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Chapter 2 Bridge to the Maritime Trading Area
 - The World of the East Mediterranean -

1・2・1 ビブロス、ウガリット―古代文明の十字路―
1.2.1 Byblos, Ugari - The Crossroads of Ancient Civilization -

▼ビブロス、エジプトの橋頭堡▼
 エジプトそしてメソポタミアの二大文明が交差する東地中海アジアもオリエントの一部である。そこは、前二千年紀まで二大文明の草刈り場であったが、部族国家が生まれ、次第に交易の当事者として力を蓄えてくる。その展開軸なったのは、さらなる銅の需要の増大にあった。キプロスやクレタを含む東地中海アジアの港市が繁栄を迎える。
 そこには大河はないが、ローマ人たちが「われらの海」と呼んだ海がある。この東地中海アジアには、二大文明の外港ともいえる地位を占めた、北にあるウガリット、南にあるテュロス、そしてその中間にあるビブロスという古代都市がある。それら都市はフェニキアの一部である。フェニキアは北のカシウス山から南のカルメル山までの東地中海アジア海岸にある。なお、東地中海アジア海岸は600キロメートルほどあるが、フェニキアは3分の2を占める。それ以外がパレスティナである。
 ナイルの河口は地中海に開けているが、エジプトはレバノン・ベイルートの北約37キロメートルのところにあるビブロス(ビュブロス)(現ジュベイル)を、東地中海アジアとの接触拠点としていた。そこは、古代フェニキアのなかでも最古の都市である。エジプトとの接触はすでに前3000年頃からはじまり、前二千年紀末まで深い関わりがあったとされる。その遺跡の規模は概して小規模とされている(遺跡等については、常木 晃「ビュブロス」『古代文明と遺跡の謎』、自由国民社、1998参照)。
 ビブロスは、レバノン山脈と地中海に挟まれた細長い海岸にできた都市の一つであるが、ギリシア語でパピルスを意味する。ビブロスには、北方から海路や陸路を通って、またユーフ
エジプト、ベル・エル・アラク出土の
象牙製ナイフのつか
左の海陸戦闘場面には、
下段にエジプト、その上にメソポタミアの船
前3300-3200頃
ルーヴル美術館蔵
ラテス河からパルミュラ経由で、様々な商品が持ち込まれた。それらはエジプトやビブロスの船に積み替えられ、エジプトに輸出されたという。他方、エジプト産パピルスを、地中海世界に向けて輸出する中継交易港となっていた。なお、ギリシアに持ち込まれたパピルスは、一時、帆装用ロープとしても使用されたという。
 ビブロスを特に有名しているのは、レバノン山脈から切り出される良質の杉である(すでに、ローマ時代に著しく減少していたらしく、いまはわずかしかない)。ビブロスはその主要な積出港であったことである。世界最古の文学『ギルガメシュ叙事詩』(前2000年頃)にはレバノン杉をあつかったくだりがある。このレバノン杉は、エジプトばかりでなく、オリエントの支配者にとって垂涎の的であった。
フェニキア時代からのビブロスの港
ビブロスの廃墟(オベリスク)
出所:フィリップ・パーカー編著、蔵持不三也、嶋内博愛訳『世界の交易ルート大図鑑 陸・海路を渡った人・物・文化の歴史』、p.31、柊風舎、2015
 古王国時代のエジプトはビブロスの友好的な交易相手であったであろう。しかし、「エジプトが中王国のファラオのもとで、前第二千年紀の初めに再び積極的なアジア政策に転じたとき、エジプトの関心は経済的理由により再びグブラー(ビュブロス)に集中した。このシリアの港市は自分の方としてもエジプトと接触することに関心を抱いていた。その主な富であるレバノンの材木をナイルの国ならいちばんよく買ってくれると見たからであり、そのエジプトの方はといえば、代わりに〔グブラーで〕好評の品々を送ることができた。しかも海路で楽々行けた」からである(ホルスト・クレンゲル著、江上波夫・五味亨訳『古代オリエントの商人』、p.195、山川出版社、1983)。
 アメンエムハト3世(在位前1844−1797頃)治世、ビブロスの支配者はエジプト風の称号で呼ばれ、その官僚とみなされた。さらに、新王国時代、エジプトは東地中海アジアの最奧まで外征する。「グブラー(ビュブロス)が、エジプトの勢力が直接振りかかる勢力圏内に呑み込まれてしまったのは、ようやく前第二千年紀も半ばを過ぎてからのことだった。
 第18王朝のファラオたちは、単独であるいは連合して、その行く手を遮るパレスティナやシリアの領主たちを討ち、軍隊をはるか遠方の西アジア方面にまで踏み入らせた。グブラーの後背地はエジプト領となり、グブラーそのものも、さらに続く前進の重要な拠点となった。軍隊が上陸し、トゥトメス(ジェフティメス)3世[在位前1479−25頃]がユーフラテス川を航行するのに用いた船もここで建造された」(前同、p.196)。
 このトトメス3世がユーフラテス河まで持ち込んだ船は、「ビュブロスの貴婦人の近くのにある神の山」と形容された、レバノン山脈に生い茂った杉材で建造され、その船は「牛にひかれた二輪車の上に搭載され、……大いなる川を横断すべく、わが陛下の前を進んでいった」という碑文がある。「牛にひかれた二輪車」とは何か。そうした車があったとしても、小型の船しか載せられないであろうから、それを見せることはありえない。多分解体して運んだのであろう。
 これ以外に、エジプトが外征にあたってビブロスなどで船舶を建造したり、あるいは船舶を徴用したりしたことを示す史料はないが、それでも前6世紀ペルシアのカンビュセス2世(在位前530-522)が侵攻してきたとき、それを迎え撃ったエジプトにおいてギリシア人傭兵とフェニキア船団とのあいだに不和が生じたという例がある。
 エジプトは、ビブロスとは比べものにならない国際交易港のウガリット(後述する)とも関わりはあったが、ウガリットの交易品が直接、エジプトに持ち込まれることはまれであった。それは、「ウガリトはエーゲ海貿易にその圧倒的比重をかけていたからであり、だからエジプトとの貿易はレヴァント[東地中海アジア]諸市のうちでもおそらくグブラーが優位を占めていただろう。それには長い伝統があった」からとされる(前同、p.195)。
 前13-12世紀になり、「海の民」(小アジアやエーゲ海などから、他部族の外圧や食糧飢饉に追い立てられ、移住を目指して海を渡ってきた武装集団)が東地中海アジアに進出してくると、エジプトはその地域から後退せざるをえなくなる。そうした混乱のなかで、ビブロスはじめフェニキアの諸都市はむしろ都市国家として独立し、交易を拡大する。そのなかで、すでにWebページ【1・1・1 エジプト―外国人商人に依存―】の『ウェンアメンの航海記』でみたように、ビブロスの王はエジプトの王と対等な立場で贈答交易を行うまでになる。しかし、アッシリアやペルシアが勃興すると、その勢力圏に組み込まれる(後述のウガリットも同じ)。そして、前7世紀末、ナイル河西デルタのナウクラティスに、ギリシアの植民地が建設されると、ビブロスは中継交易地としての地位を失う。
▼レバノン杉の交易と輸送▼
 レバノン杉は、腐食や昆虫に強く、材質が緻密で、まっすぐな木目をしており、磨くとつやがつき、芳香性があった。それは船材、建材、墓材、香油(ミイラの防腐剤)などに使用された。その例として、すでにWebページ【1・1・1 エジプト―外国人商人に依存―】でみたようにスネフェル王(在位前2575−2551頃)の40隻分の杉材輸入(それで全長100キュピット、約52メートルの船を造ったとされる)や、クフ王(在位前2551−2528頃)の大ピラミッドの舟抗に入れられていたクフ王の船の材料や、よく知られているツタンカーメン王(前1343-1325頃)の棺や調度品の素材を上げればたりよう。
 エジプトでは、前三千年紀、古王国時代、「樅材の家」という特別の役所が設けられ、当時の文書に特別な型の「ビュブロス船というのが現われ」、またエジプトから「植民者」としての木こりがビブロスに派遣されていたという。
 エジプトに持ち込まれたレバノン杉は、「むしろビュブロスの住人たち、とりわけその領主や神々からエジプト人に向けての好意を取りつけようと願ってなされた、寄進物だった。……ビュブロスまで軍隊を動かすようなエジプトの軍事行動が
レバノン杉
あったという事実は、今のところ前第三千年紀には知られていない。だから、この需要の多い資材がレバノンの森からナイルの国までもってこられたのは、明らかに交易を通じてのことだった(むしろ略奪的な交易とでも表現すべきものかもしれないが)。エジプト人は自分らの樵部隊を派遣して、かれらを地方当局者たちへの贈り物とした。しかし、交易の枠内に入るエジプト製品の輸出はまだ確認されていない」という(前同、p.83)。
 この文言は読みとりにくいが、前三千年紀においてはレバノン杉の一部が寄進物、その多くが交易品、ときには略奪品であったということであろう。しかし、これら調達の性格はエジプトとビブロスとの国際関係の変転によって変化したことであろう。
 時代はかなり下るが、レバノン杉が贈答交易された実例ではあるが、それを示す数少ない史料が、旧約聖書『列王記』上に残されている。
ソロモンとヒラムの贈答交易
古代イスラエル・ユダ複合王国の王ソロモン(在位前965-26)は、自らを有名にしたソロモン神殿にレバノン杉を用いた。それに当たり、テュロス(現レバノン・スール)の王ヒラム(在位前969-936)にいった―引用者補注】。
05:20 「それゆえ、わたしたちのためにレバノンから杉を切り出すよう、お命じください。わたしの家臣たちもあなたの家臣たちと共に働かせます。あなたの家臣たちへは、仰せのとおりの賃金をわたしが支払います。ご存じのように、当方にはシドンの人のような伐採の熟練者がいないからです。」
05:21 ヒラムはソロモンの言葉を聞いて大いに喜び、「今日こそ、主はたたえられますように。主は、この大いなる民を治める聡明な子をダビデにお与えになった」と言った。
05:22 ヒラムは使節を遣わして、こう言わせた。「御用件は確かに承りました。レバノン杉のみならず糸杉の木材についても、お望みどおりにいたしましょう。
05:23 わたしの家臣たちにこれをレバノンから海まで運ばせ、わたしはそれをいかだに組んで、海路あなたの指定する場所に届け、そこでいかだを解きますから、お受け取りください。あなたには、わたしの家のための食糧を提供してくださるよう望みます。」
05:24 こうしてヒラムはソロモンの望みどおりレバノン杉と糸杉の木材を提供し、
05:25 ソロモンはヒラムにその家のための食糧として、小麦2万コル[1コル、約360リットル]と純粋のオリーブ油20コルを提供した
出所:新共同訳旧約聖書『列王記』上、05:20-25、日本聖書協会、1987
 フェニキア南部の都市が勃興したのは、エジプトとミンタニが友好関係に入った前14世紀とされており、それはエジプトがフェニキアの都市に交易を請け負わせたことによる。トトメス3世が神殿建設に熱心であったことから、エジプトの木材輸入は膨大な量になったとされる。それまで、木材の輸出はほぼもっぱらビブロスが請け負っていたが、その量の増加とともに、ほとんどのフェニキア都市に広がったとされる。
 クレンゲル氏は、レバノン杉の見返りとして、エジプトがどのような産品をフェニキアの都市に輸出したかは、明らかにしえないという。確かに、遺物になりうるような見返り品はなかったのであろう。しかし、すでにみたようにパピルスがあり、様々な農産品が持ち込まれていたに違いない。それらは遺物になりえないものばかりである。
 特別な型のビブロス船について、クレンゲル氏は「ビュブロスに向かって走った船は、初めのうちはアカシア材とかいちじく材で組み立てられたうえで、索具で船体を締めつけただけの簡単な船だったが、のちになると輸入した硬い木材でも造られるようになった。あるいはビュブロスで造らせることもあった」という(前同、p.82)。これについても少々理解しがたいところがある。エジプト製ビブロス向けの船は葦舟ではなく、木造船であったとしている。エジプトは、木こりを派遣していたことからいえば、その船はもっぱらビブロス製であったとみられる。そうだとして、木材をどのように積み付けして、輸送してのであろうか。それを示す史料はない。
 それはともかく、エジプトに持ち込まれたレバノン杉は、どこに陸揚げされたかであるが、それは距離的に有利なナイル河の東デルタではなく、西デルタであった。西デルタには、後年、ギリシアの植民地ナウクラティスやアレクサンドリアが建設されたことでも明らかなように、外圧がなく、外洋船の入港やナイル河へのアクセスが良かったからであろう。
 そうした推定ではなく、レバノン杉がどのよ
うに輸送されたかについて、その実態を示す
浮き彫り「木材輸送・陸揚げ図」(イラク・コル
サバード出土、アラバスター製、前8世紀)が
ある(『NHKルーブル美術館T』、p.138-40、
1975)。それは、エジプトでなくアッシリア向け
であり、また時代はかなり下がって、サルゴ
ン2世(在位前721-05)時代の前8世紀の遺
物である。
 それはともかく、この遺物は数少ない海上
輸送図であり、フェニキア海岸を北上すると
ころを描いているとされる(案外、川船かもし
れない)。輸送船は馬頭船首像を持つ葦船
のようである。それを片舷4、5人で櫓を漕ぎ、
2、3本の杉丸太を曳航するとともに、不思議
にも4、5枚の杉板を屋根のようにして載せて
輸送している図である。輸送船以外に見張り
台を持つ船がみえる。この船は杉丸太を曳
航せず、輸送船とは逆の向けに漕がれてお
り、指揮船あるいは監視船であろう。
 この輸送船が杉材をどこで陸揚げしたか、
また陸揚げ後、コルサバード(旧ドゥル・シャ
ッルキン)までどのように輸送したかは、もち
ろん不明である。陸上輸送はより平坦な交易
路をたどったであろう。まず、シリアのラタキア
あたりに陸揚げし、ロバに牽かせて(ラクダが
隊商に用いられるのは前二千年紀末期とさ
れる)、エブラやアレッポ経由で、エマール郊
外の現アサド湖付近まで持ち込み、イカダを
組んで、高低差の少ないユーフラテス河を中
流域(バクダッド)まで流し、そしてティグリス
河を海上輸送と同じようにして、コルサバード
まで遡航したとみられる。
メソポタミアに乏しいレバノン杉の運搬
イラク北部コルサバード遺跡出土、前8世紀
ルーヴル美術館蔵
サルゴン2世の宮殿に向けて、
危険なことに、船の屋根に材木を乗せているが、
舷側に抱えた材木を描写したものとみられる。
船尾からも材木を曳いている
 レバノン杉の陸上輸送について、ジャケッタ・ホークス氏は「その丸太はまず、オロンテス川に面したアララク(おそらくここにはメソポタミアからの差配人がいた)を経由して牡牛の群れに引かれてゆき、さらにアレッポ高原を越えてユーフラテス川の最西端に達し、さらにそこから川の流れを下って運ばれた。この行程は、ギルスに自ら建立した神殿について述べているグデア[ウル第三王朝の王、在位前2144-24頃]の記録に、生き生きと描かれている。すなわち――『グデアは……前人未踏の『杉の山』にいたる道を備えた。彼はその杉を、大いなる斧で切った。……巨大な蛇のように、杉のいかだは水の流れを下っていった……』」と説明する(同著『古代文明史』1、p.180、みすず書房、1978(原著1973))。
 最後に、金子史朗氏によればレバノン杉には風格があり、高貴にみえ、「権力の象徴」であったが、それを育んだ山々は裸になった。それで財を築き、驕慢となったテュロスの領主ヒラムを、予言者エゼキエルはレバノン杉の運命を操った一人として、下記のように断罪しているという(同著『レバノン杉のたどった道』、p.57、原書房、1990)。
 エゼキエル、テュロスの領主ヒラムを断罪する
27:25タルシシュの船はお前[テュロスの領主ヒラム]の物品を運び回った。お前は荷を重く積み海の真ん中を進んだ。
27:26漕ぎ手がお前を大海原に漕ぎ出したが、東風がお前を打ち砕いた海の真ん中で。
27:27お前の富、商品、物品、船乗り、水夫、水漏れを繕う者、物品を交換する者、船上のすべての戦士、すべての乗組員たちは、お前が滅びる日に海の真ん中に沈む。
27:28水夫たちの叫び声で、町を取りまく地は震える。
27:29櫂を漕ぐ者は皆、その船から降り、船乗りと水夫たちは皆、陸に立ち、
27:30お前のために声をあげて、いたく泣き叫ぶ。彼らは頭に塵をかぶり、灰の中で転げ回る。
27:31彼らはお前のために頭をそり、粗布を身にまとい、お前のために心を痛めて泣き、痛ましい悲しみの声をあげる。
27:32また嘆きの声をあげて、哀歌をうたいお前のために挽歌をうたう。誰が海の真ん中で、テュロスと同じようになっただろうか。
27:33お前は海を越えて商品を輸出し、多くの国々の民を飽き足らせ、豊かな富と産物で、地上の王たちを富ませた。
27:34今、お前は海で難破し、水中深く沈んだ。お前の積み荷とすべての乗組員は沈んだ。
27:35海沿いの国々の住民は皆、お前のことで驚き、王たちは恐れおののき、顔はゆがんでいた。
27:36諸国の民の商人は口笛を吹いて、お前を嘲る。お前は人々に恐怖を引き起こし、とこしえに消えうせる。
出所:新共同訳旧約聖書『エゼキエル書』、27:25-36、日本聖書協会、1987
▼地中海への出口、ウガリット▼
 ウガリット(ウガリト)という古代都市(現シリアのラス・シャムラ遺跡)は、いまみたエブラやアレッポへの入口となるラタキアの北10キロメートルのところにあり、またメソポタミアからシリア砂漠を越えて地中海に入る交易路の出口である。他のフェニキア都市とは違って平地があり、農業が盛んに行われ、穀物、ワイン、オリーブ油を産出していた。特に、油はゴマ油でなくオリーブ油であることが注目され、またワインは銘柄が多く、ストラボン(前63?-後24?、古代ギリシャの地理学者・歴史家)が称賛したという。
 ウガリットは前1900-1200年頃に栄えたが、その遺跡は最盛期の前14-13世紀のものでかなり大きく、宮殿地区、居住地区、外港ミネト・エル・ベイダ(白い港)に分かれ、十分に整備されていた。バアル神殿遺跡の周辺には、奉納された石製の錨が発見されている(遺跡等については、後藤 健「ウガリット」『古代文明と遺跡の謎』、自由国民社、1998参照)。
 前13世紀のウガリットの粘土板には、楔形文字を転用した独自のアルファベットが用いられている。それは、後のフェニキア・アルファベットに移行するが、最古のアルファベットであった。こうしたアルファベットの発明、その他出土品から、ウガリットは地中海交易で活躍するフェニキア文明の原型と考えられ、ビブロスはともかく、他のフェニキア海港都市の先駆であった。それ
ラス・シャムラにある古代の港湾都市
ら都市は当然、交易の競争相手であったが、強敵はエーゲ海のクレタやミケーネであった。
 前15-14世紀のオリエント世界は、それら国々の外交書簡を集めたアマルナ文書によれば、エジプトが「わが兄弟」と呼ぶ大国(バビロニア、アッシリア、ミタンニ、ヒッタイト、そしてキプロスのアラシア)と、エジプトを「わが主」と呼ぶ小国に分かれていた。シリア・パレスティナの都市は後者にあたり、ウガリットとともに、ビブロス、シドン、ティルスというフェニキア都市とともに含まれている。
 ウガリットは早くから西アジアと地中海世界を結ぶ拠点であった。メソポタミアの隊商都市マリの文書には、前18世紀、ウガリットとの交易が記されている。前15-14世紀、東地中海アジアにおける有力な国際交易地(港)となった。「港の近くには遠隔地貿易に携わる商人の事務所や倉庫が並んでいた。このあたりは宮廷の官吏が支配する特別地域であって、ウガリトに定住している外国の商人も住んでいた」(クレンゲル前同、p.180)。
 前1900年頃、アナトリア(現トルコ)に興ったヒッタイトは、シュピルリウマ1世(在位前1370-46頃)のもとで領土を再び拡大させ、それはエーゲ海、メソポタミア、そしてフェニキアにまで達し、エジプト、バビロニア、アッシリアとならぶ大帝国となった。ウガリットもヒッタイトの支配下にはいる。そのもとで、ヒッタイトがウガリットから富を吸い上げ、ウガリットの交易はヒッタイトの庇護を受けて、最盛期を迎え、繁栄する。
 ウガリットは、前14-12世紀、南北の大国の狭間にあってそれらと友好関係を結び、東地中海アジアの重要な結節点となっていた。前1286年、ヒッタイトとエジプトはカデシュで戦闘を交えるが、その講和を仲介して手数料をせしめたという。ウガリットは、エジプトに関わりが深いビブロスなどとは違って、交易都市を維持することに腐心していたのである。しかし、ウガリットも前1150年頃、他のフェニキア都市とともに、さらにヒッタイトもまた、「海の民」によって壊滅させられる(地震破壊説もある)。
父なるアラシアの王に申し上げます
ウガリットの王はあなたの息子として話しています
父の足元にひれ伏します
平和はわが父のためにあります
平和は溢れかえっています
そして、あなたの屋敷、あなたの奥方、あなたの兵士に
そして、わがアラシアの父のすべての領地にも
おお、わが父 !!
いままさに、敵の船がやってきました
奴らは町々を燃やし
不埒な所業に及んでいます
国のあちこちで
父よ、わが兵士があげて...ことはご存じない
ヒッタイトの各地に集結させられてます
それに加え、わが船隊はルッカに足止めされています
彼らは、いまなお、わがもとに戻ることができません
そのため、わが国は無防備です
わが父はもうすべてのことがおわかりでしょう !
おお神よ、7隻の敵船がわたしを攻撃してきました
それにより、大変な損害を蒙りました
いますぐに、手立て講じて、ご一報を下さい
敵の船が多くなってくれば
どうすればよいのでしょうか?
ウガリットの王がアラシアの王に宛てた手紙とその拙訳
楔形文字タブレット、前2000-1000
国立ダマスカス博物館(シリア)蔵
注:青銅器時代のウガリット最後の王アムラビ(前1215-1180)は「海の民」に襲われるが、自らの兵力がヒッタイトの王シュッピルリウマ2世(前13世紀後半-?)のもとに派遣させられていたため、やむなく近隣のアラシア(キプロスの古代名)の王に救援を求めた手紙とされる。なお、ルッカはアナトリアの南西部にあって、トルコのリュキアを指す。
▼生え抜きの商人と異国の商人▼
 ウガリットには相当数の商人がいたが、その「真先に来るのは、宮廷の委託を受けて商業を営んでいる[ウガリット生え抜きの]人たちである。かれらは宮廷から商品を受け取って、利潤ないしは商品を宮廷に納めた。ウガリト王の手中に大きな富が集まってくるのも、主として交易を通じてのことだったのではあるまいか。おかげで支配者は贅沢な生活を送り、宮殿を美々しく飾り立てることができた」(前同、p.181)。
 これら「ウガリトの商人は、さらに自分自身の裁量でも商いを行なっていたことは疑いない。かれらは宮廷からその職務の見返りに(たとえば油のような)農産物をあてがわれ、また土地も支給されていた」し、さらに港頭でも「かれの穀物、かれのアルコール飲料、かれの油。これらは宮殿へ入らない。……たとえクレタからやってきたかれの船が到着したときでも、かれは自分の計量官を王のところへ入らせるが、監視官はかれの家には近づかない」という特権を持っていた(前同、p.183)。
 次に、「ウガリトには異国の商人も滞在していた。そのなかにはエーゲ海地方[クレタ、ミケーネ]やエジプト、キュプロスからやってきた商人がいたし、たぶんメソポタミア出身の者さえいたようだが、さらにシリアやパレスティナの様々な都市の出身者もいた。また、その反対にウガリトの商人の方でも外国で商売していたと想像できるし、アラシヤ(キュプロス)については……確かなことである」。かれらもまた故郷の「国王陛下の御用達」であった(前同、p.184)。
 かれらは「ウガリト王に対して租税をおさめ、……カールム[居留地のことで、波止場=寄港地、あるいは在外商館とその事務所とも訳される]の長の監督下にあった」(前同、p.188)。ウガリット生え抜きの商人たちと外国人商人とのあいだで、金銭貸借が行われていた。かれらの活躍は、ウガリット生え抜きの商人たちの商いを圧迫する場合もあったらしい。なお、かれらはウガリットで不動産を持つことが認めていられなかったので、生え抜きの商人の不動産を差し押さえることはできなかったという。
 すでに見てきたことでも明らかように、「ウガリト商業の関心の及んだ範囲はきわめて広大だった。しかも、たとえ内陸の土地が数多く現われるにしても、重点はやはり海上貿易にあった。……ウガリトにとってもっとも重要な「海外」の貿易相手は、青銅器時代の後期にはキュプロスであり、またエーゲ海地方、それも最初のうちはなおクレタだが、その後は次第にミュケーナイとその地域に変わっていった。……ナイルの土地との交易は、ウガリトが前14世紀から前13世紀にかけてエジプトのファラオの宿敵ヒッタイトの大王の勢力圏に服属するようになったあとでさえ、依然として重要だった」とされている(前同、p.194)。
 ウガリットの交易品は国産品と中継品がない交ぜになっていた。輸出品は、まず、国産および内陸産の穀物、ワイン、オリーブ油、塩、木材(つげ、ねず、松)、香油といった農産品であった(これらは後のフェニキアの交易品となるものであった)。それらの仕向地はキュプロス、クレタ、アナトリアであった。特に、キュプロスには大量のオリーブ油が輸出されたという。アマルナ文書にはつげ材の積出港として描かれている。
 次に、ウガリットの織物は人気があり、ビブロスやパレスティナ、ヒッタイトに送られた。そのなかには深紅色の高価な羊毛や衣服も含まれていた。それはヒッタイトへの貢ぎ物として送られたのであろう。ウガリットには、深紅色染料の原料である巻き貝の一種(ほね貝)の殻が堆積しており、その後のフェニキアの代名詞ともなった「テュロスの紫」はウガリットが発祥地であった。
 その他の輸出品としては、輸入原料を加工した金属製品や象牙製品(象牙はどこから将来したのか)があった。ウガリットには銅工場跡が発掘されている。それら製品はギリシア風であったともいう。
 ウガリットの主たる輸入品はいうまでもなく銅であった。それはほぼもっぱら200キロメートル沖合のキュプロスから輸入された。錫はメソポタミアから輸入されていたが、時代が下がると、イングランドのコーンウォル産の錫が、直接ではなくシチリア経由で、琥珀とともに輸入されるようになったという。なお、これらウガリットの交易品は後のフェニキア人の品目となる。
 クレンゲル氏は、海上交易を担う「外洋船舶を造るにあたって前第二千年紀に何か決定的な進歩が起こっていたにちがいない」としている。その例として「ウガリトでは石で作られた錨が発見されている。しかもこれは寄進された物としての錨であるが、そのいくつかは重さが半トンもある。これから推し量れば、これを使うにふさわしい木造船は最少でも200トン、長さは最短20メートルはあっただろう。船のなかには実際かなりの積載能力を備えるものがあった。船の積み荷、とくに穀物を記録している何枚かのウガリト文書によってもそれは明らかになる」と紹介している(前同、p.212-3)。最少でも200トンという木造船は驚異である。その本格的な解明はWebページ【1・4・2 古代の船の発達―技術史的意味―】において行う。
▼海事裁判を仕切る船乗りの長▼
 古代はともかく、現代になっても、海難はいっこうになくならない。「前第二千年紀の後半に東地中海を航行していた、たくさんの船はその残骸を今なお海の底に横たえていることだろう。この種の惨事は文献にも窺える」として、クレンゲル氏は2つの事例を紹介する。
 その1つは、テュロスの王がウガリトの支配者に手紙を送り、「あなたがエジプトへ向けて御派遣の堅牢な船が、ここテュロスの近くで大雨の降るうちに破損しました」と知らせた例である。この船は打ちのめされたらしいが、何とか港にたどり着き、積み荷をおろしている。その通知は、貴国の船を"身ぐるみ頂戴したわけではないという"言い訳しながら、恩着せがましくいってみせた外交辞令である。
 もう1つは御用船の海難の例であるが、そこから御用の仕組みがかいまみえる。それはウガリト港で難破した船の係争事件である。「当事者の一方の主張によると、その船は高波によって岸壁に叩き付けられて毀れてしまった。しかし、その相手側は、船長のシュックが操舵を誤ったからであって、事故の責任はかれにあるという意見だった」。この場合、積荷がどうなったかについて、なぜかふれていない。
 クレンゲル氏は、シュックを「たとえ商売……のための資金を募る際に、資金が利潤をつけて償還されるのは船が無傷で戻ってきたときのみであるという、約款が〔契約書に〕挿入されていたとは想像できる……シュックがその支払い義務を免れようとして、選りにも選ってウガリト港で故意にあんな事故を引き起こしたりしたであろうか。……〔一旦事故が起きれば〕そんなことに拘わりなく自分に降りかかる危険〔責任を問われること〕ぐらい、シュックにはわかっていたはずである」と弁護する。
 ここでの問題の核心は、前13世紀のヒッタイトの大王ハットゥシリ3世の王妃が勅書をしつらえさせて、ウガリトの支配者に送り付け、「〔船と積み荷の〕所有者に対する金銭的補償を主張して譲らなかった」点にある。それらの「所有者とはきっとかの女自身のことであって」、そのいずれにもシュック自身の所有するものは何もなかったとする。
 そこで、「それはともかくとしても、損害をいくらと査定するかは、〔「船乗りたちの長」と呼ばれる〕ウガリトの専門家の胸ひとつだった」が、「ウガリトの船乗りたちの長は誓いを立て……シュックは船および船に積まれていた商品を弁償する」ものとするという判決が告げられる。こうして、船長シュックには「実に苛酷な罰」となったが、その判決はヒッタイト王妃の圧力によって最初から決まっていたのではないか。
 クレンゲル氏は、その船やすべての積荷がヒッタイトの王妃ブドゥへバのものであり、その交易を船長シュックに委託していただけのようにいうが、必ずしもそうでなかったのではないか。この度の交易プロジェクトは王妃が名義人となり、官僚や御用商人、さらに船長シュックらも参画しており、その船や積荷は王妃はじめ、そうした人々のものでもあったのではないか。そうであったからこそ、王妃は名義人として、損害賠償を言い立てざるをえなかったとみられる。
 さらに、クレンゲル氏は船長シュックを、ヒッタイトが「国王陛下の御用達」として利用していた、アナトリア東部にある支配地キリキアのウラ出身とみている。そうだとしても、シュックは雇い船長ではなく、商人であったと推定される。なぜなら、一定の資産のない船長に交易を委託することなど考えられないからである。そうした船長シュックが多額の賠償金を清算したとすれば、かれは大資産家であったに違いない。そうだからこそ、王妃は執拗に弁償を言い立てたのかもしれない。それができなければ、かれは異境のウガリトで落ちぶれ、ウラではかれの財産は没収され、妻子は債務奴隷になったことであろう。
 こうした海事裁判がヒッタイトではなく、海難が発生したウガリトの地において、しかも専門判事の下で行われたいたことは、瞠目に値する。なお、このウガリトの「船乗りたちの長」は、海事判事として「専門的知識を十分にもち、かつ信頼に値する男」とされている(以上の引用、前同、p.215-6)。
▼若干のまとめ▼
 ビブロスは、すでにみたマガンの銅と同じように、自国産の木材をもっぱら輸出する原料交易にとどまり、エジプトの勢力下に入れられ、それとの交易に制約されている。
 それに対して、ウガリットは自国産品の輸出ばかりでなく、他国産品の再輸出も行っており、しかもそれに当たって内外の原材料を加工して輸出する交易を行っている。それら交易品の多くを海上交易を通じて輸出入しており、それらの仕向地はエジプトそしてメソポタミアだけでなく、東地中海アジアに広がりつつある。その広がりは、ペルシア湾交易を上回ることはなかった。
 このように、ビブロスやウガリットの交易は、すべての面において、その後のフェニキアの先駆けをなし、それが地中海全域において活躍する基盤を築き上げていたといえる。
 一口にフェニキアといっても、ビブロス・ウガリット、シドン・テュロス、そしてカルタゴといった港市国家があり、それら国々はおよそ約1000年という長い期間のなかに位置づけられ、それぞれ画期を持っている。それらをフェニキアとしてひとくくりにして取り扱うことはおよそ困難である。
(03/02/17記、10/01/15補記)

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