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昭和日本の外航海運
―国家癒着からオフショアへ―
Showa Japan's Ocean Shipping
−From national adhesion to offshore−

篠 原 陽 一

目次

まえがき
 これら論功のうち、戦前を扱った[1]は広岡治哉編『近代日本交通史 明治維新から第2次大
 戦まで』(法政大学出版局、1987)に掲載されたものである。戦後を扱った[2-4]は、その続刊
 となる予定であった『現代日本交通史』の原稿として、1988年1月に作成したものである。
  最近になって、その刊行が取りやめとなったので、それらをまとめて「昭和日本の外航海運」
 としてアップロードすることとした。なお、当初の予定していた統計表はかなり省略したほか、年
 号など表記の扱いは出版社の基準による(2008/10/31記)。


1 船舶改善助成施設とその効果
▼両大戦間の外航海運の構造変化▼
  第1次世界大戦後の日本経済は、戦後恐慌や昭和恐慌などで激しく動揺しながらも、世界的
 にみてかなり高い成長を維持した。そして、国家独占資本主義体制のもとで独占資本は強化さ
 れ、重化学工業化が推し進められた。それにともない、外航海運も構造変化をみせることとなっ
 た。
  第1に、輸送需要のトン数、マイル数にわたる増加にともない、船腹量はもとより、外国用船を
 含む運航量も増加し、積取比率も向上した。外貿貨物量は、「日本国港湾統計」によれば、1920
 年代(大正9-昭和5年)1.48倍、30年代(昭和5-14年)1.68倍の伸びであった。大戦前、輸入貨物量
 は輸出貨物量を下回っていたが、大戦後は、原材料資源の増加により、たとえば昭和5年には
 前者は後者の約4倍になった。日本の船腹量(総トン)は、ロイズ統計において、1920年代1.44倍、
 1930年代1.30倍の伸びであった。それらは、1920年代は外国からの大量の中古船の輸入によ
 り、1930年代は国内造船所を利用した新船建造により、増強された。また、日本船だけの積取比
 率ではあるが、明治末期約40%であったが、昭和期に入ると約70%を維持するようになる。このよ
 うにして、日本の海運企業は日本の海運市場を支配するところとなり、海運国際収支は黒字に
 転換し、生糸や綿製品に次ぐ外貨獲得産業となった。
  第2に、外航海運が産業として成熟し、種々資金が投下されるなかで、有力な社外船企業が形
 成され、オペレーターとオーナーという産業組織が確立した。大戦前においては、日本郵船など
 少数の社船企業と、社外船企業では三井物産船舶部とが、超然たる地位を占めていた。大戦
 景気により、鈴木商店船舶部、川崎汽船・国際汽船、山下汽船、太洋海運、大同海運といった、そ
 れぞれ特色を持った社外船企業が成長し、大戦後、その増大する輸送需要を積極的に取り込
 み、一定の自社船のほかに大量の国内外の他社船を用船する運航業者(オペレーター)となっ
 ていった。他方、これまた大戦景気により、群小の持船業者(オーナー)が設立された。それら持
 船業者は、大戦前、かなりの部分が外国商社に用船されていたが、大戦時にそれらと手が切
 れ、その増大した船腹をいまみた有力な社外船企業に、もっぱら貸船する傾向を強めるように
 なった。ここに、特殊日本的なオペレーター・オーナーという元請・下請関係が築かれることとな
 った。
  第3に、社外船企業も定期船に、逆に社船企業も不定期船に進出し、それらは特殊日本的な
 総合海運企業となり、激しい市場競争を行ないながら、カルテルを結成して市場を分割しあっ
 た。定期船航路は大戦前、国家助成を受ける社船企業に独占されてきた。それに、大戦後、三
 井物産船舶部や川崎汽船・国際汽船といった社外船企業が割り込みをはじめ、世界恐慌後に
 は山下汽船や大同海運も加わり広範な航路に進出するようになった。
  それは不定期船の定航化といわれ、過剰船腹を用船することで、不定期船が輸送してきた大
 量で低価格の原材料資源などの輸入貨物を基礎にして、従来であれば、社船企業が独占しう
 るはずの高価格の輸出貨物を、低運賃で併せ輸送しようとするものであった。その結果、すでに
 外国船は後退したこともあって、日本の海運企業のあいだの競争が激しくなり、なかでもアメリ
 カ航路が激烈であった。
  第4に、外航海運に対する国家助成は幼稚産業の保護育成から、企業救済や経営強化、軍備
 拡充といった観点に立って行なわれるようになり、その対象も社船企業ばかりでなく社外船企
 業にも拡大された。造船補助は、造船奨励法が明治29年から大正9年まで実施され、大戦景気
 により廃止された。その後、昭和恐慌期に、次項でのべる船舶改善助成施設として復活すること
 となる。両大戦間の国家助成の特徴は、船舶金融制度が実施されたことである。大正7年日本
 興業銀行法が改正され、造船資金の貸し出しが行なわれるようになり、さらにそれを促進する
 ため昭和5年に造船利子補給法が制定された。それらは、国内造船所の造船需要を維持する
 ため、海運企業に長期低利の資金を供給しょうとするものであった。そして、臨戦体制のもとで
 船腹を拡充するため、昭和12年より造船資金貸付補給及び損失補償、昭和14年にはそれらを
 無制限にした船舶建造融資補給及び損失補依法が制定されるまでになった。
  第5に、ILO創設を契機にして、大正10年多数の船員団体が合同して日本海員組合が結成さ
 れ、ついで大正15年海事協同会が組織され、産業レベルの労資協調関係が築かれた。
▼船舶改善助成施設の内容▼
  日本の外航海運は、戦時活況と戦後不況という浮沈を経険していたが、日本経済の対外膨
 張に支えられて、景気変動に決定的な影響を受けることはなかった。しかし、昭和4年にはじまる
 世界恐慌は、かつてない打撃となった。昭和4年から6年にかけて、外貿貨物量は11.7%減少し、
 神戸港の用船料は82まで低落し、係船率は5.8%となった。この影響は、世界の主要海運国から
 みれば、かなり軽微であった。他方、日本の造船業に対する影響はかなり深刻なものがあった。
 日本の造船業は、造船奨励法によりなんとか維持されてきたが、大戦前の世界的な建艦競争
 のもとで、補助艦を建造するようになった。そして、大戦景気で建造量を一挙に拡充しえたが、大
 戦後は海運企業が低価格な中古船の輸入を志向したため、ますます艦船需要に依存すること
 となった。しかし、それも大正10年(1930)のワシントン、昭和5年(1921)のロンドン海軍軍縮会議
 にもとづき縮小され、それに加えて世界恐慌のもとで商船需要も、昭和4-7年において33%まで
 急落するところとなった。
  海運・造船労資は、海運不況の打開をめざして陳情し、臨時海運調査会を設置させたが、政
 府に実効ある政策をとらせるまでに至らなかった。昭和7年、海運不況はともかく造船不況があ
 らわになるなかで、海事審議会が設置され、「海運業及造船業の維持振興に関する件」が取り
 上げられることとなった。同年7月、船舶素質改善助成施設が答申された。それにもとづき、逓信
 省は予算外国家負担契約を作成、大蔵省の減額査定を受け、臨時国会で承認されることとな
 った。そして昭和8年、船舶輸入許可規則が公布され、事実上、中古船の輸入が禁止された。
  それは、第1次船舶改善助成施設(通称スクラップアンドビルト)と呼ばれ、昭和7年より2年半
 計画で40万総トンを解撤し、20万総トンを建造し、それに対して1トン約50円の助成金を、総額
 1100万円を限度にして、交付しようとするものであった。その解撤の対象は1000総トン以上で船
 齢25年以上の鋼鉄汽船に置き、新造される代船は4000総トン以上で13.5ノット以上の鋼船とさ
 れた。そして、内地造船所で建造し、原則として国産品を使用し、さらに速力試験を受けることを
 求められた。また、助成金は速力に応じて45-54円の開きがあり、特に軍事的に考慮した場合、1
 トン5円の特別助成金が交付されることとなった。当初、助成申請に出遅れがみられたが、計画
 どおり、昭和10年3月までに実施された。
船舶改善助成施設による船主別代船建造量
船主
第1次
第2次
第3次
合計
総トン
総トン
総トン
総トン
三井物産
 東洋汽船
 国際汽船
 高千穂商船
 日本郵船
 吾妻汽船
 飯野商事
 嶋谷汽船
 大阪商船
 近海郵船
 山本汽船
 新興汽船
 摂津商船
 栗林商船
 大連汽船
 北日本汽船
 内外汽船
 佐藤汽船
6
4
3
1
6
1
2
1
3
2
1
1
37,054
29,363
20,966
6,774
42,973
4,180
20,101
4,575
13,401
8,943
4,180
6,479
1
 
1
 
1
 
 
 
1


 
1
1
1
1
9,204
 
6,811
 
7,386
 
 
 
6,477


 
6,486
4,836
5,418
4,216
1
1
 
 1
1
1
 
 
1
  
 


 
 
1
1
1
6,551
6,441
 
7,072
7,398
4,046
 
 
5,351
  
 
 

 

4,211
4,861
4,960
8
5
4
2
8
2
2
1
5
2
1
1
1
1
1
2
1
1
52,809
35,804
27,777
13,846
57,757
8,226
20,101
4,575
25,229
8,943
4,180
6,479
6,486
4,836
5,418
8,427
4,861
4,960
合計
31
198,989
8
50,834
9
50891
48
300,714

 第1次施設がはじまって以後、日本をめぐる海運市況は目立って回復したにもかかわらず、海
 運・造船業界の強い要望と戦時体制への考慮から、船舶改善助成施設は第2次、第3次へと切
 れ目なく引き継がれていくこととなった。第2次施設は昭和10年より、第3次施設は昭和11年よ
 り、それぞれ1年半計画・1社1船主義で、解撤・新造各5万総トン、助成金1トン30円、総額150万
 円として実施された。それらは、すでに旺盛な輸送需要が喚起されているなかで行なわれたこと
 もあって、助成申請は殺到した。そして、第1次施設と違って解撤の実施についての規制が著しく
 緩和されたため、代船は計画どおり建造されたが、解撤された船舶は第2次、第3次を合わせ4
 隻2万トンにすぎなかった。
  日本は、昭和6年(1931)の満州事変以来、すでに15年戦争に入っていたが、第3次施設が終わ
 る昭和12年には日中戦争に突入していた。それにあたって、海運・造船業界はその継続や、外
 国船輸入制限の延長、遠洋航海助成の新設、海事金融の改善、建造船価の引き下げを迫っ
 た。政府は、それらを基本的に受け入れ、海運国策予算を立てるところとなった。そのうち、優秀
 船建造助成施設は、昭和12年度より4年間で、6000総トン以上で19ノット以上の旅客船に1トン
 約200円、またそれに同じ貨物船に1トン30円の助成金を、実に総額5000万円という規模で交付
 し、それら各15万総トンを解撤なしで建造しようとするものであった。さらに、昭和13年度には、日
 本郵船に船価の60%を補助する、超大型優秀客船建造助成が行なわれた。これらのうち、旅客
 船は太平洋戦争に突入すると、海軍に買い上げ、あるいは徴用され、商用に供されることはな
 かった。
  こうした助成施設によって建造された船は、日本海運の歴史のなかでいまなお名を留める優
 秀船であるが、いずれも大海の藻屑となって消えはてた。
▼船舶改善助成施設の効果▼
 3次にわたる助成施設によって、48隻30万総トンが代船建造され、98隻42万トンが解撤され
 た。それらは、昭和7年の商船船腹量が1332隻399万トンであったので、トン数で、それぞれ7.7%、
 10.5%に相当する。解撤船は、1000総トン以上55隻、4000総トン以上3隻、6000総トン以上12隻で
 あり、船齢は30年以上24隻、35年以上28隻、40年以上25隻という老朽な近海中型船であった。
 それに対して、代船は4000総トン以上18隻、6000総トン以上30隻であり、また14ノット以上21隻、
 16ノット以上6隻、18ノット以上3隻という遠洋高速大型船であった。また、第1次施設船は昭和8-
 10年に進水または竣工しているが、その間の鋼船建造実績は203隻35万総トン、そのうち4000
 総トン以上は43隻28万トンであったので、その規模は実に69.1%に相当する。
  船舶改善助成施設は、まずは海運不況対策として行なわれたが、その規模もさることながら、
 第1次施設が3年にわたって行なわれ、しかもその途中において海運市況は回復していたので、
 その船腹調整機能としての効果は微弱であった。それに対して、いまみたように、造船需要創出
 機能としての効果は、きわめて大きなものがあった。代船建造は、三菱長崎造船所14隻、三井
 玉造船所3隻、横浜船渠、川崎造船所各5隻、浦賀船渠4隻などとなっているが、特に三菱・三井
 といった財閥系に集中している。したがって船舶改善助成施設は、すぐれて大手造船所の企業
 救済であったといえる。それら造船所は、優秀船建造助成施設をはじめとした膨大な造船需要
 を得て、世界の主要造船国に先駆けて回生し、さらに軍事産業として成長していく。
  代船建造船主は、日本郵船、三井物産各8隻、大阪商船、東洋汽船各5隻、国際汽船4隻などと
 なっており、それら4社だけで全トン数の66.3%を占める。船舶改善助成施設は、いままでの国家
 助成が社船企業や三井物産に集中したことと対比して、社外船企業にも配分されたとして評価
 されるが、なおやはり大手海運企業保護の性格は貫かれている。助成施設船は、遠洋定期船
 むきの船型であった。事実、第1次施設船31隻のうち13隻がニューヨーク航路に配船されてお
 り、そのなかでも日本郵船は6隻すべてをそれに投入している。大阪商船は海運不況を積極的
 に乗り切るため、すでに昭和5年以来畿内丸型高速船を配船していた。それに立ち遅れていた
 日本郵船は、助成施設を最大限利用して、それを回復しようとしたのである。その他、三井物産
 など社外船企業も、自社あるいは他社の助成施設船を定期船航路に配船している。このよう
 に、船舶改善助成施設は定期船船隊を整備強化するとともに、社外船企業の不定期船の定航
 化を促進させるという効果を果たした。
  昭和8年当時、大型船の新造船価は1重量トン当り100-150円(1総トン当り150-225円)であっ
 た。それに対して、第1次の助成金は1総トン当り約50円であるので、それは船価の20-30%にあ
 たる。さらに、自社船を解撤すれば同じく約20円の収入があるので、代船建造船主は船価の50-
 70%で新造船を手に入れることができた。第1次施設の代船建造船主のうち、自社船を解撤した
 のは6社にとどまった。しかも、それを代船に見合うだけ解撤したのは日本郵船と大阪商船のみ
 で、他は41社71隻に及ぶ他社船を1重量トン当り30円ほどで購入し、代替解撤した。その他社船
 は、主として系列会社や被用船会社の持船であった。代船建造船主は、助成施設を、それらに
 対する1つの救済措置として利用し、自らの企業規模の縮小をそれらに転嫁した。船舶改善助
 成施設は、オペレーター・オーナー関係を強化するという効果をあげた。
  この船舶改善助成施設によって、失業船員の増加が明らかであった。それに対し、海員組合
 幹部は海運業界が沈没するよりは、それを国家的観点から受け入れることの方が良いと賛成
 し、あわせ失業船員の救済費として助成金から1総トン当り2.5円を支出することを要求し、それ
 を認めさせた。この点で、同施設は組合幹部を取り込むことで、船員の反対を押さえこみ、船員
 の雇用調整を行なうことができたという効果も果たした。
  このように、船舶改善助成施設は様々な効果を果たしたが、結論はこうであろう。この助成施
 設の実施にあたって、海運業界に不快感を持っていた高橋是清蔵相を、船成金の1人で代議士
 の内田信也が説得したとされる。しかし、高橋財政は軍需費や土木費を膨張させて不況を克服
 し、低為替政策でもって輸出産業を振興させようとする、スペンデング・ポリシーであった。したが
 って、同施設はこの高橋財政の重要な柱として行なわれ、海運産業の軍事化を推し進めようと
 するものであったといえる。それは同時に、戦争のたびごとに膨張してきた、海運産業の破滅に
 繋がるものであった。

2 計画造船政策と商船隊の復興
▼船腹の喪失と占領統制▼
  昭和16年(1941)12月、太平洋戦争開戦当時の日本船腹は、戦前最大の2692隻630万総トン
 であった。その後、敗戦までに1303隻335万総トンが建造されたが、戦争海難などにより2568隻
 843万総トンが喪失した。敗戦時の日本船腹は、796隻134万総トンにすぎなくなり、そのほとんど
 が戦時標準船であった。日本海運は、日清、日露、第1次世界大戦を機会に船腹を拡充してきた
 が、その総決算である太平洋戦争において壊滅した。昭和16年の汽船船員は7万6100人であっ
 たが、その後10万1930人が駆り出され、2万6100人が徴用された。そのうち、戦死者3万592人
 (軍徴用者を含めると5万2870人)、遭難船員は延べ15万2300人に及んだ。その結果、生き残り
 船員は7万900人にすぎなかった。船員の戦死率は、陸軍20%、海軍16%をはるかに上回る43%で
 あった。船員は、日本軍国主義の最大の犠牲者であった。
  日本海運は、ポツダム宣言にしたがい、非軍事化の厳しい占領統制が加えられることになっ
 た。昭和20年(1945)9月、GHQ指令第2号にもとづき、100総トン以上の商船は連合軍最高司令
 官の監督を受けることになり、その指揮下にあるSCAJAP(日本商船管理局)に運航などを管理
 されることになった。そして、日本側の海運統制機関として、CMMC(日本商船管理委員会)の設
 置を命令してきたが、日本政府は戦時統制機関である船舶運営会をもって代えることにした。
 また、昭和21年(1946)11月のポーレー対日賠償最終報告書は、日本の船腹保有費を150万総ト
 ン以下とする、その船舶は船型5000総トン以下、船速12ノット以下、航路は近海に限るとし、5000
 総トン以上の船舶114隻86万総トンは賠償として取り立てるという、きわめて苛酷な内容を指示
 した。
  他方、昭和20年11月の会社の解散の制限に関する勅令、同年12月のGHQの制限会社一覧
 表設定に関する覚書によって、主要な海運会社39社が定款の変更、資本金の変更、資産の譲
 渡などの制限を受けることになった。また、同年11月GHQの戦時利得の没収ならびに国家財政
 に関する覚書にもとづき、戦時補償金の交付は打ち切られることになった。それと同時に、戦時
 中、喪失船に対する戦時保険金、戦時補償金、裸用船料などは日本興業銀行に特別預金され、
 その額は80杜26億円になっていたが、それが戦時補償特別税として徴収されることになった。
 そして、昭和21年4月のGHQの政府保証債及び借入金に関する覚書によって、海運助成は禁
 止されることになった。こうした措置は、ヨーロッパ海運が戦時補償を受け、またアメリカの戦時
 建造船を安価に払い下げられていたのにくらべ、日本海運の戦後復興を大きく制約した。
  敗戦にともなって、戦前を上回る船員が残ったが職場はなく、帰郷していた。ところが、GHQの
 命令によりそのかなり部分が駆り立てられ、アメリカの貸与船による復員輸送に従事した。それ
 が終わると、政府・船舶運営会はその所属船員9万2000人のうち4万2000人の解雇を発表した。
 それに対し、昭和20年10月に産業別労働組合として再建された全日本海員組合は昭和21年9・
 10ゼネストを行い、それを一応阻止した。しかし、その闘争のなかで生じた路線対立に乗じて、約
 3万5000人がなしくずしに解雇されていった。船員は、戦時中ばかりでなく戦後になっても、犠牲
 を支払わせられた。それは海運資本の蓄積基盤の戦後再編であった。
▼占領政策の転換と民営還元▼
  昭和22年(1947)3月、世界の勤労者・国民の闘争の発展を恐れたアメリカはトルーマン・ドクト
 リンを発表し、世界的規模で反共政策を展開しはじめる。翌年1月、ロイヤル陸軍長官は対日占
 領政策の目標について「今後、極東に起こるかもしれない新たな全体主義戦争の脅威に対し、
 その防壁の役目を果たすに十分なほどの強力かつ安定したデモクラシーを、日本に築き上げ
 ることである」と強調した。このアメリカの占領政策の転換は、昭和24年(1949)10月に中華人民
 共和国が樹立されたことで決定的となった。
  そうしたなかで、日本海運に対する占領統制も次第に緩和されていった。昭和23年(1948)3月
 のストライク日本産業賠償報告は、日本が「海上輪送と外国貿易に依存する海運国である」の
 で、昭和28年(1953)までに船腹を400万総トンほど保有させ、また年間40万総トンの建造能力を
 残置させるべきであると勧告した。きらに、同年5月のドレーバー(ジョンストン)報告は「経済復興
 5カ年計画」と銘打ち、「日本人は常に能率的な海運造船業者であった……6千トン以上の船舶
 建造を制限している現在の制限は撤廃して、日本自身が使用する目的ならびに外国バイヤー
 との契約にもとづいて船舶を建造することを許すべきである。日本の海運は、潜在的戦争能力
 となるから制限されなければならないという議論が行われている。しかし、日本の陸海軍はすで
 に廃止されており、従って単に商船隊が存在するからといって、将来日本が侵略する恐れを抱く
 必要はない」とし、日本の船腹保有量の制限は撤廃すべきであるとした。
  昭和23年9月、GHQは一般船舶の裸用船による国家使用から、船舶運営会による定期用船
 への切替に関する覚書を出した。それにもとづき、翌年4月から680万総トンのオーナー業務は、
 それぞれの海運企業に移管された。そして、昭和25年(1950)3月、GHQは@同年4月1日をもって
 船舶運営会による定期用船方式を廃止し、A全船舶は船主に返還し、民営とする、Bただし、す
 べての商船は引続きSCAJAPの行政管理下に置くという覚書を出した。これをもって、日本海運
 の長かった戦時・占領統制は事実上終了し、民営還元されることになった。これら一連の措置
 は、日本海運の民間ベースでの戦後復興の道をひらくことにあったが、ドッジ・ラインにもとづく
 緊縮財政のもとで船舶運営会への補助金を縮減あるいは廃止すること、そしてアジアにおける
 戦争に日本海運を協力させることを目的としていた。
  日本海運は民営に還元されたが、日本経済はいまだ復興しておらず、また外航復帰は大幅
 に制限されていたため、20万重量トンの係船を余儀なくされた。それに対し、政府は係船補助金
 などを支給し、また低性能船舶買入法を制定した。こうした状況を解決したのが、朝鮮戦争の勃
 発であった。
▼計画造船の発足と海運復興▼
  昭和21年12月、経済安定本部は傾斜生産方式を決定し、翌年1月復興金融金庫を発足させ
 た。その一環として、昭和22年5月船舶公団が設立され、復金融資を一部取入れて、計画造船制
 度が発足した。その後2年間にわたり、87隻17万総トンが新造され、また戦前からの続行船67隻
 14万総トンが完成した。これら船舶は、内航小型船がほとんどであり、自己資金の多い船主に
 割当てられた。こうして、日本海運は財政資金の投入により、その戦後復興がはじまったのであ
 る。
  この計画造船は、前節でみたアメリカの占領政策の転換のもとで、外航大型船の建造へと切
 替えられた。昭和24年度の第5次計画造船から(昭和27年度の第8次計画造船まで)、アメリカの
 対日援助見返資金特別会計からの直接投資に変わった。朝鮮戦争の勃発は、船腹需要を著し
 く喚起した。それを受けて、昭和25年12月、政府は「外航船腹増強対策」を決定し、建造規模を追
 加した。見返資金の融資条件は、建造資金の50%、金利7.5%、利払延期2年、元本据置3年、償還
 15年であった。それにより、116隻119万総トンが建造された。それに並行して、54隻33万総トンの
 外国船が輸入され、一挙に外航船腹が拡充された。
  朝鮮戦争がはじまると、昭和25年5月71.4であった不定期船運賃指数は、昭和26年5月には
 203.8に騰貴し、海運ブームをもたらした。そのなかで、海運企業も大きな利益を獲得した。しか
 し、その休戦とともに日本経済は不況に落込み、海運企業も経営不振に陥ったが、そのなかで
 も造船需要を失った造船企業がより深刻であった。
  それらを救済するため、政府は昭和28年(1953)1月、外航船舶建造融資制子補給及び損失補
 償法を制定し、また8月、船質改善利子補給法、造船用鋼材価格引下げ措置、租税優遇措置な
 どを定めた。昭和28年度の第9次計画造船は、建造資金の70%が昭和26年4月に設立された日
 本開発銀行から融資され、利子徴収猶予2.5%、利子補給1.5%を受け(支払金利3.5%)、さらに市中
 融資に利子補給5.95%(支払金利5%)を受けて建造された。なお、この計画造船と利子補給法改
 正をめぐって、大規模な造船疑獄が発生した。
  昭和20年代の海運政策は、昭和27年11月の海運造船合理化審議会(以下、海造審)の答申
 「今後の船舶拡充方策について」がいうように、「今日の世界政情下において如何なる事態に遭
 遇しても安定した日本経済の運営が期されるに必要な日本船の船腹量の確保を図ること」に
 あった。それは同時に、造船産業に安定需要を与えて、日本経済の重化学工業中心の発達を
 促すことにあった。第5次計画造船以来、運輸省は過去の実績、本船の採算、返済能力を基準
 にして、対象船を決定してきたため、1社1隻という総花主義をまぬがれえなかった。しかし、海造
 審は昭和26年11月答申においてオペレーター優先主義、昭和28年1月建議において定期船重
 点主義を打出した。それにともない、計画造船は戦前から大手企業により多く割当てられるよう
 になった。第5次から第10次計画造船までの建造船198隻のうち、日本郵船13隻、大阪商船、飯
 野海運各12隻、三井船舶10隻、大同海運9隻、山下汽船8隻、三菱海運、日本汽船、東邦海運、
 川崎汽船各7隻、日産汽船6隻、日東商船、日鉄汽船各5隻が、それぞれ割当てられた。
 計画造船建造状況
昭和
年度
次別 建造量 建造資金
(百万円)
隻数 千総トン
 22
  23
  24
  25
  26
  27
  28
 29
 30
  31
  32
  33
  34
  35
  36
1-2
  3-4
   5
   6
   7
   8
   9
  10
  11
  12
  13
  14
  15
  16
  17
 51
 36
   42
  35
  48
  36
  37
 19
 19
  34
  46
  25
 19
 16
  27
 78
 95
  275
  243
  374
  293
  312
 154
 184
  314
 415
  257
 180
 192
  498
 5,275
 8,815
  21,884
  22,122
  52,573
  43,060
  44,500
 18,420
 19,041
  35,772
 63,296
  27,111
 19,893
 19,346
 40,940

▼外航復帰と航路の伸長▼
 日本船の外航就航は、SCAJAPの管理のもとに置かれ、それから1回ごとに配船許可を取り、
 さらに相手国から入港許可を受け、しかも日の丸ではなく、赤と緑のSCAJAP旗を掲げさせら
 れ、時にはアメリカ将校の上乗りさえも行われた。昭和23年ごろよりフィリピン、インド、ペルシア
 などに就航して行くようになった。
  朝鮮戦争を契機にして、その2か月後の昭和25年8月には北アメリカ各港への包括人港許可
 が与えられ、それが次第に拡大されていった。そして、昭和25年11月には、大阪商船の南アメリ
 カ定期航路が認められ、翌年6月には日本郵船などのニューヨーク定期航路が認められ、ほぼ
 全面的に外航復帰が進んだ。この日本船の外航復帰に対して、先進海運国は否定的な態度で
 のぞみ、その不公正競争を危惧した。アメリカ政府は、日本経済をアジアの反共基地として再建
 するにあたり、日本海運の参入は不可欠として、そうした主張をしりぞけた。
  昭和27年4月の講和条約の発効にともない、GHQから商船管理権が返還され、日本海運は自
 由な海運となった。その時、日本船腹量は1052隻251万総トンとなっており、世界第8位に帰り咲
 いていた。日本経済は、対米従属を基本において、アメリカが支配する原燃料資源を世界から
 輸入して、重化学工業を発達させ、労働集約商品を輸出することで、戦後再建を成し遂げた。そ
 れに応じて、日本海運はまずアメリカ向け定期船航路が再開され、ついで不定期船航路が急速
 に整備されていったのである。
  その結果、日本船の主要な就航区域は遠洋区域となり、輸送距離は伸長していった。昭和30
 年の日本船の輪送量は輪出335万トン、輸入1911万トン、それらの積取比率は43.5%、52.1%とな
 った。輸出は品目が変化し、戦前水準をかなり下回ったが、輸入ほぼ戦前水準に到達し、石油、
 鉄鉱石、小麦、木材が著しく増加した。こうした外航海運の戦後再建も、日本経済にそれにくらべ
 れば緩慢であった。
▼機帆船統制とその解除▼
  内航海運の主要な業種である機帆船海運もまた戦時統制が加えられ、多数の船主の持船の
 多くは国家使用となり、木船海運協会と地方運送会社といった統制機関に組入れられてきた。
 さらに、戦時標準型の大型機帆船が多数建造され、汽船企業に払下げられた。機帆船の戦争
 被害は、大型船においては激しかったが、戦争末期には輸送需要が激減したこともあって、小
 型船は軽微であった。そのため、敗戦後は船腹過剰となった。
  昭和21年5月から7月にかけて、戦時統制機関の解散、船舶の国家使用の解除が行われた
 が、日本政府はGHQの要求に応じて国内における計画な輸送を確保する一環として、機帆船
 海運の戦時統制を戦後統制として継続した。傾斜生産方式のもとで、機帆船は戦前同様、主と
 して石炭輸送に従事するようになり、それに燃料油が優先して配給され、公定運賃も大幅に引
 上げられた。こうした戦後統制は、国内輸送に限定された汽船企業に軸送需要を確保し、その
 利益を保障するものであったが、特に昭和23年から24年にかけて零細な一杯船主にも多大な
 利益をもたらした。
  しかし、すでにみた占領政策の転換とドッジ・ラインの実施、さらには昭和24年4月、GHQから燃
 料油の節約とその汽船優先が指示された。同年7月、大型機帆船に対する燃料油割当てが大
 幅に削減され、戦時中参入した汽船企業は撤退を余儀なくされた。さらに、陸上運賃にくらべ割
 高となった海上運賃の是正を荷主から要求され、同年9月公定運賃は廃止となった。それはドッ
 ジ不況にあいまって、運賃を激しく崩落させた。このようにして、戦後統制に代わる中小企業政
 策が確立されないまま、零細一杯船主がオペレーターを媒介とした荷主の下請輸送に組込ま
 れる体制が用意された。

3 外航海運の再編成
▼原燃料資源輸送の増大▼
  世界経済は、昭和30年(1955)前後より好況局面に入り、世界の原燃料資源の輪送需要が高
 まり、海運市況は目立って上昇しはじめた。そうした状況のもとで、昭和31年(1956)10月スエズ
 戦争がはじまったため、海運ブームとなった。タンカー運賃指数は、同年7月182であったが、12
 月には435に急騰した。世界の海運企業は高い利益を享受するとともに、大量の新造船を発注
 して船腹需要に答えた。しかし、世界経済は昭和32年から33年にかけて不況局面に入り、それ
 に加えてスエズ戦争が終わったため、運賃指数は33年4月には39まで急落し、海運不況に落ち
 込んでいった。この海運不況は、船腹供給圧力が強かったため、戦後はじめて大量の係船を発
 生させ、長期化した。日本海運もまたスエズ・ブームを享受し、戦後はじめて株式配当を行った
 り、自己資金船を建造したりするまでになったが、ブーム終わると直ちに経営困難に陥っていっ
 た。
  日本経済は、昭和30年より「高度成長」段階に入り、さらに昭和35年(1960)の新安保条約の締
 結にともない、その対米従属がよりいっそう強まるもとで、重化学工業を飛躍的に発達させるこ
 とが意図された。それに応じて、大量の原燃料資源が輸入されることになったが、それはいまま
 でにない大量の船腹が必要となり、しかも低廉かつ安定した輸送を要請した。しかし、日本船腹
 は昭和36年(外航船腹に限れば33年)に、戦前水準を上回っていたにすぎなかった。
  昭和35年12月策定の「国民所得倍増計画」は、昭和45年度における貿易量を輸出2260万ト
 ン、輸入2億360万トンと見込み、その所要船腹量を1335万総トンとし、それを確保するため970
 万総トンの外航船を建造する必要があるとした。それは、当時の外航船腹を2.6倍、建造規模を
 2-3倍に引き上げようとするものであった。それにもとづき、昭和36年6月運輸省は「船腹整備5
 カ年計画」を策定した。それらは、海運産業を戦後復興から「高度成長」の段階に、政策的に押
 し上げようとするものであった。
  しかし、そうした経済計画を実現するだけの企業基盤は、いまだ十分に整備されていなかっ
 た。昭和35年12月、日本船主協会は「日本海運の強化について」を発表し、「わが国海運は……
 資本費の重圧のため、国際競争上きわめて不利な立場に置かれている。国民経済の要請にこ
 たえ海運を発展させるためには」、既往計画造船の財政資金の金利を4年間免除しかつ市中
 資金に5%の利子補給を行うこと、また今後の新造船資金の金利に対し財政資金には3.5%、市
 中資金には5%の利子補給を行うことを要望した。こうした要望は、日本経済が重化学工業への
 設備投資に追われていたので、簡単に認められるところではなかった。しかし、海運産業が船腹
 を拡充して低廉で安定した輸送用役を提供しなければ、重化学工業の成長は期しがたいという
 関係にあった。
▼海運集約・再建整備の内容▼
 昭和36年(1961)11月、海運造船合理化審議会(以下、海造審)は「海運対策」を答申し、「わが
 国の海運企業の現状をみると・・…・その基盤は著しく脆弱であり、現状のままでは大部分の企
 業に対して、市中金融機関として今後必要とする厖大な船舶拡充資金を貸出すことはきわめて
 困難である。こうした観点から、当審議会は海運企業がより徹底した合理化計画の実行即ち経
 費の節減は勿論のこと、進んで企業間の協調、提携、合併、場合によっては減資などのような措
 置をもとることを要請する」とし、海運助成の強化とともに、海運企業に5年間で償却不足を解消
 する整備計画を提出きせることなどを提案した。
  それにもとづき、海運企業の整備に関する臨時措置法は立案されたが、海運企業は助成内
 容が乏しいわりに合理化要件が厳しすぎると反対し、また荷主企業は低廉で安定した輸送用
 役を保障する産業再編成ではないと反対したため、廃案となった。そうした状況を打開するた
 め、昭和37年(1962)12月、海造審は次のような建議を行った。
  この建議にもとづき、翌年5月、海運業の再建整備に関する臨時措置法および外航船舶建造
 融資利子補給及び損失補償法、日本開発銀行に関する外航船舶建造融資利子補給臨時措
 置法の一部改正、いわゆる海運2法が成立し、世界に類をみない産業再編成が実施されること
 になった。
  この海運集約・再建整備にあたって、海造審海運対策小委員会(通称、7人委員会)の脇村義
 太郎(小委員長、東大名誉教授)、植村甲午郎(経団連副会長)、太田利三郎(日本開発銀行総
 裁)、宇佐美洵(三菱銀行頭取)、中山素平(日本興業銀行頭取)、稲葉秀三・土屋清(日本産業新
 聞)をはじめ、海造審海運企業整備計画審議会の太田垣士郎(関西電力会長)、大和田悌二(日
 本曹達社長、元逓信次官)、佐々木周一(日本海難防止協会、元三井船舶社長)が、大きな役割
 を果たした。
昭和37年12月13日

  運輸大臣 綾部 健太郎 殿
                               海運造船合理化審議会
                               委員長 石川 一郎
  海運造船合理化審議会は、海違対策について別紙のとおり建議する。
  建 議 先
  内閣総理大臣 池田 勇人
  大 蔵 大 臣 田中 角栄
  通商産業大臣 福田 一
  運 輸 大 臣 綾部 健太郎
  郵 政 大 臣 手島 栄
  経済企画庁長官 宮沢喜一
  海運対策について
 わが国海運が国民経済の進展に対応するには、企業規模を拡大してその基盤
 を強化し、国際競争力のある船腹を拡充していくことが強く要請される。
  然るに、わが国海運界の現状は、多数の小規模の企業が乱立し、その間に過
 当競争か行なわれており、そのため収益力の低下、投資力の不足を来している
 ので、これらの企業を集約し、過当競争を排除するとともに、企業規模の拡大に
 よる投資力の充実をはかり、速かに企業の自立態勢を確立することが目下の急
 務と考える。
  そこで、左記により、海運企業の集約を海運界自らの努力とその関係者の協
力 により進めることを要請するとともに、特に政府は、海運企業の自主的努力に
呼 応して、集約化による海運企業の自立態勢を速かに確立するために必要な措
置 を行なうべきである。

第1 海運企業の集約化
  (1) 船舶の運営単位が保有量50万重量トン以上扱量を含めて100万重量トン以
 上の規模となるように企業の集約をはかる。
  (2) 集約は合併の形態による。但し1つの企業が他の企業の3割程度の株式を
所 有して企業の業務活動、人事等について統制が行なわれ一元的に通常する
形態 (資本支配)をとるときは合併の場合と同様と認定する。
  その認定は海運企業整備計画審議会において行なう。
  (3) 合併或は資本支配の計画は運輸大臣に提出する海運企業整備計画に記
 載し当該整備計画の承認があってから1年以内に実行されるべきものとする。
 第2 集約化に伴う政府の助成措置
  前項により集約した企業に対し、次の助成措置をとる。
 1 新造船に対する助成
  開発銀行融資による新造船の建造は原則として、集約した企業に限定すると
共 に左の助成を行なう。
  (1) 利子補給
   イ 補給率は船主負担金利が開銀については4分、市中金融機関については
6分となる率とする。
   ロ 補給期間は開銀については貨物船15年、油槽船13年とし、市中金融機関
 については7年とする。
   ハ 利子補給金の国庫納付の条件は、利益率が1割(配当率約8分)以上となっ
 た場合は当該期の補給を停止し、1割5分(配当率約1割2分)以上となった場合、
 過去にうけた利子補給金を国庫に納付させるものとする。
   ニ 右の措置は昭和37年度開銀融資による新造船に対しても遡及して適用す
 る。
  (2) 財政資金の融資比率
  開銀融資による新造船に対する融資比率は定期船については8割、その他の
ものについては7割とする。
 2 既往の債務についての利子猶予措置
   イ 昭和34年度以前の開銀融資による新造船に関する開銀融資残高の全額
 についての利子を5ケ年間猶予する。
   ロ 右の利子猶予額の2分の1は、右の期間毎年一般会計から開銀に補填す
 る。
   ハ 猶予された利子は、企業の利益率が8分(配当率約6分)以上となった場合
 は当該期の猶予を停止し、1割2分(配当率約9分)以上となった場合は、既に猶予
 された利子を開銀に支払わせる。
   ニ 市中金融機関の融資についても、日本開発銀行の利子猶予措置に対応
 し、利子猶予措置がとられることを期待する。
   ホ 利子猶予の措置を受けようとする企業の整備計画に関する審査の基準
 は、集約化実施後2年以内に自立体制にはいることを目途とする。
 第3 その他
  イ 戦標船及び老朽船の解撤と代替建造を促進するため財政資金の確保をは
 かる。
  ロ 船舶乗組定員の合理化を更に推進するために、船舶の自動化を促進すると
 ともに船舶職員法及び電波法の改正を行なう。
  ハ 船舶の登録税、固定資産税の軽減をはかるとともに、海運企業の集約化を
 行なう者に対しては船舶取得に関する登録税を免除する等税法上の優遇措置を
 とる。

▼中核6社の発足と企業集中▼
  海運再建整備法は、次のような集約方法を定めた。@中核会社 船舶運航事業(オペレータ
 ー)を営なむ会社の合併により設立され、50万重量トン以上を保有し、100万重量トン以上を運
 航する会社。
 A系列会社 船舶運航事業または船舶賃渡業(オーナー)を営む会社で、中核会社がその発行
 株式の30%を保有し、その事業を支配する会社。B専属会社 中核会社または系列会社に対し、
 その所有する船舶の全部を、長期貸渡あるいは運航委託し、役員派遣や債権保証を受ける会
 社。
  そして、これら会社は集約5年以内に減価償却不足を解消する整備計画を運輸大臣に提出
 し、その承認を受けることが要求された。昭和39年(1964)2月、運輸大臣は整備計画を受理した
 後、海運企業の経営合理化について、@中核会社の定期船航路の整理と配船の調整、A会社
 組織の簡素化・能率化、B従業員の年齢構成の是正、人件費増加の抑制、Cトップ・マネージメ
 ントの合理化、D貨物員、燃料・船用品費、一般管理費の節減を通達した。
  昭和38年(1963)12月末をめざして企業集約が進められ、昭和39年4月紆余曲折のうえ、主とし
 て銀行系列ごとに、次のような中核会社とそのグループが発足することになった。三菱銀行系
 は日本郵船が三菱海運を吸収合併し、三井・住友銀行系は大阪商船と三井船舶が対等合併
 し、第一銀行系は川崎汽船が飯野海運から分離した飯野汽船を吸収合併し、日本興業銀行系
 は日東商船と大同海運が対等合併してジャパン・ラインとなり、三和銀行系は山下汽船と新日
 本汽船が対等合併し、富士銀行系は日本油漕船と日産汽船が対等合併して昭和海運となっ
 た。こうした中核6社のうち、大阪商船三井船舶と川崎汽船の設立がもっとも難航したが、財界・
 政府の強力な指導のもとで合併に漕ぎつけた。
  その結果、外航海運会社130社のうち95杜が集約に参加し、中核6社のもとに系列会社27杜、
 専属会社55社が配置された。それらの保有船腹は658隻936万重量トンとなり、外航船腹の83%
 に相当した。中核6社の自社船は57%に及び、船腹の集中が一挙に達成された。そして、日本郵
 船グループはそれら集約船腹の30%、商船三井グループは20%を支配し、かつ定期船航路の航
 海数をそれぞれ26%、30%支配するところとなり、他の中核会社を圧倒する地位を築いた。
  海運助成は集約参加企業にのみ与えられ、大量建造が行われたことであって、中核6社の企
 業規模は拡大し、整備計画終了時にはその保有船腹は日本郵船が世界第1位、商船三井が第
 2位というように、急成長を遂げたのである。
  海運集約・再建整備は、日本経済が「開放経済体制」を目前にして、財界・政府の強力な介入
 により、産業再編成=産業構造の高度化をはかり、国際競争力を強化する一環であった。そし
 て、海運大企業を企業合併で創設し、それに海運産業を支配させようとすることにあった。
  その場合、大企業を企業合併で創設し、それが中小企業を人的にも資本的にも支配している
 点でトラスト化であり、同時に小数になった大企業が協調しながら、海運市場を支配している点
 でカルテル化であった。さらに、海運助成をいままでになく手厚くし、それを中核6社に集中し、そ
 れを通じて重化学工業に低廉で安定した輸送用役を提供させた。
海運集約前後の船腹量
昭和36年9月
昭和44年3月
会社数
隻数
千重量
トン数
会社数
隻数
千重量
トン数
中核会社
 系列会社
 専属会社
6
 27
 55
343.77
 149.5 
 164.5 
5,370
 2,525
 1,470
6
 29
 37
536.6
 225.7
 145.8
14,691
 6,312
 1,766
88
657.77
9,365
72
908.1
22,769

▼再建整備の成功と船員の困難▼
  海運集約とともに、海運企業は手厚い国家助成を受けて再建整備に取組み、また原燃料資
 源輸送も増大に対応して船腹を拡充していった。整備計画終了時の昭和44年(1969)3月の6グ
 ループの総船腹量は908隻2276万重量トンになり、集約確認時の2.4倍となった。その増加のう
 ち、中核6社は70%を占めたが、系列会社は28%、専属会社は2%にとどまった。また、整備期間中、
 294隻928万総トンの計画造船が行われたが、そのうち中核6社は71%を獲得し、系列会社は
 25%、専属会社は4%にすぎなかった。
  その解消が整備計画の大きな目標であった減価償却不足額は、全体で629億円(長期借入
 金償還延滞額934億円)であったが、中核6社はいち早く昭和42年3月末に、系列・専属会社は44
 年3月末に計画通り解消した。そして、償却不足を解消したうえで、3089億円の普通償却、さらに
 1026億円の特別償却を実施した。
  これら4745億円の償却実施額の源泉のうち、国家助成が851億円にのぼっているが、それは
 償却不足額を上回っており、不足解消に大きな役割を果たした。そのなかで、中核6社の償却前
 利益は償却不定額および普通償却を上回っており、国家助成は特別償却の源泉となり、手厚
 い助成を超えた、まさに利益の補給となっていたのである。その結果、税引き後の当期利益は
 中核6社では昭和40年より黒字に転化し、さらに向上し、時期の遅れはあったものの、系列・専
 属会社もそれにならった。
  スエズ・ブーム以後とだえていた株式配当も、昭和40年日本郵船など2社が再開し、昭和44年
 3月期にはそれを中核6社、系列7社、専属4社が実施していた。
  昭和44年版『海運自書』は、「海運再建整備期間中の海運政策は、深刻な経常不振にあえい
 でいたわが国海運企業の再建をかかりつつ、国民経済の要請する外航船舶の大量建造を推
 進するという2つの目標をもつ画期的なものであったが、すでにその目標はいずれも達成され
 た。……これは、世界とくにわが国の経済成長を背景に海運市況の好転があったとはいえ、諸
 種の国家助成と海運企業の経営努力によってはじめて達成されたものといえよう」と総括した。
  この自画自賛には、1つの大きな見落としがある。それは、海員組合がスエズ後の長期不況を
 乗切るため、海運企業の資本家的「合理化」に協力してきたことである。昭和36年2月、乗組定
 員中央協定が撤廃され、それに船舶の自動化が進み、乗組定員は大幅に削減されていった。
 また、昭和38年5月、海員組合は賃上げ闘争を5か月延長し、海運2法の成立を促進した。そし
 て、昭和39、40年には賃上げ闘争を放擲した。こうした海員組合のあからさまな労使協力の結
 果である船員の低賃金・労働強化のもとで、海運集約・再建整備は成功したのである。

4 世界一の商船隊と船員の行方
▼高蓄積と長期ストライキ▼
  海運企業は、昭和39年(1964)の海運集約・再建整備以後の海運助成、大量建造、市況堅調、
 そして低船員費に支えられて、大きく成長した。同年から昭和50年(1975)にかけて、世界船腹は
 2.3倍、OECD諸国は1.8倍、便宜置籍国は4.5倍、東欧諸国は2.9倍、その他諸国は2.5倍の伸びで
 あった。それに対し、日本船腹は1081万総トンから3974万総トンとなり、3.7倍(外航船腹は4.3倍)
 という著しい伸びとなり、世界船腹に占める比率は7.1%から11.6%に上昇した。日本海運が、戦争
 による壊滅から世界第1位の船腹保有国になったことは、1つの驚異である。
  中核6社の高成長・高蓄積ぶりをみると、昭和39年から49年(1974)にかけて、保有船腹は531
 万重量トンから2129万重患トンへと4倍、運航船腹(保有船と内外用船)は5.8倍の伸びをみせ、
 それらが日本海運に占める比率はそれぞれ52.2%、64.4%となった。また、総資産は3543億円か
 ら1兆4802億円と4.2倍の伸びをみせたが、陸上従業員は5437人から6593人へと微弱な伸びに
 とどまり、他方海上従業員は1万7528人から1万6180人へと減少した。
  純利益は、昭和40年度149億円にすぎなかったが、45年度502億円、49年度751億円へと急速
 に増加した。昭和39年から49年にかけて、特別償却を含む各種引当金は150億円から2590億
 円へと激増したが、それは日本開発銀行の借入金の50%、人件費の2年分に相当するものであ
 った。そして、社外への投資額は4.9倍伸びて1861億円、有価証券保有額は22.4倍伸びて1029
 億円となった。資金繰りは、昭和40年代前半までは設備費は内部資金でもっては運用できず、
 外部資金(主として財政資金)に依存せざるをえなかった。しかし、後半になると、それは内部資
 金でもって有り余るようになり、借入金は投融資に回しうるようになった。
  このように、中核6杜は手厚い海運助成を受けて内部留保を達成し、それを必要としなくなるま
 でになった。そこでようやく、昭和50年度以降の新造船に対する利子補給は停止され、その返還
 きえ行われるようになった。そうしたなかにあって、船員の労働条件は低賃金、週56時間制、下
 船休暇40日弱といった苛酷な状況におかれてきた。それは、海員組合の労使協力の結果であ
 った。それに我慢できなくなった船員は下部組合員運動を展開する。昭和47年(1972)4月、海員
 組合は「人間性の回復」というスローガンを掲げて、92日にも及ぶ長期ストライキを打抜き、大き
 な勝利を収める。それ以後、海員組合の反共・労使協調路線は大きく修正され、大幅賃上げ、産
 業別基本給制、週休2日制などを獲得し、船員の労働条件はようやく世間並となる。
▼海運政策の転換、海外進出の許容▼
 昭和40年代に入ると、日本経済は資源多消費型の異常ともいえる「高度成長」をみせるが、そ
 れにともないますます大量の船腹が必要となった。昭和45年(1970)11月、海運造船合理化審議
 会(以下、海造審)は「今後の外航海運対等について」を答申し、「現行の外航船舶建造計画は、
 経済成長率年平均8.5%を前提としていたが……新経済社会発展計画においては……10.6%を
 予想しており」、「石油、鉄鉱石、石炭等の原材料物資を中心とする輸出入量はきわめて膨大な
 ものとなり、その安定輸送の確保が今後わが国産業の発展によって不可欠の要件である」。
  そこで、昭和44年から49年までに2800万総トンの船舶が建造されたとしても、「今後かなり大
 量の外国用船の手当が必要となる」が、「従来、あまり行われなかった外国船の裸用船方式の
 活用」、「自己資金船の建造、海外投資等による国際海運活動の強化等、海運企業の積極的な
 自主活動が推進される」べきであるとした。
  従来の海運政策は、財政資金を投入して日本人船員が乗る日本船を建造し、輸出入物資の
 積取比率を引上げることにあった。この昭和45年答申は、海運企業の海外進出を許容したこと
 において、大きな転換となった。この許容をえて、海運企業はリベリアやパナマに海外船腹保有
 会社を設立し、便宜置籍船(仕組船)を建造したり、日本船を便宜置籍国に移籍あるいは海外貸
 渡して、チャターバック船あるいはマルシップとして利用するようになる。それら船舶は、主として
 便宜置籍にともなう租税制の活用と韓国、フィリピン、台湾などの低賃金船員の雇用によって、
 高収益をえようとするものであった。
  こうした海外進出は、昭和46年(1971)8月のドル・ショックとその後の円高傾向、そして昭和47
 年の海員組合の長期ストライキ後における船員費の上昇のなかで、ドル建経費志向が強まり、
 さらに昭和40年代後半における運賃・用船料の高騰に刺激されたことで、拡大していった。
▼脱日本人船員経営とその政策支持▼
 昭和50年5月、菊池庄次郎日本船主協会会長(日本郵船社長)は、「@仕組船に対する輸銀の
 長期低利融資導入と日本人船員の配乗(外国人との混乗をさす―引用者注)を同時並行的に
 進めて、これまで私生児扱いされてきた仕組船を認知する、Aこれにより日本人船員の雇用増
 大をはかるとともに、船舶の衝突、海上汚染といったリスクをできるだけ回避する、B船舶の自
 動化と船社サイドの資本効率化を図るため、船協、造工(日本船主協会、日本造船工業会―前
 同)が一体となって技術革新の推進に当たる」、その際「海員組合は積極的に船舶の技術革新
 化(甲板部、機関部の職種一本化)および外国用船活動の是認に協力してもらいたい」と強調し
 た。
  このいわゆる菊地構想は、資本主義世界が経済危機に陥り、特に昭和40年代末から、大量
 の船腹供給と資源輸送の減少のギャップのなかで生じた海運不況のもとで、海員組合を再び
 労使協調に取込みながら、海外進出を新たな段階に押し上げ、「減量経営」を行うという宣言で
 あった。
  それを受けて、海造審は昭和53年(1978)6月「今後長期にわたる外航海運政策について」と題
 した中間報告(答申は翌年)を出す。必要最低限の日本船を維持・確保するとしながら、「低廉か
 つ安定的な輸送」の必要から、仕組船すなわち便宜置籍船を世界の政府のなかで公然と認知
 し、かつそれを準日本船と位置づけた。そして、日本船の船員費が上昇しているので、外国船(こ
 の場合、仕組船)のそれに近づけるため、雇用量や乗組定員の削減を検討すべきであるとした。
 それに対応して、その前年に運輸省に船員制度近代化委員会が組織され、乗組定員の削減を
 目指した近代化実験(異種職務の分担や部員の準職員化による乗組定員の大幅削減)が実施
 されることになった。
  こうした政策的支持を受けて、仕組船の大量建造と脱日本人船員経営が大規模に展開され
 たが、それは資源輸送の減退のもとで市場競争の激化と船腹過剰を呼び起こし、三光汽船、ジ
 ャパン・ラインなど有力企業の経営不振を招くことになった。そこで、海造審は昭和59年(1984)8
 月「今後の海運政策について」という中間答申を出す(答申は翌年)。それは、日本海運のおか
 れている困難を仕組船経営による自縄自縛とはみず、従来通り日本人船員費の高さや円高傾
 向にあるとし、日本船の規模をできる限り維持するという従来の方針を一変させ、便宜置籍船
 やマルシップは「荷主の多様なニーズに対応し、またコスト競争力のある安定的な船腹」である
 と評価してうえで、日本船は昭和58年(1983)の3410万総トンから昭和65年(1990)には約2900万
 総トンにまで減少し、それにともって日本人船員数は昭和58年の約2万9000人から昭和65年に
 は約1万9000人に減少し、なおその3分の1は余剰となると方向づけた。
  さらに、大幅な円高を受けて、海造審は昭和61年(1986)12月、「当面の海運政策について」とい
 う中間報告を出し、「海運企業の経営全般にわたる一層の減量・合理化が差し迫った課題とな
 っており、かつ、経営危機に直面する企業が増加している状況の下で、船員の雇用問題への対
 応が急務と」なった。従来、採用してきた労務提供船(主として自社支配の便宜置籍船への自社
 船員の派遣)の維持も困難となり、また日本船はかなりの減船を余儀なくさせられるので、部員
 の職員化による外国船への派遣、陸上産業への転職、そのための「受け皿機構」設立の促進、
 そして「荷主産業の要望に答えるためにも、日本商船隊の競争力を回復するについて、労使協
 力して、船員制度の近代化の一層の推進、(マルシップではなく、日本船における外国人船員と
 の―引用者注)混乗を含む運航コスト低減化等についてあらゆる努力をすべきである」と、さき
 の答申の繰り上げ実施を促した。
日本商船隊の船腹量の推移(1000トン)
昭和
日本船
外国用船
合計
総トン
総トン
総トン
  44
  45
  46
  47
  48
  49
  50
  51
  52
  53
  54
  55
  56
  57
  58
  59
  60
  61
1,424
 1,508
 1,531
 1,580
 1,476
 1,427
 1,317
 1,274
 1,234
 1,204
 1,188
 1,176
 1,173
 1,175
 1,140
 1,055
 1,028
  957
19.259
 21,185
 24,13O
 27,933
 30,623
 32,620
 33,485
 34,649
 33,722
 33,030
 33,344
 34,240
 34,455
 35,058
 34,100
 33,249
 33,470
 30,809
236
162
592
655
820
973
 1,152
 1,142
 1,171
 1,290
 1,200
 1,329
 1,232
 1,165
 1,035
 1,080
 1,407
 1,292
3,667
7,030
 10,113
 12,575
 17,718
 21,958
 26,003
 28,289
 29,108
 32,288
 29,677
 30,987
 27,475
 27,410
 23,093
 23,766
 28,691
 21,665
1,660
 1,970
 2,123
 2,235
 2,296
 2,400
 2,469
 2,416
 2,408
 2,494
 2,388
 2,505
 2,405
 2,340
 2,175
 2,135
 2,435
 2,249
22,926
 28,215
 34,243
 40,508
 48,341
 54,578
 59,488
 62,938
 62,830
 65,318
 63,021
 65,227
 61,940
 62,468
 57,193
 57,015
 62,161
 55,474

▼日本船と日本人船員の減少▼
 日本の海運企業が実質的な保有者である便宜置籍船は、昭和50年代に入ってから急増し、
 昭和59年には219隻2220万重量トンとなっている。それは、世界の便宜置籍船の11.0%にあた
 り、アメリカ(23.8%)、香港(21.0%)についで、世界第3位である。また、それは同年の日本の外航船
 腹恵1055隻5535万重量トンとくらべると、隻数で日本船を上回り、トン数で40.1%に相当する。ま
 た、マルシップは昭和61年342隻451万総トンであり、同年の日本の外航船腹量957隻3081万総
 トンのうち、隻数で35.7%、トン数で14.6%を占めている。これら便宜置籍船やマルシップには、アジ
 ア人船員を中心にして、約3万7000人が雇用されている。
  日本の商船隊(日本船と外国用船)の船腹量は、昭和45年から昭和53年にかけ2822万総トン
 から6532万総トンに増加したが、その後は減少あるいは停滞している。しかし、そのうち日本船
 は昭和47年の1580隻を頂点にして減少しつづけ、昭和61年には957隻まで減少している。ただ、
 トン数は約3000万総トンを維持している。それに対し、日本支配の便宜置籍船を含む外国用船
 のトン数は昭和45年以降、一貫して増加しつづけてきたが、昭和58年以後は停滞している。そ
 れにともない、日本の商船隊に占める日本船の比率は、昭和45年75.1%であったが、その後減
 少しつづけ、昭和53年には最大50.6%まで落ち込んでいる。
  こうした脱日本人船員経常の進展によって、日本人船員が乗り組む船舶の隻数は大幅に減
 少し、それにともなってその雇用量は激減するところとなった。外航労務2団体においては、その
 所属船員が乗船する日本船および外国船の隻数と在籍船員数は、昭和47年1046隻4万7139
 人(乗組員数では3万3905人で、1隻あたり平均乗組員数32.0人)であった。それ以降、加盟会社
 の退会もあるが一貫して減少し、昭和62年(1987)には445隻1万7681人(同じく9315人、20.9人)に
 落ち込み、その減少率はそれぞれ約50%、約60%(約35%)となっている。これは日本の海運産業
 の空洞化以外のなにものでもない。
外航2団体の船員数・配乗隻数の推移
昭和
会社数
在籍船員
総数
配乗隻数
合計
日本船
外国船
  47
  48
  49
  50
  51
  52
  53
  54
  55
  56
  57
  58
  59
  60
  61
  62
 82
  81
  78
  77
  76
  75
  70
 69
 69
  68
  68
  55
  55
 52
 52
 50
47,139
 44,143
 44,137
 44,061
 42,823
 41,388
 39,227
 37,088
 35,208
 33,796
 32,674
 29,150
 27,120
 25,281
 20,120
 17,681
1.028
  958
  935
  861
  831
  781
  712
  691
  670
  647
  653
  570
  537
  515
 419
  391
18
  22
  24
  11
 15
  27
  51
  85
 105
 102
  84
 101
 105
 108
  66
  54
1,046
 980
 958
 872
 846
 808
 763
 776
 775
 749
 737
 671
 642
 621
 485
 445

▼日本海運の困難と展望▼
  世界海運は、昭和40年代後半における2度にわたる石油ショックを契機に、構造変化をみせ
 る。その成長を支えてきた原燃料資源の輸送需要の減退と船腹供給の強まり、そのギャップの
 長期化、運賃・用船料の低下、そして東欧諸国やアジアNICs諸国の市場参入、その結果として
 の伝統的な海運国の後退である。そのなかにあって注目されるのは、コンテナ船による工業製
 品の輸送需要の増加は著しく、なかでも日本・極東-北米航路の伸びは大きく、いまや世界最大
 の定期船市場になった。それに向けて、伝統的な海運国ばかりでなく、韓国、台湾、香港、シンガ
 ポールといったアジアNICs諸国が参入し、激しい集荷競争を展開されるようになる。
  この日本・極東-北米の各航路にも海運同盟があるにはあるが、アメリカの海運法との関係
 で、加盟船社の参入退出が自由で、荷主の拘束力が弱いため、同盟船と盟外船、さらには同盟
 船相互間で、破滅的競争が繰返されることとなった。その結果、同盟船の輸送シェアは50%を割
 り、また運賃は採算点以下となっていった。さらに、60年の歴史を持っていた太平洋復航同盟
 (PWC)は、昭和49年10月に崩壊し、無政府状態になった。
  そのなかにあって、アメリカの海運企業はドル建運賃のもとで為替変動にさらされず、しかも
 多額の建造差額補助や運航差頼補助、租税優遇措置が行われ、さらに軍事物資や援助物資
 の留保政策により、輸送量の約3割があらかじめ保障されている。アジアNICsの海運企業はそ
 の船員費の低さを武器に低運賃を提示して、集荷を強めている。それに対し、日本の海運企業
 は脱日本人船員経営で対抗するにとどまった。
  こうしたコンテナ船をめぐる破滅的な競争をさらに促進したのが、アメリカ海運法と国際複合
 一貫輸送である。昭和49年6月、レーガン政府は交通規制緩和の一環として、新海運法を施行
 する。それは、第1にインデペンデント・アクション条項の義務づけ、第2に一手積契約の禁止とサ
 ービス・コントラクト、タイム・ボリュウーム・レートの新設、第3に発展途上国の自国貨自国船主
 義への対抗を内容としている。
  この政策は、一方では自国の海運企業が世界海運において確固たる地位を獲得させるとと
 もに、他方では自国の荷主の市場競争力が損なわれないよう世界海運を規制するという、非協
 調的で独善的な性格を持っていた。また、アメリカにおける国際複合一貫輸送は、昭和40年代
 後半よりはじまっていたが、昭和59年にAPLが完成したコンテナ2段積み専用列車(ダブル・スタ
 ックカー)という新技術が導入されることとなった。その運用をめぐって、新たな形での競争が強
 められた。
  このように、日本の海運企業は減価しつづけるドル建運賃制のもとで、しかも一方ではアメリ
 カ船社の海運助成、貨物留保と内陸輸送の優位、他方ではアジアNICs船社の盟外活動と低船
 員費=低運賃に挟撃され、その経営は困難にますます陥った。その困難をすでに少なくなった日
 本船を、便宜置籍船に切替えることで乗り切ろうとしている。それはナショナル・フラグ(自国人船
 員が乗組む自国船)海運から、アメリカやアジアNICsの海運に対して、いわば第三国海運ある
 いは無国籍海運への後退以外の何ものでもない。
  日本が、荷主国かつ海運国(船主・船員国)として、その海運企業の経営と日本人船員の雇用
 が安定させるためには、まずは対米従属を断ちきり、貿易相手国と平等互恵の関係に立って、
 昭和58年に発効した国連定期船同盟行動憲章条約にもられた新国際海運秩序を確立してい
 く以外になかったのである。
 【参考文献】
 運輸省編『海運白書』
 運輸省編『日本海運の現況』、日本海事広報協会
 松尾 進『海運』、有斐閣、昭和34年
 『全日本海員組合15年史』、昭和36年
 加地照義他『戦後日本海運史-戦後15年の歩み-』、昭和36年
 運輸省編『日本海運戦後助成史』、海事産業研究所、昭和42年
 笹木 弘『技術革新と船員労働』、成山堂書店、昭和40年
 『日本船主協会20年史』、昭和43年
 大島藤太郎・蔵園 進『日本交通政策の構造』、新評論社、昭和50年
 篠原陽一・雨宮洋司・土居靖範『海運概説』、海文堂出版、昭和54年
 『日本船主協会30年史』、昭和55年
 笹木 弘他『機帆船海運の研究』、多賀出版、昭和59年
 篠原陽一編『現代の海運』、税務税理協会、昭和60年
 沢 喜司朗編『海運論入門』、八千代出版、昭和60年
 『全日本海員組合40年史』、昭和61年
 船員問題研究会編『現代の海運と船員』、成山堂書店、昭和62年

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