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続3・2・2 ポルトガルの「大航海時代」と東アジア交易
(Sequel) 3.2.2 Portugal's "The Age of Great Voyage"
and East Asian trade

(2) マカオ―長崎交易、宣教師大いに活躍

▼マカオに定住、日本交易拠点の建設▼
 ポルトガルの喜望峰航路の香辛料交易は16世紀半ばから次第に減退する。他方、インドやペルシアの宝石・ダイヤモンド・絹、インドのグジャラートやベンガルの綿織物、中国の陶磁器、そして日本の銀などの取扱いが増えたため、ポルトガルのアジア交易自体は17世紀半ばまで好調を維持する。ポルトガルには幸運がまだついてまわっていた。ポルトガル人たちは、中国船がマラカに持ち込んでくる商品を、自前で買い付けようとして、東アジアに乗り出してくる。
 ポルトガルは1503年ゴア、そして1511年マラカを攻略すると、1513年には商人のジョルジ・アルヴァレス(?-1521)がジャンク艦隊の1隻を指揮して、広州の珠江三角江に上陸、香港近くの屯門に居住地を建設するが退去させられ、双嶼島に移る。1517年には、『東方諸国記』作者のトメ・ピレスが、ポルトガルの公式使節として北京を訪れる。その応接の最中の1519年、使節派遣艦隊の司令官であるシマン・デ・アンデレーデが、広州に押し入る。しかし中国は交易を認めるところとならない。その方針はアヘン戦争まで一貫している。
 その後、ディオゴ・ペレイラをはじめアントニオ・ペレイラ、フランシスコ・トスカーノといったポルトガルの商人たちは自らの船を率いて、中国の浙江、福建、広東の沿岸に取り付き、中国といさかいを起こしながら、密交易するようになる。彼らは、1548年には浙江の双嶼島を明の軍隊に追われて、広州沖合の上川島(サンショアン)や浪自澳(ランパカウ)に移り、そこを主たる碇泊地として、年1回の定期市を開き、日本向け中国産品を手に入れるようになる。
 すでにみたように、東アジアに向かうポルトガル船はゴアを始発地として、ヨーロッパやアフリカの産品とインドの産品を積んで、マラカ経由、マカオに向かった。マカオでは中国人商人との交易を行なう。その後、ポルトガル船は積荷を日本向けのものにして、長崎を目指した。
 1555年、日本に向かうイエズス会インド管区長ベルショール・ヌーネス・パレットは、ゴアの同僚に、マカオから、次のような上川島の交易情報を書き送っている。「我らがいる港には3万キンタル余の胡椒があり、今、日本から到着した1艘のナウ船には10万クルザドの銀がある。広東の商品をこの上川島に運ぶ許可が得られると、その(胡椒と銀)ことごとくはおよそ1か月で消費[取引?]される。この島で中国人との交易がおこなわれ、(胡椒と銀は)絹、陶器、樟脳、銅、明礬、シナの木、その他、貴地や他の地方に向かう同類の商品と交換される。これは毎年行なわれることである」(東光博英著『マカオの歴史―南蛮の光と影』、p.38、大修館書店、1998)。
 1553年、レオネル・デ・ソウザというカピタン・モール(司令官)が17隻の艦隊を引き連れ、上川島に来る。かれは、明の海道副使・王柏と密約を交わし、銀1000両の賄賂を送るみかえりに、上川島より本土に近いマカオにポルトガル船が停泊すること、またポルトガル人が広東省城に入って交易することなどを認めさせた。これにより、ポルトガル人の中国人との交易は建前からすれば密交易であっても、地方官憲が公認した交易となった。ポルトガル人は中国の官憲に捕まり、1555年までにおよそ60人が投獄されていたが、高額の金を支払って釈放される。
 レオネル・デ・ソウザは、彼の雇い主(?!)であるドン・ルイシュ(ルイス)王子宛のコーチンから1556年1月15日付けの手紙で、広州における交易について交渉がもたれ、手数料を支払うことになった、また「このようにして私は平和をもたらした……多くのポルトガル人たちが広州の街や他のところに出かけ、そこで……もめ事を起こさず、思いどおりに商売を続けている」と書かれているという(以上、セザール・ギーエン・ヌーニェス著、西山宗雄他訳『マカオの歩み』、p.19、学芸出版社、1993)。
 ポルトガル人は、すでに1550年代から上川島に近い、広東語で澳門すなわちポルトガル語でマカオに住みついていたが、1557年になるとマカオでの居留が認められることとなった。この史実は、イエズス会士ジョアン・ロドリゲス(1561?-1633)の『日本教会史』に書かれている、中国の官憲がマカオに行くよう命じたという記述に基づいている。
 このマカオ居留あるいは定住について、東光博英氏は17世紀のイタリア人の史料には「マカオは武力によって奪ったのではなく、中国官憲の許可によって得たもので、1557年に海賊を討伐した功績により中国から正式に譲渡された」と書かれてある。その一方、
1639年のマカオ
「1629年に作成されたマカオ市民の国王宛報告書には、毎年、純銀500タエル(両)の租借料を中国官憲に支払っているとある。この支払いはアヘン戦争後の1849年頃まで続いた」わけであるから、マカオは決して譲渡されたわけではいという(東光前同、p.41)。
 なお、1540年代末から中国の地方当局は海賊を討伐する際、しばしばポルトガル人の助けを借りていたとされる。
 ヌーニェス氏によれば、マカオにおける交易について、「1575年から、貿易商人たちは年2回広州の街へ航行することが許されていた。当地で商品を仕入れ、出入港時に金や品物の形で莫大な贈り物を広州総督に、総督が不在の時は広州知事に、献上しなければならなかった。取引対象物は、主として白い生糸であった。それらはばら荷の状態で大量に特別の艀船[平底荷船]に積まれ、マカオへ輸送された。それは、日本、ゴア、香料諸島、その他の地方へ向かう船団の積み荷の空間を利用して取り引きされた。そして、カルデイロンという名で知られている3%のポルトガルの税金[カルデイラオンともいう、カオア市の財政を維持するための、2-4パーセントの税金]がかけられ、莫大な税収がもたらされた。これは日本貿易から得られたもので、その税収でマカオの街が維持されていった」とまとめている(ヌーニェス前同、p.30)。
▼カピタン・モールの任命、マカオを統治▼
 ヌーニェス氏は、初期のマカオ(むしろ、それ以前からの進出地)は統治組織が定まっていなかったため、「一種の金権政治体制で成り立っており、貿易を管理していた豪商らの議会によって治められていた。しかし、一旦ポルトガル帝国の広大な領土に編入されてしまうと、すぐにインドのゴアの属領とされ、マカオ・長崎航路のカピタン・モールの監督下に置かれた」という。
 また、カピタン・モールの職務や権限について、「実際、通常約1年に及ぶ日本への航海の間は、彼の事務所が統治に関する権利を行使した。この職位はポルトガル国王によって選任され、彼にその年の貿易独占権が与えられた(ポルトガルの貿易はその当時、世界中のどこでもこのような形式をとっていた)。時には任命された者は自分の権利を事務所[民間人ということか]に売り渡すこともあった。後に、その権利はゴアで競売にかけられるようになった」(以上、ヌーニェス前同、p.30)。
 このカピタン・モールは正式にはカピタン・モール・ダ・ダイアージェン・ダ・シナ・イ・ジャパォン(中国日本航海司令官)という。その初代が誰で、いつから派遣されたかは定かではない。東光博英氏は、「ポルトガル船の日本への来航は、マカオへの定住が始まった1557年に、早くもマカオ最初のカピタン・モールとして、フランシスコ・マルティンス(在任1557-58)の名前が挙がっている」とする(東光前同、p.76)。その派遣について、高瀬弘一郎史は前節でみたように1560年代としているし、初代としてフェルナンド・メネゼスという名も上げている。日本とマカオとの南蛮交易が1550年代に軌道に乗り、そのうま味が明らかになると、ほぼ直ちに派遣されてきたとみられる。
 ヌーニェス氏は「たいてい季節風が吹く間は、カピタン・モールはマカオの街に滞在し、その間彼は街の最高権力者であった。歴代のカピタン・モールのなかには、何人かの傑出した名前を挙げることができる。レオネル・デ・ソウザ(在任1558-59)、長崎港への最初のカピタン・モールとして非常に重要なトリスタン・ヴァシェ・ダ・ヴェイガ(在任1567-68、1571-72)、ノサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号の勇敢な船長であったアンドレ・ペソーア(在任1607-09、後出のぺッソアと同じ)、そしてロボ・サルメント・デ・カルバーリョ(在任1617-18、1621-23)、であった」とする。
 カピタン・モールが派遣されてきたことによって、東アジアの交易やマカオの統治に変化がみられた。マカオから日本へ向かう船は伝統的な商人の船に、カピタン・モールの船が加わることとなった。また、マカオを始発とする船ばかりでなく、ゴアを始発とする船も加わり、かなりの数の船が日本に渡るようになった。そもそも、マカオとの交易、そしてマカオという居留地は、東アジアに進出していた商人たちが築き上げ、また自力でもって維持してきたものであった。カピタン・モールの派遣は、商人たちの交易を排除できず、それに割り込む交易となった。
 マカオに居留する商人たちは、当然のようにカピタン・モールの派遣に反発した。それに対抗して、彼らはカピタン・テラ(居留地の長)を選出して、マカオの行政や中国人との交渉に当たった。カピタン・モールが、マカオに駐在している期間は限られていたので、マカオは彼らの事実上の自治のもとに置かれていた。マカオに早くから進出していた有力な商人で、聖フランシスコ・ザビエルの良き友であったという、ディオゴ・ペレイラは1563年から1565年の間にカピタン・テラになっている。
 なお、マカオには20人の富豪がおり、彼らは後述の日本イエズス会の交易品の掛け買いの訴訟人になっていた。また、マカオから日本向けのポルトガル船には200人もの商人や従者、奴隷が便乗していたという。
▼マカオに、総司令官の任命、商人と対立▼
 岡美穂子氏によれば、「1576年頃の[マカオの]統治形態としては、最高職にカピタン・モール、さらに首席治安判事であるオウヴィドール、司教、議会議員などによる分権的なものが確認されるが、この中でも教会権力がもつ力は増大していったと考えられる。日本へ赴くカピタン・モールが不在になると、ある期間マカオは最高権力者を失うことになり、以前カピタン・モールを務めた者や有力商人らの議員が政庁内で権力をもった」という(同稿「『モンスーン文書』にみられる17世紀前半ポルトガル船のアジア交易」、海域アジア史研究会例会報告要旨、2001・2)。
 マカオは、1582年国王公認の都市となり、市参事会が設置される。1585年には自治都市としての資格を獲得し、1623年にはカピタン・モールは行政から切り離される。マカオの町は成長して、1562年の時点で、ポルトガル人居住者の数はすでに800ないしは900人に達していた。オランダ人ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、1621年の住民数について、ポルトガル人と混血が700-800人に対して、中国人は1万人ほどであったと伝えている。
 1621-27年、マカオはオランダ艦隊から5回も繰り返し攻撃を受けるが、それをかろうじて撃退する。1623年カピタン・ジェラル(総司令官)が任命され、初代総督にフランシスコ・マスカレーニャス(在任1623-26)が就任する。彼の給与は400クルザドであった。彼の任務は、マカオを直接統治しようとするものであったため、マカオを支配してきた有力な商人たちから、カピタン・モールの派遣時以上の激しい反乱が起きる。この紛争は1625年に鎮圧される。それに参加した有力商人のなかには、ロドリゴ・サンチェス・デ・パレデスやペドロ・フェルナンデス・デ・カルヴァーリョといった、日本への交易を取り仕切ったフェイトル(商務員)が含まれていた。
 その後も総司令官と有力な商人たちの対立は続く。1635年になって、マヌエル・ラモスががマニラ・日本の航路責任者兼財務管理官(アドミニストラドール)として派遣されてくる。これによって総司令官が政治を統括し、航路責任者兼財務管理官が交易を管理することになる。
 このように、マカオにおけるトップのポストが更改されたのは、17世紀に入ってアジア交易が全体として衰退を余儀なくされているとき、ポルトガルにとって日本との交易が最も重要な稼ぎ先となっていたからである。その繁栄を築いてきたのは長年、マカオにあって中国―日本との交易を育んできた民間人たちであった。彼ら商人はマカオを壟断しうる力量を備えていた。そうした民間人を掣肘しながら、ポルトガル王室に有利になるようにマカオを統治しようとして、インディア州はさらなる高官を送り込まざるえなくなった。他方、彼ら商人にとっても、オランダやイギリスに対抗して交易を続けるためには、ポルトガル王室が派遣する軍艦は必要不可欠な護衛力であった。
 彼らの交易意欲とは裏腹に、徳川幕府はポルトガルを排除する鎖国を進めており、1639年ポルトガルは交易断絶を通告される。さらに、その残されたマカオ・マニラ交易も、スペインとの同君連合が解消すると禁止され、マカオの繁栄は終わる。
▼ポルトガル人、倭寇に誘引され、日本進出▼
 ポルトガル人は、コロンブスが黄金の国ジパング到達を悲願としたのとは異なって、1511年マラカを攻略すると直ちに中国人から情報を入手して、日本は黄金の国でなく、当時琉球人が日本との中継交易を行っていることを知る。そのことはWebページ【トメ・ピレス『東方諸国記』を読む】からみてとれる。しかし、日本への関心が急速に衰えたかどうかは、不明である。
 ポルトガルは、1513年に中国に接触し、そして1517年、1521年と使節を派遣するが、中国はボルトガルを朝貢国と認めず、正式に交易することにいたらない。当時、東アジアにおいては、明の海禁令のもとで、いわゆる後期倭寇が跳梁し始めた時期に当たる。彼らは、1520年代浙江省寧波の双嶼島を交易拠点としており、1540年代になるとポルトガル人をそこに誘い込み、密交易を行うようになる。中国人、日本人、そしてポルトガル人が入り交じって、日本と明とのあいだで密交易が行われる。
 こうした動きのなかで、1543年倭寇王直の船に便乗したポルトガル人3人が種子島に漂着する。1548年、倭寇王直は明の圧迫を受けて双嶼島を追われ、平戸を基地とするようになった。1550年、ポルトガル船が王直に導かれて、始めて平戸に入る。この船は、翌年布教を切り上げたザビエルを豊後からインドに送ることになった、ドゥアルテ・ダ・ガマの船であった。平戸の領主の松浦隆信はそれを歓迎、さらなる来航を促す。ポルトガル人商人が自前のポルトガル船でもって、はじめて日本に来航し、その後毎年、九州各地に入港するようになることをもって、南蛮交易の始まりとする。
 明の倭寇取り締まりは厳しくなる。1550年代半ば、嘉靖の大倭寇が起きるが、王直ら倭寇も次第に追いつめられる。1557年、ポルトガル人は倭寇取り締まりに協力したとして、明からマカオに居留することを認められる。彼らは、そこを基地として、日本と明との民間交易が禁止されているなかで、いわば公然たる立場にたって中国の生糸を買い入れ、それを日本に輸出し、日本から当時、生産が増大しつつあった銀を取り込み、中国に輸出するという中継貿易を行うようになる。
 金七紀男氏は、ポルトガルの日本との交易は「マカオに拠点を構えるポルトガルの貿易組合アルマサンは、日本への生糸の年間輸出量を1600ピコ(1ピコは約60キログラム)と定め、日本では糸割符パンカダ[後述]と呼ばれる一括方式で売却された。ことに、1575年テルナーテ島を原住民に奪われて、香料諸島における地位が危うくなりだしてから、日明間の通過貿易をますます重視するようになった」とする(金七前同、p.89)。
 ここにいうアルマサンは、1569年にマカオの初代司教となり、リスボン大司教にまで登ったドン・ベルショール・カルネイロの尽力により設立された、日本に生糸を輸出する商人たちの組合(あるいは会社)である。個々の組合員には多寡のある輸出量の持ち分があり、総持分数(あるいは総バケ数)が設立時1600ピコとなっていた。総数は、例えば1610年2000ピコとなっており、生糸の需給動向や組合員の増減によって変動したとみられる。
 また、「ゴア・長崎間の航海は季節風を利用していたので、1年半から長い時には3年もかかったが、南蛮屏風に見られるように、1000トンから2000トンもの黒くて巨大なナウ船には200人以上の商人が乗り込んでおり、16世紀末の記録によると、1回の航海で15万から20万ドゥカドの利益が上がった」と述べている(金七前同、p.90)。
 秀吉が天下を統一すると、国際交易は地方領主から取り上げられ幕府の管理となり、そして宗教と交易は分離させられ、キリシタン禁教令を出されるようになる。1600年、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、1609(慶長14)年オランダ、1613(慶長18)年イギリスが、平戸に商館を設置したことで、南蛮交易は新しい段階に入る。
19世紀の出島
川原慶賀画、1810
ロッテルダム海事博物館
18世紀の長崎地図
▼ポルトガル、日本から銀と奴隷を取り込む▼
 16世紀のポルトガルの日本との交易は、それが倭寇がらみの密交易として行われ、戦国時代の西南勢力の交易であったため、また1755年リスボン大地震でインディア州史料が焼失したこともあって、史料に乏しいという。
 16世紀、日本からの主要な輸出商品は銀であり、1580年代、ポルトガルは毎年50万ドッカド、5000貫ほど持ち出していたという。他方、ポルトガル船は日本に、1600(慶長5)年頃、年額白生糸を50000-60000斤(斤=600グラム)、染色撚り糸を40000-50000斤、金を30-40貫持ち込んできた。
 1600(慶長5)年頃、日本では金1に対して銀8、広東では金1に対して銀5.4-7であったので、ポルトガル人は金を日本に持ち込んで銀に換えるだけで、25.7パーセントの大もうけとなった。ポルトガル船が金を日本に最も多く持ち込んだ時期は、1580-1614年とされる。なお、寛永期に入ると銀産出が増加して、その価格が低下して金1に対して銀13となったが、中国において金が漸次、高騰したため、ポルトガル船は金を日本に持ち込まなくなったという。
 ポルトガル人は、アフリカやインドでの奴隷交易を営んできたが、東アジアに進出すると直ちに中国人や日本人を奴隷として買い込み、インディア州のほかヨーロッパやアメリカに売り飛ばす。1582(天正10)年出発、1590年帰国した天正遣欧少年使節は壮年・若年男女の日本人奴隷を世界各地で目撃することとなる。ポルトガル国王は1571(元亀2)年日本人奴隷の交易を禁じるが、その効果はなかった。1585(天正13)年、秀吉はイエズス会の初代日本準管区長となったガスパル・コエリョ(1530-1590)に日本での奴隷交易禁止を厳しく通告している。このコエリョは秀吉のキリシタン圧迫に対抗して軍事計画を立てたことで有名である。
 ポルトガルの日本との交易は、17世紀にはいるといくつかの制約が加わってくる。まず、日本を統一した徳川家康は、1604年朱印船制度を制定して、交易統制に乗り出す。朱印船は、1635年までに350隻以上が就航したとされ、コーチシナやトンキン、さらにマカオから生糸を直接、輸入するようになった。そして、オランダとイギリスが東アジア交易に参入してくる。彼らの艦隊は、1619(元和5)年平戸を根拠地にしてポルトガルの通商路破壊活動を始める。
 この日本船による南蛮貿易への参入は、マカオのポルトガル人商人にとって大きな脅威であった。そのなかで起きたのが、1608-09(慶長13-14)年、キリシタン大名有馬晴信とカピタン・モール・ぺッソアとの紛争である。その顛末は次の通りである。この事件により、江戸幕府は脱ポルトガル政策を模索し始め、またマカオの商人たちはカピタン・モールの傘下で交易するようになり、その後の使用船は小型の快速船となったとされる。
キリシタン大名有馬晴信とカピタン・モール・ぺッソアとの紛争
●朱印船乗組員60余人、マカオで、ポルトガル兵に射殺さる
 1608年、肥前日野江藩主有馬晴信(42)[1580年受洗のキリシタン大名]の送った朱印船乗組員が、マカオの市中でポルトガル兵の襲撃をうけ、60人あまりが射殺された。
 インドシナ半島東南岸のチャンパでは貴重な香木伽羅を産出する。晴信は家康から銀60貫目を預かって、伽羅の買い付けを頼まれ、この前年、朱印船をチャンパに送っていた。朱印船は帰途、実質的にポルトガルの植民地になっていたマカオに寄港、風向きが変わるのを待って越年した。
 ところが上陸した乗組員たちがたびたび乱暴を働いたため、今回ついにマカオ総督アンドレ・ぺッソアがポルトガル兵に逮捕を命じたものである。市中の2軒の家に立てこもった日本人乗組員はポルトガル兵に包囲され、1軒の乗組員たちはすぐに降伏したが、もう1軒の60余人は家から出ようとしなかった。このためポルトガル側は家に火を放ち、飛び出してくるところを射殺した。
 この事件は、日本の朱印船がマカオで中国人から直接生糸などを買い付けるため、ポルトガルのこれまでの貿易独占が崩れ始めたことへのいらだちの表れでもあった。
 翌年5月、ぺッソアが長崎に来航すると、晴信は復讐の挙に出る。

●「マカオの仇を長崎で」、有馬晴信、ポルトガル船を攻撃
 1609年2月15日 ポルトガルの定期貿易船マードレ・デ・デウス号[従来からの誤称、正しくはノサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号](900トン)は、肥前日野江藩主有馬晴信(43)の約1200の兵による包囲攻撃をうけ、4日間にわたる戦闘ののち航行不能となり、この日、司令官アンドレ・ぺッソアの命で火薬庫に点火し自沈した。
 ぺッソアと乗組員も船と運命をともにした。ぺッソアはマカオ総督でもあり、前年、有馬晴信が送った朱印船の乗組員60人あまりを射殺させた責任者だった。
 同船はこの年5月末、長崎に来航。司令官ぺッソアは、ただちに駿府の家康に使者を送り、前年のマカオでおこった騒乱の釈明をするとともに、マカオへの日本船渡航の禁止を訴え、日本人が中国人から直接生糸を買いつけることをきらって、8月24日、その要請を認められていた。
 一方、有馬晴信は、家康の許可を得たうえで、長崎奉行長谷川左兵衛、長崎代官村山等安らと打ち合わせてぺッソアを召喚した。だが、ぺッソアは異常な雰囲気を感知してこれに応ぜず、早々に積み荷をまとめて出帆しようとした。このため晴信は12月12日、デウス号の攻撃を命じたのである。
 デウス号爆沈の報は、こののち京都・大坂の生糸価格を2倍に引き上ける。マカオは日本との貿易停止を決めるが、マカオ市民の反発を招き、3年後の9月に貿易を再開。しかし、この短い間にポルトガルは対日貿易でオランダに優位を奪われる。
出所:『日本全史』、p.469、471、講談社、1991。
 1621(元和8)年オランダ艦隊がマカオを攻撃する。1624(寛永元)年、オランダ人はタイワンにゼーランディア城を築き、マカオ―長崎、マカオ―マニラ貿易を切断しようとする。オランダ艦隊は、1631(寛永8)年ごろからマラカ海峡を封鎖して、マカオの孤立を図る。1636(寛永13)年からはセイロン島(スリランカ)のポルトガル人を駆逐する作戦を始める、また9年にわたってゴアを封鎖する。
 しかし、このような情勢となったにもかかわらず、ポルトガル人の日本との交易をねばり強く継続する。元和期、マカオのポルトガル人の戦力はなお頑強であった。1621(元和7)年、マカオ港内に17隻のポルトガル船が停泊しており、その6隻が貨物を満載して日本に向かおうとしていた。しかしオランダ・イギリスの艦隊は攻撃をためらう。翌年、オランダ艦隊はマカオを攻撃するが、300人以上の死傷者を出して撃退される。
 寛永期に入つても、ポルトガルの勢力はなお強いものがった。1627(寛永4)年、オランダ艦隊はシナ海域で撃破され、旗艦アウェルケルク号の艦長ら30余人が捕虜となる。また、1637(寛永14)年になっても、マカオのポルトガル人はなお広東市場・マニラ・トンキン・シャム交易も保持していた。ただ、生糸の輸入量は少なくなるが、綿織物の輸入量をめざましく増加する。
 なお、ポルトガル人は、1618(元和4)年から日本向けの大船の使用をやめ、船足が軽快で火力装備もよいガリオタ(galiota)、ナヴェタ(naveta)、パタショ(pataxo)などの400トン以下の小船を利用し、オランダ船の目をかすめて行動する。
朱印船交趾渡航図(部分)
朱印船を3艘の小舟が曳航している
江戸時代中期・18世紀、九州国立博物館蔵
▼ポルトガルの日本との交易、オランダを凌ぐ▼
 17世紀になるとかなりの交易史料があるかにみえる。それを山脇悌二郎稿「近世の対外関係」(森克己他編『大系日本史叢書5 対外関係史』、p.124-29、山川出版社、1978)から拾って列挙すると、次の通りである。
 1621(元和7)年、ポルトガル船の長崎入港は6隻であり、その積荷はオランダ価格で300万フロリン以上、日本銀に直して8423貫余と見積られた。平戸商館長レオナルー=カンプスの1622(元和8)年の記述によれば、ポルトガル船は日本から毎年平均して銀を約120-150万ドゥカド、すなわち年平均1万2000-1万5000貫を輸出したことになっている。
 1635(寛永12)年には、生糸5万1000斤(そのうち、白生糸1万6000斤、黄生糸・片撚糸3万5000斤)、絹織物27万3000反を売り、銀1万5000貫を輸出している。1636(寛永13)年、ナヴェタ船4隻が来航した。その取引き額は銀2万3172貫余であった。それはポルトガルの日本との交易上のレコードとされる。
 平戸オランダ商館の仕訳帳によれば、同年オランダ船7隻は銀3600貫、銅26万9173斤、銅銭1350万個、その他を、総額で299万4372フロリン輸出した。すなわち、ポルトガル船の銀輸出量はオランダ船の6倍半余であり、ポルトガル船の輸出銀の価額はオランダ船の日本品の輸出総額の2.2倍余に当たる。
 1637(寛永14)年、ポルトガルのガリオタ6隻がマカオから来航した。白生糸は少量しか持って来なかったが、オランダ人の言を借りれば信じ難いぼどの量の各種の織物、その他を舶載しており、丁銀高2万1423貫646匁5分の取引きした。このうち、絹織物は52万8496反と16枚、売り銀高は1万6246貫982匁7分であって、商品総売上高の75.83パーセントを占める。17世紀のポルトガル人は、日本との交易において生糸に替えて、ほぼもっぱら綿織物を輸入し、銀を輸出するようになっていたのである。
 なお、同年、オランダ船7隻が平戸から輸出した主なものは丁銀6060貫と銅銭2126万個である。目玉商品である銀の輸出量はポルトガル船の4分の1にも足りない。ポルトガル人の日本交易における実力は、オランダ人を遥かに引き離していた。
 1638(寛永15)年はポルトガル人の取引きが最後となった年であるが、ガリオタが2隻入港して、2万貫以上を売った。翌年、ガリオタ4隻がマカオを出港、台風にあってバラバラになって入港するが、積荷の陸揚げを禁止され、積荷目録の受領も拒絶される。積荷のうちの5000貫に相当する貨物は、先年、日本人から借りた銀を支払うためのものであったが、なぜか債権者は受け取ることを禁止される。
 同年8月、江戸から下った上使太田資宗が長崎において、この年来航した重立つポルトガル人5人と、島原の乱とのかかわりを疑われて前年から拘禁されていたカピタン2人を奉行所に呼び出し、ポルトガル船の来航禁止を宣言する。なお、オランダ艦隊は幕府の原城攻撃に荷担してした。
▼イエズス会、交易の利益を求めて、布教▼
 ポルトガルの海外進出は布教と交易とが相たずさえたといわれるが、特に日本にあっては宣教師が果たした役割はきわめて大きなものがあった。彼ら宣教師は、日本に乗り込んでから追い出されるまで、聖職者と交易人というの2つの顔を持ち続けた。
 種子島漂着から6年目の1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルはマラカで知り合った日本人アンジローに導かれ、中国船に乗って鹿児島に上陸、布教しはじめる。九州や畿内の領主は、ポルトガル人と交易したいがために彼らと争って接触し、領内のカトリックの布教を認め、実に15人の領主がキリシタン大名となる。
 ポルトガルの日本との交易、いわゆる南蛮交易は、1549年のザビエル鹿児島上陸以後、本格的に始まる。ザビエルは、都に近い堺には裕福な商人がたくさん住んでおり、そこに商館を設けて交易を行えば利益が大きいと、商品リストまで添付して、書き送る。九州の領主たちはポルトガル船を引き入れるため布教を認めたが、宣教師にあっても布教を認める領主の港にポルトガル船を誘導した。ポルトガル船も、そうした港に入ることで、確実な取引が可能となった。
 ザビエルの後継者コスメ・デ・トーレス(1510-1570)は豊後の府内を活動拠点に据え、ポルトガル船の入港先の決定権を握り、また生糸や鮫皮などを望む領主と取引して、布教を有利に進めたという。1563年には大村純忠を改宗させたことで、1570年に長崎が開港され(1680年その一角を寄進)、翌年からポルトガル船の本格的な寄港地となる。1570年、日本布教長となって赴任して来たフランシスコ・カブラル(1529-1609)は、有馬義直、大友宗麟ら、九州の有力領主を改宗させる。
 日本に多数の宣教師を送り込んできたのはイエズス会であった。1603(慶長8)年10月8日付日本巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ(後出)の記録によれば、「その頃、日本にはイエズス会士121人、同宿約300人、教会の世話をする者190人以上、その他従僕がおり、合計約900人という構成であった」。なお教会の数は190以上あった(高瀬弘一郎著『キリシタン時代の研究』、p.203、岩波書店、1977、以下、高瀬研究という)。
 そうした彼らが日本で布教活動するには、「1 多数に上った日本イエズス会布教団の維持費、2 カーザ・教会等の建築費、3 物資の輸送や宣教師の旅などの費用、4 領主等への進物、5 迫害を受けた者や貧者等への施し、6 カーザを来訪する者に対する接待費、7 迫害・戦争・船の遭難に伴う出費」といった多額な費用がかかった(高瀬研究前同、p.175)。
 それら費用に当てるため、彼らにはポルトガル国王やローマ教皇からの年金、ゴアやマラカ、マカオ、日本にある不動産からの収入、税収入からの配当といった、定収入源があった。イエズス会が交易をやめることを条件にして、1585年ローマ教皇からの年金が4000ドゥカドから6000ドゥカドへ、また1607年ポルトガル国王からの年金が2000ドゥカドから4000ドゥカドに引き上げられ、1610年には1回のシナへの航海権を売ってえられる利益の半分を支給されている。
 現実の年間経費は、1570年代までは6000クルザド以下、その以後1587年秀吉の伴天連追放令までは1万-1万5000クルザド、その後の数年は8000-1万クルザド、1590年代後半から1612年家康の禁教令頃までは1万2000-1万6000クルザド、その後は1万クルザド前後であった(高瀬研究前同、p.610)。
アレシャンドゥロ・
ヴァリニャーノ
 ヴァリニャーノは、日本の教会を維持するのに必要な手許金は総額36000ドゥカドだとしたうえで、その3分の1は今年度の経費、その3分の1は年1回の定航船が来ない場合(欠航はかなりあった)の次年度の経費、そして残る3分の1は交易資金であるとしている(高瀬研究前同、p.205)。
 なお、イエズス会の財務の状態は、16世紀半ば約2-3万クルザドの繰越金があったが、1603年7月マカオでポルトガル船がオランダ船の略奪を受けことで損害を受け、1604年に限り莫大な利益を上げたものの、ポルトガル船の欠航があり、1607年からは完全に赤字に転落して、日本撤退まで1-3万クルザドの負債を負うことになった(高瀬研究前同、p.257)。
 日本のイエズス会は、定収入だけでは宣教資金を賄いきれないため、積極的に交易を行ってその不足を補った。ルイス・デ・アルメイダ(1525‐83)は外科医であったが、マカオに来て高名な商人となる。1552年来日したが、翌年イエズス会のイルマン(パードレより1階級下の修道士)となる。その際、4000-5000ドゥカド(天正菱大判100枚以上)という多額の資産を提供する。イエズス会はそれを元手にしてマカオ―日本交易に参入したとされる。なお、彼は豊後の府内に病院を建設して、西洋手術を行っている。
▼宣教師の2つの顔―聖職者と交易人―▼
 日本イエズス会は、長崎に、準管区長(ゴア管区の布教区から、1581年より日本準管区、1611年より日本管区となる)に次ぐ地位にある、財務担当のプロクラドール(通常、管区代表と訳される)を配置していた。その職には、他の管区とは違って、高度な政治的・経済的な手腕が要求されたため、四盛式立誓司祭という高位聖職者が任じられた。
 プロクラドールが行った職務は、1 日本イエズス会で必要とする物資の調達とその補給、2 金や銀の補袷と保管、3 各種帳簿の作成、4 小包・書翰の授受、5 収支状況の監査、資産の増大、6 交易の管理、7 日本人のマカオ交易に対する仲介斡旋、8 長崎での生糸一括取引の価格(パンカダ価格)の決定に対する介入、9 金品の貸与であった(高瀬研究前同、p.529)。
 プロクラドールのパンカダ価格の決定に対する介入は、建前としては禁止されていたが、かなり日常的に行われていた。パードレのジョアン・ロドリゲスは幾度か登場するが、1601(慶長6)年家康から交易への参入免許状を与えれ、それに介入している。
カピタン一行を出迎えるイエズス会宣教師(左)と
フランシスコ会修道士(右)、日本人信者たち
南蛮屏風(右隻)部分、狩野内膳筆、16世紀末-17世紀初
神戸市立博物館蔵
 イエズス会は、主としてマカオと日本とのあいだの交易に様々な形で関わってきたが、その主な形態は、1 自己資金による交易にとどまらず、2 イエズス会の信用を利用して、交易品の掛け売りをさせたり、3 日本人から銀を預かり、特定の品物を買付ける交易を仲介斡旋したり、4 さらに進んで委託交易を引き受けるようになったり、また交易資金を調達するため、5 単なる借入金や、6 レスポンデンシアという形での借入金を取り込むことにあった。
 イエズス会の初期の交易について、フランシスコ・カブラルの1583年10月5日付マカオ発総会長宛て書翰には、マカオで「日本のプロクラドール、パードレ・ミゲル・ソアレスはコレジオの中に自分の取引のカーザを持ち、そこでは絶えず商品の出し入れが行われている。また、シナ商人が頻繁に出入りしている。同パードレ自身、他の人々に代って買えるなら、自ら店に行き商品を買求めている。そして、日本に送られる商品に多額の投資をする外にも商品を買い、それを同地でもっと高く転売する。資金は非常に巨額なので、それで以て外から送られてくる商品を買占めてしまう。凡ての人々がこのことを訴え、不満を述べている」とある(高瀬研究前同、p.272)。
 プロクラドールが行う交易はイエズス会公認の交易ではあったが、その事務所はパードレの取引所だと呼ばれた。さらにまた、1570年以前から、少なくない宣教師が非公認の交易に手を染めるようになっており、初期の清貧の気風を早くも失い、悪徳の生業にのめり込んでいた。なお、ヴァリニャーノは1581年その非公認の交易を禁止する。その後もたびたび布告されるが、それが止むことはなかった。
 それを改善するため、1579年東インド管区巡察師ヴァリニャーノ(1539-1606、三度来日)が日本に乗り込んでくる。プロクラドールの交易活動を規制するため、「日本のプロクラドールの規則」を作成する。その規則によれば、海上交易に1万3000タエルまでを投資してもよいが、扱う物品はカーザや教会で使用したり、進物にする綿織物・絹織物、生糸の他は、嵩張らず人目につかないで売買できる、金が適切とした。しかし、実際に「日本イエズス会が扱った商品は、この外に各種の絹織物・綿織物・陶器・砂糖・薬品・鉛・麝香・竜涎香等に及んだ。この内、特に織物類を扱ったことがいろいろと弊害を招いた」(高瀬研究前同、p.530)。
 また、ヴァリニャーノは1584年に生糸輸出組合アルマサンと交渉して、イエズス会の交易がマカオの商人たちの交易を圧迫しているという不満に答えるため、パードレたちが90-100ピコ(1ピコ=約60キログラム)ほど送っていたという生糸については40ピコ(後に50ピコ)に減らし、それをアルマサンが輸出する1600ピコのなかに含めるという契約、またマカオの政庁から後述の仲介斡旋による交易額は6000ドゥカド以内にするという了解を取り付ける。現実には、それらを基準にして交易された。
▼イエズス会の自前交易と交易の仲介斡旋▼
 1590年8月、ヴァリニャーノが招集した第2回日本イエズス会全体協議会の記録には、日本イエズス会が行っている交易モデルを示されている。われわれは、「日本航路を航海するシナからのナウ船で常に一定額の資産を送る必要があった。これは1万-1万2000クルザドもの額に上らざるをえない。この内、3000は日本イエズス会が維持している教会・カーザ、その他すべての布教施設で使用するのに必要な衣服のための綿織物・綿織物・毛織物を買うのに費やし、その残りのかねで50ピコの生糸と若干の金を買入れる。これは、そこからの利益で経費をまかなうためである。〔中略〕この投資によって毎年大凡3000クルザド迄の利益が上る」(高瀬研究前同、p.591)。
 それら取引額や利益高はかなり大幅に変動するが、おおむね年間取引額9000-12000クルザドに対して、利益高4000-8000クルザド、利益率30-50パーセントか、それ以上であった。そうした利益高はすでにみた年間経費の3分の1から3分の2に当たり、それがイエズス会にとって重要な収入となっていたことがわかる(高瀬研究前同、p.610)。
 日本人に対する交易の仲介斡旋は、キリシタン布教のかなり初期から行われてきた。当時、マカオでは日本人がマカオで交易することが禁止されていたので、イエズス会士にその斡旋を依頼するのが最も有効な方法となっていた。他方、それを受け入れることで、領主たちの歓心を買い、布教活動を容易になるといった便宜があった。その限りでイエズス会はそこから利益を上げていなかったかにみえる。
 しかし、それは、委託者と受託者のお互いが営利を目的とした商行為である、委託交易と区別のつけがたいものであった。1610年代初め、総会長から、イエズス会士の仲介斡旋業務を禁じられる。それは守られず、「日本イエズス会の財務内容の悪化、日本イエズス会首脳の方針の転換、国内情勢の変化等の諸要因が重なり、17世紀に入り、この委託貿易を収入源の1つとすることになる」。17世紀の委託交易の対象は主として絹織物と金となった。生糸は管理品となっており、その対象に基本的にはなりえなかった。
 家康は海上交易に熱心で、「イエズス会士に接近を図り、彼等の仲介斡旋によって行なった家康の貿易は相当な額に上ったものと見られる。一方、イエズス会が家康からこの種の依頼を受けるようになったのは、丁度時期的に日本イエズス会の財務内容が悪化して、[信仰ベースでなく]商業ベースによる資金調達[後述のレスポンデンシアをいう]を余儀なくされた頃と一致している」(以上、高瀬研究前同、p.292-3)。
 当時、日本イエズス会の財務は準管区長フランシスコ・パシオとプロクラドールのジョアン・ロドリゲスが担当していた。彼らは海上交易活動によって収益を図ることに熱心で、日本人のための仲介斡旋を大規模に行ない、私腹を肥やしていた。そればかりか、1620年代イエズス会士たちの退廃ぶりは目を覆うばかりとなっており、布教の熱意はなくなっていた。
▼レスポンデンシア=海上銀という冒険貸借▼
 ポルトガルの日本との交易実務においては、レスポンデンシアあるいは投銀、そしてパンカダあるいは糸割符という交易タームが注目され、それらについて論争がみられた。
 16世紀中ば、日本は銀灰吹き製法の導入によって、世界最大の銀の産出国となる。その銀は、生糸、絹織物、香辛料など中国産品や東南アジア産品の代価として長崎で支払われたり、それらを買い付けるためにヨーロッパ船や朱印船などによって外国に持ち出された。
 それに以外に、レスポンデンシアあるいは投(資)銀という、金融手法でもって持ち出された。その額は中途半端なものでなく、1639(寛永16)年ポルトガル人の日本との交易が終局を迎えたとき、日本人の投資銀7000貫、広東・福建商人の投資銀5000-7000貫が焦げついた。日本人の焦げつき債権額は、彼らの1637(寛永14)年1か年の売上げ高の3分の1にに当たる額であった。
 レスポンデンシアあるいは投銀という用語について、高瀬弘一郎氏は1639(寛永16)年2月21日付で老中が長崎奉行に与えた条目の一つは、「天川船ニ海上銀并言伝銀停止事」となっており、投銀については言及していない。「投銀というのは、何か特定の性格を持つ金銭貸借を指す名称ではなく、広く海外貿易に対する投資一般に対する総称と言える」、海上銀はレスポンデンシア(respondencia)、言伝銀(ことづてぎん)は委託交易を当たるとする(高瀬研究前同、p.316)。なお、天川(あまかわ、阿媽、亜媽)とは、マカオ(澳門)の古称である。
 レスポンデンシア証文は、その契約終了とともに本来破棄されるが、和文・欧文・漢文の数通が残存している。それには一定の書式があり、欧文証文は 1 貸主と借主の名前、2 銀額と利率、3 出航地と渡航先、4 航海の船名と艘数、5 海難の場合の損失は貸主が負担すること、6帰航が1艘のみの場合の措置、6 延滞の場合の割増、7 日付(即ち契約年月日)となっている(高瀬研究前同、p.316)。
 和文証文の例をみると、1637(寛永14)年、ツリスタン=タバレスという者が博多の商人伊藤小左衛門・伊藤七兵衛から借りたときに作成した証文によれば、「……棒銀50貫をレスポンデンシアで利率31パーセントで借りる。この銀は長崎からマカオまでは6隻に分載することにする。貸銀支払いの引きあてとして来年舶載する荷物は、マカオから長崎までは同日・同時刻の出帆船に分載し、1隻だけ出港する場合は載せない。2隻が他の船よりも先に出帆する場合は、その2隻に分載する。時季遅れで出港する船には乗せない。来年、荷物が届かぬときは10パーセントを利に加算する。もしタバレス本人、タバレスの兄弟も来航しない場合には、タバレスは信頼できる人物に荷物を託送して支払わせる。また特に託送しない場合でも、タバレス兄弟の荷物を預かって長崎に来る人はだれでも、この債務の支払い義務を負う」というものであった(山脇前同、p.129-30)。
 貸し手は、そのほとんどが博多や長崎、平戸などの鳥井家や末次家といった日本人商人であったが、日本に居留するポルトガル人、さらにマカオにいる中国人商人もいた。借り手は、マカオにいて便乗してくるポルトガル人商人、ポルトガル船の士官、そしてイエズス会であった。その利率は、渡航先や航海の危険など元利回収の見込みの程度によって、25パーセントから50パーセントまでの開きがあったが、多くは40パーセントであった。
 この利率の高さは、すでにみた一般の交易の利益率に限りなく近いので、レスポンデンシアによる借り入れは相当程度の利益が見込まれる交易が、そこにあったということになる。イエズス会の例では、1618年10月8日付長崎発、カルロ・スピノラ(1564-1622)の総会長宛書翰によれば、「貸主はわれわれの信徒であり、また銀はわれわれに貸付ける方が安全なので、われわれは他人より低い利率で借入れている。それは、生糸を買うのに必要な銀をマカオに送るためである。このような方法で、われわれは冒険を冒すことなく、利息を支払った上に40乃至50パーセントの利益を得ることも時折ある。屡々われわれは、これによって救われている。今年は140パーセントの儲けがあり、元手と利息40パーセントを支払っても、なおわれわれの手許に100パーセントの純益が残った」とある(高瀬研究前同、p.306)。
 レスポンデンシアは、1590年代以前から行われていた。イエズス会がレスポンデンシアで借り入れるようになったのは、家康の禁教令が出された1612年以降となっている。イエズス会が、委託交易よりも「レスポンデンシアのような投機的融資に依存せざるをえなくなったこと自体、日本教会の経済基盤が一層不健全なものとなったことを意味しており、キリシタン布教が経済面からも破綻していった」ことを示しているとされる(高瀬研究前同、p.325)。それをインド副王やマカオ総司令官は禁じたが遵守されなかった。なお、幕府の海上銀や言伝銀の停止は、ポルトガルの交易資金源を絶とうしたものであった。
 和文証文の例にみるように、借り手が次季の航海、日本に帰ってきて出帆するまでに、貸し手に元金と利子を現金で返還するのではなく、それが積んできた、それらに相当する荷物でもって元金と利子を返還する契約となっている。当時、外国船は受取手段として銀を望んでいるとき、借銀支払いに引当てられるものは現金ではなく、主としてマカオからの積荷とならざるをえなった。こうしたことから、レスポンデンシアは冒険金銭貸借ではなく、委託交易とか共同事業とか誤認されることとなった。
南蛮屏風
上:左隻(帰帆)、下:右隻(来航)、狩野内膳筆、16世紀末-17世紀初
 神戸市立博物館蔵
▼ポルトガルの日本との交易と価格形成▼
 高瀬弘一郎氏は、イエズス会文書などを広範囲に分析して、日本におけるポルトガルの交易を見事に数量化してみせてくれる。
 日本におけるポルトガルの交易の総取引高について、1570-90年代おおよそ40-60万クルザドであった。17世紀に入って1630年代冒頭までは50-150万クルザドであった。その後1630年代を通して200-230万タエルに上った。しかし、データが乏しいとせざるえないという(高瀬貿易前同、p.17)。
 1600年家康が覇権を確立すると、ポルトガルの総取引高は増大しはじめる。その傾向は、オランダやイギリスが参入し、また朱印船が活動するなかにあっても続き、さらにポルトガルが日本との交易から排除される直前、巨額となる。家康の天下平定後、日本の交易需要は著しく増大するが、その需要をポルトガルも最大限に取り込んだといえる。しかし、それは死に花でしかなかった。
 ポルトガルの日本との交易は、日本に生糸を持ち込み、日本から銀を持ち帰ることにあった。その生糸の取引量は、マカオの生糸輸出組合アルマサンが定めた年間輸出量1600ピコが基準となって、1000ピコから2500ピコの幅のなかで増減することになっている。ただ、1633(寛永10)年以降は、パンカダ価格(糸割符価格、それらは後述)が他の商品に影響が及ぶのを恐れて、ポルトガルは生糸の持ち込み量を制限するようになった(高瀬貿易前同、p.26)。
 日本に輸入された生糸の価格(ピコ当り)は1630年代以前の史料は乏しいが、16世紀は150タエル前後、17世紀に入って1620年までは150-300タエルであった。1633-8年は215-315タエルであった。パンカダ価格は長期間にわたって比較的安定していた。それに反してパンカダ外の糸価は変動が大きかった(高瀬貿易前同、p.34)。ここでの論点は、日本での需要の増大に伴い生糸の価格は上昇してきたが、それが糸割符商法の導入によって上げ止まったかどうかである。
 マカオから日本に輸出される生糸の価格形成について、例えばヴァリニャーノの『弁駁書』(1598年1月)によれば、「生糸はシナでピコ当りおおよそ90ドゥカドで買い入れ、日本で140で売られるが、この内10パーセントは運賃に、3パーセントは税金に支払い差し引かれるので、ピコ当りおおよそ121ドゥカドの売上げになる」とある(高瀬貿易前同、p.28)。マカオと日本における価格は、それぞれにおいて当然のように変動するが、1625年の例では133ドゥカドで買われ、200ドゥカドで売られたという。
 パンカダ価格からみた生糸の取引高は、アルマサンが定めた年間輸出量1600ピコをとるとおよそ、16世紀は24万タエル、17世紀に入って1620年までは24-48万タエル、1633-8年は34-50万タエルとなる。総取引高はいま上でみたように通りであるが、それに生糸の取引高が占める程度をみると、大まかなところ、総取引高が少ない場合は2分の1、それが多い場合は3分の1となる。
 日本イエズス会は、ポルトガルの日本との交易の重要な一角を形成してきたとされる。イエズス会の年間取引高は9000-12000クルザドとなっており、委託交易の受託額を6000クルザドに抑えるとし、またアルマサンから受け取る生糸の量を50ピコとしている。それらがポルトガルの総取引高やアルマサンとの定めに占める程度は、イエズス会の宣教師たちがあれこれと行っているの非公認の交易を加えても、5パーセントを超えることはない。それでも、マカオに居留するポルトガルの商人たちは、日本イエズス会の交易をその初期はともかく、それを驚異と受け取っていたとはいえないであろう。
▼パンカダ=マカオ生糸輸出組合の一括販売▼
 ポルトガル人のアジアにおける海上交易の実務について知ることが少ない。そのなかにあって長崎における生糸取引の実務が論点となってきた。その取引を、ポルトガル・スペイン人はパンカダ、イギリス・オランダ人はパンカドと呼んできた。高瀬弘一郎氏は、ここでもイエズス会文書を利用して、パンカダと糸割符の異同を解明し、糸割符に関する通説をつがえす。
 まず、「バンカダというのは、ポルトガル人やスペイン人の間で行なわれてきた商法で、各個人が個別に商いをするのではなく、売手と買手の双方がそれぞれに纏まって代表を立て、その双方の代表の間で売買価格の交渉を行ない、その価格で商品を一括して取引するものである。また、このような商法から転じて、その一括取引の価格の意味でも、この語が用いられた」と定義する(高瀬貿易前同、p.152)。
 ポルトガルは、長崎に船で持ち込んだ「生糸の大部分について、買手と交渉の上バンカダ価格を決め、一括売却するのはポルトガル人自身の商法であって、糸割符制定以前から長崎で行なわれていた」(高瀬貿易前同、p.145)。ポルトガルの売り手の商法に対応して、日本は1604(慶長9)年になってポルトガル船に対する糸割符制を導入する(1631年シナ船、1633、41年オランダ船に導入、1655年廃止)。それによって、糸割符制がパンカドと同義とされるようになるが、糸割符制は買い手の商法であって、その内容には異同がある。


ポルトガルの商人たち
 1620-40年に到着したポルトガル船を描いた
屏風絵(部分)
アベリー・ブランデージコレクション
サンフランシスコ・アジア美術館(アメリカ)蔵
 高瀬弘一郎氏にあっては、ポルトガル人のパンカダは頭から「売手と買手の双方が代表を立てる」ことになっている。それを含めパンカダが1604(慶長9)年以前のいつごろから、どのようにして始まったか、それが持つ取引上の意味合いは明らかにしてはくれない。なお、以下述べることのうち、その起源について1570年頃「アルマサンが組織されたことと関係があるかもしれない」という程度で認める(高瀬貿易前同、p.269)。
 まず、長崎における生糸の交易は、1617/8年頃のイエズス会の文書によれば、「マカオ市は常にナウ船で代理商人1人(フェイトル)と外に何人かの職員(オフィシアエス)を派遣する。彼らは日本に着くや、長崎奉行に舶載して来たすべての生糸の目録を提出し、直ちに彼および日本の商人たちとバンカダ、すなわち生糸を売る価格について交渉をする。それが決まると、奉行はいろいろな都市からそこに集って来た大勢の日本の商人に生糸を分配し、自分の裁量によって1人1人に生糸を与えている。そしてこの配分に従って、商人は各自ナウ船に行き、そこで生糸の目方を計り、目録により奉行から与えられた分量を取得する」ことになっていたという(高瀬貿易前同、p.132)。
 ここで注意すべきことは、一括取引とか一括販売というと、1人の売り手が数ある商品を持ち込んできて売却し、それを1人の買い手が買付けて持ち帰ったかのようにみえる。そうではなく、一手の売り手が登場するなかで、すべての商品に単一の価格が決定されていくことに決定的な意味合いがあった。
 まず、ポルトガル船においてパンカダあるいは一括売却の対象となっているのは生糸のみである。なぜ、そうなるのか。すでにみたように、ポルトガル船が長崎に寄港するようになる1年前の1570年頃にマカオにアルマサンという生糸輸出組合が結成され、日本への生糸輸出を独占する権利を持つようになった。その組合には、生糸がマカオの主要な輸出品であったことからみて、マカオにいるポルトガル人商人はほぼ全員参加したとみられる。彼らにはそれぞれ輸出量の持ち分(それをバケという)があり、その総数が設立時1600ピコとなっていた。そのため、日本へのパンカダ以外での生糸の輸出は、厳しく取り締まられることとなった。
 マカオの生糸は、組合員たちが共同出荷するこうした輸出規制商品として、一つの積荷としてまとめられ、品目別に違いがあるとしても、長崎においては同一価格すなわちバンカダ価格で売られこととなった。こうした措置は、マカオでの生糸の輸出競争を押さえ、日本での生糸の売却価格を高く維持しながら、マカオに居留するポルトガルの商人たちに一定の営業利益を保証するためにあったとみられる。これは一種のカルテルである。なお、バンカダ価格には10パーセントの運賃(積荷料)と、3パーセントのマカオの税金が含まれていた。
 いまや、あれこれの組合員(商人)がポルトガル船に乗って長崎に来て、生糸を取引する必要はなくなり、当然の成り行きとして、マカオ市あるいはアルマサンの代理商人や職員たちが一括あるいは一手の売り手として選任され、派遣された。彼らはマカオの商人たちに雇われており、交易情報に熟知した上で、日本人と交渉してパンカダ価格を決めていた。なお、ここにいう代理商人はフェイトルのことであり、普通、商務員と訳される。
 ポルトガル人は、パンカダを「大量の商品を限られた期間内に売り捌く上で利点があった」(高瀬貿易前同、p.41)から採用したわけではない。マカオの生糸輸出組合の持つ仕組みがパンカダという生糸の売り手の商法を生んだといえる。それは、ポルトガルの日本との交易が軌道に乗ったとみられる、1570年代から行われるようになった。こうした一括売りあるいは一手売りは、買い手の日本人が生糸を渇望しているとき、その価格は売り手に有利に決定しえたに違いない。したがって、そうした商法に日本人はともかく、ポルトガル人が不満を述べることはありえない。
▼糸割符制、生糸の高値を抑制▼
 糸割符由緒書には、慶長9年(1604年)5月3日付けのいわゆる糸割符奉書「黒船着岸之時、定置年寄共糸のね[値]いたさざる以前、諸国商人長崎へ不可入候、糸の直相定候上者、万望次第致商売べき者也」とともに、生糸の売れ行き不振に悩むポルトガル人を救済する措置だったという創設の契機と、輸入生糸の配分を京100丸、堺120丸、長崎100丸(1丸=50斤)とすることが記されている。1631年江戸50丸、翌年大坂50丸が加わり、5か所仲間となる。
 糸割符制は、通説では、江戸幕府は京・堺・長崎の三都の有力商人たちに命じて、ポルトガル船が舶載するシナ白生糸を買いとる糸割符仲間を結成させ、この団体の代表者といえる糸割符年寄とポルトガル人とのあいだで白生糸の価格を取り決めさせ、その全部を糸割符仲間に買い取らせる措置ととらえられてきた。そして、いまみた糸割符創設の契機に加え、その目的が生糸の輸入価格を引き下げ、ポルトガル船の暴利を抑えることにあったとされてきた。
 山脇悌二郎氏は、その創設の契機を糸割符由緒書とは逆に、当時、全国では凶作続きで、なお政情は不安定で、上方・長崎は不景気であったが、「イエズス会の日本管区代表ジョアン=ロドリゲスは、慶長7年[1602年]日本商人とポルトガル商人との間に立って生糸の取引きを行ない、価格を引き上げるため策謀を用い、それまで日本で例がないほどの高い価格、ポルトガル人たちまでが余りにも法外なと考えたほどの高値をつけた」からだと述べる(山脇前同、p.134)。なお、高瀬弘一郎氏はこの1602年の交易状況を認めながら、糸割符制の契機とはしない(高瀬貿易前同、p.262)。
 高瀬弘一郎氏は、ポルトガル船は1598・1600・1602年の3回、来航しているが、そのいずれについても、生糸が売行き不振となった事実はない。したがって、糸割符由緒書の創設の契機には信憑性なく、それは1630年代のオランダを配慮した書き付けだとする。しかし、その創設の契機については語らない。
 そして、「ポルトガル貿易の取引経過を見てみると、諸国商人を長崎から遮断して、先ずポルトガル側と糸割符年寄との間の交渉によって生糸のバン
糸割符割渡覚
日本銀行貨幣博物館蔵
カダ価格を決め、その後で他の商品の売買を許す旨の糸割符奉書の規定は、実はその後約30年間遵守実行されでおらず、同じ趣旨を謳う一条を含む寛永10年(1633年)鎖国令が下されるに及んで、はじめてこれが実施された」とする(高瀬貿易前同、p.177)。
 長崎の生糸取引において、「バンカダ(一括取引)は[糸割符]制定以前から既に一貫して行なわれている。幕府権力が介入したためにバンカダに変化を来した」ことはなく、その「基本的な取引の仕組が不変である以上、輸入糸価の抑制が制度的に可能であった筈はないし……事実抑制が行なわれた形跡もない」、最終的に「いろいろな点から見て、糸割符制定によってマカオ=長崎間貿易の基本的な実態が変わったとは考えられない」とする(高瀬貿易前同、p.252)。
 しかし、江戸幕府はマカオの輸出カルテル=アルマサンに習って、輸入カルテルとしての糸割符制を作らせて、それに対抗して輸入価格を交渉し、またそれによって需要が増大するもとでの生糸の仕入れ競争を制限しようとした。そこで決まった価格はバンカダ価格であるだけでなく、同時に糸割符価格でもあった。ただ、輸入カルテルは日本人の需要の高さから、全面的には機能しなかった。
 しかしながら、一手の買い手として生糸輸入組織といえる糸割符仲間が形成されたこと、3か所の糸割符仲間にはそれぞれに生糸引受け高が決められたこと、その代表者として糸割符年寄が価格交渉するようになったこと、そこで決まった価格で生糸が一括購入されるようになったことによって、糸割符制が上昇し続けている生糸の輸入価格の抑制に寄与した意義は小さくないであろう。
 江戸幕府は、1631(寛永8)年になって強硬な態度に出たらしく、ポルトガルは利益を損なうような生糸の価格を強要され、帰国する態度を示した。それは、ポルトガルにとってはここ2年間中断していた交易が再開されたので高値を予定していたが、シナ船が大量の生糸を持ち込んで来たため見込みがはずれることとなった。他方、日本にあっては、債務を取り立てるため生糸の差し押さえが行われ、また糸割符仲間に江戸(翌年大坂)が追加されたことで、品薄による価格騰貴が警戒され、生糸の価格を低く抑える必要があったとされる(高瀬貿易前同、p.159)。
 1633(寛永10)年鎖国令以後、ポルトガルは糸割符取引を避けるようになり、生糸の取引高も減少する。それは、糸割符制が厳格に実施されることで生糸価格が抑えられ、オランダやイギリス、中国船との競争に耐えられなくなり、また生糸に代わる商品を持ち込むようになったからであった。
 この糸割符制は、ポルトガル船を対象としていたが、シナ船やオランダ船にも拡張される。1639(寛永16)年ポルトガル船は来航を禁じられ、1641(寛永18)年鎖国は完成する。1655(明暦元)年には糸割符を廃止する。その後の交易政策は価格規制から、取引高規制(1685年御定高制、唐船銀6000貫、オランダ船銀3000貫、1715年正徳新例、唐船30隻、オランダ船2隻)に移行する。
 なお、糸割符仲間が生糸を購入する以前に、将軍やその縁故筋が先買いしていた。その価格はパンカダ価格と同一であった。この先買いは糸割符制以前から行われていた。また、糸割符は最初シナ白生糸だけに行なわれたが、元和・寛永年代以降はときには絹織物・綿織物・生糸類・縫糸についても行なわれた。
▼オランダ、ポルトガルの海外拠点を乗っ取る▼
 スペインのフェリペ2世は、ヴェネツィアおよびローマ教皇庁の艦隊と連合して、1571年レパント沖の海戦で宿敵オスマン・トルコを破り、またポルトガル王フィリペ1世として即位したことで、文字通り、「太陽の没することなき帝国」の統治者となる。それは絶頂であって、すでに1568年からオランダが反旗を翻し、イギリスもまたその海洋支配に挑戦しはじめていた。
 フェリペ2世は、イギリスがカトリックのメアリ・スチュアートを処刑すると、1588年テージョ河口からポルトガルの戦艦31隻を含む200隻余のスペイン無敵艦隊を出発させる。しかし、イギリス海峡でイギリス海軍に完敗する。その後、暴風雨に遭遇して、無事帰還できた船はわずか53隻にすぎなかった。この海戦の敗戦によって、ポルトガルやスペインといった先発の海洋支配国の地位は、大きく揺らぐこととなった。
 オランダは、1579年スペインから独立する。オランダ船は1585年ポルトガルの港から締め出されると、ポルトガルから香辛料、砂糖、魚に使う塩などがえられなくなる。彼らはそれらを求めて、スペインに併合されたポルトガルの海外領域に侵入するようになる。
ポルトガルとオランダの抗争地
1588年から1654年の間
緑;ポルトガル、橙:オランダ、褐:紛争地域、▽;紛争海域
 1598年サン・トメ、プリンシペ両島の攻撃を手始めとして、ポルトガルがアジア、西アフリカ、ブラジルにおいて築いてきた権益を、世界規模で争奪しようとする。オランダのアジア進出については、すでにWebページ【3・2・1 東南アジアの港市とヨーロッパの進出】においてふれた通りであるが、1600年モルツカ諸島進出、1619年バタヴィア建設、1641年ポルトガル領マラカ攻略が、そのメルクマールである。
 大西洋においては、オランダはブラジル産の砂糖をヨーロッパに転売して大きな利益をえていたが、ポルトガルへの入港を禁止されると、1612年西インド会社を設立してブラジルに進出する。1624-25年バイーアを一時征服し、1630年から15年間にわたって主要砂糖産地のレシーフェを支配下に収める。1638年奴隷交易の拠点であるエルミナ砦(商館)を攻略し、次いで現アンゴラのベンゲラの海岸に進出する。
 この時期、「1605年には南大西洋上にオランダの輸送船が何隻も航行するようになっており、その年だけで180隻のオランダ船が南アメリカの塩田を訪れた。1621年になると、オランダは砂糖輸送の支配権をも手中に収め、ブラジルとの交易のために年に12隻の船を建造し、29の製糖所を稼動させて4万箱の粗糖を精製するまでになった。ポルトガルの植民地における物資輸送のうち半分以上が、政治や外交とは無関係にオランダの船によって行なわれるようになっていた」。しかし、後述するように、それらからオランダは最終的には撤退させられる。
 オランダの素早い進出には、「ポルトガルの海運業者の多くは、リスボンに暮らす新教徒の商人層に属し、祖先の代にやむなく改宗したユダヤ人の家系だった。彼らが、大半がポルトガルからの亡命者で構成されていたアムステルダムのユダヤ人社会と、おおむね良好な関係を結んでいた」という背景があった(以上、デビッド・バーミンガム著、高田有現・西川あゆみ訳『ポルトガル史』、p.69、創土社、2002)。
 これらオランダの進退について、金七紀男氏は「経済力・海運力・人材でも圧倒的優位に立っていた新興国オランダは、アジアからポルトガル人を駆逐することに成功したにもかかわらず、西アフリカ、ブラジルでは退却しなければならなかったのは、ポルトガル人が入植者としてブラジルに強固な基盤を築いており、またオランダがブラジルよりも本国ポルトガルとの交易を重視したことが大きな理由であった」という(金七前同、p.126)。
▼1570年代からおよそ100年間「砂糖の時代」▼
 1500年、ペドロ・アルヴァレス・カブラル(1467?-1520)の艦隊は、インドへの遠征途上、ブラジルを「発見」する。ポルトガルは、それをトルデシリヤス条約にしたがってポルトガル領に編入し、1822年に独立するまでポルトガルの植民地となる。ブラジルの時代は、モノカルチャーの違いから、まず発見直後の「パウ・ブラジルの時代」、1570年代からおよそ100年間「砂糖の時代」が続き、次いで1690年代から1760年代まで「金の時代」となり、独立達成後の1830年代からは「コーヒーの時代」に入るとされる。
 パウ・ブラジルは蘇芳という赤色の染料剤で、ヨーロッパへ輸出された。その伐採交易を国王の独占としたが、その権利はリスボンの商人フエルナン・デ・ノローニャに譲渡されていた。しかし、フランス人が入り込み、パウ・ブラジルの伐採を始めたため、ポルトガルは本格的な植民を決める。1530年代、カピタニア制という封建的な植民地開発方式を採用する。それが失敗に終わると、国王直属の総督が統治する総督制が敷かれる。
 1549年、初代総督としてトメ・デ・ソウザが派遣され、現ブラジル東部バイーア州のサルヴァドールに首都を建設し、砂糖産業を積極的に奨励するようになる。ポルトガルの砂糖生産は、すでにマディラ諸島やサン・トメ島において始められており、その経験がブラジルに持ち込まれた。ポルトガル人は、16世紀前半インディア州に毎年2000人ほどが移民したというが、16世紀末から17世紀になると関心はブラジルに向かい、毎年3000-5000人が植民したという。
 入植者たちは、先住民インディオを奴隷として砂糖農園で働かせたため、彼らの反抗を招いた。また、イエズス会士たちからインディオの奴隷化に反対される。3代目総督メン・デ・サは、1570年インディオの奴隷化禁止令を公布するが、インディオに代えて、アフリカから大量の黒人奴隷を輸入する道を開く。それにイエズス会も反対しなかった。
 この砂糖生産はブラジル北東の海岸部沿いに急速に成長する。それは、ヨーロッパにおいて砂糖の需要が著しく増大していたことを受けて、最初からヨーロッパ市場を目当てにしていた。1570年60に過ぎなかった製糖工場は1585年には130を数え、1645年には300に増えた。また、生産量も1570年18万アロバ(1アロバ=約15キログラム)から、1545年には140万アロバ、1670年には250万アロバと100年間に実に25倍に増加していた。それは世界一の生産規模であった。
 こうした飛躍的な砂糖生産の増加を支えていたのは、ギニア(アンゴラ)、コンゴ、モザンビクから輸入された黒人奴隷であった。アフリカ黒人奴隷の輸入はアフリカ進出後から行われ、16世紀にポルトガル本土に20-30万人が流入し、ヨーロッパ諸国に転売されていた。ブラジルへの輸入は1570年から増加し、1670年までの100年間に輸入された、奴隷の総数は約40万人と見積られている。この奴隷貿易は国王の独占であったが、1573年からアシエントと呼ばれる契約制を通じて、民間人にその権利が譲渡される。
 ブラジルで生産された粗糖はリスボンやアムステルダムに輸出され、そこからヨーロッパ諸国に移出された。こうして、1570年代から、ヨーロッパ、ブラジル、アフリカを結ぶ三角貿易が形成され、ブラジルは砂糖産業、アフリカは奴隷交易を通じて、ヨーロッパ経済に組み込まれることになった。ポルトガルにとっては、植民地ブラジルが1570年代から「砂糖の時代」に入ったことで、16世紀後半から衰微し始めたインドの香辛料交易に取って代わって、重要な富の源となる(この項、主として金七前同、p.91-5)。
▼ポルトガルの「大航海時代」の幕切れ▼
 ポルトガルは、1580年スペインに併合されたが大幅の自治権が認められ、海外経営も従来通りポルトガル人に委ねられていた。1621年スペインのフェリペ4世(在位1621-40)が即位する。その頃には、スペインもその海洋帝国を財務的に維持することが、困難になっていた。
 オリバレス伯(1587-1645)が宰相に就くと、ポルトガル人に増税を課させられ、ポルトガル人徴兵が戦場に送れると、ポルトガル人の不満が募り、反乱が起きる。1640年、ポルトガルの貴族がアヴィス朝の血統を引くブラガンサ公爵ドン・ジョアン(在位1630-1640)を推戴して、ポルトガルの再独立を宣言する。新しいブラガンサ王朝を開かれたものの、国内的では貴族や商人層が統一されていないばかりか、国際的にはスペインやオランダと戦わねばならなかった。1668年になって、ポルトガルはスペインと和平条約を結んで、独立を確保する。
 ポルトガルのアジア交易拠点は、スペイン併合期、オランダやイギリスの攻撃にさらされ、1600年モルッカ諸島、1609年スリランカ、1622年オルムズを失っていた。1630年以後、それが激しくなり、再独立後の1641年マラカをオランダに奪われるなど、インドや東南アジアの拠点を次々と失い、スペイン併合期に繁栄した日本との交易から排除され、壊滅的な打撃を受ける。その結果、1660年代にはポルトガルはゴア、マカオ、東ティモールを維持するにすぎなくなる。
 こうして、ポルトガルが長年にわたって依存してきたアジア交易は衰退を遂げるが、再独立したポルトガルを経済的に支えたのが、すでにみたブラジルの砂糖産業であった。ポルトガルの海外経済の重心は大西洋に移らざるをなくなるが、その大西洋もオランダに浸食されていた。それでも、1648年ポルトガルはリオ・デ・ジャネイロから遠征隊を派遣し、激戦の末、アンゴラの首府ルアンダを奪回し、また1654年ブラジル商事会社(1649年設立、1662年直轄商業委員会に改組)の60隻の艦隊が、ブラジルの砂糖きび畑地帯のレシーフェに押し入っていたオランダを追放する。
 1670年代、ポルトガルは不況の時代となる。それは、ブラジルの砂糖産業が新興のカリブ諸島に押されて、急速に衰退したからであった。それは、15世紀後半以降200年余にわたって、ポルトガルが国を挙げての海外依存経済が破綻したことを意味した。その破綻をつくろうため、17世紀後半から工業化政策を進める。しかし、それは輸出ワインを生産する、地主貴族から反発を招いて挫折する。
 そのときまたも、1693年ミナス・ジェライスにおいて待望の金が発見され、ゴールド・ラッシュが始まる。なお、1729年にはダイヤモンドも発見されて、黄金の時代は1760年まで続くことになる。
 ポルトガルは再独立後、スペインに対抗するためイギリスとの関係を強化し、1642年から数次にわたって友好通商条約を結ぶ。その代償として、ポルトガルはイギリス船の本国および植民地への自由な寄港を認めたり、ポルトガルに居留するイギリス人への特権を付与しなければならなくなる。こうしてポルトガルはイギリスに従属するようになる。
 イギリス人商人はリスボンやポルトに商館を構え、海上交易に介入して大きな利益をあげはじめる。また、黄金の時代、ポルトガルに多くの富が流れ込むが、それが資金として蓄積され産業に投資されることなく、宮殿や教会の建設や奢侈品の購入に浪費され、しかもその大部分がイギリスに流出する。
 1703年、イギリスとのあいだで有名なメシュエン条約が結ばれる。それは、ポルトガルがそれまで禁止していたイギリスの毛織物の輸入を認め、イギリスがポルトガルのワインをフランスやスペインの3分の1の関税で輸入することにしたものであった。その後、ポルトガルの市場はイギリスなどの工業製品に対して、より一層開放されることとなった。
 合田昌史氏のいうように、ワインと、金と、イギリスが、ポルトガルの工業化あるいは近代化を蹉跌させるといえる。他方、イギリスはポルトガルを取り込んだことで資金を蓄積
リスボン港を出帆する商人
所載:セオドア・デ・ブリー著
『ブラジル航海記』の挿絵(複製)、1592
して、ロンドンはアムステルダムに代わる金融の中心地となり、18世紀後半からの産業革命を進めることとが可能となる。
▼ポルトガルの「大航海時代」の意義▼
 合田昌史氏は、ポルトガルという「当時人口100万ないし150万人程のこの小国が、なぜ大航海時代の先駆けをはたしえたのであろうか」と問い、まず技術的条件として「航海術や造船術はヨーロッパでは13世紀から14世紀にかけて急速に進歩していた。羅針盤やポルトラーノ海図が地中海で実用化され、北欧の船尾材舵と地中海の三角帆を備えた帆船が、カンタブリア沿岸で発達していた。しかし、大航海時代前夜で技術的に先行していたのはカタルーニャ人やイタリア人であった。ポルトガル人は彼らから知識と技術を取り入れたが、ポルトガル独自のカラヴェラ船や天文航法が長足の進歩をとげたのは、拡張が第2段階に進む15世紀後半以降である」。
 「したがって、早期の進出を可能にした要因としては、ヨーロッパの南西端で大西洋に臨み、北アフリカに近い地理的利点を、第1にあげるべきであろう。第2にレコンキスタの経験と精神がある。南下膨張の国是はカトリックの聖戦意識によって正当化された。ただし、これはイベリアのキリスト教諸国家に共通であるから、第3にあげるべきはカスティリャ、アラゴン……に比してポルトガルは14世紀末に政治的再編成をとげ、新生アヴィス朝のもとで統合の度合をむしろ強めていた。第4にあげられるのは1411年にカスティリャと和約を結び、14世紀後半に高まった緊張関係をいったん解消したことである。隣国からの脅威が消え、外征への懸念がはらわれた」とする。
 また、ポルトガルも、他国と同じように中世末の危機が克服されず、「黒死病の時代以後の1世紀間で国家の収入は半減していた。貨幣価値の下落は地代収入に頼る貴族を苦しめていたが、その主因は貴金属とくに金の深刻な不足であった。その乏しい金および銀をヨーロッパから吸いよせていたのはアジアの物産である……ジョアン1世は新興貴族の台頭に直面して、潜在的な脅威を回避する必要があった。こうしてポルトガルは対外進出によって内部の危機を乗りきる道を選んだ」とする(合田前同、p.376-8)。
 金七紀男氏は「16世紀半ばを境にインドの香料交易は目に見えて減少し始め、1578年のアルカセル・キビールの戦いの後、ポルトガルはスペインの支配下に入る。たしかに香料交易はポルトガルに莫大な富をもたらしたが、人口150万に満たず、国内産業の脆弱な小国が、たとえ点の支配とはいえ、アフリカ、アジア、新大陸の支配領域を全面的に護持することは不可能であった。16世紀前半の帝国経済の中心地であるインド領もヨーロッパの進んだ船舶と火器によって守られていたのである。その交易を維持するための費用は膨大なものだった。年1回のインド航海の費用をはじめ、香料交易を独占するためにアジアに散在する商館・要塞とそこに勤務する役人、インド洋を遊弋する艦隊の維持に莫大な出費を要した。しかも、東洋交易に投下される資本から利潤を得るためには3年の期間が必要であり、極東交易には6年もかかる場合があった。広いインド洋の制海権を維持することができなくなったとき、香料独占は破れ、中近東の伝統的な通商路の復活を許すことになる」(金七前同、p.113)。
 「コロンブスの『新大陸発見』とヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見に象徴される大航海時代とは、15世紀から17世紀末に至るヨーロッパ人の海外進出によって、それまで孤立していた大陸や地域が相互に結びついて、世界が一体化した時期を指す。それまで、旧大陸の人間は新大陸の存在を知らず、アメリカのインディオたちにとっても、コロンブスは『新大陸』にやって来た招かざる侵入者にすぎなかった」。「15世紀に始まる世界の一体化は、ヨーロッパ人が直接世界各地に踏み込み、ヨーロッパ中心の世界システムを半ば暴力的に形成していくことで実現する」と説明する(金七前同、p.69)。
 それでは世界はどのような一体化を遂げたのであろうか。
▼若干のまとめ▼
 ポルトガルの海外進出の総括については、スペインともども後日行うこととする。ここでは、16-17世紀のポルトガルのアジア交易に限って、若干のまとめを行う。
 16世紀前半まで、ポルトガル王室は自国の交易とアジア交易を独占してはいたが、16世紀後半アジアの香辛料交易が曲がり角になると、王室独占交易を航海権という形で分割して、インディア州の勤務者に譲渡され、それが民間人に売却されるようになると、その王室独占は解体を遂げ、事実上民間交易となってしまう。そうした変形を遂げざるえなかった根拠は何か。その一つの回答は、王室組織では世界大となった交易が独占しきれなくなったからであろう。
 アジアにおける主たる交易である香辛料交易は、王の交易とともに古代から引き継がれてきた、奢侈品を買い付ける遠隔地交易の一種ではあるが、そこでの特徴は農産品の最終需要者が遠隔地にある産地に直接に乗り込んで、直接、買い付ける交易となったことである。それは、古代から遠隔地交易のような中継交易の連鎖ではなくなっており、近代にみる遠距離交易となっている。
 しかし、そのポルトガルの直接買付け交易は復航の貨物についていえることであって、それに見合う往航の貨物あるいは買付け資金を持ち込まれなければならない。しかし、ポルトガルはアジア産品を買付けるのに十分な交換手段あるいは買付け資金を用意できなかった。それらを、ポルトガル人はアジア産品の産地であるアジアにおいて、しかもアジア産品―日本銀、さらにマニラ経由のアメリカの銀を含む―を中継交易することで稼ぎ出した。
 ポルトガルのアジアにおける交易は、アジアに出稼ぎして、その中継交易でえた利益によってアジア産品を買い付ける交易であったといえる。それは、最終需要者の直接買付け交易となっているが、古代から引き継がれてきた中継交易から逃れることができない。新たなオランダやイギリスといった直接買付け人が現れると、ポルトガルの交易独占はたわいもなく崩れることとなった。彼らも、ポルトガルがアジアに振る舞ったように、それを武力でもって果した。
 17世紀になると、ポルトガルはアジアから追い立てられ、ブラジルの砂糖生産に依存するようになる。そのなかにあって、ポルトガルにとって日本との交易は買い付けの銀を供給してくれる死活の交易となっていた。他方、日本にとってポルトガルとの交易は、中国の禁輸のもとで、西方産品を供給してくれる交易相手であった。
 ポルトガルの日本との交易は実質的においてマカオ―長崎交易であった。マカオに居留するようになったポルトガル人商人たちは、長年、中国官憲に圧迫され、また倭寇と連合・対立しながら生き延びてきた、海千山千の商人たちであった。それだけに、彼らは抜け目はなく、長期かつ共通の利益をはかるため、日本への主要交易品である生糸について輸出カルテルを組むなどし、また自らが仕立てたかなりの数の船を、国王から航海権を下付された船とともに、日本に送り込んできたとみられる。そうした彼らがマカオ―長崎交易の主たる担い手となっていた。
 こうしたポルトガルの交易はイエズス会の仲介なくしてはありえなかった。秀吉はそれを分離しようとしたが不徹底に終わり、家康はそれを利用し続けた後、見限る。その結果、ポルトガルの交易はイエズス会の布教の道連れにされて退場させられる。それは交易も布教も、特に日本においては、それぞれがそれぞれの事業の一環であったことの、当然の結末であった。
 なお、ポルトガルのブラジルにおける砂糖生産とそれをめぐる交易は、大西洋における近世の三角貿易の先駆をなすものであり、また近代の交易への前史をなしていた。
(2006/06/24記、2007/10/25補記、2014/05/01補記)

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