3・1・2・2 東インド会社、ポルトガルの拠点にそびえ立つ 3.1.2.2 East India Company towers over bases in Portugal ▼東インド会社の設立、先駆会社を統合▼
この会社の資本金は3000グルデンの株式を2100株発行して調達された。株式は支社ごとに募集され、会社全体で642万グルデン(54-65万イギリス・ポンド)余りになった(イギリス東インド会社の約10倍)。このうち、アムステルダム支社が過半の57パーセントを集め、ゼーラント支社は20パーセントであった。株式は小さく分割されていたが、その多くは行政官や終身経営委員、有力な商人が買い取った。また、アムステルダム支社の大口出資者にはアントウェルペンから逃れてきた大商人が名を連ねていた。 この会社の取締役として大口出資者のなかから76人が選ばれ、さらに17人の取締役が17人会(重役会)を構成した。17人重役会は資本金に比例して、アムステルダムから8人、ゼーラントから4人、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダムからそれぞれ1人、アムステルダム以外からの1人によって構成されていた。 先駆会社は取締役が結合した共同企業で、航海ごとに清算する当座企業であったが、オランダ東インド会社は個人出資の恒久的な企業であった。しかし、その人的な構成からみれば、都市と大商人の利益を擁護することを基礎にして、彼らの競争を排除することで、スペインに国家規模でもって対抗するために作られた国策会社であった。 新しいシーズンの最初の17人会(重役会)は、@東インドへの船舶の隻数とその要員、発送する商品の数量の決定、A金とくに銀の輸出額の決定、B東インドから受け取るべき商品についての決定、C東インド会社から受け取った帰り荷の入札競売の決定を議題とした。そのなかで最も重要な議題は、この会社が東インドの産品を輸入し、それをヨーロッパ諸国に中継交易することにあったので、Bのいわゆる「帰り荷」の種類と金額の決定であった。 そうした一般的な政策にしたがって、船の建造・修理、船隊の艤装、帰り荷の受取り、商品の販売、従業員の採用、会計帳簿の記入などの活動は支社において実施された。そのなかでも重要な取り決めである帰り荷の配分は、アムステルダムは2分の1、ゼーラントは4分の1、デルフト、ロッテルダム、ホールン、エンクハイゼンは6分の1となっていた。 1602年から1795年までのあいだに、東インド会社は自社船を約1450隻建造した。そのうち、17世紀に800隻、18世紀に650隻が進水した。この隻数の半分はアムステルダムが、20パーセントはゼーラントが、残りの支店が7-8パーセントを建造していた。18世紀、建造隻数は少なくなったが、大型の船が多くなった。 東インド会社の支社の所在地にあっては、東インド交易や会社船の造船や修理、艤装によって、多くの職場が提供されてきた。しかし、東インド会社の解散によって、小さな支社であったデルフトやホールン、エンクハイゼンは一挙に活気を失うこととなる。 ▼東インド交易の拠点、バタフィアを建設▼ オランダは先駆諸会社によって一挙にアジア進出を果たすが、それらが派遣した船の数はすでにみたように、先発のポルトガルの46隻やイギリスの3隻を上回る65隻であった。その後、ポルトガルは減少に終始するが、オランダは逐次増加して、1661-70年には257隻と最多となり、イギリス101隻、ポルトガル21隻、フランス40隻、デンマーク4隻を圧倒する。 東インド会社の交易は戦争と表裏一体となっていた。東インド会社が、1602年創立後早速に送り出された重装備の船団は、初めからアフリカ東岸のモザンビークとインド西岸のゴアにあるポルトガルの拠点を攻撃するよう命じられていた。しかし、攻撃は思うようには成功せず、1605年にやっとマルク(モルッカ)諸島のアンボン島(アンボイナ島)からポルトガル人を一掃して要塞を築く。 しかし、そこは東インド会社のアジア交易拠点になりえかった。次にねらったのがマラッカ海峡のマラッカであった。そこは、1511年以来ポルトガルがインドのゴアとともに死守するアジア交易の重要な拠点であった。さらに、海上交易の要衝となっていたジャワ島のバンテンを目指すが、ポルトガル人やイギリス人が進出していた。そのいずれにも手を出せずに終わる。 そこで、4代(6代)東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在任1619-23、再任1627-29)は、バンテンの東約80キロメートルにある現在のジャカルタに目をつける。そこは、16世紀前半すでにバンテンに次ぐ、スンダ・クラパという港市であった。彼は、1619年5月バンテン王国の内紛に乗じて要塞を築き、バンテン王国とイギリスの連合軍を破る。その地を、ローマ時代の母国における先住民族の名前にちなんでバタフィア(バタヴィアは英名)と命名し、東インド総督府をおき、オランダのアジア交易のもっとも重要な拠点とする。 オランダ東インド会社は、バタフィアを拠点としたことを機に広範なアジア域内交易(イングランド風にいえば、このカントリー・トレードに対して、オランダ・アジア交易は基幹交易、トランク・トレードという)に本格的に乗り出すが、先発のポルトガルと同じようにアジアに送り出せる輸出品を持っていなかった。そのため、香辛料をはじめとしたアジア産品の買い付けには、いきおい金や銀でもって支払わざるをえなかった。しかし、オランダにあってはポルトガル以上に限界があったので、アジア域内での交易を多角的に進めて、そこでえた利益でもって購入するしかなかった。その上、東南アジアの交易ネットワークはアジア人によって作られていたので、これを利用するしかなかった。 佐藤弘幸氏は、東インド会社がアジア域内の交易を進めるに当たって、次の3つの方法を使い分けたとする。@東インド会社がある地域を武力でもって支配し、その交易を独占する方法で、ナツメッグとメース(にくずく)を特産物とするバンダ諸島征服がその例である。A武力を背景とはするものの領土の支配はせずに、その地方の支配者を会社の庇護のもとにおき取引を進める方法で、マルク諸島のクローヴ(丁子)やスマトラ東海岸の胡椒の取引に用いられた。B武力を使わず平和的に支配者と条約や協定を結んで交易を進める方法で、インドや日本などで採用された方法とまとめる(同稿「第2章オランダ」森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』、p.282-4、山川出版社、1998)。 しかし、それら方法はオランダ独自に編み出した方法ではなく、それら交易地もオランダが新規に開拓したものでもない。それら方法は、すでにポルトガルがそれぞれの交易地の状況に応じて開発したのもであって、そこでオランダが実施したことは、ポルトガルをはじめ先発者を武力でもって交易地から追い出したうえで、それら3つの方法を適宜使い分けたということであった。 東インド会社は、西は紅海入口のモカからペルシア、インド、セイロン、ベンガルを経て、ビルマ、シャム、マレー、インドネシア、台湾、日本にいたる広大な海域に、約20か所の要塞と少なくとも13か所の商館をおいて手広い交易活動を展開した。それら要塞や商館のあるところは、ほとんどがポルトガルから争奪したところであった。東インド会社が進出しなかったのは、フィリピン諸島と朝鮮半島だけであった。
▼ポルトガルの交易拠点をあらかた争奪▼
オランダ東インド会社の海外進出にあって注目されるのは、東アジア交易を重視して、いち早く日本や中国に進出したことである。1609年、バタフィア建設よりはるか前に、日本向けに仕立てたオランダ船が平戸に入港し、商館を設置するとともに、家康から交易の許可を獲得する。その後、徳川幕府に画策して、ポルトガルを追い出して、日本との交易権を独占する。 また、オランダはバタフィア建設後であるが、1621年ポルトガルの中国交易の拠点であるマカオの攻略に失敗したことを受けて、1624年タイオワン(台湾、フォルモーサ)の南部に進出してゼーランディア城などを築き拠点とする。1641年までに、オランダは島の北部に入っていたスペイン人を追放し、全島を支配する。しかし、オランダは1662年国姓爺(鄭成功、1624-62)によって追放され、中国交易は一時縮小を余儀なくされる。 オランダ東インド会社は、これら進出によってオランダの東アジアにおける交易基盤をほぼ確立し、日本に中国の生糸を売り込み、銀で支払を受け、例えば1640年には130万グルデンという高収益を上げるようになる。その額は2位から4位までの累計額に匹敵した。 東インド会社はバタフィアを建設するとマルク諸島には入り込む。その一部であるバンダ諸島は、ナツメッグとメース(にくずく)を世界で唯一の特産物としており、ポルトガルは100年も前から、17世紀に入るとイギリスも入り込んでおり、後発のオランダとの紛争を繰り返していた。1621年、東インド総督クーンはそれを征服して、島民を虐殺する。さらに、彼は島民を強制移住させて、オランダ人を入植させ、ナツメッグとメースの生産を管理し、その全量を会社に引き渡すシステムとする。 オランダ東インド会社の荒々しさは、1623年のアンボン事件において世界に知れ渡る。イギリスにとってアンボン島は、モルッカ諸島において残された交易地となっていた。オランダは、オランダ要塞を占領する陰謀があるとして、イギリス商館員と日本人傭兵ら50人を逮捕し、20人を処刑する。この事件はでっち上げとみられており、オランダは総督クーンを更迭し、賠償金を払っている。また、この事件はオランダが香辛料交易を独占する契機となり、イギリスはインドシナから撤退してインドに専念する転機となる。 1641年になって、東南アジア交易においてマラッカはオランダにとって最後の障害、ポルトガルにとって最後の砦となっていたが、オランダはジョホール王国の支援を受けてようやく奪取する。また、セイロン(現在のスリランカ)はシナモン(肉桂)の特産地であり、ポルトガルは1505年に来航して以来、アジア航路の要諦として6つの要塞を築いてきた。5代総督アントニオ・ファン・ディーメン(在任1636-45)は、1638年からセイロンを攻撃し続けて要塞を奪い、バタフィアにつぐ重要な拠点とする。ポルトガルはマラッカとセイロンを失ったことで、東南アジアからの撤退を決定づける。 「オランダ以外のヨーロッパ人は、1680年代までにインドネシアの島峡部からほぼ追放され、胡椒以外の香辛料の取引はオランダ人がほぼ独占するにいたった。その結果、東インド会社の経営は1730年代までは安定していた。しかし、18世紀に入ると、ヨーロッパでは香辛料よりもアジア産の綿布や茶、コーヒーのほうが珍重されるようになった。これらの産品は香辛料とは異なり、オランダ東インド会社の独占するところとはならず、1730年代を境として会社経営は赤字に転じていく」(佐藤前同、p.284)。 ▼オランダ東インド会社の交易と高配当▼ 17世紀、オランダ東インド会社は株主に巨額の配当をもたらした。しかし、1610年は132.5パーセントの配当であったが、翌1611年は無配当、1612年は125.5パーセントといった状態であった。1602年より1798年までのあいだに、平均年約18パーセントの配当が行われたとされる。 ここで注目すべきことは、オランダの交易において、東インド会社が占め比重は決して高いものでなかった。18世紀後半の数値であるが、オランダの交易規模(100万グルデン)はヨーロッパ諸国200に対して東インド35、西インド28にすぎなかったとされる。
(単位:パーセント、1000グルデン)
東インド会社の輸入額は、1619-21年294(年平均98)万グルデン、1648-50年625(208)万グルデン、1668-70年1081(360)万グルデン、1698-1700年1502(500)万グルデンと、大幅に増加した。
オランダ人が東南アジアで求めたものは、最初はポルトガルとおなじように香辛料であった。オランダ東インド会社の輸入品構成をみると、17世紀前半までは香料・胡椒が75パーセントほど占めるが、後半になると42-23パーセントまで減少し、他方繊維品が14-16パーセントから36-55パーセント増加する。繊維品はペルシャや中国、ベンガルの生糸、ベンガルやコロマンデル海岸の綿布である。その他1625年より日本の銅やインドの藍・硝石、中国の茶、アラブのコーヒーが登場する。 東インド会社の輸入品の構成は17世紀半ばにおいて劇的に変化するが、その輸出品は17世紀を通じて金銀の正貨が大部分であった。実際、それは総輸出の90パーセントをこえていたと考えられ、特に17世紀末から会社の活動が一段と活発となり、輸入品の構成が変化すると、この比率はさらに上昇した。 この正貨はアジア域内の交易がおおむね稼ぎ出したものであった。1652/3年バタフィアに送られた銀55.3万グルデンのうち71.3パーセント、金31.1万グルデンのうち100パーセントが調達されたとされる。アジア域内の交易がどのようなものであったかについて、科野孝蔵氏は次のようにまとめている。 「バタビアを支配的中心として、日本、中国、広南、カンボジア、シャム、モルッカ諸島、インドをふくむひとつの経済空間―交易圏が考えられよう。日本からは金・銀・銅が、中国からは生糸・絹織物が、インドからは綿・綿織物・生糸・絹織物が、モルッカ諸島からは香辛料が、その他の地方の土産品が輸出され、それらは一度バタビアに集貨されて、オランダ本国または東インドの諸国(日本をふくめて)へ再輸出されていった。
▼オランダ東インド会社船の保有と就航▼ オランダ東インド会社の主力となる大型船を、イングランド人はイースト・インディアマンと呼んだ。東インド会社はそれぞれの支部が、その割り当てられた保有規模に応じて、それぞれの造船所において自社船を建造していた。東インド会社は存続した期間に当たる、1602年から1795年までのあいだに約1450隻を建造する。他の資料では集計期間の違いから1499隻、あるいは1508隻となっている。それら年平均建造隻数は7.5-7.7隻となる。 17世紀末のオランダ東インド会社船の建造費は、船体65000グルデン、マスト3500グルデン、セール6000グルデン、索具8600グルデン、錨2300グルデン、大砲など12800グルデンであり、その他を入れると総額約10万グルデンであった。18世紀になると1.5倍になった。また、そのときの処女航海後の整備費は3.5万グルデン、また4航海後の修繕費は6.2万グルデン、となったとされる。
イースト・インディアマンは、1602-1795年の間にアジアに向けて、表からみると4711隻、年平均25.6隻が出航し、3114隻、16.9隻が帰航したという。出航と帰航の隻数差は1597隻、年平均8.7隻、出航隻数の33.8パーセントである。なお、他の資料では、出航隻数あるいは艤装隻数が4702隻、年平均24.4隻となっている。
この出航と帰航の隻数差は、アジア域内の交易船として使用されアジア残留船1110隻、難破・拿捕船451隻、合計1561隻にほぼ相当する。それらの年隻数は6.0、2.5隻となるので、出航隻数に対する比率は23.6、9.6パーセントに当たる。なお、難破・拿捕船のなかには、沈没や乗揚げ、被拿捕、戦闘により喪失のほか、修理不能や老朽化による廃船なども含まれていよう。 東インド会社が主に存続した1595-1798年間において、オランダ船がアジアへ4800回、年23.6回航海したという。これら数値は、いま上にみたものと、ほぼ合致する。また、この4800回に航海のうち、沈没などの事故は4パーセント(192件)にすぎなかったとされ、イースト・インディアマンとその乗組員の優秀さの証明とされてきた。 出航と帰航の隻数差は、いわばその年の未帰還船といえる。それらの隻数1561隻、年平均8.5隻は、いま上でみたイースト・インディアマンの建造隻数やその年平均隻数に、ほぼ一致する。そのことから、イースト・インディアマンは未帰還船の数だけを新造船によって補充され、アジアとの往復航海に3-4年間、アジア域内航海に4-5年間、合計7-9年間ほど使用されていたのではないかと考えられる。 表にみるように、出航隻数は10年間の累計で17世紀前半100-150隻、17世紀後半200-230隻であったが、18世紀に入ると300隻と増加する。最盛期の1720-1740年には370-380隻に達している。しかし、18世紀末、会社解散が間近になると、大幅に減少する。平均トン数は全期間では748トンであるが、初期の450トンという中型から大型化して、17世紀後半には600トン、18世紀前半750トン、18世紀後半には800-1000トンとなっている。 それに伴い、東インド会社が運んだ貨物量も、17世紀には年間7500トンに過ぎなかったのが、18世紀に入るとその倍の15000トンになったと推定されている。その量は、平均帰航隻数からみて、17世紀には16隻がそれぞれ469トン、18世紀には22隻がそれぞれ682トンを輸送していたこと、それはほぼ満船あるいは過積でもって帰帆したことを意味しよう。 イースト・インディアマンの典型は貨客船あるいは軍艦仕様であって、スピーヘル(スヒップ)型と呼ばれた。それ以外に、オランダ東インド会社は大小様々なタイプの船を建造していた。イースト・インディアマンの主力はフライトとヤハトであって、船のタイプが分かっている792隻のうち、前者は271隻(90-908トン)、後者は276隻(50-1160トン)であり、また1000トン以上の船は276隻(1000-1300トン)となっていた。それ以外船のタイプとしては、フーカー、フリゲート、ピナス、ハリヨットが上げられ、18世紀交易紛争が激しくなるとパケットボートが投入される。 17世紀半ばから18世紀半ばにかけて、オランダ東インド会社は標準船の規格を定めるようになる。 大型船 160*40*17フィート 1100トン 中型船 145*37*16フィート 800トン 小型船 130*34*14フィート 600トン
ゼーラントは大型の船の建造に専念していた。それはゼーラントのフリシンゲンが吃水の深い船の建造に適してからであった。そうしたこともあって、1764年ゼーラントの主任造船工ウィレム・ウデマンスは生活空間の確保、貨物スペースの拡大、耐航性の向上のため、デッキを2層ではなく3層にすることを提唱する。しかし、17人会(重役会)は風通しが悪くなる、船首に一般乗組員や兵士、船尾に商務員や士官が分離して居住するという、「しきたり」が損なわれるとして反対する。そのためウデマンスの提唱はゼーラント以外では採用されなかった。 1641-1760年、長崎に来航したオランダ船が詳細にカウントされている。来航延べ隻数は513隻で、17世紀が364隻、18世紀が149隻である。そのうち、フライトが272隻、スヒップが133隻、ヤハト83隻(80-700トンと様々な大きさ)、その他25隻となっている。フライトの来航は1701/20年代に終わり、その後スヒップのみとなっている(八百啓介著『近世オランダ貿易と鎖国』、p.303、吉川弘文館、1998)。
オランダ東インド会社は、インドネシアのバタフィアなどを拠点にして、南太平洋へ進出しようとする。1606年、ウィレム・ヤンス(1570-1630)はオーストラリアのヨーク岬とその海域に到達していた。アベル・ヤンゾーン・タスマン(1603-59)は、1632年頃オランダ東インド会社に入り、1642年9代総督アントニオ・ファン・ディーメン(在任1636-45)のもとで、タスマニア、ニュージーランドに到達、またオーストラリア北部と西部の海岸に上陸している。しかし、オランダはオーストラリアから交易上の利益をえられないと判断し、調査を継続しなかった。 ポルトガル船はモザンビークやマダガスカルを補給基地として、アフリカ東岸を北上してインドに向かっていた。このポルトガル・ルートに対して、オランダ東インド会社はさしあたってバタフィアに直航するルートが模索された。
オランダとアジアとの中間点となり、新鮮な水や食料が補給できる限られた場所である、アフリカ南端にある喜望峰が、オランダの死活の補給基地となる。1647-48年にかけて、テーブルベイに、船用品の倉庫や修理造船場、船員の保養・医療施設などが建設される。そして、1652年には探検家で医師のヤン・ファン・リーベック(1619-77)が東インド会社の依託を受けて要塞を築き、細々と食糧生産を試みる。それがカープスタット(ケープタウン)の始まりとなる。 喜望峰は、元来、オランダ西インド会社の独占地域であったが、1674年から東インド会社の独占地域に組み込まれ、1679年から総督が任命される。1670年代以降、東インド会社はオランダ人農民(いわゆるボーア人)を年季奉公人として入植させ、穀物生産や牧畜を行わせる。オランダは、それを1806年まで領有する。この喜望峰をオランダ人は「大海の酒場」と呼んだという。 カープスタットに入る船は、大西洋とインド洋で過酷な長距離航海をしてきたので、壊血病などの病弱者を抱え込んでいた。そのため彼らを治療する病院が設置された。その病院は最盛期には200の病床を備え、付属の農園では薬草を栽培していた。 ▼東インド会社船の航海、吼える40度▼ 1617年、オランダ東インド会社は航海指図書を作成して、喜望峰から東航する南方ルートを指定航路とするなど、船長がそれに準拠して航海するよう定めた条文を設ける。その大きな目的は、運航管理において唯一といえる指標であった、航海日数の短縮にあった。アジアまでの航海日数は7-9か月かかっていたが、1620年航海日数が6か月未満の場合600グルデン、7か月未満の場合300グルデン、8か月未満の場合150グルデンの報奨金を払うと定めている。 オランダ東インド会社船は、英仏海峡から大西洋へ出ることになる。しかし、イギリスやフランスの海軍に襲われる場合は、スコットランドの北端、さらにシェトランド諸島を迂回した。そして、ヴェルデ岬諸島を目標に南下し、ギニア湾内に入り込むあるいは北方へ流されることのないよう注意して、喜望峰に入る。喜望峰からは南緯36度と42度とのあいだ(吼える40度)を東へ1000マイル進んで、現フランス領のアムステルダム島とサン・ポール島当たりまできたところで、東南モンスーンに乗って北東に変針してスンダ海峡に向う。 オランダの東インド航路は一切秘密にされ、これを洩らした者は何人といえども死刑に処され、東インドの地図を外国人に見せた者は烙印、笞刑、流刑等をもって処罰された。オランダ東インド会社船が帰国するときは、本国を出帆するときよりも強い護衛艦をつけて航海し、夏に本国へ着いた。そのため、優秀な快速船も航速のおそい船に足並みをそろえて航行しなくてはならなかった。なお、1665年からはセイロンが第2の発着地となった。 東インド会社船のある船はオランダ最後の錨地となるテッセルを出帆してから、喜望峰での数日間の停泊を加算して、164日後にバタフィアに到達している。他の船は、テッセルから162日もかかって喜望峰につき、1週間停泊し、そこから55日でバタフィアに到着している。また、ある船はコロンボからの復航の際、セイロンから喜望峰まで108日、喜望峰で7日停泊、喜望峰から北航して、テッセルまで116日、実に231日以上も要している。 東インド会社は当時世界第一の船会社であり、第一級の船長たちが乗っていたとされる。この会社の船の水夫になることはともかく、船長になることは名誉であったので希望者が多かった。その採用条件は厳しかった。応募資格としては、乗船経歴が30年以上あり、1等航海士としてインド洋で少なくとも1回以上航海した経験が必要であった。入社試験として面接試験と筆記試験が行われた。そして、入社後も1等航海士を経験させた後に、はじめて船長に任用した。 東インド会社の航海者への支援体制は整っていた。設立当初から、船長から航海日誌を提出させて航路を研究し、また東インド会社の設立者の1人でもあり、天文学者、地図製作者、聖職者の
イースト・インディアマンが輸送するのは貨物ばかりでなく、東インドに配置されている商館や要塞に勤務する、多数の商務員や兵士、その他を出国させ、帰国させた。出国者の数は、18世紀になると、会社規模の拡大と船員の逃亡、病死者の増加などによって倍増して、1760-70年の10年間は87000人と頂点に達した。 オランダ東インド会社の東インドにおける従業員は1万人、最大時には2.5万人にもなった。東インド会社が存続した1602-1795年間に、出国者995,000人に対して帰国者379,000人と見積もられ、それらは年平均5155人、1964人、帰国率38.1パーセントとなる。この開きは極めて大きいが、様々な事由による死亡の他、現地残留者が多かったことによる。別の文献では、97万人が会社船に乗り込み、48万人が帰国したという。また、97万人のうち、オランダ生まれは50万人にすぎず、他はドイツなどの外国人であったといい、そのためアムステルダムなどのある「ホラントはドイツ人の墓場」といわれたという。 995,000人という出国者数は年間で5000余人となる。東インド会社は、すでにみたように毎年約20-30隻の船をオランダから出航させているので、1隻当たり約170-250人もの船員や乗客を乗せていたこととなる。1629年、バタヴィア号(後述)がオーストラリア西岸で難破して、さんご礁の無人島に約180名が残されるが、乗客・乗組員・兵士は総勢330-40人であったとされる。このように、乗船者の数は異常な多さであって、船内は奴隷船なみの過密となった。そのため必要なスペースは用意されず、船員も寝るスペース捜して喧嘩沙汰になり、乗客のなかには船員のベッドを金で買うというありさまとなったとされる。 東インド会社の従業員の数は必ずしも判然としておらず、1625年には商館従業員4500人(うち半数は船員)、オランダからの出国途上2500人、本国への帰国途上700人、総数7700人であったという。また、1687-88年はそれぞれ16000人(うち船員4000人)、4000人、1900人、約2万2000人となっている。18世紀になると、船員を除く商館従業員は1688年16000人、1750年23000人、1753年24879人と増加している。 1687-88年の東インドにある商館や要塞のヨーロッパ人従業員数11551人について、詳細な職種別構成がある。その構成は、軍人7806人(うち高級軍人200人)、行政および交易関係者877人(うち上級商務員115人)、船員1413人、その他1455人うち(うち外科医200人)となっている。その他、東インド会社は多くの現地人を、兵士、職工、書記、調理人、理髪師などとして雇用し、18世紀には彼らを船でも使用していた。さらに、奴隷をモルッカ諸島、コロマンデル、ベンガル、マダガスカル、モザンビークから集め、倉庫、工場、建設に使用していた。なお、船員1413人は域内就航船の数からみて少ない。 ▼バタヴィア号の要目、乗船者と積荷▼
ヨーロッパ産品は周知のように東インドでは需要がなかった。レトゥールシップには、それぞれ「最高25万グルデン、つまり現在の約1900万ドルに相当する莫大な金(かね)が巨大な木箱におさめられ、積載された。箱1つは重さ500ポンドで、収納されている貨幣は8000枚、その額は約2万グルデンだった。船員によからぬ考えを起こさせるには十分で、盗難の危険を回避するために、金をおさめた箱は他の貨物とは別の場所に置かれた。地金は乗組員が錨を揚げる1、2時間前に積み込まれた……船長と上級商務員は受領書への署名を求められた。船内に運び込まれた金箱は、船倉ではなく身分の高い商務員だけが出入りを許される船尾の大船室に置かれ、ジャワに到着するまでつねに監視された」(ダッシュ前同、p.88)。 それ以外で、大量に送られるものとしては工場建築に使用する石材であった。また、職員住宅用のレンガの注文が毎年出された。それらはバラストとして船底に詰め込まれた。バタヴィア号は、高さ25フィートにおよぶ組み立て式のポルティコという、珍品を積み込んでいた。それは137個の砂岩ブロックからなる門で、総重量37トン、バタヴィア要塞に届けられることになっていた。その他の物品として賛美歌集、手榴弾、鍋、樽用のたがといったものがあった。 貨客船としてのレトゥールシップの乗船者は、会社職員とその関係者、兵士、乗組員、そしてその他乗客で構成された。バタヴィア号の乗船者の総数は332人というが曖昧で、密航者を含め330-40人となっていた。それら人的構成とそれら人数はそれほど明白でない。 一般に、レトゥールシップには上級商務員、副商務員、商務員補佐、簿記係、事務係など、8-12人が乗船していた。バタヴィア号の会社職員は上級商務員、副商務員の他は、不明である。その他の関係者としては、外科医、大工、料理人、司厨長、キャビン・ボーイが乗船している。 兵士のなかに士官はおらず、彼らの引率者は妻同伴の伍長のようで、その他上等兵、石工、そして士官候補生12人(良家の次三男)がいた。彼らはオランダ人であった。一般の兵士の数は100人で、ブレーメンやエムデン、ハンブルク出身のドイツ人であった。乗組員の数は明記されてはいないが、水夫は180人という記述のほか、船長、主席士官、次席士官2人(士官ではなく操舵手と訳されている)、ボースン(訓練責任者と訳されている)、操舵手(士官ではない)、縫帆手、庭師、まいはだ工などがいる。 その他乗客としては、特別客とされる東インドに赴任する説教師夫妻、子7人、メイド、そして商務員の元に向かう若妻とメイドがいた。それ以外の乗客として、東インドにむかう夫妻、水夫や兵士の妻、そして数人の独身女がいて、それら女性の数は22人と異常に多かった。 ▼バタヴィア号のと惨劇、332人うち216人が死亡▼ バタヴィア号たちの船団は当初総勢18隻であったが二手に分かれ、バタヴィア号は他のレトゥールシップ2隻、フライトなど3隻、護衛船1隻の7隻とともに、1628年10月29日で出帆する。「大海の酒場」と呼ばれた喜望峰に、1629年4月14日に入り、8日後に出帆して、南の海を東に向かう。同年6月14日、オーストラリア西海岸にあるホートマン・アブロリューション諸島(あるいはホートマン・アブロリューシュ諸島)で座礁する。遭難前、すでに10数人が死亡しており、船内にいたのは322人であった。 船長と上級商務員は救援を仰ぐため、水夫50人とともに2隻のボートに乗って、バタヴィアに向かう。副商務員ら70人が難破船に残る。それ以外の約180人は珊瑚礁の島に避難する。しかし、難破船が破砕したため、副商務員らは珊瑚礁の島に合流してくる。それにより、珊瑚礁の島は208人となる。その後から、副商務員らによる120人にも及ぶ、無差別殺人事件が起きる。この殺人事件が表面化していたにもかかわず、副商務員らはバタヴィア号の乗っ取りを画策していた。 それとは別の島に20人が生き延びており、珊瑚礁の島から逃げ込んできたものが加わって、殺人集団と数次にわたって戦いを交えることとなる。彼らの戦いが決着する段階になっていた、同年9月17日に、上級商務員の率いる救援船がバタヴィアからはからずも到着する。これによって事件は収拾するが、1年3か月前にオランダを出帆した時の、乗船者332人うち216人が殺戮、病気、溺死、刑死などで死亡した。 この「ホートマン・アブロリューション諸島でくりひろげられた殺戮は、オーストラリア大陸における白人の歴史のなかで、きわだって残虐なエピソードの1つとなっている」という(ダッシュ前同、p.320)。 なお、バタヴィア号に乗船していた上級商務員はフランシス・ペルサート(35歳)といい、アントウェルペン出身、ミデルブルフ支社採用であった。彼は事件後、オランダに帰帆する途中で病死している(彼は、先にみた船長ヘンドリック・ブラウエルの義理の兄弟という)。惨殺や反乱の首謀者である副商務員はイエロニムス・コルネリス(30歳)といい、フリ−ストラントのレーワルデン出身で薬剤師の経歴があり、商いに失敗して東インド会社に入社してきた。著者によれば、サイコパス(反社会性人格障害者)とされ、ペルサートによって処刑されている。また、同じく首謀者の船長はアリアーン・ヤコブスといい、アムステルダム近郊の漁村ドゥルヘルダム出身で、40歳ぐらい、20年の会社歴があり、バタヴィアにおいて獄死している。 東インド会社船では反乱事件が1602-28年において12件発生しているという。それが公式件数とすれば、毎年のように大小の反乱が大小の船で発生していたかにみえる。また、東インド会社の200年弱の歴史のなかで行方不明になる船が、往路で50隻に1隻、復路で20隻に1隻に近い割合で発生しており、総数246隻に上ったという(ダッシュ前同、p.352)。東インド会社船の海難は少ないという向きもあるが、フライング・ダッチマン(さまよえるオランダ船)と呼ばれるように、その数は決して小さな数ではなかったとみられる。 ▼東インド会社、私交易と賄賂が横行、解散▼
末期の東インド会社は、えこひいきと個人的利益の排他的追求とが支配することとなった。その浄化を試みる者が出ると、これらの特権を大いに享受していた者のために倒された。そして、新たな困難が次々と生じ、東インド会社は終末を迎える。 東インド会社はマレー諸島の大部分にその支配権を広げたので、それを確保するためますます大規模な艦隊や軍隊を維持しなければならなかった。これが利益を食いつぶすこととなった。また、香辛料などの値崩れを防ぐための生産の意図的な制限が、原住民搾取の苛酷さとともに、強まる一方であった。そして、多数移住してくる中国人を手荒く扱ったため反抗され、1740年にはジャワで中国人を大量虐殺するといった事件(バタヴィア華僑大量虐殺事件という)を起こすまでになる。 東インド会社の東インド向けの船は、18世紀後半になっても減ることはなかったが、東インド海域において就航している隻数は大幅に減ったとされる。第4次イギリス戦争の影響はたちまちアジアにも波及する。ヨーロッパとアジアを往復するオランダの船はイギリス艦隊に捕えられ、またオランダ本国の港も封鎖される。そのため、バタフィアの港には本国に送れない農産品が山積され、総督府は本国からの送金がなく苦しんだという。 この頃から、東インド会社の経営を改善する努力が試みられるが何ら効果は上らず、会社の損失は1789年7400万グルデン、1791年9600万グルデンと膨らみ、事実上倒産状態にあった。東インド会社を解体して、東インド経営は国家に委ねるべきだといった提案が出される。 1789年フランス大革命が起きる。フランス革命軍がオランダの愛国派に導かれて、オランダ全土を制圧すると、愛国者派によるバタフィア共和国が誕生する。それは直ちに東インド会社に決定的な影響を及ぼす。その特許期限1799年をもって、約200年の歴史を刻んだ総オランダ特許東インド会社は、その負債を市民に押しつけて解散する。 ▼オランダ西インド会社、私掠活動に専念▼
1621年、スペインとの休戦が終わると、戦争が再開される。スペインのフェリペ4世(在位1621-65)はオランダとの交易を全面的に禁止する。それに対して、オランダはスペインの財政資金を断つため、アジアとアメリカ大陸にあるスペイン(1580年ポルトガルを併合)の植民地や交易港を攻撃し、奪取を図る。そのなかでも、私掠船は大西洋や西インド諸島、ブラジルの海域において、略奪活動を展開する。また、低地地方の陸上では現在のベルギー国境まで領土を拡大し、海上では海戦が繰り返され、海岸線が封鎖される。 アントウェルペンから亡命してきた好戦的なカルヴァン主義者たちと、その一人であるウィレム・ウセリンクス(1567-1647)は、早くから西インド会社を設立してスペインの銀を強奪することを主張していた。そうした主張に東インド会社の設立を支持したオルデンバルネフェルトは反対する。彼が誅殺され、またスペインとの12年間の休戦が終わったことから、1621年連邦議会によって念願のオランダ連合西インド会社(WIC)の設立が承認される。その特許状によると、西インド会社はアフリカ西海岸、アメリカなどとの交易独占権を、24年間にわたり認められる。 西インド会社も東インド会社と同じように支社制をとられ、5つの支社(アムステルダム、ロッテルダム、ホールン、ミデルブルフ、フローニンゲン)がおかれる。資本金は約710万グルデンで、東インド会社を上回った。アムステルダム支社が全体の9分の4を出資し、ミデルブルフはその半分であった。しかし、資本金は東インド会社のようには順調に集まらず、連邦議会も50万グルデン出資している。「19人会」という取締役会が最高意思決定機関となり、連邦議会からも代表が1人加わった。
オランダは、1640年ポルトガルが独立を回復すると、翌年10年間の休戦条約を結ぶ。この条約がブラジルで1642年に発効したことで、西インド会社はポルトガル船への攻撃やブラジルでの戦闘行為を中止せざるをえなくなる。ここで西インド会社はその目標を失う。さらに、1648年オランダはスペインとの和平条約によってその独立が承認されると、もはやスペインに対する私掠行為も続けられなくなる。 西インド会社は、私掠による濡れ手に粟の利益にもかかわらず、船の派遣費用が利益を上回ったため赤字が続き、東インド会社ほどの成功を収めることはできなかった。 ▼ブラジル、スリナムの砂糖キビ栽培、奴隷交易▼ 1630年初め、西インド会社はブラジルのペルナンブコ州を皮切りにつぎつぎと4つの州を占領し、これをニーウ・ホラント(オランダ領ブラジル)と名づける。1636年にはナッサウ=ジーゲン伯ヨーハン・マウリッツ(1604-79)を総督として送り込み、本格的な植民事業に乗り出す。しかし、内陸に逃れたポルトガル人の抵抗も激しく、占領地の維持は会社の経営にとり大きな圧迫となった。 西インド会社は砂糖キビ栽培を目指す。その労働力を充足するためアフリカから黒人を奴隷として連れてくることになり、西インド会社は大規模な奴隷交易にも手を染める。1637年、ギニア黄金海岸のエルミナ要塞をポルトガルより奪い、ここをアフリカの拠点とする。続いて、1641年にルアンダを制圧し、さらにべンゲラ、サン・トメ島を奪い、奴隷交易を軌道にのせる。1637-45年のあいだだけで、西インド会社は2万3000人以上の黒人をブラジルに売り込んでいる。 1645年、ブラジルで反オランダの大規模な反乱が起こり、ポルトガルは1654年に最終的にオランダ人をブラジルから追放する。1661年、和平条約を結ばれ、オランダはブラジルを放棄するかわりに、セイロンにたいする支配権を認められる。さらに、1648年のミュンスター条約以後、スペイン船に対する攻撃もできなくなったので、西インド会社の存在意義はなくなり、1674年に2度目の特許期限が切れたことで解散となる。
オランダの奴隷商人は、1625年から1795年まで50万人のアフリカ人を運んだが、その半数は1730年以後の40年間に送り出された。オランダ国内では奴隷の取引や所有は禁止されていたが、アフリカや植民地ではそれは野放し状態であった。イギリスの圧力を受けて、1814年になって奴隷交易を禁止するが、奴隷制を廃止するのは1863年になってからであった。オランダでは奴隷制に反対する声はつとに挙がらなかった。それは奴隷交易はポルトガル系ユダヤ人が扱っていたからとされる。 西インド会社は中南米にもいくつか植民地をもっていた。南米のガイアナ海岸に、オランダ人が1616年から進出し、デメラリ、エスキポ、ベルビスで砂糖キビ栽培を行う。スリナムはイギリス人の入植地であったが、第2次イギリス戦争中にオランダが占領し、その中心地のパラマリボにゼーランディア要塞を築く。そこはブレダー条約でニューヨークと交換するかたちでオランダ領となる。 スリナムの砂糖プランテーションは西インド会社から黒人奴隷の供給を受け、18世紀には順調に発展し、1737年にはその数400に達した。その経営者はアムステルダムのポルトガル系ユダヤ人が多かった。1720年代からはコーヒー、綿花の栽培もおこなわれ、プランテーション植民地としては貢献した。スリナムは1975年11月に独立するまでオランダ領であった。 このほか、オランダは1634年からベネズエラ沿岸に近い小アンティル諸島のクラサオ、アルバ、ボネールの各島と、ウィンドワード(風上)諸島に属するスィント・マールテン、サバ、スィント・エウスタシウスの各島を1640年代から占領し、西インド会社がその統治にあたってきた。これらの島は現オランダ領アンティルである。 オランダ人はアメリカ大陸にもねらいを定めていた。1609年、オランダ東インド会社の依頼を受けて、大西洋から太平洋へ出る近道を探していた、イギリス人ハドソンがハドソン川とマンハッタン島を「発見」する。この付近一帯はニーウ・ネーデルラントと名づけられる。1614年にはニーウ・ネーデルラント会社がつくられ、主に毛皮交易を行うようになる。 1615年、東インド会社はマンハッタン島にナッサウ要塞を築いた。西インド会社が後にこれを引き継ぎ、1625年にデラウェア先住民よりマンハッタン島を購入して、ニーウ・アムステルダムとした。その後順調に発展し、人口も7000人ぐらいになった。1653年には都市に昇格した。さらに、ハドソン川上流にオラーニェ要塞(オールバニー)が築かれ、ここもオランダ人の植民地となった。 ニーウ・アムステルダムは、1664年9月イギリス艦隊の攻撃を受けて降伏し、1667年のブレダー条約でイギリス領となり、ニューヨークと改名された。その後一時オランダが奪回するが、1674年のウェストミンスター条約でオランダは正式にこれを放棄し、以後オランダは北アメリカから撤退する。ニューヨークにはハーレム、ブルックリンといったオランダの地名がそのまま残っている。 |