- The World of the East Mediterranean -
エジプトそしてメソポタミアの二大文明が交差する東地中海アジアもオリエントの一部である。そこは、前二千年紀まで二大文明の草刈り場であったが、部族国家が生まれ、次第に交易の当事者として力を蓄えてくる。その展開軸なったのは、さらなる銅の需要の増大にあった。キプロスやクレタを含む東地中海アジアの港市が繁栄を迎える。
ビブロスを特に有名しているのは、レバノン山脈から切り出される良質の杉である(すでに、ローマ時代に著しく減少していたらしく、いまはわずかしかない)。ビブロスはその主要な積出港であったことである。世界最古の文学『ギルガメシュ叙事詩』(前2000年頃)にはレバノン杉をあつかったくだりがある。このレバノン杉は、エジプトばかりでなく、オリエントの支配者にとって垂涎の的であった。
アメンエムハト3世(在位前1844−1797頃)治世、ビブロスの支配者はエジプト風の称号で呼ばれ、その官僚とみなされた。さらに、新王国時代、エジプトは東地中海アジアの最奧まで外征する。「グブラー(ビュブロス)が、エジプトの勢力が直接振りかかる勢力圏内に呑み込まれてしまったのは、ようやく前第二千年紀も半ばを過ぎてからのことだった。 第18王朝のファラオたちは、単独であるいは連合して、その行く手を遮るパレスティナやシリアの領主たちを討ち、軍隊をはるか遠方の西アジア方面にまで踏み入らせた。グブラーの後背地はエジプト領となり、グブラーそのものも、さらに続く前進の重要な拠点となった。軍隊が上陸し、トゥトメス(ジェフティメス)3世[在位前1479−25頃]がユーフラテス川を航行するのに用いた船もここで建造された」(前同、p.196)。 このトトメス3世がユーフラテス河まで持ち込んだ船は、「ビュブロスの貴婦人の近くのにある神の山」と形容された、レバノン山脈に生い茂った杉材で建造され、その船は「牛にひかれた二輪車の上に搭載され、……大いなる川を横断すべく、わが陛下の前を進んでいった」という碑文がある。「牛にひかれた二輪車」とは何か。そうした車があったとしても、小型の船しか載せられないであろうから、それを見せることはありえない。多分解体して運んだのであろう。 これ以外に、エジプトが外征にあたってビブロスなどで船舶を建造したり、あるいは船舶を徴用したりしたことを示す史料はないが、それでも前6世紀ペルシアのカンビュセス2世(在位前530-522)が侵攻してきたとき、それを迎え撃ったエジプトにおいてギリシア人傭兵とフェニキア船団とのあいだに不和が生じたという例がある。 エジプトは、ビブロスとは比べものにならない国際交易港のウガリット(後述する)とも関わりはあったが、ウガリットの交易品が直接、エジプトに持ち込まれることはまれであった。それは、「ウガリトはエーゲ海貿易にその圧倒的比重をかけていたからであり、だからエジプトとの貿易はレヴァント[東地中海アジア]諸市のうちでもおそらくグブラーが優位を占めていただろう。それには長い伝統があった」からとされる(前同、p.195)。 前13-12世紀になり、「海の民」(小アジアやエーゲ海などから、他部族の外圧や食糧飢饉に追い立てられ、移住を目指して海を渡ってきた武装集団)が東地中海アジアに進出してくると、エジプトはその地域から後退せざるをえなくなる。そうした混乱のなかで、ビブロスはじめフェニキアの諸都市はむしろ都市国家として独立し、交易を拡大する。そのなかで、すでにWebページ【1・1・1 エジプト―外国人商人に依存―】の『ウェンアメンの航海記』でみたように、ビブロスの王はエジプトの王と対等な立場で贈答交易を行うまでになる。しかし、アッシリアやペルシアが勃興すると、その勢力圏に組み込まれる(後述のウガリットも同じ)。そして、前7世紀末、ナイル河西デルタのナウクラティスに、ギリシアの植民地が建設されると、ビブロスは中継交易地としての地位を失う。
この文言は読みとりにくいが、前三千年紀においてはレバノン杉の一部が寄進物、その多くが交易品、ときには略奪品であったということであろう。しかし、これら調達の性格はエジプトとビブロスとの国際関係の変転によって変化したことであろう。 時代はかなり下るが、レバノン杉が贈答交易された実例ではあるが、それを示す数少ない史料が、旧約聖書『列王記』上に残されている。
クレンゲル氏は、レバノン杉の見返りとして、エジプトがどのような産品をフェニキアの都市に輸出したかは、明らかにしえないという。確かに、遺物になりうるような見返り品はなかったのであろう。しかし、すでにみたようにパピルスがあり、様々な農産品が持ち込まれていたに違いない。それらは遺物になりえないものばかりである。 特別な型のビブロス船について、クレンゲル氏は「ビュブロスに向かって走った船は、初めのうちはアカシア材とかいちじく材で組み立てられたうえで、索具で船体を締めつけただけの簡単な船だったが、のちになると輸入した硬い木材でも造られるようになった。あるいはビュブロスで造らせることもあった」という(前同、p.82)。これについても少々理解しがたいところがある。エジプト製ビブロス向けの船は葦舟ではなく、木造船であったとしている。エジプトは、木こりを派遣していたことからいえば、その船はもっぱらビブロス製であったとみられる。そうだとして、木材をどのように積み付けして、輸送してのであろうか。それを示す史料はない。 それはともかく、エジプトに持ち込まれたレバノン杉は、どこに陸揚げされたかであるが、それは距離的に有利なナイル河の東デルタではなく、西デルタであった。西デルタには、後年、ギリシアの植民地ナウクラティスやアレクサンドリアが建設されたことでも明らかなように、外圧がなく、外洋船の入港やナイル河へのアクセスが良かったからであろう。
最後に、金子史朗氏によればレバノン杉には風格があり、高貴にみえ、「権力の象徴」であったが、それを育んだ山々は裸になった。それで財を築き、驕慢となったテュロスの領主ヒラムを、予言者エゼキエルはレバノン杉の運命を操った一人として、下記のように断罪しているという(同著『レバノン杉のたどった道』、p.57、原書房、1990)。
▼地中海への出口、ウガリット▼
▼海事裁判を仕切る船乗りの長▼ウガリット(ウガリト)という古代都市(現シリアのラス・シャムラ遺跡)は、いまみたエブラやアレッポへの入口となるラタキアの北10キロメートルのところにあり、またメソポタミアからシリア砂漠を越えて地中海に入る交易路の出口である。他のフェニキア都市とは違って平地があり、農業が盛んに行われ、穀物、ワイン、オリーブ油を産出していた。特に、油はゴマ油でなくオリーブ油であることが注目され、またワインは銘柄が多く、ストラボン(前63?-後24?、古代ギリシャの地理学者・歴史家)が称賛したという。
前15-14世紀のオリエント世界は、それら国々の外交書簡を集めたアマルナ文書によれば、エジプトが「わが兄弟」と呼ぶ大国(バビロニア、アッシリア、ミタンニ、ヒッタイト、そしてキプロスのアラシア)と、エジプトを「わが主」と呼ぶ小国に分かれていた。シリア・パレスティナの都市は後者にあたり、ウガリットとともに、ビブロス、シドン、ティルスというフェニキア都市とともに含まれている。 ウガリットは早くから西アジアと地中海世界を結ぶ拠点であった。メソポタミアの隊商都市マリの文書には、前18世紀、ウガリットとの交易が記されている。前15-14世紀、東地中海アジアにおける有力な国際交易地(港)となった。「港の近くには遠隔地貿易に携わる商人の事務所や倉庫が並んでいた。このあたりは宮廷の官吏が支配する特別地域であって、ウガリトに定住している外国の商人も住んでいた」(クレンゲル前同、p.180)。 前1900年頃、アナトリア(現トルコ)に興ったヒッタイトは、シュピルリウマ1世(在位前1370-46頃)のもとで領土を再び拡大させ、それはエーゲ海、メソポタミア、そしてフェニキアにまで達し、エジプト、バビロニア、アッシリアとならぶ大帝国となった。ウガリットもヒッタイトの支配下にはいる。そのもとで、ヒッタイトがウガリットから富を吸い上げ、ウガリットの交易はヒッタイトの庇護を受けて、最盛期を迎え、繁栄する。 ウガリットは、前14-12世紀、南北の大国の狭間にあってそれらと友好関係を結び、東地中海アジアの重要な結節点となっていた。前1286年、ヒッタイトとエジプトはカデシュで戦闘を交えるが、その講和を仲介して手数料をせしめたという。ウガリットは、エジプトに関わりが深いビブロスなどとは違って、交易都市を維持することに腐心していたのである。しかし、ウガリットも前1150年頃、他のフェニキア都市とともに、さらにヒッタイトもまた、「海の民」によって壊滅させられる(地震破壊説もある)。
ウガリットには相当数の商人がいたが、その「真先に来るのは、宮廷の委託を受けて商業を営んでいる[ウガリット生え抜きの]人たちである。かれらは宮廷から商品を受け取って、利潤ないしは商品を宮廷に納めた。ウガリト王の手中に大きな富が集まってくるのも、主として交易を通じてのことだったのではあるまいか。おかげで支配者は贅沢な生活を送り、宮殿を美々しく飾り立てることができた」(前同、p.181)。 これら「ウガリトの商人は、さらに自分自身の裁量でも商いを行なっていたことは疑いない。かれらは宮廷からその職務の見返りに(たとえば油のような)農産物をあてがわれ、また土地も支給されていた」し、さらに港頭でも「かれの穀物、かれのアルコール飲料、かれの油。これらは宮殿へ入らない。……たとえクレタからやってきたかれの船が到着したときでも、かれは自分の計量官を王のところへ入らせるが、監視官はかれの家には近づかない」という特権を持っていた(前同、p.183)。 次に、「ウガリトには異国の商人も滞在していた。そのなかにはエーゲ海地方[クレタ、ミケーネ]やエジプト、キュプロスからやってきた商人がいたし、たぶんメソポタミア出身の者さえいたようだが、さらにシリアやパレスティナの様々な都市の出身者もいた。また、その反対にウガリトの商人の方でも外国で商売していたと想像できるし、アラシヤ(キュプロス)については……確かなことである」。かれらもまた故郷の「国王陛下の御用達」であった(前同、p.184)。 かれらは「ウガリト王に対して租税をおさめ、……カールム[居留地のことで、波止場=寄港地、あるいは在外商館とその事務所とも訳される]の長の監督下にあった」(前同、p.188)。ウガリット生え抜きの商人たちと外国人商人とのあいだで、金銭貸借が行われていた。かれらの活躍は、ウガリット生え抜きの商人たちの商いを圧迫する場合もあったらしい。なお、かれらはウガリットで不動産を持つことが認めていられなかったので、生え抜きの商人の不動産を差し押さえることはできなかったという。 すでに見てきたことでも明らかように、「ウガリト商業の関心の及んだ範囲はきわめて広大だった。しかも、たとえ内陸の土地が数多く現われるにしても、重点はやはり海上貿易にあった。……ウガリトにとってもっとも重要な「海外」の貿易相手は、青銅器時代の後期にはキュプロスであり、またエーゲ海地方、それも最初のうちはなおクレタだが、その後は次第にミュケーナイとその地域に変わっていった。……ナイルの土地との交易は、ウガリトが前14世紀から前13世紀にかけてエジプトのファラオの宿敵ヒッタイトの大王の勢力圏に服属するようになったあとでさえ、依然として重要だった」とされている(前同、p.194)。 ウガリットの交易品は国産品と中継品がない交ぜになっていた。輸出品は、まず、国産および内陸産の穀物、ワイン、オリーブ油、塩、木材(つげ、ねず、松)、香油といった農産品であった(これらは後のフェニキアの交易品となるものであった)。それらの仕向地はキュプロス、クレタ、アナトリアであった。特に、キュプロスには大量のオリーブ油が輸出されたという。アマルナ文書にはつげ材の積出港として描かれている。 次に、ウガリットの織物は人気があり、ビブロスやパレスティナ、ヒッタイトに送られた。そのなかには深紅色の高価な羊毛や衣服も含まれていた。それはヒッタイトへの貢ぎ物として送られたのであろう。ウガリットには、深紅色染料の原料である巻き貝の一種(ほね貝)の殻が堆積しており、その後のフェニキアの代名詞ともなった「テュロスの紫」はウガリットが発祥地であった。 その他の輸出品としては、輸入原料を加工した金属製品や象牙製品(象牙はどこから将来したのか)があった。ウガリットには銅工場跡が発掘されている。それら製品はギリシア風であったともいう。 ウガリットの主たる輸入品はいうまでもなく銅であった。それはほぼもっぱら200キロメートル沖合のキュプロスから輸入された。錫はメソポタミアから輸入されていたが、時代が下がると、イングランドのコーンウォル産の錫が、直接ではなくシチリア経由で、琥珀とともに輸入されるようになったという。なお、これらウガリットの交易品は後のフェニキア人の品目となる。 クレンゲル氏は、海上交易を担う「外洋船舶を造るにあたって前第二千年紀に何か決定的な進歩が起こっていたにちがいない」としている。その例として「ウガリトでは石で作られた錨が発見されている。しかもこれは寄進された物としての錨であるが、そのいくつかは重さが半トンもある。これから推し量れば、これを使うにふさわしい木造船は最少でも200トン、長さは最短20メートルはあっただろう。船のなかには実際かなりの積載能力を備えるものがあった。船の積み荷、とくに穀物を記録している何枚かのウガリト文書によってもそれは明らかになる」と紹介している(前同、p.212-3)。最少でも200トンという木造船は驚異である。その本格的な解明はWebページ【1・4・2 古代の船の発達―技術史的意味―】において行う。 古代はともかく、現代になっても、海難はいっこうになくならない。「前第二千年紀の後半に東地中海を航行していた、たくさんの船はその残骸を今なお海の底に横たえていることだろう。この種の惨事は文献にも窺える」として、クレンゲル氏は2つの事例を紹介する。 その1つは、テュロスの王がウガリトの支配者に手紙を送り、「あなたがエジプトへ向けて御派遣の堅牢な船が、ここテュロスの近くで大雨の降るうちに破損しました」と知らせた例である。この船は打ちのめされたらしいが、何とか港にたどり着き、積み荷をおろしている。その通知は、貴国の船を"身ぐるみ頂戴したわけではないという"言い訳しながら、恩着せがましくいってみせた外交辞令である。 もう1つは御用船の海難の例であるが、そこから御用の仕組みがかいまみえる。それはウガリト港で難破した船の係争事件である。「当事者の一方の主張によると、その船は高波によって岸壁に叩き付けられて毀れてしまった。しかし、その相手側は、船長のシュックが操舵を誤ったからであって、事故の責任はかれにあるという意見だった」。この場合、積荷がどうなったかについて、なぜかふれていない。 クレンゲル氏は、シュックを「たとえ商売……のための資金を募る際に、資金が利潤をつけて償還されるのは船が無傷で戻ってきたときのみであるという、約款が〔契約書に〕挿入されていたとは想像できる……シュックがその支払い義務を免れようとして、選りにも選ってウガリト港で故意にあんな事故を引き起こしたりしたであろうか。……〔一旦事故が起きれば〕そんなことに拘わりなく自分に降りかかる危険〔責任を問われること〕ぐらい、シュックにはわかっていたはずである」と弁護する。 ここでの問題の核心は、前13世紀のヒッタイトの大王ハットゥシリ3世の王妃が勅書をしつらえさせて、ウガリトの支配者に送り付け、「〔船と積み荷の〕所有者に対する金銭的補償を主張して譲らなかった」点にある。それらの「所有者とはきっとかの女自身のことであって」、そのいずれにもシュック自身の所有するものは何もなかったとする。 そこで、「それはともかくとしても、損害をいくらと査定するかは、〔「船乗りたちの長」と呼ばれる〕ウガリトの専門家の胸ひとつだった」が、「ウガリトの船乗りたちの長は誓いを立て……シュックは船および船に積まれていた商品を弁償する」ものとするという判決が告げられる。こうして、船長シュックには「実に苛酷な罰」となったが、その判決はヒッタイト王妃の圧力によって最初から決まっていたのではないか。 クレンゲル氏は、その船やすべての積荷がヒッタイトの王妃ブドゥへバのものであり、その交易を船長シュックに委託していただけのようにいうが、必ずしもそうでなかったのではないか。この度の交易プロジェクトは王妃が名義人となり、官僚や御用商人、さらに船長シュックらも参画しており、その船や積荷は王妃はじめ、そうした人々のものでもあったのではないか。そうであったからこそ、王妃は名義人として、損害賠償を言い立てざるをえなかったとみられる。 さらに、クレンゲル氏は船長シュックを、ヒッタイトが「国王陛下の御用達」として利用していた、アナトリア東部にある支配地キリキアのウラ出身とみている。そうだとしても、シュックは雇い船長ではなく、商人であったと推定される。なぜなら、一定の資産のない船長に交易を委託することなど考えられないからである。そうした船長シュックが多額の賠償金を清算したとすれば、かれは大資産家であったに違いない。そうだからこそ、王妃は執拗に弁償を言い立てたのかもしれない。それができなければ、かれは異境のウガリトで落ちぶれ、ウラではかれの財産は没収され、妻子は債務奴隷になったことであろう。 こうした海事裁判がヒッタイトではなく、海難が発生したウガリトの地において、しかも専門判事の下で行われたいたことは、瞠目に値する。なお、このウガリトの「船乗りたちの長」は、海事判事として「専門的知識を十分にもち、かつ信頼に値する男」とされている(以上の引用、前同、p.215-6)。 ▼若干のまとめ▼ ビブロスは、すでにみたマガンの銅と同じように、自国産の木材をもっぱら輸出する原料交易にとどまり、エジプトの勢力下に入れられ、それとの交易に制約されている。 それに対して、ウガリットは自国産品の輸出ばかりでなく、他国産品の再輸出も行っており、しかもそれに当たって内外の原材料を加工して輸出する交易を行っている。それら交易品の多くを海上交易を通じて輸出入しており、それらの仕向地はエジプトそしてメソポタミアだけでなく、東地中海アジアに広がりつつある。その広がりは、ペルシア湾交易を上回ることはなかった。 このように、ビブロスやウガリットの交易は、すべての面において、その後のフェニキアの先駆けをなし、それが地中海全域において活躍する基盤を築き上げていたといえる。 一口にフェニキアといっても、ビブロス・ウガリット、シドン・テュロス、そしてカルタゴといった港市国家があり、それら国々はおよそ約1000年という長い期間のなかに位置づけられ、それぞれ画期を持っている。それらをフェニキアとしてひとくくりにして取り扱うことはおよそ困難である。 (03/02/17記、10/01/15補記)
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