目次
2.4.4.1 Medieval Italian trading cities, partnered with the Crusades ▼中世イタリア、四分五裂から領域国家へ▼ 中世初期(5-10世紀)のイタリアは、西ヨーロッパ、ビザンツ、イスラームという三つの世界の辺境が接する地域となった。ユスティニアヌス帝(在位527-65)の時代、ビザンツ帝国はイタリア全土を回復したが、6世紀後半ランゴバルド族の侵入により、イタリアはビザンツの支配地とランゴバルドの支配地に二分され、以後、1861年まで政治的に統一することはなかった。 774年、フランク国王ピピン3世(在位751-68)は、ローマ教皇の要請を受けて、ランゴバルド族を征討する。イタリアはフランク王国の一構成国となり、カロリンガ朝の支配を受けることなる。それより前、756年ローマとラヴェンナを結ぶ中部地域を、ローマ教皇に献上したことで教皇領が生まれる。 9世紀になると、ビザンツ帝国の衰退にともなって、イスラーム勢力がシチリア島を拠点にして、イタリア南部を侵略し、ローマを脅かす。その後、諸侯が次々にあらわれる混乱の時代となり、ナポリやサルディニア、ヴェネツィアがフランク王国から事実上独立する。 中世盛期(11-13世紀)、962年神聖ローマ帝国が成立すると、イタリア王国はドイツ国王の支配を受けることになる。11世紀、南イタリアとシチリアは、フランスからきたノルマン人によって征服され、1130年教皇がノルマン人支配者ルッジェーロ2世(在位1130-54)に王位を授与したことで、シチリア国王のもとに統一される。 それにより、イタリアは北のイタリア王国と南のシチリア王国が教皇領をはさんで対峙することになるが、いずれも神聖ローマ皇帝から自立を図ろうとする。北イタリアの諸都市はコムーネ(自治都市)を発展させ、1167年ロンバルディア都市同盟を結成して皇帝の支配を拒み、また教皇はシチリア王国と連携して皇帝と抗争を続ける。神聖ローマ帝国は、中世の終わりまでイタリアを統治するが、14世紀初めには有名無実の存在となっていた。 13世紀、ローマ教皇は十字軍運動を契機にして西ヨーロッパにおける一大勢力となり、各地から教会税を徴収する。また、事実上の主権をえた都市国家となったコムーネは、さらにコンタード(周辺農村地帯)の領主や自治集落を支配するまでになる。そのなかでも、ヴェネツィアは第4回十字軍を利用してクレク島、エーゲ海諸島などからなる、東地中海に植民地帝国を形成する。ジェノヴァも、地中海に植民地を形成する。 中世後期(14-15世紀)、神聖ローマ皇帝の大空位、ローマ教皇のアヴィニョンの捕囚、シチリア王国の分裂などで、強大な旧勢力は衰退する。それに対して、北イタリアの都市国家は経済発展とあいまって勢力争いをはじめ、強力なコムーネが近隣の弱小コムーネを併呑するようになり、領域国家が形成される。そのなかでも、人口と財力に富む国際的な商工業都市のヴェネツィア、ジェノヴァ、ミラノ、そしてフィレンツェなどが勝者になる。 13世紀後半、都市国家の政治体制は、それぞれの社会状況に応じて、ヴェネツィアでは貴族政、ジェノヴァでは共和政、フィレンツェでは共和政(後に君主政)、ミラノではシニョリーア(共和制の枠内で権力を個人に集中する政体)を経て君主政が採用されるが、その支配層はいずれも大商人であった。そして、これら都市の繁栄を背景にして新しい文化が生みだされ、15世紀半ばまでにヨーロッパ諸国にさきがけて文芸復興(ルネサンス)が咲き誇ることとなる。 1454-55年、ミラノ公国、ヴェネツィア、フィレンツェ、教皇国家、ナポリ王国という5大国は、ローディの和約という平和同盟を締結して、勢力均衡を図る。 1494年、フランスとスペインとは政治的に分裂していたイタリアをめぐって、覇権争いをはじめる。スペインが次第に優勢となり、1559年カトー・カンブレジの和約によって、そのイタリア支配体制が確立する。すでに、この時点でナポリ王国やミラノ公国はスペインの属国であり、フィレンツェ公国(後にトスカーナ大公国)はスペインの影響下にあった。それに応じて、ヴェネツィア共和国や教皇国家も、イタリアの大国からヨーロッパの小国へ-と転落する。 ▼イスラームの侵攻、イタリアの対抗▼ G・プロカッチは「イタリアの歴史は海から始まる」という(同著、斉藤泰弘他訳『イタリア人民の歴史T』、p.39、未来社、1984)。
イスラーム勢力に対抗したのはビザンツ帝国の軍隊であったが、排除する力はすでになかった。イスラーム勢力は、827年シチリア島への征服を手始めにして、ティレニア海やアドリア海の都市国家ばかりでなく、ローマといった内陸の奥深くまで押し入る。9世紀後半、ビザンツ帝国にマケドニア朝が創設されると、イスラーム勢力に奪われていた地中海の地域を次々に奪回する。しかし、イスラーム勢力のシチリア島やイタリア半島への侵攻を阻止することはできなかった。
10世紀に入ると、ローマ教皇などイタリア勢力はイスラーム勢力に対峙できるようになり、一進一退を繰り返す。11世紀になると、1001年アマルフィがナポリやベネベントから、また1004年ヴェネツィアがバリから、イスラーム勢力を撃退する。また、1005年ピサ、1012年ピサとジェノヴァの艦隊120隻が、サラセンの海賊を撃退するなど攻勢に出るようになる。
そして、11世紀前半イタリアは、フランスのノルマンディに居着いていたノルマン人騎士たちの力を借りて、イスラーム勢力、そしてビザンツ勢力を排除することになるが、それはノルマン勢力による1037年の南イタリアの征服につながる。1086年、ノルマン人はシチリア島を完全に征服する。これらによりイスラームの支配は終わり、ピサとジェノヴァはティレニア海から外に出る航路を確保する。 イタリア半島の都市国家やローマ教皇領は、3世紀にわたるイスラーム勢力の侵攻=聖戦に耐え抜き、その領土支配を辛うじて阻止してきた。その上にたって、ヨーロッパのキリスト教徒たちが反抗に出たのが、1096年からの十字軍の侵攻であった。それはヨーロッパ勢力の侵攻=聖戦であった。
8-9世紀、イスラームの西地中海への進出や、マジャールのドナウ流域への進出によって、西ヨーロッパの東方交易は陸路が閉ざされると、地中海交易に依存せざるをえなくなる。それは、いまなお勢力を誇るビザンツ帝国の支配下にあって、西ヨーロッパ諸国から触手のように伸びている、南イタリアの沿岸都市を経由して行われるようになる。 そうした地理的・政治的条件から、まずビザンツ系都市とされるアマルフィ、ナポリ、ガエタ、バリ(バーリ)、そしてヴェネツィアが交易都市として登場してくる。それら都市の多くは山を背にしており、後背地を支配できないし、自らも支配されもしないが、ただただ海を手段として生活するしかない土地柄であった。 バリは、853年から20年間イスラームの支配下にあったが、それがビザンツ帝国によって回復されると、南イタリアの行政上の中心地となる。バリ商人の船はコンスタンティノープルだけでなく、小アジア・シリアにも進出する。なお、1071年バリはノルマン人に奪われる。 アマルフィ・ナポリ・ガエタの3都市は、11世紀後半、商業の著しい発展をとげる。名目上はビザンツ帝国に属する公国であったが、ランゴバルド系の公国に囲まれていたこともあって、ヴェネツィアと同じように自立的な地位を保っていた。ただ、それら都市はイスラームの海上勢力の脅威を受けることが多かったため、平和的な関係を保つことに努力する必要があった。 それに対して、北イタリアの交易都市は商人が支配する都市として、海上交易を制約するものがなかった。ヴェネツィアをはじめ、ピサやジェノヴァが、東方交易に参入してくる。イタリアの交易都市の東方交易に弾みをつけさせたのが、11世紀末から13世紀後半にまでの十字軍というパレスティナ征服運動であった。 この十字軍運動は、イタリアの国家都市だけでなく、ヨーロッパをイスラーム世界に媒介し、東方交易に結びつけた。ヨーロッパの王侯たちは十字軍に参加したおかげで、レヴァントに毛織物を供給すれば、東方産品を入手できることを学んだのである。それはヨーロッパの遠距離交易の復活でもあった。 ▼アマルフィ、最も有力な交易都市となる▼ アマルフィは6世紀末に歴史に登場し、10世紀から12世紀まで200年にわたって、ティレニア海における最も有力な交易都市であった。839年、その前年ランゴバルト人に町を破壊され、サレルノに移住させられていたが、アマルフィ人たちは帰郷して、町を再建する。これがアマルフィの誕生とされる。9世紀末には世襲元首をいだく、アマルフィ海岸一帯に点在する町によって構成された公国となr。958年には、セルジョ・コミテが王制を築き、10世紀半ばにはすでにみたように、オスティアの海戦に参加する勢力までになり、10世紀末には早くも海上交易の繁栄期を迎える。 アマルフィ商人は、イタリアではローマ教皇の御用商人として、またビザンツ帝国に属する公国の民として忠勤するが、海上交易の利益を求めてアラブ人と同盟を結ぶことをいとわなかった。かれらの交易圏はティレニア海やシチリアはもとよりとして、アナトリア、シリア、パレスティナ、エジプト、アフリカ北岸に広がっていた。
アマルフィ商人は、10世紀にコンスタンティノープルにサンタンドレア教会や修道院を含む居留地を持つようになり、そこを拠点にして黒海まで進出していた。他のイタリアの海洋都市が、コンスタンティノープルに居留地を持つのは、11、12世紀になってからであった。また、十字軍以前から、アマルフィ人はエルサレムやアンティオキアなどに修道院(旅人の宿泊所でもあった)や病院を持っていた。聖ヨハネ騎士団は、1023年ごろアマルフィの商人がエルサレムの洗礼者ヨハネ修道院の跡に、巡礼者宿泊所を設立したことに始まったとされる。
アマルフィはサレルノ公国の脅威にさらされると、それを避けるため1073年からノルマン人の保護や統治を受けるようになる。それにともない次第に自立的な都市として維持できなくなる。そのため十字軍運動に参加できないで終わる。 アマルフィが中世ヨーロッパの地中海交易の先駆けとなり、いわばティレニア海の女王であったことから、11世紀アマルフィ海法が生まれる。13、14世紀に成分化され、16世紀まで地中海交易の規範となった。その概要についてはWebページ【アマルフィ海法―過渡期の海法―.】を参照されたい。 アマルフィの港は、ローマ時代に噴火したヴェスヴィオ火山の凝灰石を整形して構築され、それに面してアルセナーレ(造船所)や商業地区が広がった。アマルフィは、810年ビザンツ帝国からガレーを20隻発注されている。1059年創建され、1240年改修されたアルセナーレが現存、幅5メートル、奥行き40メートルに及ぶドーム型の船台跡が残る。このアルセナーレからはガレーが多数建造され、十字軍兵士の輸送に用いられた。しかし、1343年嵐と荒波によって、大規模な海底の地滑りが起き、海岸線が大きく後退することとなった。それにより船台は半分になったとされる。 アマルフィ、ガエタ、バリといった南イタリアの交易都市は、11世紀末から12世紀にかけて成立したシチリア王国という強力な王権による収奪が、それを衰退させる大きな原因となった。アマルフィは、1131年シチリア王国のルッジェーロ2世に威嚇され、それに併合される。さらに、ローマ教皇が2人選出されたことにまつわる紛争に巻き込まれ、1135年、37年ピサから攻撃を受ける。12世紀以降、その経済力と海軍力はしだいに衰える。 ▼十字軍、海路を使って、迅速に遠征(1)▼ 1095年から1270年に及んだ大編成の十字軍は、「ローマ教皇の熱烈な鼓舞や信徒たちの献身に劣らず、イタリア海洋都市の船乗りや商人たちのフロンティア精神と冒険心と自由な知性のおかげ」をもって成功したという(プロカッチ前同、p.38)。
十字軍は君主や諸侯に率いられ、騎士、その従者、兵士のほか、民衆も参加した。十字軍は8回行われた。その遠征経路は変化するものの、第1回十字軍を除き、主要な遠征路として、陸路より費用がかかったとされる海路が採用された。大規模な遠征軍を、迅速かつ安全に移動させるには、海上輸送が最適であった。それに必要となる船舶はイタリアの都市と政治的・通商的な協定を結んで調達された。その実態は克明ではない。 第1回十字軍(1096-99)は、コンスタンティノープルを集結地とした。その主力であるフランスの諸侯が率いる40万人ともいう大軍は、ヨーロッパの聖地巡礼者がたどってきた陸路をとってパレスティナに入り、十字軍国家を建設、エルサレムを占領、奪還する。この第1回十字軍を支援したのは、ジェノヴァとピサであった。 エルサレムがイスラームに奪回されそうになる。そこで、第2回十字軍(1147-49)が編成されるが、神聖ローマ皇帝コンラート3世(在位1138-52)とフランス国王ルイ7世(在位1137-80)はそれぞれ別行動をとる。前者は、コンスタンティノープルからビザンツ艦隊に便乗して、アッコ(アッコン、アッカ、アクレともいう)に上陸する。後者は、現トルコ南部のアッタリアから海路をとり、アンティオキアに上陸する。この遠征は失敗に終わる。 1187年、エジプトを本拠地とするアイユーブ朝(1169-1250)の創始者サラディン(在位1138-93)によって、エルサレムは奪回される。第3回十字軍(1189-92)が満を持して編成され、フランスのルイ7世とフィリップ2世尊厳王(在位1165-1223)、イングランドのリチャード1世獅子心王(在位1189-99)、神聖ローマ帝国のコンラート3世、フリードリヒ1世赤髭王(皇帝在位1155-90)、そして13世紀にはフリードリヒ2世(同在位1215-50)など、多くの君主が参加した。 最初から海上輸送が本格的に採用され、リチャード1世獅子心王はロンドンを出帆、リスボン、マルセイユ、シチリア島、クレタ島、キプロス島(ビザンツ領のこの島を占領)を経由して、またフィリップ2世はマルセイユから海路をとり、ジェノヴァ、ピサ、アマルフィ、シチリア島を経由して、アッコに上陸している。彼は、サラディンと協定を結んで巡礼の安全を確保し、また小規模な十字軍国家を再建するが、エルサレムは回復できない。これ以後十字軍は信仰にもとづく純粋な動機を失っていく。 ▼十字軍、海路を使って、迅速に遠征(2)▼
第5回十字軍(1217-21)はハンガリー王などに率いられていた。その一隊は、ヴェネツィアを出発、エジプトの港ダミエッタを占領するが、カイロ攻撃に成功せず、遠征は失敗に終わる。なお、この十字軍を無視する場合がある。その場合回数がずれる。 第6回十字軍(1228-9)はフリードリヒ2世が率いる。彼は幾度も出発を引き延ばしたため、教皇グレゴリウス9世(在位1165?-1241)から破門をもって遠征を強要される。1228年になって南イタリアのブリンディシ(同地から、定期巡礼船が洗礼者聖ヨハネの祝祭日の6月24日の夏便と、3月出発の春便が出発していた)から出発、クレタ島、キプロス島を経てパレスティナに入り、サラディンの子カーミル(在位1218-38)との外交交渉により、エルサレムの一時的な回復を果たす。しかし、1244年エルサレムはイスラームに再び奪われ、永久に失われる。 第7回十字軍(1248-54)が、フランス国王ルイ9世(在位1226-70)によって編成され、南フランスのエーグ・モルトから出帆、キプロス島を経由して、ダミエッタを占領する。しかし、1250年十字軍はマンスーラの戦いで、マムルーク(軍事奴隷)軍団に敗れ、ルイ9世が捕らえられる。同年、彼らはアイユーブ朝に対してクーデタを起こし、マムルーク朝(1250-1517)を樹立する。なお、第7回十字軍には、ジェノヴァが町を挙げて支援したとみられるが、その内容は不明である。 第8回十字軍(1270)がルイ9世によって再び編成され、今度はチュニスに向かう。そこで彼は病死する。その後、十字軍の都市や要塞はマムルーク朝の強力な軍隊によって次々と征服される。1291年5月、エルサレム王国の首府として最後の拠点となっていたアッコも占領され、十字軍国家は滅亡する。アッコは現在イスラエル領となっている。ハイファ湾の北にある天然の良港で、前15世紀のエジプト碑文にも登場する。また、フェニキアの一つの有力な都市であった。 フリードリヒ1世赤髭王の子の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世(在位1190-97)は十字軍を準備するだけに終わるが、そのとき騎士に地金で金30オンスと麦30オンス、歩兵に金10オンスと麦10オンスを支払っている。それが支度金あるいは当座の給与かは不明であるが、騎士は2人の従士をかかえていたので、支給額は将兵いずれも同額であったとことになる。また、フィリップ2世は300人の兵士を3年間養うのに15万500マルクを用意していた。それは、13世紀初頭、兵士1人を1年間かかえるには、銀165マルクを要したことになる(ペルヌー著、福本秀子訳『十字軍の男たち』、p.156、209、白水社、1989)。 ▼十字軍の規模とその海上輸送(1)▼ これら十字軍の将兵がどのような規模であったか、それをどのように海上輸送したかについて、特段の文献史料があるようにはみえない。
「ジェノヴァは、アンティオキア攻囲をおこなったノルマン人ボエモン[1世、1058?-1111、後にアンティオキア公]を強力に支援し、この都市が占領されたのちは市壁内に30の家と市場を得た。ピサは、イエルサレム攻囲のさい、120隻の船を自費で武装させ、支援に派遣した。船隊が到着したときは、すでにイエルサレムが占領されたのちであったが、ピサの聖地における勢力は強大なものとなった。この遠征に同行したピサ[の艦隊を率いた]司教ダイベルト[ダゴベルトのこと]は、イエルサレムの首都大司教に選ばれ、さらにヤッファ(現テル・アビブ)の港の一区域を封として得た。やがてここは、西ヨーロッパとパレスティナとの交易の中心地となった。一方、ビザンツ帝国とのあいだに密接な関係をもっていたヴェネツィアは、イエルサレムが陥落したのちの1100年に200隻の船をヤッファに送り、イエルサレム攻撃の実質上の指揮官であったゴッドフロワ=ドゥ=ブイヨン[1060?-1100]に提供した」(清水廣一郎稿「コムーネの時代」森田鉄郎編『世界各国史15 イタリア史』、p.108、山川出版社、1976、以下、清水世界という)。 その他、ブローニュのギュネメーをはじめ、フンラク人が指揮するキリスト教徒の艦隊も参加していた。「ギュネメーの本職は海賊で、彼は十字軍には海軍の支援が要るだろうと抜け目なく見抜いていたのである。ギュネメーは配下のオランダ人、フリージア人、フランドル人の海賊を集めて、晩春オランダを出航した」(ペルヌー前同、p.191)。彼は、同郷の、後にエルサレム王となるボードワン(在位1100-18)の傘下に入っている。 1122年、エジプト軍の侵入によってエルサレム王国は深刻な脅威にさらされ、またイスラーム海軍によってヤッファが包囲される。その危機に当たって、1123年ヴェネツィアはガレー40隻、帆船28隻、大型ガレー商船4隻、合計72隻をパレスティナに向けて発進させる。それは、1082年にビザンツからえていた交易特権が失われたものを、レヴァント交易(イタリア語で東方、シリアやエジプト、小アジアの東地中海地方をさす)で取り返そうという意図が見え隠れしていた。ヴェネツィア艦隊はエジプト艦隊を駆逐して、エルサレム王からティルスにおける交易特権をえる。 レジーヌ・ペルヌー氏によると、フリードリヒ1世赤髭王が1190年に第3回十字軍に連れて行った騎士は3000あるいは5000騎だと見積もられ、「その輸送のために使用した船は70隻の輸送船と、その他の150隻はイサキウス2世[ビザンツ]皇帝[在位1185-95、1203-04]から借りたものであった。そして、これらの船艦は2回の航行によって、5000人の騎士に必要な1万5000頭の馬の輸送を明らかに確保することができた」(同前同、p.154)。 当時、騎士は従士を2人連れていたので、輸送される馬の数は騎士1人に当たり3頭となった。その輸送には騎馬輸送船が用いられた。船尾の吃水線に開口部があり、そこから馬を乗せたという。 この同じ十字軍に、フィリップ2世は「650人の騎士と、それに見合う通常の数の従士、およびこの3-4倍の徒士、その合計少なく見積もっても1万人を連れて行った。彼ら全員を乗船させるには、100隻が必要であった」。同じ年の1191年に、「リチャード1世が自分の軍隊を輸送のために集めた船団の数は、同時代の人びとを感嘆させるものであった。その数は大帆船156隻、この帆船の2倍の容積の特大帆船24隻、ガレー船39隻の陣容であった」。大帆船は普通500人と、それに応じた馬匹および装具を輸送することができた(ペルヌー前同、p.155)。 ▼十字軍の規模とその海上輸送(2)▼
しかし、この十字軍はばらばらに行動するようになったため、ヴェネツィアに決められた金額を支払うことができなくなり、3万4000マルクもの支払い不足が生じてしまった。このことから、1204年の十字軍将兵は約1万4000人であったことになるとされる。 ヴェネツィアをはじめイタリアの交易都市が提供した実績や、後述の15世紀における保有規模からみて、それら都市は十字軍に何はともあれ保有するガレーや大中型の帆船をすべて提供したとみられる。そして、第4回十字軍の場合にみるように、騎馬輸送船(ユイシェ)といった一時的な軍用船に限って、かなりの数を新造していたかにみえる。 ヴェネツィアは、第1回十字軍において約200隻、1123年には72隻を派遣している。それらから80余年後の第4回十字軍に実際に提供された隻数は、ガレー50隻、帆船50隻、平底船(ユイシェ)80隻、貨物船20隻、合計200隻前後と推定されている。 このヴェネツィアにととどまらず、ジェノヴァやピサが十字軍の海上輸送に協力することは、その都市にとって生死をかけた一大事業として行われた。その場合の艦船の規模は、いま上でみた状況からみて、総勢200隻を超えることはなく、また大型ガレーは40-50隻にとどまったとみられる。大型ガレーに乗り組む自国人兵士は、1隻当たり200人とすると8000-10000人となる。当時のイタリアの大都市の人口が10数万人とするとき、それが限界であったであろう。 第5回十字軍は、「はじめてダミエッタを奪取した部隊であるが、騎士2000人、騎兵1000人、歩兵2万人であった。最後に聖王ルイの遠征[第6回十字軍]は、1248年には1500人の騎士と6000人以上の歩兵、1270年[の第7回十字軍]にはほぼ1万人と4000頭の馬であった」。 第7回十字軍の際、ジャン・ド・ドルー伯とマルセイユの2人の船主ギヨーム・スフランとベルナール・ルーペのあいだで結ばれた輸送契約が残っている。「彼ら船主は、ドルー伯に《ラ・ベニト》号を賃借[?!、賃貸]し、伯とその兵士たちの武器と荷物の輸送にあてた。費用はトゥール貨で2600リーヴル[フランスの通貨単位]であった。同じころ、ギー・ド・フォレ伯は《ラ・ボナヴァンチュール》号を銀975マルクで借りたが、この船は馬60頭用の厩舎と41人の乗組員を収容できる」と明記されていた。かなりの大きさの船であった(以上、ペルヌー前同、p.211)。 なお、1リーヴルは金380-550グラム。マルクは神聖ローマ帝国の通貨で、1マルクは金244.5グラム。1リーヴルがおよそ2マルクとすると、1年分の食事込み乗艦費2マルクは100万円と見なせる(ヴィルアルドゥワン前同、訳注、p.283)。 ▼十字軍の将兵や巡礼が乗った船▼
また、「ガレー船は、幅5メートル、長さ40メートルの細長い俊足の漕行船。帆1枚を持ち、両舷27艇[本?]ずつの櫂を2人で漕いだ。総勢108名の漕ぎ手は戦闘員でもあった。その他、上下2段に漕ぎ手の並ぶ大型のドロモン船もあった」(以上、ヴィルアルドゥワン前同、訳注、p.280)。 そして、第4回十字軍が乗船した艦船がヴェネツィアを出発する光景は、次のようであった。
「私は新しい船を1隻借りた。これは、4000リーヴルかけて製造されたばかりの、まだ就航したことのない船で、私と供の者のための5つの個室が船の上部の4分の1を占めている。嵐が来ないかぎり、私はここで食事をし、本を読んで研鑽を積み、日中を過ごす。借りた部屋の1つは私の同伴者とともに寝る部屋、1つは私の衣服と1週間分の必要な食糧を入れる部屋、もうひとつは召使いたちが休んだり食事の用意をしたりする部屋である。馬のための場所もある。最後に、船底にはパン、堅パン、肉、その他3カ月の生活に必要な物資を収納した」。 しかし、これはまったく例外的な好条件の例であった。「身分の低い十字軍士は船の2階もしくは3階の『甲板』上の中艙のなかに場所を得ることで、満足せねばならなかった。そこでマントにくるまって寝るのである。マルセイユ市の法規にはこの場所は少なくとも幅2.5パン、長さ6.5または7パン〔幅0.62メートル、長さ1.76メートル〕だと明記してある。この面積は巡礼者たちの背丈を合わせたぶんだけはあり、『1人の頭がもう1人の足にくっつけて』寝ていたのである」。 個々に乗船する普通の巡礼者たちは各自が自分の船賃を支払って乗船した。「巡礼者は各々、船客名簿に記載され、それを担当する公証人は、今日やっているように、姓名と座席番号を書いた乗船券を発行していた。食事については、巡礼者は『カルガトール』〔安料理屋を意味するガルゴティエの語源〕と呼ばれていた船の食糧係と取り決めを行なわねばならなかった」。 アンドレ・ド・ヴァンティミルという名のカルガトールの1人が、1248年に「レイモン・ド・ロード(つまりギリシア人)所有の《サン=フランソワ》号上で取り決めた契約書が残っており、巡礼者たちを海外の目的地まで1人あたり混貨で19スー、つまりレイモン貨にして38スーで世話をするというものである。なお、契約書には、巡礼100人のグループについては4人の使用人を、400人以上なら15人を同伴できると書いてある」(以上、ペルヌー前同、p.212-3)。 ▼十字軍がいるパレスティナでの交易▼ 西ヨーロッパの商人の交易は、11世紀より前からすなわち十字軍がくるより前から、イスラームの諸国とのあいだで成立していた。12世紀、シリア(パレスティナを含む西アジアを指す)にも西ヨーロッパの商人たちが多数いたが、中世、地中海交易が一大飛躍をとげたのはまさにこの十字軍の時代であった。 「とくにバリとアマルフィの諸都市は、シリアとは確実に交流をもっていた。のちに、これらの都市の役割はジェノヴァやピサ、とくにヴェネツィアに追いこされることになる。アンティオキアには第1回十字軍よりも古くからアマルフィ通りがある。そこにアマルフィの商人たちは商館を置いていた。そののち西欧出身の職人の数がエルサレムに多くなる」。 第1回十字軍に協力したことで、ジェノヴァ人はアンティオキアに居留地をおくことを許され、それを含む征服都市の3分の1をわがものにするまでになる。また、ピサはヤッファに居留地を獲得した。 その後も、イタリア人たちは十字軍がパレスティナの町を奪うのを助ける。ジェノヴァ人はアッコ(1104)、ジブレ(1104)、トリポリ(1109)、ジェノヴァ人とピサ人はベイルート(1110)を、ヴェネツィア人はシドン(1110)、ティルス(1124)を奪うのを助けた。その報酬として、彼らはこれらの都市で広範な商業上の特権を獲得する。 イタリアの商人にとって、十字軍の登場は東地中海における交易活動を飛躍的に増大させ、また沿岸の町におけるさまざまの特権を確保する機会となった。そのため「ジェノヴァの艦隊は、十字軍士がエルサレムをめざしてやって来たときには、彼らに援助の手をさしのべてやったし、1123年以降ヴェネツィア人は港町をおさえるために、ヤッファに停泊している彼らの船を救援に出すことを申し出ている。1124年、ヴェネツィア人はアスカロンかティルスかを決めかね、1人の孤児にくじを引かせた結果、ティルスと決まり、この町に定住したのである」(以上、ペルヌー前同、p.237)。 こうして「トリポリ、ティルス、アッカでの相当の特権をあらかじめ確保しようとして、商人たちがあらゆる軍事行動に参加するようになったのは、彼らの商取り引き精神のしからしむるところである。以後商人たちの役割が前面におし出されてくる……11世紀の最後の年代に東方にラテン国家[十字軍国家]を築いたのは信仰心からであった。13世紀に、このラテン国家を維持していたのは、香辛料の交易であった」といわれることとなる(ペルヌー前同、p.238)。 エルサレム王となった「ボードゥアン3世[在位1144-62]は、エルサレムに来る商人たちすべてに入城税と通行税を免除したが、これはラテン人[フランス人など、西ヨーロッパ人をいう]にたいすると同様、シリア人にもギリシア人にもアルメニア人、サラセン人にたいしても同じであった」。
そして、「彼らは、ときには非常に遠くからキャラバンがもって来る、東洋世界の貴重な産物を買いに来る。中国産の絹、イランのムスリン、中央アジアの香料や敷物、とくにコショウ、丁子香、ナツメグ等のインドの香辛料、樟脳、香水、染色用材料、キプロスやバグダッドの藍、紅色染料の種子、等々」。 「もちろん、シリアの産物、ダマスカスで製造された武器からレバノンのサトウキビや、トリポリやアンティオキアで織られたタフタ織りや絹紋織物にいたるまで買いに来た。13世紀のトリポリには、絹織業に関して4000種の職業があったし、その他敷物、石けん、ガラス、陶器等の産業もさかんであった」。 「ギリシアでも絹織物産業は非常に重要であった。ヴェネツィア人が、1204年の十字軍をこちらへ方向転換させるのも理由なきことではなかった。テーパイにおいてだけでも、ギリシア人は別として2千人が働いていたのである」(以上、ペルヌー前同、p.239)。 1291年十字軍国家が滅亡してレヴァントに軍隊がいなくなり、またローマ教皇がマムルーク朝との交易を禁止すると、イタリア人たちのレヴァント交易はキプロス王国や小アルメニア王国を経由して行わざるをえなくなる。 |