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1・1・3 インダス―海上交易圏の登場―
1.1.3 Indus - Outbreak of the Maritime Trading Areas

▼インダスの海上交易都市▼
インダス文明は、メソポタミアより約1000年遅れで登場し、前2300-1700年頃インダス川流域を中心に栄えた古代文明の一つである。すでにみたメソポタミアの海上交易は、何はともあれペルシア(アラビア)湾の中継交易地を仲立ちとして、インダス文明との交易であった。
前2300年頃インダスとペルシア湾との交易ネットワーク
出所:後藤健稿『NHKスペシャル 四大文明 インダス』、 p.187、日本放送出版協会、2000
ただし、インダスからの交易方向のみ。
 メソポタミアの文書によれば、シュメール時代の前24-23世紀からウル第三王朝に至るまで、インダスとのあいだで、直接交易が行われていたことになっている。その交易先とされるメルッハがインダス文明のどの都市を指すのか不明であり、また交易に関する史料もかなり乏しい。それにもかかわらず大いなる海上交易があったと記述されてきた。なお、メルッハはインダス河のデルタ、あるいは後述のロータルのあるカーティヤワール半島ともされる。
 古代インダス文明は、パキスタンのモエンジョ・ダロ、そしてハラッパーといった二大都市を中心に栄えたが、それらはインダス河流域にある。当面するメソポタミアとの海上交易都市とみられるところは、インドのグジャラートのロータルやドーラビーラーであり、またそのアラビア海の寄港地はパキスタンとイランにまたがるマクラーン沿岸であろう。マクラーン沿岸には、ソトカーゲン=ドールという最西端の都市遺跡があり、インダスのメソポタミアとの交易の発航地あるいは中継地と考えられている。
 それらのうち、インダス河から遠く離れているロータルは、独自な発展を遂げたとされる。ロータルは、カーティヤワール半島の付け根に位置するが、前2500年頃から栄え前1500年紀頃まで存続したとされる。その都市の規模は、モエンジョ・ダロやハラッパーに比べると、10分の1ほどである。
 ロータルは周壁に囲まれ、運河が掘られており、そこから石製の錨が出土している。その周壁の外側には、サパルマティ川と結ばれた運河に向けて、煉瓦づくりの巨大なプール(あるいは貯水池)のような遺構が発見されている。それは、縦217メートル、横37メートル、深さ4.5メートルの窯焼き煉瓦を敷きつめた構築物である。
古代ロタールの復元図
インド考古学協会作図
ロータル遺跡の「ドック」
 発掘者はそれを「ドック」と呼んだ。この施設は周壁に接した埠頭を持っており、その背後には城塞部とその基壇、そして穀物倉がある。そうしたことから、船だまりあるいは造船施設と考えられているが、それに疑問も出されている。
 クレンゲル氏は、「この内港がのちにたとえ潅漑用池に転用された可能性は否定できないにしても、しかしロータルの繁栄期にはおそらく外航船舶が接岸したり解体修理したりするために、一種のドックとして使われていたのではないだろうか。……さらに彩色土器には船が描かれているし、石でできた錨が7つ、粘土で作られた船の模型がいくつか発見されてもいる。これらの品は、前第三千年紀の後半にロータルの住人のなかに海上貿易に従事していた人々のいたことを、少なくとも仄めかしている……しかし、この西方との結びつきがどのくらい遠方にまで伸びていたのかは、まだ明らかでない。考古学で調べた結果では、メソポタアの商人が居たことを暗示するものは何もない」と述べている(同著、江上波夫・五味亨訳『古代オリエントの商人』、p.50、山川出版社、1983(原著1980))。
 さらに、「インドの商人たちはバグェル(つまりバビロニア)まで航海したという。船はパキスタン海岸やイランの沿岸にたちよりながら、おらくホルムーズ(ホルムス)海峡でオマーン海岸へ針路を変えたようだ。こうしてかれらはペルシア湾の南岸、つまり『ペルシア湾文化』に属する土地に到着した。ウンム・アン・ナールやバーレイン、ファイラカーでは新鮮な水が得られたし、新しい食糧も手に入った。帰路には主に、年に9か月あまりものあいだ、湾を吹き抜ける例の強い北西風を利用できた。この航路を走る船がどんな様子をしていたのか、あまりはっきりと描き出せないけれども、粘土製の小さな船模型がいくつかあって、帆を張ったマストが立っているから、いずれにしても帆船だったことはわかる。凪のときには櫂を用いた。おそらく商船の航海は風向きがいちばん好都合な日日の多い時期に集中していたことだろう。ペルシア湾と東アフリカ海岸との間を往復する2本マストの帆船は今日でもなおそうしている」(前同、p.51)。
▼ロータルの紅玉髄、ビーズ工房▼
 インダス文明とペルシア湾との海上交易は、インダス河口からアラビア海を経てホルムズ海峡まで約1000キロメートル、そしてホルムズ海峡からペルシア湾を縦断してシャット・アルアラブ河の河口まで約1000キロメートルであり、合わせて約2000キロメートルの海路をたどることになる。インダスの商人船主の船は、少なくとも1000キロメートル以上を航海しなければならない。それをクレンゲル氏は講談師、みたかのように書いている。
 ロータルには、約1500平方メートルの広さを持つビーズ工房が建設され、紅玉髄や瑠璃(ラピスラズリ)の原石を加工していた。紅玉髄の鉱山は、ロータルから少し離れているが、ナルマダー川流域にある。すでに幾度かみてきたように、紅玉髄などはインタス文明の主要な交易品である。それを意識的に生産していたのがロータルやドーラビーラーであった。なお、それらの都市は、インタス文明が地方に拡張するに当たって、計画都市として建設されたという。
紅玉髄
瑠璃(ラピスラズリ)
 こうしたかなり大きな規模のドックやビーズ工房、そして都市規模に比べ不釣り合いな穀物倉があることから、近藤英夫氏はロータルをインダス水系から離れた地ではあるが、インダス文明の交易センターあるいはペルシア湾との海上交易の一大拠点として建設されたとする(同稿「ロータル」『古代文明と遺跡の謎』、p.227-9、自由国民社、1998)。
 インダスの都市は、ペルシア湾に向けて、上記の紅玉髄や瑠璃をはじめ様々な奢侈品を持ち込んでいた。他方、ロータルなどインダスの都市に、ペルシア湾からどのような交易品が持ち込まれたかは、これまた不明である。それでも、ロータルからペルシア湾沿岸の遺跡の特徴とされる饅頭形の銅の鋳塊(インゴット)やペルシア湾式印章などが出土している。
 ジャック・ホークス氏は、まずインダスの都市から「いったいどんな物品が、舳先の高い、1本マストのインダスの帆船で運ばれたのだろう。めったに得ることのできない木材も重要だったろうし(「メルッハの机」という言及もある)、紅玉髄や真珠、象牙、またおそらくはペット用の猿、といった贅沢品もまた、珍重されたことだろう。……綿織物の交易をそれと考えてみたくなるが、その売買の証拠は何もない」(同著『古代文明』2、p.51、みすず書房、1980(原著1973))。
 次に、ペルシア湾からは、「銅はインダス文明の影響下にあったバルーチスターンやラージャスターン、もしくはアフガニスタンからもたらされたのであろうが、実はそのほとんどが、オマーンから船積みされたマカンの銅であったことがたしかなように思われる」という。それを輸入するに当たって、「いく艘かの船がロータルのようなはるか南部から船出し[た]、……その重要な証跡は、バハレーン島に集中している。前三千年紀末にその地に栄えたこの広大な城塞都市は、それなりに独自の文化をもってはいたが、そこではインダス式の度量衡が通用して」いたとする(前同、p.50-51)。
▼銅の産地、交易地としてのマガン▼
 古代ペルシア湾の交易地に関する文献は、ジョフレー・ビビー著、矢島文夫ほか訳『未知の古代文明ディルムン』(平凡社、1975(原著1970))は、いまなお身近で唯一の文献らしい。それは、ディムルンをバーレーン島、マガンあるいはマカンを現アブダビのウンム・アン・ナール島、また現クェートのファイラカ島をギリシア神話のイカロス島とみなし、それらを発掘してきた記録である。
 近年、それら交易地の発掘が進んでいるようであるが、ビビー氏の発掘時期、すなわち1950、60年代にあっては、墳墓円丘や印章は多く発見されているものの、海上交易の文書や遺物は未発見のようである。したがって、その史実の説明は、ほぼもっぱらメソポタミアの文書や先行文献に頼ることになっている(ディムルン発掘記録の要約は、前出『古代文明と遺跡の謎』にある)。
 ウンム・アン・ナール島はホルムズ海峡を通り、オマーン半島を回ったところにある。そこは、バーレーン島にくらべ小さく、また本土と近接しており、銅の積み出しには便利であろう。しかし、ビビー氏にあってもウンム・アン・ナール島は未解明らしい。「ウンム・アン・ナールは……インダス河谷文化と同時代か、いくらか早い時代のものであった。ところがインダス河谷文化は、われわれの[いう]バルバル文化、すなわちバハレーン島上の初期ディルムン期、都市2[前2300-1750年頃]と同時代であった」(前同、p.293)。
 それらがほぼ同時代であっても、ウンム・アン・ナールの墓はディムルンの墳墓円丘とは異質のものであり、「ウンム・アン・ナールが何であれ、ディルムン文化の一部ではなかった。……このウンム・アン・ナールが『下の海』の第2の『失われた文明』、銅の王国マカンの最初の前哨基地がこれだということの可能性をだんだんと強く感じ始めた」という。なお、第1の『失われた文明』は、いうまでもなく、ディルムンである(前同、p.294)。
 ウンム・アン・ナール島は、まずはオマール半島の銅山を後背地とした銅の積出港であった。そのため、様々な国々の商人が銅の見返りの産品を携えてきた。そこで、銅ばかりでなく、様々な国々の産品の交易も行われるようになり、ウンム・アン・ナール島は銅積出兼中継交易港になっていった。その時期と同じか少し後に、バーレーン島も中継交易港になっていた。
▼神々に愛された楽園ディルムン▼
 古代のディムルンあるいはティムルンは、
現在のバーレーン島とされている。バーレー
ンは、ティグリス河とユーフラテス河と合流し
たシャット・アルアラブ河の河口より、またホ
ルムズ海峡より、それぞれ約450キロメートル、
すなわちペルシア湾の中央に位置する。い
ずれからもダウ船で2日の距離である。それ
に加え、ディムルンがペルシア湾で唯一の給
水地であった。そして、ナツメヤシの産地でも
あった。
 ディムルンが、メソポタミアの文書に最初に
現れたのは前2520年頃に生存していたラガ
ッシュの王ウル・ナンシュの治世であり、「デ
ィムルンの船、外国より、貢納として木材を
私のもとに運んできた」とある。最後は、新バ
ビロニアの王ナボニドス(在位前556-539)の
治世前544年であり、「ディムルンの治政官」
にふれているという(ビビー前同、p.49)。
世界遺産バーレーン要塞
 ディルムンの古代の港と首都
 ビビー氏は、メソポタミア商人たちについて、ニンガル神殿出土の文書から「ディルムン行きの渡航貿易で〈魚の眼〉[特産の真珠]その他商品を購入するため……資金を集め、船荷をとりまとめていたこれらの商人たちは、なにも既知の世界のかなたの神話的な不死の国に向う、無謀な商船隊に出資していたわけではなかった。それは日常的な商売だったのであり、彼らが生計を立てる手段だったのである」と高く評価する。
 また、ニンガル神殿への10分の1税支払い記録には、ディルムン土着の人がリストされている。「従って、おそらく、両方の国の船が運輸にたずさわっていたあいだ、メソポタミアにはディルムン商人の居住地があったろうし、ディルムンにはメソポタミア商人の居住地があったろう」とみる。
 さらに続けて、「紀元前第二千年紀の始めの2世紀間はほかの国々の船もアラビア湾を横切ってディルムンを訪れ、そこの諸都市の城壁の下の岸辺に引き上げられたりしたであろう。マカンから来た船は銅の船荷をずっしりと積んでいたであろうし、インダス河谷文明の諸都市からの船は当時も今と同じように木材(また、確証はないけれどもたぶん綿)の積荷の他に、もっと軽く、もっと高価な象牙、ラピスラズリ、紅玉髄などの品を積んでいたであろう」とみなしている(以上、前同、p.199-200)。
 ウンム・アン・ナール島やバーレーン島は、メソポタミア・ペルシア湾・インダスに海上交易路を広げ、メソポタミアとインダスという二大文明の中継交易地となった。ここに、これら島々を楕円の焦点にして、世界ではじめて一つの海上交易圏が形成されたのである。マガンやディルムンが中継交易地として発展すれば、インダスの船はメソポタミアまではもとよりペルシア湾奧まで航海してこなくなり、むしろマガンやディルムンの船がホルムズ海峡を超えて、アラビア海のマクラーン沿岸に出向くようになったであろう。
 ジャケッタ・ホークス氏は、発掘者であるかのように、ディルムンの港を描く。「すなわち、海に面した主門のすぐ内側には井戸と飲み水用の桶を備えた小さな広場があって、その正面には二つの建物があり、そこからはいくつかの印章と、一組となったインダス式の分銅がみつかった。荷を積んできた者たちは、この広場でロバから積み荷をおろしたり、ロバに水をやったりしたにちがいない。……その主人たちは、きっと税関吏たちと一悶着おこしていたことだろう。ここは、すべてが
計量され、関税が計算され、船荷証券に印を
押し、また船荷そのものに捺印する場所であ
ったと思われる。……やがてついに荷は再び
積み上げられ、ロバの手綱が鳴って、町へ埠
頭へと追いたてられていったことだろう。埠頭
には大きなインドの帆船だとか、マカンから、
もしくは平原部の都市からやつてきた船もつ
ながれていたことと思われる」(同『古代文明
史』1、p.184、みすず書房、1978(原著
1973))。
 なお、ファイラカについて、ディルムン「都市
2と同時代の文化と正確に同類の印章や陶
器を出土し、……バハレーンと同じくまさしく
ディルムン文化の一部分なのであった」とさ
れる(ビビー前同、p.294)。
ファイラカ遺跡と同出土のディルムンの印章
前2000頃
クェート国立博物館蔵
▼ディルムンのインダス交易重視▼
 さらに、ビビー氏は次のようなウルの文書を紹介する。これはシュメールの三大神で、水と土地の神であるエンキ神のディルムン祝福だという。これはディルムンが扱う中継交易品の一覧といえる。
ディルムンの中継交易品
願わくはトゥクリシュの地が汝〔ディルムンのこと〕にハラリ産の金、ラピスラズリを送らんことを……、
願わくはメルッハの地が汝にえもいわれぬ〔?〕高価な紅玉髄、メス・シャガン木[?]、見事な海の木[珊瑚]、舟乗りらをもたらさんことを、
願わくはマルハシの地が汝に宝石、水晶をもたらさんことを、
願わくはマガンの地が汝に強き銅、……の強さ、閃緑岩、ウ石[?]、シュマン石[?]をもたらさんことを、
願わくは海の国が汝に黒檀、王の……装飾を送らんことを、
願わくはザラムガルの地が汝に羊毛、良き鉱石を送らんこと……、
願わくはエラムの地が汝に……羊毛、貢物を送らんことを、
願わくはウルの神殿、親族の貴賓ら、……の都市が汝に穀類、ごま油、壮麗な衣服、りっぱな衣服、舟乗りたちを送らんことを、
願わくはわだつみの海が溢れる富を汝にもたらさんことを。
城市――その家々は良き住家、
ディルムン――その家々は良き住家……、
出所:ジョフレー・ビビー著、矢島文夫ほか訳『未知の古代文明ディルムン』、p.202、平凡社、1975(原著1970)
 これについてビビー氏はまったく解説していない。クレンゲル氏は、同じ史料を用い、トゥクリシュはイランのルリスターン地方、マルハシはイランの山岳地帯、海の国はペルシア湾岸、ザラムガルは天幕の国として説明している(クレンゲル前同、p.59-60)。なお、その一覧のなかで「舟乗りたちを送らん」とあるのは、交易船の渡来を歓迎する文言であろうが、ディルムンの船ともかく、ウルとメルッハだけが交易船を送り込んでいたことを示していよう。なお、ウルは前二千年紀前半まで、海岸に面していた。
 ビビー氏は、A・L・オッペンハイム稿「ウルの航海商人」(『アメリカ・オリエント協会雑誌』74、1954年)という論文にある「ディルムンの繁栄がインダス河谷文明からの贅沢品とマカンからの銅の運送貿易に依存していたということ、……そしてインダス貿易はインダスの諸都市が……紀元前1600年頃、また……同じ頃マカンの銅貿易も崩壊したということでディルムンは衰退した」という見解を紹介している(ビビー前同、p.358)。
 海上交易にとってより有用な史料が「インダス文明の諸都市で使用された普通の分銅」の出土である。ビビー氏は、「バビロニア人やシュメール人は、まったく別の制度を使用していた。……ディルムンにおよんだ最初の商業上の刺激が、メソポタミアからではなく、インドから来たに違いないとするか、さもなければ、ディルムンにとっては、インドのほうがメソポタミアよりはるかに重要な商取引の相手だったか」である(前同、p.372)。それは明らかに後者であろう。いま上でみたように、ウルやエラムからの交易品は穀類、ごま油、衣服(特に毛織物)、そして羊毛であるので、細かく計量するまでもない。それに対して、インダスからの交易品は、少量で高価な貴石、宝飾品だからである。
 最後に、強調すべきことは、ディルムンはウンム・アン・ナール島と違って、その最初から純粋に中継交易地として発展してきたことである。ディルムンは、繰り返さないが、マガンのように後背地を持たないものの、中継交易地としての優れた立地を備えていた。
 前三千年紀からはじまったディルムンの中継交易も、前二千年紀初期に入ると衰退しはじめる。それは、一方ではインダス文明の諸都市の急速な衰退(その原因には諸説あり)と、他方ではメソポタミアでは諸国家が鼎立し、その経済の重心が大河の中・上流域に移り、さらに地中海との交易が広がったことにある。それに加え、鉄器時代に入ったことによって、マガン銅の需要が減退したに違いない。
 ディルムンの最盛期は前2200年から前1600年までとされる。その後消長を繰り返し、ヘレニズム支配、イスラーム、そしてポルトガル支配の時代を経て、今日においてもバーレーンは国際金融センターとして世界の架け橋(?!)となっている。
 このように、ディルムンやマガンは世界最初の海上交易圏の偉大な中継交易地であったが、その担い手たる商人船主や、それが用いた船については、まったくと言っていいほど不明である。
▼ペルシア湾交易に関する新説▼
 後藤 健氏は、「インダスとメソポタミアの間」(近藤英夫ほか編著『四大文明[インダス]』、p.178-192、NHK出版、2000.8)という興味深い一文を草して、「最近に至るまで、インダス文明とメソポタミア文明の間で、活発な交易活動が繰り広げられていた……この『定説』に対する挑戦を行う」と宣言する。この主張を示す概念図はWebページ【1・1・2 オリエント―遠隔地交易人の登場―】掲載している。
 インダス出土の印章などのなかには、マガンやディルムン産のものはあるが、メソポタミア製品は何一つない。その上で、「アッカドの港にやってきた『メルッハよりの船』は、本当にインダス文明の船なのだろうか」、「筆者はこの船が『メルッハ産物資を積んだマガン国の外洋船』だったと考えている。海上交易を支配するマガン国[には]……メソポタミアから持ち帰られた土器も出土している。しかしそれはインダスへは届かなかった。インダス文明の異物[出土品]に、メソポタミア製品は何一つない。……インダス文明が必要とするメソポタミア製品など何もなかったのだ」として、安直な『定説』を否定する。それはよしとして、当面の問題は次の脈略である。
 まず、前27世紀末、イラン高原のアラッタ国に、エラム人のトランス・エラム文明が興る。「前2400年頃、オマーン半島の西岸、アブダビのウンム・アン・ナール島が突然[?!]都市化」する。そこで興ったウンム・アン・ナール文明は、「トランス・エラム文明の移転と考えられ……[その]島に新首都をつくり、オマーン半島全域に及ぶ」、「その目的は銅山の開発のほかに、メソポタミア、イラン、そしてインダス地方を海の道でつなぐことにあった」、この「文明の成立は、海洋時代の幕開けだった」だという。
 次いで、「オマーン半島内陸の山地には銅鉱山があり、……当時すでに大規模な採掘・精錬が行われていた」が、「ウンム・アン・ナール文明は、前21世紀に、オマーン半島から[ペルシア]湾奥のバーレーン島へ中心地を移し……遠い国との交易活動を行っていたマガン国の指導部だけが、バーレーン砦の新首都へ引っ越した」という。
 後藤 健氏は、それをバールバール文明として、「マガン国の資産はすべて受け継ぎ、発展させた新文明であった」とまでいう。なお、ビビー氏はすでにみたように、このバルバル文化とウンム・アン・ナール文明とは異質としており、それが移転したとはみなしていない。きわめて当然である。
 そして、「バーレーン島は湾奥に位置し、豊富な地下水と良港に恵まれていたため、新たな湾岸のセンターとなったが、さらに湾奥にあるクェートのファイラカ島にメソポタミアとの交易基地を置くことで、実務は一層合理化した」と整理する。
 インダス文明の出自をエラム人にあるとしているので、かれらは4つの文明を築いたことになる。それは気宇広大な話ではある。これらの文明の「移転」「変身」「引っ越し」の時期や、それらの根拠あるいは理由について詳しい説明はない。ただトランス・エラム文明の「海路の開発」の延長線で語られているだけである。これが後藤 健氏のいう21世紀の「新しい古代文明論の探求」である。
▼ペルシア湾・アラビア海交易の総括▼
 後藤 健氏はマガンの「最初の銅山開発は……前3000年前後にさかのぼる可能性さえある」ともいう。その時期はメソポタミアにおける青銅器時代の始まりに対応しよう。また、マガンのウンム・アン・ナール島が突然都市化した前2400年頃は、メソポタミアにおいて青銅に本格的な需要が発生した時期に対応しよう。
 すでにみたように、前2520年のメソポタミアの文書に、バーレーン島すなわちディルムンが現れている。これにしたがえば、バーレーン島は前2400年のかなり以前から交易地になっていたのであり、またウンム・アン・ナール島はそれが突然都市化したのであるから、バーレーン島に遅れて交易地となったということになる。それら交易地が、ファイラカ島を含め「島」であることは自立的な中継交易地となるための重要な要件とみられるが、ここではこれ以上問わない。
 さらに、マガンの指導部だけがバーレーン島に引っ越したという前21世紀は、どういう時期だったのか。この前21世紀は、後藤 健氏も紹介する「アッカド王サルゴン(在位:前2334-前2279年)は海国ディルムンを三度攻囲した」、またかれの「孫ナラム・シン王(在位:前2269-前2255年)が、より積極的に湾岸に軍事遠征を行い、マガン王を捕虜にした」という、ウル第三王朝最盛期のかなり後である。アッカド王たちの遠征図はWebページ【1・1・2 オリエント―遠隔地交易人の登場―】に掲載している。
 それはさておき、マガンの指導部だけの引っ越しについては想像をたくましくしえない。いまみたサルゴンや孫の事績とその時期からみて、マガン国の指導部がメソポタミアの王に圧迫されていたことは争えない。そのため敗退を余儀なくされた指導部が、ウンム・アン・ナール島より約400キロメートルもメソポタミア寄りの湾奧のバーレーン島に引っ越しするであろうか。そのようなマガン国の指導部をメソポタミアが交易相手とすることなどありえない。
 それでも、後藤 健氏が文明を「交易ネットワーク」ととらえ、その「移転」を問うていることは示唆的である。そこで、次のようにとらえなおしてはどうか。
 その時期はともかく、マガンのウンム・アン・ナール島が都市化したのは(それが突然ということはありえないが)、マガンの銅鉱山の開発に伴って海上交易人が次第に集結し始め、ある時期に「海上交易を支配する[?!]国際貿易港」になったと解しうる。ここで重要なことは、そこに集結した海上交易人は、根っからのマガン人だけではなく、エラム人、ウル人、そしてメルッハ人など、雑多な人々で構成されていた。また、かれらは単なる商人だけではなく、その多くは商人船主であり、銅の買い付けばかりでなく、様々な国々の産品の中継交易に携わることになったであろう。
 また、メソポタミアがマガンを圧迫するという政治情勢のなかで、マガン国の指導部だけでなく海上交易人たちもが、突然ではなく逐次、すでに有力な中継交易地となっていたバーレーン島に引っ越した(あるいはメソポタミアの王にそうさせられた)のではないのか。
 その引っ越しは、新参入の海上交易人にとっては形式的には新たな交易統制者の支配下に入ったことになるが、バーレーン島の海上交易人にあっては新参入者を受け入れてさらに力を蓄え、メソポタミアやマガンの交易統制者からそれになりに自立し、そこを自前の中継交易都市として建設したのではないか。
 さらに付け加えれば、バーレーン島の海上交易人たちも、すでに前21世紀よりはるか以前からインダス文明から都市計画を学び、それを取り入れて都市を建設したのではないか。それがビビー氏のいう、石積みの家屋が四角い通路に整然と建ち並ぶ、都市第2であろう。
 なお、後藤 健氏はバーレーン島がファイラカ島を交易基地としたことについて、それによって「実務は一層合理化した」というだけであるが、それだけであろうか。いまみたように、自前の交易中継都市を建設するまでになったバーレーン島の海上交易人は、さらに積極的にメソポタミアの喉元まで進出したのではないか。それによって、それでなくても弱体であったメソポタミア人の海上交易は、バーレーン島の海上交易人にますます依存していくことになったとみられる。
▼古代海上交易圏モデル▼
 まずいえることは、海上交易の世界史の嚆矢として、古代においてメソポタミア・ペルシア湾・インダスに一つの海上交易圏が形成されたことである。しかも、その海上交易圏がディルムン(バーレーン島)を根拠地とする商人たちが、中継交易に携わることによって維持されていたことである。
 この古代海上交易圏を、一つのモデルとして示せば、次のようになろう。(1)メソポタミアはディルムンに、穀物、油、皮革、羊毛、毛織物などを輸出する。(2)インダスはディルムンに、紅玉髄、真珠、黒檀、象牙などを輸出する。(3)マガンはディルムンに、銅を輸出する。(4)ディルムンは、それら国々の交易品の一部を消費するが、そのほとんどを再輸出する。(5)マガンはディルムンから、主としてメソポタミアの産品を輸入する。(6)インダスはディルムンから、マガンの銅、メソポタミアの一部産品を輸入する。(7)メソポタミアはディルムンから、マガンの銅、インダスのあらゆる産品を輸入する。
 メソポタミアは農産品を、インダスは奢侈品を輸出している。また、メソポタミアはあらゆる交易品の需要者となっているが、インダスは一部の交易品の需要者になるにとどまる。メソポタミアはインダスにくらべ交易の必要に迫れており、それらが二国間だけで直接交易を行えば、メソポタミアは大入超、インダスは大出超となり成り立たない。このように、二大文明国は非対称的である。
 マガンは銅のモノカルチャーの国であり、それを見返りにして、メソポタミアの産品を輸入している。そのマガンの銅はメソポタミアとインダスが需要者となっている。したがって、インダスが銅の需要を減少させれば、この海上交易圏は縮小を余儀なくされる。この交易圏において弱い環はインダスとの交易となっている。
 そこに登場するのがディルムンである。ディルムンが、貨幣、決済や金融が未発達なもとで、中継交易者となることによって、メソポタミアとインダスとの交易不均衡をマガン銅の交易でもって調整し、それによってマガンの銅モノカルチャー経済を維持しながら、総じてメソポタミア・ペルシア湾・インダス海上交易圏を成立させている。
 最後に、メソポタミア・ペルシア湾・インダスにおける海上交易の衰退については、すでにディルムン国の衰退としてふれているが、いま一度、後藤 健氏に語ってもらおう。「ディルムン国によるメソポタミアヘの遠隔地物資の供給は、前18世紀頃停止する。インダス文明が前1800年頃に衰え始め、やがて消滅するからである。ディルムン国の供給物資は、オマーン半島の銅など限られた品目となった。同じ頃、メソポタミア南部でもウルをはじめとする都市の荒廃が進んだ。そしてアナトリアやアラシア(キプロス)産の廉い銅がメソポタミアには入るようになった。ユーフラテス川の上流域が新たな交易路として開発された結果、湾岸交易による物資供給の独占は過去のものとなった」のである(後藤同前、p.190-1)。
 メソポタミアでは、マガンの銅だけに依存していたわけではなく、早い時期から銅鉱石をイラン高原のアナーラク地方から、また錫はアフガニスタン西部からペルシア湾経由で輸入していたとされる。また、インダスにおいても、すでにみたように、銅を近隣諸国から入手する陸上交易がなかったわけではない。さらに、すでにみたように、鉄器時代に入ったことにより、マガン銅の需要が減退しつつあったであろう。
▼若干のまとめ▼
 こうして、一つの古代海上交易圏はメソポタミア文明の発生・発展を前提として、一方ではインダス文明の興隆と衰退、他方ではマガン銅の需要の変転によって、その発生、発展、終焉をたどることになった。
 この古代海上交易圏は、前2500-1800年の約700年間存続したが、それが長いのか短いのか。また、この古代海上交易圏が強固であったのか、ぜい弱であったのかも、にわかに判断しがたい。メソポタミアはともかく、マガンやディルムンの海上交易商人の実相は不明である。それらの交易品は一応明らかではあるが、それらの規模がどれくらいあったのか。また、その交易に使用された船は帆を掲げるもできる葦舟なのか、木造船なのか、その概要さえ具体的には明らかにしえない。
 古代の交易が支配者の威信を維持するための財貨の入手にあるとき、メソポタミアとは違って、インダスには専制的で好戦的な王はおらず、ほとんどの奢侈品は自給されていた。事実、インダスにはメソポタミア産の遺物は、ほとんど出土していない。インダスが、確かにマガンの銅やメソポタミアの一部産品を輸入していたとしても、その輸入量はわずかであったであろう。
 こうした弱い環を、世界最初の海上交易圏たらしめたインダス交易それ自身が持っていたので、その海上交易圏において大いなる交易とか、活発な交易活動とかがみられたといえる状況には、到底なかったとみられる。そこでの海上交易は、インダスやペルシア湾の商人たちの、きわめて少数の船が少量の貨物を積み、年1回、せいぜい隔年くらいで、それぞれの交易地に訪れる程度であったとみられる。ただ、ペルシア湾内においては、安定的とはいえないとしても、継続的な海上交易が行われていたであろう。
 この古代オリエントとインダスとの交易は、まさに2つの古代文明間における遠隔国交易としての海上交易であり、そこに世界最初の海上交易圏が形成されたかにみえる。しかし、その交易はインダスとの交易に依存しする、断続的でぜい弱な交易であった。そのため、世界最初の海上交易圏が本格的に形成したとはいいがたい。それはペルシア湾交易の延長であったと見られる。
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