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続3・2・1 東南アジアの港市とヨーロッパの進出
(Sequel) 3.2.1 Port Cities in Southeast Asia and Advance of Europe

(2) 東南アジア交易の拡張と危機

▼胡椒の移植と生産、喜望峰回り海路の勝利▼
 アンソニー・リード氏は、東南アジアの「交易の時代」の成長パターンについて、「概して、西半分を見ようと東半分を見ようと、同じようなものだった。1400年頃に突然の離陸があり、15世紀を通して断続的な成長が見られ、15世紀末にもっとも強くなる。急激な下落が[ポルトガル進出後の]1500年に起こるが、1530年までは良好な状態である。その後に成長があって1570年前後にそれが加速され、1600-1630年にピークに達する。17世紀中頃はオランダ東インド会社の勝利の時代であったが、東南アジアにとってはひとつの危機の時代であった」とする(リード前同、p.30)
 胡椒(丸胡椒)は、16世紀から17世紀、東南アジアの最大の輸出品であった。その胡椒はインドのマラバール海岸を原産地として、15世紀から16世紀にかけて、東南アジアに換金作物として移植される。すでに、年間の胡椒生産量は16世紀初め、マラバール海岸が3600トンに対して東南アジアは2500トン近くになっていた。東南アジア産の胡椒が、ヨーロッパの輸入量の大きな比率を占めるようになるのは、ポルトガルによるイスラーム交易路の破壊が終わった1530年代になってからである。
 16世紀初め、ポルトガル人はインド産に加えて東南アジア産の胡椒を、西アジアとヨーロッパに供給するようになる。17世紀、ポルトガル、オランダ、イギリス、中国の仲買人がインド産より安価な東南アジア産を求めて来訪すると、生産量は急増する。スマトラ島、マレー半島、ジャワ島西部の生産量は、およそ1600年4500トン、1630年6000トンと増加し、1670年のピーク時には8000トンとなる。それら増加量の多くは、それまで胡椒をあまり消費してこなかったオランダ人やイギリス人に供給された。
 この時代に、中国向けの胡椒は2000トン内外であったとみられ、インドと東南アジア大陸部の消費量はさらに少なかった。
 ポルトガルは、1500-30年イスラーム交易路の破壊に成功して、1540年頃にはインドで胡椒を年に1500トンほど積み取るようになっていたが、東南アジアの新しい地域に胡椒と丁子の栽培が拡がると、それら交易を次第に管理できなくなり、それが破壊したはずのイスラーム教徒の商人たちの交易が再開される。彼らは、インドの海岸にあるポルトガルの要塞を避け、アチェからモルジブ諸島を経由で、インド洋を直接横切って紅海に行くルートを確立する。このルートは1560年代までに年に1250トンから2000トンまでの胡椒を輸送したとされる。その結果、ポルトガルは1590年代インドで東南アジア産の積み荷を確保できなくなる。
 1596年から、オランダやイギリスが交易に参入すると香辛料は高価となり、その生産の拡大が促される。16世紀の最後の20年間、ヨーロッパに香辛料を積んだ船はポルトガル船と紅海経由で積荷するヴェネツィア船を合わせても、年に5-8隻であった。しかし、オランダやイギリスの参入によって、ヨーロッパ船だけで、1620年代には平均13.2隻がアジアから帰ってくるようになる。
 このことは喜望峰回りの海路が決定的な勝利をおさめたことを意味した。トルコ帝国には、1616年アチェから2、3の積み荷が紅海経由でまだ到着していたが、次の10年後になると西ヨーロッパの商人から胡椒を入手しなければならなくなった。
▼オランダ、モルッカ諸島産の香辛料を独占▼
 東南アジアのもう一つの主要交易品であるモルッカ諸島産の香辛料を、ヨーロッパは17世紀半ばにその3分の1から2分の1を消費していたが、その3分の1から2分の1をポルトガル人が買い付けていた。モルッカ諸島のヨーロッパ向け香辛料は、17世紀の最初の25年間、量、価格ともに最大となり、ヨーロッパ人の船主たちが争って積み取るようになり、その交易ルートの港は活気づいた。
 ヨーロッパの年間購買量は丁子300トン、肉豆蒄200トン、豆蒄花80トンであった。モルッカ諸島の年間の丁子生産量は400トン以上にはならなかったので、ヨーロッパはそのすべてを支配しなければならなかった。その産地を古いモルッカ諸島北部と新しいアンボン島が分けてあっていた。
 ポルトガル人がモルッカ諸島の香辛料を独占しようとすると、ジャワやマレー半島のイスラ


オランダ人のパンダ諸島での
肉豆蒄の取引
出所:生田滋稿『世界の歴史13
東南アジアの伝統と発展』、p.373、
中央公論社、1998
ーム教徒の商人たちはそれに抵抗して、大量の丁子や肉豆蒄をアチェを経由でエジプトへ運ぶようになる。ポルトガルのモルッカ諸島における影響力は1550年以降衰え、1574年にはテルナテにあった要塞を失う。その後、モルッカ諸島の住民はポルトガル人に売ることを拒否し、それを買ったジャワ人がムラカに持ち込む。ポルトガル人はそれを開かれた市場で買わざるをえなくなる。1580年代、市場で丁子を100トン以上を買って、本国に送っている。
 オランダ東インド会社は、1621年丁子や肉豆蒄の独占を確立し、1640年と1653年のあいだに、それを強化する。その影響は、その量が胡椒よりはるかに少ないにもかかわらず、深刻なものがあった。オランダ人は、その交易からほとんどの交易人や港市を締め出し、栽培人への支払い価格を最低の水準に固定する。そして、その価格を高く保とうとして、ヨーロッパに到着する量を一挙にピーク時の半分に減らそうとする。
 オランダ東インド会社は、アンボン島南部やリーズ群島など、直接に管理できる地域以外の丁子木を伐採し、1650年代、1660年代を通して生産量を約180トンまで減らす。ヨーロッパにおけるポンド当たり売値は買値の3倍の7.5ギルダー、インドでは2倍の5ギルダーであった。
 1670年代になると、オランダの強い圧力を受けてアンボンの住民が再び生産を増やしたため、1690年代にはピークの約500トンとなる。そこで、オランダ東インド会社は1677年になると、売値を3.75ギルダーまで下げなければならなくなる。その措置はすでに遅きに失し、安価なブラジルの「丁子木」が人気を集め始めていた。
 ヨーロッパにおける胡椒の価格は1616-41年がもっとも高く、17世紀の最後の4半世紀がもっとも安かった。17世紀の最後の数10年、オランダ東インド会社は胡椒や丁子の供給過剰に直面して、それらの独占も市場の操作もできなくなったばかりか、供給過剰によって価格は下落し、採算が取れなくなる。
 1670年代、オランダが東南アジアの交易覇権を掌握し、かつ胡椒生産が最大となったそのときに、東南アジア「交易の時代」は終焉を遂げる。なお、胡椒に代わって、インドの織物が17世紀中ばまでにイギリスの、また1680年までにオランダの東インド会社にとって利益の上がる商品になり、ヨーロッパに帰る船を満たすようになる。
左から、シナモン(肉桂)、ナツメグ(肉豆蒄)、クローブ(丁子)、コショウ(胡椒)
▼インド綿布の輸入、日本やアメリカの銀による決済▼
 東南アジアは、全体として常に原料素材品の輸出者で、手工業製品の輸入者であった。その最大の輸入品がインドからの綿布であった。その交易は、ヨーロッパ人の進出以前から行われていたが、その進出とともに増加する。16世紀初め、インドからムラカへの綿布輸入は銀でほぼ20トンに相当する量となっていた。イスラーム商人の終着港として、ムラカの役割を引き継いだアチェ港には、1602年16-18隻のインド船が入っていたという。
 インドの綿布は、グジャラートやコロマンデル、ベンガルから、それら地元船によって東南アジア供給されていた。グジャラート人がヨーロッパ人との競合を避けて撤退すると、コロマンデルからの輸出は16世紀に劇的に増加し、1620年代まで続く。しかし、インド綿布交易に利を悟ったオランダ東インド会社が参入すると、インドの地元船は押しのけられてしまい、インド綿布はオランダ船によってバタヴィアに集められるようになる。インド綿布の交易はオランダ東インド会社にとって主力交易となる。
 インド綿布の東南アジアへの輸人は1620-55年が頂点となっており、年におよそ銀40トン分が取引されていた。それは1510年時点のおよそ4倍の綿布150万枚であり、サロンにすると600万枚となる。
13-14世紀頃のインドの綿布
ロサンゼルス州立美術館}蔵
それは、2千万人余りの東南アジア人にとって、余りある量となっていた。しかし、1680年代になると流入量はその半分のレベルに落ち、17世紀末にはもっと落ち込む。
 東南アジアをめぐる交易収支はほぼ常に東南アジアの輸出超過であった。アンソニー・リード氏は、ピーク時「インド布、金属、正金と交換するインド、中東、ヨーロッパへの輸出品は銀220トン、一方、手工業製品、金属、正金と交換する中国と日本への輸出品は銀200トンに相当する」と概算している(リード前同、p.32)。したがって、日本とヨーロッパはアジアからの輸入品に対して、多くの正金を払わねばならなかった。
 日本やヨーロッパが、東南アジアの産品を経常的に買い付けるために持ち込んだのが、日本やアメリカからの銀であった。17世紀、ポルトガル人やオランダ人、イギリス人、スペイン人は、ペルーのポトシ銀山(現在のボリビア)で採掘された銀を、東から西から東南アジアに持ち込んだ。また、日本でも、同時期、同様な抽出技術の改善が行われ、日本の銀が東南アジアに持ち込まれ、それを経由して東アジアに拡散していった。
 なお、日本の朱印船は、1620-29年間に東南アジアの港に毎年に10隻ほどが来航し、約20トンの銀を持ってきていたという。そのとき、中国船は日本船の10倍ほどを訪れていた。
 日本とアメリカ大陸からの「東南アジアを最終地点とする銀の流入は……1620年代にはピークに達したと考えられ……1630年以降の流入は急速に減少し、東南アジアにおける17世紀中頃の危機の一因となった」となる(リード前同、p.35)。
▼東南アジアの地域交易と米輸送、その担い手▼
 東南アジアの交易の担い手は、その交易がベンガル湾以西あるいは南シナ海以東の長距離交易であるか、東南アジア圏内の地域交易であるかによって、大きく異なろう。東南アジアは、「交易の時代」、香辛料などの需要の喚起によって、それを充足するため多くの港市が生まれ、それに向けて香辛料といった交易品ばかりでなく、多くの港市の住民が消費する生活必需品が持ち込まれるようになった。
 アンソニー・リード氏によれば、東南アジアにおける地域交易は「小さな東南アジア船によって行なわれ、それらは都市部および換金作物の中心地域を養うための米、野菜、魚の干物、家畜、ヤシ酒、砂糖、塩を運び込み、土地の金属工芸品、陶器、布を生産者から消費者のもとへ動かし、輸出品を集め、輸入品を再配分した」。そうした「東南アジアの静かな海の内側で広大な海運網に奉仕する者たちは、圧倒的に東南アジアに定住する者が多かった。彼らは、都市と水路のある後背地の間をつなげ、積み荷とともに思想と人をも行きつ戻りつ運んでは、資金を稼いでいた」という(リード前同、p.88)。
 東南アジアの港市は、主食の米を、おおむねそれが余剰な地域、例えばジャワから輸入していた。この米の交易は地域交易の典型であるが、その交易規模や輸送距離は一様なものではなかった。
 例えば、「17世紀初頭の推計によれば、パタニは必要な米の半分以上を海上運輸による輸入品に頼っており、バンテンは4分の3を頼っていた。ポルトガルによる征服前のマラッカは、もっと多くを輸入に頼っていた。毎年およそ45隻の米運送船がビルマから、30隻がシャムから、50から60隻がジャワから、また同様の規模の船がコロマンデル地方から、入っていた」という。
 ムラカ向けの米運送船は多様であったが、平均50トンとなっていた。長距離の米供給国から年に約7000トンの米が輸入された。「それは5万人以上の都市住民を養うに充分であった。1680年代のアチェは全盛を過ぎていたが、まだインドからの米積載船を10隻が港に入っており、市場で輸入米を売る各小売業者は1日に80ポンド[35キログラム]ほど売っていた」(以上、リード前同、p.100)。
 地域交易の担い手は「圧倒的に東南アジアに定住する者」とされているが、彼らは港市の現地出身者ばかりでなく、後述するムラユ人やマカッサル人といった離散交易民がかなり重要な担い手となっていた。それ以外に、米は当時における主要な底荷であり、またかなり長距離輸送されていたので、中国人やポルトガル人、オランダ人なども担い手となっていたとみられる。
▼海上交易人としての、キウィとナホーダ▼
 東南アジアをめぐる長距離交易の担い手は、港市の居住者か、外来者かである。この時代の長距離交易は、その産物を手に入れたいものがその産地に出向いてくる交易であるから、その主たる担い手は外来者、すなわち外国人商人であった。東南アジアにあっては、商人と外国人とは同義語であった。
 彼らは来航者だけではなく、居留している東南アジアの離散交易民や中国人、ヨーロッパ人たちも者も含まれる。彼らのなかには、港市居住の海上交易人とともに、後述するオラン・カヤ(商人エリート)となって、港市支配に関与するものもあらわれる。さらに、東南アジアの有力な港市においてはヨーロッパ人進出以前から、王やその王室が長距離交易に参入していた。ただ、それが本格的になるのは、17世紀中ばになってからである。なお、「国内で第一の商人」は誰かと問えば、それは王であった。
 特定の港市の担い手の例としては、ムラカ王国では「ピークの季節には港に100隻の大型ジャンク船が停泊し、その中の少なくとも30隻は支配者と都市の商人の所有で、残りはインド、中国、ペグー、ジャワその他を拠点にしていたと見積もることができる。東南アジアの主要な港はすべて国際交易の積極的な担い手であったが、それは、すべての国、あるいはすべての民族がそうだった、という意味ではない。ムラカ人、ミナンカバウ人、ジャワ人、チャム人、ルソン人、ペグー人、中国人といった民族は……ほとんどの東南アジア交易のグループに加わっていた」(リード前同、p.87)。
 東南アジアにおいて、海上交易の現実の担い手はキウィと呼ばれる船旅をする交易人(旅商人)たちと、そのリーダーであるナホーダ(nakhoda、引用訳文ではナコーダとなっているが、それを訂正する)であった。彼らは後述のシャーバンダールの管理下にあった。
 「キウィはある意味でどこにでもいる外国人だった。彼らが拠点とみなす港においてさえも、彼らは少数民族集団の中に暮らしていた。彼らが主に接触する権威者は、彼らの集団のシャーバンダールである……[東南アジアの港市にあっては]ナホーダがシャーバンダールに、また時には支配者になることを妨げるものはほとんどない。しかしながら海を行く交易商人として、彼らは独特の精神を持っていた」という。
 16世紀初め、新ムラカの大ベンダハラ朝時代、その有力なナホーダたちによって、「海の法」と呼ばれるムラカ法典が編纂される。スルタンは、この法典を「あなた方ナホーダは各々のジャンク船において、王のごとき者たちだ」といって公布した。この法典は、ナホーダに強い権限を与え、「ナホーダは船上における生死を握る力があり、すべての商業的な事柄に卓越し、そこには、港に着いてから最初に商品を売る権利も含まれ、彼と共に旅をしている商人に売値を引き下げさせることもできた」。
 「ナホーダは、必然的に文字を書くことができ、博識でもあり、いつも町の中で歓迎された。なぜなら彼は商品だけでなく、その一帯の情報を運んだからである。より重要なナホーダは、その理由で宮廷の歓迎を受けた。東南アジアに関するオランダ情報の優れたものは、彼らナホーダの報告に負うところが大きい」からであった(以上、リード前同、p.165-6)。
▼港市と後背地の遮断、港市における取引▼
 東南アジアの港市国家の立地は一様ではないが、港市と後背地の区別は明瞭であって、前者は政治と経済―交易と消費―の中心地であり、後者は消費財の生産地となっていた。内陸の後背地からは胡椒などの農産物、沈香などの香木、竜脳などの香料、黒檀、藤、蜜ロウといった林産物、犀角、象牙、金や錫などが、また海岸の後背地からは鼈甲、海草、珊瑚、真珠、燕の巣、ナマコなどいった海産物が供給されてきた。
 港市にはイスラーム化したムラユ人系支配層と外国人居留民がおり、後背地には非ムラユ人系の被支配層の在地民が住んでいたが、彼らはほとんど接触しなかった。高価な交易品の生産地の在地民と、渡来外国人商人との交渉は厳しく規制され、それらの採集や集荷はムラユ人と非ムラユ系在地民との支配・従属関係を通して行われていた。なお、東南アジア各地で流布された「人食い」や「女人が島」といった風聞は、外国人商人が生産地に進出することを阻止するために利用された。
 港市における取引は、ムラユ人支配層と外国人商人とのあいだで行われた。西尾寛治氏は、「特にジョホールの王族や貴族は外来商人と提携し、交易活動により深く関わっていた。彼らは、外来商人に融資[委託交易]、身柄保護などの便宜を供与し、外来商人は実際の交易業務を担当し、融資額の25パーセント程度の[委託交易]手数料と相応な収益を受け取っていた。実際、近世のムラユ諸国の交易で活躍していたのは、ほとんどが外来商人である。ムラカのジャワ、グジャラート、タミルなどの商人、ジョホールのインド系ムスリム商人、そして18世紀ジョホール・リアウではブギス商人の活躍も顕著となる」。それに対して、「在地のムラユ商人は、行商人以外、その存在すら希薄である」としている(同稿「17世紀のムラユ諸国」石井米雄他編『岩波講座 東南アジア史』3、p.160-1、岩波書店、2001)。
 早瀬晋三氏は、東南アジア島嶼部で活動するイスラーム商人とヨーロッパ商人とでは、それらが取り扱う商品や取引の仕方について大きな相違があったとする。
 「イスラーム商人は、多くの港に寄港しながら多種多様な生活用品を小売りし、クローブ、ナツメグなどの商品を集荷する行商的な貿易をおこなった。かれらの貿易は各地の首長との結びつきが強く、住民の生活と直接結びついていた。したがって、貿易効率はよくなく、各首長間の経済的格差はあまり生じなかった。
 それにたいして、ヨーロッパ人の貿易は拠点を設け、スルタンを通じてクローブなどの商品を購入し、スルタンはヨーロッパ人のもたらした貿易品を再配分する役割を独占した。このようにして、ヨーロッパ人が来航して以来、貿易拠点となった土地の首長が権力を強化し、ほかの首長と経済格差が生じることになった。
 しかし、これらの首長は、カトリックではなくイスラームを選んだ。かれらはスルタンと名乗ることによって、ひとつの地域世界の中心となり、その世界の宗教的中心となるだけでなく、域内の貿易の中心にもなることができた。これらの首長は、対外的にはヨーロッパ勢力を利用し、域内的にはイスラームを利用して、勢力を拡大・強化した」(同稿「海域東南アジア東部」桜井由躬雄他編『岩波講座 東南アジア史』4、p.102、岩波書店、2001)。
▼胡椒栽培の問屋前貸制支配、オラン・カヤ▼
 東南アジアは、伝統的な熱帯性の農産物―胡椒、丁子、肉豆蒄、砂糖、安息香―と、「交易の時代」に需要が喚起された林産物―鹿皮、白檀、すおう、樟脳、漆―といった特産品が、東南アジアの両端にある中国やインド、ヨーロッパに供給されていたが、その一部は換金作物あるいは商品作物として栽培された。
 これら換金作物は、その栽培者と海上交易人とのあいだに仲介者が入ることで、はじめて供給された。アンソニー・リード氏は、新規に栽培させる場合、その仲介者は「最初の数年を農民に切り抜けさせるために資金を貸し付け、見返りに収獲物のかなりの部分を獲得して市場に流す、村の『大物』や港の支配者であった」。彼らは栽培者を問屋前貸制でもって支配していた。その収奪のほどはすぐ下に示される。
 「港と外部の市場を管理する支配者は、関税として支払われる相当額を当てにしているのだが、しばしば交易も管理した。1600年頃のアンボン島では、オランカヤがジャワ人、マレー人、後にはヨーロッパ人貿易商への丁子の販売と、栽培者への輸入布の分配との両方を行なっていた」。「バンダのオランカヤ寡頭制はナツメグ販売を独占していたが、その生産をする土地と労働者も管理していた」(以上、リード前同、p.44)。


1600年頃のバンダの社会階層
中央:トルコ人商人
右:奴隷を引き連れたオランカヤ
左:奴隷を従えた淑女
出所:リード前同、p.153
 ここにいうオラン・カヤは、交易エリートあるいは交易貴族と訳されるが、3つタイプがあった。「まず第1に、交易の機会があるために港に引き寄せられてはいるが、港から去ることも可能な外国人商人たちがいた。第2に、宮廷と交易商人の間を調停する外国人あるいは外国人の子孫で、部分的に同化した商業官僚である。第3に、彼らの役職あるいは富によって貿易に引き込まれた土着の貴族である」(リード前同、p.151)。
 第1のタイプの例として、17世紀中頃のマカッサルに活動していたインド人イスラーム教徒のホウセネーナ・コジャ、別名モプリー(1675没)という人物がいる。彼は、1650年代までには「イギリス人の主要な交易パートナーとなり、イギリス人のインド布を買い付け、彼らに丁子と鼈甲を売っていた。彼は、またジャンク船を入手して、毎年マカッサルからマニラへの利益のあがる旅をし、スペイン人の[地位対等]要求を満たすために王の称号を持っていた。オランダ人は、モプリーの積荷が主にインド布で10万レアル(銀2.5トン)に相当すると推計している」(リード前同、p.156-7)。
 第2のタイプの典型は、15世紀後半、ムラカ王国において居留外国人のなかから出身地別に任命された、4人のシャーバンダール(港の管理者)である。これを見習って、ほとんどの港市で1人か2人シャーバンダールが配置されていた。この第2のタイプは、港市の官職につくばかりでなく、港市の支配者に登りつめる。15世紀初頭のパレンバンやドゥマク、グレシクは中国人を支配者にして建設された。すでにみたジャワ島ジュパラのパテ・オヌスの親はムラカの商人であった。異邦人クリングと呼ばれたイスラーム教徒のインド人は、ポルトガル人に慫慂されて、新ムラカの大ベンダハラ朝の創始者となっている。さらに、ポルトガル人冒険家フェリぺ・デ・ブリトが、1600年から1614年まで、ビルマのシリアムの支配者となるという例さえあった。
 第3のタイプの土着の貴族と、第2のタイプのオラン・カヤとの区別は、それほど容易でない。外国人商人たちはよく土着の貴族と結びついていたし、土着の貴族も港市に惹かれ、交易に入れ込むようになっていたからである。その具体例は明らかでない。
 東南アジアの港市の支配者とオラン・カヤは、胡椒の生産と交易を通じて、様々な利益をえていた。例えば、「テルナテの支配者も、彼の領地の丁子の10%と、丁子輸出の利益の10%を取っていた」。「18世紀のバンテンでは、栽培者は借金のある支配者から、胡椒生産の利益のうち、1バハル(180キログラム)につき半レアルしかもらえなかった。支配者と仲介貿易商はもっとも利益を得た。胡椒は1バハルにつき7レアルの価格に固定されてスルタンに売られたのだから。あるスマトラ島の貿易商はいつも、6レアルで買って12レアルでスルタンに売っていたという。そして、スルタンは独占的な交渉で、オランダ東インド会社に21-20レアルで売っていた」。
 そこで、大切なことは「農民たちが外国人バイヤーと直接接触することは、絶対に避けなければならなかった」ことであった(以上、リード前同、p.45)。
▼王と貴族、オラン・カヤの依存と対立の関係▼
 港市と後背地にはまったく別の社会が形成されていた。後背地には非イスラームの住民、港市にはイスラーム系を含む様々な外国人商人が渡来、居留していた。そのため、「港市国家の支配者とは、まさしく複合社会に君臨した支配者であり、多様な民族集団の介在者であることによって、彼らは支配者たり続け」えたのである(西尾前同、p.155)。
 「交易の時代」、東南アジアにおいては宮廷会議や寡頭支配などによる分権的支配から、王権が強まって王の集権的支配が移行し、また「交易の時代」の終焉とともに王の集権的支配も終わったとされ、その事例として17世紀のアチェやアユタヤ、マタラムが挙げられてきた。
 西尾寛治氏によれば、「16世紀末期、アチェでは貴族層が実権を掌握し、王権は脆弱であった。だが、17世紀になると、交易の隆盛とともに王の集権的支配が進展する。特にスルタン・イスカンダル・ムダの治世には、貴族層の粛清が断行された。また、外人奴隷で編成した近衛兵の配備、イスラーム法の厳格な適用と法廷の設置、先買特権の強化による主要交易品独占などが実施され、集権体制が確立された。
イスカンダル・ムダの墓
バンダ・アチェ
 しかし、ジョホールでは、アチェと対照的に、貴族による宮廷支配―パドゥカ・ラジャ・アブドゥル・ジャミルと彼の一族による宮廷支配が行われ[続け]、17世紀のムラユ諸国において集権的支配が一様に進展したわけではない。島嶼部東南アジアでは、大陸部東南アジアほど明瞭には認められない」という(西尾前同、p.165-6)。
 「ムラユ諸国は、港市における交易をほとんど唯一の経済的収入源としていたから、軍備充実に関わる貴族層の交易参加を、王は容認していた。すなわち、外来商人との提携による貴族の交易活動は、ムラユ諸国の強兵策でもあった。このように、王から兵力の充実を求められた貴族は、それがゆえに王に対する潜在的対抗者であり続けた。貴族の交易参加は、ムラユ諸国の支配者にとって、いわば両刃の剣であった。
 アチェは『交易の時代』が王権の強化に作用した事例であり、他方ジョホールは貴族層の強大化を招いた事例である。結局、ムラユ諸国にとって、近世の『交易の時代』とは、富の獲得をめぐる王と貴族の緊張関係が、一層増幅された時代であった」という(西尾前同、p.166-7)。
 ムラユ諸国の交易用の林産物や海産物は、ムラユ人支配層と非ムラユ系在地民とのあいだの支配関係を通して採集、集荷された。港市国家と内陸との関係では、マレー半島やボルネオには、スマトラのような自立性の高い内陸が形成されず、内陸民は港市国家へ従属していた。
 17世紀のジョホールの支配層は、外来商人との提携を強め、より積極的な交易活動を展開した。こうした交易機会の拡大は、王と貴族の競合関係を一層強めた。その結果、アチェのように集権支配が進展した場合もあったが、ジョホールのように貴族の宮廷支配に作用した場合もあった」(西尾前同、p.174)。
▼オランダに対抗する集権化―軍事強化と交易支配―▼
 東南アジアにとって、オランダはポルトガルとは違って、さらなる脅威であった。オランダの東南アジアに進出し、東南アジア交易が全盛期を迎えるなか、17世紀初めから半ばにかけて東南アジアでは王への集権化の動きが強まる。
 オランダは港市を軍事的に制圧あるいは破壊する意図を持っていたので、港市の支配者はそれに敗北するわけにいかなかった。さらに、オランダの交易支配にも対抗しながら、交易からより多くの税収を上げ、またオラン・カヤを牽制するには、自らが海上交易に乗り出す必要があった。軍事強化と交易支配は、王への集権化と同時的に、その内容として進められた。
 東南アジアの国々は「交易の時代」強大になるか、それとも倒れるかの岐路に立たされていた。「ヨーロッパ商人、特にオランダとイギリスの商会が大量の取引きをしかも短時間に行なうことを好み、強大な権力を持つ王を相手に交渉し、この希望が満足されないとなると王を見捨てて地方の有力者と直接交渉をした。[総督]クーンが牛耳るようになってからのオランダ東インド会社は、抵抗ができない港湾都市のすべてを通じて、主要な交易品に対する独占を強化していた」からである(リード前同、p.335)。
 シャムとアチェとは、多くの点で異なった政体を持っていたが、どちらも17世紀初期に、伝統的な貴族層を切り捨てるという政策を採用した。その方法は、王が富裕化した貴族や商人の財産を没収し、自らが海上交易に乗り出すことにあった。
 王室の海上交易の独占は特産品を独占することが基盤になっていた。特産品は、ビルマでは琥珀、宝石、金、(芳香性)樹脂、鉄、シャムでは蘇芳、錫、鉛、硝石などであった。他方、輸入品の独占はあまり行われなかった。シャムの場合、火器の購入を禁じ、貨幣鋳造のため銀、銅、宝貝などを買い込んでいた。
 1620年から80年にかけて、アチェ、アユタヤ、バンテン、マカッサルといった、それぞれの海域において覇権を持つば有力な港市国家の王は、海上交易の独占を強める。彼らは多数の船を保有して、マニラや中国、日本、南インドに送り出すようになる。また、外国人商人に交易独占権を付与したり、市場価格を操作したりするようになる。
 アンソニー・リード氏は、「17世紀の半ばになり、胡椒価格の低下とオランダの独占のせいで、多くの支配者たちは利益を上げることが困難になってくる。それにつれて、胡椒の強制栽培のシステムが、多くの国でみられるようになる」というが、その具体例は示されていない(リード前同、p.338)。また、同じく17世紀半ばには「東南アジアからの輸出品の価格が下落した結果、支配者たちが後背地の生産者や港市の商人を搾取することが、はなはだしくなった」と述べている(リード前同、p.335)。
 オラン・カヤは海上交易によって強大な基盤を築きたことで、「商業が急速に拡大した時代は、時に外国出身のオラン・カヤによる独裁支配の時代である……そのような集団は……集権的な勢力のある支配者にとっては、呪われた集団でもあった」。
 しかし、「17世紀後半に商業がその魅力を失ってゆくと、交易にその根拠をもっているオラン・カヤは、土地と人への権利によって、貴族になってゆくことが多かった。この変化によって、支配者とオランカヤ集団のあいだのバランスは、常に危ういものとなった」(以上、リード前同、p.163)。すなわち土地を基盤とした支配層の争いとなったのである。
▼港市からの交易人の排除とオランダとの相互独占▼
 アチェでは、アル・ムカミル(在位1589-1604)は宮廷革命を起こして貴族や豪族を殺害し、イギリス人やオランダ人に肩入れして、自分への脅威となるおそれのあるイスラーム商人を退けた。その孫のイスカンダル・ムダは、こうした中央集権政策を極限まで推し進め、古くからの貴族をことごとく抹殺して、将軍やウレーバラン(領主)という新興エリートに封土を与え、さらに富裕階級を激しく収奪し、数多くのオラン・カヤを殺し、財産を没収する。
 イスカンダル・ムダは、1612年頃それまで活動していたグジャラート人商人をスマトラ島西海岸の胡椒生産地から閉め出し、オランダ人やイギリス人と独占契約を結ぶ。そして、王の仲買人が胡椒を、1バハル当り25レアルという法外な価格で売り終わるまで、外国人たちに胡椒を売らせなくした。その結果、王の仲買人と船によって、この地方の胡椒供給がほとんど支配されてしまう。
 こうしてアチェ人やグジャラート人は敗者となり、さらに1622年以後イギリス人やオランダ人も追い出される。1630年代になると、イスカンダル・ムダはアラカンやアユタヤの支配者たちと同じように、毎年「大船団」をコロマンデルに派遣し、過去この交易を支配していたオランダ東インド会社やマスリバトナムのペルシア人に打撃を与える。
 シャムについては、すでに述べたとおりであるが、エカトサロット王(在位1605-10)は古来からの貴族を圧迫し、また死亡役人の家産を没収して、それらの力をそぎ、それに替えて外国人を優遇した。例えば、非常に裕福なアユタヤの商人でイスラーム教徒であった、ラディ・イブラヒムは1639年に処刑され、屋敷は没収される。さらに、ナライ王にあっては外国人を利用して、海上交易に積極的に乗り出し、自己の交易上の利益を増やし、貴族たちを激しく圧迫するようになる。
 17世紀半ばになると、王が大規模な船積みに関与することが、非常に多くなる。オランダ人は、暴虐な纂奪王プラサット・トン(在位1629-56)が自分の仲買人にだけで市場を動かそうとし、また市場価格を支払おうとしないと非難している。その独占支配に、外国人商人も大いに手を貸しており、オランダ東インド会社は1630年代に鹿皮、1671年に錫の供給などについて、王と独占契約する。
 ナライ王の時代、日本との関係が復活され、中国人船員の乗船した王室船が、この利益の多い交易の中心となる。1680年代までは、インドに向かう船には、多くの場合インド人イスラーム教徒が乗り組んでいたが、その後はフォールコンが推薦するヨーロッパ人が使われるようになる。ナライ王は、ヨーロッパ人商人に対する優位を利用して、木綿の輸入を圧迫する。その結果、シャムでは木綿はもはや特定の人間以外には扱えなくなる。
 マタラムのスルタン・アグンは1616年以降ジャワ島北部海岸の港市を次々と征服し、その上で1641年米のオランダ人に対する供給を独占する。その後継者アマンタラット1世(在位1646-77)は、宮廷による交易独占を極限にまで進めたとされ、臣下が交易することを禁止し、すべての港湾を長期にわたって閉鎖した。また、1655年には沿岸の人々の持つ船を破壊した上で、交易を再開するということまでした。
 こうして、マタラムの海上交易は王とオランダ東インド会社という独占者同士の売り買いとなり、双方に脅威となりうる仲買人の介在は許されなくなった。「17世紀に激化した競争のなかで、国の安全のためにする交易と、自由のためにする交易とは両立し難くなった。国家が交易によって強力になればなるほど、大きな商人の力は早晩強大な個人的権力の餌食となって、剥奪されたり削がれたりしていった。幾人かの王たちが個人的権力の頂点をきわめたが、その死後に起き混乱と政争を防ぐことができたものはどこにもいなかった」(リード前同、p.351-2)。
 バンテンでは、オランダ人やイギリス人がくるまで、長いあいだ自由に取引されていた。オランダが参入してきて、彼らが胡椒の取引を独占しようとすると、1619年外国人の胡椒購入先を王室に限定することに成功する。スルタン・アブドゥルファター・アグン(在位1651-82)は、バンテンで最も成功を収めた支配者であるが、その時代、ランプンで栽培される胡椒はバンテン人の貴族によって管理された強制栽培のシステムによって、すべてスルタンのもとに届けられるようになった。外国人への販売は厳格に管理された。それがバタヴィアにいるオランダ人との戦いの武器になった。
 このスルタンは、やがて西洋式の船や中国式の船からなる独自の船隊を持つようになり、多くの場合外国人船員を乗船させ、はるか遠くの港であるマニラ、中国、日本、シャム、コロマンデル、スラト、モカ〔アラビア〕にまで交易を行なった。
 ジャンビやパレンバンではバンテンを模倣して、王室が交易人を任命して、布や塩を市場価格以下で、胡椒と交換させた。ボルネオ島バンジャルマシンの支配者は、オランダ東インド会社との契約を履行してもなお自分に利益が残るようにするために、1660年代に胡椒栽培者に低価格で自分の代理人への売り渡しを強制した。
 17世紀を通じてもっとも自由であったマカッサルでさえも、1650年代になると王室の船に特別待遇を与える。イギリス人たちは、マカッサルのゴアとタロの王たちが自分たちの言い値で商品を売ろうとする、不法な商人になっていると不満を述べ、その2年後には王たちは交易で貪欲になり、祖先たちより堕落したといっている。王たちは、オランダ東インド会社のやり方を真似しないとやっていけないような、危険な時代になってしまっていた(以上、特記以外、リード前同、p.333-9)。
▼離散交易民、中国人、ムラカ人、マカッサル人▼
 東南アジアの多くの港市とそこでの交易は、港市に居留あるいは同化した離散交易民によって運営されてきたといってよい。東南アジアの離散交易民の代表は、中国人とポルトガル占領によって離散したムラユ人(マレー人)である。
 15世紀、中国明朝の私交易禁止により置き去りにされ、また鄭和の大遠征終了後、帰国しそこねた多くの中国人は華僑になって、ジャワ島のグレシクやドゥマク、パレンバン、ムラカ、パタニ、アユタヤなどに居留するようになる。彼らは、中国への朝貢交易を組織し、アジア地域間の交易に従事した。それ以外の役割は後述される。
 それ以外に、チャム人、ペグーのモン人、マニラやブルネイのルソン人、ジャワ人、バンダ人がいる。「彼らの故郷は、彼らの交易に関心がない[勢力の]軍事力によって植民地化―ヴェトナムによるチャンパ支配、ビルマによるペグー支配、スペインによるマニラ支配、マタラム王国によるジャワ海岸(パシシル)支配―され、ムラカ人と同様に活発な交易商人として残った。17世紀には、マカッサル人とブギス族が強力な交易民として興ってきた」(リード前同、p.168)。
 ペグーのモン人はアチェやムラカ、バンテンと交易し、また大きなジャンクを現地で売りもしていたが、その全盛期のパインナウン王(在位1551-81)は1574年7隻の大船(およそ長さ30メートル、幅8メートル)の建造を命じ、自ら海上交易を指揮していたという。後継ナンダパイン王(在位1581-99)が凄惨な統治を行ったため、コスミール(バセイン)とマルタバンの港が反乱を起こすが報復され、完全に破壊される。モン人は、パインナウン王の軍務を逃れるため、隣国に亡命する。このペグーは、1599年タウングーとアラカンの連合軍に敗れる。
 ムラカ人の強さは、多くの国にまたがる広大な連携と
パインナウン王の宮殿
新しく 建築された、バゴー(ミャンマー)
バインナウン王寄進の鐘の銘文
左側ビルマ語、右側モン語により、
征服や仏教の布教について記している、1557
シュウェズィーゴン=パゴダ(ニャウンウー市)蔵
その移動性にあった。彼らは、国外離散によって、まずパハン、パタニ、ジョホール、アチェ、その後バンテン、マカッサル、アユタヤ、カンボジアに新しい拠点を築く。そこにはマレー語を話すイスラーム教徒のコミュニティが生まれる。そのなかでも、マカッサルはオランダ人が丁子や肉豆蒄を独占しようとする動きを阻止しようとする、人々の拠点となる。
 1620年代、マカッサルにはムラカ人が数千人もいて、その600人が1624年に胡椒を集めにモルッカ諸島に出かける、フリー卜船に関わっていた。それらムラカ人たちはマカッサルのために勇敢にオランダ人と戦った。そして、1669年オランダとの戦争でマカッサルが陥落した時、彼らは再び離散することとなる。
 すでにみたように、マタラムのスルタン・アグンや後継のアマンクラット1世によって、ジャワ島北部海岸の港市は破壊される。そこで、ジャワ人の交易商人たちはバンジャルマシン、バンテン、パレンバン、パタニ、マカッサルなどに交易拠点を移し、ムラカ人と同化する。さらに後継のアマンクラット2世(在位1677-1703)は、トゥルノジョヨの反乱に当たって、1677年オランダ東インド会社に軍事援助を仰ぎ、その見返りにオランダに交易独占を許さざるをえなくなる。その結果、ヨーロッパ人であろうとアジア人であろうと、すべての海上交易人がジャワから排除されることになる。
 アンソニー・リード氏にあっては、「ヨーロッパの独占的な購買とその他の圧力があったため、支配者たちはさらなる交易を彼ら自身の手に握り、その交易国家を中央集権にし、独立を保とうとした。17世紀には、土着の交易少数民族は次第にマレー人と中国人に帰する[限定されるという意味か]ようになり、[しかも]中国人は土着の者が少なくなり、同化傾向もなくなってきた」とされる(リード前同、p.168)。
 また、オランダ東インド会社の勝利はアジア人の協力者がいなければ不可能だったように、その深く長い後退についても同じであって、「むしろ、東南アジアのきわめて動的な2つの商業活動の担い手―ペグーのモン人とジャワ島北部のジャワ人―が、事実上、国際交易から姿を消したことが原因であった」ともいう(リード前同、p.382-3)。
▼中国人商人、胡椒栽培者との取引、税の徴収▼
 1600年代、すでに中国人はベトナムやフィリピン諸島、パタニ、バンテンにおける外国人交易人の最大グループであった。17世紀、アユタヤやバンテンの中国人成人男性は3000人、マニラでは1603年には2万3000人、ホイアンでは1640年代5000人を数えた。
 そこでアンソニー・リード氏は重要な指摘を漫然と行っている。「17世紀が進むと、東南アジアの港の内陸部に滞在していた中国人たちは、さらに深く内陸の大きな中央市場に入って行った。1600年前後のバンテンでは、中国人がすでに栽培の後の内陸で、胡椒を買い上げ始めていた……1620年代には、ジャンビとパレンバンで同様のことが起こっていた。中国人は、典型的にはスマトラ人の妻の助けにより、胡椒栽培者と取引きするために市場で輸入布を買い入れていた」という(リード前同、p.426-7)。
 アンソニー・リード氏は、その意味合いに言及していないが、東南アジアにおいては交易人が胡椒栽培者とが直接、接触しないよう規制することが、港市国家の基本政策であったとされている。それにもかかわらず、中国人商人に限って交易全盛期になると内陸部まで分け入るようになり、そうした規制を逃れうる立場を築いていたことは、明らかである。
 マニラとバタヴィアという植民港市は、様々な消費物を輸入する中国人の交易人ばかりででなく、すべての生産活動に携わる職人や労働者に依存していた。バタヴィアでは、中国人は城壁のなかに住むことが許されており、1699年には住民の39パーセントを占めていた。マニラでは彼らは城壁の外に集住しなければならなかった。
 「ヨーロッパ人たちは、中国人がいなければ都市は建設されず、交易は維持できず、日常の必需品さえ供給されないことがわかっていた。中国人は産業のみならず平和のためにも、大きな価値を持っていたのである」。他方、「中国人にとっては、ヨーロッパ人に管理されている港は2倍の魅力があった。それらは便利で新しい国際貿易の中心であり、とりわけアメリカと日本の銀が、中国が必要とするぐらいはあったからである」(リード前同、p.433)。
 そうした海上交易や都市生活とのかかわりばかりでなく、中国人は港市行政に深くかかわっていた。そして、そこでは中国人たちが富裕になることができ、中国人であることをやめなくても影響力を発揮することができるようになっていたからである。
 オランダ人は、ヨーロッパでもっとも能率的な税金徴収制度を発達させており、毎年競りにかけて最高額の入札者に税金の徴収を請負させていたが、バタヴィアにおいてはそれを中国人に請け負わせていた。それを見習って「18世紀のシャムでは、港の税収、賭博、銀の採掘、そして……知事職でさえ、毎年の王への支払いと引き替えに、中国人が請け負っていた」という(リード前同、p.435)。
▼東南アジア、大砲搭載のガレーを建造▼
 東南アジアの支配者たちはただ驚いているだけなく、ヨーロッパの武器を買ったり、ヨーロッパ人を雇ったりして、ヨーロッパの軍事技術を取り込む。それによって、ヨーロッパ人を城塞に封じ込めておくことが、ある程度、可能となった。ただ、それら外来技術は、それを持たない後背地に対して、支配者たちが強大な権力を発揮するのにも役立った。
 東南アジアにおいて、ヨーロッパ人が軍事的に優位な立場に立ちえたのは、大砲の威力とそれを船に据え付ける技術にあった。それによって、それに対抗できる武力のないダウやジャンクを後退させることができた。これに、東南アジアの支配者たちはヨーロッパの船型を模倣するのでなく、大型の武装ガレーを作ることで対抗しようとした。
 1600年までに、アチェだけでなくバンテン、ジョホール、パハン、ブルネイなどは、武装ガレーを100隻以上投入することができるようになっていた。
 ここでいうガレーは、現代のタイに見るような型式のものであり、「これらの船の、竜を模した形状、速度、仕上げの良さなどは、つねにヨーロッパ人の驚嘆の的であった。シャムの精巧な飾りを施されたガレーは世界一美しい。モルッカの船は竜の形状と装飾を持つ。船首は竜の頭、船尾は竜の尾のようであった……マカッサルのガレーはきわめて巨大であり、わが国ではこの規模のものを建造できる棟梁はいないだろう」。
 アチェの王イスカンダル・ムダは約400隻のガレーを所有し、そのすべてが常時稼働可能になっていた。アチェがムラカを攻撃するために、1629年に建造した「天地の恐怖」号は、ポルトガル人によれば「おそらくかつて作られた木造船の中で最大のものだっただろう。この船を最後に拿捕することになったポルトガル人[が見たものは、]、この船長が100メートルに達し、テンパガ(青銅)製の見事

1600年頃に描かれた武装ガレー船
左:漕ぎ手と槍兵士とが配置された、
2つの甲板を持つマドゥラの戦闘船、
右:テルナチ王のコラコラで、
漕ぎ手はアウトリガー座り、7門の小大砲を装備
出所:A.リード:著、平野秀秋他訳
『大航海時代の東南アジア 2』、p.313、
法政大学出版局、2002
な作りの大砲を含む砲100門を搭載していた。これまで見事なものを数々見てきた私たちの目も、この偉容には驚嘆させられた」。
 オランダ人によれば、「バンテンのガレーは下部甲板に4門、マカッサルのコラコラは船楼部に7門、またマドゥラ島の大型ガレーは最大200人の兵員を乗せていたが、オールの数が少なく、大砲は2門だけであった……コラコラは、漕ぎ手を100人、マスケット銃手を6人、また青銅製の砲4、5門を乗せ……砲1門に3人がつき、1人は照準、1人は装薬、1人は発射に当たっていた」。
 ベトナム人は、ヨーロッパ人侵攻前から、武装ガレーを採用していたとされ、現地にいたある日本人によれば、交址シナには「230-240隻のガレーがあったとし、そのおのおのに漕ぎ手と兵士を兼ねた64人が乗船し、また舳先に4-8ポンドの弾丸を発射する砲1門、カルヴェリン砲2門を乗せていたとする。このようなガレー約50隻からなる船隊が、1643年に3隻の戦艦からなるオランダの船団を襲撃し、乗員全員を含む旗艦を粉砕した。これはおそらく、1940年代以前にアジア人によってオランダ海軍が受けた、もっとも屈辱的な敗北であった」とされている。
 武装ガレーは、確かに「地中海と同じように[島]蔭の多い東南アジアの海域では、大兵力を運び、砲撃に適した位置に船を着けるため」には、もっとも手っ取り早い手段であった。ただ、「短期的にはこの戦術は、東南アジアの支配者たちが国内的にも対外的にも優勢になる結果をもたらしたが、17世紀になると軽く操船力に長けたオランダやイギリスの船隊との会戦ではほとんどの場合に敗北に終わった」のである(以上、リード前同、p.310-15)。
▼東南アジア船の小型化と多数化▼
 15世紀以降、東南アジアに居留していた中国人は、上質で安い東南アジア材を使い、また熟練した船大工を雇って、東南アジアとの混合型ジャンク船を建造してきた。こうして、東南アジアで活躍するジャンク船は、その多くが東南アジアの華僑船であった。
 16世紀、ポルトガル船は大きくなった。インド洋艦隊に使われたナオ(貨物船)は、16世紀初め400積トンであったが、世紀末には2000トン近くなった。バンテンやアラカン、アユタヤなど東南アジアの港市の支配者たちは、ヨーロッパ人や中国人の設計で造られた、大型の戦闘用のガレーやジャンク、ナオを所有していた。


ポルトガル船
左上:ナウ2隻、右上:ガレオン、
左下:ガレー2隻、右下:カラヴュラ
所載:ジョアン・デ・カストロの「インド航路画集」
出所:小島 毅 監修, 羽田 正 編
『東アジア海域に漕ぎだす1 海から見た歴史』、p.131、:
東京大学出版会、2013
ジャワ島海岸の船
最初のオランダの遠征隊によって描かれた
上から右回りに、ジャワの交易用帆艇、
中国ジャンク、地元の漁船、ジャワのジャンク
出所:A.リード:著、平野秀秋他訳
『大航海時代の東南アジア 2』、p.54、
法政大学出版局、2002
 しかし、東南アジアの貨物船は小さくなっていった。16世紀初めのジャンクの積トンは平均は400トンから500トンぐらいであったが、16世紀の終わりには半分以下となった。それでも、米をジャワ島からスマトラ島やマレー半島の港市に運ぶ、ジャワのジャンクだけが200トンを超えていた。そうしたことから、ジャンクは中国人が所有する200-800トンの船をさす言葉になってしまう。
 東南アジアの船は、その大きさは全体として小さくなったが、その数は増える。例えば、スラバヤ地域だけで20-200トンの船が1000隻以上いたという証言がある。
 「大きいがずんぐりした東南アジアのジャンク船が消えた理由」について、アンソニー・リード氏は「非常に大きな船は平和時の旅では最大の利を得るが、ヨーロッパ船と対峙した際の逃走のスピードと操縦性と戦闘火力のいずれにも欠ける」からであると(リード前同、p.53)、もっぱら海戦性から説明するが、果たしてそれだけだろうか。むしろヨーロッパ人の圧迫が小回りの船を多く作らせたのではないか。
 大型のジャンクやガレーは、ビルマのペグーやジャワのチレボン、マレー半島西岸のメルギやテナッセリムにおいて建造され、東南アジアに広く供給された。そのなかでも、チーク材が豊富なペグーのマルタバンの造船所は大型船を毎年20隻ほど建造したという。船主は造船の町に出向いて、現地の住民に船材を切り出させ、また船大工を使って新造船を建造していた。ムラカなど大きな港市では、ペグー製の船が売買されていたという。
▼17世紀後半からの交易の後退とその要因▼
 17世紀前半、オランダ東インド会社は唯一の勝利者となり、その利益はまさにピークに達した。アムステルダム株式市場におけるオランダ東インド会社の株価は1640-71年のあいだ高く、1648年と1671年には記録的な株価となった。しかし、オランダ東インド会社にあっても、1660-1700年の時期、バタヴィアからオランダに戻ってくる貨物船の数が次第に少なくなる。それはオランダ東インド会社が依存している東南アジア交易が衰退してきたことによるものであった。
 世界経済におけるいくつかの地域が危機に陥り、東南アジアをめぐる交易は17世紀半ばより後退し、「危機」と呼ばれる時代に入る。
 マニラに入港した船の積荷額について長期の統計がある。それによれば、1616-20年の61万レアルをピークにして、1651-55年には19万レアルまで減少し、その後30万レアルを超えることがない。東南アジアからの胡椒の輸出量は、1670年の8000トンをピークにして、1670年代4000トン、1680年代2500トンと激減し、16世紀初めの状態に戻る。東南アジアの胡椒や香辛料が帰航した船の積荷額に占める比率は、オランダの場合1648-50年は68パーセントと集中していたが、1698-1700年には23パーセントに落ち込む。それに取って代わったのがインド綿布とインド藍であった。
 この東南アジア交易の後退の主たる根拠について、アンソニー・リード氏は、通説はオランダ東インド会社の勝利にあると説明し、それにせいぜい交易に関心のない内陸国家の勃興が加える程度だと批判する。それ以外に、それに匹敵する要因があるという。その一つがいまうえでみた東南アジア産品の需要の減少であるが、それ以外に次の要因が挙げられる。
 まず、世界の銀の生産と交易への供給が低下したことである。1640年代になると、メキシコからマニラへの銀輸出は日本の銀と同じように、1620年代ピーク時の半分以下に減少する。1635年日本が鎖国し、それに加え1668年には銀輸出を禁止する。中国は、1597年117隻のジャンク船に渡航許可証を与えていたが、1639年には39通となり、その後マニラやバタヴィアに向かう中国船はさらに減少する。中国は、激烈な飢餓により人口が減少し、また明清の交代期にあって国内は分裂する。
 ヨーロッパ諸国は、1618-48年の三十年戦争などによって社会が揺らぎ、さらに1658-66年にはペストが流行して、その人口をかなり減少させる。それによって、17世紀前半、セビリアやバルト海の海上輸送量、ダンツィヒやヴェネツィアの交易、ヴェネツィアやライデンの織物生産、アムステルダムの石鹸生産、イギリスのウール輸出は減少する。
 「17世紀中頃までには、オランダ人の独占による圧力は自営のアジア商人にとってさらに商売が難しくなるような空気を与えることになった」(リード前同、p.155)。その結果としてか、「東南アジア交易に登場する他のあらゆる役者たち―スペイン人、ポルトガル人、グジャラート人、ベンガル人、中国人、日本人、イギリス人、そしてとりわけ東南アジア人交易商人グループ―は、この時期にいなくなった」とされる(リード前同、p.395)。
 これら世界の異なる場所で起こった人口の逆転は、16世紀半ばからの長い物価上昇の後、1640年前後から穀物とその他の生活必需品の価格の下落を招くこととなった。こうして、東南アジア産品の需要を押し上げてきた国々において、その押し上げ要因が失われることとなった。このヨーロッパにおける胡椒価格の低下は、すぐに下にみる通りであるが、それはいまみたヨーロッパの胡椒需要が減退したからだけではなかった。
▼オランダの港市破壊の結果、胡椒生産の衰退▼
 東南アジア交易は、一方における胡椒の需要の伸びがあきらかな減退と、他方における胡椒の生産過剰、それらの結果としての胡椒価格の低下、そしてその生産縮小となって後退する。
 「1650年と1653年の間に、東南アジアの市場で胡椒に支払われた価格は、半分に下がっていた。1670年代、供給が需要をはるかに追い越し、オランダの胡椒価格は一時的に5分の4に落ち込んだ[正しくは、5分の4も下がった]。そして、東南アジアで支払われた価格は、1640年代のたった4分の1になった」(リード前同、p.408)。そのもとで、オランダや現地支配者は生産調節のため胡椒栽培を縮小し、あるいは食糧生産に転換した。こうして、胡椒栽培はその高値の時代が終わると、その魅力は失われてしまう。
 モルッカ諸島北部では、「オランダ東インド会社は市場価格より安値で丁子を買っただけでなく、きわめて競争的だったジャワ人とムラカ人から商品供給を取り上げ、米価が5倍に上昇する原因を作った」。その結果、彼らは換金作物栽培から撤退し、米を自給するようになる(リード前同、p.406)。
 東南アジア交易の後退にともなって、輸出収益が減少すると、インド綿布の輸入も減少する。17世紀後半、インド綿布の価格は著しく上昇し、オランダ東インド会社はそれを東南アジアに独占供給して巨利が上げてきたが、売値は1679-81年になると1665-69年価格の43パーセントも安くなり、次の20年間はさらに低落してしまう。要するに、高くしか買えなくなったものを、安くしても売れない状態となる。
 他方、東南アジア交易の後退における供給サイドの要因として、その筆頭に上げられるのがオランダの武力による港市攻撃と占領、そして交易の独占による弊害である。その影響は様々にあらわれた。東南アジアの多くの港市において、海上交易の魅力が失われ、港市の賑わいはなくなり、人口が減少してしまう。それに加え、17世紀の小氷河期は多湿高温の東南アジアに旱魃をもらたし、多くに地域で人口減少を呼び起こす。
 例えば、1511年のポルトガルによる占領によって、ムラカの人口は4分の1に減ったが、それが元に戻るのは20世紀になってからであった。マカッサルは1666-69年、バンテンは1682年に、オランダに占領されるが、それら港市は経済的・政治的な存在理由を失い、人口は4分の1に満たないまでに減少する。こうして、東南アジアの交易中心地は特に島嶼部において1700年までには消滅してしまい、東南アジアは世界でもっとも都市化されていない地域となる。
 他方、それらに代わって、ヨーロッパ人が支配する港市が東南アジア産品の集積・中継港となる。しかし、その代表であり、象徴でもあるバタヴィアでさえ、17世紀後半においてもポルトガル領ムラカの人口と同じ3万人の人々が、その城壁内に移住したにとどまる。これら植民港市は東南アジアの人々にとって有難さはなかったのである。
 こうした東南アジア島嶼部のポルトガルやオランダによる港市破壊に加えて、東南アジア大陸部においては17世紀後半には海上交易からの撤退が進む。
 それらについては、すでにその一部をみているが、ビルマのタウングー王は1635年その首都を上ビルマの米作地帯のアヴァに移してしまう。それに応じてヨーロッパ人も撤退する。アユタヤはナライ王の統治のもとで重要な港になっていたが、1688年オタプラ・ペトラーチャー(在位 1689-1703 )が王位を簒奪すると、ヨーロッパ人はオランダ人を除いて排除され、海上交易は一挙に縮小してしまい、交易中心地の地位を他に譲ることとなる。ベトナム人の国家は、17世紀末には中国との交易を強めるが、ヨーロッパ人は締め出される。
▼東南アジア・イスラーム教徒たちの最後の抵抗▼
 「交易全盛期の曲がり角は、1629年のアチェとマタラムの敗北によって訪れ、1650年からはその凋落はあらゆるものに及び、1680年代は最後の死に至る苦しみの時代」となる。オランダ東インド会社が巻き起こす争いごとは、東南アジアにおいて交易のみによって生きている人々―港市のオラン・カヤやナホーダたち、胡椒栽培者や買い手たち―にとって、絶えざる脅威であった。彼らは最後の抵抗を試みる。
 アチェは当然のようにオランダ反抗運動の中心であった。1650年、オランダ東インド会社と屈辱的な条約を結んだことに怒った、反オランダ派が最終的に権力を握る。スマトラ島の西海岸の胡椒地域ではオランダ人やイギリス人との直接取引きした人々や役人が追い出され、アレー半島のペラクではオランダ人の宿舎が攻撃され、雇用人29人が殺される。
 1654年、メッカの裁判官がアチェ、ジョホール、マタラム、バンテン、マカッサルなどのイスラム教徒の王たちに、イスラーム教徒を害しているオランダ人を、共同で罰する行動をとるよう促す書簡を送りつけてくる。バンテンは、バタヴィアを攻撃するつもりであるとマカッサルに通告し、1655-57年にはオランダ船を港から締め出している。マカッサルの王はモルッカ諸島のオランダ人を妨害し続ける。ムラカ人の船主たちは各地においてオランダを追い出すことに同意する。
 マカッサルは、オランダの占領に抵抗してマカッサル戦争を起こしたが、1669年オランダ・ブギス連合軍と戦って敗れる。マカッサル人は、国外離散することになるがバンテンで歓迎され、そのオランダ反抗運動の一翼を担う。1675年、マカッサル人はスラバヤを含むジャワ東部の主たる港を破壊する。
 その頃、すでに幾度かみてきたように、マドゥラ島の王子ラデン・トゥルノジョヨはマタラムのアマンタラット1世が行なった過酷な政策に反乱を起していた。1676年、彼に差し向けられたマタラム軍を破り、マタラムの王宮を逆占拠する。アマンタラット1世はオランダ東インド会社に頼るしかなくなる。トゥルノジョヨの反乱に呼応して、1677年、3000人のムラユ戦士がオランダ領ムラカの砦を占拠する事態も起きる。
 王位を継いだアマンタラット2世は、自力ではトゥルノジョヨを抑えられないため、「オランダ東インド会社の王」となるほかはなかった。彼は、1677年屈辱的な条約を結び、ジャワ島西部のプリアンガン地方をオランダに割譲してしまう。オランダ東インド会社は、むしろブギス人、アンボン人、ジャワ人を使って長期の戦いを行い、1679年になってトゥルノジョヨを捕らえる。彼は、アマンタラット2世に送り届られ、殺害される。


ラデン・トゥルノジョヨ
 バンテンは、トゥルノジョヨの戦いへの共感が強く、1680年彼が殺されると、オランダ東インド会社との対決を求められるが、王子が宮廷クーデタを起こし、オランダに援助を求める。それに応じて、1682年オランダはバンテンに上陸する。こうしてバンテンは遂にオランダ東インド会社の手に落ち、ヨーロッパ人は追放され、その繁栄は終わりを告げる。
 1685年、東南アジアの歴史上よく知られており、ジハード(聖戦)の戦士とみられるアーマッド・シャー・ビン・イスカンダルがビリトン島にやって来る。彼はパレンバンやジャンピの支配者の支持をえる。彼は、アチェやマタラムの支配者、西スマトラと南ボルネオの海岸の領主たち、そしてシャム王にまで、オランダ人を島嶼部から追い出す使命を支持してほしいという、書簡を送る。彼は、すばやく支持をえて、4000人の兵士と300隻の船を集めたとされる。
 オランダ東インド会社はこの動きを非常に恐れ、1686年ビリトン島にオランダ軍と属国となったバンテンの軍隊を送り込むが、アーマッド・シャーを発見できなかった。それはバンテンを含む各地において、彼を支持する勢力がいたからである。1687年、彼がスマトラの新しい胡椒集荷地のベンクーレンに到着した時、イギリス東インド会社は隠れ家を提供している。しかし、1690年代になると、オランダへの抵抗は衰退していく。
 アンボン人イスラーム教徒の船長ジョンクルは、オランダ東インド会社が最も信頼する雇われ兵士のひとりで、1665年からオランダ東インド会社のアンボン人組織の長になっていた。彼はトゥルノジョヨを捕らえている。その彼は、いまうえでみたアーマッド・シャーに敗れたばかりか、彼のカルトの信者となる。1689年には、バタヴィアのマカッサル人、ブギス人、バリ人、アンボン人と共謀して、バタヴィアにいるヨーロッパ人たちを殺害しようとしているとの陰謀が発覚する。ジョンクル船長は追われて殺され、その首はさらしものになる(以上、リード前同、p.436-45)。
▼「交易の時代」の東南アジア船員と交易実務▼
 アンソニー・リード氏の『大航海時代の東南アジア』は博覧強記の大著であるだけでなく、類書に比べ、海運や船員に関する多くの記述が含まれている。その第2巻第1章を中心にブックレヴューしたのが、Webページ【大航海時代の東南アジア船員】である。
 その構成は、東南アジアの小型船・プラフ、大型船・ジャンク、東南アジア船の航海、東南アジア船の乗組員の編成(@商人船主船長と船内規律、A船員の職種と乗組員の数、B乗船する女性、C乗組員への報酬、D海上交易実務―スペース・チャーター、E海上交易実務―冒険金銭貸借となっている。参照されたい。
▼若干のまとめ▼
 東南アジアの「交易の時代」は何であったのか。何が終わったのか。そして、何が始まったのか。
 アンソニー・リード氏は著書に「拡張と危機」という副題を掲げ、また1450-1680年を「交易の時代」とした理由のなかで、「この時代、東南アジアの商人、支配者、都市、そして国家は、そこから積み出し、そこを経由する、交易の主要な担い手であった」。それら交易の中心地が「ヨーロッパの拠点となって、遠距離貿易の大きな役割を次第に失ってゆくまでは……東南アジア的生活と、政治的権力と、文化的創造力の中心だった」と述べている(リード前同、p.3-4)。
 これらの文言は、その時代が東南アジアにとって何を意味したかを、よく示しているといえる。東南アジアに、ポルトガルやオランダが進出したことで、東西の消費国向けの東南アジア産品の需要が喚起され、その海上交易が隆盛を極め、それを基盤とした強力な港市国家が形成されたことによって、東南アジアにいままでにない活況がもたらされた。それはまさに「拡張」であった。
 その「拡張」も終わりを告げる。それは、アンソニー・リード氏に従えば、東南アジアの交易中心地がヨーロッパ人に支配され、それにともなって東南アジアの商人や支配者が交易の主要な担い手としての役割を失ったことで終わる。東南アジアの人々は、交易需要が喚起されたことで、特産品を換金作物として増産し、それを東西の消費国に供給してきたにもかかわらず、その交易から疎外されてしまうのである。それはまさに「危機」であった。
 東南アジアの「交易の時代」、「東南アジアの海洋交易の先端的中心地のほとんどは、16世紀か17世紀のどこかの時点で、敵対する[ヨーロッパ人の]力によって破壊されるか支配されている」。それに成功した要素の「1つめは優れた火器、とりわけ船上におけるそれである。2つめは城塞、それによって彼らは事実上、難攻不落となった。そして、3つめはアジア人の協力者である」という(リード前同、p.367)。
 そのなかにあって、「オランダ東インド会社の容赦ない勃興が東南アジアの都市と海の伝統を崩壊させたとの結論は、あまりに安易である」とし、「オランダ東インド会社が得た勝利のほとんどは、アジア人の協力者がいなければ不可能だった。大きな変化が訪れる際は、ヨーロッパ人の関わり合いは、争っているアジア軍の間の均衡をひっくり返すほどのものではなかった。東南アジア交易の、深く長い後退に果たしたヨーロッパ人の役割は、間接的なものでしかなかった」と、東南アジアの人々の自業自得を強調する(リード前同、p.382)。
 しかし、現実には東南アジアにおける「利権や支配力を手に入れる手段として、王家の紛争や王統争いに介入する―または必要とあらばそれを誘発するという、この政策はさまざまのヨーロッパ関係諸国が近代[さらに、現代]にいたるまで機会さえあれば、採用していったものである。そして、その種の政策の成功は、弱体な東南アジア諸国における王政のきわめて私的な性格、そしてまた大多数の統治者の政治的視野のせまさとによって可能となった」とされる(ハリソン前同、p.86)。
 したがって、東南アジアの人々が自業自得に陥ったのは、東南アジアの人々が自ら好んで招いたとはいえない。アンソニー・リード氏の業績に基づいて指摘してきたように、政治的危機はオランダが東南アジアの人々の内乱や紛争に乗じて、港市支配を達成しようとした結果として生じたものである。また、経済的危機はオランダの交易需要の拡大に、東南アジアが応じようとしたことで生産過剰と価格崩落が発生し、またオランダの需要独占とそれに対抗した港市支配者の供給独占が起こり、それらの結果として伝統的な内外の交易人が排除され、港市の衰退や生産の後退までも招いてしまうという結果として生じたものである。
 東南アジアの「交易の時代」の後にきたものについて、アンソニー・リード氏は語らないが、生田滋氏は「開発の時代」となったとする。その開発は、域内向けの米、中国向けの胡椒や檳榔膏、金、錫、アンチモニー、ヨーロッパ向けのコーヒーや砂糖、藍、タバコといった輸出商品を生産することであった。その場合、オランダ東インド会社は「住民に土地を開発させて、コーヒーを栽培させた。こうして会社は交易業者であると同時に、土地と人民を支配管理する『国家』」となった(生田前同、p.379)。また、中国人商人は、それを「現地の権力者から土地の使用権を賃借して、労働者を集めて生産するようになった」のである(生田前同、p.384)。
 東南アジアは、18世紀になって本格的に「開発の時代」となるが、その萌芽は17世紀後半のオランダ東インド会社によるモルッカ諸島の丁子の生産調整とそのための伐採や、最初の領土となったジャワ島プリアンガン地方における1694年頃からの綿糸、木蝋、胡椒、藍などの義務供出制度にみることができる。それは18-19世紀強制栽培制度に発展する。
 こうして、東南アジアをめぐる交易の基本商品は、外国人交易人によって買い取られる現地民の換金作物ではなく、オランダ人や中国人といった外国人の支配の下で生産された植民地作物となった。それにともなって東南アジアをめぐる交易の性格がどのように変化したか。それについてアンソニー・リード氏らは関心がない。
 東南アジアの「交易の時代」までの交易は、前近代交易の基本形態である特産品―主として贅沢品―を需要する交易人が特産地まで出向いて買い付けて、持ち帰るという遠隔地交易であった。それ以後の交易は、オランダ東インド会社や中国人商人が栽培地を借り受け、オランダ東インド会社の場合は領土とした上で、現地人を使用して植民地作物を生産させ、それを遠隔地の母国に持ち帰るだけでなく、第三国にも売り払うようになった。
 この植民地作物の交易は前近代交易とは明らかに異なっている。しかし、それは近代交易の基本形態である資本制生産商品の交易ではないが、商品生産者として売りさばかざるをえない交易となっている。こうした過渡的形態の交易は、すでにアメリカ大陸においては16世紀以降大西洋の「大航海時代」とともに、銀をはじめ、砂糖や綿花、たばこなどの植民地作物の生産と交易として始まっていた。なお、アメリカ大陸には「交易の時代」はなく、「開発の時代」としてのみ始まった。
 こうしたことから、世界における贅沢品を基本商品とする遠距離交易は、胡椒が贅沢品でなくなり、一般消費品となったことに象徴されるかのように、東南アジアにおける遠距離交易の終焉とともに終焉したこととなる。そうだとしても世界交易においてあれこれの贅沢品あるいは奢侈品の遠距離交易がなくなったわけではない。
 大木昌氏は、17世紀「東南アジアへの輸出品をそれほどもたないヨーロッハは、次第に購買力をなくしていった。そして、その行きつく先は生産地を直接支配する東南アジアの植民地化であった」という(同稿「東南アジアと『交易の時代』」『岩波講座 世界歴史』15、p.122、岩波書店、1999)。そうではなく、ヨーロッハは東南アジアから買うことをやめて、アメリカ大陸と同じように、東南アジアから奪うことにしたのではないか。
(2006/04/08記)

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