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1・4・2 古代の船の発達―技術史的意味―
1.4.2 Development of Ancient Ship -Technological Historic Meaning-

▼原初的な船としてのイカダと丸木舟▼
 古代の船については、平板に語られ続けてきた。H.ホッジス著、平田寛訳『技術の誕生』(平凡社、1975(原著1970))は古代技術史として秀逸であり、これを超えるものをみないが、これとて同じである。それはさておき、まずはそれをなぞりながら、肉付けしよう。なお、訳者平田寛氏の著書『失われた動力文化』(岩波新書、1976)は、古代の船の発達を簡潔、明瞭にまとめている。
 古代地中海世界において、船が大いに発達したことは争えない。その前提はナイル河、ユーフラテス河、地中海にあった。それらは船による輸送を容易にし、交易を拡げた。それは船のさらなる発達を促した。ホッジスは、特にギリシアについて、「大部分が多孔性の石灰岩からなるギリシア本土の山岳風景は、大きな水系を欠き、どの川にも孤立した沖積土の小さな地面しかなく、……陸路で近づくことはむずかしかった。だから、船舶が運輸やコミュニケーションの最も大切な手段になったことは、当然のことだろう」とする(前同、p.26)。
 ここで重要なことは、道路と違って、川と海がそれ自体自然から与えられた、さしあたって建設を要しない交通路であることである。古代文明はいずれもそうした便宜のある地域に立地されている。わけても地中海世界はその便宜を最大限に利用したといえる。そのなかで船が発達することとなった。
 ホッジスは、前5000年頃までの「初期の航海用のイカダがどのようなものであったかは、かいもく見当すらつかない」といいつつ、現代のユーフラテス河やアマゾン河の図版を示しながら、「地中海で人びとがある島から別の島へ移動していたという事実は、ある種のイカダが使用されていたことを物語っている。川の流域では、アシでつくったイカダが使用されたであろう。しかし地中海では、丸太のイカダがたくさん使われたとみてよかろうが、大きな丸太をくりぬいてつくったカヌーも使われた。船の3つの型のすべては、今日も使われている」と述べている(前同、p.61)。
 原初的な船はイカダと丸木舟とである。イ
カダの素材はパピルス、アシ、皮袋、そして
材木などであった。それら素材はほとんど加
工されることなく、イカダとして組み立てられ
る。また、パピルスやアシ製のイカダのコスト
は小さいが、耐久性に劣るので、シーズンご
とに建造されたことであろう。
 そうした意味で、イカダはすぐれて原初的
な船といえる。それに対して、丸木舟はそれ
に適した材木の選定にはじまり、その切り出
し、そしていくつかの工具を用いた加工とい
う、それなりに多段階な過程を経て建造され
る。また、丸木舟のコストは大きいが、耐久
性に優れていた。この丸木舟は原初的な船
ながら、簡単なイカダに比べれば発達した船
といえる。しかし、複層化されたアシ船は丸
木舟より発達した船であり、航海船として利
用された。
クレタのくりぬき丸太の帆船
前2000頃
H.ホッジス著、平田寛訳『技術の誕生』、p.119、
平凡社、1975
 なお、原初的な船であるイカダや丸木舟は、その後木造構造船、鉄鋼船が登場しても、多様な立地と必要に応じて、それらとともに併存し続ける。
▼帆走する木造構造船への発達▼
 船に関する遺物が現れる。ホッジスによれば「エジプトやメソポタミアでは、前3000年期のはじめは、小舟をかいで漕いでいたらしい」が、「エジプトの先王朝時代の非常にまずい絵からは、初期のいくつかの[アシ製の]小舟は帆走していたことが示唆されるだろう。しかしその発展段階で、1本マストを檣座に立てるのは、明らかに非常にむずかしいことがわかった。そこで、後方維持索で支えた両脚マストを使用しているのが見出される。帆は、たぶんアマ布で、それぞれの小舟には1枚の横帆があって、帆げたの末端を下げると、その帆は巻きたたまれた」(前同、p.110)。
 「これらの小舟は本質的には川を航行する
もので、航海船に近いものがみられるのは、
それから500年以上もたってからである」とし
ても(前同)、それが初歩的ながら帆装された
ことは1つの大きな発達であった。手漕ぎは、
櫂のみ、あるいはオールとその保持具とい
う、簡単な装置で行いうる。それに対して、帆
走は帆、帆桁、マスト、檣座、そして索具とい
った、多数の部材からなる複合装置を必要
する。こうした帆装が施されても、手漕ぎ措置
が見捨てられることはない。それら装置は、
別々の船だけでなく、1つの船においても併
存し続ける。
 さらなる発達が続く。「前2500年までのたぶ
ん幾世紀もの間、エジプト人はたしかに木造
の舟を建造していた。しかし、その構築法は
明らかにアシ舟から示唆された。船体の板と
板の縁はだぼで接合するか、縫い合わせら
れ、竜骨も肋材もなかった」(前同、p.111)。
エジプトの両脚マストの大型の河川船
前2000頃
H.ホッジス著、平田寛訳『技術の誕生』、p.135、
平凡社、1975
その「材木は、東地中海の……国々から探し求めなければならなかった」。また、それは「いわば大型のパピルス船」にすぎず、「荷を船倉に積んで運ぶということができなかったし、乗客も荷物も乗組員と同様に、甲板上で航海しなければならなかった」(前同、p.129、p.132)。この船は初歩的ながら、丸木舟よりはるかに加工度の高い、多くの部材を組み立てた構造船として建造されたことを示す。木造構造船も丸木舟を駆逐することはなく、それらは多様な立地と必要に応じて併存し続ける。
 こうして、エジプトの船は、帆船としてまた木造構造船として1つの極みに達する。しかし、その後、それ以上自生的に発達することはなかった。また、メソポタミアはエジプトとも異なり、籠舟(コラクル)や皮袋のイカダ(ケレク)から抜け出ることがなく、停滞を続けた。この停滞は、エジプトやメソポタミアの船がおおむね川船として利用され、それとして発達した。しかも、それら地方は造船用材木が不足していた。そして、それら国々が海上交易に積極的に乗り出さなかったことにあるとみられる。その後のエジプトの船は東地中海の船の模倣となった。
▼丸い船(商船)と長い船(軍船)の分化▼
 ホッジスは、「東地中海における船舶の発展は、エジプトとメソポタミアの場合とはまったくちがっていた」とし、前約2000年のクレタの船について、適切な復元はできないとしながら、「船体の大部分は、くりぬいた1本の丸太で、へさきは出張った先端になっているが、これは浜に乗りあげたさいに役立てるためである。舷側は1列の板張りになっており、ともは曲がった柱と数枚の板とでつくられている」と説明する(前同、p.118-9)。エジプトの船より発達した構造船となっているということであろう。ただ、「この時期までに、すくなくとも沿岸取引きが可能な程度の有望な木造船舶があって、東地中海の北岸を航行していた。しかし、これらの船の形や大きさは、今日ではまったくわからない」と心もとない(前同、p.120)。
 前2000年紀に入ると、ホッジスによれば東地中海では2つの型、普通の言い方で丸い船(商船)と長い船(軍船)が使用されるようになったという。これはエジプトとメソポタミアとは異なった発展の仕方といえる。「第1の型の船は、たぶん高く湾曲した船首と船尾をもつ幅ひろい船で、一見して、単にアシ舟を大型化したもの」で「板づくりであった」、そして「第2の型の船では、船尾はやはり高かったが、『衝角』が垂直に突きでている低い船首のほうの船幅は明らかにそう広くはなかった。この船は、まるで本来は非常に大きな木の幹であったものをくりぬいて」作られているかのようにみえる(前同、p.150)。なお、衝角について、「海の民」が持ち込んだとしている。なお、エジプトの浮き彫りには、衝角を備えた軍船が描かれている。
 さらに続けて、「この両方の型の船はともに、おそらくオールか横帆で推進されたのであろう。明らかにこれらの船は、片側で5人から10人までの人数の漕ぎ手によって漕がれ……船の長さはたぶん約9.2-15.3メートルあったと推定できる。オールは、無風で船が進まないとか、逆風にむかうときには、もちろん欠かせなかった」という。ここにおいても漕帆併用の推進方式となっていた。
 当時の船の実例が、Webページ【1・2・2 キプロス、クレタ―地中海世界への橋脚―】で取り上げた、ゲリドンヤ岬の難破船であった。その長さは約10メートルとされている。こうした確実な史料は乏しく、前2000年紀末までに、「近東では船舶は、明らかに輸送と伝達の重要な手段になっていた。しかし、この1000年を考えてみると、おそらく情報の不足のために、船の設計上の数多くの大きな変化があったと正直に述べることができない」と限定する(前同、p.173)。
▼フェニキア・ギリシアにおける帆装と構造船の完成▼
 前2000年紀半ばから末尾にかけて、様々な技術が、一方では青銅器時代が終期を迎え、鉄器時代が始まったこと、他方ではエジプトとメソポタミア専制国家の衰退、東地中海への「海の民」の侵攻、そのもとで地中海世界の混乱のなかで停滞したとされる。その一環として、船の発達も停滞したかにみえるが、むしろその逆であろう。その後、フェニキア人やギリシア人は地中海全域に植民地を建設して、海上交易を拡大した。それは帆装と木造構造船の普及なくしてなしえない技であった。その時代に、それらが完成したとみられる。
 前1000年紀、フェニキア人とギリシア人とは、地中海世界における海上交易を分け合った。かれらが用いた船は、ホッジスがいうように「かなりよく似ている」であろう(前同、p.205)。そのありようについて、ホッジスは「ギリシア人が熟達した最も重要なただ1つの技術は、造船術と航海術とであった」というが(前同、p.186)、フェニキアの船についてはほとんどふれない。
 フェニキアの船については、Webページ【1・3・1 フェニキア―海上交易国の誕生】において詳細に取り上げている。その主要な特徴は、「丸い・黒い・がらんどうの船」すなわち商船が鉄製工具を用いて、堅い材木を削り、竜骨をおおむね据え付け、肋材をはりまわし、舵柄のある舵や錨を備えた構造船として建造され、また四角帆と絞り綱でもって帆装され、帆装が主力となっていたということであった。フェニキア船の大きさは最大で250トンであった。
 ホッジスは、「前500年[頃]のギリシアの商船」の船体は、「明らかに、すでに述べたクレタ型の船で、ほんのわずか大きかつたらしい。それはしばしば、ヴァイオリンの弓にたとえられている。荷物がはっきりと甲板に積まれている図例は、ほとんど見られない。だから、その船体はそれ以前のクレタの船よりも堅固に建造されていて、荷物の多くは船倉に積まれて運ばれたと仮定しなければならない」という(前同、p.215、同ページに図版)。このギリシアの船は平均的に120-30トンとなっていた。
 さらに、軍船について、フェニキアは奴隷を漕ぎ手とする二段櫂船、さらに三段櫂船を、ギリシアは市民を漕ぎ手とする50本のオールが出せるペンテコントロスを開発したという(前同、p.205-6)。しかし、ギリシアが制海権を握ると三段櫂船を建造し、奴隷を漕ぎ手とするようになったという(前同、p.216)。なお、ギリシアの軍船は平時、海上交易に用いられた。
 フェニキアとギリシアの時代になり、船に大きな発達がみられた。それを促したのは、一方では絶えざる戦争や海上交易の拡大、他方では鉄製工具の利用であったであろう。
▼ローマ時代における船の発達の停滞▼
 ホッジスは、ローマ時代の技術について「古代において前500年は、近東やさらに西方世界全体における技術的発展の一面がほとんどおわったことをあらわしている。じっさいにつぎの1000年間は新しい原料が開発されなかったし、真に目新しい生産方法が導入されなかったといっても、まちがいではない」と述べる(前同、p.217)。
 船舶についても同じとみているようで、「ローマの支配時代に進歩がなかったことは、十分に理解できる。それは、海上ではローマの競争相手がなく、海賊以外と取引きをしていたからで、海賊については、ローマの軍船がつねにかれらを撃破することができた」からだという(前同、p.248)。
 ローマ時代の初期の軍船は、「ギリシア人やカルタゴ人が使った木造の軍船をそっくりそのまま模倣した木造船であった」(前同、p.232)。それは衝角のある低い船となり、「オールはここではおおいをした突梁(舷外に突きでた横木)をとおして漕がれたが、これはオールのならびを一直線にし
3世紀の船を描く
て、漕ぎ手たちに大きなてこの作用を与えるという利点があった」(前同、p.245、248)。また、「三段オールの船は、各オールに1人以上の漕ぎ手が着席した二段オール方式のために、見捨てられた」という(前同、p.247)。それ以外に、Webページ【1・3・4 ローマ―単一支配の海上交易圏―】でみた鈎付き舷梯(カラス)が注目される。
 他方、「後5世紀までのローマの商船は、ギリシア人から継承したものとほとんどおなじで、船首と船尾の高くなったかなり短い船であった。おそらく前1世紀のある時点で、[船首に]小さな三角帆が主帆の横帆に加えて採用された。しかしこの船は、まだ順風のときしか動かせなかった。このことは、海上貿易の可能性をきびしく制限した。なぜなら、オールで漕ぐ商船は費用がかさむので、短距離しか航行できなかったからである」という(前同、p.248)。
 これは、ローマ時代の商船は手漕ぎ船ではなく、おおむね帆船に集約されてきたことを示そう。その帆装は起重機型マストではなく、すでにギリシア時代に普及した檣座のあるマストであったし、さらにその時代に登場していた複数マストが、ローマ時代になって普及したかにみえる。これら発達した帆装は滑車、吊索、縁索、絞帆索など多くの索具によって構成されていた。
 Webページ【1・3・4 ローマ―単一支配の海上交易圏―】で詳細に紹介したように、南フランスのマドラグ・ド・ジャン湾で発掘された、前60-50年頃の沈没船は全長40メートル、290-390積トンという大型船であった。その船体は、ギリシア時代に標準的な建造法となった板張りではあったが、その構造をより強化する建造法が採用され、さらに大航海時代に登場する技術の萌芽もみられた。
 ローマ時代の商船は、航海回数を増やせないため積載量を増やそうとして、大型化が進んだ。そして、500トンを超える船もまれではなくなったとされる。しかし、穀物船が中心する商船にあっては平均的には全長15-37メートル、積載量100-150トンであっていたとされる。この平均トン数は近世まで続くとされる。操舵具は、エジプト時代はもとよりギリシア時代に入っても、船尾や舷側に縛り付けられた、1本または2本の大型の櫂舵であった。それは大変な労力を必要としたので、それに舵柄がつけられた。また、2本の舵が連動する工夫も施された。
 こうした状況のかたわらで、ローマ人が「無骨で野蛮で、まったくとり残されていた」とみなす異民族が、かれらより発達した船を持っていた。この点について、ホッジスは「かれらの船がローマ人の船にくらべると、さらにじょうぶにつくられ、大西洋の荒波にも耐えるように一段とうまく設計されていること……いかりが綱ではなく鎖でしっかりとつながれていたこと」(前同、p.251)、またローマの軍船は「それを衝角で突いて沈めることはほとんど不可能であった。……これらはたぶん、創造力の乏しい人では製作できなかった」ことを、カエサルが率直に認めていたと紹介する(前同、p.252)。
 ローマ時代、ギリシア時代に普及した木造板張り構造という船体と、1本マストに横帆を張る形式の帆装に関して、基本的な変化は認められない。しかし、商船にしろ軍船にしろ構造船として強化され、それに伴ってその大型化がはかられ、また艤装の多様化といった一連の改良が施された。それにもかかわらず、ローマ時代、船の発達は停滞したと結論づけられる。それはひとえに、木造板張りの横帆船という構造から、一歩も抜け出ることがなかったからである。さらに、それは外洋船ではあったが、地中海を海域とする内海船であり、その限界から抜けでなかったからであろう。
▼技術の本質と船舶技術、その歴史▼
 技術史家は技術の本質論や技術論などに無頓着である。しかし、かれらは―古代技術史家はなおさらのように―技術は「客観的法則の意識的適用」であるなどと誤解することなく、素直に生産手段あるいは労働手段の体系と捉え、歴史記述を進めている。しかし、その無頓着さをみると、意識的に労働手段の体系と捉えている様子なく、そのため記述は平板なものとなっている。
 われわれは、すでに拙著『船員労働の技術論的考察』(海流社、1979)において、船舶技術と船員労働を研究してきた。そのごく簡単な要約は、拙共編著『現代海運論』(税務経理協会、1991)において示してある。それを、ここで必要な限りで要約する。
 交通手段は直接的手段と間接的手段に分かれる。直接的手段は、交通対象を収容する運搬具と、移動エネルギーを発生(転換)する動力機(具)である。そして、進路制御機(具)および位置測定機(具)、荷役機(具)および保管機(具)がある。間接的手段は、直接的手段が移動する交通路(発着地点と路線)である。
 これら交通手段の要素のうち、基幹的な交通手段は交通対象を位置変化させる動力機である。運搬具の容量は動力機が発生するエネルギーの大きさ、さらに交通路のあり方は動力機が生み出す速度や運搬具の容量によって規定される。したがって、これらから、交通手段の発達の指標は、動力機の進歩にある。
 技術の歴史は労働手段の歴史として、道具、機械、そしてオートメーションへと発展する。道具から機械への道行きについて、K.マルクスは「簡単な道具、これらの道具の集積、複合された道具、これらの複合道具の、ただ1個の手動原動力による、つまり人間による運転、これらの諸用具の自然力による運転、機械、ただ1個の原動力をもつ機械体系、原動力として自動装置をもつ機械体系」と要約している(同著「哲学の貧困」『マルクス・エンゲルス全集』、第4巻、p.158)。
 船の歴史を、マルクスのいう道行きに直ちに結びつけることはできないが、およそ次の通りである。動力具の側面では手漕ぎ、帆走、汽(機)走へ、運搬具の側面ではイカダ、丸木舟、木造構造船、鋼鉄船へと変転してきた。すでにみたように、それら動力具と運搬具の組み合わせはいくつかあるが、船の歴史としては手漕ぎのイカダや丸木舟、帆走木造構造船、そして汽(機)走する鉄鋼船へと推移してきたといえる。それらは順次、簡単な道具、複合された道具(あるいは複雑な道具)、そして機械に対応する。
▼帆走木造構造船の技術史上の地位▼
 当面する船の発達段階についてふれると、まず動力具の側面では手漕ぎは人力、帆走は風力を移動エネルギーとしているが、後者は前者の持つ限界を破ってより大型の船を動かしたり、また大量の荷物を運ぶことができる。ただ、人力は制御しやすいが、無風、逆風、強風とかになれば、風力は制御できない。次に、運搬具の側面ではイカダや丸木舟は自然素材をほぼそのまま使用するが、木造構造船は人工素材を使用して建造されており、材木を加工することによって、自然素材が持つ限界を破って大型の船を建造し、大量の荷物を安全に運ぶことができる。
 しかし、運搬具として大型の船が建造され、大量の荷物を安全に運ぶようになるには、基幹的な要素である動力具が進歩しなければならない。手漕ぎに対して帆走装置が開発され、そのもとで建造されるようになったのが、木造構造船であった。この帆走木造構造船の登場は、簡単な道具から複合された道具(あるいは複雑な道具)への飛躍的な進歩として、1つの技術革命であった。
 しかし、手漕ぎ装置をいくら改良しても帆走装置には発展しない。また、イカダや丸木舟の構造をいくら改良しても木造構造船には発展しない。ただ、エジプトでのアシ舟から発想とは違って、初期の構造船が大小の丸木を組み上げて建造されたことはありうる。このように、他の労働手段あるいは技術とは違って、船は簡単な道具→これらの道具の集積→複合された道具という、集積的な道行きのもとでは発達しない。それらは質的あるいは構造的にまったく異なる別系列の道具として登場、普及する。したがって、帆走木造構造船は複合された道具ではなく、「自然力により運転される複雑な道具」というべきである。なお、手漕ぎのイカダや丸木舟、帆走木造構造船、そして汽(機)走鉄鋼船は、それぞれが別系列の技術であるため、すでに述べたように、地域的に時期的に併存しうる。
 具体的な船の歴史としては、エジプトやメソポタミアの時代は原初的な船であるイカダ・丸木舟に加えて、それらとは構造的に異なる帆走木造構造船が登場するが、まだ初歩的であった。それはフェニキアやギリシアの時代になって本格的に発達し、完成する。その後、ローマ時代において部分的な改良が加えられ、成熟する。
 古代において成熟する帆走木造構造船は、その後新たな展開をみることはなく、近世に入るまで息長く受け継きつがれる。近世に登場する大型帆船の基本的な構造は、古代と変わりなく、帆走木造構造船であり、ただそれらがより複雑に高度に発達するにとどまった。こうした長期にわたる連続的な進歩の後、近代になって汽(機)走鉄鋼船が登場し、船は飛躍的な進歩すなわち2度目の技術革命を遂げる。
 それでは古代の帆走木造構造船とは何だったのか。それが近代まで構造的な転換をみせず、連続的な進歩にとどまったことから、古代の帆船・木造構造船は初期段階の、そして近世の帆走木造構造船は完成段階の、「自然力により運転される複雑な道具」ということになる。この古代の帆走木造構造船が近世のそれに発達することを制約していたものは、何か。それには様々な要因があろうが、大型化が可能だったとしても外洋船として使用される状況になかったこと、そして大型化する船を操舵するのに有効な大型の舵―強固な船尾材に固定された舵―が開発されなかったことを上げうる。これは今後の論点である。
▼海上交易と陸上交易の手段▼
 古代の帆走木造構造船は、その他の古代技術に比べ、かなり高度に発達した道具であったことは明らかである。車の発達と若干比較してみたい。
 エジプトの交通手段はほぼもっぱらナイル河を利用する船であったが、メソポタミアにおいては車が大いに使用された。前3500年以降、ソリに加え、二輪車、そして四輪車が登場したとされる。それらはウシやロバに牽かせた。その車輪は3枚の板と2本の横木で作られた中実車輪であった。この畜力による牽引と車輪の発明は、古代における車の革命であった。
 しかし、二輪車や四輪車は、ホッジスによれば「長距離では使用されず……短距離間で重い荷物を移すのに用いられた」という(ホッジス前同、p.96)。その重い荷物とは何か。ぜい弱な車輪構造からみて、ソリが運ぶような重い荷物ではないことは明らかである。本来的に重い荷物は、相変わらず、ソリによって運ばれた。
 その後、前2000年紀、馬が牽引する戦車が登場する。その車輪は外輪と4-6本のや(幅=スポーク)で構成されていた。また、あまり効果的でないくびき(軛)も開発される。それが二輪車や四輪車にも採用されるようになったであろうが、それらは「陸上輸送手段というより、依然として農産物を短距離運ぶのに適したのろのろと手間のかかる運送具であった」とされる(前同、p.177)。前1000年紀には、戦車の車輪にはタイヤが巻かれるようになる。
 その後、ローマ時代、長大な軍用道路網が建設されはしたが、車は畜力による牽引とスポーク車輪を最後として、現代(自動車)までまったくと言っていいほど進歩しなかった。それは日常的な一般道路が建設されず、それがなくても短距離の輸送は原初的な道具の使用でもってことたり、しかも長距離の輸送はすべて河川・海上輸送に依存すればよかったからである。そのため、ほとんどの陸上輸送は、荷物を背負い子に載せ、またウシやロバ、さらにラクダの背に振り分けに載せて運ぶ方法のままであった。
 われわれの領域は海上交易であるが、古代において陸上交易はどのようなものであったか。海上交易は陸上交易よりも過大評価されてきたが、歴史段階に入ると、そうした信念は否定されることになったという言説がある。この点に関しては、本格的な検討が必要であり、今後の課題とするが、さしあたっての結論はこうであろう。
 T.K.デリーとT.I.ウィリアムズはいう。「ディオクレティアヌス皇帝の時代に、干し草の荷を陸上で30マイル(約48km)運搬すると、その価格は2倍になったが、一方、小麦を地中海の奥地に船で運搬すると、価格の4分の1が増えるだけであった。こうして道路によって、ローマの権力と影響力ははるか地中海の奥地にまでひろがることはできたけれども、文明生活が主として『ブドウ酒色のくらい色の海をこえて』[オデュッセウスが統治した島の]イタカ人の航路にしたがう船に依存していたことは、古典期を通じてつねに真実であった」(同著、平田寛・田中実訳『技術文化史』上、p.217、筑摩書房、1971)。
(04/01/10記)

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