ホームページへ

目次に戻る

3・1・4 イギリス、後発の利益を享受して覇権

3・1・4・5 植民地戦争に勝利して、世界を市場に
3.1.4.5 Win Colonial War and bring the World to Own Market

▼地主支配体制の確立、唯一の敵フランス▼
 17世紀におけるイングランド人の2度にわたる革命は、民衆の政治参加の道を拓くものではなかった。18世紀前半、ヨーマンや小ジェントリーといった中・小地主が没落して、大地主による土地の集積が進行して、議会は土地所有者に限定された議員に支配されるようになる。
 18世紀は前世紀に引き続いて、イギリスはオランダやフランスとの重商主義戦争に次々と勝利して、カリブ海や北アメリカ大陸に植民地を拡大し、インドを拠点にしてアジア交易に進出する時代でもあった。そのなかで、大商人や砂糖植民地の不在地主、インド成金(ネイボッブ)などが急成長する。これら成り上がりの大商人たちは大地主の同盟者となり、地主支配体制が築かれる。
 1707年、女王アン(在位1702-14)の治世、それまでのイングランドとスコットランドの同君連合という関係を改めて、両国の議会を統一した連合国家としてのグレートブリテン王国が誕生する。18世紀の国内政治・社会は安定した時代となった。また、イギリスの対外膨張に立ちはだかっている国は、スペインでもオランダでもなく、ルイ14世のフランスだけになっていた。
 イングランドのフランスとの重商主義戦争は、1688年の名誉革命直後のアウクスブルク同盟戦争を皮切りに、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争と、1763年のパリ条約に至るまで続く。
 イギリスの政府は戦費調達に当たって公債制度を利用した。この公債発行を、1694年創立のイングランド銀行に引き受けさせる。公債は、豊かな資金をもつ大商人や大地主を大いに利殖させたが、中・小地主は公債の償還や利払いのための税を負担させられるだけに終わり、一方の富裕化と他方の没落を促す。
 イングランドの対外膨張は海事力を疲弊させる。名誉革命のあった1688年には、イングランドの交易の停滞とイギリスの商船隊の減少が明らかとなった。それが何とか回復するのは、18世紀半ばになったからであった。海軍勤務への商船船員の強制徴発がとんでもない結果をもたらした。何年にわたって、5万人ほどの船員数のなかから実に3万人が、王立海軍勤務を強要された。1689年から1697年までの、アウグスブルグ同盟戦争当初の艦船の喪失は著しく、その戦間期4000隻以上に及んだ。
 1686-1702年のあいだに、イングランドの保有船腹トン数は2万トン減少し、32万トンになったとみられている。その後の1701-1713年のフランスとのアン女王戦争で、それ以前に喪失した船を拿捕船によって埋め合わせている。しかし、船を集めて船団を組む必要があったため、大変な輸送の遅延が生じ、交易に有害な結果が生じていた。
▼イギリス、フランスとの植民地戦争に勝つ▼
 イギリスは、ルイ14世がはじめた1689-97年のアウクスブルグ同盟戦争に巻き込まれる。フランスに亡命中の元国王ジェームズ2世は、ルイ14世の後押しをえて、アイルランドに上陸する。フランス海軍はイギリス・オランダの連合艦隊を撃破する。しかし、ジェームズ軍はウィリアム3世軍に押し返されてしまい、そのためにアイルランドはイギリスの完全な植民地となってしまう。
 同じ時期、ウィリアム3世はウィリアム王戦争に当たって、フランスの北アメリカ植民地に仕掛けるが、ケベック攻略に失敗する。この争いは、北アメリカにおける領土拡大、毛皮交易拠点の確保、そしてニューファンドランド沖での漁業権をめぐる争いであった。
 1701-14年のスペイン継承戦争がはじまると、スペイン領アメリカ植民地との交易がフランスに独占されることを恐れ、イギリスはそれに参入する。その一環として、1701-13年アン女王戦争がアメリカ大陸で展開される。これらの戦争を収拾した1713年ユトレヒト条約で、イギリスはスペインから地中海のジブラルタルとミノルカ、そしてスペイン領アメリカへのニグロ奴隷供給権(アシエント)が割渡される。また、アメリカ大陸のニューファンドランド、ノバ・スコシア、ハドソン湾地方などを獲得する。こうして、イギリスはこれら戦争の最大の受益者となり、植民地世界国家として躍り出る。
 1731年、レベッカ号がハバナのスペイン官憲に略奪され、船長ロバート・ジェンキンスの耳が切られる。1738年議会に報告されると、世論が沸騰、翌年スペインとのジェンキンズの耳の戦いが起き、オーストリア継承戦争と合体して、イギリスとフランスとの植民地戦争がはじまる。
 1756-63年七年戦争が大陸規模で起きるが、イギリスはフランスとの植民地戦争に専念する。北アメリカでは、先住民諸部族を巻き込んで戦われたことから、フレンチ・インディアン戦争と呼ばれた。イギリスは、フランスの北アメリカ植民地の拠点ケベックやモントリオールを陥れ、フランスのカリブ海の砂糖植民地マルチニクなどを攻略する。
 インドでは、フランスが1664年東インド会社を再建して、インド交易を拡げていた。これに、イギリス東インド会社が対抗しようとしたため、インドの現地勢力を巻き込んで3次にわたるカーナティック戦争が起きる。イギリス東インド会社書記官ロバート・クライヴ(1725-74、後に初代ベンガル知事)率いるイギリス軍が、1757年プラッシーの戦いや1760年ヴァンダヴァッシュの戦いでフランス軍を破り、1761年その拠点であるポンディシェリを占領する。これらによって、イギリスはインドからフランスを排除して、ベンガル地方を完全に支配する。
 1763年パリ条約が締結され、イギリスとフランスの植民地戦争は一応終結する。イギリスは、アメリカではフランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナ、またスペインからフロリダ半島を獲得する。
▼イングランドとフランスの私掠船の盛期▼
 エリザベス1世の跡を継いだジェームズ1世(在位1603-25)は、海賊や私掠をめぐる腐敗の取り締まりに熱心であったとされる。さらに時代は下るが、ピューリタン革命後、オリバー・クロムウェル(護国卿1653-1658)は王立海軍を本格的に編制する。17世紀半ば、イングランドの軍艦は229隻を数え、それをもってオランダとの三度にわたる海戦を戦い抜く。イングランドは、17世紀後半には私掠船に頼らなくても、先発のスペイン、ポルトガル、そしてオランダに対抗しできるようになる。
 こうしたなかで、イングランドの私掠船は次第に活躍する機会が失われていき、イングランドから公然と出帆できなくなった。その結果、本拠地を海外に求めざるをえなくなった。彼らの生き残りの場所は、スペインから領土を奪って日が浅く、王立海軍の力の及ばず、海賊を含め小競り合いの絶えない、カリブ海であった。
 1655年イングランドがジャマイカを占領すると、バッカニアと呼ばれた海賊が蔓延る。そのなかでもヘンリー・モーガン(卿、1636-88)が有名である。彼らは私掠ではなく、文字通り、海賊であったが、西インド諸島の統治者から支持され、沿岸警備を代行していた。彼らは、現地発行の私掠許可状を交付されたことから、「海の傭兵」とネーミングされる。このバッカニア海賊も、1680年代になると取り締まりにあって、インド洋などで最後の華を咲かすが、1720年代半ばには壊滅したとされる。
 しかし、17世紀末から18世紀半ばにかけ、フランスが海上進出してくると、私掠船の歴史は大きく塗り替えられる。海軍力に劣る後発のフランスは、1692年のラ・オーグ海戦でイギリス・オランダ連合艦隊に破れると、コルセイアと呼ばれる私掠船を繰り出してくる。これにより、イギリス海峡ばかりでなく、西インド諸島も危険な海域となった。この海域では、1690年から1720年にまで、バッカニア海賊もまた復活する。そればかりか、イギリスはコルセイアには私掠船でもって対抗せざるをなくなり、エリザベス時代とは違う、私掠船の盛期となる。
 この時期における私掠船は掠奪から、敵対国の海上交易を阻害するという役割(通商破壊)を担うこととなった。戦時となって交易が途絶すると、イングランド大型船の船主は支払いが遅れるのは我慢した上で、持ち船を御用船として差し出すか、またそれに向くならば持ち船を私掠行為に使うかを迫られたという。それにより1739-1803年延べ9,151隻(年平均143隻)が私掠船として出港したという。バッカニア海賊船やフランス私掠船の悪の跳梁ぶりや、イングランドの私掠船との抗争については省略するが、若干の事例は下記の通りである。
 スペイン継承戦争中、イングランドでは1622枚の私掠許可状が発行され、1343隻の私掠船が従事していたとされる。戦時になっても多数の私掠船が海上で活動していた。ジェンキンズの耳戦争中に1191枚、また七年戦争中に1679枚の許可状が発行されていた。その一方で、東インド会社船を除き、商船には砲手は平時、乗らなくなりはじめていた。
 1708年、アン女王(在位1702-1714)は、敵から受けた被害を償うことが期待される場合に限って、私掠行為を認可した。ただ、従来の慣行であった捕獲物の価格の50分の1を、国王に差し出す必要はなくなった。1799-1815年の期間のナポレオン戦争になっても、7000枚もの私掠許可状が1777隻から1783隻の私掠船の船長に発行されていた。
 1708-1711年のウッズ・ロジャーズ船長(1679-1732、後のバハマ総督)の航海は、イギリス海運の南太平洋への進出を目指したもので、ブリストルの団体が投資していた。彼はホーン岬を回り、チリ海岸沖のファン・ヘルナンデス諸島に立ち寄ったとき、1703年無人島に置き去りにされたアレクサンダー・セルカーク(1676-1721)を救助している。このセルカークの物語はダニエル・デフォー(1659?-1731)の『ロビンソン・クルソー』(1719)の素材となる。
 それはともかく、ウッズ・ロジャーズとその仲間は、1709年末にノストラ・セニョーラ・デ・ラ・インカーナシオン・ディセンガニオ号を捕獲し、大穴を当てる。彼は、320トン30門のデューク号と260トン26門のデュケス号に、14,000ポンドかけて艤装していた。それに対して、彼の利益は最終的に80万ポンド(1988年価格で約4300万ポント)゙となった。
ウッズ・ロジャーズとその家族
ウィリアム・ホッガス画、1729
国立海事博物館(ロンドン)蔵
 彼が南海への扉を開いたことに刺激されて、1711年南海会社が中南米海域における交易を発達させるために設立され、2年後奴隷供給権が授けられる。この会社の株価が高騰したことで、類似の泡沫会社が作られるが利益が見込まれないことがわかり、1720年にバブルがはじけるという南海泡沫事件が起きる。
 稲本 守「欧州私掠船と海賊−その歴史的考察」『東京海洋大学研究報告』第5号、2009は、主としてイングランドの私掠船の歴史について、多くの文献を踏査して要領よく取り纏め、その盛衰は国家の海事戦略に規定されるとした論文である。また、マーカス レディカー 著、和田 光弘ほか訳『海賊たちの黄金時代 アトランティック・ヒストリーの世界』、ミネルヴァ書房、2014は、1710年代、20年代の海賊たちの社会史を総括している。その時代の海賊の数は多くて2400人、平均乗組員数は80人、したがって海賊船30隻だという。
 なお、私掠行為が国際法上で禁止されるのは、1856年のパリ条約においてであった。
▼奴隷交易を牽引するブリストル、リバプール▼
 ロンドンは王立アフリカ会社の本社があったことから、17世紀末まで奴隷船が出帆する主要港であった。1698年奴隷交易が開放されると、ブリストルがすぐにさまロンドンを引き離し、勢いを強めだした。次いで、リバプールが発達途上の綿工業と容易に結びつき、1700年以後はチェシャーで岩塩鉱床が開発されるといった便宜をえて、他港にくらべ多くの点で優位に立った。
 1713年のユトレヒト条約で、イングランドはギニア海岸の統制権と、スペイン領への奴隷供給権を獲得した。それは、南海泡沫事件を誘発した南海会社に年間4800人の奴隷を、スペインの植民地に供給する権利を承認したものであった(1739年に放棄される)。それ以後、イングランドの奴隷交易はブームとなる。
18世紀のブリストル港
1680年のリバプール
 その数はすぐに年間数万人を数えるまでになり、そのほとんどは1人30ポンドで、主要な市場となったジャマイカを中心とした西インド諸島に売られた。そこからアメリカ本土に送られる奴隷も少なくなかった。後者の交易はアメリカ本土船が取り扱うようになった。
 海運業にとって、ごく最近まで人の輸送は、重要な仕事であった。植民地の大身や黒人奴隷たちだけなく、18世紀になるまで年季奉公人が運ばれた。また、反逆者は奴隷におとしめられ、アメリカや西インド諸島に売られた。
18世紀の奴隷交易の状況(年平均、人数は推定)
ロンドン
ブリストル
リバプール
隻数
人数
隻数
人数
隻数
人数
1699-1702
73
15,694
4
630
1
42
1728-1732
40
10,513
48
10,872
14
2,779
1743-1747
6
1,879
20
5,161
31
7,497
1783-1787
24
7,269
14
3,830
81
26,260
1798-1802
18
5,105
4
841
135
37,086
出所:石神隆著『水都ブリストル−輝き続けるイギリス栄光の港町』、p.61、法政大学出版局、2014
 罪人の輸送は、18世紀末になっても続いた。1787年には最初の罪人がオーストリアに向けに送り出された。最後の流刑船が出た1868年までに、825隻が刑事被告人を積み、オーストラリアに向かっており、男女160,023人が上陸している。オーストラリアへの自由移民は1820年代までは起きなかった。
 西アフリカから、奴隷、象牙、金、そしてレッドウッド(染料となる)が、銃、銅製品、酒類、そして織物と引き換えに持ち出された。年季奉公人や奴隷に加えて、織物、ワイン、鉄製品、その他工業製品が様々な食品や日用品とともに、アメリカに運ばれた。こうした貨物の往航運賃はあまり高くなかった。なお、この段階の三角貿易には、綿花や綿織物はまだ登場していない。
 西インド諸島―バルバドス、リワード諸島、そしてジャマイカ―からイングランドへの帰り荷は砂糖であったが、それは奴隷を買い付けて奴隷船を満船にするために、必要不可欠の貨物であった。それらの船に積まれた帰り荷は、工場製品や食料品とともに、イングランドに直接、持ち帰られた。18世紀半ばまでに、サトウキビを原料した糖蜜から作るラム酒が、主として北アメリカの植民地に送り込まれた。
 西インド諸島や北アメリカでの船積みは、ハリケーンを避けて、1月から2月にかけて行われた。スペイン船やコルセイア海賊船に襲われる危険性があったので、300トン以上の船が使われるようになった。タバコはバージニアやメリーランドから産出され、その交易には150-250トンの船が好まれた。タバコ船は秋にイングランドから出帆し、春にイングランドに向け帰帆した。18世紀初めころには、毎年200隻が船積みしていた。
▼18世紀の構造変化、植民地産品の増加▼
 近世イギリスの交易は、先
発のポルトガルやスペインの
植民地交易に、オランダの中
継交易を接ぎ木したものであ
った。アメリカ大陸のプランテ
ーションによる砂糖やタバコ
の生産とその交易、その生産
を支えたニグロ奴隷交易、東
インド会社によるアジア交易
などを軸として展開された。イ
ギリスの総交易額は、17世
紀後半に3倍の1200万ポン
ド、18世紀前半に2倍の2200
万ポンドへと増加した。また、
ホグスヘッド
樽は砂糖、タバコ、茶、ラム酒など、様々な積み荷に用いられた
サイズは48-140ガロンであった
1715-75年の期間、輸出額は600から1600万ポンドポンド、輸入額は400万ポンドから1500万ポンドに増加した。
 イギリスの輸出品は、17世紀後半にあっては毛織物が圧倒的に多く、総量の4分の3を占めていたが、18世紀に入ると毛織物以外の工業製品と穀物が急増する。後者は農法改良による増産によるものであった。イギリスはヨーロッパ諸国のなかで主要穀物輸出国に躍り出る。そして、アメリカ産のタバコや砂糖、インド産の綿布などの再輸出が急増する。1700年になると、イギリス商人はこの国の海外交易を、ほぼ完全に掌中に納めるようになった。
 具体的には、イギリスの年間輸出額は1660年代の410万ポンドから、1700年には640万ポンドに増加する。その増加の半分以上は再輸出の増加に基づいていた。輸出総額のうち、羊毛製品がそれまで約85パーセントを占めていたが、このころになると50パーセント以下まで低下した。再輸出は、主としてヨーロッパ向けられ、輸出総額の約3分の1になった。それは、主にタバコ、リネンとキャラコ、そして砂糖であり、それ以外に若干のコーヒーとスパイスであった。その再輸出額は国産品の輸出額の約5割相当までになる。
 18世紀半ばの輸出額約1200万ポントの構成は、毛織物33、工業製品20、食料品12、原料6、そして再輸出29パーセントと、大きく変化する。他方、輸入品は17世紀初頭、その3分の2が西ヨーロッパからきており、非ヨーロッパはほぼゼロであった。それが、18世紀初頭になると、前者は4分の1に低下し、逆に後者の植民地産品は3分の1を越えるまでになる。ただ、木材など造船資材はあいかわらず北ヨーロッパ・バルト海地方から輸入していた。それ以外に奴隷交易を急成長させていた。
 伝統的な輸出品である毛織物の大部分はヨーロッパに売られていたが、それ以外の工業製品は主としてカリブ海やアメリカのイギリス植民地に売られた。その工業製品は、イギリス人植民の生活に必要な鍋、釘、家具、書籍など日用品や黒人奴隷との交換物であった。18世紀、イギリスの綿工業が勃興するが、原綿の3分の2はカリブ海の植民地産で、それを加工した綿製品の8割がアフリカやカリブ海、アメリカ南部に向けられた。イギリスの工業製品はヨーロッパでは売れず、アメリカ植民地が保護された市場となっていたのである。
 イギリスの交易収支は18世紀に入って、顕著に黒字化していったとみられ、その額は植民地産品の再輸出額に相当していた。その点では、当時のイギリスも中継交易を行うことで、その海上交易を成り立たせていた。また、17世紀後半から18世紀にかけて、イギリスの交易はヨーロッパ圏交易から離脱して、世界圏交易へ飛躍することとなった。
 近世イギリスの海上交易は、ポルトガルやスペインと同じように奴隷交易を底辺とする三角交易、あるいは奴隷制産品を基本商品とする植民地交易であった。ホープ氏によれば、「航海条例による保護装置は経済社会に高い交通障壁を張った。それによって自国産業は外から遮られることになった。同じころの植民者は産業の発展に期待していた。植民地への商品の供給に伴い、海運が最も重要な投資先の1つとなった」(ホープ第12章、p.209)。
 特に、アメリカ植民地の開発と三角交易によって、リバプールは奴隷交易商人の港として、後背地のマンチェスターはコットン・ポリスとして発展する。また、ブリストル、ロンドン、カンブリアのホワイトヘブン、そして1707年以後最も急激に発達したスコットランドのグラスゴーが新しい植民地から利益を上げ、雇用機会を増やしていった。また、奴隷を使用して砂糖きびやタバコの葉を栽培するプランターの意見が、交易政策に決定的に影響を及ぼすようになった。
 ヨーロッパ諸国は、16世紀を通じて経済を拡大させてきたが、17世紀になると「危機の時代」に入ったとされる。そのなかにあって、イギリスは重商主義政策と植民地の獲得によって、1660年の王政復古から1世紀にわたって飛躍し続ける。それは「イギリス一国の商業革命」と呼ばれる構造変化であった。
▼北方海域の三角貿易―石炭・小麦の輸出―▼
 18世紀前半、イギリスの海上交易はヨーロッパ大陸との交易が、大きな規模を占めていた。交易額はいまなお毛織物交易が優勢であったが、量的には石炭交易が他を圧するようになる。石炭交易量は、1685年の約12万トンから、18世紀半ばには33万トンに増加した。イングランドの石炭船はいまでは1500隻以上の数となり、石炭輸送は外国人からイングランド人の手で行われるようになった。その増加のなかで石炭船の所有者は北東海岸に移っていった。
 当時、ニューカスルからオランダに石炭を積み出し、オランダからノルウェーまでバラストだけで航海し、そしてノルウェーから木材を持ち帰るという、三角交易が行われていた。当時、イングランドから北方に向かった5隻のうち3隻がバルト海に入って、バルト海東岸や白海から木材、麻や亜麻、少量の鉄を持ち帰った。鉄の輸入は従来通り主としてスウェーデンからであった。
 バルト海は、イングランドの毛織物の主要な市場であったが、鉛、石炭、塩、そしてモルトにとってはわずかな市場であった。イングランドは、バルト海において徐々にオランダと対等に振る舞えるようになり、その結果、オランダの交易のうち低地帯向けは顕著に減少した。ロンドンに木材を運んでくる船は300-350トンの船がほとんどであり、しかも数人の大商人によって取り扱われていたが、隻数が多くなるにつれて小型船となり、ますます北東海岸の船主が所有するようになった。
 18世紀前半、イギリスの輸出貨物のなかで石炭に次いで、量的に大きな貨物は小麦であった。それは、主にスペインとポルトガルに送られた。イギリス船に船積みされると、輸出補助金が支払われた。それは、小麦交易からオランダ船を排除するのに役立った。その輸出量は、17世紀末の約12万クォーターから、1720年にはほぼ4倍に増加し、30年後までその増加は続いた。
 小麦に加え、南ウェールズから少量の石炭、コーンウォルから塩引きマイワシ、ヤーマスから赤ニシン、そして色々な港から種々雑多な銅製品や鉄製品が、イベリアに輸出されていた。小型船はオレンジやレモンを持ち帰っていた。1703年のメシュエン条約によって、イングランドはポルトガルを経済的な従属国とし、ポート・ワインに特恵関税を与える代わりに、毛織物に対する禁止関税を廃止させ、またブラジル交易について特権をえる。ポート・ワインは流行の飲み物となり、クラレット(ボルドー産の赤ワイン)とサック酒は減少していった。
▼最大の港ロンドン、石炭船の活躍▼
 イギリスの保有船腹トン数は、前世紀の1686年になる前に5倍となったが、18世紀はそうはならなかった。それでも、1686年から1776年のアメリカ独立宣言までに34万トンから60万トン、沿岸船を含めれば112万トンに増加した。この時代、平時における船腹増加のペースが速かったので、その増加量は戦争による損失をはるかに上回った。そして、イギリス船隊の爆発的な増加は、18世紀半ばにはじまる。
 商船の平均トン数も増加しはじめる。東インド会社船は1690年代の700-800トンをピークにし、それ以後減少するが、1764年のスペック号にみるように700トンのレベルを再び超えるようになる。また、1787年、イギリス船初の1000トンのクレス号が、東インド会社に使用されるようになる。バルト海交易の船のサイズも300-500トンから400-500トンに増え、また大西洋横断交易でも約200トンから350トンとなった。
 東インド会社船は多数配乗のままであった。それ以外の、特に大型船では、前世紀に比べ同じサイズであっても、大量の貨物を運ぶようになった。軍艦は猟犬グレーハウンドのように建造されて快速になり、また操船しやすくなったが、商船は箱のように建造され、出来る限り多く運ぶことを目指していた。1700年までは、船は測量トン数以下の貨物しか運んでいなかったが、1775年なるとそれ以上運ぶようになる。
 18世紀初め、大型船の建造はロンドン近郊でテムズ川沿いのシャドウェルやロザーハイズ、ブラックウォル、そして東アングリアの入り江に集中していたが、その仕事量は小さかった。世紀後半になると、北東海岸のイプスウィッチなどは衰退するが、ウィットビーやスカーバラの造船業はさらに発達する。アメリカ独立までに、ニューカッスルからハルに至る北東海岸はイギリス最大の造船地帯となる。
 ジェームズ・クック(通称キャプテン・クック、1728-79)は石炭船で育てられた。彼が、1768年南太平洋に遠征するために乗ったエンデバー号(乗組員94人)は、もとはといえば1764年ウィットビーで建造された369トンの石炭船エール・オブ・ペンブローク号であった。
 現在もロンドンのワッピング・ウォールにある、有名な酒場「プロスペクト・オブ・ウィットビー」は1520年に開業しているが、その名前はプロスペクト号というウィットビーで建造された船を指揮していた廃業船長が、その窓から見える眺め―ロンドンの町に途切れることなく現れるウィットビーの石炭船の流れ―からと付けられたと言い伝えられている。そこは密輸入業者や泥棒の隠れ家だった。暗号で書いた日記で有名なサミュエル・ピープス(1633-1703、海軍省高官、臼田昭著『ピープスの秘められた日記』、岩波新書、1982参照)や、画家のターナー(1775-1851)も常連であった。
ウィットビーの港
プロスペクト・オブ・ウィットビー
川から見たドローイング
Wilfred・Fairclough 画、1941
 ロンドンはいまなおイギリス最大の港であり、ニューカッスルからの石炭のほとんどがロンドンに持ち込まれた。地中海や東インドとの交易を切り開いたロンドンは、その交易をほぼ維持していた。1776年前から、ほとんどの貨物は船の持ち主とは違う商人によって持ち込まれ、商人たちは他人の船を用船するか、カーゴ・スペースを賃借するようになった。
 そうした船の用い方はバルト海と交易するロンドンの木材商人には当てはまらなかった。しかし、彼らも船のスペースを、他人に提供するやり方を、次第にロンドンの業界に広げていった。共有船主もその船の貨物には関与しなくなった。なお、木材は、量的には外国との交易のなかで最大であり、その輸送コストは木材価格の3分の1を占めていた。
 ロンドンは、交易全体の半分を占め、優位を保っていたが、18世紀になると北東海岸と西海岸が交易全体の増加とともに発達しはじめる。そのなかでも石炭港や穀物港、植民地交易港が長足の進歩を遂げる。ハルやニューカッスル、リバプールが主な石炭港となった。ハルは、木材とスウェーデン鉄の輸入が増えたおかげで発達した。スコットランドの産業は、植民地交易からえた利益でもって発達し、その交易はグラスゴーを経由した。
 七年戦争は北西海岸のリバプールやグラスゴーといった石炭港の重要性を高め、リバプールに出入りする船は1710年の2.7万トンから1760年には10万トンに増加した。また、コットンやリネンの産業が輸出商品を提供するようになると、それら地域の商人は奴隷交易に熱意をもって参入し、さらにタバコや砂糖の独立輸送人としても成長していった。七年戦争後、リバプールの商域はイングランド中部まで拡大し、ロンドンに次ぐ2番目の港となり、それが200年ほど続くことになる。
▼アメリカとの交易の興隆、海運の発達▼
 イギリスの交易は、18世紀前半、価額、トン数ともに2倍も増加した。トン数の増加は石炭と小麦の輸出によるものであった。織物が価額の70パーセントを占め、雑多な金属製品と金物類がそれに次いだ。輸入は150年間に10倍あるいは12倍ほど増え、年間合計は56万トンになっていた。
 輸入の半分はノルウェーとバルト海からの木材であり、その貨物は合計価額の5パーセントにも満たなかった。この北海交易は、非常に多くの船と船員を使用したが交易のバランスは悪く、北ヨーロッパにはわずか3万トンの商品を輸出するにとどまった。他方、近隣のヨーロッパ大陸の港に、石炭を中心とした51万トンもの輸出品を送り出されたが、それらの港から輸入はわずか4.4万トンであった。
 南ヨーロッパ向けの輸出は9万トン、輸入は3.9万トンであり、このインバランスは一面ではアフリカや西インド諸島との交易、そして他面では北アメリカとの交易が帳消しにしていた。アフリカや西インド諸島、特に後者から7万トンを輸入し、たった1万トンを輸出するにとどまった。北アメリカについては、それぞれ8.8万トン、2万トンであった。
 18世紀半ば、アメリカ植民地は1世紀にわたる開拓によって繁栄し、北アメリカからの木材輸入が急速に増大していった。ニューハンプシャやメイン、ノバスコシア、セント・ローレンスにある植民地は、イギリス船のマストの初期の供給地となる。それがアメリカ独立戦争(1775-83)によって供給が停止されると、イングランド造船所は恐慌をきたす。
 これらニューイングランドの植民地は、イングランド船主にとって船舶の供給地でもあった。それら輸入船は、航海条例では、イングランドで建造された船とみなされた。ニューイングランドではイングランドより安く建造することが出来た。1730年ころ、イングランド船の6隻に1隻はアメリカ建造であり、1774年には3隻に1隻となった。
 18世紀半ば、アメリカや西インド諸島との交易に従事する海運業が急激に発達する。イギリスの植民地として、1763年までにセントビンセント島、ドミニカ島、セント・ルシア島、トバコ島が、そして1775年までに北アメリカのジョージア、カロライナ、バージニア、そしてメリーランドが加わった。それら植民地がイギリス船の最大の顧客となり、18世紀半ば以降、イングランド海運業の約半分が大西洋横断航海に従事するようになる。
 西インド諸島向けの船は、イングランドからその産地はともかく大量の牛肉、豚肉、バター、アイルランドからチーズ、またおおむねハンブルクからワイン用大たるの板、オイルや砂糖用の小たるや大たるを運び、西インド諸島から砂糖や熱帯の木材を持ち帰った。世紀半ば以降になると、ラム酒がイングランドに大量に持ち込まれるようになる。
 1750年、イギリスのタバコの輸入額は5000万ポンドを越えていた。その4分の1は国内で吸われていたが、残りは再輸出に向けられていた。タバコの密輸が盛んに行われ、国内喫煙分の3分の1は税金が払われていなかった。そうしたことはスコットランドではなかった。アメリカ独立前、輸入品の5分の4は大陸に再輸出されていたが、それ以後は直接輸送されるようになった。
 タバコの葉は船積みに当たって圧搾されるが、積む船倉に余裕が出ると緩められた。大たるのホグスヘッドに詰める量が1660-1774年のあいだに2倍となると、タバコは固く梱包されて水のように重くなった。運賃率は1トン当たり4-5ポンドであった。また、船の安定性を保つため、1730年以後、鉄がバージニアやメリーランドから輸出されるようになったが、その運賃率は1トン当たりわずか10シリングであった。他の輸出品は米、ピッチとタール、そして綿花であった。当時、綿花は少量ながら、すでに重要な輸出品となっていた。
 イングランドの砂糖販売代理人は、植民地の栽培業者(プランター)が共有船主になるなかで、次第に数隻あるいは小船隊の船主として振る舞うようになった。例えば、ある裕福な代理人には、1753年21隻に持ち分があった。奴隷交易人は奴隷を売った後、砂糖をイングランドに持ち帰っていた。
 奴隷は西アフリカ海岸から、1713年以後、年間4万人から10万人、年間平均7万人が運ばれ、その多くが西インド諸島に売られたが、北アメリカに売られる数がかなり多くなっていった。例えば、カロライナのプランテーションの所有者は1738年2800人の奴隷を買い取っている。
▼東インド会社の変質とその終焉▼
 1750-52年のあいだに王立アフリカ会社は解散する。その後、イングランド商人の組織は西アフリカ海岸沿いの砦を、政府から補助金の援助を受けて維持している。1753年、レヴァント会社が独占していた小アジアやシリアとの交易が開放される。地中海交易は過去と同じように続いており、イングランド人の仲買人がアレッポ、スミルナ、そしてコンスタンチノープルにいた。船は、往航、復航とも、スペイン交易の中心地カディスに立ち寄っていた。
 カディスとの航海数は荷役が迅速となって、年間2航海から3航海に増えた。そして、海運の効率が改善されるにつれて、運賃率は下がっていった。カディス航路に張り付けられていた交易船が、ロンドンに入港する隻数は1751-68年において2倍になった。
 1763年の七年戦争処理を含むパリ条約は、イギリスにヨーロッパ諸国を圧倒する権益を付与した。それにより、フランスは18世紀半ばころまで保持してきた強力な地位を失うこととなった。インド支配を巡るフランスとの抗争に、イギリスが勝利したことで、イギリス東インド会社は変質する。この会社は、1764年にはベンガルのあからさまな支配者となり、大きな町は単なる交易拠点ではなくなった。
 18世紀半ば、東インドから輸入量は年間わずか8000トンであったが、そのなかで最も価格の高い貨物はシルクであった。貴金属は別として、このルートにおける輸出貨物は無いに等しく、そのため往航の運賃率は安かった。復航貨物の運賃率は1トン30-35ポンドであったが、シルク、キャラコ、そしてインディゴといった「優良」商品の運賃率は硝石、砂糖、そしてペッパーといった「嵩高」あるいは「荒物」商品より高く、その一般原則はその商品が負担しうる程度に応じて決まった。1760年中国茶の輸入額は250万ポンドであった。 
 東インド会社は、1765年ムガール皇帝からベンガルの徴税権を獲得して、ベンガルの支配者となる。それを受けて、1773年東インド会社を統括するベンガル総督職が創設され、東インド会社の業務は行政と交易に大きく分離される。1784年インド法の成立によりインド庁が新設されると、東インド会社の機能は縮小され、インドは次第に政府の直轄支配地となっていく。
 さらに、1793年特許更新では、東インド会社はインドにおける交易独占権の一部放棄を強要され、1813年にはインド交易は完全に開放されることとなる。ただ、中国との交易独占権は1833年まで維持され、会社は1874年に解散する。
 1667年、東インド会社はアジア域内交易を支配できないため、それをインドに住むイギリス人に開放する。それら私交易人はフリー・トレーダー、フリー・マーチャント、あるいはフリー・マリナーなどと呼ばれ、イギリスのアジア域内交易の主たる担い手となる。その出自は、当初東インド会社を退職した商館員や船員であったが、それにイギリスからきた商人も加わった。1760年代カルカッタには、私交易人が70人いたという。中国に阿片を持ち込んだのもは彼らであった。
 1694年、東インド会社の商館員に、一定額の私交易が公認される。東インド会社と取り引きしたり、また商館員の私交易を代理するためには、私交易人は誓約書や保証金を会社に入れて、ライセンスを受ける必要があった。そうした会社御用の私交易人は、エージェンシー・ハウスを組織していた。18世紀半ば会社公認の私交易人は56人であったという。彼らは交易にとどまらず、海運、金融、造船を営んだという。
 私交易人たちはアジア域内交易ばかりでなく、アジアとヨーロッパとの交易にも手を出す。そればかりでなく、東インド交易そのものの自由化を要求するまでになり、議会に働きかける。それを東インド会社も無視できなくなり、1793年特許更新の際、会社船の利用を認める。それは割引運賃による3000トンの貨物の輸送であった。その3000トンは標準的な300トン積みの帆船10隻分に相当する。それにもかかわらず、私交易人たちは積込量が少なく、また運賃が高いとして、外国船でもって蜜交易を行う。18世紀末には、カルカッタ(現在、コルカタ)からの輸出額は会社の250万ポンドに対して、私交易人は350万ポンドという、すでに本末転倒した扱い額に達していたという。
 東インド会社船は、毎年10分の1が入れ替わる兵士や政府の物品に加え、金銀塊、鉄、そして毛織物を持って来た。インドから、
カルカッタのフォート・ウィリアム砦
Elisha・Kirkall画、1735
大英図書館(ロンドン)蔵
シルクとともに綿製品、硝石、インディゴ、砂糖、そして米を持ち帰った。それらのほとんどはベンガル産であった。イギリスは、ベンガルのカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイ、そして1790年以後、ペナンを、主として戦略的な理由から防衛していた。フランスとの戦争の最中、喜望峰とセイロンをオランダから奪取している。しかし、東インドのペッパーはオランダのなわばりに置かれていた。
 東インド会社の商業上の利益は、そのほとんどが中国茶の交易からえられるようになった。中国茶は、イギリスから送られて来た毛織物、スズ、その他商品と、地方船あるいは現地船(いずれも会社船)がアジアで買い付けた綿花や阿片と交換することで入手していた。
 現地船のうち70-80隻がカルカッタ、また25隻ほどがボンベイから、運航されていた。それらはインドにあるチーク材で建造されており、1810年ボンベイで建造されたエール・オブ・バルカレス号は1406トンという大型船であった。これら現地船は毎年500万ポンドほどの商品を扱っていたとされる。
 イギリスから来て極東交易に従事する船は、主に東インド会社に所定の航海数を決めて用船に出そうとする、資本家の一団によって建造されていた。その運航ぶりは、その時代としては格式が高く、洗練されていた。マリン・インタレストとして知られる一団の船主たちは、東インド会社の株主でもあった。イングランドのカシ材が少なくなり、その供給不足になるに伴い、東インド会社は鉄の部分を増やした船やインド建造のチーク材船を使用するようになる。後者は18世紀末にかけて増加する。
 中国交易が確立した当初に従事していた船は、インド交易に使われていた船よりはるかに小型であったが、18世紀末には36-38門の大砲を装備し、また125人もの乗組員を引き連れており、建造に5万ポンドから7万ポンドかけられていた。1200トンの船もあり、それは東インド会社船よりもはるかに大きかった。それらの船は目的地で着くと、中国政府の都合から、広東沖にある黄埔という錨地に限って停泊することが許可された。
 インドと交易する船のサイズはフーグリ川の水深によって制約されていた。インド交易のうち、布地やシルクの交易に当たって800トンの船が使われ、乗組員100人、大砲26-32門であった。荒物―硝石、砂糖、そして米―については、500トンほどの船で間に合い、そうした船も大砲を12-20門積んでいた。臨時就航船は通常、小型船クラスに属していたが、それらを含め東インド会社の船隊は約100隻、合計9万トンで構成されており、超大型船と超小型船とがそれぞれ30隻含まれていた。
▼独立後、アメリカ船、イギリス交易に食い込む▼
 イギリス政府は、北部アメリカ植民地を輸出市場と原料供給地として緊縛しようとして、その商工業の発展を抑圧していた。イギリス政府とアメリカの植民者は税金や交易、自治をめぐる対立してきたが、1775年そのあいだで戦端が開かれ、翌年アメリカ13州が独立を宣言する。この独立戦争に、フランスとスペインはアメリカの側に立って参戦してくる。
 1783年には平和となるが、イギリスは1815年までフランスと戦争を続ける。このナポレオン戦争中の争いの多くは、1805年のトラファルガー海戦(イギリス27隻に対してフランス18隻、スペイン15隻)など海戦であった。それらに勝利したイギリスは、それ以後、第1次世界大戦がはじまる1914年まで、世界の七つの海を制覇することとなる。
 アメリカ独立により、イギリスはアメリカ植民地を喪失することとなったが、海運業は衰退することなく、その船腹は少なくとも2倍となる。1776年のトン数は608,000トンから1,125,600トンのあいだと推定されている(後者には沿岸船が含まれている)。1786年の航海条例は15トン以上の船はすべて登録しなければならないとした。それに伴う1792年の登録トン数は1,187,000トンとなっていた。1815年には約2,600,000トンにまで増加する。
 アメリカ独立戦争などによる連隊や軍用品の輸送は海運業に需要をもたらした。100人の兵隊を運ぶのに200トンの船が使われた。海軍省は、北アメリカに連隊や軍用品を輸送するため、年間に約300隻を用船していた。1776-83年にかけて年間の輸送費用は50万ポンドから100万ポンドまでかかり、8万トンの船腹が雇われた。それにより公開市場の運賃は上がった。船のほとんどがロンドンで雇われた。海軍省は、敵の作戦で被った損害は補償すると船主に約束していたが、多くの船主が破産している。それは海軍省が運賃率を固定したことに原因があった。
 アメリカ独立戦争中の船の損害は、隻数としては、前世紀、ウィリアム3世がかかわった戦争より少なかった。それでも、3386隻のイギリス商船が拿捕され、総隻数の3分の1以上が失われた。戦争がはじまるとオランダ船のほとんどが雇い切られ、それが終わるころの船腹不足は、平和にならなければ、輸送が途絶するところまできていたとされる。
 アメリカの独立戦争が終わると、アメリカ船はイギリスと直接、交易しはじめる。アメリカ産品はアメリカ船に積めばトン税がなくなるので、アメリカ船は積まれるようになった。アメリカのタバコや木材は無税となる。アメリカ産品の特恵待遇に加え、フランスとの戦争でバルト海との交易が困難になると、あらゆる面でアメリカ船への指向が強まる。
 アメリカ船は特にタバコを直接、ヨーロッパや極東と交易しはじめる。それにより、グラスゴーのタバコの輸入額は1775年の4500万ポンドから1777年には30万ポンドにまで減少し、国際タバコ交易地としての地位を永久に失う。1801-1811年にかけ、ヨーロッパからイギリスへの木材総輸入量は16万ロードから13万ロードまで減少し、アメリカからの輸入は3000ロードから15万ロードに増加する。
 当時、イギリスは北アメリカ産タバコ輸出量の5分の2、米やインディゴの5分の1を受け入れていた。1790年以後、木炭のあくや真珠灰が米同様、値打ち品となり、また小麦や小麦粉も交易されるようになる。主だった船積み品となったのは、毛皮、トウモロコシ、なまこ型あるいは棒状の鉄、タール、テレピン油、そして魚油、さらに大量の木材、主としてたる板やふた板であった。
 他方、イギリスやアイルランドからアメリカへの輸出は、その約90パーセントが現地で売られる工業製品―織物と衣服、靴、陶器、鉄器、板ガラス、塗料、白鉛、書籍、銃器、ビール、塩、石炭、くぎ、そしてチーズ―であった。アメリカはその独立にかかわりなく、イギリス製品にとって最も重要な市場のままであった。
 それら双方向の交易額は1783年から1801年、さらに1801年から1807年にかけも増加するが、その四半世紀におけるイギリスの従来からの植民地への輸出は、年間約500万ポンドであった。それは輸入額の3倍以上であった。
▼西インドとの交易の増加、奴隷交易の廃止▼
 この時期、イギリスの西インド諸島との交易は、植民地交易のなかでいまなお最も重要であった。西インド諸島交易は他にくらべ値打ちがあり、イギリスにおいて砂糖に多額の金が費消されるようになっていた。
 西インド諸島との定期交易船は、それ以前の2倍ほど到着するようになるが、その航海は年にわずか1回であった。定期交易船はイギリスを秋に離れ、翌年の5月あるいは6月に収穫された砂糖を積み取り、それら貨物をバルト海の港が凍る前に再輸出するべく、その時期をみて母国に帰着していた。
 1774年、234隻が黒砂糖あるいは未精製の砂糖76,600樽、そしてラム酒12,257樽を西インド諸島から輸送し、イギリスの港に入っている。カリブ海に向かうイギリス船の合計トン数は、アジアと交易する船よりはるかに多く、その5倍、またアフリカの28倍、またアメリカと交易するイギリス船および外国船を合わせたものより9倍もあった。西インド交易船がスペインや植民地向けの商品を積み出すことが認められるようになると、イギリス領地の産物ばかりでなく、スペイン領地の産物を積んで帰るようになった。
 西インド諸島の人々はイングランドにコーヒーを持ち込むことに成功する。1814年、コーヒーの輸入額5100ポンドのうち(4400ポンドが西インド諸島産であり、ジャマイカが最大の産地であった)、10分の9が再輸出された。その他の西インド諸島の輸出品であるインディゴ、染料木、ピーマン、そしてジンジャーに加え、綿花がいまでは重要な交易品となった。1807年、西インド諸島産は、イギリスの綿花輸入額7400ポンドのうちわずか500ポンドにすぎなかったが、特に品質が良かった。
 イギリスでは1780年代から奴隷交易廃止の運動が強まる。リバプールやブリストルの商人のたび重なる反対にもかかわらず、1807年廃止法が議決され、その廃止に向かう。イングランド人は、18世紀大西洋を横断した奴隷600万人のうち、250万人も運んでいた。特に、廃止直前の四半世紀の輸送数は、イギリスがそれまで輸送してきたすべての奴隷の3分の1に当たるという、空前の規模となっていた。
 イングランドの奴隷輸送は事実上リバプールの独占となり、奴隷制廃止までの15年間、リバプールから毎年100隻の奴隷船が出帆していった。1798年がピーク


奴隷船ブルックス号の
積付け見込み図

で149隻、合計トン数5万トンのリバプール船が大西洋を横断し、52,227人の奴隷を輸送している。それらの船は従来、平均約160トンであったが、いまでは300-500トンとなっていた。
 奴隷交易は間違いなく利益が上がり、当時、ロンドンやブリストルの富と同様、リバプールのほとんどの富を生み出したとはいえ、著名な事業に数えられるほどの利益はなかった。リバプールのエンタープライズ号は、1803-04年非常に短期間の航海に成功し、24,430ポンドの利益を稼いだとされるが、それは412人の奴隷の販売価格であった。それに対して、費用は17,045ポントであり、投資に対する見返りは40パーセント台となる。
 イングランド最後の奴隷船キッティズ・アメリア号が、1807年7月27日マージー川を離れている。奴隷交易の廃止は、1815年のパリ平和条約にも組み込まれる。イギリスは、その後75年間にわ
たり他の国々の奴隷輸送に反対するキャンペーンを指導する。奴隷交易は1849年以後急速に減少し、奴隷は不足の度を強めるが、奴隷制がなくなったわけではなかった。
 当時の海外との通信の方法は、船長の郵便かばんを使うのが、慣行であった。1661年ハルウィッチから郵便船(Postal Packet Ship)のサービスがはじまる。1689年からコーンウォルのファルマスからのサービスに代わる。
 郵便船の駅はロンドン、ドーバー、そしてウェールズのホリーヘッドやミルフォードに置かれた。システムを拡大しようとして、郵便局は1799年船便局を開設し、そして1814年法は郵便局に軍艦、商船の別なく使用することを許可している。
ファルマスの郵便船
▼商人と船主の分離、貨物上乗人、雇われ船長▼
 イギリスの海上交易は18世紀半ばまでに顕著な発展を遂げ、海上危険は強力な王立海軍の展開により大いに減少した。そして、海上交易を行う商人や船主の数も多くなり、そのための資金調達も容易になった。また、世界的規模で、植民地が建設され、海外公館が設置されたことで、現地折衝に煩わされることも減った。
 イングランドの特許会社の多くは、1689年の「権利章典」によって特権を失っていたが、海上交易の分野ではなお維持されていた。東インド会社は、18世紀末にかけて排他的な特権を保持していたが、長期にわってもぐり商人に悩まされ、その特権は事実上崩壊しつつあった。
 1670年設立のハドソン湾会社は交易を続け、自社船を所有していたが、すでに久しく法的独占は失われていた。1750年以後、王立アフリカ会社も極めて緩やかな組織になっていた。ロシア会社は白海のアルハンゲリスクとの交易のみに利害があった。レヴァント会社はフランス人から激しい競争を仕掛けられ、政府補助を受けてやっと維持されていた。
 いまや、イギリスの海上交易は航海のたびごとに組合を結成するといった冒険企業も時代遅れとなり、1806年までになくなった。それに代わって、海上交易を固定した出資者によって事業を継続していく共同経営組織が基本になった。しかも、商品取引と商品輸送が別の事業体で行われることとなった。
 フェイル氏は、いままで同一人であることが多かった商人と船主とが分離するようになったことについて、次のようにとまとめている。「こうした発展に件なって、商人の利害と船主の利害とが次第に分離して行く傾向が生じた。18世紀初期においてさえ、多くの船舶は商人のみならず、現役または退役の船長とか、船舶管理人または各商港の代理者とかいつた人々から構成される組合によって、投機の対象として建造された。
 かような組合は、しばしば、自己の船舶のために積荷を購入し、かつその商品を取引して、自己の利益を収得した。けれども、他方また、彼等は有利な商品取引の見付からないときには、その所有船に運賃積の貨物を積み込み、他人運送[それに対して、自らの船で自らの貨物を輸送する場合、自己運送という]の報酬によって、自己の利益を収める場合もしばしばであった。
 海上貿易量が増大するにしたがつて、こうした船腹利用の方法は次第に有利となり、これまでのように船主が商人として貿易取引をする投機の仕方はむしろ例外となり、ここに運送業務そのものが通商活動のうちの1つの独立・専門の部門[交易業に対する海運業]として登場することになった。
 ある商社のメンバーが、自分一個の資格において、自分の所属する商会の取扱商品を運ぶために、使役される船舶の持分所有者となるという場合もままあつたけれども、たとえそうした場合にしても商品の所有に関する組合と船舶の所有に関する組合とは存在が別個であり、利害関係も別個であつた。それらは、ただ単に、傭船契約書または船荷証券という契約関係によって関連を有するにすぎなかった」(フェイル前同、p.218)。
 1794年の運輸省の設置は、交易業界と海運業界の分離に拍車をかけた。1802年には、全国船主協会が設立される。その会員は純然たる船主業を営むものに限られていた。主たる会員がロンドンだけであったので、その協会の
1655年12月の船荷証券
国立公文書館(ロンドン)蔵
影響力は極めて部分的であった。他の船主クラブが北東海岸にみられたが、それらは今日にいう扶助補償団体の前身であった。
 さらに、商人と船主との分離のもとで、「もはや、商人が市場の探求・販売の実現のためにみずから自分の商品とともに船に乗って旅することは、一般の慣習でなくなった。事実、いまや、商社の手で営まれる取引の量と範囲との増大は、こうした仕方をしばしば不可能ならしめた」。しかし、往航貨物の販売ならびに復航貨物の購入における困難は残った。
 それに対処するため、貨物所有者は「商品の販売および購入に関する一切の兼務をひとりで担当する貨物上乗人を本船に乗組ますのが慣例であった。貨物上乗人は、貨物所有者の代理人として傭船契約の定むるところにしたがい、本船の次の陸揚港を指示したり、或いは、返り荷が積取れる港へ基船航海するよう、船長に要請したりする権限をもっていた」。しかし、すべての船舶が貨物上乗人を乗せていたわけでなく、永年にわたった外国航路に従事している船長に兼務させたとまとめている(フェイル前同、p.219)。
 19世紀に入ると遠距離交易にあっては、船長が自分の船に利害関係を持つことは次第に当たり前ではなくなり、彼は1人の俸給使用人となりつつあった。それでも、大きな責任を課せられ、貨物を探し、契約を果たす必要があった。船長たちは、「税関近くのサムス」で、次航海の荷主や旅客と会っていた。ロイズ・コーヒー・ハウスは船長お気に入りの溜まり場で、「船長の部屋」が設けられていた。現在のロイズにも同じ名前の部屋がある。
▼18世紀前半、海運業や船員界の転換期▼
 18世紀前半は、イギリスの海運業や船員界にとって、大きな転換期であった。
 海運業では、株式会社という事業組織は普及しなかった。それは、通常、船舶を共有する方式で行われた。船舶所有の持ち分は8、16、32、あるいは64に分割され、投資家はいくつでもシェアを持つことができた。遠洋航海に用いる大型船は多額の資金が必要であったので、その所有権は商人仲間や裕福な人々と提携している商人の手に置かれていた。
 当時のロンドンの企業家にあっては、船舶共有のシェアを持つことはあたり前であった。彼らは投資家としていくつのシェアを持つことができた。1686年、例外的に巨大な海運投資家であったヘンリー・ジョンソン卿は、ほとんどの東インド会社船を含む38隻の共有船主となっており、彼の合計保有持ち分は32分の88であった。船長は、小型船においては大きな、大型船では小さな持ち分の共有船主である場合が多かった。
 オランダ船の船体は商船の形状として非常に適していたので、イングランドの造船所もその形状を徐々に商船に採用するようになり、乗組員を減らすことに役立てられた。それによって、乗組員1人当たりの輸送トン数は、1686年から1736年にかけ9トンから10トンあるいは11トン以上に増加した。北方の海域に入ろうとする船にあっては、1人当たりの船の容積は20トンが普通になった。
 1700年までに、ロンドンの王立取引所やブリストルのトルジー(Tolsey、集会所を指す)が海運サービスに適切な市場を提供してきた。船舶仲買人は、他の仲買人や仲介人とは区別されるようになってきた。船の売買はロンドンのシップ・アンド・カッスルという場所で実施されていた。ロンドンの多くの商業取引は1日に3時間だけ開かれる王立取引所や、王立取引所の背後の通りで行われた。サミュエル・ピープスは用船や保険のため、しばしば王立取引所に出掛けている。
 旧取引所は1666年のロンドン大火で焼け落ちる。その建物はすぐには再建されず、取引業務は居酒屋やコーヒー・ハウスなどで直ちにはじめられた。その結果、取引所そのものの重要さが薄れ、個別の業務にしたがって集会所が設けられるようになった。イングランドでは、内乱後、新聞に広告を出すことが出来るようになった。
 17世紀半ば、ロンドンに多くのコーヒー・ハウスが開店するが、特定のコーヒー・ハウスが海運業界の顔になっていた。エルサレム・コーヒー・ハウスは東インド商人の溜まり場であった。ジャマイカ・コーヒー・ハウスは西インド諸島商人や船長の集会所であった。そのなかでも、バージニア・アンド・メリーランド・ハウスは、貨物輸送約款の標準書式を提供して、商船による貨物の輸送を保障してきた。
 1744年、このコーヒー・ハウスは輸送貨物のほとんどが2つの地域から来ていたところから、バージニア・アンド・ボルチックという名前に変える。この組織は、1810年スレッドニードル通りのアントワープ・タバーンという大きな店に移動し、1883年にはボルチック商業海運取引所、通称ボルチック取引所と改名する。
ロイズ・コーヒー・
ハウス(1)
ロイズ・コーヒー・ハウス(2)
 エドワード・ロイド(1648?-1713)は、1688年頃コーヒー・ハウスを開業して、正確な海事情報の収集と周知に努める。1696年にはロイズ・ニュースを発行するが、中止に追い込まれる。このロイズ・コーヒー・ハウスは海上交易関係者の根城となり、船舶と貨物の保険を手配するセンターとなる。1720年代になると、予想損害額が保険によってカバーされるようになり、また保険料率は安定し、運営が良いことを示す水準である、5パーセントにまで低下していった。その料率は1世紀前の通常レートの半分であった。
 ロイズ・コーヒー・ハウスは、1726年ロイズ・リストを創刊する。そして、ロイズ・コーヒー・ハウスに出入りする純粋の保険業者は、交易兼業の保険業者と利害が一致しないことから、1760年自らが保険対象とする船舶名とその船級を記載した、船名録(ロイズ・レジスター)を刊行することとなる。さらに、1769年になると、それら革新保険業者79人が分離、独立して、新ロイズを設立する。このロイズは1871年法人格が認められ、現在に至る。なお、旧ロイズは1785年消滅する。
 時代は大きく下るが、1810年ロイズには1400-1500人の加入者がいたが、その3分の2が保険引受人(アンダーライター)であった。1810年、ロンドンにおける損害補償額は1億ポンドを超えており、ロイズは世界最大の海上保険センターとなる。リバプールでは、1802年にある海上保険団体が設立され、それ以外に私的な保険が他の港でも実施されていた。
 なお、新ロイズが刊行する船名録に不満を持つ商人や船主が、1799年別の船名録を刊行するにいたる。1834年、それらがようやく合併して、ロイズ(ロイズ保険業者組合)とは別組織のロイズ船級協会が設立され、現在に至る。
▼18世紀末、6家族のうち1家族が海に依存▼
 18世紀末、イギリスの海運業は船員数が増加したこともあって、現代よりはるかに国民的な産業であった。当時の人口1200万人のうち、ナポレオン戦争中、王立海軍には126,000人の船員と海兵がおり、145,000人の商船船員が登録されていた。それ以外に、漁船員、水辺船員、そして非登録船で働く船員がいた。イギリスでは、6家族のうち1家族が直接、海に依存して生活してことになる。
 ナポレオン戦争開戦時、5500隻のイギリス船が外国交易に従事していた(なお、アジアの現地船を除く)。さらに、12,000隻が域外沿岸(アイルランドやイギリス海峡諸島、マン島をいう)やイギリス沿岸の輸送、内陸漁業、そして西インド諸島と北アメリカとの地域輸送に従事していた。
 スコットランドの主要な港から692隻・52,225トンの船が1774年外国交易に従事し、また隻数は同じであるがトン数が半分の船がスコットランドにとって交易の相手になりえない、アイルランドを含む沿岸交易に従事していた。
 ロンドンは他に比べはるかに重要な交易センターであった。14,000隻が毎年出港しているが、そのうち10,000隻が沿岸交易、そして3700隻が外国交易に従事していた。後者のうち2200隻がイギリス船であった。
 ロンドンに入港する船のうち、400隻以上が西インド交易船であり、1年に12万ホグスヘッドの砂糖を持ち込んでいた。また、400隻以上が材木船であり、その250隻が川面に貨物を卸していた。約300隻が石炭船であり、1ダースほどのバージに取り巻かれていた。50隻が東インド会社船であった。こうした船に加え、3500隻のバージ、ライター、ホイ、パント(方形平底船)、その他の小船がいた。
 1776年、イギリス船の40パーセントが植民地建造船であり、それに外国建造船を加えれば、その年に登録された船のうちイギリス建造船は半分以下となる。アメリカ植民地が失われると、多くのカナダ船が売りに出されるが、材木はカナダ、西インド諸島、アフリカ、そしてインドからの輸入が増加した。同時に、鉄の使用が増加し、材木の保護に役に立つこととなった。
 北東海岸は、いまではイギリスの新造船を40パーセント建造していた。その多くは石炭交易向けであった。そして、北東海岸は合計12万トンの船隊と労働者6000人を雇用する船隊を抱えていた。ロンドン、南海岸、そして北西海岸は、それぞれ新造船を約15パーセント建造していた。また、ブリストル海峡とウェールズを合わせた地方と東アングリア地方は、それぞれ約7.5パーセント建造していた。
 1790年、600隻、約5万トンの船腹が新造されているが、200トンを超える船はわずか75隻にとどまった。世紀の変わり目、イギリス船は14,363隻であったが、その平均トン数はいまだわずか113トンであった。
▼19世紀初頭におけるイギリス船腹の就航先▼
 フランス革命戦争とナポレオン戦争は22年に及んだが、開始前年1792年のイギリスの登簿トン数は127万トン、終結翌年の1816年には242万トンに増加した。1816-20年の期間にイギリスから出帆したイギリス船のトン数は、1788-92年の期間にくらべ約42パーセントの増加となった。
 イギリスから出帆したイギリス船のトン数は、18世紀末から19世紀初頭にかけて、アメリカ独立戦争前90万トンから英仏戦争再開直前の5年間の平均で170万トンに増大した。1802-11年の期間、イギリスから出帆した船のうち、イギリス船はトン数で68.4パーセント、載貨トン数で77.8パーセントであった。1788年、イギリス船のうち500トン以上はわずか150隻で、そのほとんどが東インド会社船であった。18世紀末でさえ、150トンを適当と考えられてもおらず、350トンは異常な大型船とみなされた。
 フェイル氏の著書には、ナポレオン戦争前後の1792年と1816年における外国交易に従事するイギリス船の出入港隻数とその平均トン数が表示されている。その出港隻数は13,891隻から17,383隻と25パーセント増加するものの、平均トン数は117トン、116トンと同じである。なお、外国交易のなかにはすでにみた域外沿岸の航路が含まれ、それに従事する船は年間数次にわたって出入港した。それと同じような近海航路として、オランダ・フランドル・フランスとの航路もあった。
 1816年の出港隻数17,383隻(1隻当たりの平均トン数116トン、以下同じ)についてみると、まず近海航路の域外沿岸は9,976隻(78トン)、そしてオランダやフランドル、フランスは2,512隻(82トン)であり、それらは全体の72パーセントに当たる。それ以外に、イギリス海運にとって見落とせないのが、主としてニューカッスルやサンダーランド、プライスからロンドン向かう石炭輸送船である。平均200トン強の船が約500隻、年に8-9航海した。この石炭輸送船は外国交易船に何ら遜色ない存在である。
 積極的な外国航路で隻数の多いのは、ロシア・スカンジナヴィア・バルト海・ドイツは1,721隻(148トン)、西インド諸島936隻(165トン)、北アメリカ領772隻(260トン)、スペイン・ポルトガル・それらの大西洋諸島545隻(120トン)である。なお、1771年西インド諸島向けの奴隷船は190隻を数えたという。また、1808年西インド諸島向けのファルマスの郵便船は39隻を数え、年間2000-3000人の旅客を運んでいた。
 それ以外では、地中海交易の重要性が失われていたことから、イタリア・トルコ・アフリカ・レヴァントは合わせて316隻(155トン)にとどまる。それに反して重要性が強まっているアジアには、164隻(657トン)であった。1801年、東インド会社船の船隊は122隻で構成されていた。アジアにおける隻数の少なさと対照的にトン数が巨大となっていた。
 最後に、グリーランドとその南方で行われていた捕鯨に向けて、164隻(320トン)が出港していた。当時、捕鯨は儲けの大きい事業となっており、大型の捕鯨船が用いられた。
▼16-18世紀のイングランドのロシアとの交易▼
 イギリス船腹の19世紀初頭の配船先として、最も多いのは北ヨーロッパである。そのうち、イングランドのサンクト・ペテルブルクとの交易について、玉木俊明著『北方ヨーロッパの商業と経済 1550-1815年』(知泉書館、2008)に示されている資料から補足する。なお、同時期における西ヨーロッパのバルト海交易については、【補遺】『エーアソン海峡通行税台帳』からみたバルト海交をみられたい。
 16世紀半ばから17世紀半ばまでは、イングランドがエーアソン海峡を通過した東航船・西航船の合計10年値は800-2000隻ほどであった。それはオランダ船の10分の1に過ぎなかった。しかし、その後、貨物積載の西航船に限るが、イングランド船のオランダ船に対する比率は、17世紀後半には4分の1に高まり、18世紀半ば2分の1、そして同後半には3分の2にまで高まって、19世紀直前の1771-80年にはイングランド船8,402隻、オランダ船11,045隻となる。
 イングランドのロシアとの交易は、16世紀後半から白海のアルハンゲリスクを交易港としてきたが、17世紀にオランダ船が割り込んでくると、その先駆的地位を失う。しかし、1703年サンクト・ペテルルブルグがピョートル大帝(在位1682-1725)によって建設されると、イングランドはその庇護を受けて、この新港にのめりこむこととなる。それ以前のロシアのバルト海側の港はナルヴァであったが、イングランド西航船の出港隻数は多いときは300隻、少ないときは10隻にも満たないという不安定さであった。
 イングランド西航船はサンクト・ペテルルブルグが開港されると、オランダ船を上回る勢いで配船されるようになり、18世紀20年代は547隻ほどであったが、半ばには1,541隻と一挙に増え、1771-80年には2,524隻までになる。しかも、イングランド西航船のうちサンクト・ペテルルブルグを出港地とする比率は、15から35パーセントまでに特化していった。それに対して、同時期、オランダ船はサンクト・ペテルルブルグを出港地するのは955隻にとどまり、リーガを2,662隻、ダンツィヒを1,340隻、ケーニヒスベルグを1,274隻と分散させていた。
 イングランドはバルト海に向けて、1700年交易額の順で、毛織物57、タバコ19、金属6、塩2、その他(多くは砂糖)18パーセントを輸出していた。サンクト・ペテルルブルグ開港後、同港に向けて、毛織物輸出を18世紀20年代6万ピース(反)から、半ばには19万ピース、1771-80年には26万ピースと、一挙に増やした。その量は、イングランドのバルト海向けの毛織物の3分の1から3分の2に及ぶ大きさであった。また、植民地物産も、324、883、726万ポント(現代の1ポンド=453グラム)と増加している。それが総量に占める比率は10-20パーセントほどであった。
 他方、イングランドはバルト海から、1700年交易額の順で、鉄27、亜麻20、麻14、灰汁8、ピッチ・タール4、その他27パーセント(木材など)を輸入していた。開港後、サンクト・ペテルルブルグからの輸入量を、上記の年代について、鉄は3、54、169万シップボンド(1トン=3シップボンド相当とされる)と増加させる、その量は、18世紀前半まではバルト海の鉄大国スウェーデンからの輸入量に及ばなかったが、後半になるとそれを上回る規模となる。また、亜麻、麻、繊維製品、そして木材(ロシアは、幅広板ではなく、大マストを供給する)もその量を増加させ、開港前のそれら貨物の積出港であったケーニヒスベルグやリーガ、ダンツィヒを匹敵あるいは上回る量となる。
 こうしたイングランドのロシア(サンクト・ペテルルブルグ)との交易は、その輸入品が船舶用資材となったことから、玉木俊明氏は「イギリスの「帝国」形成に必要な造船業・海運業の強化のために欠くことができないものとなり……イギリス帝国存亡の鍵となっていった」。また、サンクト・ペテルルブルグがイングランドを最大の交易相手国としたことから、「サンクト・ペテルブルクの影響力は目覚ましく拡大……しても、ロシアの国民経済形成は、まだ先のことであった。しかしまたそれは、イギリス帝国の経済圏にサンクト・ペテルブルクを通してロシアが飲み込まれていく過程であった」などという(同著、p.265)。
▼若干のまとめ▼
 イギリスの中世から近世にいたる海上交易の歴史は、ヨーロッパの先発国から学習しながら、先発国の水準に到達し、その結果としてヨーロッパを含む世界の基準となる歴史であったといえる。われわれは、イギリスが世界の基準であったことに幻惑され、それ以前の歴史を見落としてきたきらいがある。
 中世から近世になるまで、イギリスは後発国として奢侈品から雑多な日用品を輸入してきた。それでありながら、基本衣料である毛織物の原料である羊毛を、イギリスはヨーロッパ諸国に供給してきた。それは、イギリスが海上交易の面で有効な対抗手段を持っていたことを意味した。それにもかかわらず、イギリスの海上交易は長期にわたって、羊毛を買い付けようとするフランドルやイタリアなどの商人によって壟断されてきた。そこで、イギリス人も自らの手でもって、羊毛を売り込むようになる。
 イギリスは、中世から近世にかけて、羊毛の単なる輸出する国から、それを自ら加工して毛織物を輸出する国に転換する。その輸出は伝統的な毛織物輸出国と競合することとなった。それを輸出するには、自前で船をしつらえて売り込み先に出掛けることを迫られた。そのもとで、冒険商人と呼ばれる商人船主が生まれることとなった。それはイギリスの海上交易史のうえで大きな転換であった。
 イギリスは大航海時代の後発者として、先発国の蓄積を最大限に利用しながら、海上覇権を築こうとする。これも当然、先発国から反発を招く。その反発を、16世紀末から150年ほどかけて、王室と民間とが一体となって私掠、戦争、そして交易を展開することで、打ち砕く。
 このイギリスの対外進出の熱狂に通底したものは、反カトリックあるいはプロテストという時代精神であった。
 近世イギリス人の時代精神の内容は何か。彼らの「貿易は、戦争の動機であると同様に、探検の動機でもあったが、これら3つのすべてが……偉大な行為の中で……ロマンスと金儲け、向こう見ずの冒険的勇気と利潤の配当金とが、人びとの心情の中で、固く結合しあっていた」のである(トレヴェリアン2巻、p.78)。
 それは具体的には、「新しい毛織物工業のはけ口を発見するために、イングランドの冒険商人組合は、15世紀初頭以来ヨーロッパにおいて精力的に探索しつつあったが、それには海や陸で常時、流血を伴うことが稀れではなかった。当時、海賊行為はほとんど非難されないくらい一般化していたし、貿易上の特権もしはしば武力で否認されたり、獲得されたような時代であったからである。エリザベスのもとで、彼らはアフリカ、アジア、アメリカにおける新市場を求めて、潮路はるけく遠征していった」(トレヴェリアン2巻、p.77)。
 イギリス人は近世、先発国のスペインやオランダをけ落とし、フランスを制圧しながら構築した海上交易の世界地図あるいは交易構造は何であったか。それは、先発したポルトガルやスペインの植民地交易に、オランダの中継交易を接ぎ木したものであった。それは、アメリカ大陸のプランテーションによる砂糖やタバコの生産とその交易、その生産を支えたニグロ奴隷交易、東インド会社によるアジア交易などを軸として展開された。
 そこにはイギリスの独自性は認められない。イギリスの海上交易に独自性が認められるようになるのは、18世紀半ばからの産業革命を経て、資本制的工業が際限なく生産してくる商品を、世界のあらゆる国々や地域に売り込むことが、イギリスの政治経済にとって死活問題となったときからである。近世までの買い付ける交易から、近代の売り付ける交易(あるいは工業型交易)への転換である。
 その工業的基盤は近世までに農村工業としての毛織物工業によって形づけられていた。それが先発国との決定的な違いであった。「ステュアート時代の末には、イングランドは世界における最大の工業・貿易国であり、ロンドンは世界最大の商業中心地としてアムステルダムを凌駕した。オリエント、地中海、アメリカ植民地との貿易が栄えたが、その基礎は新時代の大きな大洋航行船で世界の反対側にまで運ぶことのできるイングランドの織物製品を売ることにあった。
 イングランドの商業は、アメリカや他のどこででも、主としてイングランド製品の販売から成り立つていた。他の先駆となった海洋国家と比較した場合のイングランドの強みは、この点にあった。ヴェネツィアは、ヨーロッパの終着点に位置して、全ヨーロッパとアジアの市場との間の貿易の運送業者であった。スペインは貴金属の略奪、貢物、採鉱によって暮しをたてた。オランダですらその狭い領土では製品と人口の十分な後背地を欠いていた」(トレヴェリアン2巻、p.173)。
(2008/09/30記、2008/11/10、2013/08/27補記)

ホームページへ

目次に戻る

前ページへ
inserted by FC2 system