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1 帆船・機帆船船主の性格
(1) 零細経営・自営業者
 小零細経営(企業)とその他企業との区分については,その本質との関連でいろいろと議論
されているが,それについてはふれない【1】。いま,企業規模について,大企業,中小企業,零
細経営,生業という区分をあたえるとき,前2者では資本・賃労働,賃金・利潤関係が成立して
いる資本企業で,その充用資本や労働者の規模において区分されるものとする。後2者につい
ては,それら関係が成立していない経営であるが,零細経営はそれなりの資金投下を必要と
する生産手段の所有者が,みずからのほか数人の労働力を使用している経営であり,生業は
わずかの資金の投下ですむ生産手段を所有する個人の労働力が決定的であるような経営と
して区分する。当面の対象となる零細経営の特徴について,たとえば村木福松氏は「1.事業
の主体が個人であること。2.所得と経営とが分離していないこと。3.事業が生業的または家
業的であること。4.事業場と住宅とが同一区画内にあるか,あるいは接近し存在しているこ
と。5.家計費と営業費の分離が明確でないこと。6.家族労働の依存度が高いこと」【2】を列挙
している。
 こうした一般的な概念のうえにたって,帆船・機帆船海運の性格を,順次分析してみる。われ
われの研究対象は,明治以後における帆船・機帆船を使用する海運や船主のすべてではな
く,少なくともそのトン数が20総トン以上で,内海や沿岸を航行し,その1航海の日数が10日以上
に及ぶような,いわば沿海海運とその船主である。したがって,船主の居住地を中心とした近
距離のそれらではない。こうした沿海海運に従事する帆船・機帆船船主は,一般に一杯船主と
呼ばれているように,その所有船舶はほとんどが1隻である。その船舶のトン数は20−200総トン
(40−400積トン)にまたがるが,平均的には50−60総トンである。また,その乗組員は3−7人,
平均的には4,5人である。勿論,きわめて少数の船主が,せいぜい2,3隻を所有している場合
もあるが,それを1つの階層として取上げる必要はない。したがって,こうした帆船・機帆船船
主は,その経営規模からいって,零細経営そのものである。そして,それら船主は,一般に船
主船長と呼ばれるように,みずから船舶に乗組み,海運用役の生産に従事し,乗組員の指
揮・監督とともに,海運用役の販売などの経営者的機能を行なう。その点で,帆船,機帆船船
主は経営組織としては,自営業者ないしは個人経営である。
 1932(昭和7)年の『東京市工業調査』によれば,資本金規模による経営の構成は1,000円未
満44.1%,1,000−2,000円24.1%,2,000−5,000円19.7%,5,000−10,000円5.9%,10,000−50,000円
4.4%,50,000円以上1.8%となっている。また,『大阪市工業調査』によれば,投資額のそれは1,
000円未満54.0%,1,000−10,000円36.0%,10,000−100,000円7.9%,100,000円以上2.1%となって
いる。われわれの調査では,1933(昭和8)年愛媛県波方町の瀬戸熊三氏は200積トンの機帆
船を12,000円で,また1935(昭和10)年広島県倉橋町の谷原実氏は200積トンの機帆船を14,000
円で新造している。帆船・機帆船経営は,原材料費用や在庫費用などが不要であるとしても,
一般の小零細経営にくらべその所要資金量はかなり大きい。個人経営でありながら,銀行融
資が発達していないもとで,これほどの資金を投入していることは,その調達に特殊な形態が
あるからである。
(2) 家族経営―賃金・利潤未確立
 帆船・機帆船の労働力は,主として船主,その家族そして親族で構成されており,それ以外
に1,2人の近住の他人船員を雇用しているにすぎない。それら船舶が船主船長の所有物であ
り,その労働力基盤が家族にあるため,その収入(運賃)はその家または家族の収入として現
象し,そこでは利潤と賃金という区分が成立しがたい。家族の生計費は現物給付で行なわれ,
それ以外に若干の小遣銭が支給されるにすぎず,家計と経営は未分離である。また,雇われ
船員が若年労働力の場合,住込み徒弟として扱われ,乗船中の現物給付のほかに小遣銭が
支給されるにすざず,その労働は家族労働の一部を構成しているにとどまる。それが熟練労
働力の場合,住込みにともなう現物給付のほかに小遣銭以上の現金給付があるが,家計補
助的な賃金でしかない。ただ,船主に独立する際,資金の貸付といった便宜を受けるにとどま
る。そこには,家族船員ともども本来的な資本・賃労働関係が成立していない。それらのことは
労働と生活を物理的にも時間的にも分離しえない船舶で行なわれているため,よりいっそう強
められる。
 一般に,零細経営の労働力が業者とその家族が中心となっていることは,「経営者の所得
は,彼の労働に対する賃金と営業から生ずる利潤とが一緒になって,自営業所得として現象
し,この両者を区別することは,難しいからである。これは……その家族労働においても,同様
である」ことになり,労働者を雇用していたとしても,その支払は「貨幣賃金の形態をとらずに,
労働者の衣食住の種々な必要を,経営者が直接充足する現物給与の形態をとり,また住込
み制度の一般化によって……労働者の労働は,家を単位とした総体としての家族労働の一部
……その生活もまた家族共同体の一部にすぎない。ここでは,賃金は,単に量において,労働
者の独立の生活を保障するだけで高くなく……その形態においても,近代的な形態をもってい
ない」といわれる状況にある【3】。したがって,帆船・機帆船船主の経営形態は,その雇われ船
員が船主地域から供給され,全人格的な拘束のなかで労働と生活と行っている点で,すぐれ
た意味で家族経営である。
(3) 地域産業の側面
 最後に,中小・零細企業のなかには,地場産業,産地産業,地域産業と呼ばれ分野があり,
その特徴として「(1)同一立地条件による特定の1地域への集中をみせ,(2)同種の製品,主
として特産品たる消費財の生産活動を行ない,(3)原料・労働力調達における地域的依存性,
(4)生産方法における伝統的技術および労働集約性,(5)産業構造との関連性,(6)産業規
模の小零細性,(7)販売市場の広域性,そして,(8)歴史的・伝統的な古さ」【4】があげられて
いる。そして,それらの起業の時期は明治以前にさかのぼる経営も多く,その生産形態はいち
おう独立的で一般市場向け生産が多いが,その存立形態は問屋制家内工業となっているとさ
れる。
 帆船・機帆船船主の居住地は,全国的に分散しているが,中国,四国,九州の島しょ・海浜
部の特定地域に集中している。それらの地域は,江戸時代より,在来産業としての廻船業が
発達していた地域である。そしてその船舶は伝統的な木船造船所で建造され,またも乗組員も
伝統的な廻船運航の技能を引継いだ地域住民から調達されている。さらに,それら船主や乗
組員は,地域農業や地域社会と強固に結びついている。このように,さきに列挙された地域産
業の特徴が帆船・機帆船に当てはまる。
 しかし,汽船もそれらと同種の海運用役を生産して市場競争を行っており,それらが地域産
業でなければならない根拠はない。また,その市場は汽船とちがって,船主の居住地からそれ
ほど遠くない内海や沿岸にかぎられていて,けっして広域的ではない。それにかかわらず,帆
船・機帆船船主が地域産業とみなされるのは,それなりに高価な船舶のための資金調達を,
労働力の調達そして船舶の建造とともに,すぐれて船主の居住地域に依存しているところにあ
る。帆船・機帆船は汽船と同種の海運用役を生産するという点で地域産業たる立地条件は欠
けるが,それが零細経営としての存立条件の他,各種の立地条件を持つ点で,帆船・機帆船
海運業は特異な地域産業といえる。

2 帆船・機帆船海運の存立機構
(1) 海運用役生産の特殊性
 われわれが研究対象としている帆船は,船舶技術の発達段階からいえば複雑な道具の段
階に位置し,小型船であるが十分に発達した帆船である。その運航は,船員の手工業的熟練
を基礎とした,船員の複雑な分業と協業でもって行なわれる。それらの点で,工業段階として
はマニファクチュア(工場制手工業)の段階にはあるが,その協業規模は小さい。機帆船は焼
玉機関を装備した帆船であるが,それによって海運用役の生産性はいちじるしく向上する。し
かし,焼玉機関は単純な機械であって,船員の手工業的な熟練を解体させず,またその労働
組織をほとんど変更しえなかった。機帆船は,船舶技術の発達段階としては複雑な機械体系
としての汽船ではなく,また工業段階としてもマニュ段階にとどまり,機械制工業ではない【5】。
さらに,帆船・機帆船は,その船体がいずれも木材であるところから,鉄・鋼船にくらべ耐航性
が劣り,操舵装置も手動式であることなどから,その交通路は汽船にくらべ近距離の内海や沿
岸に制約される。
 しかし,帆船や機帆船が生産する海運用役は,汽船のそれに十分に対抗しうる性格がある。
海運用役の生産は,輸送対象を所定の発地点から着地点まで場所移動させることが,その実
体となっている。それに充用される交通手段が,帆船・機帆船であろうと汽船であろうと,輸送
時間を捨象するかぎりでは,同一交通路において生産される海運用役は同種の生産物であ
る。交通手段の技術的な発達段階の相違によって,海運用役に種差は生じない。帆船や機帆
船は,汽船に対して交通手段としていろいろな技術的に劣ってはいるが,輸送時間や時刻に
厳格さを要求されない輸送対象の場合,それに代替性がある。そして,運賃負担力の低い石
炭などに,汽船より低い運賃を提供した。ここに,帆船・機帆船が汽船に対して,特定の交通
路と輸送対象において価格的にも非価格的にも十分な競争力を持ち,それらが残存・発達し
えた根拠がある。
 他方,海運用役としての輸送対家の場所移動は,それを手にとって確めることのできない無
形財であり,さらに生産してから消費するということのできない即時財でもある。そのため,海
運用役は需要があってから,それを供給するほかはない。海運用役の生産は,輸送対象が場
所移動を必要となし時にはじまる。こうした派生的需要に依存せざるをえないことは,何も帆船
や機帆船にかぎらず汽船にも共通している。しかし,帆船・機帆船の場合,その経営者が船主
船長として船舶に乗組み,その運航にたずさわり,輸送需要の獲得すなわち集荷活動を日常
的に行なえないので,それを他者に依存せざるをえない。そこに登場するのが回漕問屋(回漕
店)であり,その依存の程度において問屋制支配や下請制支配の可能性がある。帆船・機帆
船は汽船に対して十分な競争力を持っているとはいえ,汽船にくらべて集荷活動を自らの経営
活動となしえない程度において,海運用役が無形財・即時財であるために,特にその取引とい
う市場側面に劣位に立たされる。帆船・機帆船が,原子的供給者であるところから,その需要
者である少数の荷主に不利な立場に立たされる。
(2) その存立分野一需要側面
 帆船・機帆船が,独自な発達をみせた理由を列挙すれば,次のようになろう。毛利広氏は,
その石炭輸送によせて整理している。「1.石炭市場が阪神,瀬戸内,中国であり,その航路で
ある瀬戸内海が平穏のため機帆船でも十分輸送ができる。2.筑豊炭田は北海道と違い炭層
が薄く,かつ銘柄が多種多様にのぼり,同一銘柄で1日1,000トンも出るものがなく,せいぜい
200−300トンの少量であるため,機帆船が適当である。3.揚地の港湾設備,上場の立地条件
に制約され,大型汽船よりも機帆船が適している。4.瀬戸内海の近距離では機帆船の方が運
賃が廉くなる。5.需要家の方でも一挙に大量に石炭が運ばれるより,少量でも定期的に来る
方が好ましいし,それ程需要は増大していない。6.汽船は外航に,機帆船は内航にという海
運局などの機帆船助成策がとられている」【6】としている。それは,戦後初期の状況であるが,
戦前についてもおおむね当てはまる。
 まず,帆船・機帆船海運の産業としての存立分野についてであるが,一般に小零細企業の
存立分野について,たとえば水津雄三氏は,第1に「集積・集中の法則が進行し,最低必要資
本量の増大傾向が作用するが,なお,小零細企業の存在可能な諸分野を執拗に残存する傾
向がある……その要因は……たとえば,極端な低賃金基盤の存在や生産過程の技術的性格
や,さらには日用消費財製品などにみられる市場の狭隘性等によって,生産の機械化や新機
械の導入が阻害されあるいは遅れることで,集積・集中のテンポが遅れる分野があること」,
第2に「資本主義の発達に伴って小零細企業の存立可能な事業分野が新たに拡大再生産さ
れることによるもので……その主たる要因は,(イ)国民の生活水準の上昇に伴い需要の多様
化が進行し……(ロ)発展する産業がそれに関連する……部品・半製品を生産する部門(を)
……創り出す……(ハ)市場問題の激化,過剰生産・過剰資本傾向の激化が非生産部門の肥
大化傾向を強め」(斜体,原著、原著、但し、傍点),小規模事業分野を拡大するという概括を
あたえている【7】。
 明治期における海運産業の近代化は,移植産業として汽船海運が創設されたが,それは少
数の大企業と中小企業において行なわれ,主要幹線航路を支配するところとなった。その過
程で,江戸時代に幹線航路に就航していた在来産業としての大型廻船は衰退を余儀なくされ
たが,その小型廻船は地方航路において残存しつづけた。汽船海運は幹線航路を支配した
が,地方航路にまで進出せず,早い時期に内航海運から外航海運への転出していった。それ
は,それなりに大型の汽船が入港しうる地方港湾が整備されておらず,また日本の近代造船
業が輸入代替産業にとどまり,安価で大量の内航汽船を供給しえなかったからである。こうし
た技術的な理由にくわえて,地方港湾は分散しているばかりではなく,その単位輸送量は小口
であり,またその運賃負担力は小さく,汽船輸送に堪えるものではなかった。そして,汽船企業
が地方航路の内航海運まで進出するほどには資本蓄積をとげておらず,小型の帆船が提供
する低運賃と競争しうるものではなかったからである。なお,鉄道との関係においても,ほぼ同
様である。
 帆船・機帆船海運は,江戸時代からの在来産業である廻船業の延長ではなく,その主要廻
船船主や買積みの輸送が衰退し,他方で明治中期以降の石炭輸送のなかではじめて勃興し
た,いわば新興海運である。それが活躍した交通路は,瀬戸内海や西日本の沿岸などかなり
限定された地域であり,また小型船しか入港できない地理的に分散した多数の港湾であった。
そして,その主要貨物は石炭,木材,砂利であった。それらは大量輸送貨物であったが,その
生産と流通の関係から単位輸送量が概して小口であり,それでありながら持続的な輸送が望
まれた。それでいて,それらの輸送量や運賃は,景気循環の上でも,季節的に変動した。さら
に,重要なことは,それら貨物の運賃負担力が小さいことであった。こうした石炭を中心とした
運賃負担力が小さい大量貨物を,小口で持続的にしかもかなり長距離に輸送するという需要
に対応できるのは,帆船・機帆船において他になかった。
 帆船・機帆船海運は,日本資本主義の形式過程において,移植産業である汽船企業がそれ
への参入を放棄した分野として,その存立分野が与えられ,明治後期から増加した石炭輸送
という特殊需要に担うことでその存立分野が確立し,そしてそれに対応して交通手段の集積が
低くてよい存立分野として定着したといえる。いまうえにみた存立分野の一般的な概括をふま
えていえば,帆船・機帆船海運は,日本資本主義が急速かつ跛行的に形成されたため,一方
で資本の集積・集中の法則が内航海運の全体にまで及びえず,またその生産の機械化を阻
害する条件があったことで残存しつづけただけでなく,他方で海運利用の特殊な輸送需要が
増大し,それに低運賃用役を供給したことが要因となって拡大再生産された分野だといえる。
その場合,それが長期かつ強固に維持された要因として,それが社会的分業の独自の分岐と
して,海運用役という完成品を汽船海運とかわりなく生産するという特殊性が,大きく作用して
いた。
(3) その存立条件―供給側面
 つぎに,帆船・機帆船海運の経営としての存立条件であるが,一般に小零相企業の存立条
件として,第1に「世界資本主義における日本経済の後進性」,第2に「資本蓄積の相対的不足
……低賃金利用の可能性と,過小資本による自己雇用」,第3に「相対的過剰人口と封建的な
労働市場の存在」,第4に「手工業的工芸技術の伝承……主として在来産業」,第5に「最低賃
金制度の欠如……零細企業における労働の報酬の最低水準が社会的に認識されていな
い」,第6に「社会保険制度の不完全なこと」,第7に「資本主義の落穂を拾う存在」が上げられ
る【9】。そして,これらを貫らぬく要因として「小零細企業の唯一の競争能力としての低賃金基
盤の存在,その拡大再生産の傾向で」あり、それは「(イ)資本蓄積の進行,資本の有機的構
成の高度化による相対的過剰人口の形成とその拡大再生産傾向,(ロ)農民層の分解,であ
る。そして,(ハ)小零細企業の存在は,その対極に労働者の分散をもたらす組織化の可能性
は少なく,資本の抵抗力は弱い……ことによって低賃金基盤が再生産される。しかも,(ニ)…
…小営業者と賃金労働者層とが……同時的に再生産されるような……労働力市場の存在
が,小規模生産の存続と結合する」と概括されている【9】。
 帆船・機帆船海運業の存立条件は,これら概括にそくするものとなっており,後編で詳しく解
明されるが,いままでのべたことを含め,それらをただ列挙すればおよそ次の通りである。(1)
日本資本主義の短期間での成立により,近代的な鉄道・汽船・港湾の建設が立遅れ,用役生
産性の低い帆船・機帆船が活発する余地があった,(2)地域的な輸送需要のほか,筑豊石炭
に代表されるような嵩高貨物の遠距離・低運賃・小口輸送需要が,大量かつ定常的に発生し
た,(3)血縁・地縁的な関係で,海運業の資金調達や船舶の延払い建造,労働力の調達が行
なわれ,零細経営の持続的な再生産が持続された,(4)帆船・機帆船海運業が相対的過剰人
口に支配された家族経営として弾力的に維持され,低運賃用役を供給しえたからである。ここ
では,低運賃の海運用役の供給側面について,若干議論するにとどめる。
 帆船・機帆船船主は,すでにのべたように,日本資本主義の本源的蓄積期に形成されたぼ
う大な相対的過剰人口から析出した零細自営業者であり,その乗組員は家族船員を中心と
し,雇い船員はきわめて少なく,そこには賃金・利潤,資本・賃労働関係が成立していない。そ
のため,その経営の最終的な動機は,それなりの運賃を収受して,短期的には生計費と運航
費を支払い,長期的には償却費に充当して経営を維持することにある。その生計費さえも,賃
金を媒介して決定されているわけでなく,その地域の貧困層の生計費まで引下げうる性格をも
っている。したがって,乗組員が受取る生計費がその地域で成立している賃金水準を下回って
も,また家族船員において労働力の価値分割がすすめられても,それに耐えようとする。ま
た,船舶の償却費は最終的に補填されなければ,その経営を維持することができないが,生
計費を切下げてでもそれを充当しようとする。船主は,その船舶を大型化しているが,それは
正常な利潤の蓄積の結果である場合もあるが,生計費の切下げによる場合がおおむねであ
る。さらに,かなりの船主がその家族において農業を経営しあるいは兼業していることは,低
運賃にともなう生計費の切下げを緩和する。このように,帆船・機帆船による海運用役の供給
価格はきわめて下方に弾力的なものとなり,低運賃に長期に堪えることが可能となる。
 帆船・機帆船経営が,賃金計算を必要とするような船員を多数雇用してはなりたたない。こ
のことは,それが家族経営であることにおいて,在来産業であった地方の大型廻船にとってか
わり,独自な発達をみせたことであきらかである。そして,そのことは帆船・機帆船経営が資本
的性格をもつ小企業(たとえば,複数船主)に向上しえない限界ともなり,その経営規模がトン
数で最大150総トン程度にとどまらせたのである。帆船・機帆船の船価はけっして安価ではない
が,一定の資金があり,個人の信用さえあれば,地域の遊休・遊離資本を調達して,その所有
は大いに可能であった。船主になるには,まず小型船を購入あるいは新造し,それに成功す
れば大型船に切りかえる。その場合,小型船でも大型船でも,輸送需要はそれなりに用意さ
れていたし,また乗組員も有技能・無技能にかかわらず,血縁・地縁関係を通じて調達するこ
とができた。このよぅに,帆船・機帆船の参入障壁は多くの側面で低く,それが拡大再生産され
るところとなった。
 帆船・機帆船に対する輸送需要が高まると,新規参入者が容易に増加し,停船や係船を余
儀なくされていた船舶が稼動し,また全体として稼動率も高まる。他方,それが低くなり,利潤
がえられず,経費を支払うことができなくなっても,それにたえる経営構造があり,また帆船の
耐用年数は長くかつ転用がきかないため,なかなか退出しない。退出する船主があっても,そ
の船舶を引継いで独立しようとする船員が多数あり,それが廃棄されることは少ない。参入は
容易・迅速であるが,退出は困難・緩慢である。その結果,帆船・機帆船船主は多数の原子的
な供給者となって市場にあらわれ,過当競争をくりかえすこととなり,その海運用役の販売価
格は長期に低い水準に押し下げられる。それは,帆船・機帆船の需要者にとって低運賃が可
能になるだけでなく,輸送量,輸送時期,運賃水準の変動にいち早い調整が可能になることで
あった。
 このように帆船,機帆船海運にはいろいろな技術的な要因もあるが,最終的には相対的過
剰人口から析出された零細船主が,低生計費=低賃金にもとづく低運賃用役を,過当競争を
通じて供給したことにおいて存立しえたといえる。それは,それを需要する商工業資本の急速
な資本蓄積を可能とし,他方個別船主の成長を制約しながらも,それが拡大再生産される条
件となっていたのである。

3 帆船・機帆船海運の存立形態
(1) 江戸時代の廻船問屋
 帆船・機帆船海運業は,海運用役が無形財・即時財であるところから,その取引に不利な立
場にたたされており,それを通じてその存立形態が与えられることになる。
 渡辺信夫氏は,江戸時代の廻船問屋の業務について,「荷主の依頼により,廻船の調達,
航行に必要な切手や通船手形の発行,荷物の検査,運賃の勘定などであった。収入の基本
は調達した廻船の船頭・水主から徴収する問船料であった。この廻船問屋はいつも廻船の動
静を把握し,運送委託者の要求に答えたが,その大規模な廻船調達は何んといっても幕領米
の直送であった」【10】。享保期以後の幕領米江戸廻米の廻船問屋は,現在の内航海運業法
でいえば,自己の名をもって内航運送の取次をする事業(狭い意味での取扱業)であった。そ
れが江戸時代の廻船問屋あるいは回漕問屋の典型であった。雇船の決定が入札で決定され
たように,それと船主の間には問屋制支配・従属の関係はなかった。
 それに対し,菱垣廻船や樽廻船の廻船問屋は,当初,手船の他,単なる船主(オーナー)か
ら用船する運航業(オペレーター)であった。しかし,十組問屋や酒造仲間が手船を所有した
り,船主に出資したり,また直接に用船に乗り出してくると,廻船問屋は表面的には運航業者
の体裁をとっているが,実質的には内航運送の媒介をする事業(海運仲立業)になってしまっ
た【11】。この場合,廻船問屋そして船主もろとも,荷主問屋の支配下におかれたのである。十
組問屋に入らなかった木綿問屋は,手船を所有することはなかったが,特定の廻船問屋を支
配下において,廻船の取次を行なわせるほか,船主に資金を融資していた。また,瀬戸内海
の塩問屋は手船を所有して,塩を買い集め,売り捌いていたが,その多くを各地の廻塩船に
買積みさせていた。そして,塩廻船に資金を融資して,それを支配・従属関係においていたとさ
れる【12】。この場合,塩問屋は廻船問屋の機能を兼ねていた。
 このように,江戸時代における荷主と廻船問屋や船主との関係は様ざまであるが,基本的に
は幕領米廻船にみられたような,その間に支配・従属関係のないものであった。その場合であ
っても,船主の廻船問屋への依存は避けられなかった。しかし,主要都市や主要特産物の荷
主問屋は廻船問屋を傘下におさめ,それを通じてあるいは自らが直接に船主に金融によって
それを支配・従属の関係においていた。その場合,菱垣廻船や樽廻船にみるように荷主問屋
が海運業全体を支配下に収めようという意図もあれば,木綿・塩問屋にみるように自らの商品
の売捌きにあたって,一定の廻船を確保しておく意図もあった。後者のいわば問屋制前貸支
配は全国的に広くみられたであろうが,廻船業は前貸金制に不安を伴う業種であったので,そ
の程度はきわめて部分的であったとみられる。前期的商業資本の廻船支配が全面的でなく,
また農民的商品流通が拡がるなかにあって,北前船はもとよりとして,中小の賃積み船や買
積み船が荷主問屋や廻船問屋に問屋制支配を受けることなく活躍しうる余地は十分に広くあ
ったとみられる。
(2) 明治前期の石炭問屋と船主
 明治初期,筑豊石炭の積地である若松港には藩政時代から御用問屋であった石炭問屋の
他,中小の石炭問屋があり,買積み船主や揚地問屋に石炭を販売するとともに,それにあた
って回漕問屋の機能をはたしていた。それら業態が未分化であったところから,単に問屋と呼
ばれていた。こうした石炭問屋は,中小炭抗や川帯(かわびらた)船頭を問屋制前貸で広く支
配していたとされる【13】。それに関連して,石炭問屋が小型帆船をそうした支配の下において
いたかどうかである。それについて十分な資料はえられなかったが,石炭問屋が販路を持つ
買積み船主を維持しておく必要から,また大口需要に対して安定した輸送を行なう必要から,
船主に前貸しを行っていたと考えられる。それが,船舶の建造費や取得費のかなりの部分を
含んでいれば,船主は問屋制前貸支配を受けたことになる。しかし,石炭問屋が扱っているす
べての船主に,それが行なわれていたとするわけにはいかないであろう。なお,明治期の瀬戸
内海の塩生産者は石炭を入手するため,買積み船主にその費用などを前貸していたとされて
いるが【14】,船主に対する前貸し支配としてはそれが本来であったといえる。
 吉開和男氏は,明治期の買積み輸送に関連して,回漕問屋を仲介業としながらも「問屋は船
主に対する石炭買積のための必要資金の融資,そのために生ずる金利の取立てなどの銀行
業務……積荷の準備および積噸の決定など船主代行業務等,船主が出港するまでの一切の
業務を引受けていたので……小船主と問屋の関係は,問屋による船主の支配といった,いわ
ば問屋制海運業の形態をとっていたのでないかと思われるふしがあるが,この場合海運業に
おける主要生産手段たる船舶の貸与または所有及び問屋と船主の雇傭関係はなかったよう
である」【15】とのべている。すでにみたように,明治前期の回漕問屋は石炭問屋をおおむね兼
業していたので,そうした問屋であれば納得できる。それが専業であれば,資金力からみてそ
の可能性はきわめて小さく,回漕問屋の「銀行業務」は石炭商の代行業務の意味であるので
あろう。また,船主への融資が買積み資金程度であれば,船主はほぼ確かな販路を持ってい
るわけであるから,その返済は早い機会に行なわれるはずである。当時,賃積み輸送がなか
ったわけでないので,船主はそれに転換すれば足りた。
 このように明治期,帆船船主に対する問屋制前貸があったとしても,それを行なったのは基
本的に石炭問屋であり,回漕問屋はそれを仲立したにすぎない。それがかなり行なわれたの
は石炭問屋が強固たる販路をもっていなかった明治初期であったであろう。しかも,それは石
炭の買積み費用の前貸し(現実には掛売り)程度であり,問屋制支配と呼びうるものでなく,一
部の船主にかぎられた。その点,買積み輸送は大正末期までつづいたので,それが直ちにな
くなったわけではないといえるのではなかろうか。なお,塩生産者のそれは塩専売制でなくなっ
たとみられる。
(3) 石炭賃積輸送と回漕店
 明治後期以降の筑豊石炭輸送は,大手石炭商である商業資本の流通支配のもとでの工場
用,鉄道用石炭の賃積み輸送が支配的となっていった。それにつれて,従来の石炭商で自ら
販路を確保しているものはともかく,そうでないものは兼業していた回漕業を主業にせざるをえ
なくなった。また,大手石炭商に直属するかたちで,純然たる回漕店が増加するところとなっ
た。そこでの回漕店は,いまや海運取次業でなくなり,大手石炭商に船舶を供給する海運仲立
業となっていった。それでも回漕店は石炭商を兼業しつづけた。
 四国地方総合開発調査所は,戦後の状況としてではあるが,回漕店は海運仲立業のほか
に「船主に対する金融業も兼ねているが,船以外に大した資本を持たない多くの船主は,その
航海に当り,船員の給料或いは燃料の油代等を前借りし,又場合によると,船の修繕費を前
借りすることがあるが,この場合には利子をもとられ,また運賃が手形で支払われた場合は,
その手形の割引料をもとられる場合があり,たとえ運賃に対する手数料を7%としても,その総
差引き高は10−12%にもなる……機帆船回漕店の性格が,このように極めて前期的高利貸的
資本であり,封建的な中間搾取機関であると非難されているのは,この点にあると思はれる」
【16】としている。こうした融資は戦前もみられたが,はたして回漕店にそのような性格があった
かどうか。
 若松港では,大正初期,大小30軒の回漕店が約4,000隻の帆船(1軒当り約130隻)を扱って
いた。そうした多数の帆船が一様に前借するわけもなく,また回漕店が一様に前貸しできるわ
けもなかった。後編であきらかにされるように,船主に前貸したのはほとんどの場合荷主であ
る石炭商であって,回漕店はわずかであった。石炭商は,運賃が1航海後に支払われることも
あって,簡単に前貸ししたが,その額は運賃の範囲であった。このように船主が回漕店を通じ
て前借りすることはあっても,それが市中金利よりも高利であっても短期に返済できる程度の
ものであった。船主は,すでにのべたように,船舶の建造や修理の資金は血縁・地縁の関係で
調達していたのである。したがって,船主が相対しているのが回漕店であるため,何か悪らつ
な中間搾取機関のようにいわれるが,そうした性格はない。船主にとって対立関係にあるのは
なかでも大手石炭商であったのである。
 われわれの船主や回漕店の聞取り調査でも,船主が多額の前借りを受けて,それに圧迫さ
れたり,緊縛されたといった状況を確認することができなかった。主観的には,船主は回漕店
にうまくしてやられたとするものの,回漕店とは家族主義的な取引であったともする。したがっ
て,石炭の賃積み輸送においても問屋別支配はきわめて部分的であり,戦前にあっても四国
地方総合開発調査所がいうように,回漕店が前期的高利貸的資本であったとするわけにはい
かない。
(4) 船主の二重構造での従属
 したがって帆船・機帆船海運の存立形態は,一般的にいって,問屋制前貸で支配された家
内工業ではない。そうであっても,帆船・機帆船主は船長として乗船しており,また通信設備が
発達していなかったため,荷主と直接に相対して,集荷活動を日常的に行なうことができない。
そのため,入港地において荷主の仲介者としての回漕店に依存して,集荷するほかはなかっ
た。それでも船主は回漕店をあれこれと選択することができたし,量や品目,運賃や揚地など
いろいろな条件をもつ積荷を拒否することができた。そうした自主的な立場は,輸送需要が増
大する場合にはっきりあらわれる。しかし,回漕店が海運用役の販路とその情報を支配してお
り,しかも船主が原子的な供給者として過当競争を行なっているため,回漕店が仲介する輸送
条件をおおむね受入れざるをえない。帆船・機帆船海運が石炭など特定貨物の輸送でなりた
っているので,回漕店への依存はきわめて抜きざしがたいものがあった。
 すでにみたように,明治後期以降,若松港の回漕店はすでに運航業者でも取次業でもなく,
船主と石炭商との間に立って内航運送を媒介する海運仲立業(シッピングブロカー)にすぎな
い。すなわち,回漕店は荷主から積荷を,船主からは船腹を提供されないかぎり成立たず,そ
のあいだの需給関係に大きく左右される経営となっている。しかし,石炭輸送においては,少
数の大手商業資本が主要な荷主になっているため,回漕店はそれに依存せざるをえない。そ
こに成立する運賃は,海運用役の供給条件に規定されて,長期的に低い水準に押え込まれて
いるので,回漕店が船主から受取る仲立手数料もまた一定の限度をもっている。そこで,回漕
店が収入を増加させるには,仲立する船腹量を増加させるほかはなく,それをめぐって競争が
行なわれている。それは石炭商に対する多数の原子的な船主の供給をめぐる競争であり,際
限のないものである。他方,船主を支配しようとしても問屋制前貸する対象がなくなっている。
船主が自らに依存せざるをえない状況を,自らの存立条件にしているにすぎない。回漕店は,
石炭商に対抗できる企業として成長し,その独自的な立場を築きうる状況にはない。
 したがって,石炭輸送を中心として発達した帆船・機帆船海運業は,その船主が海運市場を
常時登場できないもとで無形財・即時財を・多数の原子的供給者として少数の石炭商に対して
生産しているため,回漕店に依存さざるをえず,さらにその回漕店が多数の船主を少数の石
炭商―その中心は三井物産など商業資本や大手炭鉱―に媒介するという形態で存立してい
る。帆船・機帆船海運業は,回漕店を媒介とした二重構造で,石炭商に従属させられていると
いえる。そこに貫かれている経済関係は,主として大手商工資本の零細船主の事実上の労働
者化とそれを通じての乗組員の強搾取,それにともなう商品流通における独占利潤の形成で
ある。

【1】 たとえば,磯部浩一「零細企業の本質について」渡会重彦編『日本の小零細企業』,日本
経済評論社,1977。
【2】 村木福松「零細企業の限界本質について」同上,37ページ。
【3】 氏原正治郎「零細企業の存立条件」同上,51−52ページ。
【4】 田中充「地域産業と中小企業」『中小企業論・新版』146ページ,有斐閣,1978。
【5】 拙著『船員労働の技術論的考察』第2編,海流社,1979参照。
【6】 毛利広「若松における石炭流通の現状下」『九州経済統計月報』7巻10号,4ページ,1953.
10。
【7】 水津雄三「戦後日本における小零細企業問題研究発展史」竹林庄太郎編著『現代中小
企業論』76−77ページ,ミネルヴァ書房,1977。
【8】 注【1】14−15ページに同じ。
【9】 注【7】に同じ。なお引用文のカッコは省略してある。
【10】 渡辺信夫「近世海運の諸様相」豊田武編『交通史』329ページ,山川出版社,1970。
【11】 同上「近世海運体系の確立」同上,272−275ページ。
【12】 同上「流通経済の発達と海運」同上,307,311ページ。
【13】 遠藤正男「筑豊石炭業における問屋制の変遷」『社会経済史学』3巻9号,1934,爪生二
成「遠賀川流域における石炭運送の史的展望・第2報」『若松高校郷土研究会研究紀要』6号,
1954.12。
【14】 相良英輔「明治期塩業における流通機構の特質」後藤陽一編『瀬戸内海地域の史的展
開』福武書店,1978。
【15】 吉開和男「若松港における機帆船発達前史」『若松高校郷土研究会研究紀要』5号,9ペ
ージ,1953.10。
【16】 四国地方総合開発調査所『瀬戸内海を中心とした機帆船の経営構造とその問題点』75
ページ,1955.3。

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