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トメ・ピレス『東方諸国記』を読む
Read Tome Pires's "The Suma Oriental"

▼ポルトガル遺明大使、広州に遺棄される▼ 
 トメ・ピレス著、生田滋他訳注『東
方諸国記』(大航海時代叢書5、岩波
書店、1966、以 下、諸国記とする)
は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に
次ぐ、ヨーロッパ人による網羅的な海
のシルクロード地誌である。
 この書物は、中国でいえば明の時
代、15世紀前半に行われた鄭和の大
遠征航海から、約100年後にまとめら
れたアジア地誌である。なお、鄭和の
大遠征航海 については、Webページ
【鄭和西洋下りを『瀛涯勝覧』から読
む】を参照されたい。
 トメ・ピレスは、1466年頃、リスボンで
生まれたらしい。彼の親は当時のポル
トガル王ジョアン2 世(在位1481-95)
付きの薬剤師であったが、彼もその王
子付きの薬剤師になる。彼はインドに
行くことを決心する。
 その目的は金儲けであった。1511年4月、インド在任の商館員(フェイトー ル)となってリスボンを出帆し、同年9月にはインド・マラバル海岸のカナノールに到着する。そ の後、彼は1524年頃、中国で客死するまで、アジアで過ごすこととなる。
  ポルトガルのアジア進出は、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469?-1524)の艦隊が1498年5月同じ海岸カ リカット(コジコーデ)に到着したことにはじまる。トメ・ピレスがアジアに来たのはそれから13年し か経っておらず、その前年の1510年にアジア進出の最大の功労者となるインド総督アフォン ソ・デ・アルブケルケ(1453-1515)がゴアを占領し、1511年にマラッカ(『東方諸国記』の訳文は マラカ)を占領したことで、アジア進出の拠点が確保された時期に当たる。
  この時期がポルトガルのアジア進出の最盛期であったともされる。
  1512年4/5月、トメ・ピレスはアルブケルケに指示されてコチンを出発し、同年6/7月マラッカに到着する。翌年3月から6月にかけてアントニオ・デ・アブレウの率いる派遣船隊に参加して、 ジャワや香料諸島を訪れる。その後、年若い商館長のもとで書記兼会計掛および香料管理人として働くが、それが不満で帰国しようと、1515年1月マラッカを離れコチンに向かう。同年9月、トメ・ピレスの旧友のロボ・ソアレス・デ・アルベルガリア(在任1515-18)が、新しい総督として着任する。彼は、中国と国交を開くことを訓令されており、その交渉に当たる遺明大使としてトメ・ピレスを任命する。
  1516年2月、彼はコチンを出発してマラッカに戻るが、風待ちとなる。翌年6月、フェルナン・ぺ レス・アンドラーデを司令官とした8隻の艦隊はマラッカを出帆して、1517年8月15日広州港外 屯門澳の泊地に到着する。主立った人々の誰それがどの船に分乗したかは分かっているが、トメ・ピレスについては旗艦エスペラ号200トンに乗っていたはずという程度で判然としない。なお、この艦隊には、ポルトガルやマラッカの商人所有のジャンクも含まれており、中国の沿岸に着くと、それら非武装のジャンクを囲んで航行したという。
  ポルトガルは交易をみとめられたものの、中国との外交
交渉はマラッカから否定的な情報が もたらされていたた
め、まったく進まない。これにいらだって、それまでアジアで
行ってきたように、屯門澳に石造の要塞を建設したり、掠
奪を働いたり、また強引に広東に進んで、空砲を放ったり
した。それにより、トメ・ピレスら使節やポルトガル人が中
国官憲に逮捕されたとか、 あるいはポルトガル人が中国
官憲に引渡されたとかされることとなった。それ以後、ポル
トガル船は、中国からの攻撃を受け、追払われることにな
る。
 その結果、トメ・ピレス大使ら一行はポルトガル艦隊に見
放され、中国に取り残されることとな った。その後のかれら
使節の消息は不明のようである。彼は1524年までは生存
していたことは 確かとされる。その後、 彼は釈放されて中
国婦人と結婚し、1540年頃に1人の娘を残して死亡し たと
いう説もあるという。
  これらからみて、トメ・ピレスを大使としたのは、中国との
交渉が砲艦外交でだけでは無理としたからであろう。本来
の権限は司令官のフェルナン・ぺレス・アンドラーデが握っ
ていたとみられる。身分の低いトメ・ピレスは文字通り使い
捨てられたのである。
トメ・ピレスの肖像の記念切手
 ポルトガル領マカオ、1955発行
▼『東方諸国記』の構成と性格▼
 トメ・ピレス『東方諸国記』の正式の題名は、『紅海からシナ人〔の国〕までを取り扱うスマ・オリエンタル[東洋の記述]』である。この記録は、生田滋氏によれば、「当時のポルトガル人が知っていた東洋について組織的に記述しようとしたもので、いわゆる『地理書』範疇に入るものである」(諸国記、p.22)。ただそれは未定稿で完結してもいないとされる。なお、その書を国王に献呈しようとしていた。
  この書物の最終執筆時期は、序文からみて、1515年1月以前とみられている。それはさておき、彼は中国で客死しているので、その草稿がどのように日の目を見たのであろうか。
 上記の訳書は、次のような目次構成となっている。

序文
 第1部 エジプトからカンバヤまでの諸国
  エジプトとアビシニア、アラビア、オルムズ、ペルシア、ナイタケ族とレスプテ族、カンバヤ王国
 第2部 デカンからセイロンまでの諸国
  デカン、ゴア、カナリ、ナルシンガ、マラバル、セイロン
 第3部 ベンガルからインドシナまでの諸国
  ベンガル、ラカン・ペグー、シャム・ビルマ、カンボジャ・チャンパ・コーチ=シナ
 第4部 シナからボルネオまでの諸国
  シナ、琉球・日本、ボルネオ・ルソン
 第5部 スマトラから香料諸島までの諸島
  スマトラ、ジャワ、香料の島々、中央の島々
 第6部 マラッカ
  歴史、支配地域、政治、貿易、ポルトガル人による占領
 付録 マラバル地方について(『ドゥアルテ・バルボザの書』(1518)より)

 第1部と第2部のナイル河からセイロンまでの部分は、インド滞在中にえた情報に基づいて記述したとみられる。
  第3部、第4部は、マラッカ滞在中に職務上知りえた情報に基づいて記述したものである。中国 の記事のなかには、1513年のジョルジュ・アルヴァレス船隊の広東遠征の記事が含まれている。中国、琉球、日本、ルソンなどの地域は、すべて伝聞に基づいた記述とみられる。それでありながら、ヨーロッパ人にとって最初の総合的な記述となっているとされる。
  第5部はジャワと香料諸島への派遣の際にえた情報、また第6部はまさに1512-15(16/7)年マラッカに滞在中にえた情報に基づいて記述したとみられたとみられ、それだけに同書の白眉をなし、史料的価値の高い部分とされる。
  生田滋氏によれば、「ピレスは主として貿易に関心を示し、本書の記述の中心もそこにあるが、同時に貿易を支配し、その実権を握っている人々、つまり各地の支配者にも強い関心を示している。これは主として貿易、風俗、習慣に興味を示すバルボザ[上記付録の作者]、商品そのものに興味を示す[オランダ人]リンスホーテン[『東方案内記』(1596)(大航海時代叢書8)の作者]とは著しく異なった点である。これは、本書が単なる地理書として書かれたものではなく、どこではだれとどう取引したらよいかということを明らかにするという、きわめて実用的な目的のために書かれたもの」と評価する(諸国記、p.24)。
  そして、最後に「本書の記述を通して見たピレスの人間像は、好奇心が強く、熱烈な愛国者で、少々頑固のように思われる。また、彼はポルトガルの海外発展の最盛期において、すでに後年の衰頽の原因となるべき現象―人材の不足と内部の腐敗―を指摘している。彼の愛国心がそれを黙過し得なかったのであろう」という(諸国記、p.28)。
  なお、主たる訳注者である生田滋氏は、当時少壮30歳であった。
▼ポルトガルのアジア進出の目的▼
 生田滋氏は、「ポルトガルの東方進出の目的」について、「インドに到達して、イスラム教徒とそれにつながるヴェネツィアによる香料貿易の独占を打破するという経済的な目的と、イスラム教徒を滅ぼすという宗教上の目的が表裏一体を為していた。その第1手段として、まずこの貿易圏のうち、紅海を通じてカイロへ、カイロからヴェネツィアへ通ずるルートを閉鎖し、この貿易圏を直接リスボンに結びつける」ことにあったと解説する(諸国記、p.13)。
 トメ・ピレスは、序文において、次のように述べる。まず、「陛下の領土がきわめて広大だ」とし、「それは、アフリカにはじまってシナ人〔の国〕に至り、海岸に沿ったアフリカ、アジア、ヨーロッパの全部を含み、また非常に豊かで非常に人口の多い無数の島々をその領域内に含んでいる」。
 しかし、それら領域のすべてが服従していないようで、「この征服の対象となる人々」は「カイロのソルダン[スルタン]、アデン王、オルムズ王……カンバヤ、ダケン、マラバル……ベンガラ……ケダ、マラカ、バハン……カンボジャ、コーチ・シナ、シナの諸王国、およびあらゆる島々と海上陸上の有力な人々」である。そこで、それら「王や領主のすべてに対し、陛下が挑戦され、われらの主イエス・キリストの御名によって、かれらの国に軍旗を押し立てられることは、まぎれもなく大きな光栄にふさわしい」ことであるとする。
 そのために巨額の費用がかかるが、「これらの事業は、われわれのカトリックの神聖な信仰を昂揚し、成長させ、また拡大し、空虚なイスラム教のすべての御題目である、恐るべき、恥ずべき虚偽のマファメドに対し、減退と消失と破滅とをもたらす」ためにあるから、当然だとする(以上、諸国記、p.29-30)。
 トメ・ピレスにあっては、世界はポルトガルのものであり、自分たちのアジア進出はアジア征服以外の何者でもなかったこと、その事業は主イエス・キリストの御名において行われ、カトリック教を昂揚させ、イスラーム教を滅ぼすことにあるとしている。
 トメ・ピレスは、この書をすでにみた目次にある地域や人々がポルトガル王の征服の対象となるとして、書き記したといえる。この点で『東方諸国記』は征服対象国の要覧といえる。
 その内容は海上交易について格段の配慮がなされている。「私はこのスマ・オリエンタルの中で、各地方の王国や、地域の区分と、その境界についてばかりでなく、それらが相互に行なっている取引と商業とについても語るつもりでおります。この商品の取引は、それがなければ世界は自らを維持して行くことができないほど、必要不可欠なものであります。取引こそが王国を高貴に、人々を偉大に、都市を高貴にするものであり、また平和をもたらすものであります」という(諸国記、p.32)。
 ここの遠征事業は、キリストの御名において王が行う事業ではあるが、その事業の本音は自らを維持し、さらに高貴になるための「商品の取引」であったことを、正直に語っている。この点で『東方諸国記』では海上交易ガイドブックでもある。
 以下、海上交易情報を読みとることとする。それぞれの港市における輸出入品の品目とそれらの仕入仕向地が詳細に書き留められているが、すでに紹介したWebページ【「イブン・バットゥータの大旅行記」を読む】と決定的な相違がなく、また煩雑になるので省略する。また、訳文や注記の地名はトメ・ピレスのいうポルトガル名の他、マレー名やイギリス名があり、注意を要す る。
▼アデンへの攻撃失敗、オルムズに要塞建設▼
 第1部エジプトとアビシニアの節では、紅海にあるスエズ、ジュダなどが記載されているが、特記事項はない。アラビアの節では、主としてアデンが取り上げられている。
 アデンの漢地名は馬歓の『瀛涯勝覧』では阿丹(以下、同じ)となっている。そこは、紀元前よりアラビア半島南部の主要な交易港であり、12世紀から16世紀はじめにかけ、最盛期を誇ってきた。1513年3月、ポルトガル艦隊・アルブケルケはアデン攻撃に失敗する。その直後の一時期マムルーク朝、そして1538年からはオスマン・トルコの支配を受けるようになる。その後、1839年イギリスに占領されてイギリス領インドの一部となり、1850年には自由港が宣言され、1937年にはイギリスの直轄領となる。
 当時のアデンがイスラームにとって最後の砦になっていたとし、トメ・ピレスは「10年来、常にわれわれの艦隊を恐れていて、全イスラム教徒がこの都市が占領されないように援助しているからである。かれらは、もしこの都市が占領された場合は、それが直ちに自分たちの最後となることを恐れている。これは現在では、すでにかれらには他には何も残っていないからである。この都市は[1513年]すでに立派な戦闘を経験しており、もし城壁に登ろうとする人々の重みで梯子が折れるという惨事が起こらなかったら、〔われわれは〕入城していたはずなのである」という(諸国記、p.61)。
 「カイロの人々やインディア全土と大きな取引を行ない、インディアの人々は当市[アデン]と取引を行なっている。市内には、大きな財産を持った立派な商人たちや、他の王国から来た多くの居留民が住んでいる。当市は商人の集合地で、大きな取引の行なわれる世界の四大都市〔恐らくオルムズ、ゴア、マラッカ、アデンであろう〕の1つである」としている(諸国記、p.62)。
 オルムズ(ホルムズ、忽魯謨厮)もまたアデンと同じように、古くから重要な交易港であった。1508年に初めてポルトガル人の攻撃を受け、国王はポルトガル人に要塞の建設を許す。その後、国王はポルトガル人に反旗をひるがえすが、1515年にはアルブケルケによって完全に占領され、その支配は100年ほど続く。1622年、サファヴィ朝ペルシアのシャー・アッバース1世(在位1587-1629)はイギリスの協力をえてオルムズをいわば奪回するが、その後廃墟になる。なお、トメ・ピレスが敬愛するアルブケルケは、このオルムズ占領の帰途、ゴアで死亡する。
 オルムズの節は、その重要さに比べ、簡潔である。1515年のオルムズ占領はともかく、1508年の最初の攻撃についてもふれない。いま、補注によれば、この町の郊外からインディオ〔インド〕塩と呼ばれる岩塩が採掘される。それは「たいへん白く、良質である。当市に来航する船はいずれもこれを底荷として積み込む」、また「アラビアの都市からは多数の馬が来る。人々はそれを当地からインディアに運んで行く。同地には毎年約1000頭、時には2000頭の馬が運ばれて行く」。
 そして、オルムズには金貨や銀貨が「たいへん豊富にあるので、ある船が商品を運んで来て、それを売り捌き、馬とかれらが持ち帰る品物を買い入れると、残りはすべてこれらの貨幣で持ち帰る」という(以上、諸国記、p.554-5)。
 ペルシアの節は、サファヴィ朝ペルシアに詳しいが、海上交易をめぐる特記事項はない。ナイタケ族とレスプテ族の節も同じであるが、これら部族はパキスタンのマクラン海岸に住む人々をいう。
▼カンバヤ王国の抵抗と妥協、マラカとの関係▼
 第1部最後のカンバヤ王国の節は詳細である。カンバヤ王国とは西インドのグジャラート地方にある王国をいい、イブン・バットゥータがインド洋に出発したキンバーヤ(現在のカンベイ)である。インド亜大陸の北西にある大交易港となっている。
 トメ・ピレスが、インド洋海域にいた当時のグジャラート王はムザファール・シャー(在位1511-26)であったが、カンバヤ王国以南にある「ダケンの諸港が〔われわれによって〕常に圧迫されていたのに反し、ディウはわれわれとの間の友情によって大きくなり……王国の他の地域よりも、はるかに正義が保たれている」とする(諸国記、p.99)。
 そうなったのは、訳注によれば、その父である「マフムード・ベガラ(在位1458-1511)ははじめポルトガル人に敵意を示し、1508年にはアミール・フサインの指揮するエジプト艦隊とマリク・アヤースの指揮するグジャラート艦隊が連合して、チャウル沖でポルトガル艦隊を破った。しかし、翌1509年この艦隊はポルトガル艦隊のためヂウ沖[現ディウ沖]で大敗を喫したことから、マフムードは従来の態度を改めた」からであった(諸国記、p.100)。
 このカーティーワール半島南端のディウ沖の海戦に勝利した後、ポルトガルはインド西海岸に次々と要塞を建設して、インド洋の制海権を握ることとなる。このディウという島に、1535年になって要塞を建設し、ポルトガル領とする。しかし、その交易港の地位はカンバヤ王国以南のスラットやボンベーなどに移る。なお、1965年インド国民軍はゴアとディウを占領・奪回する。それ以後、ゴア・ダマン・ディウと呼ばれる連邦直轄地となる。
 このカンバヤにおける交易は、すべてグザラテ人(グジャラート人)というジャイナ教徒の商人によって、取り仕切られているという。この地には、「カイロの商人や、アデンやオルムズの居留者や、多くのコラソン人、ギラン人がいる。かれらはみなカンバヤの海岸の諸都市で大きな取引を行なっている……われわれの国民で書記や商館員になりたいと思う人々は、当地で勉強しなければならない」(諸国記、p.113)。
 これら「カンバヤに住んでいるグザラテ人と居留民とは、多くの船をあらゆる地域に航海させている。すなわちアデン、オルムズ、ダケン王国、ゴア、バティカラ、マラバル全土、セイラン、ベンガラ、ペグー、シアン、ぺディル、パセー、マラカに向けてであって、そこに多くの商品を運んで行って、他の〔商品を〕持ち帰る。したがって、かれらはカンバヤを豊かに、また立派なものにしている。特にカンバヤは2本の腕をのばし、右手でアデンを握り、一方の手でマラカを握っている」とされている(諸国記、p.114)。
 トメ・ピレスは、「オルムズの人々は、カンバヤに馬、銀、黄金、生糸、明礬、礬類、緑礬、真珠母を運んで来て、土産の商品およびマラカから来た商品を持ち帰る……オルムズの人々は、主として米や食料品や香料を持ち帰り、またオルムズからは梱包したり、生のまま壷に入れたりしたなつめ椰子や、乾したなつめ椰子を携えて来る」という(諸国記、p.115)。
 トメ・ピレスは、こうした仕方で以下、主要な港市について、だれがどのような商品を持ち込み、持ち帰るかを、それぞれ書き残しているが、みたように煩雑となるので省略する。
 カンバヤとマラカにおける交易関係について、「カンバヤの商人は、他のどの地域よりもしっかりとした根拠地をマラカに置いている。昔はマラカには1000人ものグザラテ人の商人がおり、その他に、常に往来しているグザラテ人の水夫が4、5000人もいた。マラカはカンバヤなくしては生きてゆかれず、カンバヤもマラカなくしては豊かに繁栄することはできない」という。
 「グザラテ人は最良の船員であって、この地域の他のどの国民よりもよく航海していた。そして、船についてもその大きさと船員の数とにおいては、非常にぬきんでている。かれらは多数の水先案内を持っており、航海にたいへんすぐれていた」。グザラテの船は武装することがなかったが、「今日ではかれらは船を守るために……多くの武装したイスラム教徒を同行させる」という。
 最後に、重要な記録が示される。「かれらは、マラカ海峡が発見される以前は、ジャオア〔ジャワ〕と取引していた。〔かれらは〕サモトラ〔スマトラ〕島の南岸を通り、スンダとソモトラ〔サモトラに同じ〕島の端の間[スンダ海峡]を通ってアグラシ〔グリシ〕に航海し、マルコ〔モルッカ〕、ティモルおよびバンダンの品物を入手し、たいへん豊かになって帰国していた。かれらがこの航海を放棄してからまだ100年は経っていない」という(以上、諸国記、p.116-7)。
▼ポルトガルの進出拠点、ゴア攻略▼
 第2部デカンの節は、カンバヤから南に位置する、デカン地方にあるダケン王国を扱っている。この王国は、1347年インドのトゥグルク朝(1320-1413)に反乱を起こして独立した、バフマニー朝をさす。この国には、トルコ人、ペルシア人などが軍人として数多く流入し、かれらの集団とその有力者が勢力を持ち、デカン人と激しい抗争を繰り返していた。トメ・ピレスが来たころには、15世紀末から分裂が起きて5王国になっており、1526年には滅亡する(諸国記、p.119-20)。
 このデカン地方にはいくつかの港があるが、そのなかでダブルはたいへん古い港で、15世紀には重要な港として繁栄していたが、1509年1月初代総督フランシスコ・デ・アルメイダ(在任1505-09)が、これを攻撃して完全に破壊したという。その地位はゴアに移る。
 ゴアの節は、それがポルトガルにとってアジア進出の最初の拠点となり、またトメ・ピレスも滞在したとみられるので注目される。このゴアはイブン・バットゥータが訪れたサンダープル島である。トメ・ピレスは、このゴアはトメ・ピレスが独自に区分する「第1のインディアと第2のインディアの要衝」にあり、「この国の人々は勇敢で賢明であり、また船乗りも陸で働く人も激しい労働に耐える」としている(諸国記、p.132)。
 このゴアは1440年頃に建設され、ビジャープルの太守ユースフ・アーディル・ハーンの領地の一部であった。アルブケルケは1510年2月にこれを一旦占領するが、7月に奪還され、11月に再び占領して、ここに要塞を建設する。この町は、1575-1675年繁栄をきわめ、人口約20万人に達した。
 第2回目の占領について、アルブケルケは国王宛の書簡で、「当地では300人以上のトルコ人が死亡しました……4日間にわたり市中で血を流しました。そして、見つけしだいイスラム教徒の生命を残らず奪い、メスキータ〔モスク〕にかれらを詰め込んで、それに火を放ちました……勘定してみると、6000人の男女イスラム教徒が殺されたことが判明しました」とも述べている(諸国記、p.135)。
 トメ・ピレスは、ポルトガルのゴア攻略の意義について、それによりポルトガルはインディア全土を手中に収めることとなったと、次のような賛歌を高らかに歌い上げる。ポルトガルはイスラーム教徒を殺害しただけでなく、イスラーム船を拿捕し、また造船所も利用する。
ポルトガルのゴア攻略賛歌
 扉が建物を守るためのものであるのと同じように、各地方あるいは王国の港はそれらを防禦し、維持し、しつかり守るためのものである。ひとたびこれらの港が占領され、征服されたならば、これらの地方や王国は非常な苦境に置かれる。〔もし港が占領されていると〕、それらの〔王国の〕内部に、またはその隣人との間に何らかの不和があったら、ほかから救援されることがないため滅亡するであろう。おまけにこれらの王国は、もっとも重要な地点であるゴア市とその港以外には、救いの手を持っていなかったからである。
 ゴアは盗賊や、トルコ人やルーム人や、われわれの信仰に対抗して死んだ人々の墓場であった。ゴアは、キリスト教徒に大きな損害を与える用意をしていたが、神の正義は損害をかれらに転じさせたので、ゴアの占領によってイスラム教徒が悲嘆の声を発したことは疑いがない。
 ゴアはイスラム教徒の艦隊が1年以内に簡単に建造されるように準備のできた場所であった。それはスエズでは20年かかってもできないであろう。ゴア王国が潰滅した時に、イスラム教徒がわれわれと戦うためにそなえていた船が拿捕されたことを疑う人はいない。その船は後にバンダンに赴いて、われわれのために肉荳蒄を積荷した。
 われわれの主の裁きはわれわれの理解をこえたものであるが、各人は、イスラム教徒はアデンを失った時に受けるであろうところの損害よりも大きな損害を、ゴアで受けたということを注意深く判断すべきである。ゴアはダケン王国を服従させているだけでなく、カンバヤ王国をも扼している。イスラム教徒はゴアに悪しき友人を持ったことになった。イスラム教徒は諸王国を占領しつつあったのと反対に、〔今日では〕それらを失いつつある。
 港のない王国というものは扉のない家と〔同じである〕。われわれの主はマファメドの没落を希望されており、書記ジョアネ[ポルトガルの王]にそれを急がせられた。今こそその時である。今や、全インディアの沿岸では、誰もイスラム教徒に依存しておらず、ただかれらの一部が山脈地帯に入って耕作しているだけである。ゴア王国は誰もそれを希望しなかったのに、インディア全土を右手に握っている。
出所:トメ・ピレス著、生田滋他訳注『東方諸国記』(大航海時代叢書5)、p.135、岩波書店、1966。
 この血で塗られたゴアに、フランシスコ・デ・ザビエル(1506-52)は1542年に入って、アジアにおける伝道活動をはじめ、そして墓を残して終わる。
 トメ・ピレスは、現状について、多くを語らない。「ゴア市はロードス島のように非常に強固で、別に4つの要塞を持っている。それらはマファメドの名前〔イスラム教徒の旗印〕に損害を与えるために必要な場所に、非常に立派に建築されている」(諸国記、p.137)。また、海上交易についてポルトガル占領前、ゴアはインド最大の馬匹の輸入港であった。「ゴアの王国は多くの船を持っていた。それらの船は多くの地域に航海していた。ゴアの船はあらゆる地域で尊敬され、好意をもって迎えられていた」と過去を語るだけである(諸国記、p.139)。
ゴアのアガシ村に残る港の遺跡
 カナリおよびナルシンガの節は、ゴアより南のカナリ地方の国を取り上げており、ここでトメ・ピレスのいう第1のインディアが終わる。それらをナルシンガ王が治めている。その港の1つである現在のアンジディヴ島は、ポルトガル人が1505年インドで最初の要塞を建設したところであった。なお、この地方の最大の港はバティカラ(現在バトカル)で、ゴアやシャウル(現在チャウル)に次ぐ港であった。しかし、ゴアがアルブケルケに占領されると、バティカラも急速に衰えてしまう。
▼港市が乱立するマラバル海岸▼
 マラバルの節はインド南西部の海岸の国々を扱っている。この地方はトメ・ピレスがはじめてアジアに入域し、滞在したので、一般事情はかなり詳しい。すでに、紀元前後からインド洋交易の中心地であり、10世紀以降の東西交易の交差点となっており、中国人商人やイスラーム商人が来航、居留していた。イブン・バットゥータも出入りしている。ポルトガルはカナノール、カレクト、コシンなどに進出する。
 マラバルには、内陸の大国家から相対的に自立した港市国家が数多く築かれてきた。その宗教はヒンズー教であった。トメ・ピレスは、この地方の海港には29の海港を数え、約400隻の貨物を積む船があるとし、「それらの一部は大きく、他は小さい。ラダという船は底が広く、たくさんの積荷をしても、竜骨を持った船より少ない吃水しか要しない。これは、一般にマラバルの人がクリンゴ地方〔コロマンデル海岸をさす〕に航海するためである……人々がパゲルと呼ぶ小さな船はカラヴェルと同じくらい積荷にする」という(諸国記、p.168)。
 カナノール(現在も同じ)はトメ・ピレスがアジアにはじめて入域した港市である。そこは、トメ・ピレスによれば、この国のなかでも「高貴で、重要で、大きな都市があり、取引が盛んである……カナノール市には指導的な商人たちがいる。もし陛下の勢力がこの王国を支配しなかったら、〔当市は〕今やイスラム教徒のものになってしまったであろう」。その港市には、「12世紀ごろからは、アリー・ラージャーというイスラム教徒の大商人が当地に定住していた。この家系は代々当地の貿易を握り、その勢力は18世紀まで続いていた」とされる(諸国記、p.172)。
 ポルトガル人が進出してきたとき、カナノールの王は友好的であったとされる。1501年、カブラル(1467?-1520?)が同地に商館を設け、1505年には要塞が建設される。1663年にはオランダ人に占領される。
 カレクトは、現在のカリカット(古里)すなわち
コジコーデにあたる。「当地は14、15世紀を通じ
てマラバル随一の港として繁栄し、その結果そ
の領主であるザモリンも極めて有力であった。
ザモリンはポルトガル人に対して好意を抱か
ず、終始敵対的な態度をとった。ポルトガル人
は1511年当地に要塞を建設したが、このため
25年にはこれを放棄した」ところである(諸国
記、p.175)。
 トメ・ピレスによれば、「カレクトの港は海岸か
ら遠浅になっているために良港ではない。市は
大きくて人口が多く、取引が盛んで、マラバル
カレクトのポルトガル砦
1525年当時
人、ケリン人、シェティ人およびあらゆる地方からのイスラム教徒および異教徒の商人がいる。それはたいへん有名な港で、全マラバル中でもっともすばらしいものである。当地には多くの国が大きな商館を持っていた。それぞれの国はその商品を当地に持って来て、ここで大きな取引や物々交換や両替が行なわれていた」(諸国記、p.172)。
 コシンはコチン(柯枝)であって、ヴァスコ・ダ・ガマが1502年に商館を建て、ヨーロッパ人がインドで初めて居留した町である。1503年にはアルブケルクが要塞を築いた。フランシスコ・デ・ザビエルも1545年頃に立ち寄っている。「ポルトガル人が進出した当時は勢力が弱く、カレクトのザモリンの支配下にあったコチン王はザモリンに対抗する必要上から、ポルトガル人と結び、1505年にはかれらに要塞の建設を許した」ところであった。
 トメ・ピレスによれば、コシン王国は非常に小さなものの非常に有力であり、ポルトガルの「陛下から受けた権力のおかげで」、この国の王となったチェルマルは「マラバル国全体の首長であり、他の誰より身分が高く、誰より尊敬されている。彼は立派な都市と良い港を持ち、また船を多く持っている。彼は盛んに取引を行なう」ようになったという(以上、諸国記、p.177)。
 マラバルの商人とその活動について、「ペルシア側ではカンバヤ、レスプテまで〔の地域〕、ショロマンデル[コロマンデル]側ではバレアカテまで〔の地域〕、およびセイランと〔マル〕デイヴァ諸島で取引を行なっている。このマラバルでは、海上で取引をする商人はイスラム教徒で、かれらは取引を完全に握っている。かれらは大商人で、また立派な管財人である。かれらは[上層カーストの]ナイレの商人を傭い入れる。ナイレの商人はかれらに随行する。これらのナイレの中で、ある者はかれらの書記で、イスラム教徒たちよりも立派な管財人である」(諸国記、p.181)。
 トメ・ピレスは、インド大陸南端部のコロマンデル海岸についてふれていない。セイロン(錫蘭、現スリランカ)の節は、そこに寄港していないようで、極めて簡潔である。1505年にはポルトガル人が来航し、1517年にはコロンボに要塞と交易所が建設される。16世紀末までに島の大部分を支配するが、1638年からオランダとの戦いがはじまり、1658年にはポルトガル人は追放される。
▼シアン、マラカとの交易、22年間中断▼
 第3部ベンガルの節は若干詳細である。当時のベンガル王はアラー・ウッ・ディーン・フサイン・シャー(在位1493-1519)で、支配者のアビシニア人を倒し、ベンガル(現バングラデェシュ)を隆盛に導く。この国の港は、ガンジス河流域にあるべンガラ(旧ガウル、榜葛刺、現グール)のほか、サデガンであった。このサデガンは古くから商業都市として栄えたが、1579年ポルトガル人がフーグリを建設すると急激に衰える。
 トメ・ピレスは、「べンガラ〔ベンガル〕人は大きな財産を持つ商人で、ジュンコ[ジャンクのポルトガル語読み]で航海する。ベンガラにはペルシア人、ルーム人、トルコ人、アラビア人、シャウル、ダブル、ゴアの商人が大勢住んでいる」とするが(諸国記、p.189)、「ベンガラからマラカへは、毎年1隻、時には2隻のジュンコが来る」程度という(諸国記、p.196-7)。
 ラカン・ペグーの節は、現在のミヤンマーに当たる。ラカンは現在のアラカンに相当し、1495年チッタゴンを占領してから海上勢力となり、16世紀にはポルトガル人と手を握る。ペグーは、1369年創建されたモン族のペグー朝タライン王国のことであり、コピミー(現在のバセイン)やドゴン(現在のヤンゴン)、マルタバンといった港を持っていた。これら王国は17世紀に入って、ビルマ族のタウングー朝(1531-1752)に圧迫される。
 シャム・ビルマの節は主としてシアン王国を取り上げている。それはアユタヤ王朝のシャム(暹羅)のことである。アユタヤ王朝は約400年余にわたって、中国との朝貢交易や琉球との交易、日本との朱印船交易、さらにポルトガル
ミヤンマーのアラカン
ポルトガルの居留地
ワウテル・スハウテン(1638-1704)著
『東インド航海記会社』、
p.148、オランダ、1676
などの交易で栄えた国である。当時の王はアユタヤ王朝のラマ・テイボディ2世(在位1491-1529)であり、チェンマイと戦って勝利を収め、種々の改革を行なう。1767年ビルマのタウングー朝の圧迫を受け滅亡する。
 トメ・ピレスによれば、この国は「大きく、多くの人々や、都市や、多くの領主や、多くの外国人商人でいっぱいである。この外国人の大部分はシナ人で、これはシアンの取引は大部分シナで行なわれているためである。マラカの国はシアンの一国と呼ばれた」時代もあったとする(諸国記、p.212)。
 そして、彼らは「自分たちの土地や王国に来る外国の商人たちに対して、狡猾さをもってのぞみ、かれらに商品を国内に置いて行くようにしむけ、しかも、支払いが悪い。すべての〔外国人商人〕に対するものであるが、シナ人に対してはそれほどでない……しかし、この国には良い商品が豊富なので、商人にとっては……利益のためには少しくらいのことは我慢するのである。これはそうしなければ他に取引をする方法がないからである」という(諸国記、p.213)。ただ、シアン人がマラカで取引をしなくなってから、22年になるという。
 シアン王国の海はマラッカ海峡とタイランド湾の側にあるが、前者の側のタイ・マレーシア国境にケダという国がある。ケダは、古代からすでにインドとの海上交通が行なわれてきた。11世紀、インドのチョーラ朝(9-13世紀)ラージェーンドラ1世(在位1012-44)の遠征軍によって破壊され、急激に衰える。16世紀初め、シャムの支配下に入るが、交易の中心はすでにマラッカに移っていた。
 カンボジャ・チャンパ・コーチ=シナの節は多くの国を扱っているが、特記すべき事項は少ない。チャンパ(占城、現在のベトナム南部)の人々は海に弱いとされている。コーチ=シナ(同中北部のレ朝ベトナム)はマラカでの呼び方であるが、その国王は30、40隻のジャンクを持っており、「かれらはマラカにはジュンコではほとんど来ない。かれらはジュンコでシナの大都市であるカントン〔広州〕へ行き、シナ人の仲間に入る。そして、シナ人といっしょにシナ人のジュンコに乗って、商品を求めに行く。かれらの携えて来る主なものは[支払いでえた]黄金、銀、およびシナで買い入れた品物である」とある(諸国記、p.229)。
 15/16世紀の変わり目、中国明朝は海禁政策を緩和し、外国船の交易を認めるようになっていた。しかし、中国人には認められていない。そのもとで、コーチ=シナ人がシナ人の仲間に入ったとか、シナ人のジュンコに乗ったとかは、何を意味するのか。そこには密貿易のけはいが濃厚である。
▼中国人は脆弱で征服しやすい国民▼
 第4部シナからボルネオまでの諸国の紙幅は他に比べ誠に少ない。
 ボルネオ・ルソンの節では、それは漠然とカリマンタン島(ボルネオ島)やフィリピン諸島をさしている。まず、ブルネイ(渤泥、現ブルネイではない)が取り上げられ、その商人は毎年直接マラカへ来て取引をするという。そして、フィリピン北部の最大の島ルソンが取り上げられる。彼らは「マラカではあまり敬意を払われていない。かれらは2、3隻しかジュンコを持っていない」が、ブルネイ経由でマラカにやってくるという。
 これらのブルネイやルソンの地に、ヨーロッパ人がはじめて訪れるのは、1521年、世界一周を果たしたスペインのマゼラン艦隊であるが、それら島々の情報はそれ以前からマラカでは周知となっていた。
 トメ・ピレスが訪れようとするシナの情報は多くもないし、内容にも乏しい。彼は遣明大使としてわずかな知識を持って中国に赴いたことになる。なお、この時代のシナ、琉球、日本の海上交易については、Webページ【2・3・2 東アジア、朝貢と密貿易、琉球の世界】を参照されたい。
 なお、この時代のシナ、琉球、日本の海上 シナの節については、加藤栄一氏はポルトガル人が持っていた中国情報について、次のように解説する。「最初のものは1510年2月6日付のルイ・デ・アラウジョのマラッカからの書簡で……当地〔マラッカ〕に……毎年8ないし10隻のジュンコが来航するとある……次にアルブケルケが1511年マラッカに来航した時、同地で中国船と接触している。マラッカ占領後、司令官のルイ・デ・ブリト・バタリンは1513年にジョルジュ・アルヴァレス指揮の1隻の船を中国に派遣した。同船は1514年の暮にマラッカに帰航している。ビレスのこの記述は、マラッカで得た情報と、アルヴァレスの航海……の情報に基づいて書かれた」とする(諸国記、p.232)。
 トメ・ピレスは、朝貢と冊封について、一応の情報をえていたようである。朝貢「使節が1000点の貢物を持参すれば、国王はその2倍の品物を下賜する」とか(諸国記、p.235)、ジュンコが「碇泊するために定められている区域をこえると、積荷は没収されて国王に納められ、乗組員は殺される」とか(諸国記、p.236)述べている。
 マラカなどの南方からの船の入港地は広州が指定されていた。その錨地に投錨すると、中国の土商と呼ばれる「商人たちがやって来て、商品を評価し……それらから税金[抽分]を徴収する」とし(諸国記、p.239)、この商人たちが船に出向くのは税の徴収ばかりでなく、「かれら〔外国商人〕を上陸させないため」でもあったと書いている(諸国記、p.240)。
 シナについての決定的な記述は次のようなものである。そこにはポルトガル人のアジア進出の心性が見てとれる。
 「シナ人が、カントンへの入港を禁ずる法令を施行したことは、ジャオア人やマラヨ人[マレー人]を恐れてのことだということであるが、それはこのような国のジュンコ1隻でシナのジュンコ20隻を破壊することが確実だからである」。シナは1000隻以上のジュンコを持っているが、ジャオア人らに抱いている恐怖感から推して、「〔われわれナウの〕400トン程度の船1隻があれば、カントンをほろぼすことができることはたしかであろう」(諸国記、p.240)。
 「それを征服するためには、われわれに服従したマラカの支配者や、人々がいうほどの力を必要としないに違いない。なぜなら、かれらは脆弱な国民であり、征服しやすいからである。しかも同地へ何度も渡航したことのある重立った船長たちは、マラカを占領した[ポルトガルの]インディア総督ならば10隻の船でシナの沿岸地帯のすべてをも征服することができるであろう、と断言している」(諸国記、p.241)。
 マラカの支配者は中国人を侮り、それを真に受けるポルトガル人は中国を与しやすしとみた。こうした情報が1517年のトメ・ピレスたちの遠征艦隊が広州で行った傍若無人な振る舞いを促したとみてよい。
▼日本人はジュンコを持たない非海洋国民▼
 琉球・日本の節では、まずもって琉球人が取り上げられる。彼らは、マラカではレキオ人あるいはレケオ人とか、ゴーレス人とか呼ばれていた。彼らは、独特の形をした小船の他に「ジュンコは3、4隻持っているが、かれらはそれをたえずシナから買い入れている……かれらはシナ〔福建〕の港で取引をする。それはシナ本土にあり、カントンに近く、そこから一昼夜の航海のところにある」という(諸国記、p.248)。なお、琉球船の指定入港地は福州とされていた。
 その交易について、トメ・ピレスによれば「かれらはシナに渡航して、マラカからシナへ来た商品を持ち帰る。かれらはジャンポン〔日本〕へ赴く。それは海路7、8日の航程のところにある島である。かれらは、そこでこの島にある黄金と銅とを、商品と交換に買い入れる。レキオ人は自分の商品を自由に掛け売りする。そして代金を受け取る際に、もし人々がかれらを欺いたとしたら、かれらは剣を手にして代金を取り立てる」とある(諸国記、p.249)。
 琉球人が、マラッカに持ち込む「主要なものは、黄金、銅、あらゆる種類の武器、小筥、金箔を置いた寄木細工の手筥、扇、小麦である。それらの品物は出来がよい。かれらは黄金を多量に携えて来る。かれらはシナ人よりも正直な人々で、また恐れられている。かれらは多量の紙と各色の生糸を携えて来る。また麝香、陶器、緞子を携えて来る。また、かれらは玉ねぎやたくさんの野菜を運んで来る。かれらはシナ人が持ち帰るのと同じ商品を持ち帰る」という(諸国記、p.250)。
 琉球が中国船とともに自国製の船を併用していたこと、そして来航するジュンコは3、4隻、後段では1隻ないし2、3隻としていることが注目される。そして、琉球の海上交易が中国と日本に対する中継交易であったことが、それなりに示されている。
 琉球人の気質について、トメ・ピレスは「われわれの諸王国でミラン〔ミラノ〕について語るように、シナ人やその他のすべての国民はレキオ人について語る。かれらは正直な人間で、奴隷[や娼婦]を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。かれらはこれについては死を賭ける。レキオ人は偶像崇拝者である。もしかれらが航海に出て、危険に遭遇したときには、かれらは、『もしこれを逃れることができたらと、1人の美女を犠牲として買い求め、ジュンコの舳で首を落しましょう』とか、これに似たようなことをいって〔祈る〕。かれらは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」とまとめている(諸国記、p.248-9)。まさに、レキオ(琉球)人が」「守礼の民」であることを彷彿とさせる。
 琉球は、Webページ【2・3・2 東アジア、朝貢と密貿易、琉球の世界】において述べたように、15世紀半ばから16世紀初めにかけて、朝貢交易に名を借りた中継交易国として登場し、中国の明とその朝貢国のダミーとなる。しかし、16世紀に入ると、海寇と密貿易がはびこりだし、そしてポルトガルが進出するようになると、琉球の役割は終わる。こうした琉球人が活躍した一端を、トメ・ピレスは書き留めたといえる。
 こうした琉球の情報の付けたりとして、ジャンポン島が示される。以下が、そのすべてである。「すべてのシナ人のいうところによると、ジャンポン〔日本〕島はレキオ人の島々よりも大きく、国王はより強力で偉大である。それは商品にも自然の産物にも恵まれていない。国王は異教徒で、シナの国王の臣下である。かれらはシナと取引をすることはまれであるが、それは遠く離れていることと、かれらがジュンコを持たず、また海洋国民ではないからである。
 レキオ人は7、8日でジャンポンに赴き、上記の[シナに持ち込むのと同じ]商品を携えて行く。そして黄金や銅と交換する。レキオ人のところから[マラッカに]来たものは、みなレキオ人がジャンポンから携えて来るものである。レキオ人はジャンポンの人々と漁網やその他の商品で取引する」という(諸国記、p.251)。
 室町時代の日本は、「商品にも自然の産物にも恵まれない」、また「ジュンコを持たす、海洋国民でもない」とみなされている。そして、琉球人がマラッカで支払いに充てる「黄金と銅」が日本で調達していることを、しっかりと見て取っている。
▼アチェ王国が勃興し、ポルトガルに抵抗▼
 このトメ・ピレスの書物の圧巻は第5部(スマトラから香料諸島までの諸島)と第6部マラッカにある。第5部は、まずスマトラの節からはじまり、多くの王国が紹介される。
 スマトラの節で、トメ・ピレスはスマトラ島北西端にある15世紀に建国したアシェイ(2004年の地震でよく知られることになった、インドネシア特別州のアチェ)王国が威勢を張り始めていたという。この国は、20世紀初めのアチェ戦争に敗れてオランダの植民地となるが、それまではヨーロッパ勢力に抵抗して独立を維持したという、栄光に満ちたイスラーム教国である。
 このアチェ王国は、長岡新治郎氏によれば、「ポルトガル人が1521年にパサイに建設した要塞を、1525年に占領してその勢力を追放し、その後スマトラの東西両海岸で南に向かって、次第に勢力をひろげた。マラッカのポルトガル人に対しては終始敵対的で、1537年から1582年まで5回にわたってマラッカを攻撃したが、いずれも失敗に終った。17世紀に入ると、新たに進出して来たオランダと結び、西海岸の胡椒の産地における貿易を独占して大いに繁栄した」とある(諸国記、p.261)。
 スマトラ島の北東海岸にあるパセー(パサイ)という王国はサムドラ(蘇門答刺)とも呼ばれた著名な交易国であり、マルコ・ポーロ、イブン・バットゥータ、そして鄭和の艦隊も訪れている。この国は、ベンガラ人とその系統が建国し、また維持してきた国で、13世紀東南アジアで最初にイスラーム化した国であった。
 トメ・ピレスによれば、「現在、マラカは罰せられ[ポルトガルの1511年マラッカ占領をいう]、ぺディル[王国、アチェの隣なりの国]は戦争をしているので、パセー王国は繁栄して豊かになり、イスラム教徒の各国の商人やキリン人の商人が多く集まり、盛んに取引を行なっている。かれらの間でもっとも重要な人々は、ベンガラ人である。ルーム人、トルコ人、アラビア人、ペルシア人、グザラテ人、キリン人、マラヨ人、ジャオア人、シアン人もいる」という(諸国記、p.265)。
 従来、これら国々の商人にあっては、「ある者はパセーヘ、ある者はぺディルに向かい、残りの者がマラカへ向かう。東方から来る人々はパセーとは取引せず、ただ人口の多いマラカ市と取引するだけである」。したがって、「パセーはマラカでの出来事によって立派になったのであるが、マラカが日に日に改善されて行くにつれ、パセーは以前の状態に戻り……現在マラカを従えているもの[すなわちポルトガル]の朝貢者、臣下となるであろう」と宣言している(諸国記、p.270)。
 当時、マラッカはポルトガルの占拠により、その交易は混乱状態となっていた。そのおかげでパサイは一時的に繁盛しているが、その混乱が収まればマラッカ海峡一帯の国々もいずれはポルトガルの支配のもとにおかれるとする。この予想とは違って、パサイは1525年アチェ王国に征服されることになる。なお、スマトラ島の北側にある国々は海賊を抱えているとする。
 スマトラ島における伝統的な交易港であるジャンビ(三仏斉国)やパリンバン(旧港国)についてもふれているが、その記述は簡略である。後者には、多数の華僑が居住しているはずであるが、ふれていない。
 次に、スマトラ島の西海岸に回り、その北部にあるバリス(バルス)王国は「ソモトラ全島の品物の取引の中心地」であり、16世紀末から胡椒の集散地となったとされる。すでにみたように、アチェ王国はこの地方に支配を及ぼし、胡椒交易を厳重に管理するようになる。
▼ジャワの若き領主、マラッカ奪回を企てる▼
 ジャワの節は主としてスンダとジャワが扱われ、他に比べ非常に詳細である。まず、ジャワ島の西部にあたるスンダ地方は、長岡新治郎氏によれば、当時パジャジャラン王国(1433-1527)が支配しており、この地方の最後に残ったヒンドゥー教王国であった。「1522年には来航したポルトガル人と友好条約を結び、カラパ港に[領土としたことの]標識[パドラン]をたてることを許した。しかし、1527年ポルトガル人がふたたび来航した時には……イスラム教徒ファレテーハンのために占領されていた」。彼は、「バンタンに根拠地を置き、バンタン王国をたて、パジャジャラン王国を滅ぼした」という(諸国記、p.296)。
 このスンダにはバンタン港をはじめカラパ港など、6つのすばらしい港があり、「毎年ジュンコ10隻分も売ることができるほど」の食糧米があり、「米や食糧をジャオアヘしばしば売りに行く。マラカからは毎年2、3隻のジュンコが奴隷、米、胡椒を求めてスンダに行く。スンダからはパンガジャヴァ〔細長く吃水の浅い船〕が前記の商品[胡椒など]を積んでマラカに来航してきた」。
 ジャワ(爪哇)は、元の遠征軍を詭計によって撃退して、新しく興ったマジャパイト王国(1293-1520頃)であり、インドネシア、マレー半島などを支配する海洋帝国となったものの、イスラーム勢力が海岸部を進出してきたため、トメ・ピレスが来たころは分裂状態になっていた。その統一は17世紀の新マタラム(イスラーム・マタラム)王国の成立に待たねばならない。
 ジャオアの節は、まず内陸部にあるジャオア国[ジャワ]からはじまる。その王はグステ・パテといい、海岸のイスラーム教徒たちと、そのなかでもデマの領主と戦っていた。「ジャオア人は、昔はシナ人と姻戚関係があり、あるシナの国王は自分の娘に……大勢のシナ人をつけて送り、その後またカイシャという貨幣も送ってきた……マラカができる[と]……この100年来かれらはここには来ていない」とされる(諸国記、p.296)。この地には華僑がおり、明の銅貨であるカイシャが通用していたことを知りうる。
 ジャワの海岸にはイスラーム教徒がいた。ジャワには、「多くのペルシア人、アラビア人、グザラテ人、ベンガラ人、マラヨ人およびその他の国々の商人がたくさんやって来た」。「かれらの多くはイスラーム教徒で、この国での取引によって富裕になり」、「支配下の人々をジュンコにのせて航海し、異教徒の領主たちを殺し、自分たちが領主になった。かれらは、こうして海岸に君臨し、ジャオアの取引と権力とを握るようになった」とされる(諸国記、p.316)。
 こうしたイスラーム教徒の港市はジャワ島北岸に多数あったが、その中央にはデマとジャパラという国があり(現在も同名の町)、それらの領主の親であるパテ・ロディン1世はマラカで金を儲け、ジャオアと取引し、遂にそれら国々を奪うまでになる。彼には40隻ものジュンコを集められる力があった。
 その息子で、ジャパラの領主となった25歳のパテ・オヌスは、1512年から翌年にかけてマラカを襲撃してきた。トメ・ピレスは同年6/7月にマラカに入っており、この事件を直面したとみられる。それを実況するかのようにいう。
 「このこと[ポルトガルのマラカ占領]を知ったモウラナ[知識層]や重立った人々は、ポルトガル人から〔マラカ〕市を取り返すという計画ほど、正しいことはあり得ないと語った……彼[パテ・オヌス]はパリンバン[多分、華僑]の助けを借りて艦隊を作りあげた……約100隻の船がマラカに来襲した……小さい船でも200トン[はあった]……これらの船はマラカの港の前で迎撃され……故国には約7、8隻しか着かなかった。約1000人の人が死に、同じくらいの数の人が捕虜になった」。彼は敗北したものの、「ポルトガル人は自分を丁寧に取り扱ってくれたと語り、今では彼は山中で狩猟をしている」という(諸国記、p.278)。
 長岡新治郎氏は、「彼はスマトラ、マライ半島方面に勢力を拡大することを計画し、マラッカ在住のジャワ人もこれに参加した。彼は7年を費やして大艦隊を建造した。その間にポルトガル人がマラッカを占領したが、彼は計画を変更することなく、90隻の船と12000の兵力を率いて1512年の未いったんスマトラに向かい、1513年1月1日にマラッカを奇襲した。しかし、ポルトガル人はよくこれを防いだので、彼は目的を達することなくジャワに帰った。彼は世界でもっとも勇敢な国民と戦ったことを誇りとし、勝敗を眼中に置かなかった。彼の名声はこれによって高まり、3年後にはデマ王国の王位についた」と解説している(諸国記、p.326-7)。
 この1513年マラカ攻撃は、パテ・オヌスの所期の目的とは違って、それは期せず東南アジア島嶼の人々がポルトガルの侵略から、自らの海上交易を防衛しようとした戦いとなった。その果敢な抵抗は名誉ある敗北に終わる。それに伴う被害も大きかった。
 その結果、「ジャオアは孤立し、ジュンコもなくなってしまった。崩壊以前[マラカ攻撃の失敗前]にジュンコを持っていた領主たちも、現在ではそれを持っていない。また、かれらが集めることのできたジュンコはパテ・オヌスが持って行ってしまい、彼が敗北したため3隻しか帰還しなかった。従って、ジャオア全土とパリンバンには、10隻足らずのジュンコと10隻の船(ナヴィオ)のような貨物用のパンガジャヴァしかない」(諸国記、p.336)。
 トメ・ピレスは、アグラシすなわちアガシの国(現在のグレシク)に到着したという。「ここは商業のきわめて盛んな、ジャオア全土で最良の港である。ここには昔、グザラテ人、カレクト〔の人々〕、ベンガラ人、シアン人、シナ人、レキオ〔琉球〕人たちが船で来航していた」(諸国記、p.333)。そして、この港は「商人たちの港」と呼ばれ、ジャオア人の間では「富める人々の港」と呼ばれていた。その「港には、かつてたくさんのジュンコと……パンガジャヴァがあったが、現在では1隻もいない」(諸国記、p.334)。
 この国の領主の1人である「パテ・クスフは商人で、商品の取引に長じている」。また、「彼はマルコやバンダンヘの航路を握っていたので、彼と部下の商人たちが大量に〔商品を〕買い入れ、アガシでは大きな取引が行なわれていた。〔現在では〕マラカが崩壊したため、かれらは航海もせず、取引も行なわず、ジュンコも持っていない」(諸国記、p.335)。
 ここでは、東南アジア島嶼の人々がポルトガルの侵略を阻止できず、多くのジュンコを失ったことによって、彼らが海上交易から撤退せられていった過程が示されているといえる。
(次のページにつづく)


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