▼多数のポリスの分立とその「民主政」▼
古代ギリシアは、前12世紀頃からドリス人などがバルカン半島から南下して来ると、ミノア・ミュケナイ文明は完全に崩壊し「暗黒時代」に入る。先住民のなかには追い立てたられて、ギリシア本土の他の地域、エーゲ海の島々、小アジアなどに移動する。当のドリス人たちも、原ギリシア人と混在するようになる。その結果、それらの地域にギリシア語を共通語とする、「ギリシア世界」が築かれる。その間、先進のオリエント世界との交流はしばし閉ざされるが、ギリシアとフェニキアの相互交流として再開される。 ギリシア人は、近世オランダ人やイギリス人と同じように、「暗黒時代」の数百年間、「どちらかと言えば、通商目的のためというよりか、むしろ、海賊行為や征服活動または植民活動を目的として船舶を建造していた」(C・アーネスト・フェイル著、佐々木誠治訳『世界海運業小史』、p.27、日本海運集会所、1957)。その成果として、ギリシア人はフェニキア人に学びながらも、かれらをギリシア本土やエーゲ海から駆逐し、植民市を地中海のそこここに建設し、海上交易の基地としながら、それを地中海全域に押し広げていった。 こう述べると、ギリシア人は単一の勢力として活躍し たかにみえるが、それはあくまでポリスを単位とするものであった。「自国の都市に属しない船はどれでも、『結構な御ほうび』として、敵国や海賊から略奪された」(フェイル前同)。 古代ギリシアは、前8世紀前半から前6世紀末でが、前古典期(アルカイック期)とされる。前8世紀初め、「暗黒時代」を経て定着したギリシア人は、いままでにないタイプの社会組織であるポリスを誕生させる。そのポリスの成立や大きさは様々である。その数は、次の述べる「大植民の時代」後、1000ともいわれる数となる。そのなかで、人口10万人と突出したアテナイや、スパルタ、コリントス、テーベは広域ポリスと呼ばれた。しかし、その面積は日本の一つの県程度であった。例えば、アテナイは神奈川県とほぼ同じである。その人口は大半が千人未満の小ポリスであった。日本の戦国時代直前のような分立状態にあった。このポリスの分立は一面では競争、他面では敵対を促すことになる。 スパルタはドリス人のポリス(コリントスも同じ)であり、食糧を自給自足してきた。政治体制は市民の軍政というようなもので、市民は政治と軍事に専念し、農地は隷属農民に耕作させ、商工業は従属市民に委ねていた。隷属農民や従属市民を支配する社会体制を維持するため、軍事訓練、貧富の解消、鎖国政策が行われた。こうして、スパルタは軍事国家と呼ばれるようになるが、それは市民のできる限りでの平等への配慮によって実現された。これがスパルタの「民主政」(民衆政とすべきであろう、以下同じ)である。なお、その初期や末期はともかく、スパルタが他のポリスに対して覇権国家となることはなかった。 アテナイは、当初はイオニア人の弱小のポリスであったが、周辺の領土を取り込み、スパルタに遅れて広域ポリスとなった。それでも食糧は不足がちであった。アテナイはスパルタと違って、土地持ち市民と無産市民に分かれた。土地持ち市民は、それを自らも耕作したが、1-2人の奴隷を所有し、それらにも耕作させていた。 初期アテナイは貴族政、僭主政で、市民には参政権はなかった。しかし、経済の発達とともに社会構造も変化し、経済力を蓄えてきた市民は自弁武装が可能となり、政治参加を要求するようになる。それに取り残された貧困市民の不満は高まり、治安は悪化する。それを解決するため、前6世紀初め海上交易の経験を持つ、ギリシャ七賢人のひとりであるソロン(前638?-559?)の改革(民会の設立、市民4等級制、債務奴隷の防止、商工業の奨励)、前6世紀末クレイステネス(前570?-507)の改革が行われる。これらがはアテナイの「民主政」の始まりである。 ポリスは、王政、貴族政、僭主政などと変転し、また「民主政」を築いたとされ、それらの特徴として自由な自治を行う市民の集団が形成されていたとされる。それはあまりに一般的な言い方である。それは、いまみたように、ひとえに武装することができ、同時に政治に参画することができる土地所有者の、簡単に言えば特権市民の共同体である。また、古代ギリシアは民主主義の産みの親とされる。しかし、その実体は特権市民が従属市民(自由人)と奴隷を支配、搾取し、それによってえた余暇時間を使って政治や戦争に参加する、社会体制としては真正な奴隷制社会であった(それはローマで完成する)。 ▼植民市、西地中海から黒海に広がる▼ ギリシア人の海外移住は、すでにドリス人の南下に玉突きされて、前11世紀以降始まっていた。 例えば、イオニア人たちは小アジア西部のイオニア地方にミレトスやフォカイア、エフェソスといった12の植民市を建設していた。前古典期、「民主政」とともにもう一つの特徴である「大植民の時代」に入る。その時期、ギリシアの植民市は南フランス、南イタリア、シチリア、トラキア、マルマラ海、黒海、エジプトへと広がり、さらにその後スペイン、アフリカ北岸にも建設される
まず、前8世紀前半には、ギリシア本土のポリスが母市となって西に向かい、南イタリアのピテクサイ(現イスキア島)やクマエ、そしてシチリアのナクソス、ザングレ(以上、母市エウボイア島のカルキスやエリトリア)、前8世紀後半ギリシア最大の植民市となるシチリアのシュラクサイ(母市コリントス)やメガラ・ピュプライア(母市メガラ)、そして南イタリアのタラス(母市スパルタ)が建設される。
前7世紀に入ると、主として小アジアのポリスが母市となって、一転してエーゲ海を北上し、さらに黒海まで押し入るようになり、小アジアのカルケドンやビュザンティオン(以上、母市メガラ)、トラキアのタソス(母市パロス)、黒海のイストロスやオルビア(以上、母市ミレトス)を建設する。さらに、前6世紀にまたがって、南フランスのマッシリア(母市フォカイア)、エジプトのナウクラティス(母市ミレトス)やリビアのキュレネ(母市テラ)といった遠隔地に植民市が建設される。さらに、子市は孫市を建設するようになる。なお、西地中海はカルタゴが制圧しており、それになかなか入り込めなかった。 ギリシアの植民市に関して注意すべきことは、アテナイやスパルタといった最大の都市国家が植民市をほとんど建設していないことである。それら都市は、アルカイック期には、まだ人口過剰に陥っておらず、海運にも関心がなかった。その後、アテナイやスパルタは植民市の建設ではなく、支配に向かう。また、植民市は当初から、母市に対して独立したポリスとして建設されており、母市と協調することも、敵対することもあった。 ▼農業植民市と交易植民市▼ これらの植民活動は時期を前後して行われたフェニキアのそれとは、その規模が大きいばかりでなく、社会的意味においても大きな違いが認められる。ギリシアの植民活動の動機について、桜井万里子氏は「植民市の多くは、人口増加と耕地の不足を解決するために、農地の獲得を目指して建設されたが、国内の政争のゆえに、あるいは交通の要衝に戦略的意図で、計画されたものもあった。そのうえ、建設後に植民市と母市とのあいだで、あるいは、植民市と原住民とのあいだで、交易が活発化するということも生じたから、ギリシア植民は農業植民を中心にしながらも、複数の目的が併存している場合もあった。ギリシア人が外界に対し旺盛な好奇心と探求心をもっていて、それが植民活動推進の機動力になったとも言えよう。このギリシア人の性向は、ホメロスの叙事詩に登場するオデュッセウスのような英雄たちのなかにはっきりと見てとることができる。叙事詩は、それを愛諭した人びとの思いの形象化でもあったのだ」と説明される(桜井万里子他著『世界の歴史5 ギリシアとローマ』、、p.71、中央公論社、1987)。 フェニキアは主として交易の便宜を確保するためにあったが、ギリシアはすぐれて農業領域の獲得にあった。それだけに、ギリシアの植民活動はすべてではないが、近代植民地と同じように先住民がいる内陸に押し入り、かれらの土地を取り上げ、かれらを支配した。こうした侵略と支配の性向は、かの詩人が称揚しているように、ギリシア人の骨がらみのものであり、それがとどまることはなかった。農地に加え、金、銀、銅、鉄の産地の確保も目指された。後期植民市のビュザンティオンやナウクラティス、マッシリアなどは、そのはじめから交易市として建設されていたとされる。こうした交易市をエンポリオン(emporion、スペインに同名のポリスがある)、それ以外の植民市はアポイキア(apoikia)と呼ばれた。 こうしたギリシア人の植民活動のなかで、ヘロドトスが書き残した前630年頃テラ(現サントリーニ)島からキュレネ(リビアのベンガジ近郊)への植民に関する記述はきわめて興味深く、よく取り上げられる。そこへの植民は7年にも及ぶ飢饉を回避するために決定された、いわば棄民であった。2隻の五十櫂船に乗せる、およそ200人の選抜にあたって「くじ引き」が行われ、また植民者の帰国は認めないとされた。なお、植民地はデルフォイの神託を受けて決定されているが、キュレネがどこかをテラ人は知らなかった(あるいは知らされなかった)という。この窮迫的な植民は、共同体規制にしたがって行われ、強制力を伴っていたことを知りうる。これも民主主義ではある(同著、松平千秋訳『歴史』中、4:151-6、p.87-91、1971)。 この「大植民の時代」を、桜井万里子氏はこう結んでいる。「ギリシア人は、トラキア人やスキタイ人など、多くの異民族と、それまでよりはるかに密接な交渉をもつようになる。植民の際に原住民を従属民の地位に陥れることもあったし、周辺の異民族から奴隷を調達することもしだいに頻繁になってゆく。異民族をギリシア人はバルバロイと呼んだ。だが、前8、7世紀には異民族を蔑視する傾向はまだ現れてはいない」と(桜井前同、p.82)。なお、バルバロイの反対語は英雄ヘレンの子孫であるヘレネス(ギリシア人)であり、ヘレネスが住む土地がヘラスであった。「大植民の時代」は大拡張の時代であり、異民族蔑視の始まりであった。 なお、前5世紀、アテナイは黒海からの穀物輸送の生命線を確保するため、護衛船の配置だけではなく、行動半径の極めて狭い軍船を安全に揚陸できる基地として、クレールーキア(軍事植民地)を役立てた。 ▼先発する海上交易都市コリントス▼ こうした植民活動によって、ギリシアの海上交易は地中海全域に拡大し、この拡大のなかでギリシアの商工業は発展を遂げ、商品と貨幣の流通が格段と進展したと喧伝される。海上交易は母市と植民市、それぞれのあいだだけでなく、当然それを超えて先進オリエントやバルバロイとのあいだで展開されたであろう。しかし、古代ギリシアの時代ともなると、歴史や政治の史料は豊富になるが、交易の史料は相変わらず少ない。人口さえ明らかでないし、それがあっても前4世紀以降のものである。そのため全体がはっきりしない。 多くのポリスが、植民活動と同様、何らかのかたちで海上交易に参入したと考えられがちである。大ポリスはともかく、中小のポリスは自給自足が原則であったので、それができていれば海上交易には加わることはなかった。それに加わってもたいした量ではなかった。それら中小のポリスは、コリントスやアテナイとのあいだで、様々な産品を輸出入していたとみられる。 ギリシア世界における海上交易はイオニア系植民市においていち早く始まるが、しばしペルシアの支配下におかれる。ギリシア本土においては、コリントスやアテナイ、アイギナ、メガラ、アルゴスが、交易都市あるいは交易港となった。アイギナは、前6世紀前半にギリシア世界で最初に貨幣を発行したポリスであり、同世紀末からアテナイと対立、その間の海戦はペルシア戦争の後になってもなくならなかったという。 ポリスのなかで、コリントスやアテナ イがギリシア世界における最大の交易都市あるいは交易港となる。コリントスは西向きの、アテナは東向きの交易を行う中継交易地となっていた。しかし、その担い手はコリントス人やアテナイ人が主役であったわけではなく、その多くはデロスやキオス、サモス(前6世紀後半、制海権を拡げ、繁栄した)、ロドスといった島嶼、その他、輸入元である小アジアやイタリアの植民市の人々―居留外国となる人々―であった。 イオニア系の最大の植民市ミレトスは、前5世紀初めペルシアに反抗したとき、80隻の軍船を持っていたという。かの地には羊毛工業が栄え、ギリシアそしてイタリアにまで販路を拡げていた。それに合わせ、パピルスに代わる羊皮紙も作られ、皮革業も盛んであった。すでにみたように、ミレトスは早くから黒海北岸に植民市を建設しており、そこから木材を輸入して木工業や造船業を興した。また、東地中海の中継交易にも参入していたとされる。 前古典期、海上交易に先行したギリシア本土のポリスはコリントスであった。コリントスは、「船の構造を、ほとんど現在のものに近く改新した」ばかりでなく、「コリントス人は[コリントス湾とサロニコス湾を持つ]陸峡地帯にポリスを営み、きわめて古くから通商の中心を占めていた。というのは、古くはギリシア人はベロポネーソス半島へ往来するとき、海路よりも陸路をえらび、コリントス領を横ぎって互いに交流していたので、この地の住民は、古来詩人らも『富み豊かなる地』とこれを呼んでいるように、物質的なカをたくわえることができたのであった。さらにギリシアの船がさかんに海をわたるようになってから、コリントス人は船舶を建造し、海賊を制圧して、コリントスを海陸両面における商業活動の中心地たらしめ、財貨の収益によってポリスの勢力を大いに伸長させた」とされている(トゥーキュディデース[前460-400?]、久保正彰訳『戦史』上、1:13、p.67、岩波文庫、1966)。
コリントスにはコリント地峡を挟んで、東のサロニカ湾の側にエーゲ海と地中海東部につながるケンクレア港と、西のコリント湾の側にイオニア海とアドリア海、そして地中海西部につながるレカイオン港とがある。ギリシアの地理学者ストラボン(前63?-後24?)は、コリントスを「二つの港の主」と呼んだという。コリントスは前650年頃までに、ギリシア第一の交易都市として繁栄する。ただ、コリントスはシチリアなどから穀物を輸入せざるえず、その支払いにアテナイやエーゲ海から輸入した銀を当てねばならかった。
それはともかく、コリントスは「コリントス地峡を通る物品に課した通行税から相当な利益を得ていた。当時、コリントスにある倉庫内は、シチリア島の麦、エジフトのパピルス、リビアの象牙、キ
この時代、アテナイの富裕市民たちも海上交易に遅ればせながら加わり、アテナイの陶器をコリントスに依存しながら輸出するようになる。前古典期、アテナイはコリントスが一時期凋落すると、ギリシア第一の交易都市であり続ける。前5世紀、アテナイは穀物を大量に輸入するようになるが、他のポリスとは違って銀山に恵まれていたため、その支払い―特に、後述の穀物の緊急輸入の場合―に困ることはなかった。 アテナイ銀貨は他の貨幣を圧して、東地中海の交易に好んで用いられた。岩片磯雄氏はアリストファネス(前445?-385?)の『蛙』(720、前405年上演)のなかの科白を敷衍して、「こちらは昔からのアテナイの通貨、鋳造と材質が見事で、ギリシアの中でも遠い外国でも、高く評価されている」。「外国の港では、その土地の通貨が外では通用しないので、やむなく帰りの荷を積まなければならない。けれどもアテナイでは、商人はその積荷を需要される各種の他の財貨と交換することもできるし、帰りの荷を積みたくなければ、アテナイの銀貨に換えるのも儲けの多い仕事である」と書いている(岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』、p.311、大明堂、1988)。 アテナイにはどのようなものが持ち込まれていたのか。ヘルミッポスの喜劇『かごかつぎ』(ペロポネソス戦争初期の作品)には、次のような一節が後200年頃のギリシア人であったアテナイオスが書き残した、ヨーロッパ最初の料理本とされる『宴会の賢人たち』(第1巻27e−28a)において引用されている(太田秀通著『生活の世界歴史3 ポリスの市民生活』、p.224、1975、河出書房新社)。なお、この部分は柳沼重剛氏の訳書(岩波文庫、1992)には訳出されていない。 「キュレネからはシルピオン〔食用、薬用植物〕に牡牛の皮、ヘレスポントスからは鯖に塩漬魚、テッサリアからは塩に牛の骨、トラキア王シタルケスからはラケデイモン[スパルタ]人を悩ます湿疹、マケドニア王ペルディカスからは船一杯の嘘、シラクサからは豚にチーズ、エジプトからは帆にパピルス、シリアからは乳香、クレタは神々のための糸杉を、リビュアは多くの象牙を、ロドスは甘い夢を誘う乾葡萄に乾無花果を届け、エウボイアからは梨とりんごが、ブリュギアからは奴隷(アンドラポタ)が、アルカディアからは傭兵がくる。パガサイは奴隷(ドウーロイ)と烙印をおされた逃亡奴隷を送り、パプラゴニアは栗の実と、饗宴の飾りとなる輝くアーモンドを送り、フェニキアはなつめ椰子ときれいな小麦粉を送り、カルタゴは敷物と色とりどりの枕を送ってくる」とされる。 高見玄一郎氏は、古代ギリシアの港は「前6世紀から同5世紀になると、多くの植民地の設定やギリシア海運の発達に伴って、人工的な港湾建設の技術が発達した。それは、風浪を防ぐための人工的な防波堤の建設、陸上の建築技術の発達に伴う港の要塞化、あるいは軍船を保管するための船庫の出現等々である」とする。ペイライエウス港(現ピレウス)には、商港と軍港を兼ねる主港のカンタロス、そして軍港のゼア、ミュニチア(現ミクロリマノ)という、3つの港があった。 「軍港には、軍船を陸に引き上げて保管するたくさんの船庫[カンタロスでは372隻を収容できる]が並んでいた。……カンタロス港の東側は商業地区であって……各地から商人が集まって、ここで取引した。これら商人の入港に際しては、港湾及び税関へ料金や税金を支払い、その後で荷役を行うことができた。商取引は、大理石の巨大な柱を並べた柱廊または商館で行われ、これは"長い店"とも呼ばれた。またダイクマ[発音でDeigma] と呼ばれる商品の見本を並べている店もあった。貨幣の両替店もあった」としている(同著『港の世界史』、p.55-58、朝日新聞社、1989、ペイライエウス港の図がある)。
ほぼ同じであるが、前5世紀のペイライエウス港には「トン数は250トン以下であったが、世界中から来た船舶が集まっていた。西沿岸は海軍の基地にされていたが、東沿岸には堤防が築かれ、5つの陸揚倉庫には商品が納められていた。穀物取引所や商業取引所では商品見本によって商談を行なっていた。世界中から集まった群衆が大声で話し、粗野な身振りで埠頭にひしめき合っていた。彼らは船員、漁師、小売商人、職人、労務者、波止場人足などであった。ここで大きな海上ルートが交錯していた」(ジョルジュ・ルフラン著、町田実、小野崎晶裕共訳『商業の歴史』、p.16、文庫クセジュ、1976)。
前古典期以後の海上交易の拡大とともに、アテナイにおけるその担い手は在留外国人となり、それが増加し、またアテナイ農業の商業化も進んでいった。それは、アテナイ自身の人口増加となり、「穀物、木材などの需要の増大をもたらしたのみでなく、農業自体が自給的な穀作型からオリーブに重点をおく輸出型」、すなわち「消費地の周辺では野菜や花卉園芸が行われ、その他の地域ではブドウとオリーブを主にしたものに」「転化することによって、穀物輸入の必要性を一層増大させた。加えて陶業の発展も、燃料としての伐木の増大をもたらした」とまとめられている(岩片前同、p.313-4)。 ▼海上交易、農民も参入、貧富の拡大▼ 前古典期における植民活動は、直接的には黒海やシチリア、エジプトに穀倉地を確保することにあったが、それは東地中海規模での交易を促進させるものであった。その結果として、富裕な交易人を誕生させた。その例として、ヘロドトスは2人の商人を取り上げている。それは、すでにみた前7世紀のキュレネへの植民の記述に登場する、サモス島のコライオス、そしてアイギナ島のソストラトスという商人である。かれらはいずれも自分たちのポリスの神殿に宝物を奉献している。 「コライオスという男が船主であったサモスの船が、エジプト[多分、ナウクラティス]に航行中漂流して」、キュレネに着く。彼は、そこに先遣されていた植民が困っているのを聞き、1年分の食糧を残す。その後、「東風に流されながらも、エジプトを目指して航行を続けた。しかし風は弱まらず、彼らは『ヘラクレスの柱』[ジブラルタル海峡]を越え、神の導きによってタルテッソスに着いた」という。 スペインのタルテッソス(現ウエルヴァ)は、「当時はまだ通商地として未開拓であったので、彼らが帰国したときは、積荷によって挙げた収益が、われわれが確実な資料に基いて知る限りにおいて、かつていかなるギリシア人も挙げたことのない莫大な額に上った」。しかし、それをもってしても、「アイギナ人のラオダマスの子ソストラトスには及ぶべくもなかった。ソストラトスと肩を並べることのできる者は1人もいない」とされた(以上、ヘロドトス前同、p.88)。 他方、桜井万里子氏は、ヘシオドスの『仕事と日々』を念頭においているとみられるが、一般論として「中小の農民たちのなかにも、この冒険的な事業に手を染める者が前700年ごろには現れた。余剰農産物などを遠方の地に運んで行って、希少性ゆえに高い値で売りさばき、かわりにその地の産物でギリシアには珍しい物を買い入れて帰国するという形の交易活動に、少し余裕のある農民たちが乗り出したのである。……農業が中心の経済は変わらなかったが、商業や手工業など多分野の経済活動に従事する人びとが共同体の内部にも現れ、……貴族と平民の上層部がともに社会の支配層を形成するようになる」という(桜井前同、p.86-7)。
海上交易はいつの時代も「冒険的な事業」であるが、ギリシア人とっては「大植民の時代」とともに、一つの手っ取り早い生業になっていったとみられる。そうであるからこそ、農民たちが乗り出していたのである。一般論として、母市から植民市への主な輸出品はオリーブ油、ブドウ酒、陶器、その逆は小麦、木材、奴隷であったとされる。それらは、奴隷や木材を除けば、農民たちが日常的に生産、消費する農産品とその容器である。それらを海上交易人に委ねず、自ら行ったとしても不思議でないし、その程度の交易であった。
そこで重要なことは、海上交易や商工業の発達がポリスにおける市民の貧富の差を拡大させ、いままでになく、かれらの階層分解を促進したことである。アテナイにあっては、富裕市民の金銭欲を刺激した。中小の農民は高利貸によって没落させられ、土地は富裕市民に次第に集中する。かれらは、多くの利益を上げようと、穀物を輸出するまでになる。そのあいだの対立は、「大植民の時代」が終えんしつつあるもとで、ポリスを崩壊させるおそれがあった。 すでにみたソロンの改革は穀物の輸出を禁止するが、食糧の確保と交易の拡大を目指して、オリーブ油やブドウ酒の生産とその輸出を奨励する。さらに、それを促進するため、在留外国人を迎え入れる措置がとられた。また、債務を帳消しにし、債務奴隷を救済し、それを防止した。そのため、ポリス以外から、いままでになく購入奴隷を調達せざるをえなくなり、奴隷交易を拡大させることになった。 ▼単なる商人、単なる船主、単なる船長▼ 古代ギリシアの海上交易にける最大の特徴は、海上交易人が発達して、後世につながる分化がおきたことである。その兆候はすでにフェニキア人にもあったとみられるが、それは確認しえない。それは商人船主だけもなく、船主でもない単なる商人、逆に商人ではない単なる船主、そして単なる船長が登場したことである。 アーネスト・フェイル氏は、まず「初期貿易の大部分は商人船長〔mechant-skipper〕の手で営まれていたようである。すなわち、自分一個で1隻の船舶を所有する資力を得た者、或いは、友人や隣人を誘い、小規模な組合を結成して1隻の船舶の購入費を得たものが、幸運にも商人船長となることができた」。 その「彼は醵出または借用して得た資金……をもつて、陶器・葡萄酒或いはオリーブ油を積荷として購入した。彼は、通常、春に出港し海岸に沿うて……周知のルートをたどった。……積んで行った商品を売りさばき、それと引きかえに、他市場で売れそうな産物を仕入れた。かくて、彼は、−定の航路日程とか特定の航路とかに航海を固着化しないで、自分たちの本国の町で容易に買手のつきそうな産物を売っている[ママ]。どこかの地で航海を打ち切るように心がけながら、夏中をすごし、冬の強風が吹きはじめるまえに、本国への帰途につく。彼のとる行動は現代不定期蒸汽船の行動に酷似しており、たった一人の人間が[正確には、商人であるばかりでなく、]運航者・船舶所有者・船長の三機能を兼ねていたという点が相違するのみである」とする。 古典期になると、それ以外に、「これとはちがった性格の船舶所有者」、すなわち商人ではない船主もあらわれる。「自ら輸出し得るほど多量の製品を生産し得ない島々の住民の場合、自己の船舶に自己の品物を積まず、言葉の真の意味における不定期船として行動した。すなわち、彼等にあっては、運賃の収得以外に他になんの報酬も受けることなしに、商人およびその商品を積んで商人の欲するところへ運んだ。こうした純粋且つ単純な船舶所有者は、貿易の発達とともに、確実に、その数を増大して行つたように思われる」という(以上、フェイル前同、p.28-9)。 これを補足して、そうした「船舶所有者は、普通、船長を兼ねて自分の持船に乗っていたが、概して、船を傭船する商人とは別個の存在であった」。商人である「傭船者と船舶所有者との間にあっては、通常、船主は船腹運賃を受取り、商人は自分自身および本船に乗船している自己の使用人の食料費を負担し、荷役費は傭船者の負担とするという仕組をとっていたように思われる」とする(以上、フェイル前同、p.31、33)。なお、1人の船主が複数の船を所有していることは、それほどまれではなかったという。 古典期以前おいては、海上交易に携わる商人が商品を買い込み、自ら船を所有して船主となり、しかも大方は船長となって、自分の商品とともに、さらに運賃を支払わせて、他の商人の商品を輸送していた。しかし、海上交易が発達するにつれて、それら機能が分化し、そうした商人船主ばかりでなく、近代以降一般的となる、他の商人の商品を運賃でもって輸送することに専念する船主(正確には、船舶所有者兼運航者)が出現したのである。そうした船主であっても、小口の商いはしていたし、船長を兼ねていた。さらに、所有している船舶を他人に賃貸借して利益をえることだけを目指す、地主的な船舶所有者も出ていたかもしれない。 ▼最強の海軍力を誇るアテナイ▼ 前5-4世紀は古典期と呼ばれる。それはギリシア世界の最盛期とか、ポリスの黄金時代とかはまだしも、人類史上で最も輝かしく、後世に多大な影響を与えた時代などといわれる。しかし、それは一面を意図的に強調しすぎている。この時代は慢性的な戦争や内乱、疫病と食糧危機、貧富の対立、不寛容と不公正の時代だった。この時代、2つの大きな戦争があった。すなわち、前500-449年のペルシア戦争はいわばギリシアの祖国防衛戦争であったが、前431-404年のペロポネソス戦争はギリシア内の覇権争奪戦争であった。さらに、古代ギリシア史とは何かといえば、内乱史といいたくなるほど、かれらは戦争が好きだ。 これらをもって知りうるように、ギリシア人はたまには団結することがあるが、いつも反目しあっており、そこにあるものは好戦的な性向である。そのため、ギリシア世界が安定することはなく、いずれのポリスも古典期末期には消耗しきり、事実上崩壊していたといえる。それに最後の一撃を加えて崩壊させたのが、ギリシア人の骨がらみの侵略と支配の性向を体現した、アレクサンドロスのアジア大侵略戦争であった。これによって、拡大したギリシア世界はポリス社会からオリエント専制社会に先祖帰りしてしまった。それら戦争や内乱にいちいちつきあうつもりはない。 ギリシアは、古代国家のなかで最大最強の海軍国家とか海洋国家などといわれるが、確かにその領土や人口からみて納得しえないわけではない。その規模はまずホメロスの軍船表(同著、松平千秋訳『イリアス』、2:494-759、p.66-78、岩波文庫、1992)から知ることができる。それは「暗黒時代」にあったトロイア戦争におけるギリシア連合軍の戦力を示したものである。その総隻数は29ポリスの艦隊1,106隻であるが、そのうち50隻以上のポリス艦隊を記述順にみると、テーベ50隻、アテナイ50隻、アルゴス50隻、コリントス100隻、スパルタ60隻、ビュロス70隻、テゲア60隻、クレタ80隻の8ポリス艦隊、合計520隻(総数の47パーセント)となっている。 それらポリス艦隊は複数のポリスの混成艦隊となっている。例えば、アルガメノンが指揮するコリントス100隻は、「堅固な城市のミュケナイ、豊かにとむコリントス、守りも固きクレオナイ、またオルネイア、麗しき町アライチュレシエ」などなどの住民たちが送り出したものである。それに対して、「守りも固き城の町、……指揮をとる……メネウテス」のアテナイ艦隊50隻は、アテナイ単独の艦隊である。アテナイは見かけ少ないが、その海軍力はすでにこの時代から、他のポリスを圧倒していたようである。それにくらべ、コリントスやクレタ艦隊の大きさと、スパルタ艦隊の小ささが注目される。
アテナイの将軍テミストクレス(前524?-460?)は、ペルシア戦争を勝利に導いた指導者の一人である。かれは、その後エーゲ海交易の中心地となる、アテナイと長壁で結ばれた外港ペイライエウス(ピレウス)を建設し、また新しく発見されたラウレイオン銀鉱山の収益を、当面の敵であったアイギナとの海戦に備えて、軍船建造に投入したことで有名である。その結果、アテナイ軍船は70隻から100隻、前480年のサラミスの海戦時には200隻に増加した。なお、ペロポネソス戦争時の前415-3年シチリアに遠征して敗退した際、軍船160隻を喪失した、また戦争末期の前406年アルギヌサイの海戦には160隻が参戦したとされる。
これらの軍船数がアテナイの海上帝国の指標である。それ以外のポリスについてみると、アテナイのシチリア遠征失敗後、スパルタは同盟ポリスに軍船100隻の建造を命じているが、その割り当てはスパルタに25隻、ボイオティア諸市に合計25隻、フォキス、ロクリスに合計15隻、コリントスに15隻、アルカディア、ペレネ、シキュオンに合計10隻、メガラ、トロイゼン、エピダウロス、ヘルミオネに合計10隻となっていた。これをみてもアテナイの一国規模での大きさを知りうる。 トロイア戦争におけるギリシア連合軍の主艦はまだ一段櫂船であったとされ、その乗員数は50人とみられている。前古典期以降の三段櫂船には、きわめて多数の漕ぎ手が必要となる。1隻当たり200人(うち漕ぎ手170人)が乗り組むことになるが、その漕ぎ手はもっぱら重装歩兵になれない貧困市民、ソロンの等級制でいえば最下層の労働者が当てられた。アテナイの軍船を三段櫂船とすると、すくなとも3、4万人を乗り組ませたことになる。 政治家ペリクレス(前495頃-429)は、ペロポネソス戦争の開戦に当たり、アテナイには「騎馬兵、弓馬兵あわせて1200騎、弓兵1600名、就航可能の三重櫓船は300艘用意されている旨を告げた」という(トゥーキュディデース前同、1:207、p.67)。その三段櫂船に関わる要員として、久保正彰氏によれば「約54000名の漕手、3000名の搭乗戦闘員、1200名の航海士[運航要員ということであろう]がいたということである。戦闘員と航海士は市民であったが、漕手は市民と他国人傭員からの混成である」としている(久保訳前同、p.385)。なお、この戦争期、アテナイ艦隊にテラピア号という病院船を配置していたという。 アテナイが最大人口になったのは前431年、その構成はおよそ成年男子市民4万人、妻子を含む市民身分16-7万人、それ以外に在留外国人1万人、奴隷10万人、合計27-28万人であったとされる。大海戦ともなれば、重装歩兵に一定数がさかれるので、漕ぎ手は成年男子市民だけではとうてい足りず、在留外国人や他のポリス人の参加を仰がざるをえなかった。特に、レスボスの海戦の際、市民権付与を条件にして、奴隷をも漕ぎ手としていた。海戦はまさにポリス上げての全員参加の戦争であった。 ▼三段櫂船、富者が建造、貧民が漕ぎ手▼ ギリシアの戦争のうち、陸戦は武器を自弁できる市民によって編成された、比較的少数の重装歩兵による密集隊戦術によって行われた。また、華々しい海戦は三段櫂船(trieres)が角突き合わせる戦いとして行われた。この三段櫂船はギリシアにおいて発展した型式である。コリントスは、前8世紀末頃、ギリシアでそれを最初に採用、建造した。三段櫂船は周知の代物であるが、長さ120-130フィート、幅20フィート、吃水6-7フィートぐらいで、船体は軽く、船底は浅く平らに作られていた。前後に2本のマストと四角い帆があるが、これは前進のための補助手段である。なお、海戦には三段櫂船ばかりでなく、兵員や物資の輸送船が必要である。
これら三段櫂船など軍船は、それぞれのポリスにおいて建造されるが、古典期のアテナイにおいては「公共奉仕」の一つとして建造された。公共奉仕には、悲劇・喜劇の合唱隊奉仕や、様々な祭典における競走奉仕、聖地訪問・奉納、馬の飼育奉仕、保証人奉仕などがあった。それらの費用は富裕市民が負担した。それら市民は公共奉仕義務層と呼ばれ、それを果たすことで名誉と尊敬をえていた。三段櫂船奉仕(三段櫂船艤装奉仕ともいう)は、ポリスの死活を制する最高の公共奉仕であったが、その負担は特に大きく、重荷となっていた。三段櫂船の建造費は1隻1タラントンであったという。
「三段櫂船奉仕においては、原則として富裕者1人に国有の三段櫂船1隻が1年間割り当てられ、戦闘に際しては自ら司令官あるいは艦長(trierarchos)として乗組員を指揮し、任期終了後は破損した櫂やその他の艤装品を自費で修理・交換して、戦闘可能な状態で軍船を国家に返還しなければならなかった。乗組員の食費・給与や艤装品などは国家からの支給が原則であったが、前5世紀後半のペロポネソス戦争以降しだいに滞りがちになり、その場合は個々の艦長が自費で負担しなければならなかった」(前沢伸行稿「経済」伊藤貞夫、本村凌二編『西洋古代史研究入門』、p.55、東京大学出版会、1997)。 アテナイは、前6-5世紀ごろになると木材が著しくに不足するようになる。その輸入元は、主にトラキアとマケドニアであった。さらに、南イタリアのマグナ=グラエキアにも依存していた。前5世紀末、アテナイの民会は、木材の供給に貢献するマケドニアの王を顕彰している。サラミスの海戦に使われた軍船には、ギリシア、イタリア、アドリア海、シチリアなど様々な産地の用材が使われたという(ペルシアの軍船は主にフェニキアやキプロス産であった)。 アテナイが、エーゲ海の制海権を持つと、木材の輸入元は主としてマケドニア、トラキア、南イタリアおよび黒海南岸、小アジアに拡がっていった。ただ、制海権を失われると、木材輸入すなわち軍船建造が困難をきたすようになる。 ▼アテナイの商船は外国船で外国人が乗る▼ すでにみたように、有力ポリスは一定数の軍船を保有していたし、またそれらポリスの多くは海上交易に関わりを持ち、それなりの数の商船を保有していたとみられるが、その実態は定かでない。 いまみたように、アテナイにおいては、三段櫂船など軍船は国内で建造されたとしても、商船はそうとは限らない。アテナイにあっては、海上交易人のほとんどが居留外国人である。かれらは、毎年、人頭税を支払えば、市民に準ずる扱いを受けるが、参政権はないものの、従軍させられることがある。かれらが所有する商船の多くはそれぞれの出身ポリスか、あるいは造船業が発達しているポリスにおいて建造され、持ち込まれてきたとみられる。コリントスにおいては造船業が発達したとされるので、軍船ばかりでなく商船もて建造したかもしれない。 古代ギリシアの商船がどれくらいの大きさであったかは不明である。平均規模で積載量120-30トンという推定がある。丸い形の商船ばかりでなく、前4世紀のエーゲ海には、奴隷が漕ぐ大型の荷船もあったようであり、それは数の限られた規模の大きい港の間を航行したという。 アテナイを母港とする商船には、だれが乗り組んでいたか。これまた不明であるが、それが居留外国人によって所有されていること、またアテナイ市民の構成や軍船の漕ぎ手からみて、商船
▼アテナイ「海上帝国」の勃興と没落▼
世界最初の大海戦といえるサラミスの海戦に勝ったことで、アテナイはギリシア世界の覇者、最強の海軍国になり、勝利を導いた貧困市民の社会的地位は著しく向上し、アテナイの「民主政」は完成したとされる。それは戦争の終わりではなく、アテナイが帝国になる戦争の始まりであった。アテナイの一般市民は富裕市民よりも好戦的であったという。戦争になれば非日常的な利益がえられるからであった。アテナイの帝国化のおこぼれ、すなわち土地や奴隷、戦利品、他のポリス支配による利益にあずかれたからである。アテナイの「民主政」は、奴隷制と帝国化の賜物であった。 この点について、久保正彰氏はトゥーキュディデース著『戦史』の解題において、かれは「富が蓄積されていく過程を、大きく2つの段階にわけている。1つはもちろん人間が定住し、農耕をいとなむこと。第2は海洋の利用による商業利益の蓄積。[この著書が]ギリシアにおける海洋制覇の歴史に重点をおいているのも、1つはこのためである。……過去のギリシアで大をなしたものは、つねに第2の蓄積方法をつかんだものである」(トゥーキュディデース前同、p.35)。そして、「民衆派は海洋発展を旗印にし、そのため[ピレウス港の]城壁を必要とする、反対派は城壁構築を阻止しよう」としたし(久保訳前同、p.365)、「民衆派指導者は好戦派の中枢をなしていた」と述べている(久保訳前同、下、p.404、1967)。なお民衆派は民主派ともいわれる 前478年、ペルシアに対抗するため、アテナイがリーダーとなって、デロス同盟が結成される。この同盟はアテナイとイオニア系ポリスの同盟であり、エーゲ海と小アジアの島嶼を中心して、最大200のポリスが参加したという(スパルタやコリントスは、すでにペロポネソス同盟を結成しており、不参加)。それに加盟するポリスは軍船を提供するか、それができなければ拠出金を支払うかであった。多くは拠出金の納入を選んだという。その額は100隻の軍船を建造できる額となっていたという。それは結成当初460タラントン、ペロポネソス戦争開戦時600タラントンとなった(1タラントン=60ムナ、1ムナ=100ドラクマ)。このデロス同盟はアテナイの軍資金調達システムであった。 同盟軍の指揮、財務の運営、紛争の処理などは、アテナイに委ねられた。アテナイは同盟金庫を流用して利益を上げていた。前454年には、それがデロス島からアテナイのアクロポリスに移される。そして、前449年ペルシアとの平和条約が結ばれるが、アテナイは同盟を解消せず、加盟ポリスの脱退を認めず、次第に加盟ポリスを隷属国、また拠出金を貢租として扱うようになる。ここにアテナイの「海上帝国」が築かれる。その一方で、最盛期のアテナイを代表する政治家ペリクレスが「民主政」を完成させたとする。 ペロポネソス戦争は、デロス同盟とペロポネソス同盟という、ギリシアを二分する勢力間の戦争となった。それはコリントスとの西地中海交易をめぐる確執から始まったが、スパルタにとっては強国となったアテナイに掣肘を加える戦争、アテナイにとっては穀物と奴隷の交易路を維持するための戦争であった。
アテナイの崩壊は内、外の要因が絡んでいた。ペロポネソス戦争のなかで、スパルタはペルシアの援助によってテッサリアから木材を輸入し、いままでになく海軍力を高め、黒海からのアテナイ向け食糧輸送を脅かすようになった。その一環として、「アテナイが船材の入手難に陥り、戦力が衰退したのを見て、多くの友好国がアテナイから離反し始めた。[そこ]ここの木材は利用できなくなった。アッティカ……の山々に多少とも船材が残ってはいた。けれどもスパルタ陸軍がすでにデケレアを占拠して駐留している場合、それを利用するのは到底不可能なことであった。かくてアテナイにおける用材の不足は直ちに食糧の不足を導いた」とされる(岩片前同、p.320)。アテナイの制海権の消失は穀物や木材の輸入の途絶となり、さらに奴隷の逃亡によって銀が減産する。アテナイは、たが(箍)が一旦はずれると、急速に瓦解したといえる。 ▼アテナイ、穀物を日常的に輸入▼ ギリシア本土はその地形からみて、大国が築かれそうもない土地柄である。表土の薄い石灰石で覆われた山々が海岸まで迫り、平野はそれら山脈で仕切られ、しかも狭く、肥沃とはいいがたい。ギリシアの農業は地中海乾燥地農業と呼ばれる。特に主要なポリスがあった南部は森林に乏しく、オリーブやブドウ、イチジクなど果樹栽培に適していたが、穀物栽培には向いていない。また、飼料に乏しく、山羊や羊を飼育しうる程度であった。ただ、マケドニアが興った北部はそれとは逆であり、穀物栽培に適していた。マケドニアはすでにみたように早くから、船材が不足するようになった南部のポリスに、それを供給していた。
アテナイは前古典期後半から食糧危機の時ばかりでなく、穀物を輸入に大きく依存していたというのが、通説であった。それは土地生産力が低いことや、先に見たソロンの穀物輸出禁止などが根拠となっていた。ピーター・ガーンジィ氏はこの通説に反論して、アテナイは前8世紀から国内の食糧生産でもって、また植民をしなくても、人口増加を吸収しえた。「アテネが輸入穀物に依存する……のは、……前5世紀に入ってからだった。それはアテネ帝国の出現と時を同じくする急激な人口増大の結果であった。前480年から431年の戦間期には、食糧供給は大きな問題とはなっておらず、食糧不足もまれであった。……前431年のペロポネソス戦争の勃発が決定的転換点となつた。アテネ人はよりいっそう輸入に依存する」ようになったとする(同著、松本宣郎・阪本浩訳『古代ギリシア・ローマの飢饉と食糧供給』、p.352、白水社、1998(原著1988))。
ガーンジィ氏は食糧危機の有無にかかわらず、アテナイが輸入穀物に依存し始めるのは前5世紀以降、「定期的かつ大量の穀物輸入」(ガーンジィ前同、p.162またはp.168)となるのはペロポネソス戦争以後と強調してやまない。かれにあっては、食糧危機と穀物輸入の関係に関心がおかれているため、人口動態と穀物輸入(輸入品種の構成)との関係について、「人口の増大は穀物輸入の主要誘因」(ガーンジィ前同、p.174)としていながら、そのあるべき人口動態の分析を行っていない、あるいは行えない。ここに著者の陥穽があった。せっかくの大著の通説批判も竜頭蛇尾となっている。 アテナイにおいて、市民とその家族、在留外国人、奴隷という構成の人口がどのように増加し、変化したかなど、だれも教えてくれない。それら人口のうち、自家消費以上の食糧を直接生産しない人口が、土地生産力は一定として、どれだけ増大したかである。その主要な部分は富裕市民、手工業市民、公費扶養市民(前5世紀前半、約2万人)、在留外国人のほぼ全員、非農耕奴隷(家内・手工業・鉱山奴隷)である。 古典期を前にして、商工業の発達につれて手工業市民や在留外国人は、次第に増加した。さらに、非農耕奴隷についても同様に増加していたとみられるが、それが決定的に増加したのはデロス同盟以後の帝国化にともなう増加であった。それらの総合結果として、富裕市民やそれに扶養される哲学者や建築家、彫刻家、そして芸能人も、次第に増加していった。こうしたアテナイにおける食糧非生産人口の増加が、アテナイの通常の土地生産力をいつごろから上回るようになり、その不足分について日常的な穀物輸入に依存するようになったのか。 なお、アテナイの国産穀物は大麦が中心であり、小麦はその10分の1であった。そのため、輸入穀物は、まず富裕市民の欲望を満たすパン用の小麦は早い時期から輸入され、漸増して、日常輸入量のかなりの部分をなしていたとみられる。それに対して、貧困市民や奴隷、家畜が食する大麦は結果として日常輸入量の増加と、その時々の緊急輸入量を規定していたとえる。 日常的な穀物輸入は、すでに前6世紀初めのソロンの改革以前から始まっていた。ただ、その増加が人口増加と均衡していたので、食糧危機が顕在化することはなかった。前5世紀、すなわちデロス同盟以後、人口増加とともに穀物輸入も飛躍的に増加し、ペロポネソス戦争前後に頂点に達したとみられる。すなわち、アテナイ帝国の成立とそのエーゲ海制海権の掌握にともなって、食糧非生産人口が増加し、それと同時に穀物輸入が容易になったことで、さらなる増加を可能にしたのである。 しかし、ペロポネソス戦争以後、アテナイは衰微をたどり人口が減少したにもかかわらず、一方では農業の商業化の進展により穀物耕地が減少し、また小作農市民や奴隷の増加によって土地生産力は低下し、他方ではエーゲ海の制海権が損なわれたため穀物輸入はいままでなく困難になった。そのため、前4世紀以降それ以前とは違って、食糧危機がしばしば顕在化することになったといえる。 ▼穀物の大量な日常輸入と緊急輸入▼ 穀物輸入が日常的になってくれば、それに応じうる輸入元が常に確保されていなければならない。食糧危機が起きたからといっても、日常的な輸入元が急増分を供給できるわけもないし、新規の輸入元を探すことも、買付資金を集めることも、穀物船を調達することも、それほど容易でない。その結果として食糧危機が起きる。前4世紀以後、アテナイにあって穀物輸入は国家戦略となり、それをめぐって様々な外交や内政が行われる。そのことで多くの史料が残されることとなる。 アテナイはどこから穀物を輸入していたのか。日常的な輸入元はまずもって近隣のボイオティア、エウボイアやテッサリア、エーゲ海北部の属領レムノス島やノムプロス島(これらの島は小麦を産した)であった。そして、日常および緊急の輸入元が、黒海南岸のポントス、黒海北岸のイオニア系植民市、それが発展して前438年成立したボスポロス王国(ウクライナのケルチ海峡)であった。さらに、緊急輸入にあたっては、四方からデロスやロドス、クレタ、キプロスといった島嶼に集められた穀物を買い付けたとみられる。なお、E.ポランニー(1886-1964)は、黒海、エジプト、シチリアという輸入元について、それぞれ詳しく述べている(同著、玉野井芳郎・中野忠訳『人間の経済2』、p.367-91、岩波書店、1980)。 それでは、どれくらいの穀物輸入が行われていたのであろうか。少々荒っぽい推論を試みる。そのための史料として、初穂料を基礎にした「前329/8年エレウシスの祭司長の計算書」なるものが用いられる。それによると、アッティカの収穫高は小麦27,000メディムノス、大麦340,000メディムノス、合計約37万メディムノスである。ピーター・ガーンジィ氏は、農民が収穫高を10パーセント低く抑えているので、それを勘案すると58,000人が扶養されうると推定する(ガーンジィ前同、p.132)。なお、当時のアテナイの人口を15万人とみられる(1メディムノス=小麦40キログラム、大麦33.4キログラム)。 この推定では、ピーター・ガーンジィ氏は1人当たりの年間穀物量は7メディムノスとしているが、下記に紹介する輸入事例にあっては5メディムノスとなっている。それが種子控除などによる供給量と消費量の差だとしても少し大きい。また、農民が収穫高を10パーセント抑えたとするが、その年が不作であったことを考慮すれば、かなり過小にみえる。 そうした疑問はさておき、かれの推定に従って考えれば、実際の収穫高はみかけの1.1倍であるので41万メディムノスとなる。それで扶養できない92,000人のための必要輸入量は46万メディムノスとなる。この凶作年における穀物量は87万メディムノス、自給率は47パーセント、輸入率は53パーセントとなる。 いま、凶作年の収穫高が平年の75パーセントであったとすると、平年の収穫高は55万メディムノスとなり、78,100人が扶養できる。その残る71,900人のための必要輸入量は36万メディムノスとなる。平年における穀物量は91万メディムノス、自給率は60パーセント、輸入率は40パーセントとなる。この輸入率が日常輸入率であり、凶作年における緊急輸入率は13パーセントとなる。 ▼アテナイのぜい弱な食糧供給▼ この推定をはじめ、いくつかの文献では日常輸入量が約80万メディムノス(後述のデモステネス弁論)とか、自給率は1/4あるいは1/3とかいった推定が掲げられているが、あまりにも極端な数値にみえて納得できない。日常的な輸入に関する史料は残されないが、食糧危機時の輸入についてはわずかに残る。但し、次にあげる事例だけが緊急輸入の例であったわけではないであろうし、また緊急輸入となったことで大げさに書き残された史料かもしれない。 (1)前445-4年頃、エジプトあるいはリビアの王プサンメティコスが、アテナイに3万メディムノスの食糧(大麦で約1,002トン、1人5メディムノス消費として、約6,000人年間分)を贈与した。この時期の総人口が約25万人とすれば、その人口に対する緊急輸入率は2.4パーセントである。 (2)前4世紀、ボスポロス王国の王レウコン(治世388-348)は40万メディムノス(約13,360トン・年間8万人年間分)の食糧をアテナイに輸出してきたという。それは日常輸入量あるいは緊急輸入量としても多すぎる。その合計かもしれない。そうだとすれば、それぞれの対20万人輸入率はいずれも約20パーセントとなる。何はともあれボスポロス王国がアテナイの生き死を握っていたのである。なお、この王の好意に、アテナイは市民権の付与、公共義務の免除、金冠の授与で報いている。 (3)前328-7年頃(上記推定の翌年)、キュレネは41のポリスに実に120万メディムノスもの小麦を救援しているが、そのうちアテナイには15万メディムノス(約5,010トン・3万人年間分)が贈られたという。この緊急輸入率は20パーセントという、かなりの高さとなる。なお、120トンの商船に穀物を満載して、15万メディムノス(約5,010トン)を輸送するには、延べ42隻が必要となる。 なお、前340年、マケドニアのフィリッポス2世(在位前382-336)がポントスの小麦を運ぶ230隻の船団を捕らえたが、そのうちアテナイ向けの船は180隻であったという(ルージュ前同、p.177)。いま同様な計算をすると、アテナイ向け小麦は21,600トン、65万メディムノスと、かなりの量になる。 いま、緊急輸入率20パーセントを一つの指標とみて、その意味を考える。その場合、いろいろな条件が考えられるが、ここでは簡単に凶作は国内のみで起きるとする。穀物を20パーセント緊急輸入するということは、自給率が20パーセント低下あるいは20パーセントの凶作になったことであるが、その時の輸入依存率は(1)平年の自給率が90パーセントの場合、10パーセントから30パーセント(3倍)、(2)80パーセントの場合、20パーセントから40パーセント(2倍)、(3)70パーセントの場合、30パーセントから50パーセント(1.7倍)、(4)60パーセントの場合(上記の推定)、40パーセントから60パーセント(1.5倍)に上昇する。要するに、いままでにない輸入努力しなければならない。 要は、古代ギリシアにおける穀物輸入をどう見るかである。穀物の安定した輸入は、輸入元の政情や作柄、輸入元との和戦関係、穀物需要の激変、戦争や海賊、長期の時化など、様々な理由から、そのはじめから期待することは難しい。それが半減、全量途絶することも避けられないであろう。また、凶作になったからといって、直ちにそれに答えてくれるわけではない。国内外において凶作が発生した場合、その減少を輸入でもって補おうすると、新規の輸入元を確保する必要が生じ、そのための努力は計り知れないものとなる。 1993年日本では、1991年フィリピンのピナトゥボ火山大噴火の影響もあってか、米の作況指数が74という「著しい不良」となり、収穫量は前年比274万トン減の784万トンにとどまり、「平成の米騒
古代ギリシアあるいはアテナイにおいて、穀物輸入をはじめとした海上交易はすべて商人によって行われた。前5世紀以降、アテナイは海上交易人にとって、魅力がある市場となっていたとされる。それは穀物の見返りとして貴重な銀を積み取ることができ、さらに海事法廷で紛争が処理されるという便宜があり、しかも航海の安全が保障されていたからである。 アテナイの外港ペイライエウスにおいて活躍する主たる海上交易人の変遷について、前沢伸行氏は後述の海上貸付と関連づけながら、次のようにまとめている。「前5世紀以前のアテナイの海上貿易においては、後世の海上貸付に類似した貸付を利用して富裕市民が下層の市民に海上取引を行わせていたが、前5世紀になるとデロス同盟の発展などによって多くの外人がアテナイを訪れるようになり、しだいにこれらの人々が実際の海上取引の担い手となって、以後アテナイ市民にして貿易商人である者は例外的な存在となった。これに対して出資者の大半は依然としてアテナイの富裕市民が占めていたが、前4世紀の後半になると海上貸付の1口当たりの額の低下とともに在留外人や外人身分の出資者の登場もみられるようになる」(前沢前同、p.53)。 ここでいう「海上貸付に類似した貸付」とは何か。それはエクドシス(ekdosis)という資金提供であり、中世のコンメンダに類似するものであって、「出資者は一定額の貨幣(または現物)を信頼できる貿易商人に委託し、これに海上取引を営ませた。出資者は、商人の輸入した商品を受取り、それを売却し、売上のなかから一部を手数料として商人に支払った。貿易商人は、いわば出資者の代理人として貿易取引を行ったのである」。このエクドシスの額は、海上貸付より一桁多く、100ムナとか、400ムナとかであった。 「これに対し、海上貸付は、貿易資金の調達を目的として、貸主と借主たる商人の間で結ばれた金銭の消費貸借である。貸付に際しては担保物件の設定が行われ、ナウクレーロス[自ら船を所有し交易も行う商人船主]は自己の所有する船舶や船荷を、エンポロス[それに対して単なる商人]は船荷のみを担保として用いた。海上貸付は、往復の航海を条件とするものと片道の航海を条件とするものとの分けられる」という(前沢伸行「紀元前四世紀のアテナイの海上貿易」弓削達・伊藤貞夫編『古典古代の社会と国家』、p.108、東京大学出版会、1977)。 アテナイの在留外国人はすでにみたように中途半端な数ではない。これら在留外国人は交易相手国の人々であり、穀物輸入商人は黒海海岸のポントス出身者が多かったとされる。 海上交易人の性格について、ピーター・ガーンジィ氏は「コスモポリタン的な集団として現われる。彼らは日ごろ貢献している共同体に、市民権をもつとか、住居をもつというような形で結びついていることはない。また多くの商人は、アルカイック期のギリシアでそうであったような、貴族の被保護民にとどまるというのでもなかった」という。そうした在留外国人ばかりでなく、小資産市民や解放奴隷、富裕市民に使われる奴隷もいた。さらに、それ以外の商人として「通例、あまり多額の自己資金など持たない"小商い"であった。……歳入源を持っている政府から資金融資の提供を受ける」ような市民もいたという(以上、ガーンジィ前同、p.97)。 また、軍人・歴史家クセノフォン(前430?-355?)は穀物商人の活動について「商人たちは大変に穀物を好む。それでどこかには穀物が豊富であるという情報を得ると、それを求めて航海する。彼らはエーゲ海でも、黒海でも、シシリー海でも越えてゆく。そしてできるだけ沢山の穀物を買い込むと、自ら航行する船に乗せて運ぶのである。そして貨幣が欲しくても、それを投げやりに処分したりせずに、穀物が最も高価で人々がそれを最も尊重していると聞いた所へ運び、そこで処分するのである」と述べている。なお、海上貸付(nautikon)はかれの造語という(岩片前同、p.316より)。 食糧危機は、商人はもとよりとして土地所有者にとっても、稼ぎ時であった。「大土地所有者は明らかにアッティカ本土でよりも、アイギナやメガラなどの町と交換する方が彼らの生産物にもっと高い値をつけることができたし、もっと多くの(あるいはもっと関心のある)物品を手に入れることができた。収穫が平年並みであったり以下であったりした年においても同じであつた。むしろ悪い年の方が遠隔地と交換する利益が多かった。彼らは穀物を外国に送ることによって、彼ら自身の利得とライバルや敵をも含んだ他国民の利益の方を、アテネの消費者の福祉よりも優先させていた」(ガーンジィ前同、p.147)。 しかし、商人に依存しえなくなると、ポリスも積極的に関与せざるをえなくなる。アリストテレスが挙げている例によれば、「クラゾメナイの人々は食糧の不足に悩み、また金にも窮していたとき、私人のうちでオリーブ油を蔵するものは利息つきでこれを市に貸与すべしと決議した。この果実は彼らの地方には沢山できるものである。さて、彼らがそれを貸与すると船を傭って、穀物輸出市場に向けて送った。そして、事実そこから穀物が到着したが、オリーブ油はそのさいに担保となつたのであった」(同著、村川堅太郎訳「経済学」『アリストテレス全集』15、1348b、岩波書店、1978)。 ▼穀物輸入商人、その奨励と規制▼ アテナイは、穀物を獲得するため、すでにみたように様々な措置を講じてきたが、それをまとめてみる。なお、ポランニーは、これらをすべて穀物の管理交易の制度的措置とみなす。 (1)穀物輸出地の確保である。そのため、デロス同盟の盟主となり、貢金を取り立て、それを支払いに充てた。また、ボロポロスなど穀物輸出国と友好条約を結んだ。 (2)穀物交易路の維持である。海軍力にって、エーゲ海の制海権を握る。その一環として、様々な遠征が行われ、また交易路にはクレールーキア(軍事植民地)が設けられた。 ポランニーは、「アテネが築きあげたのは見事な海洋支配であり、これが交易路を直接支配し、間接的方法によって東地中海の供給源をコントロールしたのだった。アテネは戦略的支配を失うと、食糧供給を確保するために管理的諸方法の組み合わせに転じた」といっている(ポランニー前同、p.364)。 (3)穀物の輸出入規制である。それはソロンによる穀物輸出の禁止にはじまり、下記のような措置が取られた。それによって一定の数量の確保が目指された。 (4)居留外国人の定住奨励である。かれらは穀物の輸入を担うだけでなく、穀物価格が高騰した場合、その低価格販売を求められ、また買付資金を献金させられた。そうした公共奉仕は顕彰された。 (5)穀物の価格規制である。市内で販売される穀物には公定価格(アゴラ価格)を設け、それと港頭における市場価格(エンポリウム価格)との隔離を図り、その開きについて行政的な措置を講じた。 ポランニーは、この政策の核心について「エンポリウム価格が適当な限度内である限りは、アゴラ価格をこれに結びつけることであり、もしエンポリウム価格が脅威を与える水準まで騰貴したときはつねに、その結びつきを完全に断つことだった」という(ポランニー前同、p.419)。 (6)穀物交易を巡る紛争の処理である。それは、下記のように、海事裁判を迅速に処理して、穀物の輸入を円滑にすることにあった。 アテナイは穀物輸入活動への参入を奨励する制度を設ける。「前4世紀半ば……海上取引上の訴訟事項を裁く特別法廷(ディカイ・エンポリカイ)[dikai emporikai]というものすら導入していた。この法廷は商人にとって魅力的であった。なぜなら、航海には適さない冬の数か月の間に迅速な裁定が下されたし、その法廷はアテネ人と非アテネ人、在留外国人・未登録外国人の別なく開放されていたからである。最後に、[前338年ギリシアがマケドニアに敗北した]カイロネイアの戦いより後、[食糧]危機的状況において気前よく奉仕してくれた商人に対してアテネ人は市民権およびアテネ領土内に所有地をもつ権利を付与し始めた」(ガーンジィ前同、p.183)。 このディカイ・エンポリカイすなわち海事法廷は、ポリスの市民構成体という閉鎖性を超えて、外国人に対しても市民と同等の訴訟能力を認め、しかも数か月以内に短期結審するような裁判を行った。そうした裁判形式は、明らかに外国人商人を厚遇するものであった。また、穀物買付資金を提供したり、穀物輸入を市場価格以下で供給したりすると、ポリスはそうした商人を顕彰した。しっかり儲けて感謝されたのである。 しかし、規制措置も忘れなかった。「前4世紀のアテネ人は……アテネに本拠をもつあるいはアテネに由来する資本を利用していた商人の自由を制限する法を作る……。それらの法は2つの主要な原則を定めていた。(1)アテネ人と在留外人あるいは彼の力の下にある者(たとえば奴隷)が出資する海上貸付を受けた輸送船の航海は必ず、アテネへの必需品、特に穀物輸入に関与しなくてはならない。(2)アテネ領内に居住する者は、ペイライエウス以外の港に穀物を輸送してはならない。これらの法に対する違反は死刑をもって罰された。……また別の法は、商人に輸入する穀物の3分の2はアテネ市に輸送することを求めていた」。また、ペイライエウスには港湾監督官10人が配置され、穀物輸入とその取引を監督するようになった(ガーンジィ前同、p.183-4)。 さらに、強制措置もとられた。「穀物の荷揚げをしぶるこれら在留許可を得ていない外国人商人に対して、アテネ人がとりえた唯一の制裁措置は、その船と積荷の差し押さえ(カタゲイン)であったと思われる。国家は徴発した穀物の代金を支払っただろう」(前同、p.183)。このカタゲインはアテナイばかりでなく、穀物不足となったポリスの暗黙の権利とされていた。そのため、アテナイは穀物輸送船団を護衛するため、主要な穀物輸入元の黒海ルートには、ほぼ常時多数の艦船、時には60隻を配置していた。そうした艦隊が、他のポリスの輸送船の護衛艦隊として雇われたり、逆に海賊に変身して他のポリスの輸送船を襲撃することもあった。カタゲインは両刃の剣であり、強国アテナイはそれを適宜利用したことであろう。 アテナイは、これら奨励と規制とともに、多数の外国人商人の活躍のおかげで相当なな税収を引き出していた。ポランニーは、かれらの「来訪あるいは居住は、2パーセントの輸出入税と港湾税を通じて国庫収入を増大させるだろうし、公設の旅籠や公会所の賃貸からも追加の収入があがるだろう。輸出にたいする関心はなきにひとしい。ピレウスで売買する外国人から引き出される収入だけに強調点はおかれていた……[また、]居留外人を引き寄せることはさらに、居留外人住民税から相当な税収が引き出せる」とされていたという(ポランニー前同、p.352)。 そして、アテナイの穀物輸入について、「それは交易港と条約を通じて行なわれ、海軍政策にぴたりと調和した、管理された交易だった。そのほかのいかなる手段も状況に合わなかった。決められたルートと一定の決定的に重要な補給を確保するために断固として海運力[ママ]が用いられたのであり、管理された交易はそれに適した唯一の交易形態であったのである」という結論を下す(ポランニー前同、p.352)。 ▼『フォルミオン弾劾』にみる海上交易▼ ギリシア以前においても、海上交易に関わる金融が行われていたであろうが、ギリシアにおいて初めて海上貸付という一つの制度として行われるようになった。このギリシアの海上貸付は、弁論家デモステネス(前385?-322)との関わりで残された、前4世紀半ばの5つの海事法廷弁論を史料にして分析されてきた。 弁論第34番『フォルミオン弾劾』(弁論年代前327/6)の主旨は、原告である外国人クリュシッボスが同じく外国人の商人(emporos)であるフォルミオンに、黒海への往復の費用として2000ドラクマ(20ムナ)を海上貸付する。フォルミオンはアテナイに帰着しても、この貸金をクリュシッボスに返済しない。被告フォルミオンは、行先のボスポロスで、かれが乗り込んだ船の船長(naukleros)奴隷ランピスに高利子を付けて返却したとして、訴訟無効を主張する。これに対して、原告はフォルミオンとランピスが共謀しているとして、その異議申立てに反駁するというものである。それ以外に、被告フォルミオンは原告に無断で、アテナイにおいて単なる貸主らしいテオドロスから4500ドラクマ(45ムナ)、さらに被告ランピスから1000ドラクマ(10ムナ)の片道海上貸付を受けている。 なお、この船はボスポロスを出て、まもなく難破したことになっている。その時、乗組員は小舟に乗り移って助かるが、何と30人の自由人旅客が命を失う。その船には穀物の他、1000枚の獣皮などが満載されていたとする。その船は当時の大型船であったとみられる。 原告クリュシッボスは有力な穀物商人らしく、ボスポロスに自分の奴隷を駐在させ、穀物取引を行わせている。また、食糧危機に当たって富裕市民による食糧醵出などにも加わり、また商人仲間とともに、穀物購入用の多額の貨幣をポリスに贈ったり、あるいは穀物価格が騰貴したとき大量の小麦を輸入して、それを仕入れ価格をはるかに割る廉価で市民たちに分ち与えていたという。かれは外国人でありながら、公共奉仕義務層であるかのようである。 被告が乗り込んだ船の船長ランピス、さらに乗組員はディオーンの奴隷である。かれは、船を指揮して穀物の交易に従い、また被告フォルミオンに海上貸付を行っているのである。かれはアテネに家があり、妻子を住まわせている。その船は主人ディオーンのものであり、ランピスは他の奴隷たちを指揮して船の運用にあたり、交易によって得た収益のうち定められた額を主人に納め、残りを自らの財産として蓄積しており、それを被告への海上貸付に回したとされる。その働きは自由民の商人と何らかわらい。 この種の史料は不明な点が避けられない。それはともかく、この船には少なくとも原告クリュシッボス、被告フォルミオン、船主ディオーン、船長ランピス、そして貸主テオドロスが、海上交易とそれをめぐる海上貸付の当事者として登場していることである。そのうち、被告フォルミオンは船主ディオーンに運賃を支払ったであろう。船長ランピスについて、前沢伸行氏や伊藤貞夫氏の解説によれば、かれは「自己のイニシャティヴで貿易取引を行い」、それによってえた「収益のうち定められた額を主人に納めた」という(前沢前同、p.120、伊藤貞夫「古典期アテネの海上交易」『古典期のポリス社会』、p.189、岩波書店、1981)。これでは商人船長あるいは単なる船長としての自己交易(勘定)ととれるが、そうだとしても限度があったであろう。それは、近世の船主が船長その他乗組員に認めていた、一定量の自己貨物の交易(スペース・カーゴ、一種の給与)に近いものとみられる。ただ、この場合、船長に与えられる自己貨物量は不明であるが、一定額(率)の上納金を差し出すこと条件として、船主から船長に特典として与えられた自己の交易であったとみられる。 それはさておき、弾劾対象の海上貸付が「黒海への往復の費用のため」というからには、それはまずもってアテナイにおける輸出品の仕入れ費用であったであろう。その輸出品をボスポロスで売りさばき、被告がそれでもって借入金に高利を付けて返却したことはありえよう。しかし、その返却が船長宛ということはありえない。そこに駐在するクリュシッボスの奴隷に対してであればありえよう。また、被告は借入金を返却せずに、ボスポロスでの穀物購入の費用として使うのが普通であろう。それ以外の2件に及ぶ片道貸付と混乱しているかのようである。なお、この船は難破したわけであるから、海上貸付契約は無効になっているはずであり、特約があったため訴訟が起きたのであろう。 古典期アテネの海上交易ついて、伊藤貞夫氏の「アテネを中心とする当時の海上交易は、その必然性と頻度とにおいてかなり高い水準を示すものであったと思われる。しかし個々の取引に着目するならば、多くはとりたてて富裕とはいえない商人たちにより、比較的少額の資金を元に営まれていた」とする。また、「アテネにおいて輸出向手工業製品の大量生産を促すほどに、当時の海上交易が流通経済全体の在り方に規定的な作用を及ぼしえたことを必ずしも意味しない。個々の取引の規模がさほど大きくなかったことが、おそらくそのような影響力を海上交易に与えなかった一つの理由であろう」といい、その規模に制限を加える(伊藤前同、p.196)。 なお、デモステネスの5つの海事法廷弁論そのものについては、Webページ【モステネス海上貸付弁論―試訳と簡単な解説―】を参照されたい。Webページのアップロード以前に、この節を執筆したが、特段の修正を必要としなかった。 ▼海上貸付、穀物輸入とともに広がる▼ ギリシアにおける海上貸付の制度は、前5世紀前半、穀物輸入の増加とともに始まった。5つの海事法廷弁論もすべて穀物輸入に関わっている。紛争当事者は少数のアテナイ市民を除き、居留外国人か、外国人であり、奴隷身分も含まれる。かれらはエンポロス(emporos)とか、ナウクレーロス(naukleros)とか呼ばれているが、弁論からみて、前者は他人の船で交易に従う商人、後者は自ら船を所有し交易も行う商人船主、あるいは委任を受けて交易する船長のようである。 海上貸付の貸付人や借受人には、それぞれにすでに述べたアテナイ市民、居留外国人、外国人、奴隷が登場する。そのうち、ポール・マケクニー氏は前4世紀におけるアテナイ市民の貸付人について2つの集団があり、「富裕者からなる第1集団は間接的に海上貸付けに関心を向けただけであった。これらの貸付金は全財産の一部にすぎなかった。第2集団は海上商業に深く関与した地味な出自の人々であり、都市生活とは関係の薄い人々であった」。したがって、アテナイの指導的集団に属する人ではなく、「海上業務に就いた居留外国人や外国人と密接に関係し、非常によく似ている」人々であった。かれらは、「大型の投資には、独りでは資金提供するだけの十分な金を持って[おらず]……大投資家の地位を得るほど十分に大きい利益マージンを確保したり、あるいは十分に大きい規模で運用すること」が困難であったという(同著、向山宏訳『都市国家のアウトサイダー』、p.225、ミネルヴァ書房、1995(1985))。 アテナイ市民のうち富裕市民は、自ら直接に海上交易に従事するより、海上貸付によって利益を上げることをつとに望んだ。それが冒険貸借と呼ばれるようにハイリスク・ハイリターンであったので、富裕市民がエンポロスやナウクレーロスらに直接に貸し付けたとは思えない。かれらは、今日の大手銀行からの多額の資金が最終的にサラ金や町金、ヤミ金に貸し出されるような、多段階的な仕組みでもって財テクしていたとみられる。デモステネスの父の遺産は13タラントンであるが、そのうち海上貸付は70ムチ(1.1タラントン)もあり、しかもそれは仲介人を経て複数の海上交易人に貸し付けられている。その仲介人も金融業者だったとみられる。ギリシアの金融業者は、両替商、外貨両替商、資金貸付業、小金貸などに分かれており、そのうち穀物輸入に関与したのは主に資金貸付業者であったとされる。 アテナイの富裕市民はもとより、一般の市民が貸付人として登場することは、かなり少ない。その多くは一定の海上貸付資金を持ち、さらに富裕市民や同業者から融資を受ける、成り上がった居留外国人たちであった。そして、いま成り上がりつつあるアテナイの市民や居留外国人もいたであろう。他方、借受人はアテナイの市民や居留外国人であるエンポロスやナウクレーロスなど、広義の海上交易人たちであった。但し、無産の市民や外国人はありえなかった。 ▼海上貸付、誰もが貸し借りできる額▼ 伊藤貞夫氏は、「海上交易商人たちは、交易のための資金を第三者から借りるのを慣わしとしていたらしい」といい、借受人は「アテネ出港にあたって、航行先で売捌いて穀物を購入する資金を得るために必要な船荷を積み込まなくてはならず、またその際、積荷の出航を確認するために何人かの証人を呼ぶのを慣わしとし……、その抵当物件としての性格から、貸付額の2倍の価値を有するもの……[すなわち]貸付額に等しい自己資金を用意しなくては[ならない]。……たとい第三者の仲介を通してであれ、借方は自らの返済能力について貸方に確かな信用を得ておかなくてはならなかった」と限定する(伊藤前同、p.192)。 海上貸付は、どの程度の規模であったか。デモステネスの弁論によれば、訴訟になった額に限ってではあるが、弁論第33番は1人の貸付人が1人の借受人に30ムナを、弁論第34番は3人の貸付人が1人の借受人に20ムナ、45ムナ、10ムナを、弁論第35番および弁論第56番は2人の貸付人が共同で2人の借受人に30ムナを、となっている。これらの例では1人当たりの貸付額は15-45ムナである。それは穀物をどれくらい買い付けうるかは示されていない。平時の小麦価格は1メディムノスが5ドラクマとされるので、借受額15-45ムナを費やすと、小麦を300-900メディムノス(12-36トン)購入することができる。これからいえば、小麦購入資金の一部を、貸付あるいは借受けたことになる。 海上貸付は、不動産ではなく、船または船荷(時には奴隷)を抵当として行われる。それらが無事にアテネに帰着したとき、はじめて元金と利子が、借受人から貸付人に返却されるが、海難や海賊によって全損事故が生じた場合、元金の回収すらできないこととなった。このように、海上貸付は他の貸付には見られぬ危険性があったため、不動産を担保とする貸付が年率12パーセントとか、18パーセントとかに対して、海上貸付においては海事法廷弁論の例では22.5-30パーセント、あるいは36パーセントとなっていた。その貸付期間は1航海、おおむね夏季の半年くらい、短くは3か月であった。 しかし、海上貸付の危険性は、海の危険性では決してなかった。すでにみた弁論は、すべて海上貸付契約そののもの不履行めぐる争いであった。そのため、「こうした危険、特に、詐欺による危険を減少させんがために、貸主は、しばしば、自己の代理人を当該船舶に乗組まして協約が忠実に履行されるよう監視せしめた」のである(フェイル前同、p.31)。 このように、古代ギリシアにおける海上貸付は、貸付人にあってはハイリスク・ハイリターンを前提あるいは期待して、資金を少口に分割し、多数の借受人に分散して貸し付けしようとしたものであった。貸付人には高利貸業者ばかりでなくに、海上交易人すなわちエンポロスやナウクレーロスも含まれていた。他方、借受人たち―エンポロスやナウクレーロス―にあっては、海上交易の創業資金の一部として、また事業拡大のための追加資金として、あるいは他人に貸付けた資金の補填資金の借り受けなどであった。 古代ギリシアの海上交易は、それに携わる交易人が貸付人や借受人に相互になりあい、海上の危険などを回避しながら事業を拡大することができる、海上貸付という金融・保険システムによって維持されていたといえる。 ▼毎年5000人奴隷輸入、奴隷船毎日入港▼ アテナイの社会経済は穀物と奴隷の輸入に依存することで成り立っていたといえる。奴隷は、その出自の区別からみれば捕虜奴隷、購入奴隷、債務奴隷に分かれ、またその利用の方法からみれば鉱山奴隷、手工業奴隷、家内奴隷、農耕奴隷(後2者の区分は曖昧、スパルタの隷属農民は事実上、農耕奴隷)に分かれる。それ以外に、「仕事場の指揮・運営にあたった監督奴隷、両替業務を委ねられた奴隷、海上交易に活躍する奴隷……国家の文書業務に携わった公共奴隷」もいた(伊藤前同、p.189)。 奴隷は、アテナイにあっては鉱山奴隷、手工業奴隷、家内奴隷、農耕奴隷の順に多かったとされる。それぞれの数は時代によって変動しようが、その実態は明らかでない。ただ、すでにみたように前5世紀後半最大の10万人、そのうち鉱山奴隷は2万人とされる(コリントスは人口にくらべ、奴隷の数が多く、6万人を数えたという)。奴隷がいま20年間で入れ替わるとしたら、毎年5000人の奴隷を補充しなければならないことになる。いま、1隻に一度に10人(20人)を輸送するとすれば、延べ500隻(250隻)が必要となる量である。すなわち、アテナイの外港ペイライエウスには、ほぼ毎日、奴隷船が入港していたことになる。なお、奴隷は2ムナという価格がつけられている。それによれば年間の奴隷取引額は10,000ムナ(167タラントン)となる。なお、1家族の年間食費は3.65ムナ、普通の奴隷の価格1.5-2ムナとされる。 古代ギリシア社会の最大の特徴である奴隷が、多数、調達され、輸入されていたとみられるにもかかわらず、その実態は不明である。それら奴隷はギリシア世界の内と外から調達されたといえるが、そのうち購入奴隷は他のポリスや植民市をはじめ、トラキア、フリギア、南ロシアのスキタイ、シリアから供給されたで。しかし、そうした給源地から、どのように海上交易されてきたか、これまた定かでないが、海賊が大いに関与していたとされる。様々な手段や経路を使って集められた奴隷は、その多少を問わずに、一旦、エーゲ海の奴隷交易の中心地とされるデロスやキオス、サモス、ロドスといった島嶼の奴隷市場に持ち込まれた上で、仕向地ポリスの海上交易人によって購入、輸入されたものとみられる。 ▼史上初の多数かつ組織だった海賊▼ 前4世紀、ギリシア世界に共通する特徴は、傭兵と海賊(レイスタイ)の蔓延であった。ポリス市民は、プラトンやアリストテレスにはじまる自由人の肉体労働蔑視を基底として、自らが兵士あるいは漕ぎ手として参戦することをやめ、傭兵を使用するようになった。
それ以上に、海賊の活動を助長したのは、慢性的な戦争のもとでの諸ポリス海軍の略奪行為であった。覇権を目指すポリスや国家は、海賊を傘下において、略奪戦争を続けていた。前4世紀、ある海賊と傭兵の頭目は海賊船をもち、何とアテナイの同盟ポリスを襲撃していたが、アテナイ市民として影響力のある地位に昇り、将軍にまでなった。マケドニアのフィリッポス2世(在位前382-336)やその息子アレクサンドロスは多数の海賊集団を抱えており、島嶼部の人々と同じように、海賊行為を正当な金儲けと考えていた。アレクサンドロスがペイライエウスを海上から襲撃し、金品を略奪していたことは有名である。 しかし、かれらは覇権を築けるとなると豹変して、海上安全を自らの仕事としていたかのように、「海賊艦隊を排除せよ」と叫びだす。前323年アレクサンドロスが死亡し、後継者戦争が始まると、海賊の制圧は中断される。海上安全を、自らの仕事にしてきたアテナイやマケドニアに代わって、その役割を引き受けたのはロドスであった。それはある程度成功したとされる。 この古代ギリシア末期における海賊について、ポール・マケクニー氏は「前4世紀、大海軍を持った諸国家は海賊と戦ったが、その効果はなかった。その理由は海運業を保護する熱意が欠けていたためではなかった。財源不足でもなかった。それは単に海賊が強すぎたか、少なくとも浸透しすぎていたからであった。諸国家は多くの海賊を捕らえ処罰していたが、別の海賊が現れたのである。……都市国家の外側にいるレイスタイを統制しようとする企てを失敗させたのである」とする(マケクニー前同、p.158)。 古代におけるギリシアあるいはエーゲ海の海賊は、世界史上最初の多数かつ組織だった海賊として登場した。海賊は、おおむね覇権国の交代期に登場する。ギリシアのポリスの多数分立とエーゲ海の多数の島嶼は、海賊を絶えず補充し、かれらが活動する場を与えていた。エーゲ海は海賊の天国であった。エーゲ海海賊の本格的な掃討は、ローマという新しい覇権国、真正な地中海帝国あるいは西ユーラシア帝国の登場に待たねばならなかった。 ▼アウトサイダーとして疎まれる商人▼ ポール・マケクニー氏は、ポリス社会のアウトサイダーとして、すでにみた傭兵、海賊以外に、亡命者、医者、建築家、彫刻家、遊女、料理人、哲学者、そして芸能人とともに、商人を挙げている。アウトサイダーについて、積極的に定義を与えていないが、ポリスが市民の閉鎖的あるいは排他的なクラブであり、それからはみ出た、所属するポリスのない相当数の人々を指しているようである。かれらは、定住することも、移動し続けることもあった。こうしたギリシア人アウトサイダーが成功すると、在留資格を与えられた外国人として生活したという。なお、非ギリシア人こそ、本来的なアウトサイダーであったであろう。 したがって、海上交易に携わる商人は、当該ポリスの商人の他に、ギリシア系在留外国人、それ以外の在留外国人、そして来住中の外国人で構成されていた。かれらはエンポリオン(海上交易港)に集まるが、このエンポリオンはポリスの中心から離れたところが好ましく(アテナイに対するペイライエウス港なぞは好立地であった)、また「商品取引によって市民と商人の交際が一層ひろがるのを妨げる配慮」がなされていた。 そこは遊女のいる区画と同じ区画をなしており、「狡猾な外国人で満ち、秘密の取引」の本場であり、「一団の評判の悪い者がいた」(マケクニー前同、p.223)。「このため、アテナイ人の商人は海外においては一時的な異邦の訪問者としてふるまう義務があり、尊敬すべきギリシア人として行動するためには帰国する義務があった」。そうした義務にしたがっていては商いにならない。そのため、「商人は海外でも国内でも立場が不安定であった。訪問先の社会はさておき、かれ自身の共同体との関係が弱まった」のである(以上、マケクニー前同、p. 221)。 そうなると逆に在留外国人たちの結びつきは深まった。商船の「寄港地の都市[区画]は、ほとんどの場合、整備された他の地区から離れた、あるいは少なくとも区別された地区にある(しばしば城壁の外にある)。商業地を備えているが、夏期には臨時的に都市外に住みにでかける人々で満たされた。……これらの都市は、商人たちの面識を通じて互いに結合する程度が、近隣で自給自足する共同体的生活の諸都市よりも強い地域複合体を、自分たちの間で築き上げていた」(マケクニー前同、p.226)。 哲学者たちは商人を仇(かたき)のように扱う。プラトンは、『法律』の冒頭において、まず商人や船長が持つ専門知識は、完全なよき市民になるために必要な教育とは真反対のものであり、したがって教育なき人々とみなす。また、かれらは商業を通じて、都市に道徳的な害を与えるので、「塩辛くて苦い隣人」である。そこで、商人たちの影響から逃れながら、商業利益を都市に取り込むには、商人たちを都市外の市場や港、公的建物に限って受け入れるようにべきであるという。アリストテレスの『政治学』にあっても、自給自足が社会の安定を生むとされ、非国産品の輸入と国産余剰品の輸出を必要と認めるが、それ以上のことは避けるべきだとし、またそうした社会の均衡を商人は乱すものとみている(マケクニー前同、p.221-2、参照)。 ポール・マケクニー氏は、プラトンについて「かれは異なったイデオロギー的伝統の中に住む自分の片割れたち(商人の市民)の個人的資質に礼儀正しい譲歩をするだけの余裕がなかった。[なぜなら、]都市国家が不変の存在であるための軍事的責務を失いつつあるように見え、また移動型の技能職のために若い有能な人々を失いつつあり、さらに[ポリスが]生き残るために商人に依存していた時代に書いたので、プラトンは教育や生活の貴族的、政治的様式を好む、かれの読者の傾向を十分に利用せねばならない立場にあった」からであると批判し、弁護する(前同、p.232)。プラトンたちもアウトサイダーとして生きて行かねばならないにもかかわらず、同類の商人が濡れ手に粟の金を手に入れるのが、気に入らなかったのであろう。 ▼若干のまとめ▼ ギリシアは、海上交易の世界史のなかで、不思議な国の一つである。2600年前から数百年にわたって地中海の海上交易国として活躍し、その後史上から姿を消すが、今から半世紀前に突然、世界有数の船主国となって再び登場する。突然、そうなったのは、伝統的な海運秩序を打ち壊すこととなった便宜置籍船―アメリカを産みの親、日本を育ての親としてはびこった―を、ギリシア船主が所有するようになったからである(Webページ【論文特集・便宜置籍船・便宜船員】参照)。 古代ギリシアはポリスで構成される世界である。それぞれのポリスは日本戦国時代の領国のように振る舞っている。古代ギリシアといえばアテナイの歴史となるが、その建築、彫刻、そして学芸は賞讃して余りあるが、それは一面でしかない。その社会経済は、特権市民ができる限り労働することを避け、その上で余暇や優雅をいそしむために、人間を含む資源を乱獲する経済であり、またそれら資源が不足してくれば、侵略・略奪戦争を繰り返し、それによる戦果を分け合う社会であった。そうした社会経済を特権市民だけの合意で守る政治をとりおこなった。「民主制」と「奴隷制」と「帝国化」は三位一体であった。 これらについて、岩片磯雄氏は「古代ギリシア文化が……犯した過誤が、過去の歴史にとどまることなく、今日もなお繰り返されている」とし、次のようにまとめている。 「アテナイの経済が民主制のもとで飛躍的に発展したとき、輸出産業は主に居留外国人と奴隷、商業・金融活動は主として居留外国人の手に委ねられた。その結果、アテナイの市民は経済政策や食糧・農業政策について、ほとんど基礎概念さえもつことなく、食糧についてみれば国内で作るよりも高額の輸送費を支払っても、黒海北岸から輸入する方が安い価格で入手でき、強力な軍船によって援護されれば、食糧確保は安泰であるとみた」。 「ここで安くつくとみたのは、私的費用の規準からの比較である。商船や軍船の建造には、厖大な量の木材が必要であり、これを無計画に伐採すれば森林は荒廃し、下流の沃土の流亡を招く。それは容易にいやすことができない自然破壊であり、社会的財産の損耗である。しかし、このような莫大な社会的費用は、特別な規制がない限り、経済活動のための私的費用には算入されない。加えて、軍船で援護すれば、食糧輸入は安泰だ[といっても、その保証はない]。事実、ペロポネソス戦争開始に際してのペリクレスの弁説にもかかわらず、長期にわたった戦争はアテナイ住民を飢餓に陥れ、降伏のやむなきに至らしめたのである」(岩片前同、緒言p.3)。 海上交易の世界史も、ここにきて、新たな展開を見せたといえる。それは現代の海運とそれをめぐる世界経済状況をかいま見る思いである。ギリシアは海上帝国だの海軍国家だのといわれるが、それもアテナイにほぼ限ってのことである。それはひとえに大量の穀物と奴隷の安定した輸入を維持するためにあった。 それでは、アテナイは海上交易大国であったのか。アテナイは確かに荷主国、金融国であったが、決して海運国、船主国ではなかった。アテナイには、確かに多数の海上交易人が集結し、多数の商船が所属していたであろう。しかし、それらは居留外国人によるものであった。アテナイ人は、かれらに穀物と奴隷の輸入を請け負わせ、そしてかれらに高利の海上貸付を行っていたにとどまる。かれらは、労働を嫌い、商業を侮りながら、利殖には励むという守銭奴たちであった。しかし富は次第に居留外国人に集積していく。 古代ギリシアにおける最大の特徴は、大量な輸送貨物として穀物と奴隷が登場したことである。それは、海上交易の世界史にとって一つの大きな画期といえる。それらが、いままでも輸送されていなかったわけではないが、それらが目立って大量な貨物となり、定常的に輸送されるようになり、それらをめぐり様々な取引が行われることになった。その結果、ギリシアの海上交易はいまや少量な奢侈品の遠距離交易ではなくなり、いままでになく大量の生活必需品の中・近距離交易となり、他方で小規模な交易が生まれ、それらがより一層、確実、安定した輸送のもとで行われる交易となった。さらにいえば、穀物は数量面で、奴隷は価格面で、底荷(バラストカーゴ)となったことである。 ギリシアの海上交易の形態は、様々なポリスやそれ以外の国々の人々によって担われたため、その実務形態は現在にまで引き継がれる、海上交易の当事者(荷主としての商人と運搬人としての船主など)が形成され、そしてかれらをめぐる実務(海上貸付や様々な契約)が発生した。そして、見落としてはならないことは、それら海上交易の担い手が特権的な御用商人や富裕市民ではなくなり、小資産を持ったあまたの人々が冒険貸借のシステムを利用して参入してきた、新興海上交易人であったことである。これも海上交易の世界史における画期といえる(但し、これらは、フェニキアにおいて、すでにみられたかもしれない)。 そうした画期に関わらず、古代ギリシアの海上交易は基本的にエーゲ海とその周辺あるいは植民市のある海域にとどまった。アテナイについてみれば、エーゲ海限りの海上帝国だったということである。その交易路は多数の強力な護衛船によって守られ、その上で多数の商船がかなり高い密度で交易していた。また、ギリシアには確かにオリエントから様々な交易品が将来している(その逆は殆ど目立たない)。それは、主として地中海の島嶼の海上交易都市がノードとなり、それらがリンクとして結びつくことで将来したものである。そうしたことから、ギリシアの海上交易は内包としては拡大したが、その外延としては縮小したかにみえる。 地中海世界はフェニキアの登場によって一つの海上交易圏として形成された。しかし、ギリシアの古典古代時代となると、それは東のフェニキア、中央のギリシア、そして西のカルタゴ、イタリアというミニ交易圏に分割され、それらを有力な海上交易都市とその海上交易人たちが結びつける構造、すなわち中継交易が連鎖する構造になったかにみえる。その限界を打ち破ったのがアレクサンドロスであり、ヘレニズム世界であった。それは同時にギリシア本土ポリスの海上交易からの撤退となった。それによって、ギリシア世界とオリエント世界の交易は直接に結びつけられたかにみえたが、必ずしもそうではなかった。その本格的な解決はローマに委ねられる。 (03/08/10記、10/01/15補記)
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