▼ローマ時代のローマへの地中海交易ルート▼
ジャン・ルージュ著、酒井傳六訳『古代の船と船員』(法政大学出版局、1982(1975))の原題は『古代の海運』となっており、当面している古代の海上交易について、一応の回答を与えてくれる唯一の書物ではある。そこには注目すべき内容と見解が織り込まれているとはいえ、それほど満足できる記述とはなっていない。それを一歩深めようと、筆を進めてきた。 ルージュ氏は、「ローマがローマ世界の万国市場であることを誇ることができるのは、これらの大きな海洋ルートのおかげである。ローマの港の繁栄と富をもまたもたらす再輸出貿易を可能とするのは、これらのルートである」という。それを整理すると、次のようになる。 (1)アレクサンドリア小麦の輸送ルート 地中海の季節風が確認されるまでは、「船団がローマに向うとき、航海はクレタ島の南岸を経て進む中間ルート」、そして季節風の利用時代は「1つは、陸風と海風の交互に吹く作用(その影響は岸から約20キロのところまで及ぶ)を利用してアフリカ海岸をゆく[か]……。他の1つはロードス島海域まで北上して西方地域に苦労して達する[か]」。 (2)イタリア以西のルート(それは3つに分かれる) 「まず第1にアフリカ・ルート。これは地方総督地域(カルタゴ地方)を出発してサルジニアの東海岸に達し、これに沿って進んだのち、イタリアの港に向って航行するルートである」。 「次に、スペイン・ルートは大西洋岸のガデスから、あるいはその地方の中央部または北部から、すなわちマラガ、カルタゴノヴァ、タッラコ(タラゴナ)、あるいはその地方の他の港(デルトサ[トルトサ?]、エンポリアエ)から出発する。第1の場合には、……ジブラルタル海峡を渡ったのち、南のコースをとり、サルジニアの南に達し、そこからアフリカ・ルートに結合する。第2の場合には、船は中央線をとり、コルシカとサルジニアとの間のボニファシオ海峡を通る。それゆえ、そこが船のまぎれもない墓場となったのである」。 「最後にガリア・ルート、第1のものはナルボンヌを出発し、スペイン・ルートの北ルートに似ている。すなわち、それはボニファシオ海峡に向って進む沖合のルートである。第2のものは、アルルまたはマルセーユを出発し、コルシカに達し、ついでエルベ島を経てイタリア海岸に着く」。なお、このートはガロンヌ河、ロワール河や、ライン河、セーヌ河といた河川ルートと直接、間接に接続していたことが重要である。 (3)地中海以外のルート 「ローマ世界の生活において西方地域の役割が発展するのに伴って、大西洋ルートと英仏海峡・北海ルートは大きな重要性をもった。これらのルートは地中海ルートと結びついていた」。しかし、「互いにほとんど完全に独立している2つの航海領域があったと考えるべきであろうか。それを肯定する、ある否定する材料は何ひとつない」とする(以上、前同、p.213-5)。 ▼オデュッセウスの漂流と聖パウロの護送の航海▼ それら海上交易ルートを、古代の船員はどのように航海したのか。航海記はそれほど残っていない。そのなかにあって、古代における著名な航海として、前1490年のエジフトのハトシェプスト女王によるプントの交易、前1200年頃行われたオデュッセウスの漂流航海、前613-11年頃行われ、ヘロドトスが書き残したフェニキア人のアフリカ周航、カルタゴ人の前5世紀におけるヒルミコのコーンウェルへの航海やハンノの西アフリカ航海、ストラボン[前63?-後24?]が書き残した前310-06年におけるマッサリア人ピュテアスのブリタニアや北海への航海(なお、かれは天文学者でもあり、緯度の測定、月と潮汐の関係解明、磁石の偏差に注目)、後57年頃のギリシア人ヒッパロスのインド周航、後61年の聖パウロのローマへの護送航海などが取り上げられてきた。
そのなかで、ホメロスの『オデュッセイア』は、オデュッセウスが竜骨のない木造構造帆船をつくり、それを艤装して、カリュプソーに見送られて船出する。第五歌の航海では、すばるの星や牧人座の星をながめ、大熊星座の北斗七星を見張りながらの、18日間の航海となっている。この伝承に対して、すでにWebページ【1・3・3 カルタゴ、アレクサンドリア―地中海の棲み分け―】で取り上げた前5世紀カルタゴ人のヒルミコのコーンウェルへの航海やハンノの航海などは、海上交易に大いに関わりがある。聖パウロのローマへの航海は、Webページ【1・3・4 ローマ―単一支配の海上交易圏―】で取り上げたように、その実態をまざまざと見せてくれる。
茂在寅男氏は、ハンノの航海について「ここに出てくる機構、風俗などの様子は、今日のアフリカ海岸のものにちがいないが……具体的な地名や位置は確認することができない。ただチミアテリオンが……セブ川の川口にあるメヘジアであることは確かであるとされている。ここはジブラルタルからわずか2日間の航程の地で、カサブランカはおろか、ラバットにも達しない。最終地点『神々の車』は、情景からして火山カメルーン山という考えもあるが、航程の資料からすると、現在のリベリアの南端にあるパルマス岬を越えていない」と解説する(以上、同著『航海術』、p.28、中公新書、1967)。
また、聖パウロ(3?-62?)の航海について、それは正確な史料として評価しつつ、次の点に注目する。まず「276人のほかに荷物も積むという当時のローマ穀物船が、いかに大きなものであったかということ、しかしそれがいかに危険なもろいものであったか」、ユーラクロンという地方風は「ギリシア地方……独特の一時的な強い北東風である。昔の海図には風神像(ウィンド・ローズ)が八方位に1つずつ描かれ、それぞれに名前がつけられていた」。最後に、「船の積載量を増すことだけを考えて、操縦性になんら重点を置かなかった……ローマ人達はしょせんは農民であって海洋民族ではなかった。またその航海技術も、とうていフェニキア人やギリシア人に及ぶものでなかった」と断じる(前同、p.38-9)。
こうした航海記や周航記は、その時代の航海や船員のありさまを知らせてくれる、きわめて貴重な史料であり、いろいろな人々が活用している。こうした記録として残る大航海や大周航は、これら以外にもあったであろうが、その数は知れたものであり、きわめて特異なものである。日常の海上交易に関わるような航海はそういった派手なものではない。歴史を作ってきたものは、Webページ【1・3・2 ギリシア―エーゲ海限りの海上帝国―】でみたヘシオドスの『仕事と日々』にあるような地味で泥臭い航海であり、また聖パウロの航海にみるような小心で臆病な航海である。大航海も小航海なくしてありえない。 ▼古代の科学は航海術に寄与することがない▼ 航海記や周航記をみると、古代の船員の航海術は基本的には島、岩、岬、山、河口、樹木、海の色、潮の流れなどを確認し、また鳥などを利用する沿岸航法と呼ばれるものであった。それでも、太陽や月、星、雲などを初歩的に利用した天文航法も用いていた。こうした岸伝い航海や地乗り航海と呼ばれるものは、船員の長年の経験とそれからえた知識に基づいて行われた。それを援助する科学や施設がなかったわけではない。 航海標識として、前600年頃ナイル河のサイスに高い塔、前356年頃イオニアのエフェソスにアルテミス神殿が建てられていたという。前280年アレクサンドリアのファロス港に巨大な灯台、同時期ロドス港の守護神ヘリオスの巨像が建設される。後三者は世界の七不思議とされる。また、フェニキア人が3000年以前にスペインのラ・コルーニアに灯台を建設していたという。こうした希有な標識はさておき、船員にとって身近な標識はみお(澪)とか、たき火やのろしとか、またとうろう(灯籠)とかであったであろう。 なお、残る4つの七不思議は、ギザのピラミッド(前2680-2544頃)、バビロンの空中庭園(前600頃)、オリュンピアのゼウス神像(前5世紀半ば)、ハリカルナッソスのマウソレイオン(前353頃)である。 茂在寅男氏は、 ●測定器具として、カルデア人が前750年頃日時計、また前500年頃水時計を使用した、前350年頃アリストテレス[前384-22]が地球の球形を証明し、初期の天球儀と地球儀を作った、1世紀へロン[20?-62?]が経緯儀の原型を作った、ディオプトラ(照準儀)を発明した、測量機械グローマを使用した、 ●地図について、前580年頃アナクシマンドロス[前610/9-546/5]が最初の世界地図を作る、前510年頃ヘカタイオス[前6/5世紀]が世界地図を描く、前332-30年頃アレキサンドリアにて経緯度に基づく地図が作られる、前100年頃アグリッパ[前63頃-12]が世界地図を描く、 ●天文学について、前600年頃タレス[前640?-546]が「航海学」を発表する、前310-06年前後前出のピュテアスは天文学者として、緯度を測定、月と潮汐の関係を解明し、また磁石の偏差に注目する、前300年頃ティモカリス[前3世紀]は天文観測に時間表示を用い、赤緯と赤経を測る、前297年頃アレキサンドリアにムセイオン(研究施設)が設置される、前2世紀後半ヒッパルコス(前161-126)は三角法を編み出し、天体観測を行う、前46年ユリウス暦が使用される、後150年頃クラウディオス・プトレマイオス[83?-168]が地理天文学書「アルマゲスト」[偉大なる総合]を書く、 ●地理学について、前300年頃ディカイアルコスによって緯度圏などによる数理地理学が開かれる、前220年頃エラトステネス[前276?-196?]によって科学的地理学が始められる、前100年頃ストラボンが「地理学」を著して、南半球には北半球とバランスをとる形で、南方大陸(テラ・アウストラリス)があると予想する、後43年プリニウスが「地誌学」を著す(現存最古のローマ地理学書)、と列挙する(茂在前同、p.22-34、年表等を整理、補正した)。
古代の航海に関わる科学はヘレニズム時代において一挙に花が咲いたかにみえる。しかし、それがどれほどの技術史的な意味を持っていたかは、別の問題である。ヒッパルコスはピュテアスの業績を利用して地図を作製したとされる。そのヒッパルコスの見解をプトレマイオスは受け入れる。また、かれの著名な地図には多くの欠陥があるが、かれが既知した「世界―経度では180度、緯度では80度―を区画するための、たのみにした8000の地点は天文学的観測によるよりもむしろ、旅行記や船員の推測航法から確定された」といった、実務の科学への貢献はそれなりにあったであろう(T.K.デリー、T.I.ウィリアムズ著、平田寛・田中実訳『技術文化史』上、p.255、筑摩書房、1971)。 しかし、その逆として、それら科学が現実の航海術に、どのように応用されたかは判然としない。それらの科学が「誇示する学問」であったことから、その実情はこうであったであろう。すなわち、「航海術と科学が互いに密接に関係して助け合っている。天文学と地理学は1700年以来、航海術に強い影響を及ぼしてきた。もっと以前からそうだったと想定するのは広く流布した誤りである。プトレマイオス朝アレクサンドリアの人びとのすぐれた知識も当時の航海術にほとんど影響を与えなかったことは明らかである。……同様に、17世紀イギリスにおける科学的方法の革新も航海者のエリートに届いただけで、一般的にはならなかった。1人の有能な船乗りには必要であっても、その一般化は必要とされなかったのである」(H.-C.フライエスレーベン著、坂本賢三訳『航海術の歴史原書第2版』、序17、岩波書店、1983(1978))。 ▼古代の船乗りは夜間航海しないという非常識▼ ルージュ氏は、「古代人はみじめな船乗りであって、非常に海を恐れていたため……夜航海するのは、やむをえないとき、強いられたときだけであった。一般的に、夜になるや否や、彼らは最も近い岸に着き、船を陸にあげ、翌朝にならねば出発しなかった。したがって、彼らは沖海の航海を知らないのであった」とされてきたが、そういう常識はすべて誤りであるという(ルージュ前同、p.12)。その常識は、「ギリシア古拙時代に大ギリシアの建設者アカイア人がイオニア海の港とチレニア海の港の間に陸路運搬用経路を作っていた」ことや、「『オデュッセイア』のある行文および[夜間陸揚げして、漕ぎ手を休息させる]軍船の習慣を恣意的に一般化したことから生じている」とする(前同、p.13-4)。 古代の船員も地中海の海象や気象について経験を重ね、その利用について知識を蓄えてきたことであろう。そうでなければ、航海は常に冒険ということになり、海上交易なぞ成り立ちようがない。さらに、かれらが夜間航海した根拠として、「古代の舵が少なくとも[近世の]船尾舵にほぼ等しい感度をもっていた」ことを上げる(前同、p.15)。確かに、古代の船員も熟知した航路であれば、大いに夜間航海したことであろう。しかし、その熟知した航路の距離はどれくらいであったのか。それは風向きが変わらない、せいぜい2、3昼夜で行ける範囲であったであろう。また、そうした航路もその地方に住み着いている船員が熟知している航路であろう。 そうした近距離航海はともかく、穀物輸送のように年1航海ほどしかしない長距離航海においては、事情は大きく異なろう。それに従事する船員にとっては、あれこれの航路はほぼ未知の状態といえる。その欠陥を補うためには、それぞれの航路を熟知した水先案内人を、その都度乗船させる必要が生じよう。なお、ルージュ氏はリバニウス(前314?-393?、アンティオケイアの生まれの修辞家のことか)の「見よ、いとも親愛なる水先案内人。彼を船の王と呼んでも間違っているとは思われない。彼は、夜が来ると、眼をたえず星に注ぎ、舵のそばに腰をおろすではないか。……彼は、眠らないで、皆の者に安息をもたらす」という文言を引用している(前同、p.24)。 そうした水先案内人をキプロスやロドス、クレタの島々が供給したかも知れない。しかし、まずもってそうした島々に行き着かねばならない。それが風まかせの帆船にあっては困難そのものといえる。長距離航海にあっては、それに従事したことのある船員の経験に頼って航海するしかないので、昼夜の別なく、無制限に航海するという状況にはなく、最寄りの港をたどりつつ夜間航海が最小限になるよう、風待ちしながら航海したとみられる。 ▼地中海の航海適期、危険な場所、航海指針▼ 地中海における航海適期には、「1つは狭い考えかたであって、小心な旅行者が一貫して好む季節、すなわち5月27日から9月14日までの季節……。他の1つは広い考えかたであって……3月はじめから11月11日までの季節」がある。しかし、「夏になると東部海域で、大ざっぱにいって7月10日から8月25日にかけて北から南に吹く有名な季節風があり、それがエジプトとシリアからイタリアに向う航海をむずかしくする。それゆえに、ローマ帝国時代に、この方向[ローマ]に向かう大航海はこの季節風期から外れた時期におこなわれ、[その時期は]……帰路の時期となった」とされる(ルージュ前同、p.17-8)。 地中海における危険な場所はあらゆる海岸にあったが、特に危険とされたのはリビア海岸の流砂海岸(シルト)とギリシア南端のマレア岬であったという。こうした自然条件の危険な場所は、地中海の風土病とされる海賊が跋扈する場所でもあった。大海賊海岸は「小アジアの南海岸、ダルマチア、リグリア、西アフリカの海岸であった。岬と浅い海岸はむしろ難船掠奪者の領分であった。たしかに彼らは、難破によって海から岸に打ちあげられたものはそれを発見した者に属するという、かなり一般的な海の慣習を過度に利用しているにすぎなかった」(前同、p.19)。古代にあっては、海賊と難破は道連れであった。 こうした海事知識を集めた水路図あるいは航海指針と呼びうるものがまとめられる。それには、「主要事件、航海目標、給水場、寄港地、港(時としてそこで入手できる主産物にも言及する)、さらにまた危険な場所(暗礁、沖海の風からよく守られていない投錨地……)とともに海岸」などが記述されていたとする(前同、p.18)。現存するものとしては、ミレトス近郊のカリュアンダ人スキュラクス(偽スキュラクスと呼ばれる)が、前4世紀に編纂した『周航記』である。この航海指針をヘロドトスやストラボンなどが参考にしたという。 それは、H.-C.フライエスレーベン氏によれば、地中海だけでなく黒海も含まれ、「沿岸地域を示し、海から見える陸地の光景を記述し、流れ込む川の名を挙げ、海岸付近の浅瀬や岩礁を警告するほか、海岸付近の住民や町々についても記載している。海岸の2地点間の距離は1日行程を単位として示されている。1日の行程は専門家によれは500スタディアであるから、全地中海を西から東へ沿岸航行するのに必要な行程は153日ということになる。……その説明によると、主として昼間のみ帆走して夜は錨をおろした。沿岸航海は危険が多かったからである。どうしても必要なときだけ思い切って沖へ出たが、もちろん好んでしたわけではない。その場合には方角を示すものとしては星だけしかなかった」(同著、坂本賢三訳『航海術の歴史原書第2版』、p.4、岩波書店、1983(1978))。このフライエスレーベン氏も、ルージュ氏からみれば、非常識となる。 なお、スキュラクス以後の有名な航海記が、前1世紀の『エリュトウラー海案内記』であるが、それについては【2・1・2『エリュトウラー海案内記』にみる海上交易】でふれる。 ▼古代商船の1日当たりの航続距離は約92キロ▼ それでは、それぞれの海上交易ルートに要する航海日数は、何日であったのか。ルージュ氏は、大プリニウス(23-79、古代ローマの将軍・博物学者、大百科全書「博物誌」編纂)の時代における航海のレコードを紹介する。 「アレクサンドリア[からローマへ]のルートでは9日間の航海(たぶん季節風を利用した)であり、シチリアからアレクサンドリアに至るルートでは6日間の航海であった。ガデスからオスティアまでは7日間、山のこちら側のスペインすなわち大ざっばにいつてマラガとエンポリアエとの間に含まれる港からオスティアまでは4日間、アフリカからオスティアまでは2日間、ナルボンヌ地方から(しかしどこの港からであるかは不明)オスティアまでが3日間であった。さらにまた、同じ時代に、クレタ島からキレナイカに至る航海は2日間であった」という(ルージュ前同、p.217)。 しかし、「実際には、航海はずっと長いものであった。とくに、嵐によって迂回させられるという不幸に会ったとき、あるいは、たぶんもっと悪いことに、海洋のまっただなかで無風のために動けなくなるという不幸に会ったときに、そうであった。他方、すべては岸ぞいの航海をするか(聖ヒエヒロニムスの弟子聖女パウラは4世紀にローマからアンティオキアへゆくのに約8カ月をかけた)、あるいは直行の航海をするかによって異なる」とする(前同)。 史実に厳密な歴史家トゥーキュディデース(前460-400?)は、「シケリア[シチリア]の廻りを一周するには、商船で約8日の日数が必要である」としており(同著、久保正彰訳『戦史』下、62、p.21、岩波文庫、1966)、それについて訳者は「古代人の通念では、商船の一昼夜の航程は約92キロ、シケリア島のまわりは約700キロと想定されていた」と注釈する(前同、p.387)。なお、Webページ【1・3・1 フェニキア―海上交易国の誕生】でみたように、フェニキア人が活躍した時代の帆船の1日の航程は約50-55キロメートル、約30マイルとされていたので、トゥーキュディデースの時代、かなり高速化したことになる。 前項でみた1日の航程500スタディアは、アテネ単位の1スタディオン=185.2メートル=0.1マイルを用いて換算すると、92.6キロメートル、50マイルとなる。また、地中海横断に要する153日に伴う航続距離は76,500スタディア、14,167キロメートル、1,530マイルと計算される。それは実際の3,860キロメートルの約4倍になる。いま、この153日を実際に要する日数とみると、1日の航程は25キロメートルとなる。こうした長距離コースにあっては、この程度が現実の1日航程であったとみられる。 このように、古代人の通念とされる「1日の航程約92キロメートル」は、いま上でみたスキュラクスの航海指針に基づいているとみられる。しかし、それが昼夜航海の航程であるかないかは、明らかでない。それはさておいて、夜間航海せず昼間1日10時間帆走したとすると時速は約9キロメートル、約5マイル、昼夜にわたり航海したとするとそれぞれ約4キロメートル、約2マイルとなる。 すでにみたように、古代の船員が夜間航海しなかったとはいえないので、「約92キロメートル」は夜間航海の有無はさておき、平均的な航続距離での1日の平均航程と受け取ればよい。また、そうしたもとでの時速は4-9キロメートル、2-5マイルのあいだであったとみられる。それにつけても、ルージュ氏が紹介した航海レコードは、昼夜航海であっても、古代人の通念に対して3-5倍のスピード、時速12-20キロメートルでの航海となっている。このスピードは汽船そのものである。これら航海は順風にあおりにあおられた、昼夜兼行のレコードであったのであろう。 ▼主要貨物=穀物、土器、アンフォラの積み付け▼ エジプトの船は船倉がなかったので、積荷は甲板の中央部に置かれ、船の前後は空けられていた。ギリシア・ローマの船には、船倉が作られていたので、積荷を甲板上に置くことはなくなり、甲板は乗客に提供された。乗客は自らの食糧を用意したが、水は船が提供した。 穀物は、古代も現代も、大量貨物である。ルージュ氏によれば、それが少量の場合は、「籠、革袋、あるいはクパエ(口の広い大形土製壷)にいれて運ばれた。とはいえ、一般的には、穀物は乱雑に積みこまれて運ばれた」。「穀物は本質的に流動的であるため、船の動きが積荷の移動を促さないように用心しなければならない。そのために2つの方法が用いられている」と、かなり確信を持っていう。 その「最も簡単にみえる第1の方法は、いささかも隙間を残さぬように船倉を満たすということである。しかし……時のたつにつれて穀粒の山ができる。この不都合に対処するために、その山について動く板で穀粒を覆った。第2の方法は、板仕切りで区画したいくつかの部分に積荷を分割すること」であった。 次に、大きな比率を占めていた土器については、「互いにぶつかりあって破損することのないように、藁の層で固定しつつ、積み重ねた。マルセーユの近くの岩場、グラン・コングルエで発見された船の残骸の中に積み重ねた土器が見つかったが、その積み重ねかたはこのような方法であった。土器はまた箱あるいは籠におさめられた」とする(以上、前同、p.78)。 また、古代を象徴するアンフォラには、3世紀ローマ人がガリア人から学んで、樽を使い始める「ローマ帝国初期まで、液体およびオリーブ、堅果、はしばみの実など」が詰められ、運ばれた。アンフォラには、その「所有者あるいは発送人のしるし、宛先のしるし、時として荷を乗せた船の名、船長の名、通関上の指示」が記されていた(前同、p.79)。「アンフォーラは幾つかの層をなして垂直に積み重ねて置かれ、各層は互いにはまりこんでいた。貯蔵室の場合のように砂の底荷(底荷が砂であったなら)の中に突き立てて置かれたとみることのできる下層では、他に比べて割合にゆったりした間隔でアンフォーラが置かれた」という(前同、p.80)。
古代の船も、積荷のバランスだけではなく、底荷を積んで船のバランスをとっていた。ゲリドンヤ岬の難破船の「発掘者たちは、船の底荷の全部または一部をなしていたほぼ160キログラムの石を見たのである。底荷はまた積荷の一部で構成された。このことは、一旦荷下しすると、その部分の代りに他の積荷を置かなければならなかった、ということを意味する。ある船の残骸の底に麦用石臼がみつかった。……金属の塊についても、事情はたぶん同じである」(前同、p.76)。これら底荷は、船倉にきっちりと積まれる必要があった。ローマの港には、底荷を積むことを専門とする同業組合が作られていたという。 貨物の積み下しのため、「古代エジプト時代からローマ帝国時代に至るまで、上船[乗船]するための船橋と梯子は船の前部に置かれていること、船が岸壁に着くとき原則として船体の前部だけを接岸すること」になっていたという。このおもてづけは多数の船を一度に接岸させる方法であった。また、円形の埠頭に有効であったとみられる。なお、「おもて」は船首、「とも」は船尾をいう。 それら時代を通じて、商品を積み下しは人間の労力に頼っていた。「背あるいは肩に、アンフォーラ、商品の小さな包み、金属鋳塊、やがて船倉に並べられるはずの土器を乱雑に詰めた網をかついで、船と岸壁または短艇とを結びつけている板に上るのであった」。ローマ帝国時代には、穀物サイロがあったという説があるが、基本的には「小麦は袋で運び、船倉に注ぎこんだのである。荷下しのときは……入念に計量されたのち再び袋につめるのである」。 そして、重量物はギリシア時代以降、起重機が用いられたが、その簡単な形は積荷マストであった。それは「船の前部におかれて、岸壁の物をつかみ、船倉まで運ぶことができた。この積荷マストはアルテモartemoという名称をもっていた」という(以上、前同、p.81-82)。 ▼港で働く人々―港湾労務者、検定人、検数員―▼ この小節と次節の職名は訳文のママである。 港には、様々な人々が働いていたが、その主力は港湾労務者であった。かれらはローマ時代、背中に荷を担ぐサッカリイsaccariiとバイウリbaiuli、各種の板を用いて荷をかつぐファランカリイphalancariiに分れ、港の底に落ちたものを拾いあげるウリナトレスurinatores(潜水夫)もいた。かれらは同業組合を作って、ローマの港の荷役を独占していた。 また、港湾荷役管理のために、「まず第1にメンソレスmensores(計量者)があり、彼らは積荷の正確な内容を確かめる。ある者はボワソー桝[1ボワソー12.8リットル?]と、桝に一杯になった物をならす定規を用いて穀物を計り、たぶんメンソレス・マキナリイmensores machinariiと呼ばれる他の者は他の商品を計量する。いわば宣誓して任官したこれらの積算士は、計量されたすべてのものの正確な計算をするタブラリイtablarii(計量書記)に補佐される。商品が直ちに運び去られないときは、商品はホルレアリイhorreariiの監視のもとにホルレアhorrea(倉庫、家具倉庫、金庫)に保管される。そこにもまた、入ってくる商品と出てゆく商品を計量するタブラリイという人員がある」。これら職種は現代の検定人、検数員というところであろう。 この時代の港は同時に造船所を併設していた。それに関わって、「ファブリ・ナウア fabrinaualesすなわち船大工、……ストッパトレスstuppatpresu(まいはだ職工)、ウエラリイuelarii(帆造り職人)、航海に使う綱と器具を造る職人、船に浸水があったさいに船倉の水を除く役を果すポンプを造る職人、[そして]大きな港には……船を投錨地点まで曳いてゆくことも、風を受ける沖合まで船を導いてゆくことも……できる」輸送業者(これは港内のよろず請負人といった業者であろう)もいたという(以上、前同、p.202-3)。さらに、港には港湾管理官庁が置かれ、港税や関税を徴収する財務官や穀物輸入に関わる食糧官が配置されていた。 アラン・プレ/オリヴイエ・フエールターク氏は、港のにぎわいは「岸壁ではたくさんの《ファランガリイ》すなわち港湾労務者が荷揚げに従事していた。かれらは初歩的な起重機を使ったり、あるいはたいていは腕だけで荷を扱かった。荷は煉瓦づくりの倉庫《ホレア》にいったん入れられ、ついでローマヘと送られるか、あるいは再び輸出された。夜間はしばしば騒がしかったに違いない。港のたくさんの酒場の遺跡に古代の落書きが残されていて、それらが世界中の港の夜の情景をいきいきと描き出している。秩序維持は都市の歩兵隊の強力な一隊に委ねられ、消防隊が停泊中の船や倉庫にある麻の在庫の火事にそなえて見張っていた」と想像する(同著、高橋清穂編訳『図説交易のヨーロッパ史―物・人・市場・ルート―』、p.64、東洋書林、2000)。. ▼商船、軍船の乗組員とその構成▼ ルージュ氏によれば、ローマ時代の船員の職種は「過去の場合より多く、かつずっと専門化している。これは、ヘレニズム時代に生じた変化の帰結である。海では乗組員は一体となり訓練をつんでいる」と評している。なお、その意味合いは不明である。 ローマ時代の大型商船の一般乗組員は3つのグループに分かれるという。まず、「最下位に位置するレミゲスremiges(漕手)。彼らはランチの乗組員を構成し、ランチを使わないときには専門でない仕事の要員として、とくにポンプを操作する要員として使われる。漕手の上にはメンソナウテmensonaute(中間水夫)がいる。彼らの役割についてはよく分っていない。最後に、乗組員のエリートはナウタエnautae(水夫)で構成されている。彼らは錨と帆を扱い、図像ではとりわけ甲板水夫として示されている」。 「この3つの乗組員の上に司令部があり、これは見間違うほどに前時代のものと似ている。すなわち、グベルナトル・クベルネテス(航海長)とプロレウテ(副長)とケレウステまたはパウサリウス(掌帆長)という3つの役割がまたしてもそこに認められるのである」。この他に、旅客との関係を担当するトイカルコスtoicharchosとか、ディアエタリウスdiaetariusかといった職種がある これら船員のリクルートは「さまざまであり、その職務の求める能力に応じて異なる。ある人びとは一航海のために乗船し、悪いシーズンに下船する。船主は彼らについて何の配慮もしない。他の人びとは船主に長期間奉仕する。彼らが奴隷であったということも可能である」としている(以上、前同、p.204-6)。 ここにみられる船長とその補佐、職長としての掌帆長、そして一般乗組員といった構成は、現代にいたるまで船員の基本的構成であり、すでに古代において定まっていたといえる。また。かれらのリクルートはもまた現在に引き継がれている。このことからも船員が最古の職業と呼ばれるだけのことがあることを知りうる。 ギリシア時代の三段櫂船には200人以上が乗り組んでいた。その多数はいうまでもなく、170人にも及ぶ漕ぎ手である。かれらは船の船首部に54人、中央部に54人、船尾部62人が配置されていた。次に数人の操帆員がいた。そして、司令部として、「船の名目上の長である三段櫂船司令官トリエラルコス(trierarchos)、監督士官ペンテコンタルケ(pentecontarque)、航海についての実際の長であるクベルネテス(kubernetes)、船の進路を指示する実際の副長であるプロレウテ(proreute)、最後にアウレテ(笛吹き、aurete)に助けられて漕手隊にリズムを与えるケレウステ(keleuste、[下士官という訳語が当てられる])」がいた(前同、p.100)。これら司令部は、陸の人間である三段櫂船司令官(艦長)や監督士官、ケレウステと、それ以外の航海系士官に分かれており、それぞれ出自が異なる。これらはローマ時代以降においても基本的に同じである。 なお、商船や軍船の乗組員、あるいは港湾要員の職名あるいは訳語については、再検討が必要である。 (04/01/29記)
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