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 「地理上の発見」によって、ヨーロッパの海商圏は地中海や北海から、大西洋そして太平洋
へ転換する。その先発者はポルトガル、スペインであったが、封建的な消費国にとどまり、資
本主義の発達が早かった最後の海商国オランダ、次いで世界の工業国となったイギリスが、
世界市場を大きく支配するようになる。地球的な規模で海商が行われる過程は、「アメリカにお
ける金銀産地の発見、原住民の絶滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪の開
始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらが資本主義的生産時代の暁光」(マルク
ス)と特徴づけられるものであった。

1 東方物産の直接取引を
★金銀・香料への渇望★
 15−16世紀は「地理上の発見」の時代、冒険と探険の時代あるいは大航海時代と呼ば
れ、夢とロマンをかきたてる。特に、日本人はそうした決定的な歴史を持たないだけに、心をゆ
すぶられる(シルク・ロードがもてはやされるのも、その一環である)。それが、世界史に新しい
時代を切り拓くことになったことは、いくら評価して余りあるが、その動機、その経過、その結果
はすさまじいものがある。
 すでにのべたように、ヨーロッパ諸国には十字軍以来、キリスト教徒の聖地や土地をイスラ
ム教徒から回復し、異教徒を改宗させて新しい領土を拡張しようとする、宗教がらみの政治的
な運動があった。それには、東方の物産のある土地に行って取引し、さらにそれを独占して大
きな富を獲得したいという商人や支配層の欲望とが一体となっていた。その最たるものが金と
香辛料であった。それを東地中海諸国やイタリアを経由せずに、その産地と直接取引したいと
いう意欲ははかりしれないものがあった。たとえば、ジェノバの商人マルコ・ポーロ(1254−1
324年)の東方見聞録もそのあらわれであった。
 中世、現在のスペイン、ポルトガルは国土の大半をアラブ人に占領され、長期にわたって国
土回復<レコンキスタ>運動をつづけていた。13世紀中頃、アラブ支配を崩壊させる。この熱
烈なキリスト教徒が、次に目指したものは何か。それは、アフリカのエチオピアには聖ヨハネの
盃をいただくキリスト教国(プレスター・ジョンの国)があると考えられていたので、それと協力し
てアラブをたたくことであった。他方、14世紀、東地中海諸国はオスマン・トルコに支配された
ため、東方物産の海陸通商路は危険と不安にさらされ、その供給も安定を欠き、その価格も
騰貴しがちであった。なかでも、イタリアの後塵を拝してきた西地中海諸国は、新ルートを自ら
開拓せざるをえなくなった。こうした新たな国土回復と東方物産の入手という要求が、地中海
海商の枠を破ぶることになる。
★インド航路の発見★
 ポルトガルの数代国王、なかでもエンリケ航海王子(1394−1460年)は、体が弱く、船酔
いするので、乗船しない航海王であったが、ベネチアに押しまくられていたジェノバやピサなど
の、一旗上げたい航海者、造船技師、地理天文学者を集め、航海学校を建て(伝記作家がそ
う持ち上げたとされる)、数かずの探険航海を組織した。それがまず目指したのは、黄金や象
牙を産出するガーナ、ギニアであった。1431年アゾレス諸島を探険し、1433年ヨーロッパ人
にとってその先はないとされていたボジャドル岬を回ることに成功する。1445年ヴェルデ岬を
越えて、海岸線の探険が進むと、黄金、象牙、そして奴隷の貿易がたちまち盛んとなった。14
81年ジョアン2世(在位1481−95年)が即位する頃には、インド航路の発見が目標となり、1
488年バルトロメ・ディアス(1450?−1500年)が喜望峰にたどり着く。
1497年7月、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469?−1524年)は国王との最後の会見を終え、礼拝堂
で成功を祈願して、賑々しくリスボンを出帆する。ガマは、旗艦サン・ガブリエル号250トンに乗
り、弟パウロがサン・ラファエル号100トンを指揮していた。その他、バリオ号(カラベル型)10
0トンと食糧補給船400トンを率いていた。乗組員は全部で170人であり、そのなかには囚人
も含まれていた(危険がわかっていたので、そうした連中を加えていた。他の遠征もほぼ同
じ)。乗組員が壊血病で苦しみ始めたが、96日目になってセント・ヘレナ湾に入って上陸でき
る。そこで、健康を回復させ、プッシュマンやホッテントットをからかった後、同年11月喜望峰
を回る。そこで、補給船を壊して北上するが、乗組員は壊血病で死に始める。モザンビークや
モンバサでは食糧補給ができたものの、地元民とトラブルを起し、殺傷の報復をする。マリンデ
ィでは友好に努め、アラブ人の水先案内人を手に入れ、そのおかげで23日でインド洋を横断
する。1498年5月カリカット(現在のコジコーデ)に到着し、長年の夢が実現する。
ガマが持ってきた贈物や商品はみすぼらしいもので、国王に相手にされなかったが、貴族を人
質に取ったりして、ようやく貿易協定を結ぶ。1498年8月出帆、モガディシオに着くまでに3か
月もかかり乗組員30人が死ぬ。途中、要員不足のため、サン・ラファエル号を破却する。149
9年7月リスボンに、ベリア号、少し遅れてサン・ガブリエル号も帰着した。その時、壊血病で乗
組員は3分の1に減っていた。ガマも乗っていなかった。瀕死の弟を救うため、快速のカラベル
を雇って連れ戻そうと、ヴェルデ岬諸島で下船していたのである。それも空しく弟はアゾレス諸
島で死んでしまった。
 こうした悲惨な航海の末、東方物産の直接貿易航路が開かれることになる。1517年には、
早くも中国の広東(カントン)に入港している。ポルトガルは、ゴア、セイロン、マラッカ、マカオ、
東南アジアの各地に植民地や商館を築き、その後ほぼ100年にわたって東洋貿易を独占す
るようになる。

2 新大陸の発見と世界周航
★コロンブスの航海★
 アメリカ大陸に最初に到達したのは、ノルマン人であるとされているが、世界史的な意義はコ
ロンブスの発見にある。クリストファ・コロンブス(1446/51−1506年)はジェノバ出身とされ
るが、自ら「航海することが必要なのだ。生きることは必要ではない」という合言葉を具現した
熱狂的な探険家であった。ポルトガルのジョアン2世の説得に失敗すると、スペインのイサベル
女王に取り入り、ポルトガルに遅れをとったスペインから援助を受けることになった。1492年
8月サンタ・マリア号150トン他2隻を率いて、パロス港を出帆し、10月には早くもサン・バル
バドル島を確認し、ハバマ、キューバ、ハイチなどの島じまを探険して、1493年3月パロスに
帰帆している。コロンブスは、新大陸を発見しようとしたのではなく、黄金の島ジパングや西回
りでインドに達するのが、当初の目的であった。その後3回の航海を行うが、黄金も香辛料も
持ち帰えらなかったのに、西インド諸島を東洋の一部と信じたまま、不遇のうちに死んだ。
 コロンブスが帰帆すると、スペインはローマ教皇をそそのかして、アゾレス諸島・ヴェルデ諸
島の西方約300マイルより西側の発見地はスペイン領とする教書を出させる。それを不満と
するポルトガルはスペインと交渉して、1494年トルデシーリャス条約を結び、教皇線をさらに
約800マイル西方をずらせ、世界を2分して領有することにした。その後、1497年、イギリス
の委託でインド航路を探していたフィレンツェ人のガボット(1450?−99年)が北アメリカ、そし
て1499−1500年にかけてフィレンツェ人のアメリゴ・ヴェスプッチ(1454−1512年)や、ポ
ルトガル人のカブラル(1467?−1520?年)が南アメリカを発見する。ヴェスプッチの名前にち
なんで、新大陸がアメリカと呼ばれることになった。スペイン人のバルポア(1475−1519年)
は、1513年9月パナマ海峡を横断して、太平洋を望見している。その後、多くの地理上の新
知識がえられるが、すでにそれは探険ではなく征服になっており、新大陸に広大なスペイン植
民地が建設されて行く。

アゼランの世界周航で生き残ったビクトリア号

★マゼランの惨苦の航海★
 コロンブスの発見以来、西回りで東洋にたどりつけるという確信はふくらまざるをえなかった。
ポルトガル人が香料諸島モルッカに着いたという知らせがあったので、スペインは西周りの道
があれば、昔の条約でそれを領有できると考えた。フェルディナンド・マゼラン(1480?−152
1年)はポルトガルの下級貴族であったが、ポルトガル王に見切りをつけ、アントワープの商人
の資金援助を受け、スペインのカルロス一世の許可を取って、1519年9月、サン・アントニオ
号120トンの他4隻、260人乗組員とともに、周到な準備をして出帆した。翌年3月31日、そ
れまでにいろいろあったが、アルゼンチン南部パタゴニアのサン・フリアン湾に入り、越冬する
ことになった。そこで反乱が起き、首謀者を追放、処刑している。5か月目にサンティエゴ号75
トンを偵察に出したところ、サンタ・クルス川の近くで座礁してしまう。乗組員を救助して、同年1
0月に目指すマゼラン海峡に向かった。水路が見つかったところで、サン・アントニオ号が脱走
してしまう。同年11月未、太平洋に入ったが、それは陸を2か月も見ない良い航海になった。
食糧はなくなり、飲料水は腐敗し、乗組員は牛の皮、のこくず、ネズミなど、なんでも食べなけ
ればならず、壊血病で数十人が死んでしまった。
 1521年1月未、2月初め無人島を経て、3月グアム島の近くの有人島に着いて、乗組員は
健康を取戻し、3月初めフィリピンのサマール、4月初めセブ島に到着する。支配者を改宗させ
て、その敵を打ち負すことを請負、4月27日マクタン島に行って、マゼランは殺されてしまう。さ
らに、当の支配者に主だった士官が殺されてしまう。そこで残った船員は115人になっていた
ので、航海性の劣るコンセプション号90トンを焼却する。同年11月モルッカ諸島のテルナーテ
島、ティドール島に入り、盛大なもてなしを受け、大量の香料を船積みする。反乱者の1人であ
ったデル・カノがビクトリア号85トンの船長になり、船が往来する航路を避け、西に向かった。
そのため、食糧と飲料水は確実に減少し、乗組員は飢えと疲労と壊血病で1人また1人と死ん
で行く。そして、マストを1本折ってしまい、船体の水洩れが激しく、ふじつぼがいっぱいついて
いた。このみすぼらしい船が、世界を周航して、1522年9月、実に3年かかってスペインに帰
ってきた。その時、乗組員は半死半生の17人になっていた。なお、もう1隻のトリニダット号11
0トンは修理を終えて、再び太平洋を横断しようとするが、行方不明になってしまう。
 マゼランは結果として世界一周したが、世界周航はカノのものとなった。ぼろ船に積まれてい
た貨物は、航海費用を償って余りあったとされる。この世界周航によって、新大陸と東洋との
間に広大な太平洋が横たわり、地球が丸いことを実証した。これによって、「地理上の発見」は
区切りがつく。しかし、イギリス、フランス、オランダなどは、ヨーロッパより北西に航海してアメ
リカの地を回る道や、北東に航海してユーラシア大陸の地を回る道を熱心に探し求めたが、い
ずれも空しい努力に終ってしまった。たとえば、イギリス人は、すでにのべたカボットの遠征の
他、1553年生粋のイギリス人であるヒユ・ウィロビー(?−1554年)とリチヤード・チャンセラー
(?−1556年)の中国を目指した北東航路探険を誇りに思っている。
 なお、大航海時代以前からアラブ人や中国人が、シナ海からインド洋、そして紅海やペルシ
ャ湾まで、「海のシルク・ロード」を開いていたことや、1405年以降30年間にわたる中国明代
の宦官の鄭和<ていわ>(1371?−1434?年)の遠征、倭寇や朱印船の活躍、日本人の南
方進出についてもふれるべきであるが、次の機会にゆずる。
 大航海時代、海外進出についてアジアとヨーロッパとでは大きな違いがみられる。それを解
明する力はないが、ヨーロッパ人の金銀と香辛料を手に入れなければ暮せないという肉食生
活者としての欲望や、異教徒はキリスト教に屈服するのが当り前だという妥協のない狂信を、
アジア人が持ち合せていなかったことは確かである。アジア人にとって大航海時代、ヨーロッパ
から得るものは特になかったことも、重要な要素であった。ただ、日本人はそうでなかったよう
であり、鎖国が行われていなければ、イギリスのようにイエロー・ヤンキーぶりを発揮したかも
知れない。

3 ポルトガル、スペインの盛衰
★破壊と略奪と殺裁★
 「地理上の発見」は、ヨーロッパ人にとっては繁栄の始まりであったが、アジア・アフリカ人にと
っては悲劇の始まりであった。コロンブスが西インド諸島を発見すると、レコンキスタなど高尚
な目的はどこかに吹き飛んでしまい、あからさまなコンキスタとなる。中南米におけるスペイン
のコンキスタドレス(征服者)の貪婪<どんらん>さ、狂暴さは言語に絶するものがある。その
頂点はコルテスのメキシコ・アステカ文 明の破壊とピサロのペルー・インカ帝国の破壊であ
る。
 エルナンド・コルテス(1485−1547年)は、16人の騎兵を含むスペイン兵400人、若干の
インディオ兵、砲10丁、軽砲4丁でもってユカタン半島に上陸し、1519年11月テノチティトラ
ン(現在のメキシコ・シティ)に入る。アステカ人の反乱の責任を皇帝モンテスマにかぶせて、身
代金や金銀財宝を略奪する。アステカ人の一斉蜂起で退却させられるが、1521年8月首都
をふたたび襲撃し、スペイン人670人でもってアステカ人11万人を虐殺し、首都を完全に破壊
し、略奪しつくす。そこに植民地を建設し、総督となる。フランシスコ・ピサロ(1478−1541
年)は、コルテスの成功に刺激され、一獲千金を夢見ていた。1532年1月兵士130人と若干
の武器を率いて出発、インカ帝国の内部抗争を利用して皇帝アクルパルパを捕え、大きな部
屋いっぱいの、全国から集められた金銀財宝を身代金として奪い、その上で殺し、首都クスコ
を占領し、破壊と略奪のかぎりをつくす。1525年リマに征服者の首都を建てる。
 スペイン人たちが、破壊と略奪と殺戮<さつりく>が終わると、豊富な金山・鉱山に目をつ
け、原住民を強制労働に狩り出す。狩り出されたインディオが生き残れるのはわずかであり、
また両親を鉱山に連れ去られた子供は餓死して行った。この極悪非道な搾取でもって、原住
民の人口が激減すると、アフリカから黒人奴隷を輸入し始める。新大陸からスペインに、どれく
らいの金銀が入ってきたかは正確にはわからないが、1503年から1660年までに、金181ト
ン、銀1.7万トンあるいは、4億4782万ペソであったとされる。低廉な費用で生産された金銀
が、大量にヨーロッパに流入したことで、一方で東方貿易をいままでにない規模で行うことが可
能になり、他方ヨーロッパでは物価騰責=価格革命が起り、工業生産が農業生産にくらべ有
利となって行った。
 ポルトガル人もスペイン人と同じように、白い悪魔であった。まず、アフリカに着いて手始めに
やったことは金銀財宝の略奪であり、そして重要なことは黒人奴隷を新大陸に売り込んだこと
であった。他方、インドに着くと、ポルトガルは東洋的な神秘に包まれた寺院や貴族の邸宅か
ら、財宝を略奪した。1501年ゴア、翌年マラッカを武力で占領し、アジア全域に要塞や商館を
築き、兵士を配置した。そして、アラブ商人を追い出し、アラブ船を襲撃し、東方物産、特に香
辛料の取引きを独占する。ポルトガル人は、イタリア商人に取って替り、東方貿易の王者とな
り、香辛料をヨーロッパに持って帰り、莫大な中間利益を上げるようになる。なお、1543年、
戦国時代の種子島にポルトガル船が漂着するが、その直後から日本との貿易が始まる。
★略奪的海商の限界★
 ポルトガルは、そもそも小国で商人船主が発達していなかったため、諸発見を進めてきた王
室自らが東インド貿易を行っていた。その規模はそれほど大きくはなかった。疑問は残るが、
1492−1612年に、806隻がインドに向け出帆したが、285隻はアジア諸港問の貿易につ
き、425隻がポルトガルに帰帆したとされているように、年平均7隻を送り出したにすぎず、そ
の喪失も12%と大きかった。ポルトガル船は、ヨーロッパにコショウを年間1600トン持ち帰
り、中国に2000トン移送していたとされる。香辛料をポルトガルに持ち帰ると、たとえばチョウ
ジは380倍、コショウは30倍の値段で売れたとされる。ポルトガル人が「3年、東洋にいれ
ば、一生安楽に暮らせる」といわれた。東インド貿易によって、王室や商人は大きな利益を手
に入れることができた。なお、香辛料以外の貿易については、商人船主に特許状が下付され
ていた。
 スペインは、新大陸貿易にあたって、ポルトガルとはちがって、それを商人にゆだねたが、植
民地産鉱物の5分の1を税金として取り立て、貿易をセビリアとカディスに集中させ、輸入品に
17.5%、輸出品に7.5%の税金をかけていた。セビリアには商務院が設置され、海商の統制
を行い、商人船主に対する特許状の交付や輸出入貨物の検査を行い、船団護送も掌握して
いた。それだけでなく、航海学校や水路部を持ち、航海者の資格認定も行っていた。スペイン
からは植民地に向けて、ヨーロッパ・東方産のすべての貨物や奴隷を輸出し、そこから金銀地
金、カリブ海の真珠、皮革、染料木、砂糖、綿花を積取り、輸入していた。最も繁栄した1581
−1620年には、毎年100隻ほどが大西洋を横断していた。
 スペイン船は設計、建造、資材は決して良いとはいえず、ドイツやフランドル地方から大洋航
海に堪えない老朽船を買って、往航さえ持てば良いということで運航されていたとされる。船主
と商人とは分離しており、船主は海運業を生業としていた。船長は持分所有者であり、管理船
主として乗船しており、航海者を雇っていた。運賃は統制されておらず、片道航海で船価を十
分に回収できるほどの高運賃が支払われていた。商人と船主は金融業者から冒険貸借で金
を借りていたが、その業者はドイツのフッガー家とかジェノバのカグリマルディ家といった外国
人であった。スペイン船の乗組員は、ポルトガル船と同様に自国人では足りず、外国人船員を
雇っており、その質は悪かった。そうしたことで、乗組員は雇われ船員であった。1550年頃、
一人前の船員は1か月2.5ドカ、士官、砲手、大工には4.5ドカ支給されていたが、帆走長には
1航海で110−180ドカも支払われていた。
 「スペインの領土に太陽の沈むことがない」といわれたが、ポルトガルと同様その栄枯盛衰は
きわめて早いものがあった。王室や特権商人の海商独占は自由な産業を発達させず、それに
オランダやイギリスが割り込んでくるとひとたまりもなかった。ポルトガルやスペインは、確かに
地球的な規模の海商を準備はしたが、真の海運・貿易国とはなりえなかった。

4 オランダ、イギリスの台頭
★オランダの台頭★
 現在のオランダとベルギーにあたるネーデルランドは、15世紀末からスペインのパブスブル
グ家の支配下にあった。すでにみたように、フランドル地方は毛織物工業が発達していた。 
「地理上の発見」後、毛織物を売ってスペインの新大陸の銀を吸い取り、その銀をポルトガル
に貸付けて香辛料を手に入れ、世界商業・貿易の中心地となる。さらに、15世紀末には北海
のニシン漁業に進出し、さらに飛躍的に発展する。アントワープやホーランド地方では、近代資
本主義の初期的な発展がみられるようになる。他方、ドイツとの不断の交通でプロテスタンティ
ズムが浸透し、ブルジョアは商工業の発展を阻害するカトリックに反対し、急進的な再洗礼派
に移って行った。それに対し、スペインは宗教裁判を強行し、反動的な圧迫を加えたため、16
世紀中頃から独立戦争が激しく燃え上がる。
 当初は、旧封建的な大貴族が指導者であったが、次第に中小貴族や市民階級が中心にな
り、独立戦争は市民革命に転化し、1581年北部ネーデルランドは独立を宣言し、現在のオラ
ンダが生まれる。海外に逃亡したネーデルランド人の船主や船員たちは「海の乞食団」を組織
して、他の新教徒の私掠船とともにスペインに対する海上ゲリラを行っていた。1569年には、
オランダ初代統領となったウィレム1世(在位1579−84年)から私掠許可状が下付され、新
大陸から帰帆するスペインの銀船隊を襲うだけでなく、スペイン支配の町を占領したり、スペイ
ン艦隊を打ち負し、オランダの独立に大きく貢献するようになる。
 オランダがスペインから独立することは、逆にそれを通じて得る利益を失うことになるので、
オランダ船はスペインの監視の目をかいくぐって新大陸と密貿易を行い、さらに植民地をも建
設して行く。1602年、オランダ各都市の交易会社が合同し東インド会社が設立される。それ
は、喜望峰からマゼラン海峡までの貿易独占権、条約縮結権、私掠権、行政権などの特権を
持ち、外地に軍隊を配置していた。オランダは布教などにこだわらず、貿易一辺倒で進み、ポ
ルトガルを東洋から追い出してしまう。すでに徳川家康が天下を取った1600年、オランダ船リ
ーフデ号が豊後に漂着、1609年、オランダとの平戸貿易が始まる。17世紀はオランダの黄
金時代であった。イギリスの経済学者ウィリアム・ペティ(1623−1687年)によれば、ヨーロッ
パの全船腹200万トンのうちオランダは90万トンという大量な船腹を持っていた。それに対
し、イギリス50万トン、ドイツ、スカンジナヴィア諸国、南ヨーロッパ諸国25万トン、フランス10
万トンであったという。しかも、他の国より3分の1から2分の1という安い運賃で貨物を運び、
「世界の運搬人」といわれる地位を築いた。その基礎には、造船業、毛織物・絹織物工業、タバ
コ・カカオ製造業、精糖業など、小規模ながら「世界の工場」があった。ただ、フーリデ号の水
先案内人がイギリス人ウィリアム・アダムスであったように、船員は外国人を雇わなければなら
なかった。
アーク・ロイヤル号
スペイン無敵艦隊と闘ったハワード提督の旗艦

★無敵艦隊を破る★
 イングランドは、14世紀末には封建的土地所有制は事実上解体し、15世紀にはギルド規
制が弱化して農村工業が発達し、そして1485年にはヘンリー7世(在位1485−1509年)が
絶対主義のテユーダー期を築き、ヘンリー8世は1535年イングランド国教会を実現させ、宗
教改革を決定づける。イングランドは、中世より羊毛の輸出国であったが、新大陸貿易が盛ん
になるにつれて、16世紀前半より毛繊物工業とその貿易が急速に発達するようになり、商人
層が大きな力を持ち始める。他方、土地囲い込みや修道院の解散などで没落する農民が増え
て、雇われざるをえなくなる。さらに、16世紀後半になると、ガラス、紙、塩、石鹸、石炭業など
新しい製造業が生まれる。ヨーロッパに対する遅れを取り戻すだけでなく、ヨーロッパにくらべ
資本主義を生みだす要素が整えられて行く。
 イングランドは、中世、ベネチアやハンザの商人に圧倒されていたが、それでも毛織物商人
は冒険商人組合を結成していたし、イギリス船は適当に海賊を働いており、国王も貿易による
財政収入を増そうと軍艦を建造するようになり、航海条例を定めて外国人に与えていた特権を
徐々に取戻しつつあった。特に、ヘンリー8世(在位1509−47年)はイギリス海軍(Loyal
Navy)の創設、王立造船所の開設、造船補助金の支給などで、海運の発展に大きく貢献する
ところがあった。外国人の特権の廃止についてはこわごわであったが、宗教改革の勢いで15
52年にはハンザ商人の特権を廃止している。しかし、ヘンリー8世が絶対王制確立のために
行った貨幣の悪鋳で16世紀前半は輸出ブームにわいたが、後半はいま述べた外国人商人
の締め出しや平価の切下げ、さらにオランダの独立戦争で、輸出は激減してしまった。
 1530年、プリマスの商人ウィリアム・ホーキンズ(1532−95年)はスペインの目をかすめ
て、新大陸との密貿易や私掠活動を始めていたが、それにならうイギリス船が増えてきた。特
に、いまみた16世紀後半の不況を打開するため、新大陸との貿易を切り開く必要があった。
しかし、スペインとまともに開戦する力がないところから、オランダの独立戦争を支援するととも
に、私掠活動を奨励し始める。その頂点が、私掠者フランシス・ドレイク(1540?−96年)艦隊
の1577−80年の私掠世界周航であり、1587年のスペインのカディス港攻撃であった。この
ように、私掠活動は、海外進出に立遅れ、しかも不況にあえいでいたイギリスのあがきであっ
た。
 1587年、エリザベス女王(在位1558−1603年)がカトリックとの紛糾の種であったスコット
ランド女王を処刑にふみきると、翌年スペインのフェリペ2世(在位1556−1598年)は、それ
が誇る無敵艦隊(インビンシブル・アルマダ)を送ってきた。急編成のイングランド艦隊は「神
風」に助けられて、それに壊滅的な打撃を与える。これによって、イングランドは3流から2流の
海事国になることができたのである。
★冒険企業と東インド会社★
 いままでみてきたように、エリザベス時代の船主はおおむね商人であったが、他人の貨物を
積み込まなかったわけではなく、また自らは船を持たずに運賃積みする船主を探す単なる商
人も多くいた。さらに、商人が集まって組合を作り、その組合が船を用船して管理者を乗船さ
せ、海商を営むものもいた。しかし、遠隔地貿易や大洋貿易については、特許会社が作られて
いた。
 その1つは、規制会社と呼ばれる商人の組織である。それには、15世紀の羊毛輸出を独占
したスティプル−カンパニーや16世紀の冒険商人組合(Merchant adventurer's company)が
含まれる。国王から、特定の航路の海商について独占権が与えられ、自ら規約を作り、護衛
船などの費用を出し合って運営していた。しかし、海商そのものは加入している商人たちが自
らの勘定で船を所有あるいは用船して、自らの危険負担の下で行われていた。王室も組合員
の2員になったり、王室船を護衛船として貸し出していた。もう1つは、共同持株会社(Joint
stock company)と呼ばれる投資者の組織である。それには、1555年設立のロシア会社や1
600年設立の東インド会社、そして私掠船組織が含まれる。国王より特許状が下付されて特
定の海商を独占するが、重要なことは株式を発行して資本金が調達され、持株に応じて利益
が配分されたことであった。持株会社は先駆的な株式会社であった。
 イギリスの東インド会社は218人の貴族や大商人により設立され、アジアの貿易権が与えら
れ、総裁と24人の重役で構成されていた。創立資本金は約3万ポンドで101株に分かれてい
た。1612年までは当座企業制で、資本は航海ごとに募集され、精算が行われていたが、そ
の後一連の数航海ごとの投資にかわり、クロムウェル(1599−1658年)の特許状により株
式配当になり、法人と資本の永続性がはかられるようになった。国王は、会社に貸金、献金、
税金を申し付けた。最初、自社船を所有していたが、20年後用船に切り替えている。1708年
には重役が、自分の船を会社に用船させる悪弊があったため、公開入札で用船するようにし
ている。東インド会社船はそれ用に建造されており、18か月航海を4回すれば船は寿命にな
るとして、その期間について終身用船され、高額の運賃が支払われていた(1790年には6
回、1803年には8回に延長されている)。1734年の終身用船は13隻であったが、それ以外
に随時用船もあった。
イギリス東インド会社(17世紀前半)

★三角貿易の定着★
 イギリスは、ポルトガルやスペインのような単に貨幣や金銀を追求する重金主義や、オラン
ダのような中継貿易で貿易差額だけを増やす重商主義とはちがっていた。17世紀に入ると貨
幣、金銀の保有量の増大、輸出工業の保護、育成、国民的な海運と商業の奨励と援助を基調
とした重商主義に取り込む。クロムウェルは1651年航海条例(the Navigation Act)を制定す
る。1660年には、さらに強化される。それらは、イギリスとその植民地に出入りする貨物の輸
送はイギリス人所有の船に限り、また植民地生産物のヨーロッパへの直送を禁止し、またイギ
リス船の船長および船員の4分の3はイギリス人でなければならないとし、国旗差別と自国貨
自国船主義の海商保護政策を打ち出した。イギリスが世界貿易に割り込み、植民活動を展開
すると、直ちにオランダと衝突が始まり、1623牢には日本人傭兵を含むアンボイナ虐殺事件
がモルッカ諸島で起きる。そして、航海条例が出されると、1652−74年にかけてイギリス・オ
ランダ戦争が起きる。なお、イギリスは1613年に平戸貿易を始めるが1623年にはやめ、オ
ランダが独占しつづける。
 イギリスは、オランダに一定の勝利も収め、重商主義の政策が成功するにつれ、海商の範
囲はヨーロッパからアメリカ、アフリカに拡がり貿易量も急速に増大する。そのなかで約2世紀
にわたってつづく三角貿易が定着する。アフリカやアメリカに綿織物、金物類、ガラス類、武
器、アルコール類を持ち込み、それとひきかえに黒人奴隷を受け取り、アメリカ.や西インド諸
島で売る。そして、そこで砂糖、タバコ、殻物、綿花、コーヒーを仕入れ、イギリスやヨーロッパ
に運び、高く売りつけたのである。イギリスは、17、8世紀重商主義のもとでの植民地の開発
とそれとの貿易の発達とによって、大地主と大商人が支配層とする商業帝国となる。18世紀
に入ると、スペインやフランスと植民地争奪戦争する度に、それらの植民地を次つぎと自らの
ものにし、植民地帝国となって行く。
17-18世紀、イギリスの三角貿易

★資本主義の確立★
 1783年、イギリスはアメリカの独立を認めざるをえなくなり、1789年フランス革命が起きる
と、国内の急進勢力を抑圧するとともに、フランス革命の干渉を始める。1805年、ネルソンが
活躍したトラファルガー沖海戦でフランス海軍に勝利すると、イギリスの海上覇権はますます強
固なものになる。また、1760−1830年代、産業革命が進行して資本主義的工業が確立さ
れ、工業資本家が急速に台頭し、旧来の支配層の議会支配に抵抗し始め、市民運動が次第
に成功して行く。他方、労働者階級と支配層の対立も深まってくる。産業革命以来の工業化と
都市化のもとで、従来の重商主義政策は資本主義生産の発展の桎梏となってくる。1813−3
3年東インド会社の特権は順次廃止され、46年地主を保護する穀物法、49年海商業者を保
護してきた航海条例も廃止され、自由貿易が確立して行く。イギリスは「世界の工場」として、そ
れに即して世界を再編成し、イギリス帝国を確立して行く。
 冒険商人組合や東インド会社にみるように、商人と船主、投資家と企業家は分離し始める。
18世紀、海商の規模が大きくなると、商人船主は自らの貨物を積むだけでなく、他人の貨物
を運賃(freight)を取って積むことが多くなり、また船主のなかには組合や会社に用船に出し
て、用船料(charterage)だけを稼ぐ単なる船主も出てくるようになり、海運業は貿易業から独
立し始める。そうしたもとで、商人が船に乗り込むことは少なくなる。しかし、通信機関が未発
達で取引も安定していないため、商品の販売や購入を担当する貨物上乗人(supercargo)が乗
る場合もあった。その仕事を船長が兼ねる場合も少なくなかった。海運取引は従来、王立取引
所で行われていたが、17世紀後半になると新聞広告やコーヒー店での談合を通じて行われる
ようになる。18世紀に入ると、ロイズ保険組合にみるように海上保険や船舶売買も発達してく
る。他方、近世の船員は中世とちがって船舶の持分所有者ではなくなり、単なる賃金労働者と
なる。船長も次第に持分所有者でなくなり、雇われ船長が多くなって行った。それでも雇われ船
長が、船長に与えられている特権(それなりに高い賃金、私的貿易の利益、旅客運賃収入な
ど)や名声を活用して、船主になれる機会はなお多く残されていた。
 このようにして、イギリスを中心に資本主義的な海運業が形づくられ、19世紀中頃からの帆
船から汽船への転換によって現在われわれがみる海運企業、海運取引、船員労働が確立さ
れる。この近代海運にいたる近世貿易、言葉をかえれば資本の原始的蓄積過程において、船
員が賃金労働者としてどのように扱われていたかを見るのが、この書物の主たる内容である。
ロイズ・コーヒー店(18世紀頃)

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