明治期以降の内航海運は,すでにみたように,その主要航路は汽船と鉄道の発達により,
江戸時代に隆盛をきわめた大型廻船とその船主は大きく後退させられたが,地方航路におい ては西洋形帆船の長所を採用した大小の合の子船が活躍しつづけ,その船腹量も増加した。 そのなかで,帆船の所在県は江戸時代の主要な廻船所在県から,広島,山口,愛媛,福岡県 へと移転していった。そうした地域は,江戸末期における農民的商品流通のなかで形成された 地方廻船が活躍した地域であったが,資本制的商品流通の発達のもとでさらに活躍の場が拡 がった。なお,明治期から大正期,すなわち帆船が機帆船に転換するまでの時期における地 域船主の生成と展開について,第W編で詳しくふれられる。 ただ,広島県や愛媛県の帆船の明治期の輸送について,若干整理してみると,次のようにな る。第1に,それら地域の帆船は,その輸送需要を地元または近隣の地場産業からえていた。 第2に,その輸送形態は買積み輸送が支配的であったが,それを近距離から遠距離に進出し ていった。しかし,第3に,それら買積み輸送も,塩の専売制の実施,製塩燃料の転換,地場 産業の停滞,鉄道・通信の発達,賃積み輸送の進出などにより,衰退を余儀なくされた。そし て,第4に,明治期,比較的に大型の買積船を保有した船主は,海運業から撤退した。ここで, 特に重要なことは,明治期の瀬戸内海の帆船が製塩燃料の輸送によって発達し,それが薪か ら石炭に転換するなかで,地場海運から内海海運へと進出していったことである。 (1) 明治・大正期の輸送貨物
日本資本主義が確立し,その発達が軽工業から重工業へと拡大してくるにつれて国内貨物輸 送量も増加し,その輸送品目も変化することとなった。まず,鉄道輸送であるが,1912(大正 元)年の輸送量は3,305万トンで,その主要貨物は石炭40.7%,木材8.2%,米4.1%,石材19%,木炭 1.8%であった。そのなかで,石炭が圧倒的な地位を占めているが,その輸送距離は80キロメートル (1917年以降)にすざぎ,またその輸送路線は門司局54.8%,札幌局25.0%,東京局9.5%(1932 年)というように,東京局をのぞき,主として炭田から積出港への搬入にすぎなかった(1)。そ のため,石炭輸送における海運と鉄道の競争は,きわめて部分的であった。その後,1925(大 正14)年まで第1次世界大戦をはさんで,輸送量は2.2倍の伸びとなるが,その伸びを上回るの は食料品,建設材,肥札紙パルプであった。その結果,品目構成は食料品9.2%→8.9%,繊維 品1.7%→1.4%,燃料43.1%→37.8%,建設材11.1%→18.2%,鉄綱1.0%→0.7%,肥料3.3%→3.8%,紙 パルプ0.4%→0.7%へと変化した。その後,燃料と金属が増加するが,戦前における鉄道輸送の 品目構成は,大正期中葉において整定される。 他方,明治期における内航海運の輸送量やその輸送品目に関する統計は,ひじょうに乏し
い。船腹量が輸送量に対応しているとすれば,第3表にみるかぎりでは1905(明治38)年まで は停滞的であった。その後,いちじるしく増加しはじめ, 登録西洋形帆船(以下,特記以外,登 録舶のみを扱う)においては,同年329,806総トンから1910(明治43)年390,796トンとなり,そし て1915(大正4)年には542,579トンと1.4倍の伸びとなった。それに対し,汽船20−500トン層は 第8表でみたように西洋形帆船の伸びを下回った。輸送品目は,日本海沿岸や瀬戸内海のご くかぎられた10港の出入貨物についてであるが,1879(明治12)年から1910年にかけて価額に おいて,第11表でみるように,石炭・石油52倍,木材20倍,鉄類14倍の伸びを示した。そして, 第12表にみるように,主要19港の出入貨物(したがって,重複はもとより,脱落が多い)の構 成は,1916(大正5)年には数量において石炭・石油43.26%,食料品7.81%,建設材5.38%,金属 3.93%,肥料3.93%となった。その後,1925(大正14)年まで,輸送量は1.3倍の伸びとなったが, その伸びを上回った貨物は建設材3.1倍,金属1.9倍,鉱石3.2倍であった。その結果,品目構 成は石炭.石油が40.05%に低下したのに対し,建設材は13.38%,金属6.11%への増加した。その 後も,その傾向は持続した。
明治中期から大正初期にかけて,石炭が国内輸送の大宗貨物であった。それは,日本にか
ぎったことではないが,それが占める地位はひじょうに大きなものがある。石炭の海上輸送は その輸送距離が若松・大阪481キロメートル,小樽・東京1,374キロメートルというように長く,その輸送 比率はみかけよりも大きい。第1次世界大戦前後,海運の輸送量の伸びは鉄道を下回るが, 建設材,金属,鉱石については鉄道を上回る伸びをみせ,そのなかで海運は鉄道にくらべ燃 料,金属,建設材,鉱石など重化学工業関係の貨物輸送により偏重していくようになる。 (2) 石炭生産の増大 戦前における内航海運の大宗貨物であった石炭の生産とその輸送についてみてみる。日本 の石炭産業は,幕末においてその大きな市場を国内製塩高の90%に及ぶ瀬戸内海の塩田(十 州塩田)に見出していた。その製塩用石炭は主として筑豊や宇部で生産されていた。 開港にともない,国内外の汽船の燃料としての需要が,高まってきた。明治政府は,殖産興 業の一環として三池,高島,幌内に,近代的な官営大炭鉱を開き,主として船舶用や輸出用 の石炭を生産した。1887(明治20)年,石炭生産高のうち48.8%が輸出されていた。国内消費高 は,第13表にみるように,国内消費高は製塩用53.1%,船舶用27.6%,工場用17.1%,鉄道用2. 1%という構成であった。石炭産業は,1890年代,官営炭鉱や優良鉱区の払下げにより,三井, 三菱,貝島,平岡,安川といった政商や大地主が炭鉱経営にのりだし,部分的な機械化をす すめて,生産高を著しく増加させた。1887−1907(明治20−40)年において,生産高は85万トン から650万トンとなり,その消費先は工場用,鉄道用,船舶用が著しく伸び,それぞれ51.6%,12. 2%,27.2%となり,製塩用は9.0%,輸出用は生産高の21.5%に低下した。 この明治期における石炭の生産高の増大とその消費先の変化は,その生産地や消費地を 大きく変化させた。1887(明治20)年には,第14表にみるように,肥前(高島,唐津)や三池が 輸出用・軍艦用石炭を生産していたため,かなりの比重を占めていた。しかし,その後,全国 に大炭鉱が出現するにつれ,筑豊,北海道,常盤の各炭田の生産高が増加し,その中でも筑 豊は飛躍的な発展をみせ,明治中期以降,全国生産高の50%を超えつづけることになった。筑 豊炭の主要な集散・積出地である若松港の仕向地状況についてみると,明治前期はその消費 者が十州塩田であったので瀬戸内海が中心であったが,次第に阪神,東海,京浜に広がって いった。明治中期以降,石炭が工場用として消費されるにつれて,阪神工業地帯への仕向 が,圧倒的になっていく。すでに,1907(明治40)年には幾内43%,山陽道16%,南海道9%,東海 道4%になり,その後も「阪神4割,瀬戸内海2割2,3分,京浜,伊勢湾各1割内外,北陸5分以 下」(2)という構成で,ほぼ推移するようになる。 (3) 石炭の海上輸送 幕末より,製塩用石炭は,帆船によって輸送されつづけていた。明治中期より,石炭生産高 が増加し,工場用として全国に消費されるにつれて,汽船や鉄道も石炭を輸送するようになっ た。しかし,石炭の立地条件によって,輸送機関にはちがいがあった。北海道の石炭は,道外 では主として京浜工業地帯で消費され,その輸送はほとんど汽船で行なわれた。常盤の石炭 は,ほぼもっぱら京浜工業地帯で消費され,その輸送は鉄道で行なわれた。それに対し,筑 豊,肥前,山口の石炭は,すでにみたように,主として阪神・瀬戸内海で製塩用・工場用として 消費され,その輸送は帆船,被曳船,汽船,そして機帆船で行なわれ,鉄道はわずかであっ た。しかし,東海や京浜向けについては,汽船がほぼもっぱら輸送した。
筑豊の石炭の輸送状況についてみると,門司港が1899(明治22)年特別輸出港に指定され
て以来,輸出用および国内向け汽船積み石炭は鉄道や帆船で門司港まで搬入したうえで積出 され,また国内向け帆船積み石炭は若松港で積出されていた。若松港は,明治中期より近代 的な港湾としての整備がすすみ,1904(明治37)年に特別輸出入港として指定された。それに ともない,若松港は日本最大の石炭積出港となった。明治期における石炭の船種別輸送状況 は,第15表より推測するほかはないが,汽船の積トン数を各地向け帆船の10倍と仮定してみ ると,帆船の輸送比率は80%ぐらいになる。1912(大正元)年においては,第16表にみるよう に,帆船74.2%,汽船25.8%という構成になる。明治末期に出現した被曳船が統計にあらわれ, 1917(大正6)年には帆船58.1%,被曳船18.4%,汽船23.5%となる。その後,おおむね,この構成 で推移する。このように,明治・大正期における筑豊炭は主として帆船で輸送されていた。
これはあくまで全国向けの輸送状況である。第16表と第17表の比較であきらかなように,
たとえば1924(大正13)年でいえば,若松港の積出炭のうち瀬戸内海に63.3%が輸送されてい るが,その船種別構成は汽船7.4%,帆船55.5%,被曳船37.1%である。それ以外の構成は汽船 68.6%,帆船31.4%,被曳船0%となっている。主として,関西以西は帆船または被曳船,関西以 東は汽船というように,船種によって仕向地別の輸送分担が決まっていた。さらに,瀬戸内海 にあっても,大阪向けは被曳船が64.6%を分担し,その他向けは帆船が81.8%を分担しており, きわめて対称的である。なお,1925(大正14)年における若松港に寄港した船舶の実数と積トン 数は,第18表にみるように,帆船2,010隻358,599積トン,被曳船714隻176,024積トン,合計2,724 隻534,623積トンである。それは,当時の全国の西洋形帆船の隻数で19.3%,積トン数(総トン数の 約2倍と換算)で約30%に相当する。そこで見落せないことは瀬戸内海の帆船,被曳船がおお むね石炭輸送に従事していたことである。 明治中期から大正期にかけて,日本資本主義が産業革命を完了し,その基軸を軽工業から 重工業へ移行させるなかで,内航海運はいままでの生活関連の貨物輸送から,工業関連の 貨物輸送へと大きく転換することになった。その中で,石炭生産が増大し,九州から阪神,北 海道から京浜へと長距離の輸送需要が発生したことが,その転換を決定づけた。なかでも, 九州・阪神間の石炭輸送の多くを帆船が分担したことによって,帆船はいままでの地場産業や 地域生活と関連のない,内航海運として発達するところとなった。 (1) 海貨の鉄道転移
1900年代,産業資本を確立させた日本資本主義は,日露戦争後の不況のなかで軽工業に おいてカルテル・コンツェルンが形成され,陸海軍工廠や官営八幡製作所も大拡張され,資本 の集中と生産の集積がすすんだ。1914−18(大正3−7)年の第1次世界大戦は日本資本主義 を独占資本主義に急速に変化させることになった。その中で,重化学工業が資本制企業とし て展開されるようになり,いちじるしく進展するところとなった。戦争中,製造工業の生産額は4. 4倍の伸びをみせた。重化学工業化率は22.0%から32.8%に高まった。鉄鋼業(銑鉄)2倍,造船 業7.6倍,化学工業(染料)20倍,電気機械4.1倍,鉱山機械3.4倍,石炭業1.5倍の伸びをみせ た。そして,戦後不況のなかで独占資本は国家の保護政策,外国技術の導入,産業合理化の 強行により,より強固な基盤を築いていくこととなった。それにともない,京浜,阪神,中京,北 九州に本格的な工業地帯が形成されていった。
この1910年代以降における日本の重化学工業の進展は,国内貨物輸送もすくなからず変化
させた。日本政府は,1907(明治40)年に私設鉄道の買収を完了し,鉄道院を設けた。1912 (大正元)年には,全国の貨物運賃の統一が行なわれた。第1次世界大戦のなかで,貨物輸 送は1913(大正2)年の49億トンキロから1919(同8)年の109億万トンキロへと,2.1倍の大きな伸びと なった。この伸びは,戦時活況ばかりではなく,内航汽船が近海航路へ進出したことで内航船 腹の供給が逼迫し,海上運賃が高騰したため,海上貨物が鉄道など陸運に転移したことが大 きく作用していた。「たとえば門司・横浜間の石炭運賃はトン1円前後であったものが10円近くに なった……米100石当り……仙台・東京間では海上運賃は100円で鉄道は……貸切扱いで48 円40銭……と海上運賃の方が割高であった。第1次大戦前、海運は鉄道運賃の半分位で」 【3】あったのである。 戦後不況で,鉄道の貨物輸送も減少するが,その後も貨物運賃の値上 げにもかかわらず,貨車の改良,運行の改善やターミナルの近代化が進められ,順調な伸び をみせ,戦中に鉄道に移転した海上貨物は戦後の海運不況のなかにあっても,海運に復帰し なかった。すなわち,「鉄道輸送の能率の高さは荷役その面でも認識されたため,貨物の輸送 需要はさらに高まり,海上運賃が低減されたのちも,鉄道貨物に対する輸送需要は固定した」 【4】。それにともない戦前の機関別輸送分担率が整定されるところとなった。そのようにして, 大正期は鉄道の黄金時代となったのである。 (2) 帆船の増加と減少 外航海運は,第1次世界大戦によって「わが国近代海運業の創始以来,もっとも華やかな時 代」となったが,戦後不況はきびしいものがあった。内航海運もほぼ同様な状況を示す。 その船腹量は,すでにみたように,1910−15(明治43−大正4)年において,汽船20−500総ト ン層は28.8%,登録西洋形帆船は38.8%の伸びであった。しかし,それらの内航船の稼動状況は 入港トン数においてであるが,1912−17(大正元−6)年において汽船39.7%,帆船13.2%という大 幅な減少となった。それにともない,輸送量は1913−15(大正2−4)年において13.8%の減少と なった。鉄道貨物輸送が伸長しているのにくらべ,海運のそれが減退したことは1907(明治40) 年の恐慌後の慢性的な不況と鉄道網の発達のなかで,すでに大戦前から国内貨物(主として 雑貨)の鉄道転移がすでにすすみ,また海運優位がその面でくずれていたことを,さらに決定 づけるものとなった。 世界大戦がはじまると,内航海運も活況を呈するようになる。しかし,1915−20(大正4−9) 年において,汽船20−500総トン層は163,189トンから176,334トンヘと8.1%という小幅な伸びにとど まったが,西洋形帆船は542,579トンから976,286トンへと実に79.9%という大幅な伸びをみせた。ま た,入港トン数においても,1916−19(大正5−8)年汽船13.7%に対して帆船76.7%(1920年2.03 倍)という伸びとなった。汽船船主が,その汽船を近海航路に移行したり,それに就航しうる大 型の汽船を指向するなかにあって,帆船船主はその船腹をいちじるしく拡充し,戦時活況を享 受することに努めたかにみえる。しかし,海上輸送量は,1915−19(大正4−8)年において26. 9%の伸びにとどまったのである(生産性の低さが露呈したといえる)。さらに,1920年恐慌のな かで,1921(大正10)年にかけて6.8%の減少となった。それに対し,鉄道輸送量はその間90.2% という大きな伸びを示し,また大戦後も6.4%の減少にとどまった。 内航海運は,戦時活況で運賃の高騰を享受したものの輸送量の増大を吸収しえず,またす でに明治末期からはじまっていた海上貨物の鉄道転移を阻止することができなかった。1920 年恐慌以後,日本経済は慢性不況に陥るが,国内貨物輸送は重化学工業の発達のなかで海 運・鉄道ともにその輸送量をそれなりに増加させる。内航海運の輸送量は1921−25(大正10 −14)年において24.3%,1925−30(大正14−昭和5)年において39.5%の伸びを示した。それに 対し,船腹量は大型汽船の圧迫があったとみられるなかにあって,1920−25(大正9−14)年 において汽船20−500総トン層は176,334トンから201,680トンと14.3%の伸びとなったが,西洋形帆 船は976,286トンから883,353トンと10.5%も減少した。また,入港トン数においても,汽船9.3%の増加 に対して,帆船は実に20.8%の減少となった。帆船の船腹量の減少は明治以来はじめての事 態であった。それ以外に,多数の帆船が係船あるいは休船を余儀なくされたはずである。な お,第18表にみるように,若松港に就航する帆船は,統計に疑問が残るが,1921−23(大正 10−12)年において,3,903隻から2,230隻へと大幅な減少となっている。 明治初期以来,国内貨物輸送において大きな地位を占めて来た帆船も,第1次世界大戦を 転機にして,鉄道輸送の拡充と円滑化,汽船の増加(大戦後の近海船の内航復帰),海上運 賃の低落のなかで,それらとの競争にやぶれ,後退せざるをえなくなった。国内貨物輸送にお いて,機械制工業がマニファクチュアに対してようやく優位に立つことになった。しかし,伝統的 な帆船は一時的には後退するが,ふたたびその船腹を増加し,内航海運における主要な船 種・船型として大量の海上貨物を輸送しつづける。それは,帆船が機帆船へ転換し,石炭輸送 をはじめ,重化学工業から輸送需要を引き出すことで行なわれる。 (3) 戦後不況と船腹調整 第1次世界大戦は日本経済を膨張させたが,その反動としての1920年恐慌以後,「不況から 不況」へとよろめくことになった。それでも,日本経済は先進諸国の中でかなり高い成長をつづ けた。それは,財閥・独占資本が政府に企業救済のインフレーション政策を実施させ,また企 業の合併・集中で独占を強化し,広汎な中小企業を独占利潤の基盤として再編し,労働者・農 民を低賃金と低米価のもとで強搾取するなかで達成された。しかし,それをもってしても日本の 重化学工業の国際競争力は低く,国内市場は強搾取のもとで拡大せず,1927(昭和2)年の金 融恐慌を経て,1929(昭和4)年以後の昭和恐慌へとずれこんでいく。その中で,独占支配の体 制が強化され,独占段階における中小・零細企業問題が発生することになる。
内航海運は,すでにみたように,第1次世界大戦後を転機にして,大きく変化することになっ
た。内航海運の輸送貨物の構成は,第12表でみたように,1916−25(大正5−14)年におい て,石炭・石油が43.26%から40.05%に低下したものの,大きな比率を占めつづけ,建設材が約3 倍も伸びて5.38%から13.38%となり,金属が約2倍も伸びて3.11%から6.11%となった。それに対 し,食料品や繊維品,肥料の伸びは小幅にとどまった。それにともない,第19表にみるように, 内航貨物は地方分散を強めていった。 内航海運の貨物輸送は,重化学工業の原燃料やそ の製品が増加する中で伸びていったが,内航船腹量は第4,5,8表にみたように,1920年代前 半増加した汽船20−500総トン層も,同年代後半においては停滞をみせる。すなわら,1920− 30年において100−500トン層は609隻から548隻へと61隻減少したのに対し,20−100トン層は1, 237隻から1,667隻へと430隻も増加する。他方,西洋形帆船は大きく減少しつづけたが,1927 (昭和2)年になって下止まりをみせる。1920−30年において100−500トン層は2,868隻から2,019 隻へと849隻も減少したのにくらべ,20−100トン層は11,539隻から13,355隻へと1,816隻も増加 する。また,入港トン数は,1920−25年において汽船は増減をみせながらも9.3%の増加を示した が,帆船は11.8%の減少となった。1925−30年に入ると,汽船35.9%,帆船33.7%という順調な伸 びをみせることとなった。また,1924−30(大正13−昭和5)年において,有機関帆船(トン数船) の入港トン数は2.5倍の伸びを示し,無機関帆船は停滞をつづけ,前者が入港トン数に占める比 率は16.4%から31.3%に上昇する。 世界大戦で膨張した内航海運は,1920年代を通じて船腹調整が行なわれたが,それは汽 船・帆船ともに比較的に大型の100−500総トン層の減少,小型の20−100トン層の増加(零細 化),帆船の大幅な減少,そして帆船の機帆船化として行なわれたのである。 (1) 石炭輸送手段の発達
戦前の石炭の海上輸送は,すでに簡単にみたように,北海道炭は主として汽船(帆船がなか ったわけではない),九州炭は汽船と帆船とで行なわれていた。そのうち,筑豊炭の海上輸送 は,大正期に入って複雑な発達をみせることになった。吉開和男氏によれば,帆前船は旧藩 時代からみられ,「小型のもので45トン積み,中型で65トン,大型のもので100トン積み前後の大き さで,船の中央に1本マストを立て,所謂だんだら帆にろくろ棒を掛上げ巻下ろす式の通常『大 和船』と呼ばれる土舟型帆船」であったが,次第に合の子船になり,「若松港では明治38年は じめて3本マスト,200トン積の本格的西洋型帆船があらわれ,明治末期までには帆前船は殆ん ど姿を消し,45年には300トン積帆船が出現した」。第1次世界大戦の活況は,「再び帆船に大 改良の気運を醸成し,海運界はこぞつて被曳船,補助帆船へ切換えを断行しはじめた。従っ て,それまでの純帆船の全盛時代は,大正2年を頂点として前後約10年であった」。「昭和初期 の政府の補助帆船切換奨励策とともに,大部分が補助帆船となり,昭和5年頃にはさしものに 長かった帆前船,帆船の時代に終止符を打ち……昭和10年に至るやその補助帆船はマスト だけ残して帆をたたみ,『補助』につけたエンジンだけで動く,機帆船へと大きく転換して行っ た」【5】としている。 こうした帆船以外に,若松港においても汽船が大量の石炭を積取っており,すでにみたよう に,大正初期には年間1,200−1,300隻が入港していた。それから汽船のトン数規模は不明であ るが,若松港の入港汽船の平均トン数は,たとえば1925(大正14)年906総トンというように,かな りの大型船であった。それら汽船の1航海当たりの積出量には変動がみられるが,平均的に いえば750トンぐらいである。それからいえば,汽船は少なくとも2,000重量トンを上っていたことは あきらかである。なお,若松港の水深は1899(明治32)年以後の浚渫で20フィート(6メートル)とな っており,重量3,000トンの汽船が入港可能であった。これら汽船が,すでにのべたように,石炭 を約20,30%ほど積取っていた。 これら汽船は,主として海運企業の所有船であったが石炭企業や商社の所有船もみられ た。たとえば,1910(明治43)年三井物産は汽船26隻,帆船トン数船52隻,石数船54隻,三菱合 資は汽船28隻,帆船トン数船48隻,安川敬一郎は汽船1隻,帆船石数船15隻を所有していた。 それら自己輸送船は,大口需要者に対する直売石炭の定常的な輸送に従事していたが,ど の程度石炭を積取ったかはあきらかにできない。汽船はかなりの量であったとみられるが,帆 船はごくわずかであったにちがいない。それら帆船は,汽船と同様に雇用船員に運航させる形 態もあったが,船長(船頭)の請負制で運航する形態がむしろ多かった。 (2) 被曳船の興盛と停滞 帆船は,主として一杯船主に所有されていたが,それ以外に海運企業や石炭企業,商社も 所有していた。それら帆船は,すでにみたように,日本形帆船から西洋形帆船へ転換していく ところとなったが,それに並行して明治末期より被曳船あるいは曳船制度が出現した。それ は,曳船(タグボート)が被曳船(その多くは旧帆船)を,載貨時には6,7隻,空船時には10隻ぐ らいと曳行する方法であった。被曳船は,第18表でみたように,少し時代が下がるが,1921 (大正10)年には若松港に676隻が就航しており,それは帆船の約17%に相当していた。そし て,その積トン数は平均231トンで帆船の132トンよりもはるかに大きく,また1隻1航海当りの石炭 積出量は159.1トンであった。したがって,被曳船団1航海当りの石炭積出量りの石炭積出量は 1,000−1,500トンと,汽船にほば匹敵していた。その曳行速力は3,4ノットで,帆船とそれほどち がわないが,定常的な運航が可能であった。そして,低廉一括輸送でありながら,小口需要に 対する個配輸送も可能であり,汽船と帆船を折衷したような便宜があった。 こうした被曳船の発達や経済関係については第U編で詳述されるが,福本清氏の調査によ れば,第20表のような被曳船団とその発達があったとされる。明治・大正期設立の菱丸(三菱 商事),久根丸・鳶丸(古河鉱業),太賀丸(貝島商会),海工丸(麻生商会)は自己輸送船であ り,汽船を補完する役割が強かったといえる【6】。特に,大正期設立の船団は,第1次世界大 戦の好況時に自己貨物を大量かつ低廉に輸送する意図から創立されたとみられる。また,そ れらのうち古河鉱業・貝島商会・麻生商会の船団は,その時期における直販部門の設立と関 連していたとみられる。
これら自己輸送船をはじめ被曳船は,大正期において大いに活躍するところとなり,帆船を
後退させる。しかし,昭和恐慌に入ると,それを乗りきるために被曳船団は解散され,被曳船 は船長や乗組員に払下げられるところとなった。それと同時に,大型帆船の経営も困難になっ ていったため,被曳船に切替える船主も出るようになった。こうした払下げ船や転換帆船が多 数集り,設立されたのが関西曳船や大和曳船であった。 若松港における被曳船の就航数は,第18表にみたように,帆船が大幅に減少しているなか にあって,1920年代において100隻ほど増加して1930(昭和5)年には785隻196,094積トンになる が,昭和恐慌期においては減少しつづけ,1935(昭和10)年には628隻157,963積トンになる。そ の積出量は,第16表にみたように,1927(昭和2)年を頂点にしてはやくも減少しはじめ,その 後も落ち込みつづける。他方,帆船,機帆船も昭和恐慌期にそれらが減少するが,1931(昭和 6)年に下止まりをみせ,その後は急速に回復して行く。それに対し,被曳船は回復が遅いだけ ではなく,その増加も小幅にとどまった。それは,被曳船がもっていた汽船的な役割が用役生 産性のうえでも供給価格のうえでも,機帆船にとってかわられたことを意味する。 こうした被曳船は,帆船と同じような経営構造を持ちながら,用役生産性において帆船により 優位であったことにおいて発達し,帆船とその隻数を大幅に後退させた。しかし,その用役生 産性の向上が決定的なものでなく,石炭流通が基本的に小口分散的であったため,帆船を駆 遂できなかっただけでなく,それが機帆船に転換するなかでその優位性はただちに奪われ,停 滞を余儀なくされた。さらにいえば,明治以来,石炭の海上輸送手段=船舶技術において,汽 船(2,000重量トンクラス)と帆船(100積トンクラス)という明確な二重構造があった。被曳船は,そ の中間的な立場に立とうとしたが,それが船舶技術としても中途半端であったため,その発達 ははじめから制約されていたといえる。 (3) 機帆船への転換 いま,大正,昭和初期の若松港における筑豊炭の積出し状況をまとめると,第16表でみた ように,1915(大正4)年の626万トンから1918(大正8)年の710万トンと,世界大戦中かなり増加す るが,戦後減少する。1921(大正10)年には650万トンとなり,戦前水準にもどる。その後増加し はじめ,1923(大正12)年に700万トン,1927(昭和2)年に750万トンを超える。その中で,汽船の 輸送量はほぼ一貫して増加しつづけ,その輸送比率も大戦中の約20%から,1921(大正10)年 25.0%,1925(大正14)年30.6%,1930(昭和5)年36.3%と上昇しつづける。それに対し,帆船の輸 送量はほぼ一貫して減少しつづけ,1918年には約400万トンであったが,1925年約300万トンまで 減少する。その後,350万トンぐらいにもちなおすが,昭和恐慌期にはふたたび減少し,それが 増加するのは1933(昭和8)年以降となる。被曳船は,大戦後,ほぼ一貫して増加しつづけてい るが,昭和恐慌期に入ると減少しはじめる。その輸送比率は,1920年21.9%,25年25.5%,30年 21.3%と増減する。なお,1935(昭和10)年に機帆船の分類があらわれるが,その時点の輸送 比率は汽船38.9%,帆船32.0%,被曳船16.3%,機帆船12.8%であった。そして,機帆船が帆船を 上回るのは,1937(昭和12)年であった。 若松・大阪間の石炭輸送の帆船運賃は,世界大戦中・後の1917−20(大正6−9)年高騰し, トン当り5円となった。1920年恐慌に入ると急落し,翌年には2円にまで落込んだ。しかし,1923 −24(大正12−13)年に中間景気があり,輸送量も増加したため3円まで回復する。その後, ふたたび低落して2円を上回ることがなくなり,昭和恐慌期には1円台にまで落込む。それが2 円に回復するのは,1930年代中頃になってからであった。 内航海運は,第1次世界大戦,その後の慢性不況のなかで構造変化をみざるをえなかった。 重化学工業の発達のもとでの輸送需要は,大量で安定した海運用役を,しかも低廉な運賃で 供給することを要求するようになった。その需要に対応しうる輸送形態は,荷主企業に対する 賃積み輸送において,他になかった。それに,汽船は十分に対応しえたが,帆船はその船型 が小型であり,その航行が不規則であるため不十分であった。 そこでまず登場したのが明治末期に出現した被曳船であった。それは,第1次世界大戦大戦 中より発達し,帆船を圧迫したが,輸送形態としては決定的な転換ではなかった。その戦後不 況のもとで,帆船は汽船と被曳船とのきびしい競争にたたされることになつた。そのなかにあ たって,明治末期より漁船に装備されていた焼玉機関を在来帆船に取付け,被曳船に対抗す るようになった。ここに,帆船の機帆船化の端緒がひかれた。それとて当初は,補助機関を風 待ちや潮待ちを避けるために使う程度の,吉開氏のいう補助帆船であった。後述するように, 帆船が低運賃に堪える経営構造を持ち,またその利用を維持するような流通機構があるとし ても,帆船の汽船や被曳船に対する航行上の劣位ははなはだしく,それを低運賃でもっておぎ ないうるわけはなく,すでにみられたように後退を余儀なくされた。 石炭輸送の運賃が低迷し,その輸送量が汽船の転移するなかで,帆船の経営は次第に困 難になって行かざるをえなかった。それを決定づけたのが,昭和恐慌であった。そこで,帆船 船主は経営困難を回避し,規則的な航行という輸送需要にこたえ,低運賃でも経営を維持しう るような海運用役の生産性の向上に取り組まざるをえなくなった。それが帆船の機帆船化へ の本格的な転換であった。それにともない,帆船に優位をたもち,帆船を圧迫していた被曳船 もその優位性を失い,経営の合理化を余儀なくされたのである。 このように,帆船船主は第1次世界大戦後の慢性不況のなかで,汽船や鉄道との競争に堪 え抜くため,その一部は機帆船化するが,かなりが廃業する。それはマニュファクチュアと機械 制工業,小商品生産者と資本制企業との競争の結果であった。しかし,帆船はそれを需要す る流通機構があり,不況に堪える経営構造をもっていたため,汽船や機帆船とは併存しえた。 汽船との技術格差を縮小した機帆船が増加し,低運賃競争に堪えつつ,その輸送量を増加さ せてくると,帆船は汽船とではなく機帆船との競争を余儀なくされ,昭和恐慌を契機にして機帆 船への転換が全面的に進展することとなった。それは,独占企業の工業関連の貨物輸送に包 摂された小商品生産者=零細経営相互の過当競争のあらわれであった(後編で詳しく分析され る)。したがって機帆船化は生産を維持するための窮迫的な転換であった。 注 【1】 田中時彦「鉄道輸送」『日本輪送史』231−233ページ,日本評論社,1976。 【2】 『若松石炭協会50年史』102ページ,1957。 【3】,【4】 『日本国有鉄道100年史・通史』195ページ,1973。 【5】 吉開和男「若松港における機帆船発達前史」『若松高校郷土研究会紀要』5号,42,48, 50−51ページ,1953.10。なお,明治初期の政府の補助帆船切換奨励策は意味不明である。 【6】 福本清『東野村史』上巻,東野町教育委員会,1962。
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