによって日本に帰り着くことができた」とか、楚州に住む新羅人通訳の劉慎言のところに、玄済阿闍梨が託した「日本からの書状と沙金24小両」が預けられているとか(通訳が使い込んでしまう)、「恵蕚和尚は便船を利用して楚州に着き、すでに五台山を巡り終え……李隣徳四郎の船に便乗して明州(淅江省新勤県)から日本に帰る」つもりでいたが、楚州から帰ることになるだろうとかであった(深谷訳『巡礼行記』、p.505)。
▼会昌の廃仏によって国外追放となる▼
 「17 僧尼の陶汰、第4巻18 武宗の暴政、19 武宗道教に溺惑して僧徒を迫害す、20 長安を発し、帰って卞州に到る、21 登州文登県に逓送せらる」は、会昌の廃仏が起こり、円仁たちは国外追放となり、唐の最果てまで逓送(駅逓送り)される過程を日記としている。
 842(承和9)年10月9日、会昌の廃仏がはじまる。僧尼は、その履歴によって還俗を求められ、財産を没収されることとなり、寺からの外出禁止となった。翌843(承和10)年1月、僧尼の還俗数は長安だけでも3591人も及んだ。1月28日、外国僧は軍衛に集められ、その数南インド人5人、北インド人、セイロン人、クチャ人それぞれ1人、そして日本人3人など、総勢21人であった。7月24日、弟子の惟暁が長い病の後亡くなる。8月13日、帰国の許可を求める。12月、円載の弟子僧2人が新羅人通訳の劉慎言の手配で、日本に帰航したという手紙を受ける。
 円仁は、844(承和11)年も在京し、その3月、武宗の宗教観について彼は「ひとえに道教を信じて仏法をにくむ。僧の姿を見ることを喜ばず、仏法僧三宝の教えを聞きたがらない……経文を焼き、仏像を破壊し、多くの僧を宮中から追い出して、めいめいが帰属する寺に帰してしまった。そして、道場内には道教の天尊と老子の像を安置し、道士に命じて道教の経典を読ませ、道教の術を修練させている」と述べている(深谷訳『巡礼行記』、p.542)。さらに、7月15日「全国の山林寺院、普通院(巡礼者のための宿泊所)、仏堂、公共の井戸、村の供養堂などで200間未満のものと、公的に登録されていない寺は破壊し、そこに属する僧や尼僧らはすべて強制的に還俗させて雑役に充てよ」という勅がくだった(深谷訳『巡礼行記』、p.549)。
 845(承和12)年に入っても、武宗の仏教迫害は衰えない。すでに、円仁たちは帰国願いを、841(承和8)年から100余回にわたって仏教迫害担当の功徳使(!?、宗教長官)に出していたが、それが許可されない。すでに、外国僧に対する身元調べや呼び出しが行われていたが、遂に勅がおり、「[尚書省礼部]祠部の証明書を持っていなれば、[国内僧と]同様に強制的に還俗させて、駅次ぎに出身国に帰せ」、「それに従わないものは死刑」ということになった。円仁が寄住する資聖寺には証明書を持っていないものが、彼らを含め39人もいた。
 円仁たちは世俗の姿となって、旅支度に取りかかり、5月15日旧知の人々に見送られて長安を出る。ただ、大理卿(司法長官)楊敬之の紹介状があったため丁重に扱われ、卞州(現、開封)、泗州、揚州を経て、7月3日楚州に着く。
 楚州では、「まず、新羅坊(新羅人街)に行って、惣管(総管、居留民団長)でこの州の同十将(駐屯部隊下級将校)の薛詮と新羅人通訳の劉慎言に会った。2人はわれわれを迎えて親切にねぎらってくれた」。彼らは「日本国の朝貢使は帰国の際、皆ここから船に乗って大海を渡り、日本に帰りました。円仁らは駅次ぎに送られて、長安からここに来ました。帰国するにはどうか、ここから大海を渡らせていただきたい」と申し述べ、また「劉慎言は自ら県の役所に行き、賄賂を使って、この件がうまくいくよう計画をめぐらした」が、県知事から了承をえられなかった(深谷訳『巡礼行記』、p.592)。
 7月3日楚州を出発し、新羅人のつてをたどりながら、海州、密州を経て、8月16日登州に着く。さらに、登州の文登県に移動する。いまや、円仁たちは「山を越え野を渡って衣服はぼろぼろに破れ使い果たした。県の役所に行き県令(県の長官)に会い、『当県の東端にある勾当新羅所(青寧郷にある新羅居留民の世話所)に行って、食べ物を求め乞うてただ命を延べつなぎ、その間に自ら舟を求めて日本国に帰らしてほしい』と請願した」という状態になっていた(深谷訳『巡礼行記』、p.609)。
 「登州は大唐の最も東北の涯の地域である。北海に突き出し海に臨んで州城[蓬莱城か]が設けられ……都から遠く離れたところであったが、勅令による法規によって僧尼を強制還俗させ寺院を破壊し、経の所持を禁じ、仏像をこわし、寺の所有物を官に没収することは、長安の都と何ら変わるところがない。まして仏像の上についている金を剥ぎ取り、銅鉄仏を打ち砕いて、その目方をはかるとはまさに何ともしがたい痛ましいことである。天下の銅鉄の仏、金の仏はどれほど数に限りのある貴重なものかわかっているのに、勅に従ってすべて破壌し尽くしてただの金屑にしてしまった」(深谷訳『巡礼行記』、p.607)。
 なお、会昌の廃仏は仏教教団の腐敗や堕落を糾弾し、脱税目的で僧尼になったり寺に入ることを取締ることにあった。そのもとで県ごとに数寺が残されたが、廃寺は4600寺、還俗者は26万人に及んだとされる。
▼3年寄寓後、自ら船を探して、帰国へ▼
  「22 赤山に寄寓し、自ら船を覓めて帰国を謀る」は、あしかけ3年赤山浦に寄寓した後、自ら船を探して帰国の途につくという記録である。
 8月27日、円仁たちは勾当新羅所に着いて、軍事押衙の張詠と再会し、懇切にねぎらわれる。円仁たちは再び赤山法花院の庄院に寄住し、太宰府に8年間住み、張宝高が唐に連れて来た新羅人還俗僧の李信恵を通訳にする。
 張詠は、州庁に「彼らは駅次ぎに旅を続けてきて、この県に到着、勾当新羅所に来て乞食してまでもただ命をつなぎ、日本国に渡り行く船のあるのを待って帰国したいと申し出ている。現在、この浦(赤山浦)に滞在している」と報告した。それに対して、9月「その僧らはしばらく逗留することを任せよう。もし日本国に渡海していく船が見つかったならば、自由に出発させてよい」とされた(深谷訳『巡礼行記』、p.611-2)。
 そうこうしているうちに、年が846(承和13)年に改まる。その3月23日に武宗が崩じたことを知る。それにより仏教は復活する。3月9日張詠から手紙が来て、最近「日本から僧1人と一般人4人が……いま揚州に着いており、日本国からの手紙[太政官の文書など]と預かり託されてきた贈り物などを携えて、懸命に請益僧円仁を尋ね求めている」とあった。その僧は、すでにみた李隣徳の船に乗って楚州についた、円仁の弟子の性海であった。彼を呼び寄せることとなり、10月2日になって揚州からやって来る。
慈覚大師帰朝図
住吉具慶筆、京都・真正極楽寺蔵
江戸時代前期
『慈覚大師円仁とその名宝』所載
NHKプロモーション, 2007
 再び年が改まり、847(承和14)年となる。ここにおいて帰国の運びとなる。「張詠大使は去年の冬から船を造りはじめ、今年の2月になって竣工した。ただただひとすじに円仁らを、この地から出発させて日本に帰したいと考えてのことであった」。
 閏3月10日、それに差し金が入る。新羅王の遣唐使節の副使らに、「国の名義を使って遠い国の人を送り出そうとして勝手に船を造っておりながら、朝廷から派遣された使節に対してはやって来てお迎えし接待しょうともしない」と、張詠を讒言するものが出た。「副使らは、その告げ口を聞いて、張大使の行動を深くいぶかり、文書を出して言うには『国の禁制があり、船を自由に派遣して客人を送り届け、大海を渡るなどの事は許されない』と指摘した」【注6】。
 「張大便は、むりにどうしても自分の考えを主張することはせず、副使の文書を拒否するようなことはしなかった。こういうことがあったため、文登県の地から大海を渡って、[張詠の船で円仁たちが]日本に帰るという計画は実現しなかった。そこで相談して、明州(寧波)に行って、日本国の神御井[大神御井という名前]らの船を追い求めて帰国しようということになった」。いまや張詠に頼ることができなくなり、「自ら船を覓めて[もとめて]帰国を謀る」こととなる(以上、深谷訳『巡礼行記』、p.627-8)。
 張詠は、足立喜六氏の訳注によれば、「新羅人にてもと張宝高の部下の将なり。勅平盧軍節度、同十将、兼登州諸軍事押衙は、唐の天子より受けたる優遇官にして、実官にあらず。張宝高の乱後、青海鎮の大使となり、新羅所を勾当して、文登県登州に関する事務を総管する」とある(足立訳注『入唐記』2、p.307)。すでにみたように、張宝高は乱後の承和8年(841)11月、すなわち円仁の長安滞在中、暗殺されている。円仁は張詠を頼みとして帰国しようとしたが、すでに情勢は大きく変化し、張宝高一党の勢力は減退していたとみられる。
 閏3月17日、密州から船賃[絹5疋]を払って、6月5日楚州に行き着く。そこで三度、劉慎言に会い、「ここから出航して日本に帰国できるようはかってほしい」と頼む。6月9日、新羅人の金珍らが、日本向けの船に円仁たちを乗せてよいとして、赤山浦に向かったという情報をえる【注7】。その船と行き違いとなっていたのである。そこで、6月18日円仁たちは新羅坊の王可昌の船に乗って戻ろうとする。しかし追い風がなく、もたついたため、7月13日従者丁雄万を陸路、赤山浦に連絡に走らせ、出航を待ってくれるよう手を打つ(以上、深谷訳『巡礼行記』、p.629-37)。
 ようやく追い風をえて、「7月20日。乳山の長淮浦に着いた。金珍らの船を見つけことができた。すぐに人や荷物を載せて、乗船後まもなく出発した」。この段落に、深谷憲一氏は円仁らが「すでに金珍の船に乗船、出航したあとで、彼[丁雄万]は置き去りにされた。彼はのち帰国し、円珍(智証大師、[814-91、天台宗門派開祖]、853年入唐)の通訳として再入唐、長安でかつて円仁が金剛・胎蔵両界を受法した玄法寺の法全和尚に偶然会い、彼が円仁の元従者であることを知って、法全が歓喜するくだりがある(円珍原著・頼覚抄録『行歴抄』)」という注記を入れている(以上、深谷訳『巡礼行記』、p.637)。
▼新羅船、全羅南道経由、博多に着く▼
 「23 赤山浦を発して肥前国鹿島に安着す」はタイトル通りである。
 7月21日、登州に来て、船を止めると、勾当新羅使の張詠が船にやって来る。その後、ようやく「9月2日。正午、赤山浦から大海を渡り始め……真東に向かって行く」。早くも、「9月4日。明け方に至って東の方向に山島を見る。あるいは高くあるいは低く、段をなして接し連なっている」。そこは、新羅の西の熊州(忠清南道)であった。「夜10時少し前、高移島(全羅南道珍島の西)に着いて停泊した」。「9月6日。午前6時、武州(光州)の南方領域にある黄茅島[丘草島ともいう]の泥浦に着き停泊した」(以上、深谷訳『巡礼行記』、p.638-41)。
 そして、9月9日、全羅南道莞島に散在する雁島に着いてしばらく休んだ後、南東に進むと、「9月10日。夜も明けるころ、東の方向遥かに対馬の島影が見えた。昼12時ごろ、前方に日本の国の山が見えてきた。東から西南にかけて連なってはっきりと見える。午後8時ごろになって、肥前の国の松浦郡北部の鹿嶋[諸説あり]に到着、停泊した」。
 翌日「夜明けに、筑前の国の丹判官の家臣大和武蔵が島の長とともにやって来て会った。彼らから、あらまし日本国の事情を聞き知った」。9月15日、橘浦(場所不明)を経由した後、遂に「9月17日。博多の西南(西北の誤りか)能挙嶋の下に到着、停泊した」のである。翌18日には、鴻臚館に入り、滞在することとなる(以上、深谷訳『巡礼行記』、p.645-6)。
 「10月6日。官庫から絹80疋と真綿200屯を借りることができたので、船上の44人に冬衣を支給した。6日に生命の糧として米10石が送られてきた」(1疋は絹4丈、12.4メートル、1屯は真綿2オンス、1石は72キログラム)。それらが運賃(その一部)なのか、賞与なのか、越冬品なのか明らかではない。それはともかく金珍の船の乗組員は44人であることが分かる。その後、「10月19日。太政官の通牒が京から大宰府に来た。それには『円仁ら5人をすみやかに入京させ、唐の人[新羅人とはされていない]金珍ら44人には十分に報酬を支給することを、大宰府に命じる』とあった」(以上、深谷訳『巡礼行記』、p.643-7)。
 なお、「円仁ら5人」に関して、「弟子惟正、丁雄万、赤山浦より同船で帰国したる性海法師、計4人。1人不詳なり」という、塩入良道氏の補注があり(足立訳注『入唐記』2、p.325)、丁雄万は置き去りにされなかったようになっており、また不詳者は性海の入唐船の同乗者でもないようである。
 このように、円仁たちは847(承和14)年7月20日に金珍の新羅船に乗った後、約2か月で博多に戻って来て、838(承和5年)6月13日からほぼ9年にわたる唐への求法巡礼の旅を終える。その紆余曲折は計り知れないものがあったわけで、感慨無量であったはずである。しかし、その帰路と帰国について、日記は極めて淡泊で、特段の感想はない。
▼はたして世界の三大旅行記か?!▼
 多くの人々が、『入唐求法巡礼行記』を翻訳・研究したE.O.ライシャワー(1910-90)の書物のなかから、「マルコ・ポーロ[『東方見聞録』]の場合についていえば、旅行が終ってのち数年を経て、文盲の彼が彼の冒険を口移しに伝えたものであるから、非常に茫漠としたものがある。しかるに円仁の変化に富む経験について、1日1日克明に記した日記は世界史における当時のユニークな文献であるといわなければならない」。それ以外に、「最もよく知られたものの1つは、偉大な中国僧で旅行家である玄奘[600-64]の[629-645年旅行を]書いた『大唐西域記』である」が、それは「円仁の日記に見られるような詳細さと、生きた色彩、溢れる人間的記録に欠ける点があることは否めないであろう」などといった文言を、引用する(同著『円仁 唐代中国への旅』、p.3、10、原書房、1984)。
 塩入良道氏がいうように、「彼のこのような発言によって、いつしか本書は『東方見聞録』、『大唐西域記』とともに世界の三大旅行記とされるようになった」ようであるとし、それに疑問を投げかけ、399年から412年にかけ南海を旅行した法顕の『歴遊天竺記伝』または『法顕伝』や、671年から695年にかけて仏跡を尋ねた義浄(635-712)の『南海
慈覚大師 円仁 像
赤山禅院(京都)蔵
寄帰内法伝』4巻や『大唐西域求法高僧伝』2巻などが著名とする。さらに、日本では智証大師円珍が853年から858年にかけて入唐した『行歴抄』もあり、成尋(1011-81)の『参天台五重山記』4巻は円仁のそれに比肩するとする(足立訳注『入唐記』1、p.323-4)。
  ライシャワーもそれらのいくつかを知らないわけではないが、それらとマルコ・ポーロとあれこ れと対比してやまない。彼ら僧の記録は求法という共通の目的を持っており、それがないマル コ・ポーロと対比するのはそもそも筋違いというものである。マルコ・ポーロのそれは単なる旅 行記である(これについてはWebページ【「マルコ・ポーロ東方見聞録」を読む】参照)。塩入良 道氏やライシャワーが取り上げていない、それ以外に偉大な求法旅行記といえるのは、海路インドに向かいインド全域をめぐってからペルシア、中央アジア、そして帰途、唐へと大旅行し た、円仁と同時代の新羅僧の慧超(704-87)の『往五天竺国伝』であろう。そして、時代は下がるが、モロッコのイスラーム教徒の法官イフン・バットウータ(1304-1368/9)の『大旅行記』(これについてはWebページ【「イフン・バットウータの大旅行記」を読む】参照)であろう。
  円仁の『入唐求法巡礼行記』を貶めるつもりはさらさらないが、それは円珍、成尋ともども、その内容はさておいて、日本と北中国という極めて限定された地域における求法巡礼行記にとどまる。したがって、アジアの三大旅行記の1つでもなく、世界の三大旅行記の1つでもさらにない。その旅行の範囲や期間、さらに内容からみて、最高の世界大旅行記としてまず挙げうるのは「イフン・バットウータの大旅行記」であることだけは明らかであろう。
 「マルコ・ポーロ東方見聞録」は口述筆記され、しかも聞き手の作為が加わっており、決して評価の高くない。そうした後代の旅行記をだしにして、『入唐求法巡礼行記』を世界の大旅行記のように持ち上げるいいかたは、むしろ円仁を貶めることとなろう。素直に、『入唐求法巡礼行記』は、唐末期の中国仏教事情を余すことなく書き残した、第1級の求法巡礼記であるというべきであろう。
▼遣唐使船の乗船者とその帰国者▼
 塩入良道氏は、『入唐求法巡礼行記』の内容を分析して、その主要な事柄を「1 承和遣唐使、2 渡航、舟行、3 地理的観察、4 経済的観察、5 唐の官庁、6 中国における新羅人、7 民衆の行事と俗信、8 唐代中国の寺院、9 仏教行事と儀礼、10 五台山仏教、11 長安の仏教、12 廃仏の体験、13 日本古代資料」に分けて解説している。 そのうち、「2 渡航、舟行」は「1100年前の入唐船の構造、機能、乗組員の構成から運河舟行の舫船など、船舶の種類や船行法などを知りうるし、また風雷や坐礁による難船のみならず、荒海の生々しい記録や順風を待つ長い日時から、当時の渡海がいかに危険をともなう難事であったかがわかる。この自然の恐怖に対して、神仏に祈請する数々の方法もみられる。舟行を通じて中国大陸に掘りめぐらされた運河のこと、その舟行の詳しい里程は殆んど正確であり、河川や都邑の変遷がよく理解される」。
 「4 経済的観察」は、「遣唐使一行の物品交易、両替・銅鉄などの売買禁止から、各地の穀類の価格、設斎の費用、仏典や法衣の価格、写経の賃金、楼閣建設費、さらに驢や渡舟の賃金まで貴重な記録を残しているし、留学僧に与えられた費用の断片的記述からも、入唐者の経済的事情が推測される。
 「6 中国における新羅人」は、「この旅行記に登場する新羅人の数は、中国人に匹敵する。新羅人通訳は遣唐使の一員ですらあり、遣唐使の帰還にあたって雇用した9隻の船と60余名の水夫は、沿海で活動している人たちであった。当時、沿岸の新羅貿易については断片的な記述しかないが、新羅復興の軍事的活動とともに、日・唐・新羅間の貿易に従事した張宝高及びその影響下の新羅人との接触は、唐土における円仁の運命すら変えたと結果的には判断できる。張宝高が新羅人の居留地である赤山に建てた法華院及びその僧たちの記述や、各地の新羅院のことなど、当時の唐における新羅人の行動の記録は全く他に例をみない資料であって、刮目に価するという」ようになっている(以上、足立訳注『入唐記』1、p.326-7)。
 こうした解説をみると、それぞれに詳細な内容が整理されて記録されているかに受け取られかねない。しかし、現実はそうでなく、様々な日時に断片的にちりばめられているにとどまる。
 例えば、「入唐船の構造、機能、乗組員の構成」というが、遣唐使船が日本製かどうかもさえも明らかでない。遣唐使の編成に当たって造船使が任命されているので、それらが国内で建造されたかにみえるが、定かでない。マルコ・ポーロのように船の構造について説明しているわけでもない。
 いま、乗船者の構成を円仁の日記から整理すると、次のようになる。使節としての大使(船頭=指揮官)、副使の他に、随員としての判官(行政官)、録事(秘書官)、准判官、准録事、知乗船事(監国信、積荷管理官)、通事(通訳)、史生(書記)といった官人がいた。それらに雇われた医師、占部(易者)、画家、射手(警備兵)、雑職といった人々がいた。留学者として、請益僧、学問僧、歴史生、天文生、陰陽生、音声生、雅楽生が同乗していた。そして、運航員として、船師、准船師、水手長、水手、都匠(棟梁)、番匠(大工)、船工、鍛工、職人が乗り組んでいた。
 円仁の日記からは、遣唐使船それぞれの大きさや、乗船者数とその増減はほぼまったく明らかでない。836年出発時の乗船者総数は、『続日本後記』によれば600余人、『帝王編年記』によれば651人とあり、1隻当たりの平均乗船者数は約150-163人となる。最初の遭難で、第3船の乗船者が約110人ほどが死亡したとされる。また、帰国時の遭難で入唐第2船の乗船者が140人ほどが死亡したとされる。その他、円仁の日記では13人が病死ている。これだけで、死亡者は実に270人弱となり、出発時乗船者の40パーセントを上回る。なお、帰国後、朝廷から栄誉を受けた者が391人となっているので、この死亡者数は少し多い。
▼店頭における私交易の禁止、贈与・贈答▼
 遣唐使もまた朝貢であった。それは単に中国皇帝に対して臣下の礼をとるだけでなく、それを前提とした朝貢交易を含むものであった。さらに、それを利用して私交易も行われたとされる。その私交易は物品の売買ばかりでなく、その贈与・贈答を通じても行われる。
 しかし、円仁の日記をみるかぎり、承和の遣唐使における朝貢交易はほとんど明らかにならない【注8】。しかし、遣唐使の一行が私物の交易品を持ち込んでいたこと明らかである。すでにみたように、838(承和5)年7月長江河口から揚州に向かう際、40余隻のもやい船に官私の財物を運び入れたという。その量は容易に推察しえないが、1隻当たりの積荷を1トンとすると、総量は40トン、それに関わる人数を200人とすると、1人当たり0.2トンとなる。
 それはともかく、円仁の日記を見る限り、店頭における私交易は原則、禁止となっていたようである。円仁たちが、揚州から楚州まで行って大使一行と合流しようしていた、839(承和6)年2月20日「正午ごろ、先に長安京に入った使節のうち、監国信(朝貢物管理官)の春道宿禰永蔵と雑使(雑務係)山代吉永、射手の上教継、長岑判官の従者白鳥、村清、清岑ら10余人が1つの船に乗ってやって来た……大使一行は今月12日楚州(のちの淮安)に到着、滞在中である。長安の都では物の売買ができなかったので、前記の人たちを、雑物を買う[買わせる]ため(揚州に)派遣して来たのである」。それ以前の道中にあっても、「遣唐使担当の軍将校王友真は……永蔵らが物を売買するのを許さず、太鼓を打ち鳴らしていた」という。
 同日、「第4舶の監国信である菅原梶成と通訳(朴正長?)が勅令で禁じられている品物を買ったということで、[節度使の]相公李徳裕は人をつかわして来て召喚し[てき]た。2人は使いの者に随って州役所に入っていった……明け方になって許されて……走り戻って来た。長岑判官の従者白鳥、村清、清岑と学生の四人は、香料や薬品を買おうとして船を下りて市街に行った。係官に取り調べられ、200貫の銭[大金である]を捨てて逃走し、うち3人だけが帰ってきた」(以上、深谷訳『巡礼行記』、p.133-4)。そして、22日にも、同じようなトラブルが発生する。
 このように、第4舶の乗船者ばかりが私交易をしたとしてご用になっているのは、彼らが主に大使一行に随伴したため禁令を守らされたからであろう。それ以外の居残り組はすでにあれこれと密私交易をしていたとみられる。なお、838(承和5)年7月18日、「一晩中太鼓をたたいていたが、これはこの国のならわしで、警護の人がいて官の物を護るために、夜になると太鼓を打つのである」という(深谷訳『巡礼行記』、p.37)。それは表向きであって、官私の財物の私交易を監視するためにあったとみられる。
 遣唐使一行が、どのような官私の財物を唐に持ち込んだかは不明であるが、私物の贈与から少しは明らかとなる。すでにみたように、遣唐大使藤原常嗣は円仁たちに学問費を贈与(補助)している(それは官物とみられる)。例えば、839(承和6)年2月27日、円載が天台山に向かうに当たって、「あずま絹(関東産の絹)35疋(1疋は4丈、約12メートル)、畳んだ真綿10かさね、長い真綿65屯(1屯は6両、223.8グラム)、沙金25大両(1大両は3小両)をつかわし与えられ、学問の資金にあてさせた」とある(深谷訳『巡礼行記』、p.142)。
 円仁も、聖俗様々な人々と物品を謝礼あるいは土産物や餞別品として贈与しあっている。例えば、同年3月22日、遣唐帰国船が出発に当たって、在留の世話を仰いだ新羅人通訳の劉慎言に「沙金大2両と大坂腰帯(大坂石を装飾した腰帯)を与えた」という(深谷訳『巡礼行記』、p.148)。しかし、円仁の日記を見る限り、彼は贈与されることが多く、贈与したものはわずかである。しかも、彼の贈与品は単に土産物と称したものが多く、具体的なものは銀の装飾を施したナイフ、腰帯、筆のセット、水晶の珠数、抹茶、法螺貝、食用の海草といった些細なものであった。
▼円仁たちが持ち帰った経典や仏具など▼
 それに対して、円仁が贈与されたものは、多種多様で高額な金品であった。例えば、円仁たちが845(承和12)年5月15日旧知の僧俗、大徳、高官の送別を受けて、長安を退去する際、多くの餞別品を受け取っている。例えば、職方郎中・楊魯士は「以前に絹や毛織物の肌着類や下帯などを施してくれたことがあった。彼は、いま……餞別として絹2疋(約25メートル)、蒙頂茶(四川省雅州産名茶)2斤(約1.2キログラム)、団茶1串、銭2貫文(2000文)を送ってきた」とか、侍御・李元佐から「呉綾(蘇州地方で織った綾網)10疋・檀香木1本・栴檀で作った携帯用仏像2種・和香(いろいろな香を合わせたもの)1びん・銀の5股の抜折羅(密教法具)1つ・フェルトの帽子2つ・銀字の金剛経1巻・軟らかいくつ1足・銭2貫文等であった」(以上、深谷訳『巡礼行記』、p.580-1)。
 円仁たちは、大使一行が長安に出向いている間、揚州に滞在していたが、その地においてかなりの経典や仏具を購入していたようである。遣唐使帰国船10隻が帰帆するに当たって、円仁たちは一方で在留の企てを進めながら、他方で839(承和6)年4月5日、「唐国で求め得た経文の入った竹かご1箱、金剛界・胎蔵界両部の曼陀羅・壇様(戒壇の様式)などを入れた皮の大箱1つを、第8船の指揮官伴宿禰に寄託し、併せて身の回りの物も依託していた」のである(深谷訳『巡礼行記』、p.160)。
 さらに、円仁たちは長安に入って、その長期にわたる滞在中、経典や仏具を購入し、それらを写経、模写させてもきた。そこから退去を余儀なくされると、「すぐ旅支度にかかり、文書や写し取った経論・密教儀軌・曼陀羅等を荷作りして、全部梱包し終わった。書類と衣服は合わせて4寵(つづら)あった。そこで、3頭の騾馬を買って、官の決定書が来るのを待った。還俗させられることが心配だったのではなく、ただただ写し取った聖教(典籍や仏画)を身につけて、日本に持って行くことができなくなること……帰国途中の諸州や府の点検で荷物の中味が見つかることを恐れた」といっている(深谷訳『巡礼行記』、p.573)。
 円仁たちが恐れた事態は駅逓送りのなかで大いにあったが、長安の高官の紹介状や新羅人の協力で免れるが、危機一髪だったといえる。それは武宗が死んでくれたからであった。845(承和12)年7月5日、楚州から登州に送られる際、新羅人通訳の劉慎言と相談して、「北に向かう途中の州県の人心は粗暴で悪いから……違勅の罪に及ぶことになろう……長安京から持って来た……つごう4つのつづらは、しばらく劉慎言通訳の家に預け託し、劉通訳に管理することを頼んだ」。劉通訳は「行李を特別の場所にしまってくれた。[その上]薛大使は3足の足袋を施してくれ、劉通訳は絹9疋と新羅の小刀10本(剃髪用)・足袋5足、その他少なからぬものを施してくれた」という(深谷訳『巡礼行記』、p.596)。
 武宗の死後、846(承和13)年2月5日年、円仁たちは丁雄万を船で楚州に向かわせ、預け託したものを取って来させることとした。「6月29日。丁雄万が戻って来た。あわせて楚州の施主劉慎言の手紙を受け取った。それによると、先に預け託していた仏画や文書のうち、胎蔵・金剛両部の大曼陀羅で極彩色の付いたものは、淮南節度使の勅に従った通牒が非常にきびしかったので、慎言がすでに焼いて処分してしまったという。その他の着色のない仏画や文書などはすべて運び持って来ることができた」(深谷訳『巡礼行記』、p.624)。通訳劉慎言は、日本から来た円仁への送金を使い込んでおり、その預かり品の焼却処分もにわかには信用できない。
 その後、それらを幾度か船に積み替えながら日本に持ち帰ったわけであるが、それらの将来品のリスト、荷役や輸送の経過については、日記は語らない。深谷憲一氏は、「入唐新求聖教目録」を付録として示してくれている。その内容は「長安・五台山および揚州などで求めた経論・念誦の法門および章疏・伝記等すべて計584部、802巻。胎蔵・金剛両部の大曼陀羅および諸尊の壇像、舎利ならびに高僧の真影など合わせて計50点」となっている(深谷訳『巡礼行記』、p.658)。
 それ以外に、様々な仏具や什器、贅沢品を持ち帰ったであろう。それらをあがなったり、また祭事、布施、雇用、用務などに当たって、円仁たちはあれこれの土産物では事足りず、日本から相当量の沙金を持ち込んで、それに当てたとみられる。求法僧は商人感覚なしに、求法巡礼の旅はできなかったであろう。その旅は交易の旅でもあったであろう。
【承和遣唐使年表】
元号
記事
834 承和元 1 遣唐大使に藤原常嗣、副使に小野篁を任命する(第17次遣唐使)。
836 承和3 5

7
8
9
遣唐使一行、難津の津を出帆。暴風雨にあい、遣唐使船4隻、摂津の国輪田の泊に避難する。
遣唐使船4隻、博多の津を出帆。第1船・第4船漂流して、肥前の国に帰着。
第2船は肥前の国松浦郡別島に帰着。いずれも船体破損。
第3船遭難し、水手16人、筏で対馬嶋の南浦に漂着。その後、第3船の乗員、艀で9人が肥前の国に漂着。間もなく第3船、3人を乗せて対馬嶋の南浦に漂着し、生存者あわせ28名。死没者は判官丹犀文雄以下110名。
遣唐大使藤原常嗣ら入京し、節刀を返還。
837 承和4 3
4
7
8
遣唐大使藤原常嗣ら出発のため、太宰府へ向かう。
遣唐大使藤原常嗣の第1船「大平良」に従五位下を授く。
遣唐使船、3隻が博多の津を出帆。
遣唐第1船・第4船、壱岐島に漂着。第2船は値嘉島に漂着。船体破損して、再び渡海に失敗する。
838 承和5 4
6
7


9
12
遣唐使の出発を催促するため、勘発使藤原助を太宰府に派遣。
遣唐使船、出帆する。
遣唐副使小野篁、渡航拒否の知らせ入る。第1船・第4船の遣唐使一行、揚州に着く。両船とも、風波に傷められ船体破損、帰途の就航不可能となる。
円仁、遣唐第2船が海州に着き、小野篁が乗船しなかったことを聞く。
大使一行、長安に入り、翌年正月、文宗に謁見。揚州に残留していた新羅訳語金正南、帰国船用意のため、楚州へ向かう。翌年閏正月、新羅船9隻を雇い入れる。
839 承和6 1
3
4
8

9

10
小野篁、隠岐の国に配流される。
大使一行、9隻の新羅船で楚州を出帆。淮河を下り海州へ向かう。
海州を出帆。帰国の途につく。
遣唐使一行、新羅船9隻に分乗して帰る。1船は博多、7船は肥前の国松浦郡生属嶋に入港。他の1船と遣唐第2船の消息は不明。
遣唐大使藤原常嗣、節刀を返還。唐の勅書を[摂政]藤原良房に賜い、所蔵させる。遣唐留学僧常暁、太元帥法を将来する。
遣唐録事山代氏益らが乗っていた他の新羅船1隻、博多の津に帰る。唐物交易のための官市を建礼門前に設置。
840 承和7 2
4


6
小野篁、配流先の隠岐より、京に呼びもどされる。
遣唐第2船に乗っていた知乗船事菅原梶成ら、大隅の国に帰る。同船は「南海の賊地」に漂流。船体は破損し、溺死した者、賊地で殺された者、あわせて140余名。4月23日、大使藤原常嗣、死す。時に、参議左大弁従三位。
遣唐第2船に乗っていた遣唐准判官良岑長松ら、大隅の国に帰る。梶成ら「南海の賊地」で得た5尺の鉾1枚などの兵器を献上。
841

847
894
承和8

承和14
寛平6

9
8
9
学問憎恵蕚ら入唐する。便乗した船は新羅船か唐船。以後、唐船・新羅船の日唐間の往来、頻繁になる。
遣唐請益僧円仁、新羅人金珍の船で帰国する。
菅原道真を遣唐大使、紀長谷雄を副使に任命する(第18次遣唐使)。
遣唐使の発遣を停止。
出所:佐伯有清著『最後の遣唐使』、p.197、講談社新書、1978。

【注1】 副使小野篁は病気を理由に乗船拒否したとされているが、佐伯有清氏は遣唐大使藤原常嗣が乗船していた船が最初の遭難で破損したため、篁が乗船していた船に乗り換えたという「非人道的なやり方を攻撃したばかりか、遣唐使をめぐる朝議の優柔不断さにもきびしい批判の目をそそいでいた」し、またすでに新羅や渤海との交易で、唐物が容易に入手できる状況の下で、すでに遣唐使を再検討させたかったのではないかと見ている(佐伯有清著『最後の遣唐使』、p.16、講談社新書、1978)。なお、遣唐大使藤原常嗣は16次遣唐大使葛野麻呂の第7子、副使小野篁は5代前の祖は遣隋使の妹子で、一族は遣新羅使、遣渤海使の大使であった。その間の確執もあったと見られる。
【注2】
 835(承和2)年2月の造船使2人の任命から、1か年余で遣唐船の完成が近づき、100人分の武具が配備される。それを扱うのは各船25人の射手など乗組員であったとみらる。
【注3】
 新羅船が「能く周波に堪え、能く波を凌り(わたり)行く」ことが知られ、円仁も「すみやに走り」と驚いており、帰国新羅船9隻は1隻が遅着したものの九州に安着したことに対して、遣唐使船は4隻とも破砕したことについて、佐伯有清氏は次のように述べている。
 「だから遣唐使船の造船技術はずいぶん遅れており、また航海術も拙劣であったという評価がくだされる」。「しかし、遣唐使船と新羅船とを同じ土俵にあがらせて、その良否を判定するのは、どだい間違っているのではなかろうか。一方は160、70人が乗り組める大型船、他方は40、50人が搭乗する中型船であった」。
 「遣唐使船の構造がどのようなものであったかは、ほとんどわかっていない。ただ、朝鮮百済の用式[ママ]の準構造船で、大木を角材として接合した大型の船で、帆走と櫓漕ぎが併用されていた。160、70人の乗員、1000石余りの貨物を積載する大きな船体だけに、風や波のあたりが大きく、波浪がひどければ、接合部分が分離して舳と艫(へさきととも)とが分かれ分かれになってしまう場合が多かった」。
 「それに反して、新羅船は中型船であったから、大木を角材として接合する必要のない構造であったであろう。風や波を受ける船の面積も小さく、風波に翻弄されても、船体の損傷は最小限ですんだはずである。遣唐使船の航海の無様さは、その船体の大きかったことに原因があったことは確かである」(以上、佐伯前同、p.152-4)。
【注4】
 佐伯有清氏は、遣唐使船の遭難の理由は、「すでに木宮春彦氏らによって指摘されているように、遣唐使船の航路が大きく関係していたためだろう」といい、それが遣唐使第1期(舒明-天智朝)の北路や、第2期(文武-淳仁朝)の南島路でなく、第3期(光仁朝以降)南路をとるようになってから、遭難が目立って多くなった。しかし、「すでに述べたように、その最大の原因は、遣唐使船の大型化が災いしていたとしか考えられない。第1期の遣唐使は、1隻の乗員が120人、第2期には140、50人、第3期になると160、70人と人員は膨れあがる。乗員の増加にともなう、積載物資の増大も馬鹿にならず、船の大型化は避けられなかった。それに比例して海難の危険率は高くなってきた」と整理する(以上、佐伯前同、p.157-9)。
【注5】
 佐伯有清氏は、張宝高の叛乱と殺害について、「単に娘を王妃とさせる願いが実現できなかったための不満の爆発とは受けとれない。日野開三郎氏によれば、宝高が叛乱を起こす3年前に、新羅は唐の平盧節度使に奴婢を贈り、奴婢を唐に売りつける段どりをした。節度使は唐の政府の指示をあおいだが、政府はそれをみとめなかった。唐の政府が奴婢の売買をみとめなかった裏には張宝高の建策があったためらしい。こうした事情を考慮に入れると、奴婢の売買を望む海上勢力と、同じ政策をとろうとする新羅貴族とが手を組んで、彼らの行動に反対していた宝高を殺したことが考えられるという(「羅末三国の鼎立と対大陸海上交通貿易」)。とすれば、張宝高の叛乱は、でっちあげられたもの」とする(佐伯前同、p.150)。
【注6】
 そこで、同日、円仁は神御井の船で帰国しようと考えたが、同年6月9日条によると、春太郎や神一郎らは明州の張支信の船で帰国してしまったという知らせが入って、円仁は帰国の便船を失うが、佐伯有清氏はその「神御井たちの船……は、日本船のようにおもわれがちだが、その船は神一郎たちが乗り組んだ張支信の船と同じであると考えたほうがよい」という(佐伯前同、p.169)。
 また、その神御井(大神宿禰巳井)は「前年に性海の随伴者として、円仁への物資運送の管理官という役目を帯びて、律令政府から唐へ遣わされたのであろう。その後、彼は伊予権掾正六位上の官位にまでのぼり、香薬を求めに唐に遣わされている」。他方、春太郎は「播磨少目大初位上とある……春日宅成と同一人で」、渤海通事として活躍しているという(佐伯前同、p.173)。
【注7】
 承和遣唐使後、円仁のように、僧たちはこうした新羅船、さらに唐船を利用するようになる。円珍は853年新羅人欽良暉の船で渡唐し、858年唐人李延考の船で帰国している。恵蕚は841年以来3度入唐するが、最初の往航の新羅船以外、その後はすべて唐船を利用している。
【注8】
 「承和のころの国庫は、空しく尽きはてようとしているありさまであった。にもかかわらず、唐への派遣は強行された」のであるが、「遣唐使の派遣には莫大な費用」がかかっており、「たとえば、唐の天子への贈物だけでも、銀大500両・水織あしぎぬ200疋・美濃あしぎぬ200疋・細あしぎぬ300疋・黄あしぎぬ300疋・黄あしぎぬ300疋・細屯綿1000屯などなど、あげるのに煩わしいほどの豪華さであった。遣唐使一行にも、大使にはあしぎぬ60疋・綿150屯・布150端、副使にはあしぎぬ40疋・綿100屯・布100端といったように、全員にあしぎぬ・綿などが旅費として支給される。航海中の食糧糒(ほした飯)が400石近くも必要である。遣唐大使には砂金200両、副使には150両の滞在資金をも支出しなければならない。請益生や留学生への留学費も大きい」とされる(佐伯前同、p.189)。
(2005/05/20記、2005/06/01補記)

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